2006年12月17日日曜日

キリストの謙遜 ~待降節第三主日~


フィリピの信徒への手紙2・6~11

今日の個所において、いよいよ「キリスト賛歌」の内容に入ります。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

キリストは「神の身分」であられた、とあります。しかし、ここはむしろ「神のかたち」と訳すべきところです。ただし、字義どおり「かたち」と訳すと、説明が少し難しくなります。神さまにかたちがあるのか。かたちがない、目に見えない、霊的な存在が神さまではないのかという問いが起こってきてもおかしくありません。

しかし、パウロはここで「神のかたち」という意味の言葉(モルフェ)を用いています。「神の形態」とさえ訳したくなるほどの言葉です。そのように訳すほうが、パウロの意図をはっきりと示すことができるように思います。

「身分」と言いますと、わたしたちはどうしても、地位とか肩書きのようなものを思い浮かべてしまいます。それは一つの立場や段階であり、その方自身というよりも、その方が立っているその場所やステージのほうが問題になっているような語感をもっています。

たとえば、一人の人が総理大臣になる。その人がエライ人だから総理大臣になれたのかもしれません。しかし、その人は総理大臣であるときだけエライのであって、辞めたらただの人です。「身分」にはどうしても地位や肩書きのイメージがつきまといます。

しかし、それは「身分」の話ではなく「かたち」の話であるということになりますと、全く違う方向に向かっていくことになります。「かたち」は、その人の地位や立場やステージとは関係ありません。

たとえば、歌が上手な人がいる。その人の歌が上手であることは、与えられた地位や立場やステージのおかげではないと思います。そういうことは、関係ありません。自分の家の中で歌おうと、どこかで歌おうと、その人の歌が上手であることには変わりがありません。

どこにいても日本一上手に歌える人だ。そのことを周りの人々が次第に認めるようになり、その結果として世に出て行くのであって、その逆ではないのだと思います。

イエスさまが「神のかたち」であられるということの意味は今申し上げたことに通じる内容が含まれていると言えます。

イエスさまは「神」という肩書きをもっておられるとか、そういう名刺をもっておられてもおかしくないとか、いろいろと想像してみることは自由です。しかし、それが「神のかたち」の意味ではありません。

問題になっていることは、イエスさまの周囲にある何かではなく、イエスさまの存在そのものです。どこにおられても、また何をしておられても、イエスさまは「神さまらしさ」をもっておられるのです。その意味でのまさに「神のかたち」をもっておられる、それがイエスさまであるということです。

ところが、その方が御自分の「神らしさ」に固執されなかった、というわけです。「神の御子」であられるのに、です。イエスさまは、悪い意味での「あがめたてまつられること」や「まつりあげられること」や「神のようにふるまうこと」をお嫌いになりました。

思い起こされるのは、祭司長、律法学者たちが座りたがった上座であり、そこに立ちたがった至聖所のような場所です。

そういう場所に上って喜ぶとか、そのような地位を与えられたことを人に自慢し、はしゃぎまわるというような思いは、イエスさまには一切ありません。そういうのは、むしろうんざりするようなことではなかったでしょうか。

イエスさまの向かわれた方向は、そちらの方面とは正反対でした。イエスさまは「神」のほうにではなく「人間」になられました。たくさんの僕を雇い、自分に仕えさせる主人にではなく、「僕」になられました。今風のセレブとか、高級なんとかとか。イエスさまの向かわれた方向は、そちら側ではなかったということです。

イエスさまは「人間」になられました。しかも、ただの人間、ごく普通の人間、僕としての人間に、です。しかも、人から軽んじられるような人間、中傷誹謗、野次怒号を受ける人間に、です。すべての人の身代わりに十字架にかけられて死んでくださった。それほどに、弱く惨めな人間になってくださった。明確な意思をもって、そのような人間になられたのです。それがイエスさまのへりくだり(謙遜)の意味です。

「神らしい」存在であるにもかかわらず、です。そういう方が、そこらへんにおられる。周りの人々にとっては、いろんな違和感もあったのではないかと考えられます。

山梨県の田舎町に中田英寿選手の出身高校があります。わたしたちが住んでいた町とは、一山越えて隣町でした。あの国際的な名選手がこの田舎町にいたのかと思うと不思議なものを感じるくらいに大きなギャップがありました。田舎では目立ったと思いますし、何となく孤独感のようなものもあったのではないかとも感じさせられました。

中田選手は「神」ではありませんが、イエスさまは「神」です。その方がその町の中にいると相当目立ったでしょうし、違和感もあったのではないでしょうか。そこで起こることは、何でしょうか。わたしはできるだけ単純に考えてみたいと思います。

ひとつは、周りの人々からの嫉妬や無理解や攻撃でしょう。自分たちより能力や「かたち」において優れている。あのような存在がいるとわれわれの立場が無くなる。われわれの社会から出て行ってほしい。むしろいっそ「神」であってほしい。それは、われわれの社会の外にいてほしい、という意味です。

しかし、もうひとつのことも起こりうるでしょう。「神」であられる方が「人間」になられる。そのときに起こることは、神の豊かさが一般社会にもたらされる、ということです。

中田選手は、あの田舎町にはもう二度と戻れないかもしれません。歓迎はされると思いますが、生活はどうでしょうか。あまりにも目立ちすぎます。しかし、もし彼があの町に戻ることができ、たとえば出身高校のサッカー部の指導でも始めたらどうなるか。あの町に世界最強の高校サッカー部が誕生するかもしれない。そのようなことを思わされます。

豊かな賜物、たしかな技術、優れた能力の持ち主が、特別な人々のなかに留まるのではなく、むしろ徹底的に一般社会の中に入り込んでいく。しかも、そこにいる人々を見下すとか、こき使うのではない。その人々と同じ目線で、お互いの生活感覚を尊重し、共有しながら働くこと、仕えること。もしそのようなことが真に起こるときに、何が起こるでしょうか。特別な人々が集まっているところだけではなく、まさに社会全体が真に良きものへと変わっていくであろうと考えることはできないでしょうか。

「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

これをハッピーエンドと考えることができるでしょうか。イエスさまは、人間のかたち、僕のかたちになられ、神と人とに徹底的に仕える者になられました。御自身の栄光などは一切お求めになりませんでした。十字架の恥辱を徹底的に味わわれました。

そのイエスさまを、です。父なる神さまは、高く引き上げてくださいました。「あらゆる名にまさる名」をお与えになったのです!

しかし、これは、ある意味で結果論です。イエスさまは最初から父なる神さまによって高く引き上げられるという確信をお持ちであったと考えることはできます。しかし、そのこと、いわばその報いを当てにして、屈辱の生涯を我慢なさった、というような見方は、わたしたちには、できません。

わたしたちは、違うかもしれません。わたしたちは、いろいろと計算高く生きています。わたしたちには、いろいろと計算しながら生きること、また、報いを当てにして働くことさえも、許されていると思います。

しかしそれでは、イエスさまは計算高くなかったのか、というと、そうではありません。「蛇のように賢く(なりなさい)」(マタイ10・16)と、教えられたではありませんか。これは、弟子たちにそのように教えられたというだけではなく、イエスさま御自身もそのように生きられたに違いない、と考えてよさそうな点です。

ただし、問題は、その蛇のような賢さの使い道です。ここで、また同じ話に戻ります。自分が偉くなりたい、「神」のようになりたい、多くの人々からあがめたてまつられたいというようなことのために、その賢さを用いてよいわけではないということです。

はっきりしていることは、イエスさまが「蛇のように賢く(なりなさい)」と命ぜられたのはイエスさまのかたちに倣うべき弟子たちでした。つまり信仰者たちであり、教会の奉仕者たちであり、福音の伝道者たちであったということです。

ですから、まさにはっきりしていることは、イエスさまのかたちに倣うべき弟子たちにとっての蛇のような賢さの利用方法は、それをむしろ徹底的に「人間のかたちになる」ことのために用いることです。

それは普通の人、ただの人であり続けることです。普通であることの価値を見いだすことです。普通でないことに、警戒心をもつことです。そして、真の奉仕者になるための賢さを身につけることです。

牧師たちのなかにも、時々勘違いしている人がいます。自分は特別であると思い込んでいる。そう思い込んだ時点で間違っています。牧師は一般人です。

それどころか!

もし牧師というものがイエスさまの「かたち」に最も真剣に倣うべき存在であるのだとしたら、牧師こそが最もはっきりとした仕方で「僕のかたち」(奴隷の形態)でなければなりません。

「キリストのかたち」は、わたしたちの人生の模範です。

わたしたちを真に謙遜な者にしてくださるために、神の御子は来てくださったのです!

(2006年12月17日、松戸小金原教会主日礼拝)