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日本基督教団青戸教会(東京都葛飾区青戸3-31-2) |
コリントの信徒への手紙二10章1~6節
関口 康(日本基督教団教師)
「さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」
青戸教会の皆さま、おはようございます。日本基督教団教師の関口康です。深沢教会の齋藤篤先生のご紹介により、青戸教会の主日礼拝で初めて説教させていただきます。よろしくお願いいたします。
初めてお会いする皆さまにどんなお話をしようかと考えましたが、すぐに心が定まりました。日本の教会が今こそ考えなければならないことは、一に伝道、二に伝道です。伝道についてお話しします。皆さんが元気になるような話をします。
それで開いていただきましたのが新約聖書のコリントの信徒への手紙二10章1節から6節までです。使徒パウロの手紙です。ここに書かれていることをわたしたちはよく読んで理解する必要があります。この箇所に書かれていることが、わたしたちの伝道の重要な突破口になるだろうと信じます。
本当にそれほどのことが書かれているでしょうか。そうであるかどうかを、これから見ていきます。1節に次のように記されています。
「さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います」。
新共同訳聖書はこのように訳されていますが、原文を読みますと、もう少し違った感じに訳すほうがよさそうです。この新共同訳聖書の文章は、原文の言葉の順序をかなり組み替えて訳しているからです。原文の順序に戻すと次のようになります。
「このわたしパウロが、あなたがたに願います。キリストの優しさと心の広さとをもって。あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強固な態度に出ると思われている」。
しかしこの訳はだいぶ硬い感じです。実際のパウロはもっと柔らかい優しい言い方をしています。そのように言える理由をこれから申し上げます。
原文では最初になっているのは「このわたしパウロが、あなたがたに願います」です。わたしたちがここで考えなければならないのは、いきなり難しい話になって申し訳ありませんが、ギリシア語の文法の話です。
神学校でギリシア語を勉強すると最初に必ず学ぶのは、ギリシア語の動詞は人称ごとに格変化するので、主語を省略しても文意は十分伝わる。だから、「わたし」とわざわざ書いている場合は強調があると考えなさい、ということです。
それはどういうことかといえば、今日の箇所にパウロが「このわたしパウロが」と書いているときに読者が考えるべきことは、著者パウロは「わたし」を強調しているということです。「他の誰でもなく、このわたしが」言っています。俺さま口調が入っているということです。
しかし、ここでパウロは「俺の言うことを聞け」と上から目線で押し付けるようなことを言いたいのではありません。むしろ逆です。正反対です。
ここでパウロが「このわたしパウロが、あなたがたに願います」と言っていることの意図は、自分が書いているのは、神の権威においてでもキリストの権威においてでもなく、あくまでもただのひとりの人間である私の個人的な意見にすぎない、という謙遜の意味です。
つまり、ここでパウロが「このわたし」をわざわざ強調して書いているのは、神とキリストの権威に基づく絶対的な命令ではありませんということです。押し付けられているなどと決して思わないでくださいという呼びかけでもあるということです。
そのことを言うために付け加えられているのが、原文では二番目の文章である「キリストの優しさと心の広さとをもって」です。その意味は、救い主イエス・キリストが優しい方であり心が広い方であることを思い起こしつつ、ということです。つまり「優しい」のはキリストです。「心が広い」のもキリストです。パウロが「俺さまは優しい」とか「俺さまは心が広い」と言っているわけではありません。
しかし、このあたりもわたしたちがよく考えなければならないところです。パウロが書いているのは「キリストの優しさ」であり「キリストの心の広さ」であって、パウロ自身の優しさでも心の広さでもありません。しかしだからといってパウロは、私自身は優しくもないし心が広くもないと言っているのかというと、それもなんだかおかしな言い方です。
私が愛用している聖書注解の中にオランダ語で書かれたものがあります。その著者の訳は「キリストの謙遜(zachtmoedigheid)と友情(vriendlijkheid)をもって」です(F. J. Pop, De tweede brief van Paulus aan de Corinthiers, De prediking van het Nieuwe Testament, 1962, 277)。
「謙遜」も「友情」も、キリストはそうであるが私はそうではないなどと言って済ませてよいことではなく、キリストを信じる者たちも学ぶべきだし、真似るべきことです。
そのことはパウロもよく分かっていました。だからこそパウロは、これはあくまでもわたしパウロがお願いしていることではあるが、「俺さまの言うことを聞け」と言いたいのではなく、キリストが示してくださった「優しさ」と「心の広さ」、あるいは「謙遜」と「友情」に自分自身も常に学び、真似しようとしている者のひとりとして、謹んで申し上げたい、と言っているのです。
そしてそれに続くのが、原文では三番目の文章である「あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている」です。これは私はいかにもパウロらしい彼の真骨頂を表す極めつけの一文だと思っています。
なぜ私はそう思うのでしょうか。この文章の中で誰もが目を引かれる衝撃の事実は「あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが」とパウロが書いていることでしょう。
ここで最も重要な言葉は「弱腰」(タペイノス)です。この言葉をギリシア語辞典で調べるといろいろ面白い訳が出てきます。単純に「弱い」という意味もありますが、「卑屈」とか「へつらう」とか「腰抜け」という意味もあります。ここでパウロが書いているのはどうやら後者の意味です。
そして、いずれにせよはっきりしているのは、これは人を軽蔑する言葉であるということです。ほめているのではありません。パウロは明らかに、貶されているのです。
しかも、誰から貶されているのかというと、これが大問題なのですが、悲しいことに教会の人々からです。キリスト教や教会のことが大嫌いな人々からではありません。教会に通っている人々です。キリスト者です。その人々からパウロは「弱い」だの「卑屈」だのと、あからさまに侮辱され、軽蔑されていたのです。
わたしたちならどうだろうかと、考えるほうがよさそうです。教会の牧師をつかまえて「弱い」だの「卑屈」だのさんざん言う方が皆さんの中におられるでしょうか。言っても構わないと思いますが。
しかし、立場を逆にして、軽蔑する側ではなく軽蔑される側になったときはどうでしょうか。皆さんはそれに耐えられるでしょうか。そういうことをよく考えてみる必要がありそうです。
ここでパウロが書いている「弱腰」と訳されているタペイノスという言葉の意味として「卑屈」とか「へつらう」とか「腰抜け」というのがあると申し上げました。それは肯定的な言い方をすれば、平身低頭を貫く謙遜な態度であるということです。
「平身低頭」とは、ひれ伏して頭を下げ、恐れ入ることです。それは良いことでしょう。しかし、それと全く同じ姿がパウロに対して批判的な人々の目から見れば「卑屈だ」「へつらっている」「へこへこしている」「腰抜けだ」「慇懃無礼だ」という否定的な評価にもなるということです。
ですから、今申し上げたように考えることができるなら、もしわたしたちがパウロと同じ立場なら、無視するのが最良の対応かもしれません。だって、人の評価というのは勝手気ままなものですから。謙遜な人をつかまえて卑屈だ腰抜けだと言いたい人には言わせておけばよい。そういう対応の仕方も十分ありえます。
しかし、パウロは無視しません。言い返してしまいます。炎上するタイプです。しかし問題はその返し方です。「やられたらやり返す。倍返しだ」というのもあるでしょう。パウロはどうでしょうか。
ここで大きく脱線するのをお許しいただきたいです。「腰抜け」という言葉で私が思い出すのは、30年前に世界的に大ヒットし、3部作になった映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」です。ご覧になっていない方には分からない話で申し訳ありません。
あの映画の主人公の名前がマーティー・マクフライと言ってマイケル・J. フォックスが演じましたが、その主人公の弱点が「腰抜け(チキン)」と人から言われることでした。
この言葉を聞くと頭に血が上り、冷静さを失って、自分が今しなければならないことを忘れ、それを言った相手を思いっ切りぶん殴ってしまい、取り返しのつかないことになって後悔するという、あの3部作の映画全体のキーワードでもありました。それが「腰抜け」でした。
その主人公のセリフとして有名になったのが、Nobody calls me chickenでした。日本語版の字幕や吹き替えは「だれもぼくを腰抜けと呼ばせない」でした。このセリフを言ってからマーティーは相手を思い切りぶん殴るというのが、ひとつのパターンでした。
パウロはどうだったでしょうか。今日は映画の話をしに来たわけではなく、聖書の話をしに来ました。今日の箇所にはっきりと書かれているのは、パウロは教会の人々から「あいつはチキンだ」と罵られていた、ということです。
このように言われると、どこかのスイッチが入って、頭に血が上り、相手をぶん殴ったでしょうか。どうもそうではなさそうです。むしろパウロは「腰抜け」呼ばわりされるのを喜んでいたようでさえあります。
本当にそうでしょうか。そうではない。2節以下を見なさい。「勇敢に立ち向かうつもりです」とか「そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています」とか、ずいぶんと強そうな言い方をしているではないか。彼はすっかり腹を立て、仕返しする気まんまんでいたのだという読み方もありうるかもしれません。
しかし、私にはそういうふうに読めません。もう時間がありませんので詳しい話はできませんが、ここでパウロが「勇敢に立ち向かう」と言っているのは、パウロは「肉に従って」(カタ・サルキ)生きていると誤解する人々に対してです。そうではなく私は「肉において」(エン・サルキ)生きているだけだと言っているだけです。
「肉に従って」生きるとは、肉の欲望のままに生きることです。それに対して「肉において」生きるとは、「肉体の中で」あるいは「肉体をまとって」生きる人間として、ありのままに生きることです。全く異なる2つのことを一緒くたにしないでほしい、と言っているだけです。
パウロは人間でした。「人間臭い」人でした。ある見方をすれば「腰抜け」でした。そう言われて無視するのではなくしっかり受けとめたうえで、腹を立てずに受け容れる人でした。自分が貶されることには大らかでした。自分の評価やプライドなどどうでもいいことでした。
パウロは神とキリストの権威に立っても語りました。そのことを否定するつもりはありません。しかしパウロは彼自身の言葉でも語りました。人間らしい、人間的な言葉でも語りました。その両面があったということです。それが大事です。こういうのを格闘技の用語で「二枚腰」と言います。
こういう人はどうでしょうか。私はこのような人こそ今の教会に求められていると思っています。
私は昨年度1年間、高等学校で聖書を教える常勤講師(代用教員)でした。その経験の中ではっきり分かったことですが、今の高校生たちは居丈高に振る舞う教師などは心の底から毛嫌いします。一方的に押し付ける言葉などには全く聞く耳を持ちません。
まして宗教や聖書に関してはなおさらです。神の権威もキリストの権威も教会の権威も全く通用しません。
かろうじて彼らが自分の心を開く相手は「人間として信頼できる大人」だけです。自分も将来そういう大人になりたいという願いを持っています。しかし「信頼できる大人がどこにもいない!」と彼らは嘆いています。そこに彼らの切なる求めもあります。
教会はどうでしょう。わたしたちはどうでしょう。権威的な存在でなければならないでしょうか。今はもうそういう時代ではないし、宗教と教会に権威がある時代は二度と戻ってこないし、戻ってこなくていいのではないでしょうか。
そういうのではなく「弱くて優しい大人の集まり」であることが教会に求められているのではないでしょうか。
今日皆さんに考えていただきたいのは、このことです。
(2017年5月14日、日本基督教団青戸教会 主日礼拝)