2006年12月24日日曜日

キリストと共に喜べ! ~クリスマス~


フィリピの信徒への手紙2・12~18

12月に入り、これまで三回の日曜日にフィリピの信徒への手紙を学んできました。とくに注目していただいたのは2・6以下の「キリスト賛歌」です。

神の御子イエス・キリストがお生まれになった。神が人間になられた。その意味は、高きにいますお方が低きに下られるということである。それが、言葉の最も正しい意味での謙遜(けんそん=へりくだり)である。そのことを「キリスト賛歌」はうたいあげているのです。

しかし、パウロは、「キリスト賛歌」をただ紹介している、というだけではありません。キリストの謙遜なお姿は、そのままわたしたち人間の生き方の模範でもある。それが、パウロの言わんとしている真意です。その気持ちのすべてが、12節の最初にある「だから」という言葉に集約されていると言ってよいでしょう。

「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」

なぜ「だから」なのか。キリストが謙遜の模範を示してくださった。だからあなたがたも、です。だからわたしたちも、キリストの模範に従って、謙遜な生き方を貫いて行きましょう、です。それが、パウロの最も言いたいことです。

しかし、ここでわたしたちは少し注意深くあるべきです。といいますのは、この文脈では明らかに「謙遜」ということが主題になっているのですが、2・12にパウロが書いていることは「従順」ということです。この「謙遜」と「従順」の二つの言葉は、よく似ている事柄ですが、いくらか違う要素もあると感じます。

従順は「服従」と訳すこともできます。従順とか服従には、そこには必ず、だれか服従すべき相手がいます。従順にせよ、服従にせよ、ひとりでは成り立ちません。自分一人の従順、自分一人の服従などは、ありえないことです。

他方、「謙遜」の場合は、どうでしょうか。自分一人の謙遜というのは、おかしな言い方ではありますが、絶対に成り立たないとは言い切れないものがあります。へりくだる、ということには、だれかと比べて、とか、だれの下に着くというような話とは少し違った面があります。パウロ自身、「互いに相手を自分よりも優れた者と考える」ことを謙遜の意味としています。つまりそれは、自分自身をだれよりも下に置くということであって、順位や比較は問題ではないところに自分を置く、ということです。

ところが、です。そういう話を聞きますと、とたんに次のようなことを考え始める人がいるのです。それは卑屈な生き方である。自分はすべての人よりも下にいる。自分には何の価値もない。わたしは誰の役にも立ちませんので、だれにも会いたくありません。だれよりも低い位置にいる価値のないわたしは、人前に出るのが嫌であり、教会に行くのも嫌である。このような、すっかり引きこもってしまうような生き方をもたらす考え方である、ということです。

しかし、どうでしょうか。パウロがイエス・キリストの謙遜の模範について語っていることは、決してそのようなことではないと、わたしは信じております。

パウロが語っていることは、「謙遜」とはすなわち「従順」である、ということに他なりません。ただし、これも注意深く、深い意味を読み取る必要があります。

キリストの従順の模範について考えるとき、その場合の「従順」の意味は、父なる神の御心に対する従順です。キリストが十字架の死に至るまで従順だったのは、父なる神の御心がそうであったからです。神の御子イエス・キリストが十字架の上で死に、すべての人々の贖いとなり、イエス・キリストを信じる人々を救う恵みの力になることこそが神の御心である、ということを、イエスさまはご存じでした。その父なる神の御心に従順であるために、父の意思に服従するために、イエスさまは、十字架にかかって死んでくださったのです。

この話の続きに出てくる、2・12の「わたしの愛する人たち」の「従順」の意味もイエス・キリスト御自身の場合と同じであると考えるべきです。つまり、キリストを信じる者たちの果たすべき「従順」とは、第一義的には、人間に対する従順ではなく、神に対する従順である、ということです。

わたしたちがキリスト者であるということは、「教会に飼いならされること」ではありません。「牧師に飼いならされること」でもありません。宗教とはそういうものである、と世間の人々が誤解しているとしても、です。

しかし、です。ここまでお話しした上で、わたしはなお、その続きにあることもお話ししなくてはなりません。

「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」

教会の中でわたしたちが、神さまの御心に対する従順を示すことが大切です。その大切なことを具体的に表すために、わたしたちがなすべきことは、教会に仕えることである、ということです。教会の中で、そして、教会を通してこの世の中で、神さまの御心に服従しつつ、教会に仕え、隣人に仕え、人間に仕えること。これこそが、わたしたちに求められている、「不平や理屈を言わずに行いなさい」という点の具体的内容です。

わたしたちは、神さまに仕えさえすればよいのであって、人間に仕える必要はない、と言い切ってしまうことはできません。それは、事柄の抽象化であり、もっとはっきり言えば、ただの詭弁にすぎません。もし本当に、わたしたちが人間に仕える必要がないのであれば、教会など必要ありません。人間がわざわざひとつの場所に集まる必要はないし、そこで人と人とが触れ合う必要はありません。しかし、そのようなことは、聖書の教えではなく、キリスト教でもありません。

聖書とキリスト教は、一貫して、教会の必要性を語り続けてきました。教会など要らない、人間に仕える必要はない、というような教えは、詭弁であり、単純に間違っているのです。

とはいえ、わたしたちは、教会の中で先輩ヅラした人々があれこれガミガミ言い始めると、途端に嫌な気持ちになるものです。

しかし、皆さんにぜひとも分かっていただきたいと願うことは、(松戸小金原教会の話ではなく、あくまでも一般論なのですが!)、教会の中でガミガミ言う人は、それを言いたくて言っているのではないのだ、ということです。その人々は、ガミガミ言う嫌な役目を、神さまから与えられているゆえに言っている面があるのだということです。牧師や長老といった人々は、そのような嫌な役回りを、神さまから与えられている人々である、ということです。

「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」

ここにパウロが描き出している、まさに模範的なキリスト者の姿は、教会の奉仕者たちの姿である、と言っても、決して間違いありません。「とがめられるところのない清い者」、「非の打ちどころのない神の子」、「世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ〔人〕」。このように言われる者に、わたしたちもならせていただきたいではありませんか。

ただ、この場面でこそ大切なことは人との比較ではないという点です。わたしと比べてあの人は非の打ちどころがない。わたしはちっとも輝いていないけれども、あの人は星のように輝いているというようなことを、教会の中で考えるべきではありません。そういうことを、わたしたちはつい考えてしまい、言いたくなってしまうのですが、そういうことを、やめましょう。

教会の中に評価というものがあるとしても、それは神さまがなさることです。神さまがわたしたち一人一人を正しく評価してくださるのであって、わたしたちが、自分自身のことや他人の評価をすることは厳に慎むべきです。

「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」

ここでパウロは、人間らしさを見せている、と感じられます。「自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかった」と誇ることができる。それは、あなたがたが、まさに星のように輝く、非の打ちどころのない神の子として、成長していく姿を見ることができたときであると言っているわけです。うんと悪く言えば、パウロは先輩ヅラをしているわけです。あなたがた後輩の成長を見守るのがわたしたち先輩の責任である、と言わんがばかりに。

しかし、ご理解いただけるところも多いと思います。第一に、わたしたち自身も人間であるということです。“人間らしい”パウロの言葉は、わたしたち人間にこそ、よく理解できるところです。

第二に申し上げたいことは、このような(人間的な)言い方は、パウロには十分に語る資格があった、ということです。なぜなら、パウロは、一生懸命に走った人だからです。一生懸命に労苦した人だからです。あなたがたがささげるいけにえに、わたしの血が注がれるとしても、とパウロは書いています。これは物のたとえということで済まされるような話ではなく、むしろ文字どおりのことです。

パウロは教会のために、まさに自分に血を流し、命をささげたのです。イエスさまも、十字架の上で血を流し、命をささげてくださったのですが、この点ではパウロも同じなのです。そして、多くの教会の奉仕者たちもまた、教会のために、この命をささげてきたのです。

その努力が、何一つ評価されない、ということは、ありえません。わたしたちは自分の努力や行いによって救われるわけではありませんが、努力や行いなしには教会は立たない、ということも事実です。

今日、三人の子どもたちが、信仰告白してくれました。「子どもたちが・・・してくれました」と、あえて言います。この日までに、親御さんたちが、大人たちが、どれほどまでに祈ってきたか、あらゆる努力を重ねてきたか、分かってもらいたいからです。

また今年一年間、わたしたちは、教会において本当にたくさんの仕事をしてきたと思います。いろんなことがどんどん襲いかかって来る。しかし、みんなで力を合わせて、一つ一つ忠実に務めを果たしてきたのだと思います。

一年の終わりに、クリスマスのお祝いをすることができるのは、幸いなことです。なぜなら、一年の終わりにわたしたちがなすべきことは、一年の苦労をねぎらい、互いに慰めあうことだからです。

教会は、「忘年会」は、しません。「年を忘れる」必要は、ありません。むしろ、覚えること、思い起こすことが大切です。

それこそが、クリスマスにふさわしいことです。

(2006年12月24日、松戸小金原教会主日礼拝)