2006年12月3日日曜日
キリストの福音 ~待降節第一主日~
フィリピの信徒への手紙1・27~30
今日から四回、フィリピの信徒への手紙を学びます。最も集中して学びたいのは、2・6以下のいわゆる「キリスト賛歌」と呼ばれる個所です。これは当時の教会でうたわれていた賛美歌からの引用ではないかと、今日では考えられています。この歌は、次のようにキリストのお姿を歌い上げています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
なぜここを最も集中して学びたいのかを申し上げておきます。このキリスト賛歌の内容こそが、クリスマスの出来事に他ならないからです。そのため、クリスマスの準備をするこのアドベントの季節にこそ、この個所を学ぶことがふさわしいのです。
もう少し説明を続けます。クリスマスはイエス・キリストのお誕生日であるということは、今や世界中のだれでも知っていることです。しかし、わたしたちキリスト者は、それだけ言って済ますわけには行かないと考えます。もう少し丁寧に、またもう少し深い次元で事柄をとらえようとします。
わたしたちがクリスマスを祝う理由は、一人の偉大な人物の誕生日だからというだけで終わるものではありません。わたしたちは、イエス・キリストを「神の御子」と信じます。キリストは「神の身分である」お方なのです。
ところが、です。イエス・キリストというお方は、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようと思わない」、「かえって自分を無にする」、「僕の身分になる」、「人間と同じ者になられる」、そういうお方でもある、というのです。
なんだかもったいない話のような気がしてきます。なぜもったいないと感じるか。多くの人々は、自分が神になりたいのではないでしょうか。神になりたいという人が大勢いるのに、なぜイエスさまは、神の身分に固執しようと思われないのでしょうか。多くの人々と考えていること、願っていることの方向が正反対ではないでしょうか。
自分が神になりたいと願う人々が、大勢いる。その思いは、だれにも文句を言われたくないというようなことも含みます。すべてのことを自分で考え、自分で決めたい。自分がいちばん楽しむことができる、最も良いものを手に入れたいと願う。
また、決して間違いを犯さない人間になりたいと願う。コンピュータのように、という例えは時代遅れです。コンピュータは、しょっちゅう間違います。そのことを、わたしたちの時代の多くの人々は知っています。コンピュータのような愚かなものになりたいのではない。そうではなく、まさに神になりたいのである。神のように完璧な答えを差し出すことができる。そのようにして、多くの人々から賞賛され、尊敬され、崇拝される。そういう人間になりたい、と願う人々のほうが多いのではないでしょうか。
なぜイエスさまは、反対の方向を向いておられるのでしょうか。神の身分などどうでもよい、と言われんばかりに、それをいわばお捨てになる。神の身分のまま留まっておられれば、痛いことも苦しいこともないでしょうのに、わざわざ人間の世界に来てくださって、十字架につけられる、という最も苦しい目にあわれる。
イエスさまは神の身分に固執なさらなかったお方である。ただし、それによってイエスさまは神であることを、おやめになったわけではありません。イエスさまが神をやめる、ということは、わたしたちが人間をやめることができないのと同じくらい、ありえない話です。
しかし、おそらくイエスさまは、悪い意味での「神のような扱いをお受けになること」、平たく言えば、「まつりあげられること」をお嫌いになったのです。
「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。」
この個所でパウロが訴えていることの中心は、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」という点、すなわち「生活のあり方」という問題です。
まず考えさせられることは、「キリストの福音にふさわしい生活」というものがとにかくあるという事実です。これを反対から言えば、「キリストの福音にふさわしくない生活」もある、ということになります。一方にキリスト者らしい生き方があり、他方にキリスト者らしくない生き方がある、ということになるでしょう。
それでは、キリストの福音にふさわしい、キリスト者らしい生き方とは、どんなものであるのか、ということを考えてみる必要がある。そのときの答えとなりうるのが、まさにこのキリスト賛歌の内容である、というふうに話がつながっていくのです。
キリスト御自身は、神の身分であられる方であるのに、「まつりあげられる」ことを拒否なさり、むしろ、僕の身分、人間と同じ者になられた。神の子キリストが人間になられた。
そのキリストと同じように、わたしたちも、「まつりあげられる」ことなどは断固拒否し、また「自分が神になりたい」というような夢ないし野望を一切抱くことなく、人間であり続けること、そして、神と隣人に仕える僕であり続けること。まさにこれこそが、パウロの信じるところの「キリストの福音にふさわしい生活」であり、“キリスト者らしい生き方”なのだ、と申し上げることができます。
このような生き方を「ひたすら」送りなさい、とパウロは書いています。この「ひたすら」(モノン)は、「唯一の」とか「単純に」などとも訳すことができる言葉です。少し大げさになるかもしれませんが、「一直線に」とか「まっしぐらに」とか「わきめをふらず」などと訳すなら、もっと意味が明確に分かるようになると思います。
わたしたちは、一直線に、まっしぐらに、わきめをふらず、どのように生きればよいのかと言いますと、パウロによると、キリストの福音にふさわしく生きることであると言い、それではその内容は具体的に言って何なのかと言いますと、「神になりたい」というような考えを捨てて、人間であり続けること、僕であり続けること、謙遜な人間であり続けることである、ということになるのです。
そして、その、イエス・キリストが神の身分に固執せず、人間になられた、というこの出来事が起こったのは、最初のクリスマスにおいてであったということを、わたしたちは信じています。クリスマスは、神の御子が謙遜になられた日なのです。
そして、パウロは「そうすれば」と続けています。その意味は、キリストの福音にふさわしく、キリストのように謙遜な生き方を続けていくならば、です。そうすれば、あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないということを聞くことができる、とパウロは書いています。
もう少し短く言い直すなら、キリスト者らしい生き方を「ひたすら」わきめもふらず続けていくならば、わたしたちは、だれにも負けない、しっかりとした人生を送っていくことができる、ということになるでしょう。
なぜそのように言えるのでしょうか。これもできるだけ単純に考えてみたいと思います。 “謙遜な人はだれよりも強い”。なぜそう言えるのでしょうか。
すぐに思い当たることは、謙遜な人は、浮ついていない、ということでしょう。自分の現実を直視している、自分の限界を知り抜いている、そのような人は、いつも、地に足のついた判断をすることができます。
また、謙遜な人は、自分の周りにいる人々との間に信頼と協力関係をつくって行くのが上手です。自分自身の限界を知り抜いている分、このことについてはこの人に相談しよう、あのことについてはあの人に助けてもらおうと考えますし、実際にそうします。自分一人ですべてを抱え込んでしまわず、周りの人々の存在と働きを尊重しますので、個人プレイではなく、すべてを共同作業において進めていくことができます。
そして、謙遜な人は、やはり真面目です。自分の人生に対しても、他人の人生に対しても、この世界に起こるさまざまな出来事に対しても、真剣に向き合う心をもっています。融通が利かないクソ真面目になるべきではありません。しかし、真面目に生きている人を小ばかにするとか、自分以外のすべての人を見下し、こき下ろす、というようなことは、絶対に間違っています。謙遜な人は、そんなふうではありません。
謙遜な人の周りには、心優しい仲間たちが集まってきます。謙遜に生きる人は、その人の周りに謙遜で協力的で温かい共同体をつくりだして行きます。それが人生の力になるのです!
神の身分に固執なさらなかったイエス・キリストの生き方を真似て生きる人々の中で、わたしたちは謙遜というものを学ぶことができます。そして、その謙遜さの中で、わたしたちは、まさにしっかり立つことができ、どんな人の前でも、たじろぐことも、おじけることもなく、堂々と力強く生きていくことができるのです。
「このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」
ここにパウロが書いていることは、なんとも衝撃的な内容をもっています。キリストの福音にふさわしい、キリスト者らしい、そのようなまさに謙遜な人生を送る人々に対しては、「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」というのです。
問題は、なぜそうなのか、です。わたしたちキリスト者に対して神が、キリストのために苦しみなさいと命じておられるというのです。わたしたちは、なぜ苦しまなければならないのでしょうか。
ここでパウロが語っている苦しみの第一義は、おそらく、反対者たちから受ける苦しみです。その内容が、先ほどから申し上げたことに関係してきます。この世界には神になりたい人が大勢いるのです!
そのような人々の目から見ると、キリストの生き方は、まさに正反対です。神の身分にあられる方が、それに固執しない、というのですから。そのキリストと同じように生きて行きたいと願うキリスト者の生き方も、そのような人々の目から見れば、正反対です。
すると、どうなるか。このわたしとは正反対の方向を向いている人間の存在を許せない、と感じることが、わたしたちにもあるでしょう。なぜなら、自分の存在を否定されているように感じますから。
自分と同じように、一緒に神になりたがってくれる人を探したくなる。自分の生き方を肯定してもらえる人を探したくなる。このような人が、教会の存在を最も嫌がるのです。
キリスト者には、なぜ苦しみが起こるのか。正反対の方向を向いている人々の中でこの生き方を貫いていくと「逆風」が起こる。逆風を全身に受けながら前進していくときに、大きな負担が生じ、苦しみが起こるのです。まさにそれこそが神の恵みとして与えられる苦しみなのです。
しかし、わたしたちは、何も決して、われわれのほうから敵をつくりたいわけではない。喧嘩をしたいわけでもありません。わたしたちはただ、キリストと同じように生きること、謙遜な人生を送ることが、どれほどに幸せであるかをよく知っているので、この生き方をやめることができないだけです。謙遜な仲間と共に助け合って生きていく楽しい人生を、やめられないだけです。
その結果、いろんな反対を受けることになっても、です。わたしたちは、キリスト者であることを、やめることができない。ただそれだけなのです。
クリスマスの出来事、イエス・キリストが来てくださったことの意味を深く考えていきましょう。
(2006年12月3日、松戸小金原教会主日礼拝)