エーミル・ブルンナーの単行本(すべて日本語版) |
「正統主義はその守ろうとする聖書を変造するという逆説的な結果に至る」
(エーミル・ブルンナー Emil Brunner [1889-1966])
「懐かしい」とか言われそうだが、思い出話をしたいのではない。エーミル・ブルンナーの研究はもっとされるべきだ。教文館『ブルンナー著作集』全8巻が高価すぎて6、7、8巻だけ持っているが当然全部揃えたい。ただし過去の単行本をすべて収録する著作集でないのが残念。古い本はどれも崩壊寸前だ。
たとえばブルンナーはこう言う。「神の言と教理との同一視によって...ある特定の教会的教理の体系が...聖書における神の言と等置されたのであった。聖書は、ある所では非常に異なったまた矛盾にさえも満ちた多様性をもつ教理において我々に神の言を語っている、ということが単純に無視された」(ブルンナー『聖書の真理の性格 出会いとしての真理』弓削達訳、日本基督教青年会同盟、1940年、222-223頁)。
ブルンナーが言おうとしているのは、「逐語霊感説」への拒否と、ルター派や改革派などの諸教派の教理体系そのものと聖書の教理体系そのものを「等置」する立場への拒否である。
ブルンナーは続ける。「パウロの神学はヨハネの神学または共観福音書の神学と同じではないし、新約聖書の神学は旧約聖書の神学と同一ではなく、旧約聖書の中でも祭司の神学は預言者の神学と同じものではない。聖書をして、その固有の意味合いで発言させようとする者はそのことを知っている」(同上)。
これを認めない者は、21世紀の神学的状況の中では、もしいても少数だろう。しかし、ブルンナーの時代にはいた。「けれども、正統主義神学はそれを承認してはならないのである。であるから、正統主義神学は、教理のこの相違を無視するか、あるいは比喩的な解釈法によって除去せざるをえない」(同上)。
そして言う。「正しい信仰はこの一つの言は非常に異なった諸教理の中に示されているということを十分自由に認めなければならない。正しい信仰は神の言と教理とを決して同一視しないのである。ところが正統主義はこの区別を知らない。正統主義はその守ろうとする聖書を変造するという逆説的な結果に至る」(同上)。
このブルンナーの引用で私は何を言いたいか。ブルンナーは組織神学者であり、教義学者だった。20世紀に世界的に有名になり、日本の国際基督教大学(ICU)でも教えた。その人が聖書各書の多様性を十分認める発言をしている。ドグマティックでないドグマティック・セオロジアンだった。
こういう発言は無視されてはならない!教義学はまるで二千年の眠りの中にあるかのように、聖書各書の違いなどは一切無視する暴力を働き続ける存在であるかのように誤解され続けたくない!それはブルンナーがそう呼んだ「正統主義者」には当てはまるかもしれないが、全教義学に当てはまるわけではない!
ブルンナーといえばすぐにカール・バルトとの自然神学論争が思い起こされ、どちらが勝ったどちらが負けた、いや引き分けだ、そもそも噛み合っていなかったなど、たいてい勝負や格付けの話になって終わる。なんとも不幸で不当な扱いを受け続けてきた人である。新しい文脈で読み直されるべきではないか。
【注記】上記の弓削達訳からの引用の際、旧漢字・旧仮名遣いを新しいものへと書き換えさせていただいたことをお断りする。