2006年12月10日日曜日

キリストの模範 ~待降節第二主日~


フィリピの信徒への手紙2・1~5

今日の個所に書かれていることも、フィリピ2・6以下の「キリスト賛歌」の内容に直接関係しています。キリスト賛歌は、神の御子イエス・キリストについて、そのお方は「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」と歌うものです。

「神の身分である」方とは、神御自身のことです。「神と等しい者」もまた、神御自身のことです。イエス・キリストは神であられるのだと、キリスト賛歌はうたっているのです。神であられる方が人間と同じ者になられた。神が人間になられた。これが、キリスト賛歌において最も強く主張されている点です。

先週学びました1・27に「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と書かれていました。この「キリストの福音」とはまさに、神が人間になられた、ということに他なりません。

福音(エヴァンゲリオン)の意味は、「喜びの知らせ」です。神が人間になられたということが、なぜ喜びの知らせなのかと言いますと、理由ははっきりしています。神が人間になられるとは、神がわたしたち人間に近づいてこられた、ということであり、神がわたしたち人間を愛して救うために近づいてこられた、ということだからです。

また、それは、神の存在がわたしたちにとってはもはや、決して遠い世界の話ではないのだということでもあります。気づかなければならないことは、もしわたしたちが神の存在を「遠い話である」と感じるとき、問題があるのはわたしたち自身のほうであるということです。神は、わたしたち人間へと近づいてくださる断固たる意志をもっておられるのです。

今日お読みしました個所の最後、フィリピ2・5に「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」とあります。「このこと」とか「キリスト・イエスにもみられるもの」とは、何のことでしょうか。これこそが、イエス・キリストにおいて神が人間になられたというこの点です。この「神が人間になられる」という“動き”ないし“運動”を指しています。

それは“上から下へという運動”です。そしてそれこそが「へりくだり」(謙遜)です。人間になられた神なるキリストは「謙遜」の模範なのです。

「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」

これは日本語としてちょっとおかしい文章です。とくに変なのは最後の「わたしの喜びを満たしてください」という一文です。誤訳とは言えませんが、あまりに直訳的すぎます。わたしたちは、このような日本語を日常的に用いることはありません。また、このような言葉を聞くとしたら、自己中心的な言葉である、と感じるはずです。

しかし、それでは、どう訳せばよいか。これは難しい問題です。はっきりしていることは、パウロはここで決して自己中心的なことを言おうとしているわけではないということです。言おうとしていることは、わたしもあなたがたと一緒に喜びたいということです。喜びは、一方通行では成り立ちません。喜びの相互性という点を、明らかにすべきです。

いずれにせよ、ここでパウロがしている話は、わたしだけが喜びたい、ということではありません。先週の個所に「あなたがたには神の恵みとして苦しみが与えられている」という話がありましたが、それとこれとをつなげてはなりません。あなたがたは苦しみなさい。わたしだけが喜びますという話をパウロがしているわけではない。そんなことを言うはずがありません。

しかし、この新共同訳聖書の訳は、誤訳とまでは言えません。正しい日本語になっていない、と言いたいだけです。「わたしの喜びを満たしてください」。わたしの心を、喜びでいっぱいにしてください、あふれさせてください、ということです。

ただしそれは、パウロの心の中だけに喜びがあればよいということではなく、お互いの心の中に喜びがあふれるようにするという意味でなければなりません。あなたがたの喜びを、わたしにも分け与えてください。それがわたしの喜びになります、ということを、パウロは語ろうとしているのです。

そして、このことは逆の方向に考えていくことができると思います。逆の方向に考えていくとは、パウロにとって「わたしの喜びが満たされる」とは、あなたがたと「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにする」ことによって実現するということであり、そのようにしてこのわたしとあなたがたの心の中身が同じになるということが大切である、というふうに考えていく、ということです。

とくに重要なことは、「キリストによる励まし」です。救い主イエス・キリスト御自身による励ましです。それがわたしたちの心に届くとき、わたしたちの心の中に喜びがある、ということです。

しかも、それは「“キリストによる”励まし」です。キリストによる励ましは、いわゆる一般的・人間的な励ましとは区別されるものである、と言わなければなりません。

「がんばってください」というようなごく普通の励ましの言葉が、悪いと言いたいわけではありません。しかし、「がんばってください」と言われると、ますます落ち込むという人々がいます。わたしだって、時々そう感じることがあります。「関口先生、説教がんばってくださいね」とか言われますと、「まだダメだ」という意味だな、と感じます。そのときの気分次第ですが。

それは、わたし自身も逆のことをしてしまっていることがあるということでもあります。そして、そこにある大きな問題は、自分の言葉が誰かの心を深く傷つけてしまっている、ということに、わたし自身がちっとも気づいていない場合がある、ということです。深い反省と悔い改めが求められるところです。

ところが、です。そのようなわたしたちの励ましの言葉と、キリストの励ましの言葉とは、根本的に違うのです。わたしたちの場合は、どんなことを言っても、どんな言い方をしても、相手を傷つけてしまう、相手が傷ついてしまう、そのようなことしか語ることができませんが、キリストの語る言葉は違うのです。そこに真の慰めがあり、いやしがあり、新しい信頼関係(霊による交わり!)が始まるのです。

ただし、問題はまだ残っている、と思います。それは、その「キリストの励まし」なる言葉がわたしたちに伝えられる方法は何なのかという問題です。この問題を解く鍵となると思われることが続く個所に記されています。


「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」

「キリストの励まし」が言葉としてわたしたちの心の中に届けられるための手段として考えられることは、聖書と、教会と、説教です。聖書と教会と説教なしに届けられる直接的な啓示が今日でも起こりうるということを、わたしたちは信じていません。「キリストの励まし」の場合も同じです。それがわたしたちの心に届くためには、そこにどうしても、聖書と教会と説教という手段が介在する必要があるのです。

ところが、です。その場合、問題が急にややこしくなります。聖書はともかく、問題は教会と説教です。聖書はやや特別扱いしてもよい。しかし、教会と説教の正体は、間違いなく「人間」です。欠けのある、問題の多い、人間です。

この教会と説教が手段として用いられることによって、「キリストの励まし」がわたしたちの心の中に届く。それによって救いといやしが起こる。神のみわざのために“人間”が用いられるのです。“人間”という邪魔者が入り込んでくるのです。

しかし、だからこそ、と言ってよいのではないでしょうか、パウロがここで「謙遜」という点を強調していることは、非常に重要な意味をもっていると思われます。ずばり言いますと、「キリストの励まし」をこの地上の現実の世界の中に生きている人の心の奥深くに伝えるために必要なのは、“謙遜な教会”と、“謙遜な説教者”である、ということです。

もちろん、ここでパウロが「あなたがた」と呼んでいる相手は牧師や長老だけ、つまり教会の礼拝で説教をする人々だけでありません。おそらくもっと広い意味であり、少なくともフィリピ教会の教会員全員を指していますし、もしかしたらすべてのキリスト者たちのことを指している可能性さえあります。

しかしまた、「キリストによる励まし」を伝えるためにだれよりも謙遜さが求められるのは、説教者である、という点は否定できないでしょう。

そして、その場合の「謙遜」の意味としてパウロが記していることは、ある意味で非常に単純明快です。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考える」ことです。つまり、自分をすべての人々の中でいちばん下に置きなさいということです。それが謙遜ということだ、とパウロは主張しているのです。

自分をだれよりもいちばん下に置く。これは単純明快で、分かりやすい教えです。自分はこの中で上から何番目とか、下から何番目、というようなことを考えている時点ですでにダメ、ということです。

たとえば、わたしは教会の中で何番目に偉いのでしょうか。こういう考え方の牧師は変であると、多くの人が気づくでしょう。自分をいちばん下に置いていろいろなことを考えはじめるとき、順位とか優劣というようなことばかりが気になっていたときには見えてこなかったような多くのことが、見えてくるでしょう。

(2006年12月10日、松戸小金原教会主日礼拝)