国際説教学会紀要『説教研究』第4号(2002年) |
説教分析については、熱心な支持者の前では言いにくいが、「分析素」とか言い出す時点で終わっている。「分析素」なる概念さえ知らなかった過去の説教者の文章を色分けするなら問題ない。問題は、自分の説教が「分析素」で色分けされることを初めから意識した芝居がかった文章を書くようになることだ。
説教分析の問題について書くのは初めてである。30年沈黙してきたので、そろそろいいだろう。私の長年の問いは「ハイデルベルク説教分析理論」に絞られる。国際説教学会(ソキエタス・ホミレティカ)が2002年に発行した紀要『説教研究』(Studia Homiletica)第4号が私の手元にある。
その紀要の巻頭論文で、国際説教学会の会長であられたヘリット・イミンク先生が「ハイデルベルク説教分析理論」を短い言葉で批判しておられる。イミンク先生はオランダプロテスタント神学大学の実践神学教授。初代学長でもあられた。実践神学の世界的権威者である。ファン・ルーラーの研究者でもある。
イミンク先生が書いておられるのは、説教分析は重要だが「ハイデルベルクの方法」は採用しないということだ。欠点がある。「いつも同じ質問をもって説教に近づくこと」(you always approach the sermons with the same questions)であると。
その「いつも同じ質問」が、「ハイデルベルク説教分析理論」のいわゆる4つの分析素を指している。(三位一体の)神の言、聖書テキスト、説教者の関与、共同体と社会の状況の4つ。調査対象は「書かれた説教テキスト」で、調査目標は「その説教テキストは実際は(in fact)何を語っているか」。
なされる議論はたとえばこうだ。一見するとこの説教者はこの聖書箇所に基づいて真摯に説教しているようである。しかし我々の説教分析方法で厳密に精査してみると、実際は(in fact)この説教者が聖書の言葉を借りて自分の意見を述べているにすぎないことが白日の下に晒される、など。
最初に教えてもらったとき(おお、なんとちょうど30年前だ)は、よくできた分析方法だとは思った。しかし、なんとも腑に落ちなかった。うまく説明できないが、なんか変だ。その問いを20年近く抱えて悶々としていた。それで今から10年くらい前にイミンク先生の上記の文章に接して、謎が解けた。
イミンク先生の言葉をお借りすれば、彼らは「いつも同じ質問をもって」説教テキストを分析する。その質問が「4つの分析素」だ。色鉛筆で説教テキストを分析素別に4色に塗り分ける楽しいアクティヴラーニングまである。それのどこが問題か。「いつも同じ質問」なら「いつも同じ答え」だろうということだ。
学生時代に暗記ものが得意だったような優等生タイプの説教者にとっては、この宿題はいとも簡単だ。4つの分析素((三位一体の)神の言、聖書テキスト、説教者の関与、共同体と社会の状況)のところで必ずチェックが入ることを先読みできる。減点を免れ、見事なまでの模範答案を書き上げることができる。
しかし、説教とはそういうものなのか。私には疑問でならない。私が最初に書いたことの意味はそれだ。「いつも同じ質問」が出題されることがあらかじめ分かっている人は、自分の説教が「分析素」で色分けされることを初めから意識した芝居がかった文章を書くようになる。これは憶測で言っているのではない。
ご自分の説教テキストを「4つの分析素」で分析される調査対象として惜しみなく差し出すのをいとわない説教者を何人か知っている。その方々の説教テキストを読ませていただくと「説明」や「論理」を意図的に避けているのが容易に読み取れる。「心地よいフレーズの羅列」である。私には薄っぺらく感じる。
説教者自身の思索や葛藤についても「と私は考えました」「と私は悩みました」という仕方で説教テキストに書き込まれることは、全くないとは言えなくても、意図的に削り落とされているとは言える。説教テキストに書かれていなくてもアドリブで言っているのかもしれないが、それは分からない。
字として書いてあるか書いていないか、実際に言ったか言わなかったかはさほど大きな問題ではない。大きな問題は、説教者自身の思索や葛藤の要素は、完全に禁じられてはいないとしても、「4つの分析素」の中で下位に置かれ、どちらかといえば減点対象であり、削れば削るほど評価が高くなることである。
30年の沈黙を破って書いたので、ちょっと疲れた。ひとまず筆をおく(どこに筆が)。