カール・バルト『説教学』(Homiletik) |
私自身を含む、聖書のことばをある程度の長さずつに取り分けながら前から順々に解説していく「連続講解説教」を実践する説教者の多くが根拠にするのがカール・バルトの説教論であると思うが、そのやり方がよいとバルトが勧めている理由はかなりシンプルなものである。原文だと次のように記されている。
Bei diesem Modus stellt sich nicht so leicht die Gefahr ein, daß wir uns ausgepredigt und nichts mehr zu sagen haben. (K. Barth, Homiletik, 76)
日本語版だとこうだ。「説教したいことが尽きて、言うことがもうないという危険がはいりこむことは、こういうやり方では、そう簡単には起こらなくなる」(加藤常昭訳、1988年、122~123頁)。言い換えれば、このやり方でないかぎり説教者は同じ話を繰り返すばかりになるだろうということだ。
バルトがあげる理由はもうひとつある。順序はそちらが先である。So daß man sich also der Führung des Wortes überliese. (Barth, ebd.)「そうすることで、み言葉の導きに全く身を委ねるためである」(前掲、加藤訳、122頁)。
この理由も大事だが、バルトが2番目にあげている理由は、必ずすぐに切実な問題になる。しかし「連続講解説教」をする者たちはみな知っていることだが、つらいことがままある。「ここから何のよきものが出ようか」と頭を抱える聖書箇所は少なくない。そのときは説教者も、聴く人々も、苦しむ日となる。
それで「連続講解説教」だけでなくいわゆる「主題説教」や「聖書日課説教」を取り入れているという説教者はいるし、そもそも「連続講解説教」は全くしないと決めている説教者もいる。どういう説教をするかは各教会の伝統にもよる。これらのことを知らずに今私がこういうことを書いているわけではない。
今書こうとしているのは「ここから何のよきものが出ようか」と苦しむ聖書箇所がめぐってきたときのことだ。どうしようもないときがある。説教者の顔は暗いし、聴く人々の顔はもっと暗い。空気は重くどんよりしている。説教者として言いたいのは、そのときは説教者も逃げたい気持ちなのだということだ。
説教が終わり礼拝が終わって、みんなの顔がパアアと明るい日がある。「いい説教でした!」とほめてもらえる日もたまにある。そのたびに「いやいや説教が良かったのではなくて今日の聖書の箇所が良かったんですよ」と思うのだが、それは言わず「ありがとうございます!」とお礼だけ言うことにしている。