関口 康(日本基督教団教師)
「そしてヨハネは証しした。『わたしは、〝霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、「〝霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が〝聖霊によって洗礼を授ける人である」とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
4月から9月まで月2回説教するようにというご依頼を千葉若葉教会の皆さまからいただきました。それでいろいろ考えまして、ある程度連続的な聖書の取り上げ方をするのをお許しいただこうと願うに至りました。ただし、「連続講解説教」というほど堅苦しいことは考えていません。「続きもののお話」というくらいです。それで選ばせていただきましたのがヨハネによる福音書です。
そして、先ほどは1章32節から34節を朗読していただきました。この箇所に登場するのはイエスさまに洗礼を授けたことで知られるバプテスマのヨハネです。「そしてヨハネは証しした」(32節)と記されています。このヨハネの「証し」のことを中心に、今日はお話しします。
「証しした」とは「証言した」という意味です。この言葉が多く用いられるのは裁判所の法廷です。原告側であれ被告側であれその場にいる人々が、被告人について「これこれこういう事実があります」と具体的な証拠をあげて「だからこの人は罪に定められるべきだ」「この人の罪は赦されるべきだ」「この人は無罪だ」などと主張することです。それが「証言」という意味での「証し」です。
その場合重要なのは、具体的な証拠をあげることです。証拠がなければ「証言」とは言えません。ただの思い込みや憶測にすぎません。そして、法廷で証言する人がもしそこで嘘をつけば、証言した人自身が偽証罪に問われ、罰を受けなければなりません。ですから「証言する」とは、虚偽ではなく真実を述べることを意味しますし、そうでなければなりません。
しかし、この「証し」には「証言」以外にも重要な意味があります。それは「信仰を告白する」という意味です。「信仰を告白すること」を意味するギリシア語の表現がこれしかないという意味ではありません。他の表現もあります。しかし、「証しする」という語に「信仰を告白する」という意味があるという事実が重要であると私は考えます。
なぜそう考えるのかといえば、両者に共通する要素があることが分かるからです。それがやはり、証拠・根拠・理由をあげて言うことです。そういうものが一切なく、ただ言い張るのとは違います。「信仰を告白すること」にも「証言すること」と同じように証拠・根拠・理由が必要なのです。
本当にそうでしょうか。そんなことを言われると困るとおっしゃる方がおられるかもしれません。「私の信仰には証拠も理由もない。ただ信じているだけだ。それで何が悪いのか」と。その気持ちは分かります。
だって、神を見たことがある人はひとりもいないのです。それはヨハネによる福音書の中に書いてあることです。「いまだかつて、神を見た者はいない」(1章18節)とはっきりと書かれています。それは二千年前も今も同じです。だとすれば、だれも見たことがない神さまを、だれが信じることができるというのでしょうか。「具体的な証拠をあげてください。嘘をつけば偽証罪に問われます」とまで言われると、どうしたらよいのでしょうか。
ヨハネは「証し」しました。それは「証言した」という意味です。そして同時に、それは「信仰を告白した」という意味でもあります。このときヨハネは「イエスさまこそ神の子である」という彼の信仰を初めて公に言い表したのです。ヨハネはこの日このときから新しい信仰生活を始めたのです。
「ええっ」と思われるかもしれません。私はこういう言い方をして本当に大丈夫なのでしょうか。
バプテスマのヨハネはイエスさまに洗礼を授けた人です。人間的観点から言えばヨハネはイエスさまの師匠です。年齢的な意味での先輩でもあります。そして、ヨハネはもちろん神を信じていました。十分な意味での信仰者でした。多くの弟子を持つ指導者でもありました。
そのヨハネについて、まるでこのとき初めて信仰生活を始めたかのように言うのは、名誉棄損であり、侮辱ではないでしょうか。
しかもヨハネはやはりだんぜん「先生」でした。みんながみんな同じではないかもしれませんが、かなり多くの「先生」は強いプライドを持っています。そうでなければ「先生」なんか務まらないという面もあります。
この文脈で私が自分のことを言うのはおこがましい限りですが、ほんの少しだけお許しください。前々からお話ししているとおり、私は高校を卒業してすぐに神学大学に入学し、卒業後すぐに牧師になりました。24歳から今年51歳までの27年、牧師をしてきました。
しかももう少し前があります。18歳まで神学大学に入学した最初の年、東京で神学生として奉仕した教会の日曜学校の教師になったときから、教会では「先生」と呼ばれ始めました。18歳で「先生」です。面映ゆかったことを覚えています。つまり私は18歳から51歳まで33年間「先生」をしてきました。人生の64パーセントです。
私自身がそんなふうに呼ばれたがっているわけではありません。しかし「先生」と呼ぶのを意図的に避けられていると感じるときはなんとも言えない気持ちになります。そういうときは私も「先生」であることに慣れ過ぎたかなと反省させられます。
ヨハネはどうだったでしょうか。もちろんまだ別の可能性は残っています。ヨハネにとってイエスさまは自分が洗礼を授けた、いわば自分の子どものような存在でした。年齢も後輩でした。しかし、いわば先生同士であり、同僚が増えたのだと考えることはできそうです。それならばヨハネも「先生」のままでイエスさまも「先生」であるという関係が維持できますので、ヨハネのプライドは傷つかずに済みます。
私は今、どうしてこんな話をしているのでしょうか。そんなことどうでもいいではないかと思われるかもしれません。しかし、今申し上げているようなことが今日の箇所で、あるいはヨハネによる福音書の中で、あるいは新約聖書の中で全く問題になっていないかというと、全くそうではないところがあるのです。どうでもいい話であるどころか大問題になっています。
たとえば1章24節以下はどうでしょうか。ファリサイ派の人々がヨハネにずいぶんずけずけと余計なことを言っています。
「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」。彼らはヨハネに、あなたは何の資格や権限があってそういうことをしているのですかと問うています。
ヨハネは次のように答えています。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人は、わたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(26~27節)。
これで分かるのは「あなたが先生かどうか」とか「あなたは誰の先生であり、だれの弟子なのか」とか、もっとはっきりいえば「あなたは誰の上で誰の下なのか」とかいうようなことは決して小さな問題ではなく、大問題だったということです。
順位とか、格付けとか、資格とか、そのようなことは本人が気にしていなくても、周りにいる多くの人にとっては興味津々であるということです。
だいたいどこでも同じです。人が2人3人集まってだれかのうわさを始めれば、たいていその話題になります。人事の話がいちばん盛り上がります。そして、その話題の参加者の心を支配しているのは「あの人は自分よりも上なのか下なのか」というような、競争心や劣等感に基づく関心です。
ヨハネはそういう感覚からすっかり解放されていたでしょうか。もしそうだったとすれば、ヨハネという人はものすごく謙遜で偉大な人だったと言えます。だってそんな人、そうそういないですから。
あるいは、それと同じ理由で、全く逆の方向でヨハネを悪く否定的に評価することも可能性としてありえます。ヨハネという人は、後輩に追い抜かれようと、ライバルに出し抜かれようと、全く気にならない人でした。この人はとっても変わり者で、この世離れしている、世捨て人でしたという評価になるかもしれないし、実際はその可能性のほうが高いわけです。
現実のヨハネがそうでした。彼はユダヤ教の「エッセネ派」に属する禁欲主義者でした。生活様式は「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べものとしていた」(マタイ3章4節)というものでした。
どのように生きようとすべては個人の自由です。差別してはいけません。しかし、当時のユダヤ社会の中でのヨハネの生活様式が、他の人とはかなり異質であったという意味で「特筆すべき」ものであったことは否定できません。
そういうわけですので、「ヨハネはそういう人だったのだ」と言って片付けてしまうことも可能かもしれません。そのような、風変わりでこの世離れした人がイエスさまのことを「その履物のひもを解く資格もない」とか言って尊敬し、「この方こそ神の子である」と言い始めたのだと。
つまり、ヨハネのようなそういう人だから、そういうことができたのだと。自分についての他人の評価など全く意に介さないし、プライドがないから競争もしない。そういうタイプの人だから、自分よりも若くて後輩のイエスさまに従うことができたのだと。そのような片付け方です。
私は今おかしなことを言っているように聞こえているかもしれません。しかし、実際にはよくある話です。「宗教を求める人だとか信仰の道を志す人だとかは、そもそもそういうこの世離れしていてプライドがない人たちなのだ。だからそういうことができるのだ」と。こういう話はよく耳にします。
実際のヨハネがどういう人だったのかは、ヨハネ自身に訊いてみなくては分かりません。私は今、いくつかの可能性を申し上げているだけです。しかし、私自身はもう少し違う次元のとらえ方をしているつもりです。とはいえ、それをどう説明すれば納得していただけるのかがよく分からないのです。
それは今日の箇所でまだ触れていないところです。ヨハネが「証し」したその内容そのものです。最も大事なところなのですが、どう説明すればいいのかがよく分からないので、後回しにしました。
それは「わたしは、〝霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(32節)と記されていることです。
もうひとつあります。「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『〝霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た」(33節)です。
これでヨハネは、私の証言は思い込みではないと言おうとしています。ヨハネを「遣わした方」とは「神」(1章6節)です。イエス・キリストの父なる神です。その方があらかじめヨハネにお告げになっていたことがそのとおり起こった。だから真実なのだと言おうとしています。
つまりヨハネの「証し」には2つの要素があるということです。第一は「イエスに聖霊が鳩のように降るのを見たこと」、そして第二は「そのようなことが起こるとあらかじめ告げられていたことがその通り起こったこと」です。
ちょっと待ってくださいよ、そんなことが「証拠」であるはずがないではありませんかと思われるかもしれないわけです。その疑問はある意味で当然です。
聖霊(?)が鳩のように降る(?)のが「どのように」見えた(?)のか。そもそも、聖霊は人の目に見えるものなのか。見えるというなら「どのように」見えるのか。
そして、そういうことが起こると「どのように」あらかじめ告げられた(?)のか、そのあたりを言ってもらわないと、なるほど確かに「証拠」ではありえないわけです。
ヨハネの「証し」の内容は信仰そのものです。つまり、彼の「信仰告白」の根拠は信仰なのです。それでは納得できないとお思いになる方はおられるでしょう。
しかし、ひとつだけ申し上げておけば、そのような疑問のすべては合理主義的な考え方です。物理的な現象しか「証拠」として認めないわけですから。しかし、わたしたちの現実はそのようなことだけで説明できるものではありません。多くの異なる次元の事柄があります。それをどう説明するかは本当に難しいことです。
「聖霊は鳩のように降ります!神のお告げはあります!」
私もそのように言い張っておきます。
(2017年5月21日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)