2004年10月24日日曜日
励ましの言葉
コロサイの信徒への手紙2・1~5
「わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。」
ここに記されているパウロの言葉は、コロサイ教会の信徒たちへの励ましの言葉です。しかし、そのことを語るために、パウロは、このわたし自身があなたがたのために労苦し、闘っているのだ、ということを、あえて言葉にして、相手に伝えようとしているのを見ると、わたしなどは、つい、いろいろと考えさせられてしまいます。
とくに日本では、自分自身の苦労話を大っぴらに語り、わたしがこんなに苦労しているのだから、分かってほしいというような仕方で、相手の義理人情に訴える話し方のことを「浪花節」と呼ぶことがあると思います。たとえ悪気はなくても、何となく押し付けがましい話し方である、と思われてしまいます。
もちろん、こういう話し方でも十分に分かってくれる心優しい人々もいますし、じつは、そういう人のほうが多いのかもしれません。逆に考えて、自分は少しも苦労していないのに、ひとには「がんばれ、がんばれ」と語る人は、ほとんど信用を勝ち取ることができません。
しかし、世間にはいろんな人がいる、ということも事実です。ひとの話を聞く場合にも、冷たい感じの聞き方というのがあります。あなたの苦労がわたしにとって何の関係があるのですか。わたしも苦しいです。苦労話など聞きたくありません、と突き放されてしまうことがあるのです。
しかし、このことは、別の見方をするなら、自分の苦労話を安心して語ることができる相手がいる、というのは、幸いなことである、とも思えます。わたしの苦労話を善意として受けとめてくれる人がいるなら、パウロにとってコロサイ教会の人々は、そのような善意を期待できる、信頼関係のうちにある相手であった、と理解することができるかもしれません。
ところで、パウロは、彼らのために、何の苦労をしている、というのでしょうか。
「それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。」
ここでパウロは、あなたがたコロサイ教会の人々とラオディキアにいる人々とが「心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるため」に、わたしは苦労しているのだ、と言っています。
この中で、とくに注目したいのは「理解力」という言葉です。また「キリストを悟る」という点が語られています。ただし、ここでの「悟る」には、以前も申し上げましたように、いわゆる仏教的意味での「悟りを開く」という意味は全くありません。むしろ「学び知ること」です。平たく言えば「勉強すること」です。
あなたがたに豊かな理解力が与えられ、キリストを学び知るために、わたしが苦労しているのだ、というのですから、パウロが苦闘している事柄として、わたしたちにとって最も分かりやすいであろう表現は、聖書に基づく「説教」とその準備である、ということではないでしょうか。
パウロも牧師の一人です。牧師は説教だけをしておればよいわけではありません。少なくとも牧会の仕事があります。しかし、説教もします。原稿も書きます。この点も、前回のこの手紙の学びの中で、すでにお話ししたことです。
そして、説教の準備というのは、意外と思われるのかどうかは分かりませんが、実際にやってみると、これはこれなりに、結構たいへんなことであると思います。
現在神戸改革派神学校で学んでいる浅野正紀神学生が、先週わたしに、一通のメールを送ってくださいました。そのメールに添えられていたのは、神学校で毎週水曜の夜に行われている祈祷会の奨励の原稿でした。「率直なところを批判してください」と書かれていましたので、率直なところの批評を書いて、送り返しました。こんなところで手加減するのは、かえって失礼だと思いましたので、遠慮なく厳しいことも書かせていただきました。
すると、浅野さんは、すぐに、わたしが指摘いたしましたすべての点を徹底的に見直してくださり、全面的に書き直して、また送ってこられました。
こういうことができる人、他人の批判を自発的に求めてこられる人には、間違いなく豊かな成長があります。浅野さんの熱心と謙遜な態度に、心から敬意を表したいと思います。
こういう人を見ていますと、わたしは、つい黙っていられなくなります。
こういうことができないのは、むしろ牧師たちです。自分の説教は素晴らしいと思い込んでいます。そう思い込んでいるかぎり、それ以上の成長は、全く期待できません。わたしは人のことは言えませんが、自分のことはすべて棚に挙げて言いますが、根本的に何か誤解しているのではないか、もう少し真面目に勉強したほうがよいのではないか、と思わされる牧師の説教に出くわすことが、しばしばあるのです。
パウロにとって、説教とは、ひとをして、神の秘められた計画であるキリストを悟らしむる何かです。「神の秘められた計画」とは、神の奥義という意味です。
そして、それは、神のすべての計画そのものを指しています。改革派信仰の表現の中で最も当てはまるのは、「神の聖定」(decrees of God)です。それは、創造者なる神によるこの世界と人類の創造のみわざから始まり、救い主イエス・キリストの十字架と復活による贖いのみわざを通り抜けて、歴史と現在における教会と世界の歩みと、終末におけるそれらの完成のみわざのすべてを含みます。
しかしまた、「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」と書かれているように、神のすべてのご計画を把握し、かつ正しく理解するための要(かなめ)と鍵は、まさにその神のすべてのご計画の中心に立っておられる救い主イエス・キリストです。
イエス・キリストを抜きにした「聖定」の教理は、単なる運命論・宿命論に陥る危険性があります。キリストが登場しない運命論・宿命論は、キリスト教的な教えにはなりえません。パウロは「巧みな議論にだまされないようにするため」と書いています。それが正しい教えか・誤った教えかを見分けるしるしは、そこにキリストがおられるどうかという点にかかっている、ということです。
説教とは、これらのすべてについて、聖書に基づいて、できるかぎり多くの人々に語り伝える仕事です。これは人が自らの一生をささげて取り組むに価する仕事です。説教だけがそうだと言いたいのではありません。しかし、説教もそうである。たしかにそうである、と語ることは許されるのではないでしょうか。
なんだか今日は、すっかり「浅野さんの話」になってしまいました。しかし、わたしは、いつか浅野さんに直接伝えたいことがあります。あなたの努力と労苦は必ず報われるときが来ます。間違いなく報われるときが来ます。天の神さまが報いてくださるでしょう。教会のみんなが喜んでくださるでしょう、と。
ただし、広い意味での「説教」は、牧師や神学生たちだけの仕事ではありません。「説教」は、長老や日曜学校の先生はもちろんのこと、じつは、すべてのキリスト者が仕えるべき仕事でもあると思います。
「説教」は、結局、わたしたちのこの信仰を、自分の家族や友人に正しく豊かに伝えることができる真実の言葉を探し求めるわざです。ラブレターを書くときのような真剣さと熱心さが必要です。
そして「説教」は、誰よりも、このわたし自身が、喜びと確信をもって、このわたしの信仰を公に告白する行為です。
良い意味で「みんなの宿題」であると、ご理解いただければと、願っております。
(2004年10月24日、松戸小金原教会夕礼拝)
愛によって互いに仕えよ
ガラテヤの信徒への手紙5・13~15
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」
今日の個所で、パウロは、イエス・キリストによって救われた者たちに与えられている自由とはどのようなものであるのか、ということについて書いています。一言すれば、「キリスト者の自由とは何か」ということです。
『キリスト者の自由』というタイトルの有名な書物があります。16世紀ドイツの宗教改革者であり、プロテスタント教会の歴史的創始者ともなりましたマルティン・ルターの書物です。この書物のテーマも、まさに「キリスト者の自由」、つまり、わたしたちキリスト者に与えられている自由とはどのようなものであるのか、ということです。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」とあります。「自由を得るために」と訳されている言葉は、原文では「自由のために」と書いてあるだけです。「を得る」は翻訳上補われた言葉です。
「召し出された」の意味は「呼び出された」です。ちょうど、わたしたちに誰かから電話がかかってくるように、呼び出されること、コールされることです。パウロの言葉を最も単純に直訳しますと、「あなたがたは自由のために呼び出されたのです」となります。
神がわたしたちを呼び出してくださるのは、どのような仕方でか、ということについても、一言だけ申し上げておきます。
神は、わたしたちに声をかけ、わたしたちの名を呼び、わたしたちに使命を与えてくださいます。そのために神がお用いになる手段は、聖霊なる神のみわざ、とくに、神の恵みの手段としての教会の宣教(説教)です。神は、ご自身の御言葉を、イエス・キリストを通して、聖霊において、宣教(説教)という手段を用いて、わたしたちに語りかけてくださるのです。
それならば、わたしたちは、どこから呼び出されるのでしょうか。もちろん、わたしたちがかつて属していたところからです。「ところ」とは、場所・地域・団体・家族・組織・制度・体制などの一切を含む、非常に広い意味です。
そこは、どのようなところだったのでしょうか。もちろん、彼らを、そしてわたしたちを奴隷の軛につないでいたところです。パウロ自身とガラテヤ教会の場合の「奴隷の軛」とは、ユダヤ教的律法主義であった、ということを、これまで学んできました。
パウロ自身は、突然彼の目の前に、幻のうちに現れてくださった、イエス・キリストご自身の呼びかけに応えて、ユダヤ教的律法主義によって彼の心も体もがんじがらめに拘束していたユダヤ教団を捨てて、その束縛としがらみから脱出しました。
ガラテヤ教会の人々も、今度はパウロの熱心な呼びかけに応えて、パウロと同じように、ユダヤ教的律法主義の拘束の中から脱出しました。
イエス・キリストへの信仰が、彼らの人生を根本から変えていきました。そして、それによって、彼らは、全く自由になりました。それは完全なる自由です。ルターも『キリスト者の自由』の冒頭で、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない」と述べています(石原謙訳、岩波文庫、1955年、11ページ)。
「ただ」と、パウロは続けています。「ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」。
ここに出てくる「ただ」(モノン)の意味は、「ただし」とか「しかし」ではありません。「ただひたすら」の「ただ」です。「ただそれだけ」の「ただ」です。「あなたの選ぶべき選択肢、あなたの進むべき道は、ただひたすら、それだけです。ただ一つです」の「ただ」です。オンリーワンという意味です。
ですから、パウロが語っていることは非常に明確です。「自由を得るために召し出されたあなたがたの進むべきただ一つの道は、その自由を"愛によって互いに仕える"という、ただ一つの目的のために用いることだけです」と、パウロは書いているのです。この「ただ」は、あまりぼんやりと読まないほうが良いと思います。パウロは、ふらふらしていません。この「ただ」によって、事柄の白黒を、はっきり付けているのです。
キリスト者に与えられたこの「自由」は、ただひたすら、「愛によって仕えること」のために用いられなければならないのです。自由の目的は、はっきりしているのです。ぼんやりさせてはならないし、ごまかしてはならないのです。
「自由の濫用」などは、もってのほかです。そのようなことのために、イエス・キリストにおいて神が、あなたに自由を与えたのでは決してありません。この点は間違ってはなりません。
これこそがパウロのメッセージです。
言葉を変えて言いますと、父なる神がイエス・キリストにおいて、わたしたちに与えてくださったのは、「罪を犯してもよい自由」などではありえない、ということでもあります。わたしたちに与えられている自由は、そのような自由ではないのです。そのような自由なら、最初から「要りません」と、きっぱりと断らなければならないのです。
全く反対です。神が与えてくださる真の自由とは「罪からの自由」です。「罪を犯さないでも済む自由」です。「罪を犯したい」という思いからの解放です。
まだ明確な犯罪とは言いきれないが実際の犯罪につながる可能性が高い行為のことを、「虞犯(ぐはん)行為」と呼びます。まさにそのような、犯罪行為に至る虞犯行為そのものや、それへの誘惑からの解放です。
あるいはまた、すでに犯した罪そのもの、犯罪行為、再犯行為、罪意識、罪責の念からの解放です。誰かに罪を犯したことへの後悔や、誰かから罪によって傷を受けた悲しみや苦しみからの解放です。
神がわたしたちに与えてくださるのは、そのような意味での「自由」です。「罪を犯すために用いてよい自由」などではありえないのです。
続けて「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」とあります。これは、少し慎重に読みたい言葉です。と言いますのは、パウロはこのように書いていますが、イエスさまは、あれれ、たしか、これとは少し違ったことを言っておられたような気がするからです。
見ていただきたいのは、マタイによる福音書22・34以下の記事です。
ここでイエスさまは、「律法の専門家」と称する人から、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と質問され、「二つの掟」であるとお答えになっています。
イエスさまにとってこの「二つの掟」とは、よく知られていますように、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という第一の掟と、「隣人を自分のように愛しなさい」という第二の掟との二つです。「隣人を自分のように愛しなさい」という掟は、イエスさまによると「第二の掟」です。つまり、律法全体を要約する掟は、一つではなくて二つである、というのが、イエスさまの教えです。
ところが、パウロのほうは、一つであると言っています。少し大げさにいえば、師弟関係の中に見解の相違がある、という感じです。ですから、この点は、やはり、かなり慎重に考えなければならないところでしょう。
それで、実際に調べてみましたところ、この件に言及している注解書が見つかりました。と言いますか、わたしがいつも参考にしている座右の書が、短い言葉ながら、きちんと説明しておりました(Vgl. P. A. Van Stempvoort, De brief van Paulus aan de Galaten. De Prediking van het nieuwe testament (PNT), G. F. Callenbach N. V. Nijkerk, 1961, p. 174〜175)。
それによると、「律法に教えられているのは、イエス・キリストにおける神による、全世界に対する愛である」と言われています。その意味は、おそらく次のようなことです。
わたしたちに求められているのは、「神に対する愛」である・・・もちろん、そのとおりです。
しかし、わたしたちが愛すべき神とイエス・キリスト御自身が愛しておられるのは、わたしたちが生きているこの世界全体と、その中で生きているわたしたち自身である、ということです。イエス・キリストは、御自身よりも、そして父なる神よりも、この世界とわたしたち人間を愛しておられるのです。
わたしたちが向けるべき視線は、「神に対して」である・・・もちろん、そのとおりです。
しかし、わたしたちが見つめるべき神とイエス・キリスト御自身のまなざしは、「この世界と人類に対して」向けられている、ということです。イエス・キリストは、御自身よりも、そして父なる神よりも、この世界とわたしたち人間を見つめておられるのです。
神がわたしたちを愛してくださいます。そして、わたしたちは、その神を愛さなければなりません。しかし、「神を愛する」とは「神に従うこと」でもあります。そして、神に従うということは、神が熱いまなざしをもって見つめ、愛してくださっているこの世界と人類を、(神と共に)愛することでもあるのです。
「律法の全体は・・・隣人愛の戒めというこの一句において成就され、遂行され、全うされるのです。ローマの信徒への手紙13・8に『人を愛する者は、律法を全うしているのです』と書かれているとおりです。ここで考えられることは、いずれにせよ、隣人への愛は、神への愛から生み出されるものである、ということです」(ibid. p. 175)。
ですから、わたしたちは、次のようにも語ることができます。
わたしたちは、神の栄光を現わし、永遠に神を喜ばなければなりません。しかし、神は、わたしたちを神御自身の栄光によって輝かせてくださり、わたしたちの存在を永遠に喜んでくださるのです。神の栄光の輝きがわたしたち自身の輝きとなり、わたしたちの輝きが隣人と世界を輝かせる光となるのです。
わたしたちのうちに時々起こるのは、「わたしは、神を愛することはできる。しかし、人間を愛することはできない」という思いです。
イエスさまの言われる「第一の掟」のほうは守ることができる。しかし、「第二の掟」は守ることができない、という思いです。
宗教的熱心はある。しかし、この世の事柄には関心を持つことができない、という思いです。
神との純粋で霊的な交わりは愛する。しかし、教会や社会の中での人間同士の“人間的な”お付き合いは、面倒くさいし、わずらわしいので、まっぴらごめんです、という思いです。
これは、わたしたちにとっては大きく強い誘惑になりうるのです。
このような思いは、とくに、教会の中で争いやいざこざが起こるときに起こりやすいものです。しかし、これは少し厳しい言い方ですが、悪い意味での律法主義の一種です。たとえば、パウロがかつて属していたユダヤ教的律法主義、とくにファリサイ派のグループの中にはこのような傾向があった、ということができます。
「神を愛すること」は大切です。しかし、一方的な宗教的熱心が「人間嫌い」の傾向をもたらすことがありうるのです。律法主義(りっぽうしゅぎ)とは、言ってみれば、一方主義(いっぽうしゅぎ)なのです。
このように考えてきますと、ここでパウロが「隣人を自分のように愛しなさい」という第二の掟だけを強調して取り上げている意図は、このような過ちに陥ることを防ぎたいということではないか、と思われてなりません。
「だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」とあります。教会の中で、互いに愛し合い、仕え合うことをせずに、それどころか、互いにかみ合い、共食いし合うことがありえます。教会も人間の集まりですから、争いが起こるのを避けることはできません。悲しいことですが、これが現実です。
そのことを、パウロはよく知っています。よく知りながら、あえて、「隣人を愛しなさい」という人間関係の掟を強調しているのです。
この文脈で持ち出すと、「何があったのか?」と思われるかもしれませんが、先週の火曜日から金曜日までの四日間、日本キリスト改革派教会の第59回定期大会が行われました。本教会を代表して、佐藤長老とわたしが出席しました。
今年の定期大会は、比較的穏やかで、落ち着いた会議となりました。しかし、当然のことながら、異なる意見が激しくぶつかり合う場面もありました。毎度のことながら、本当に疲れる会議でした。
しかし、まさか、けんかするために、教会が存在するわけではありません。わたしたちが教会に集まっている目的は、互いに愛し合うためです。互いに祈り合い、仕え合うためです。お互いを傷つけあうためではありません。
パウロの心の中に、あなたがたは、イエス・キリストへの信仰によって、せっかく律法主義という「奴隷の軛」から自由にされ、喜びに満ちた新しい人生を始めることができたのだから、もうけんかはやめにしましょう、仲良くしましょう、という思いがあったに違いありません。
「互いに滅ぼされないように注意しなさい」。このパウロの忠告に、わたしたちは、素直に耳を傾けるべきです。
(2004年10月24日、松戸小金原教会主日礼拝)
2004年10月17日日曜日
本当の悩みを知る ~子育て、家庭、職業、隣人愛の問題にもふれて~
マタイによる福音書9・35~10・15
本日は特別伝道集会です。大勢の方々にお集まりいただきましたことを、心から感謝しております。
今朝、皆さんに開いていただきました聖書の個所は、マタイによる福音書9・35〜10・15です。今日はこの個所を、皆さんと一緒に学んで行きたいと願っております。
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」
これは、わたしたちの救い主イエス・キリストの活動記録の一部です。イエスさまが、いろんな町、いろんな村を、残らず歩き回ってくださったのです。そのとき、イエスさまは、何をなさったのか。大きく分けて二つあります。
イエスさまの仕事の第一は、「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」と書かれていることです。これは、要するに、今ここでわたしが行っている「説教」という仕事です。「会堂で教え」とあります。ユダヤ人の安息日は、土曜日です。土曜日ごとに「会堂」に集まって礼拝が行われます。そこで説教が行われます。イエスさまは、いろんな町や村の会堂で、聖書に基づく説教をしてくださったのです。
イエスさまの仕事の第二は、「ありとあらゆる病いや患いをいやされた」と書かれていることです。「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とも書かれています。ここに「いやすこと」と「憐れむこと」という二つが書かれています。しかし、この二つは、少なくとも当時は、それほど違うことではなかったと思われます。この点は、もう少し説明が必要でしょう。
今の時代に「いやすこと」といえば、「病院の医師が治療によって患者の病気を治すこと」を意味します。「憐れむこと」とは、何でしょうか。今日の個所に書かれている元々の意味は、「同情すること」です。シンパシーを感じること、同情することです。それが、とくに宗教的な文脈では「憐れみ」という意味になります。
しかし、イエスさまの時代は、今ほどに専門分化されていたわけではありません。医者は医者、宗教家は宗教家の領分を守らなければならないというのは、ごく最近の話です。今の日本でも、田舎のほうに行けば、スポーツ用品店に大根やキャベツが売っていたりします。一人の人が何でもしなければならないということが、ありうるのです。
イエスさまの時代において、またイエスさまご自身において、「いやすこと」と「憐れむこと」の二つは、結局のところ、人の苦しみを和らげ、取り去るという点で共通する、一つの課題であった、と言えるのです。
このような働きを、教会は「牧会」と呼んできました。これはドイツ語のゼーレゾルゲの翻訳として使われてきました。ゼーレゾルゲとは「魂の配慮」という意味です。それが「牧会」です。イエスさまの仕事の第二の要素は「牧会」である、ということです。
この二つのわざがイエスさまの主な仕事でありました。そして、この二つのわざが同時に等しく重んじられるところに、イエスさまのみわざの本領が発揮されました。
イエスさまは「説教」だけをされていたのではありません。"魂の配慮"という意味での「牧会」をも、なさっていたのです。
この点は、わたしたちが、教会の存在理由について、また、牧師という人間の存在理由について考えるときに重要です。
わたしは、牧師という仕事を始めて14年目になります。その中で、時々、わたしは本当に誤解されている、と感じることがあります。
つい最近も、ありました。これは、教会の何人かの方々には、すでにお話ししたことです。
わたしは今年、小学校の父兄の立場で、松戸市の少年補導員の一人に加わることになりました。その活動をしていたときです。補導員のひとりの方が、「関口さんは、日曜日以外は、仕事をしておられないんですよねえ」と言われました。
わたしは、ただ笑うしかありませんでした。少しくらいの説明では、分かってもらえそうにありませんでした。「あはは、まあ、そのようなものです」と答えておきました。それ以上は言いませんでした。
でも、教会の皆さんは、分かってくださっています。牧師も結構忙しい、と。どこで何をしているのかは、よく分からないところもあるのだけれど、でも、何かものすごく忙しくしているようでもある、と。
そのような、まさに「何だ」と聞かれても「これだ」とはっきり答えるのが難しいような、微妙で・複雑で・デリケートな事柄についての配慮、まさに「魂の配慮」を行うことこそが牧師の仕事である、と申し上げることができます。ある人びとにとっては、たしかに、不可解で・得体の知れない存在かもしれません。
しかし、この点においては、イエスさまも、そうであった、と申し上げたいわけです。イエスさまは、二千年前のユダヤで働かれた、ひとりの牧師さんだったのです。そのように理解することができるのです。
もう一つ、牧師という仕事をしていて、事あるごとに、かならず質問されることがあります。「牧師さんは、どのようにして生活しているのですか」。もちろん、どのようにして稼いでいるのか、という質問です。この質問をなさる方の顔は、どなたも興味津々です。
そのような質問を受けるたびに、イエスさまはどうだったのか、を考えさせられます。イエスさまは、どのようにして生活しておられたのでしょうか。
じつは、そのあたりは、聖書には、あまりはっきりとは書かれておりません。しかし、間接的に分かることがあります。先ほどお読みしました個所の後半部分に、イエスさまが弟子たちに命じておられる内容が、それです。
「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つ時まで、その人のもとにとどまりなさい。」
イエスさまの弟子として働く者たちは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい、ということです。このように言われるイエスさまご自身も、当然、同じように生きられたに違いないのです。
しかし、その代わり、というのは少し語弊があるかもしれませんが、イエスさまご自身も、イエスさまの弟子たちも、その仕事と生活を経済的に支援してもらえる人々を探し、その人びとに助けてもらっていたのです。
この点は、なかなか分かってもらえないところです。わたしは、今年3月までの13年間は、おもに田舎の教会で働いておりました。その中で時々困ってしまうことがありました。
牧師館には、教会の方々だけではなく、一般の方々が、突然「相談したいことがあります」と訪ねてこられることがあります。そして、話を聞くと、その帰りがけに、お金が入った封筒を渡され、「話を聞いていただいたお礼です」と言われるのです。「いただけません」と丁重にお断りするのですが、必ず押し問答になり、無理やり置いて行かれるのです。そういうものだ、と固く信じておられるのかもしれません。
しかし、これは本当に困ることです。「ただで与えなさい」というのがイエスさまの命令だからです。
ただし、牧師たちは、まさか、かすみを食べて生きているわけではありません。教会が十分な生活費を用意してくださいます。食べ物や着る物に困ったことは一度もありません。ですから、どうか皆さんには、間違っても、そのような封筒を持って来られないように、お願いいたします。
なぜお願いするか、です。大げさでも何でもなく、牧師というわたしたちの仕事の本質ないし根幹にかかわる事柄だからです。まさに、この「ただで与える」という点が貫かれているかどうかということが、教会と牧師の存在理由そのものにかかわっているからです。
考えてみていただきたいのです。おそらく今ここに集まっているわたしたちの多くが、かつてそうだったのではないでしょうか。初めて教会を訪ねようと思い立ったとき、また牧師に相談を持ちかけようと考えたときのわたしたちは、どんな状態だったか、です。
もちろん、いろんなケースがあるでしょう。しかし、多くの場合、多くの人々は、そのとき、すべてに行き詰っているのです。まさに「万策尽きた」ときに、ひとは教会を訪ね、牧師を訪ねるのです。神を求め、宗教を求めるのです。
今日の聖書の個所の全体を見渡していただきますと、ここで分かることは、イエスさまが十二人の弟子たちをお選びになり、世の人びとを助けるために派遣された最も直接的な理由は何であったか、ということです。
それは、先ほども読みましたが、「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(9・36)というこの点です。ひとえに、この点です!
まさにイエスさまは、「弱り果て、打ちひしがれている群集」に対して深く同情されたゆえに、彼らを何とかして助けるために、十二人の弟子たちを派遣されたのです。
ですから、逆に言えば、もしそこにそのような「弱り果て、打ちひしがれている群集」がいなかったとしたら、イエスさまが弟子たちを派遣する理由も無かった、ということになります。
しかし、実際には、そういう人々は、たしかにいました。そして、もちろん、今でもいます。たくさんいます。わたしたちの身近なところに、あふれかえっています。いなかったとしたら、などというような仮定の話は、全く意味の無い空想にすぎません。
そして、そのような人々を助けるために、イエスさまは、かつて弟子たちを派遣されましたし、今も派遣され続けているのです。そして、教会と牧師は、その人々を助けるために、ただで与えること、そしてこのわたしの命をかけてすべてを与えなければならないのです。与えなければならないのであって、奪ってはならないのです。
気になることがあります。それは、先ほどの9・36にある「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て」という一句です。しかし、これは、考えてみれば非常におかしいことです。困ったことです。なぜなら、その直ぐ前に「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え」と書いてあるからです。
なぜおかしいのか。なぜ困ったことなのか。それは、この個所を読む限り、イエスさまがご覧になった「弱り果て、打ちひしがれている群衆」が住んでいた町や村には「会堂」が存在した、ということが、はっきりと書かれているからです。
この「会堂」ということで、単なる宗教的な施設や建物だけを想像するのは、おそらく間違っています。少なくともその建物の中に、そこで働く宗教家たちもいたのです。当時のユダヤ教の律法学者、祭司長、長老たちは、会堂を中心に活動をしていました。その人々の宗教活動そのものが「会堂」という言葉に含まれているのです。
ということは、何を意味するのか。イエスさまがご覧になった「弱り果て、打ちひしがれている群集」には「飼い主」であるべき人びとがいた、ということです。「飼い主」は、存在しなかったのではなく、存在したのです。それなのに、彼らは「飼い主のいない羊のようだ」とイエスさまはご覧になったのです。
これは明らかに、当時の宗教家たちに対する激しい批判の意味が込められています。はっきり言ってしまえば、会堂は、そして会堂の住人たちは何の役にも立っていないではないか、ということです。「弱り果てて、打ちひしがれている」人々の助けになっていないではないか。彼らの霊的なニードに応えていないではないか、ということです。これはわたしたち教会に対する厳しい問いかけでもあります。
そして、ここでもう一つ考えられることは、このときイエスさまは、まさにそのいわば「役立たずな」会堂と宗教家たちの代わりに、十二人の「役に立つ」弟子たちをお選びになり、派遣されたに違いないのだ、ということです。
そして、とくに注目すべきことは先ほどの件です。「ただで与えなさい」という問題です。
考えられることは、当時の宗教家たちが、宗教を悪い意味での商売道具とし、私利私欲を求めることに熱心であり、目の前で困っている人びとを助け起こすことには少しも関心をもっていなかったのではないか、ということです。もしそうだとするならば、「ただで与えなさい」というイエスさまの命令には、当時の堕落した会堂と宗教家たちへの痛烈な批判が含まれていた、と考えることができるのです。
そして、もしそれが真実なら、ここにこそ、人びとの「本当の悩み」もあった、ということを考えざるをえません。
たとえば、子育てに行き詰まり、家庭生活や職業に行き詰まり、そして人生そのものに行き詰まってしまった人びとがいる。そして、いわば最後の最後に、教会に行く。しかし、そのとき、教会が役に立たない。宗教が役に立たないと感じる。そのときには完全に絶望するしかありません。そのとき、ひとは、本当の意味で行き場を失ってしまうのです。
「本当の悩み」とは、最後の最後に、心から信頼して相談できる相手がいない、ということではないでしょうか。助けを求めた人を信頼して相談したとき、与えてくれるどころか、奪われた。そのとき、ひとは、心の底から「神に見棄てられた」と感じるのです。
しかし、反対のことも言えます。もし「本当に役に立つ人々」が、助けを求めている人々に「ただで与える」ことを始めるならば、あるいは、「ただで与える、本当に役に立つ人々」がこの世界の中に増えていくならば、この世界全体が、真によきものへと変わっていくでしょう。
教会とは、地上において、そのことを追求する団体です。わたしたちは、まさにこの「本当に役に立つもの」になりたい。そして、「ただで与えるもの」になりたいのです。それこそがイエスさまが教えてくださった「愛」のかたちである、とわたしたちは信じています。
時間が無くなりました。この続きの部分は、午後の集会の中で、わたしの家内が話してくれると思います。打ち合わせもきちんと出来ております。夫婦で力を合わせて、午前と午後で一つの話になるように準備しましたので、わたしの話は、ここまでにします。
最後に一言だけ申し上げます。
困ったときには、教会に来てください。牧師館を訪ねてください。そして、何でも相談してください。十分な意味で役に立てないかもしれませんが、できるかぎりのことをさせていただきます。
その際、何も持ってくる必要はありません。とくに、お金の入った封筒は、謹んでお断りいたします。
わたしたちは皆さんの助けになりたいだけです。お役に立ちたいだけです。必要なものは、すべて神さまが満たしてくださるのです。
(2004年10月17日、松戸小金原教会特別伝道礼拝)
2004年10月10日日曜日
十字架のつまずき
ガラテヤの信徒への手紙5・7~12
「あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。」
「あなたがたは、よく走っていました。それなのに」と、パウロは言います。「いったいだれが邪魔をして真理に従わせないようにさせたのですか。」
このパウロの言葉の裏側には、ガラテヤ教会の人々をかばう思いがある、と言えます。あなたがたは惑わされているだけだ、と言ってあげている、という面があります。
しかし、本当のところを言えば、ガラテヤ教会の人々には全く責任が無い、というようなことは、ありえない話です。彼ら自身が、もう少し忠実にパウロの教えにとどまっていさえすれば、そのような問題は起こらなかったのです。
「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです」とあります。「パン種」の意味は、ご存じでしょう。それ自体は小さくても全体に影響を及ぼす大きな力を持っているものについての例えです。しかし、ここでは悪い意味で使われています。
パウロは、これと同じ言葉をコリントの信徒への手紙一5・6にも書いています。この場合も「パン種」は悪い意味です。
イエスさまも「パン種」という言葉を悪い意味でお用いになりました。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に、よく注意しなさい」(マタイによる福音書16・6)。
ふと気づかされたことがあります。「パン種」とは、一度練り粉の中に入ってしまったら、二度と取り除くことのできないもの、という意味があるのではないか、ということです。
たとえば、イエスさまは、「パン種を取り除け」とは言われませんでした。「注意しなさい」と言われただけです。"取り除くことのできないもの"だからではないでしょうか。
別の個所で、イエスさまは、似たようなことを、別の言葉で例えておられます。いわゆる「毒麦の例え」です(マタイによる福音書13・24~30)。良い種の蒔かれた麦畑に、敵が来て毒麦の種を蒔いていった。実ってみると毒麦も現れた。毒麦を抜きましょう、という僕の言葉を主人が打ち消して「そのままにしておきなさい」と答える、あの例えです。
この場合も問題になっているのは、良いものの中に悪いもののが混ざっている、ということです。ただし、毒麦の場合はある程度見分けがつきますが、パン種の場合は全く見分けがつきません。放っておくしかありません。「気をつけること」のほかには、なすすべがないのです。
しかし、いずれにせよ問題となっているのは、良いものの中に悪いものが混ざっている、ということです。そして、わたしには、このことが、今日の個所でパウロがストレートに表現している怒り、ないし苛立ちの原因になっているのではないかと思われるのです。
それはどういうことか、もう少し説明が必要でしょう。なぜパウロは、怒っているのでしょうか。苛立っているのでしょうか。その理由は次のように説明できると思います。
それは、今やガラテヤ教会を惑わしているユダヤ教的律法主義というものは、じつは、そもそもパウロ自身が持っていたものであり、今も、そしておそらくこれからも、その中から完全には抜け切ることはできず、彼の中に混ざり続けていくであろうものである、ということです。
そして、そこにこそ、パウロの弱点があった、ということです。そして、その弱点は、パウロに敵対する人々にも知られていました。敵というのは、いつでも必ず、こちらの弱点を攻めてくるのです。それは、戦術的にも・戦略的にも正しい当然のやり方かもしれませんが、攻められる側としては、たまったものではありません。
そして、パウロは実際に、そこで追い詰められる。そこで苦しむ。そして、そこで腹を立てるのです。図星を当てられたときに、人は腹をたてるのです。そうでない場合には、痛くも痒くもないのです。
実際、たとえば、パウロ自身は、幼い頃に割礼を受けています。彼は、生まれながらのユダヤ人です。熱心なユダヤ教徒になり、熱心なキリスト教迫害者にもなりました。ファリサイ派の律法学者でもありました。これは否定しようもない厳然たる事実です。
また、もう一つ、もっと重大と言いうる事件がありました。それが、使徒言行録16・3に紹介されています。
「パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを皆が知っていたからである」。
これは明らかに、パウロがキリスト者になり、伝道者になった後の出来事です。パウロ自身が弟子のテモテに割礼を授けた、というのです。「その地方に住むユダヤ人の手前」と書かれています。パウロは「ユダヤ人の手前」、つまり、ユダヤ人の目、人間の目を気にするがゆえに、自分の弟子に手ずから割礼を授けた、というのです。
そして、実際、どうやらこの事件をきっかけとして、ガラテヤ教会の中に「パウロは今なお割礼を宣べ伝えている」という噂が広がった、と考えられるのです。
11節にパウロが書いていることは、そのような背景を持っていると考えられます。“火の無いところに煙は立たない”のです。パウロ自身の側に全く責められるところが無かった、とは言い切れないのです。
ここでわたしに思い出されることがあります。
日本では一般的にも有名な内村鑑三氏は、ご承知のとおり、いわゆる「無教会主義」という立場を取りました。教会を否定する、というのですから、わたしたち教会の者たちとしては、立場が違うといわざるをえません。しかし、たいへん立派な方であり、わたしたちとしても尊敬すべきところの多い方であることは事実です。
その内村氏について、現在の無教会の指導者の一人から直接伺った話なのですが、内村氏は、じつを言うと、一度ならず、自分の弟子たちに洗礼を授けたことがある、というのです。
無教会主義と洗礼を授けることが原理的に矛盾していることは、明らかです。彼ら自身が洗礼を授けることも・受けることも拒否してきた歴史があるのです。しかし、実際の内村氏は、自分の弟子の数名に洗礼を授けた、というのです。
とくに興味深かったのが、内村氏が洗礼を授けた中の一人に、内村氏自身の実の娘さんがいた、というのです。その理由も聞きました。その娘さんが海外に留学することになったとき、海外でキリスト者として認められるためには洗礼を受けていなければ困る、という話になり、やむをえず洗礼を授けた、というのです。
こういう話を聞いてわたしたちが、「さもありなん」と言い放つとか、「やっぱり無教会主義には限界がある」というふうに断じたりすることは、事柄の取り上げ方としては、たいへん失礼な態度であると思います。内村氏としては、苦渋の選択という面もあったかもしれません。
しかし、それでもなお言わざるを得ないと感じることがあります。もし、その人が熱心に語ってきた主義・主張というものと、実際にその人が実践したこととが違っている、と見られてしまったときには、やはり、そのことについて、周りの人々に理解できる言葉で、きちんと説明することが必要である、ということです。それは誤解であるというなら、その誤解を解くために、公の場所で、きちんと語る説明責任がある、ということです。しかし、わたしは、内村氏によるそのような説明があったことを、寡聞にして知りません。
いわば(いわば、ですが)パウロも、内村氏と同じようなところに立たされた、と言えるかもしれません。内容的には異なりますが、状況は似ていると言えなくもありません。パウロの場合、他の人には「割礼を受けるべきではない」と語っておきながら、自分の弟子には割礼を授けた。あの人は信用できない、と言いだす人々が出てきたのではないでしょうか。
「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。」
ここでパウロが書いていることは、明確です。このわたしが今なお割礼を宣べ伝えている、というのは全くの誤解である。もしそうであるなら、このわたしが今なお迫害を受けている理由が分からなくなるではないか、ということです。
ここで「迫害」とは、もちろんユダヤ教徒によるキリスト教徒に対する迫害です。これをわたしは、今なお受けているではないか。迫害を受けなくなるということは、ユダヤ人たちがパウロの存在を味方であると認めることを意味する。つまり、パウロがキリスト教の教えを捨てて、再びユダヤ教に戻ったと認めることを意味します。
わたしはそうなのか、と言いたいわけです。わたしはユダヤ教に戻ったのか。キリスト教を捨てたのか。そんなことはありえないことだ、と言いたいわけです。
わたしたちも、この日本の国の中で、とくに宗教という観点から、ものすごく悩む場面が今でもある、と思います。たとえば、葬式の場面しかり、お盆や正月の行事しかりです。しかし、今ここで、具体的な例を挙げていくことは控えます。
たとえば、そのような場面において、です。そこに集まっているのがみんなキリスト者ばかりである、というなら、なんと気楽なことでしょうか!しかし、実際にはそういうわけには行かないではありませんか!
実際には、いろんな宗教、いろんな立場や考えの人々がいます。そのような場面において、わたしたちが、それこそ「ユダヤ人の手前」というのと同じように、その人々の手前、周囲の人々の目を気にして、心にも無い宗教儀式に参加し、信じてもいない存在に向かって手を合せてみたり、拝んだふりをしてみたりしなければならないような場面が、全く無い、と言い切れるでしょうか。
しかし、そういうときに、手を合わせたから、お辞儀をしたから、だから、わたしはキリスト教を捨てたのか。仏教や神道の信者になったのか。このあたりのことは、時として、ものすごく難しい問題として、わたしたちの心を悩ませ、痛めつける問題として、襲いかかってくることがあるのではないでしょうか。
わたしは、この種の問題に明確で一義的な答えは無い、と考えています。パウロのように状況に応じて判断するという選択肢がありうる、と考えています。しかし、このようなことを、あまり開き直って言うつもりも、ありません。
パウロ自身は、自分自身がかつて確かに受けた割礼そのものを否定できたわけではありませんし、否定しようがありません。また、キリスト者になった後も、自分の弟子に割礼を授けました。
しかし、そのパウロが、断固として否定したことがある。すなわち、「割礼は救いのために必要かつ不可欠な条件である」というこのような考えを、パウロは断固として否定したのです。
ひとは、割礼を受けなくても救われる。割礼は、救いに至るための義務でも、責任でも、条件でもない。このようにパウロは語ったのです。
しかし、こういう考え方は、律法主義者たちには理解されないものです。パウロの立場を執拗に攻撃していた人々は、パウロが「割礼を受けるべきではない」と言ったとなると、彼は割礼そのものを否定しているのだ。ひいては、ユダヤ教の信仰そのものを否定し、結局はユダヤ人の存在そのものを否定しているのだ。だから、パウロはわれわれの敵なのだ、というふうに受け取るのです。このような三段論法こそが原理主義の特色である、と言えるでしょう。
しかし、実際のパウロは、もっともっと自由な人でした。イエス・キリストの十字架の福音によって自由なものにされていました。ひとが救われるために求められるのは、信仰だけである。問われるのは、これだけだ、と。
わたしが今なお割礼を宣べ伝えているなら、「十字架のつまずき」もなくなっていたことでしょう、とパウロは書いています。「つまずき」(スカンダロン)とは、スキャンダルの語源です。憤慨ないし激怒の対象、という意味です。
イエスさまの十字架に憤慨し、激怒するのは、もちろん、ユダヤ人たちです。しかし、なぜ彼らが憤慨し、激怒しなければならないのか。イエスさまを十字架につけて殺したのは、彼ら自身です。その彼らにとって、イエスさまこそが救い主であると語るキリスト教徒の言葉は、許しがたいものであり、憤慨と激怒の対象であった、というわけです。
このようことを、十字架の福音を、みんなの前ではっきりと語っている、このわたしパウロを差し置いて、「あいつはユダヤ教に戻った」などという噂を流すのは誰なのか。お願いですから、そのような中傷誹謗はやめてくださいと、言いたいのです。
「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。」
ここでパウロは、この手紙の中ではおそらく最も過激な言葉を書いています。
わたしが実際に聞いた、この個所を説教された日本の有名な牧師が語った言葉を、今でも忘れることができません。「パウロが言っていることは、要するに、“根こそぎ切り取ってしまえ”、ということです」。
言ってみれば、それだけです。しかし、さらに調べていきますと、これは非常に痛烈で激しい皮肉であることが分かってきます。
旧約聖書の申命記23・2には、「去勢した者は主の会衆に加わることができない」ということが書かれています。そうだとすると、パウロの意図は、彼らは、自分の律法によって、自分自身が裁かれている、という意味になります。
また、別の解説によると、ここでパウロは、小アジア地方にあったとされる、キュベレという女神を祀っている大神殿に仕える宦官たちのことを考えているのかもしれない、と言われます。そうだとすると、彼らは、自分のユダヤ教信仰によって異教化している、という意味になります。
とはいえ、わたしたちまで、パウロのように、皮肉とか嫌味のようなことを、人に対して書き送る手紙のようなものの中に、勢いに任せて書き殴る、というようなやり方は如何なものかとも感じます。わたしたちは、こんなことまでパウロの真似をする必要はないでしょう。ただ、パウロの強い思いを読み取ることができれば、と思います。
(2004年10月10日、松戸小金原教会主日礼拝)
2004年10月3日日曜日
愛の実践を伴う信仰
ガラテヤの信徒への手紙5・2~6
「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、霊により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」
ガラテヤの信徒への手紙は全部で6章ありますので、残すところ2章分となりました。全体の3分の2をやっと読み終えたところです。5ヶ月間、ただひたすらこの手紙だけを読んできましたので、少しお疲れになったかもしれません。
わたしの予定では、今日を含めてあと7回、11月21日の日曜日まで、この手紙を読んでいきたい、と考えております。そして、11月28日が今年のアドベント(待降節)第一主日ですから、その日から、クリスマスの準備として、イエス・キリストのご降誕についての話を始めたいと願っております。ご理解とご協力をお願いいたします。
さて、使徒パウロは、この手紙の中で、わたしたちキリスト者は、救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、そしてまた、キリストご自身へと結ばれる(結合される)ことによって、全く自由にされた者である、ということを、一貫して語ってきました。
そのことが、先週はあまり十分な仕方ではお話しできなかった、5・1にも繰り返されていました。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。」
そしてまた、先週は「分からない、分からない」の一点張りで押し通して読み流してしまいました4・21~31にも、最後に「要するに」と、パウロ自身が自分の語ってきたことを要約している個所がありました。「要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」
ここから読み取ることができる、一つのことがあります。それは、パウロが「自由な身の女」と呼んでいるのは、じつは、イエス・キリストのことである、ということです。
もちろん、聖書を読むかぎり、イエスさまは女性ではなく、男性としてお生まれになりました。しかし、これは例え話です。男性であるイエスさまを「母親」として例えることには、いくらか違和感があるかもしれませんが、このあたりはあまり気にしないことです。
むしろ、ここで大切なことは、自由な母から生まれた者が、自由な子どもと呼ばれるのである、ということです。
自由な母が、自分の子どもを自由な人間に育てるのです。
自由な母は、自分自身が自由になったことを心から喜んでいるゆえに、自分の子どもがかつて自分が経験した不自由な人生に戻っていくことを、黙って見ていられないのです。
そして、もちろん、そのようなことを黙って見ていられないのは、キリスト者の産みの親であるイエス・キリストご自身だけではありません。いわば育ての親であるパウロも、黙って見ていられません。だから、パウロも言います。「だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」
そして、もちろん、それはパウロだけの話でもありません。この点については、わたしたち自身も、同じです。最近ちまたで「ビフォー・アフター」という言葉を聞くことがあります。わたしたちにも、「ビフォー・アフター」があると思います。キリスト者になる「前」と「後」です。
ほとんど何も変わっていないようだ、とお感じになる方も、おられるかもしれません。もちろん、「違い」ばかりを無理に強調する必要はありません。
しかし、もし思い出していただけるものならば、ぜひ思い出していただきたいのです。おそらく、わたしたちのうちの多くは、「キリスト者になること」のために、激しい戦いや葛藤、あるいはまた、悶絶するような苦しみを味わい、しかし、それをたしかに勝ち取ってきた、という体験をしてきたのです。
わたしは、この松戸小金原教会に4月に転任させていただいて間もなくして、教会員の皆さんのお宅に訪問させていただきました。この秋には、客員や求道者の方々のお宅にも参りたいと願っておりますが、思うように事が運ばず、申し訳ない思いで一杯です。どうか、もう少しお待ちいただきたいと願っております。
しかし、まずは、教会員の皆さんのお宅に訪問させていただけましたことを、今は本当に良かった、と感じております。それは、やはり、皆さんの「生(なま)の声」を直接聞くことができたからです。いろいろな証しや、教会に対する思い、そして、率直なご意見を聞くことができました。
もちろん、皆さんからお話しいただいたことの多くは、わたしの胸の内にしまっておかなければならないことばかりです。しかし、本当にどなたも、率直に語ってくださいました。
そして、やはり、その中でとくに、皆さん自身が「キリスト者になること」のために、じつにさまざまな戦いや葛藤、痛みや苦しみを体験してこられた、しかし、それをたしかに勝ち取ってこられたことを、伺うことができたのです。
そして、まさにどなたからも伺うことができたことは、(神さまの前で証言いたしますが)、キリスト者になったこと、教会の交わりに加えられたことは本当に良かった、という喜びと感謝のお言葉でした。これは素晴らしいことです。
自分の人生そのもの、そして教会生活、信仰生活というものを、心から喜び、感謝することができる、というのは、素晴らしいことです。そうではないでしょうか。
そして、残念ながら、というべきでしょうか。わたしたちの人生には、少なくとも過去において、この人生そのものを、喜ぶことがも受け入れることもできなかった頃、というのが、たしかにあったのです。「ビフォー・アフター」の「ビフォー」です。
そんな昔のことは忘れた、と言われるかもしれません。しかし、おそらく、わたしたちは、このわたしの人生を十分な意味で喜ぶことができなかったのです。感謝をもって受け入れることができなかったのです。
ところが、まさにある日あるとき、たしかに何かが変わった。それ以前の生活との訣別といいますか、踏ん切りといいますか、新しい出発というべきものを、体験されたのです。
もちろん、わたし自身にも、そのような体験がありました。ただし、わたしの場合は、クリスチャンホーム育ちですので、キリスト者になる「前」(ビフォー)ということを、十分な意味で認識することができません。
しかし、ある日あるとき、救い主イエス・キリストというお方を、それ以前とは違った仕方で確信をもって受け入れることができたときのことを覚えています。そしてまた、「イエス・キリストを信じる信仰によって、自分の罪が赦された」ということを、真実として深く受け入れることができたときのことを覚えています。
そのような者として、わたしにも、パウロと同じ言葉を語る資格があると思っています。「だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。
元の木阿弥になってはならない。後ろを振り向いて、後ずさりしてはならないのです。
自動車で、今来たその道を戻っていくことを「逆走」といいます。逆走は、道路交通法違反の現行犯で逮捕されなければなりません。逆走は、いけません。後ろではなく、前に進んでいかなければなりません。
わたしたちに今すでに与えられている、救い主イエス・キリストを信じて生きる人生を、心から受け入れて、喜びと希望をもって、前に進んでいきたい。そのように願うものです。
パウロは、今日開いていただいた5・2以下にも繰り返し、キリスト者になった者たちは、もはや、割礼というものを受ける必要はない、ということを強調して語っております。
最初の2節に、「わたしパウロはあなたがたに断言します」とあります。3節にも「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います」とあります。
もっとも、ここで「断言します」とか「はっきり言います」というのは日本語としての翻訳上の強調であって、実際はそれほどのことが書かれているわけではない、と言えなくもないのですが、パウロの気持ちは、このとおりである、と言ってよいでしょう。
パウロは何を「断言し」、何を「もう一度はっきり言う」のか、といいますと、キリスト者になった者たちは割礼を受けるべきではない、ということです。
そして、パウロは「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」とまで言っています。口語訳聖書では「キリストはあなたがたに用のないものになろう」と訳されていました。さらに原意に即して訳すなら、「その場合は、あなたがたにとってキリストは、価値を失うことになるだろう」ということです。
キリストが「役に立たない」とか「用のない」とか「価値を失う」とは、どういうことでしょうか。
理解できない話ではないと思います。新共同訳聖書にも「あなたがたにとって」という言葉が正しく訳し出されています。あなたがたにとって、ということが強調されなければなりません。
なぜ強調されなければならないかと言いますと、キリストが「役に立たない」し、「用がない」し、「価値がない」と感じるのは、あくまでも、わたしたち側の「感じ方」の問題だからです。たとえわたしたちがキリストからどのような感じを受けようと、キリストご自身の価値が失われるわけではない、ということも申し上げておく必要があります。
宝石でも、豪勢な家屋敷でも、立派な自動車でも、それ自体が持っている価値と、それをわたしたちが「これは価値あるものだ」と感じるかどうかは別の問題です。
これから申し上げる言葉は、突然聞くとドッキリする言葉ですが、イエスさまがお語りになり、聖書に記されている言葉ですので申し上げます。「真珠を豚に投げてはならない」(マタイによる福音書7・6)。
価値あるものを、その価値が分からない者に与えてはなりません、というイエスさまご自身の教えです。その続きにイエスさまが言われたことは、こうです。「それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」(マタイ7・6)。
しかし、問題は、なぜそうなのか、です。なぜ、すでにキリスト者であるものが割礼を受けると、その人自身にとってキリストは、「役に立たない」・「用のない」・「価値のない」ものになってしまうのでしょうか。
この問題は、わたしたちにとって、すぐに理解できるというほど簡単なものではないかもしれません。
といいますのは、ほとんど確実に言いうることは、わたしたち21世紀の日本でキリスト者である者たちが、「割礼を受けるべきかどうか」という問題で悩むことは、ほとんど無い、ということです。
ユダヤ教それ自体の影響が、日本の中にはあまり無い、と言いうる状況にあることも関係しています。たとえば、もし日本国内の至るところにユダヤ教のシナゴーグが立ち並んでいる、というような状況でもあるなら、「割礼を受けるべきかどうか」ということが、わたしたち自身の問題になるかもしれませんが、実際にそういうことはありません。
ですから、つい、このような個所を、わたしたちとはあまり関係ない他人事のように読み流してしまう可能性があるのです。
しかし、この点は考え置くとして、わたし自身、今日のこの説教の準備のために、パウロの言葉を繰り返し読みながら、ふと気づいたことがあります。それは6節の御言の中に書かれている一つの点です。
「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」
ここに、パウロは、はっきりと、「割礼の有無は問題ではなく」と書いています。これは別の読み方ができると思います。「問題は割礼の有無ではなく」、と。
つまり、今ここでパウロ自身が問題にしていることの中心にある事柄、核心的な事柄は「割礼を受けるべきかどうか」という問題そのものではないのだ、というふうにも読めるのです。
そうではなく、真の問題、本当の問題は、「愛の実践を伴う信仰があるかどうか」ということである、と。これが問題の核心である、と。
たしかに、「割礼を受けるべきかどうか」という問題は、今の日本では問題になりません。しかし、そのこと自体が問題ではない、と言われるなら、どうでしょうか。
「信仰があるかどうか」が問題である。「そこに愛の実践が伴っているかどうか」が問題である。こう言われるなら、わたしたちにも、他人事ではないでしょう。
「信仰がありますか。そして、愛がありますか」。
加えてパウロは「希望がありますか」と聞くかもしれません。さらに加えて「自由がありますか。そして、喜びがありますか」とも聞くかもしれません。
問われるのは、これらのことです。割礼は「問題にならない」のです。
(2004年10月3日、松戸小金原教会主日礼拝)
2004年9月26日日曜日
自由なる生の喜び
ガラテヤの信徒への手紙4・21~5・1
パウロが今日の個所に書いている内容は、もちろん、一つのたとえ話です。少し難しい言葉を使わせていただくなら、「寓喩」(アレゴリー)と言います。
寓喩とは、聖書の中に書かれてある言葉について、「じつは、これは、こういう裏の意味が隠されているのです」というような仕方で、全く予想もつかない意味を説明してみせるとか、あるいは、論理的には必ずしもつながりがあるとは思えないところに真意を見出す比喩の方法、というふうに説明できるかもしれません。
ところで、通常の場合、たとえ話というのは、一般的には分かりにくいことを、できるだけ分かりやすく説明するために用いられます。しかし、どうでしょうか。今日の個所のたとえ話についてのわたし自身の率直な印象は、これは非常に難しい、ということです。はっきり言えば、今日の個所に書いていることが、わたしには、さっぱり分かりません。
胸を張って言うようなことではないかもしれません。しかし、いくつかの聖書注解書に当たってみましたが、どの本を読みましても、十分に納得できるように解説してくれるものは見当たりませんでした。聖書には時々、このような個所が出てきます。
しかし、この期に及んで、そのようなことを言っている場合ではないのかもしれません。分からないなりに読んでいくうちに、少しくらいは分かる部分が見つかるかもしれません。今日の個所の最初にパウロが書いていることは、これです。
「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは律法の言うことに耳を貸さないのですか。」
これは、とりあえず何とか理解できるところでしょう。パウロは、「律法の下にいたいと思っている人たち」に向かって語りかけている、ということが分かります。
ここで「律法」は、特別な意味であると思われます。わたしたちは、聖書全体を指して「律法」と呼ぶことがあるからです。
しかし、ここで、パウロは、明らかに「律法の下にいたいと思っている人たち」を厳しく批判しています。もしここで言われている「律法」の意味が、わたしたちの持っているこの「聖書」のことだけであるならば、パウロもまた聖書の御言を宣べ伝える伝道者の一人であるわけですから、なんだか奇妙な話になってしまいます。「聖書の下にいたいと思っている人たち」が悪いのでしょうか。そんなことを、パウロが言うでしょうか。それはちょっと、ありえないことです。
むしろ、ここで「律法」とは、今日の個所の最後に出てくる「奴隷の軛」という意味で語られていると思われます。
「軛」というのは牛や馬の頸(くび)にかける横木のことです。「くび」にかける「木」だから「くびき」です。これを人間にもかけると「奴隷の軛」となります。総じて、自由を束縛する道具や手段を指します。しかし、今のわたしたちの国では奴隷制度というものは禁じられておりますので、「奴隷の軛」を実際に見たことがある人は少ないと思います。
それはともかく、ここでパウロが「律法」という言葉を「奴隷の軛」と全く同じ意味で使っていることは明らかです。しかし、そうであるならば、やはり、これは、わたしたちにとって非常に驚くべき言葉である、と言わなければなりません。聖書全体という意味でもありうる「律法」が、人の自由を奪う道具ともなりうる、とパウロは考えているのです。
しかし、わたしたちは、このことを、今開いておりますガラテヤの信徒への手紙の全体の文脈から全く切り離して考えることはできません。今日は、少しこれまでのおさらいをしておきたいと思います。
パウロは、この手紙をガラテヤ教会の人々に書き送りました。パウロは、ガラテヤ地方にしばらく滞在して福音を宣べ伝えたのち、別の地に移動し、新たな伝道を始めました。そのパウロが立ち去った後のガラテヤ教会の中に、「異なる福音」を宣べ伝える別の教師が現れ、その教師を支持するグループができてしまった、というわけです。
この教師が宣べ伝えた「異なる福音」の内容とは、一言で言って、「ユダヤ教的律法主義への回帰」というべきものでした。その人々は、ユダヤ人以外の異邦人たちが信仰を告白してキリスト者になることのために、洗礼を受けるだけでは足りない、と主張しました。旧約聖書に基づくユダヤ教の伝統である割礼をも受けなければならない、と言いはじめました。異邦人たちは、まずユダヤ人になりなさい。ユダヤ人になってから、キリスト者になりなさい、と言うのと同じことを、彼らは異邦人たちに強要したのです。
そして、そのような「ユダヤ教的律法主義」を強要する教師たちの主張に対して、事もあろうに、当時のキリスト教会の最高指導者であった使徒ペトロまでもが同調しはじめました。そこに至って、これは全くとんでもないことだ、とパウロは怒りをあらわにしたのです。
洗礼を受けるだけでは足りない、という主張は、今のわたしたちの時代にも、いろいろと形を変えて、装いを新たにして、登場いたします。
わたしたち松戸小金原教会の歴史を考えていく中で決して忘れることができない出来事として、いわゆる「異言問題」というのがありました。具体的なことを申し上げるのは控えます。わたしは当時のことを正確に知っているわけではありません。いろいろと差し出がましいことを語るのは、慎まなければなりません。
しかし、一般論として「異言問題」というのは、基本的・本質的なところで、ガラテヤ教会の問題に通じるところがあるのです。
まず最初に、その人々は「水の洗礼」を受けるだけでは足りないと語りはじめるのです。「聖霊の洗礼」を受けなければならない。「聖霊の洗礼」を受けた者たちは「異言」というものを語りはじめるのだ。異言を語ることができないのは「聖霊の洗礼」を受けていない証拠なのだ、というふうな話に、必ずなっていくのです。
そこで起こる大きな問題は、わたしたちがキリスト者であるためには、信仰を告白し、洗礼を受ける、ということだけでは足りないという理由から、それ以外のいろんな条件がたくさん加えられていく、ということです。洗礼を受けただけの「偽物のキリスト者」とそれ以上の何かを持った「本物のキリスト者」という二種類のキリスト者という考えが出てくるのです。そのようにして、「教会の敷居」が、どんどん高くなっていく、ということが起こるのです。
しかし、それは違うのではないか、というのが、パウロの立場であり、信仰そのものでした。人がキリスト者となるために、洗礼だけでは足りず、割礼も受けなければならない、と言われることは、異邦人のための伝道者であるパウロの立場からすれば、「伝道の障害」以外の何ものでもありませんでした。
パウロにとっては、わたしたちがキリスト者であるために求められる唯一の事柄は、わたしたちの救い主イエス・キリストを信じることだけである。「なんだかんだ」という条件は、一切排除されるべきである、ということであったわけです。
そのことを、しかし、パウロは、ただ単に自分の信念であるとか、主義・主張である、ということだけで語ることは許されませんでした。牧師・説教者・伝道者の仕事は、自分の主義・主張を語ることではありません。聖書の御言に基づいて、真理を語ることです。おそらく、そのために、パウロは、今日の個所のたとえ話を書いているのです。
「あなたがたは律法の言うことに耳を貸さないのですか」とあります。もちろんここでパウロが言いたいことは明らかです。律法の下にいたいと思っているあなたがた。あなたがたが頼りにしている律法そのものが、聖書そのものが、あなたがたの主義・主張の根拠そのものが、あなたがたの主義・主張を否定していますよ、ということを言いたいのです。
このようなパウロのやり方は、間違いなく、論争的なかたちを必然的にとらざるをえません。ピリピリ張り詰めた雰囲気の中での厳しい言葉の応酬になります。こういうのは、本当に嫌なことであり、できれば避けたいことです。
しかし、大いに学びうることもあります。それは、教会の中にいろんな問題が起こったときに、わたしたちにできることは、とにかく徹底的に「聖書そのものを読んでいくこと」以外には無いだろう、ということです。聖書にどう書いてあるか。聖書が教えていることは何か。このことに、わたしたちは、常に立ち返らなければなりません。
とはいえ、もちろん、パウロにとっても、わたしたち自身にとっても、論争相手として登場する人々自身も、「わたしたちも聖書に基づいている」というふうに、必ず言います。解釈の違いである、というところで終わってしまうことが、しばしばです。
しかし、わたしは、「それでもよい」と思うのです。それでもよいから、とにかく聖書を読みましょう。聖書には何が書かれているのかということを、みんなで一緒に学んでいきましょう。ここに問題解決の糸口がある、と信じることが、わたしたちに許されている道なのです。
そして、その上でさらに申し上げておきたいことは、このような「聖書」の用い方こそが、わたしたちにとって最もふさわしい、ということです。わたしたちは、聖書の内容について自由に論じあってよいし、分からないことは「分からない」と言ってよいのです。
反対に、最も正しくない聖書の用い方がある、と思います。それがまさに「律法主義」です。聖書の御言を「奴隷の軛」とすることです。聖書の御言に基づいていると称して、わたしたちがキリスト者であるためにイエス・キリストを信じる信仰を告白すること以外のいくつもの条件を加えていくことです。「ああしろ、こうしろ」と無理難題を次々に積み上げて行くことです。しかし、わたしたちは、もっと自由であってよいのです!
今日の個所について、わたしに語りうるのは、この程度のことです。パウロが語っているたとえ話そのものは、正しく理解することが本当に難しいと感じます。
「アブラハムの二人の息子」とは、女奴隷の子イシュマエルと正妻サラの子イサクとの二人のことです。しかし、この二人の息子のどちらがわたしたちであり、もう一方が誰である、というようなことが書かれているのですが、それはなぜなのか、とか、それをどのように説明すればよいのかなど、考えれば考えるほど、さっぱり分かりません。
しかし、幸いなことに、パウロはこのたとえ話をしめくくるに当たり、「要するに」と、一言で要約してくれています。こういうのが有難いと思います。
「要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な女から生まれた子なのです。この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」
キリスト者の人生は、全く自由な人生です。わたしたちの救い主イエス・キリストが、わたしたちを自由な身にしてくださったのです。
律法主義の罠に陥らないよう、お互いに気をつけたいと思います。
(2004年9月26日、松戸小金原教会主日礼拝)
2004年9月24日金曜日
TCIファン・ルーラー研究会講義録「A. ファン・ルーラーの聖霊論」
「A. ファン・ルーラーの聖霊論」 講師 関口 康
TCIファン・ルーラー研究会の歩み
日 程 2004年 9月〜原則毎月一回(12月は休会)午後7時〜9時
会 場 東京キリスト教学園バルナバホール(千葉県印西市内野3-301-5)
第一講(2004年 9月24日)
第1節 資料
第2節 それは「聖霊論的神学」ではない
第3節 相対的に自立した聖霊論の必要性
第二講(2004年10月29日)
第4節 聖霊論の根本概念としての「聖霊の内住」
第三講(2004年11月18日)
第5節 キリスト論的視点と聖霊論的視点との構造的差異(序)
第四講(2005年 1月27日)
第6節 キリスト論的視点と聖霊論的視点との構造的差異(1)
第五講(2005年 2月17日)
第7節 キリスト論的視点と聖霊論的視点との構造的差異(2)
第六講(2005年 4月予定)
第8節 キリスト論的視点と聖霊論的視点との構造的差異(3)
2004年9月19日日曜日
キリストのかたち
ガラテヤの信徒への手紙4・19~20
「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。」
パウロは、今日の個所に、たいへん印象的な言葉を記しております。
「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」以前広く用いられていた口語訳聖書では、次のように訳されていました。「あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。」
ほとんど変わっていない感じですが、細かく見ればいくらか違いもあり、どちらの訳にもそれなりの魅力があります。しかし、今日は細かい話をするつもりはありません。
ここでパウロが語っていることは、要するに何なのか。このような、ごく大づかみな話をしたいと願っています。
ここには、「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」、口語訳では「あなたがたの内にキリストの形ができるまで」、わたしは苦しんでいます、と書かれています。しかも、その苦しみは「産みの苦しみ」であると言われます。そして、その産みの苦しみを感じている「わたし」とは、もちろんパウロ自身のことです。
ここまでのところで明らかなことを、以下、三点にまとめておきます。
第一点は、パウロによると、イエス・キリストには「かたち」がある、ということです。
その「かたち」は、まさに「キリストのかたち」と呼ぶことができるほどの何かである。もちろん、それは目に見える「かたち」です。目に見えないものではありません。わたしたちの救い主は、目に見える「かたち」を持つ存在であられる、ということです。
第二点は、パウロによると、「キリストのかたち」ができる場所があるとしたら、それは「あなたがたの内」である、ということです。
ここで「あなたがた」とは、第一義的にはもちろん、ガラテヤ教会の人々です。しかし、彼らだけに限定される話ではありません。すべてのキリスト者の内に、「キリストのかたち」ができるのです。「心の内側に」というだけでは、おそらく足りないと思います。体の内側にも、わたしたち人間の存在そのものの内側にも、「キリストのかたち」ができるのです。
第三点は、パウロによると、「キリストのかたち」を「あなたがた」ガラテヤ教会の人々の「内」に形づくるのは、パウロ自身であるということです。
わたしが「産みの苦しみ」をする、と言っているのですから、そのように考えざるをえません。産みの苦しみというものを感じることができるのは、産む人だけです。産んだことがない人、産まない人が、産みの苦しみを感じることはありません。パウロが、ガラテヤ教会の人々の存在の内側に「キリストのかたち」を産むのです。それ以外のことを考えることはできません。
第一の、わたしたちの救い主イエス・キリストには、目に見えるかたちがある、という点から考えて行きたいと思います。まず、ここでパウロが言っている「かたち」の意味を考えます。
英語には「かたち」という意味の表現がいくつかあります。わたしたちが日常的によく使う言葉としてフォームとかスタイルとかタイプとかパターンなどがあります。「キリストのかたち」の場合はどれに当たるのか、と考えてみることもできるかもしれません。
しかし、わたしの答えは、どれか一つではなく、どれでもある、というものです。「キリストのフォーム」という意味もあるし、「キリストのスタイル」でもあるし、「キリストのタイプ」でもあるし、「キリストのパターン」でもあると申し上げておきます。
フォームとスタイルとタイプとパターンという四つの「かたち」を挙げました。これら四つに共通する点は、いずれも目に見えるものであるということです。その意味は、外面的ないし表面的な要素がある、ということです。自分だけが認識でき、他の人々には認識できないような、その意味で心の内側だけで表現しうるような「かたち」というよりも、むしろ、他の人々にこそ、第三者にこそ認識することができる外面的・表面的な「かたち」が、フォームであり、スタイルであり、タイプであり、パターンです。
もっと分かりやすく言い直す必要があるかもしれません。ここでわたしたちがぜひとも思い起こしたいことは、イエス・キリストというお方は、わたしたちと同じ人間の肉体を持っておられる神の御子である、という点です。この意味で、キリストは、わたしたちと全く同じ人間であられる、という点です。
わたしたちは、人間として、この地上の人生の中で、必ず、常に、ある種の「かたち」を持つ生活を送っています。砂を噛むような、とでも言うのでしょうか、大して面白くもない、ワンパターンな生活かもしれません。しかし、そうであっても、いえ、そうであるからこそ、わたしたちは、「パターン」という意味での「かたち」のある生活を送っていると語ることができるでしょう。
また、わたしたちは、人と付き合うときに、その相手をいろいろと分析しようとします。「あの人は、こういうタイプである。ああいう人に対しては、こういう付き合い方をしたほうがよい」というようなことを、必ず考えます。わたしたちは人から見ると、たいていの場合、どれかのタイプに属するようです。
そしてまた、わたしたちは、必ずや、何らかのスタイル、何らかのフォームを持つ生活をしています。この場合のスタイルとかフォームは、形式とか姿勢などの意味です。日本の中でわたしたちがキリスト者であるというとき、わたしたちは、明らかに、他の人とは少し違うスタイルやフォームを持つ生活を送っているはずです。日曜日には、朝早くから家を出て教会に行く。他の人々はそんなことをしていないようなことをしている。これは間違いなく、異なるスタイルないし異なるフォームを持つ生活です。
ここでパウロが「キリストのかたち」と呼んでいる場合の「かたち」の意味は、まさに今わたしが申し上げました外面的・表面的な意味でのフォームであり、スタイルであり、タイプであり、パターンであると説明することができます。
それは、別の言い方をするなら、新約聖書の最初に出てくる四つの福音書が描き出しているイエス・キリストの地上のご生涯には、まさに外面的・表面的な意味でのフォームがあり、スタイルがあり、タイプがあり、パターンがあった、ということでもあります。
ユダヤ教の安息日は土曜日ですから、みんなが会堂に集まるのは、土曜日です。そこでイエスさま御自身が、聖書の御言に基づいて説教をされる。また、イエスさまは説教だけをなさった方ではなく、もっと多くのことをされました。多くの人々と共に喜びを分かち合う、恵みに満たされた生活を送られました。
たとえば、そのようなイエスさまの人生そのもの、生き方そのものです。まさしくそのようなことを指して、今日の個所でパウロは「キリストのかたち」と呼んでいるのです。
ここで、第二の点に移ります。そのような「キリストのかたち」は、パウロによると、あなたがたの内に形づくられるものである、と言われます。これは、どういう意味でしょうか。
この文脈にあって、おそらく最も理解しやすいであろうと思われる表現は、「キリストの生活スタイル」という意味での「キリストのかたち」が、あなたがたの内にも形づくられる、という言い方です。
つまり、こういうことです。キリストの生活スタイルが、このわたしの生活スタイルになる。逆の言い方をするなら、このわたしの生活スタイルが、キリスト的な生活スタイルとなる。要するに、キリストに似たものになること、キリストの真似をすること、です。
十四世紀後半から十五世紀前半のドイツで活躍したローマ・カトリック教会の修道士であり、司祭にもなったトーマス・ア・ケンピスの名前は、日本でも多くの人々に知られています。この人の主著『キリストにならいて』(イミタチオ・クリスチ)の意味はキリストに似たものになることであり、キリストの真似をすることです。
イミタチオは、イミテーションの語源です。イミテーションというと、わたしたちは、すぐに「偽物」という言葉を思い浮かべてしまいます。しかし、トーマス・ア・ケンピスの場合のイミタチオは、決して悪い意味ではありません。良い意味で「真似すること」です。「まねび」とも言われます。しかも単なる真似でもありません。「信頼して服従すること」です。キリストの弟子になって、キリストの後ろからついて行くことです。
まさにこの「イミタチオ・クリスチ」、キリストの真似をし、キリストに似たものになること、そして、キリストの生活スタイルが、このわたしのものとなっていくこと、まさにこのことを、今日の個所でパウロが「キリストがあなたがたのうちに形づくられる」という言葉で、表現しているのです。
もちろん、ここに至って、改めて問うておきたいことは、はたして、わたしたち自身の生活スタイルは、本当に、キリストに似たものになっているだろうか、ということです。
それはかなり疑わしいと、きっと誰もが感じることでしょう。おそらくそれは感じてよいことですし、感じなければならないことであるとさえ言えるように思います。
その反対を考えてみるとよいのです。「わたしの生活は、キリストそっくりです」というようなことを、堂々と、胸を張って言い出す人がいるとしたら、どうでしょうか。「はたしてそれは本当のことだろうか」と疑う気持ちを、おそらく誰もが持つのではないでしょうか。
これは、ヒガミやヤッカミというような次元のことだけではありません。わたしの最も尊敬する一人の改革派神学者(A. ファン・ルーラー)が言っていることは、「キリストのかたち」の意味は、「謙遜であること」に他ならない、ということです。まことに神御自身の御子であられる方が、人となられた。ここに、キリストが示された謙遜、へりくだりの道があります。キリストに似ている、ということは、キリストと同じように謙遜であること、控えめであることに他ならないのです。
わたしはこの神学者の考えに、心から賛成します。そして、この意味で「わたしの生活は、キリストとそっくりです」と胸を張って言うことは、必ずしも「謙遜な態度」とはいえない場合がある、と申し上げておきたいのです。「キリストとそっくりです」と語るまさにそのことにおいて、キリストから最も遠ざかっている場合があるということを、覚えておかなければなりません。
そして、第三の点に移ります。パウロによると、あなたがたガラテヤ教会の人々の内にキリストのかたちを産み出すのは、他ならぬパウロ自身である。産みの苦しみを感じるのは、他ならぬパウロである、と言われている点です。
最初に触れましたように、新共同訳聖書では「わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」とありますが、以前の口語訳聖書では「わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」と訳されていました。「あなたがたを産む」というのと、「あなたがたの内なるキリストのかたちを産む」とでは意味の違いを感じます。
しかし、内容的には同じことです。パウロがそれを産み出すために苦しんでいるのは「あなたがたの内なるキリストのかたち」であることは、全く明白なことです。
しかし、ここで立ち止まって考えておきたいことがあります。それは、今さら、なぜ、それをパウロが産み出さなければならないのか、という点です。パウロはガラテヤ教会を離れた人間です。言ってみれば、その直接的な関係は終わっています。しかし、いまだに、なぜパウロが苦しまなければならないのか、という点です。
この問いに対して、分かりやすい答えは無いかもしれません。差し当たり、この場合の「キリストのかたち」の意味は、先ほどから申し上げているとおり、ガラテヤ教会の人々の生活スタイルがキリストに似ているものであるかどうかにかかっています。彼らの生活スタイルの中に以前にはあった「キリストのかたち」が今では見えなくなってしまった。このことに、パウロは責任を感じ、苦しんでいるのです。牧会者なら当然の悩みである、と言うべきでしょう。
「かたち」ということで、わたしの頭に思い浮かぶのは、プリンとかゼリーのようなものです。プリンやゼリーが「かたちあるもの」になるまでには、少しの間、じっとさせておく時間が必要です。しっかり固まらないうちに、ジャカジャカと、せっかちに動かしてはならないのです。みんな崩れてしまいます。すべてが台無しです。
わたしたちの内なる「キリストのかたち」ができる過程においては、牧師の果たすべき責任も大きいところです。一例だけ挙げておきますと、頻繁に牧師が交代しているような教会は、この「じっとしていること」が難しいと言えます。
パウロの場合も、同じでした。パウロが去った後のガラテヤ教会が乱れました。「異なる福音」を宣べ伝える教師とそのグループによって、かき乱されました。ガラテヤ教会は、できてまもない群れでした。産まれたばかりの赤ちゃんでした。しかし、せっかくパウロが宣べ伝えた福音と、ガラテヤ教会の人々の内に産まれてきた「キリストのかたち」が、ジャカジャカと動かす人々によって、崩れてしまったのです。
もう一度、あなたがたを産みたい。
あなたがたの内なる「キリストのかたち」を元通りに復元したい。
これが、パウロの切なる願いでした。
(2004年9月19日、松戸小金原教会主日礼拝)
2004年9月12日日曜日
人の弱さを担う善意
ガラテヤの信徒への手紙4・12~18
「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします」。
「あなたがたもわたしのようになってください」。これは、パウロの他のいくつかの手紙(一コリント4・16、11・1、フィリピ3・17、二テサロニケ3・7)にも出てくる「わたしのようになりなさい」とか「わたしに倣うものになりなさい」と全く同じ意味で書かれています。なんとなく自信過剰な人の言いそうなことだ、とお感じになるかもしれません。しかし、決してそういうことではありません、と申し上げておきます。
「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(4・7)と書かれていました。しかし、そのあなた、すなわち「神の子」とされたあなたが「なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」(4・9)と、パウロは問いました。その続きに「わたしのようになりなさい」と書かれているのです。
わたしは今や「神でない神々」の奴隷ではない。そのようなものの奴隷にはならないし、なりたくない。奴隷なんて、まっぴらだ。今、わたしは、全く自由の身である。あなたもわたしと同じように自由になったではないか。それなのに、なぜもう一度、逆戻りするのか。なぜ、不自由な人生に戻ろうとするのか。ぜひ、このわたしと一緒にこの自由を守り抜いて行きましょう。全く自由で喜びに満ちたこの人生を楽しみ続けましょう。どうか、わたしのように自由な者になってください。これがパウロの言葉の真意です。
ただし、これは、やはり、自分の生き方に自信や確信をもつことができる人だけが語りうる言葉である、ということは、おそらく事実です。今の時代、「自信たっぷり」というのは、あまり流行らないかもしれません。「人生いろいろ」と口を濁しておいたほうが無難かもしれません。しかし、真の神さまだけが与えてくださる自由なる人生は、わたしたちの大切な宝物です。それこそが、価値ある人生です。そのことを、できるだけ多くの人々に知っていただくことが、教会の伝道の目的です。
「あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました」。
ここでパウロは、自分自身とガラテヤ教会の人々との間で過去に起こった一つの出来事を回想しています。パウロがガラテヤ教会の人々と知り合った、そもそものきっかけは何であったか、という話です。
そのことをパウロは、「この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」と表現しています。弱くなったのは、パウロ自身の体です。彼の体が何かの病気に冒されたのです。そのことが「きっかけ」であると書いています。
おそらくパウロは伝道旅行の最中に病気にかかったのです。そして、休むためにガラテヤの町に立ち寄り、教会の人々に看病してもらったのです。そして、おそらく彼が看病してもらっている最中か、癒された後に、福音を宣べ伝えたのです。あなたがたガラテヤ教会の人々は、わたしパウロに対してとても親切にしてくださいました、と言っているのです。パウロは、彼らに心から感謝しているのです。
「わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあった」とあります。これはどういう意味でしょうか。
ここで「試練」とは、誘惑されるという意味です。何に誘惑されるのでしょうか。ここでも考えられることは、真の神の子になる前の生活、「神ではない神々」の奴隷として仕えていた頃の生き方に逆戻りしてしまうことへの誘惑ということです。しかし、そういうことが、実際にあるのでしょうか。
その方は、まだ元気に生きておられますので、名前は伏せておきます。わたしの親しい人(年配の方)が、あるとき言いました。「わたしの牧師が病気で死ぬことは、ありえない」。まるで、牧師が病気にかかってはならないかのようでした。
しかし、そういう信仰というのが実際にはありうるのだと思います。この世の中には、あまり堂々と病気にかかってはいけない人というのがいるように思います。「人を助けなければならない人が、人に助けられてはならない」と言われてしまう人々がいるでしょう。その人が病気で苦しんでいる姿を他の人に見られることは「証しにならない」とか「つまずきになる」と言われることが実際にはあるのだと思います。そういうのは間違っている、と言っても仕方がないのです。パウロは、ガラテヤの人々に看病してもらっていたとき、そのあたりのことを、とても気にしていた様子が伺えます。
しかし、彼らは、パウロのことを、さげすんだり、忌み嫌ったりしませんでした。それどころか、パウロのことを神の使いであるかのように、イエス・キリストであるかのように、受け入れることができました。パウロは、その日そのときの、ガラテヤ教会の人々の優しさ、温かさを忘れていません。
「あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。」
パウロの病気は何だったのかということが、しばしば問題になります。その答えの根拠として引き合いに出される個所の一つが、ここです。
ガラテヤ教会の人々は、自分の目をえぐり出してもパウロに与えようとした。それくらいに、彼らは、パウロのことを大切な存在として扱った、ということです。しかし、ここに「目」ということが書かれていますので、パウロの病気は、おそらく目の病気であったに違いない、と言われるのです。
ただし、これは決定的な答えではありません。いくつかの説のうちの一つにすぎません。
もう一つ、しばしば引き合いに出されるのはコリントの信徒への手紙二12・7の「わたしの身に一つのとげが与えられました」という言葉です。「目にとげがささった」と、無理に関連づける必要はないでしょう。「とげのごとく刺すような痛み」であると説明されます。神経痛のようなものではないかとか、精神的な原因から来るものではないかと説明する人もいます。
しかし、わたしは、とくに最近になって、だんだん分かってきたことがあります。それは、人の病気というものは、どこが悪いと一言で言えないほどに、複雑に絡み合っているというか、互いに関係しあっているらしい、ということです。
少し仕事をしすぎた。すると、目が疲れて、肩がこって、頭が痛くなって、背中も腰も痛くなって、足も痛くなって、そのうちお腹も痛くなって、熱も出てきて、ついに倒れてしまう。どこが悪いと、一言では言えないのです。
この機会に、いちおう、お話ししておきたいことがあります。
わたしの体の中には健康のバロメーターがあります。疲れてくると最初に痛くなるのが、3年前にヘルニアを発症した椎間板です。もちろん、目も肩などは、しょっちゅう痛んでいます。もう少し疲れてくると、13年前に発症した尿管結石が、ゴロゴロと活動を再開します。最後に親知らずが痛みはじめると、終わりです。抵抗力がだんだん無くなっていく様子がよく分かります。段階を踏んで、力尽きていきます。
16世紀スイスの宗教改革者カルヴァンも、病気で苦しんだ一人です。
カルヴァンは55才で亡くなりました。ものの本によりますと、カルヴァンは主著『キリスト教綱要』の初版を書いていた頃、「一睡もせずに夜を徹し、昼も食事をしないくらいに勉強に精出して」いたそうです(ベノア著『ジァン・カルヴァン』森井真訳、日本基督教団出版部、1955年、32ページ)。そして、晩年のカルヴァンは「偏頭痛と胃痛と肺結核、尿路結石、神経痛」を患っていたと言われます(久米あつみ著『カルヴァン』講談社、192ページ)。
先ほど、パウロが「わたしのようになりなさい」と言っていました。しかし、それは、わたしのように病気になりなさい、という意味ではありません。また、わたしたち改革派教会の者たちはカルヴァンを尊敬しますが、病気の数や種類まで、カルヴァンをみならうべきではありません。そういうことではないのです。
しかし、実際には、悲しいかな、牧師とか伝道者とか神学者などと呼ばれる人々の中に、考えられないほどの数や種類の病気を患ってしまう人々がいることも事実です。
とはいえ、わたしは、自分の不摂生の言い訳のようなことは言いたくありませんし、同僚の牧師たちをかばうようなこともしたくありませんし、そんなことはすべきではない、と思っております。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございませんと、謝罪したい気持ちがあるだけです。本当に、ただ申し訳ございません。
しかし、実際には、そういうときには本当に、教会だけが頼りです。わたしの話をしているわけではありません。パウロの話です。パウロが重い病気にかかったとき、心を尽くして優しく看病し、祈りをもって支えた教会の人々がいたのです。「人の弱さを担う善意」を持っていた人々がいたのです!
「すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵になったのですか。あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。」
ガラテヤ教会の人々の心は、パウロが去った後、パウロから離れて行きました。本当に悲しいことです。しかし、パウロの悲しみは、単なる感傷ではありません。
パウロが宣べ伝えた「福音の真理」から彼らが離れていくことを、パウロは悲しんだのです。
(2004年9月12日、松戸小金原教会主日礼拝)
2004年9月5日日曜日
なぜ逆戻りするのか
ガラテヤの信徒への手紙4・8~11
「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている。いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」。
ここでパウロが書いていることは、何でしょうか。最初に少し丁寧に、ゆっくりと分析してみたいと思います。
初めの文章に「あなたがたはかつて」とあり、次の文章に「しかし、今は」とあります。「あなたがた」とは、もちろんガラテヤ教会の人々のことです。「かつてのあなたがた」と「今のあなたがた」。まるで二種類のあなたがたがいるかのようです。
そして、明らかに言いうることは、二種類のあなたがたを区別するものは、彼らの人生の中で起こる時間の流れである、ということです。「過去のあなた」と「現在のあなた」とが区別されているのです。
どれくらいの時間が流れていたのでしょうか。5年くらいか、10年以上か。パウロは何も書いていません。時間の長さは、問題ではないのかもしれません。ここでパウロが問題にしていることは、「過去のあなた」と「現在のあなた」とでは、明らかに違いがある、ということです。
「過去のあなた」は、神を知らずに生きていた。しかし、「現在のあなた」は神を知っている。ここに大きな違いがある。パウロの言葉をさっと読むと、とりあえずこんな感じになると思います。しかし、続けて「いや、むしろ神に知られている」とも書かれています。これは何でしょうか。この問題は、少しあとで取り扱います。
それより前に扱っておきたい第一の問題は、「神を知らなかった過去のあなた」と「神を知っている現在のあなた」とでは、たしかに大きな違いがある、ということです。
「神を知っている」ということで思い浮かぶのは、神についての知識とか、その知識を身につけるための勉強、というようなことでしょう。「教会でも勉強しなければならないのか。勉強するのは学校である。教会は学校なのか」と思われるかもしれませんし、実際にそのように問われることがあります。
しかし、事実はそのとおりです。おそらくわれわれの多くが洗礼を受ける前に参加したでありましょう「受洗準備会」とか「求道者会」などと呼ばれる時間に行われることは、ひたすら勉強です。教会には学校的な面があります。わたしたちは、教会で、神について勉強しなければならないのです。
しかし、です。ここで、ちょっとだけ、ケンカ腰っぽい言い方をさせていただきます。
はたして、わたしたちは、教会で、どのくらい神について勉強したことがあるでしょうか。「毎週の礼拝も、聖書の勉強の時間である」と言えば、そのとおりです。しかし、時間は短いと思います。受験生と同じくらい、長い時間をかけて、まさに徹夜で、猛勉強をしたことがあるでしょうか。「しました」という方がおられるかもしれません。しかし、どれくらい分かったでしょうか。わたしたちは、神について、何を、どれくらい知っているのでしょうか。「全部分かりました」という方がおられるかもしれません。しかし、それは本当でしょうか。
こういうところに引き合いに出されると、ご本人は嫌がると思いますが、わたしが今、心から尊敬している先輩教師の一人は、神戸改革派神学校の校長をしておられる牧田吉和先生です。つい先々週、同じ研究会でご一緒しました。
この先生は本当によく勉強される方です。若い頃、ドイツとオランダに5年間留学してこられたご経験をお持ちです。今は60才を越えておられます。にもかかわらず、今でも毎日のように朝早くから夜遅くまで、辞書と首っ引きで猛勉強を続けておられます。
しかし、そのような先生が、先々週お会いした折にも頻りにおっしゃっていたことが「分からん、分からん」ということでした。「先生が分からないのに、なぜわたしたちに分かるのですか」と言いたくなるほどでした。牧田先生に限って、「わたしはすべてを知っている」というような顔や態度を見たことがないのです。
もちろん、牧田先生はたいへん謙遜な方である、ということも事実です。だからこそ、多くの尊敬を集めておられます。しかし、これは牧田先生お一人の話ではないでしょう。おそらくわたしたちのすべて、まさにすべての人間は、完全な意味で「神を知っている」と語ることができないのです。
そこで注目していただきたいのは9節です。「しかし、今は神を知っている。いや、むしろ神から知られている」。先ほど「少しあとで扱います」とお断りしました「神から知られている」とはどういう意味であるか、という今日の第二の問題を考えたいのです。
ご覧いただけばお分かりのとおり、ここでパウロは、最初に「あなたがたは神を知っている」と書き、「いや、むしろ」と続け、その後すぐに「あなたがたは神から知られている」と言い換えています。原文でも、このとおりになっています。「いや、むしろ」(マーロン)という言葉がはっきりと書かれています。英語のratherです。敷衍しながら意訳するとしたら、「よりよく語るとしたら」とか「もっとふさわしい言い方をするとしたら」というふうに訳すことができます。
パウロによるこの言い換えの意図は、明らかです。
思い浮かべていただきたいのです。パウロは、この手紙の、この個所の文章を書いています。「かつてのあなたがたは神を知らずに生きていた。しかし、今のあなたがたは、神を知っている」と、ここまで書きました。しかし、そこで筆が止まってしまった。「いや、むしろ」(マーロン)と続けたくなった。そのときパウロは、「神を知らなかった過去のあなた」と「神を知っている現在のあなた」との対比を描くだけでは、満足できないものを感じてしまったのです。
「いや、むしろ」、よりよく語るとしたら、もっとふさわしい言い方をするとしたら、「あなたがたは神から知られている」と書かなければならないのだ。このように、パウロは感じてしまったのです。
なるほど、確かなことは、「神を知っている」ということと、「神から知られている」ということとでは、全く正反対の方向を向いている、ということです。
わたしたちは、もちろん、神を知らなければなりません。神を知るために、神について勉強しなければなりません。このことも確かな真実です。
しかし、ここで付け加えなければならないことがあります。それはパウロの言葉どおり、「いや、むしろ」(マーロン)です。「もっとふさわしい言葉で語るならば」です。ありのままのわたしたちは「神から知られている」と語ることができるだけである、ということです。
そして、このことは、「神から知られている」ということは、だれにでも、はっきりと、遠慮なく、躊躇なく、大胆に、自信をもって語ることができます。
ただし、「だれにでも」という意味は「洗礼を受けている者ならば、だれにでも」ということです。洗礼を受けていないならば、このようなことを自信をもって語ることは難しいと思います。
すでに学んだとおり、このガラテヤの信徒への手紙の3・26以下に、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と書かれていました。「洗礼を受けること」と「キリストに結ばれること」とが、まさに一つのこととして語られていました。
洗礼は、結婚にたとえられるものです。「洗礼とは、キリストと結婚することである」と言い切っても構わないほどです。
しかも、神が(キリストを通して)わたしたちを知りたもう、と語られるときの「知る」の意味は、単なる「知識」ではありえません。神は何でもご存じの方ですから、「わたしたちを知る知識」という言い方は、変です。むしろ、ここでこそ、創世記4・1に出てくる「アダムは妻エバを知った」という場合の「知る」を思い浮かべるべきです。それは結婚関係、あるいは結婚的な関係において「愛しあう」という意味です。
洗礼を受けるとは、まさにそういうことです。「神がこのわたしを愛してくださっている」ということを知ることです。神とこのわたしが結婚関係、ないし結婚的な関係を結ぶことです。まさしくそのとおり、「神を知る」とは「わたしが神を愛すること」です。「神から知られる」とは「神がわたしを愛してくださること」です。
ですから、今日の個所のパウロの言葉は、次のように言い換えることができるでしょう。「あなたがたはかつて、神を愛していませんでした。もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を愛している。いや、むしろ、神から愛されている」。
はっと気づかされることがありました。ああそうか、と深く納得するものを感じました。それは、「神を愛する」という意味の「神を知る」という言葉は、「もともと神でない神々に奴隷として仕えること」ということの反対の意味で使われているに違いない、ということです。
もっと短く言い直します。「愛すること」の反対が「奴隷として仕えること」である、ということです。
「奴隷として仕えること」は「隷属する」とも言い直せるでしょう。しかし、実際的に考えると、「隷属」の実態は「させられること」でしょう。強制的に引きずり回されることでしょう。
むりやり引きずり回されることを自ら好む人もいるのでしょうか。人それぞれである、と言われたら、それまでです。しかし、それはまさか「愛」ではないでしょう。
愛のかたちはいろいろある、と言われたら、それまでです。しかし、奴隷として引きずりまわされる関係と、愛の関係は、全く異なるものです。
このことを、ガラテヤ教会の人々は、よく知っていました。そのことを彼らがよく知っている、ということを、パウロはよく知っていました。だからこそ、パウロは、彼らに、そのことを何とかして思い出させようとして、この手紙を書いているのです。
あなたがたは「神から知られている」、すなわち「神から愛されている」者になったではないか。神を愛し、神から愛される関係、神との結婚関係、すなわち洗礼を受けて、教会のメンバーに加わる、という神との契約関係に入ったではないか。もはや、すでに結婚の関係は、成立しているではないか。
それなのに、です。
あなたがたは「なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」とパウロは続けています。
そして、こうも言っています。「あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」。
ここでパウロが告白している「心配」を、わたしたちは、文字どおり受けとるべきです。
パウロも牧師の一人です。おそらく牧師ならばだれでも、教会から離れようとしている人がいるとか、信仰を捨てようとしている人がいるとか、そしてもちろん神から離れようととしている人がいたら、間違いなく、まさにここでパウロが書いている意味での「心配」をするでしょう。「うるさい」とか「わたしの勝手でしょ」とか「お節介を焼かないでもらいたい」と思われることを覚悟しながら、「心配」いたします。この意味での「心配」をしないような牧師は、如何なものか、と思います。もちろん、牧師だけではなく、教会全体が「心配」します。
しかし、その「心配」の中心にあるものを、ぜひ理解していただきたいのです。
あなたの非を責めているのではありません。「神の愛」から離れて生きようとするあなたの人生の行く末を「心配」しているのです。「無力で頼りないもの」へと逆戻りすることは、あなたにとって何の益にもならない、ということを「心配」しているのです。礼拝の出席者が減ると困る、というような次元の話をしているのではないのです。
まことの神だけが、あなたを自由にし、まことの喜びで満たしてくださるのです。
(2004年9月5日、松戸小金原教会主日礼拝)
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