2017年5月22日月曜日

「キリスト教学は道徳科目ではない」かどうかを考えてみた

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高校は義務教育ではないものの学習指導要領の拘束下にある点で小中学校と状況が酷似していると思いますが、現時点ではまだキリスト教学校の小中の「道徳」、高校の「倫理」は「聖書」で代替しうるという文科省のお墨付き(良いことか悪いことかはともかく)がありますが、これをめぐる議論はあります。

だけど言うまでもないことですが「聖書」でセンター試験は受けられないし、神学部以外の受験には無関係なので、大学受験を志す生徒にとっては有害無益な無駄時間と化す。それに「聖書」で代替することで「道徳」も「倫理」も教えず学ばず、高校でプラトンの名前もカントの名前も聞かず大学受験となる。

「そんなもんだろ今の高校生なんて」と見下げたことを言い出す人たちもいると思いますが、私などはそういう風潮に「抗し」たいクチなので、高校以下の「聖書」の授業に文科省が教えたがっている「道徳」や「倫理」の要素をできるだけ取り入れるほうがより多く有意味的な授業になるだろうと考えます。

それで、私と似たことを考える教員がどれほどいるかは分かりませんが、少なくない気がします。高校以下の「聖書」の授業までそんな感じで来て、キリスト者推薦や指定校推薦を含む形でキリスト教大学に入学して「キリスト教学は道徳・倫理の科目ではない」と言われると面食らう学生が出てくるかもしれません。

トレルチに言わせると、倫理学は「宗教学がその枠組のなかに組み込まれている上位の最も原理的な学問」だそうです(邦語著作集3巻112頁)。die Ethik die übergeordnete und prinzipiellste Wissenschaft ist, in deren Rahmen die Religionswissenschaft sich einfügt (G.S.2,1922,553)です。

このトレルチの「倫理学」の定義の中の「宗教学」に「キリスト教学」は含まれるものと思われますので、トレルチに言わせれば「キリスト教学」は、より上位の学問としての「宗教学」の一部であり、かつ最上位の学問としての「倫理学」の一部であるということになります。この定義を教会で言うのはまずいですが、学校現場では通用すると私は考えています。

私は聖書学の範疇にカウントされると理解していますが、川島貞雄先生がお訳しになったNTD聖書注解補遺4巻のH.-D.ヴェントラント著『新約聖書の倫理』(日本基督教団出版局、1974年)がありますよね。難しくて私は読みこなせないのですが、大学の「キリスト教学」で用いる価値は十分かと。

私の感覚では道徳というか倫理というか「倫理学」というか、いずれにせよ「人間の生き方を問う学」の要素が、高校以下の聖書の授業なり大学の「キリスト教学」なりから抜け落ちることはたぶんないと思っていますし、ないとつまらないと思っています。

だって「自分の生き方と関係のある話」にしか興味を持たないでしょう、「要するにどう生きりゃいいんだよ」と悩んでいる年代としては。私の勝手な思い込みかもしれませんが。

まあでも、かく言う私も「キリスト教学は倫理学の一部である」とか「倫理学の下位学問である」とか言われるといい気持ちがしないところも無きにしも非ずです。「ちがわい!」と反発したくなります。こちとら神の啓示を扱うのであって、人さまの生き方などどうでもいいわいと(いやそこまでは)。

しかし、ここから先はEKK聖書注解のコンセプトの「影響史」の話ではないかと。聖書解釈に歴史があり、過去の各時代にいろんな読み方がなされ、人間の行為規範にされた。それを時系列でとらえる。過去を無視しないで。

でもそれは、現代の文献学の視点に立てば、未発見の写本とか間違った聖書翻訳等に基づく「聖書誤解史」だったかもしれませんよね。それも私は否定しませんよ。トマスもルターもカルヴァンもウェスレーも誤解の神学者。二千年の教会も聖書誤解の上に立つ砂上の楼閣。あえて言えばそうなるかもしれません。

まあでも、どうなんでしょう。大学や高校以下の純粋にアカデミックな場で「キリスト教学」を営む場合、二千年の教会史を完全にスキップすることは可能かもしれないし、むしろ歓迎されさえするかもしれませんが、それはそれでラディカルすぎませんかね。

二千年の教会史は、「影響史」の観点からすれば聖書解釈史でもあるし、もしかしたら不完全な神の啓示が、とりあえず地上に着地し、人間に聞き取られ、人間の行為規範とされ、教会という難物を生み出し続けてきた一種の「倫理史」ではあるわけですよね。それは学問(勉強)でしかとらえられないと思います。

トレルチのエンチュクロペディーの全貌が明らかにされている文献があるかどうかは残念ながら存じませんが、彼が「倫理学」における「宗教学」における「キリスト教学」という位置づけを主張したのは、私見によれば、というか、私の師匠や同僚と共有する見方によれば、トレルチの「保守主義」ゆえです。

すべて私の言葉で書きますが、ベルリン大学哲学部教授になった元ハイデルベルク大学神学部教授トレルチには、フランス革命後の「世俗化=脱教会化」の時代のヨーロッパ最高峰のベルリン大学の中に「どうしたら神学的思索の場を残すことができるか」という内的心理的葛藤と外的政治的闘争がありました。

それで「かろうじて」見出した場、それが「倫理学」における「宗教学」における「キリスト教学」という位置づけだと私は理解しています。この位置づけの生存権まで奪われれば、少なくとも国家予算によって運営される「国立」大学の中で「キリスト教」を「学問として扱う」権利は喪失したことでしょう。

トレルチの「倫理学」における「宗教学」における「キリスト教学」という位置づけの図式は、これも私見ですが、現在の日本の文科省が認定する高校「倫理」教科書に事実上採用されています。それは偶然ではないと思います。なぜなら高校倫理著者陣の「主流派」が東大卒業生であることは明白だからです。

卒業生でも何でもない私が東大を云々する資格は皆無であることなどは重々承知していますが、あの大学のある時期のマックス・ヴェーバーの位置づけは比類なきものだったと思われ、ヴェーバーは友人トレルチから多くのことを学んだし、互いに影響し合っていた関係であるという実際のつながりがあります。

そういうわけで、最初の私の文中の「(トレルチの図式は)学校現場では通用すると私は考えています」の意味は、「日本の文部科学省の学習指導要領の拘束下にある(特に高等学校の)「倫理」の教科書が事実上トレルチの図式通りになっているという意味で、この図式は「使える」と思う、ということです。

その意味は、このトレルチの「倫理学」における「宗教学」における「キリスト教学」という図式がかろうじてであれ確保されていさえすれば(それを失ってしまえば話は変わる)、日本の公立学校の中で「キリスト教」を「学問」として「教育する」堂々たる権利を確保することができる、ということです。

それと、また考えたことですが、トレルチの基本図式が現実の学校教育課程の中で機能しているうちは「まだまし」だ、ということです。今の日本の大学で「倫理学部」を名乗るところを私は寡聞にして知りませんが、その代わりむしろ流行っているとさえ見えるのが「人間学部」とか「人間科学部」ですよね。

長いのでいえば「総合人間学部」とか「人間総合学部」とか「環境人間学部」とかでしょうか。これらがどれも、100年前のドイツでトレルチが考えた「最上位の原理的な学としての倫理学」と基本は同じです。失礼な言い方かもしれませんが、より目新しい言い方にして看板を掛けかえているだけだと思う。

その「人間学部」の中に「比較宗教学」があるなら宗教者の立場としては単純にありがたい。その中に「キリスト教学」も(also)かろうじてあり、かつそれを教える先生がしっかりアカデミックでありつつ、かつキリスト教に対して「ゆるやかに前向きの姿勢」でいていただけるなら、御の字中の御の字。

もしかして「教会的神学」のトレーニングを徹底的に受けてきた人であれば我々的にはラッキーという感じではないかと。しかし現実はそうならない。教会で洗礼を受ければ水のパワーで頭脳明晰になれるというならまだしも「教会的であること」と「アカデミックであること」を両立できる人は現実には希少。

そういう人材が確保できないので、キリスト教にアンチの人であろうと、宗教に無関心な人であろうと、採用の基準を満たしていれば雇う。それでも「学問的」でなければならないので、その水準を維持しながら「キリスト教学」を教えなければならない。それで歯止めが働くのではないかと。甘いでしょうか。

逆に「神学部」を名乗りながら中身が入れ替えられているほうが、私は問題だと思う。トレルチの図式でキリスト教の学問的地位を保護するほうが健全。どちらが「教会的」でどちらが「リベラル」かをあえて単純化すれば、トレルチの図式のほうが「教会的なもの」をプリミティヴな状態で守り抜けると思う。