2017年5月31日水曜日

プロテスタントとしての自己反省の必要性

『カルヴァン生誕500年記念論集』(キリスト新聞社、2009年)

世界的な祝賀ムードに水を差す気も塩をまく気も皆無だし、グッズ販売は応援したいくらいだが、今年2017年「宗教改革500年」は本来的に我々の自己反省の年でこそあるべきだろう。プロテスタント(抗議者)を名乗る者たちが「他者批判はめっぽう強いが自分に甘い」というわけには行かないだろう。

8年前の2009年「カルヴァン生誕500年」に出版した共著『新たな一歩を』(キリスト新聞社)に私は「カルヴァンにおける人間的なるもの」という論文を書いたが、私が最も言いたかったことは「プロテスタントとしての自己反省の必要性」だった。

あった。8年前の2009年7月6日月曜日(当人の誕生日は1509年7月10日)に開催した「カルヴァン生誕500年」記念集会用に作成したロゴ入りファイル。複数団体合同の実行委員会主催。委員長は久米あつみ先生で、書記は私。会場は東京神学大学(東京都三鷹市)。当日は満堂の出席者だった。

カルヴァン生誕500年記念集会 ロゴ入りファイル(2009年)

あった。9年前の2008年12月10日水曜日(当人の誕生日は1908年12月10日)に開催された「ファン・ルーラー生誕100年」記念国際学会シール付きファイル。メイン講師はユルゲン・モルトマン博士。私は英文で挨拶。会場はオランダのアムステルダム自由大学。当日は満堂の出席者だった。

ファン・ルーラー生誕100年記念国際学会シール付きファイル(2008年)

振り返って思うのは、過去の国際学会出席にしても国内学会開催にしても、そのための準備にしても、私に関しては個人的支援はあったが基本的にすべて自費だったことは、当時はとても苦しかったが結果的に良かったということだ。誰からの拘束もなく誰の指図も受けずに行動できたし、後日の負い目もない。

2017年5月28日日曜日

喜びを追い求めよう(千葉若葉教会)

ヨハネによる福音書2章9~11節

関口 康(日本基督教団教師)

「世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回ったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。』イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで弟子たちはイエスを信じた。」

先週からヨハネによる福音書を学んでいます。今日は2章です。ここに記されているのは「世にも不思議な物語」です。私たちの救い主イエス・キリストが水をぶどう酒に変えられた話です。物語のあらすじは広く知られています。

この出来事が起こったのは、バプテスマのヨハネがイエスさまに対して「この方こそ神の子である」という信仰を告白した日の「三日後」(1節)でした。その日にガリラヤ地方のカナという小さな村で結婚式が行われました。そこにイエスさまの母マリアが参列していました。イエスさまも弟子たちと参列しておられました。

そこで事件が起こりました。「ぶどう酒が足りなくなった」(3節)のです。どういうことでしょうか。主催者側の準備不足でしょうか。幹事の責任でしょうか。彼らに落ち度があったのでしょうか。その方向で語られる説教を聴いたことがあります。

そういう要素が全くなかったとは言えないかもしれません。しかし、書かれていることをよく見る必要があります。「イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」(2節)と書かれています。「招かれた」(カレオーの過去形のエクレ―セー)は「招待された」という意味です。

つまり、主催者は参列してもらいたいと願っている人々をあらかじめ正式に招待していたと考えるべきです。もしそうであれば主催者は参列者の人数を把握していたでしょうし、十分なだけの食事や飲み物を準備していたでしょう。そのための「招待」です。主催者を責めるのは一方的すぎます。

しかし、もしそうであれば、この話はどういうことになるのでしょうか。主催者が十分なぶどう酒を準備していたのにそれがなくなったということは、要するにみんなが調子に乗って飲みすぎていたということではないでしょうか。

「ぶどう酒(オイノス)」(3節)は当然アルコールです。アルコールを飲み過ぎるとどうなるでしょうか。酔っぱらいます。そこにいた人たちは飲み過ぎてすっかり出来上がっていました。それでもまだ調子に乗って「おい酒が足りないぞ、持ってこい」と不満の声を上げていた。かなり図々しい話です。そのような情景を想像するほうがよいのではないかと思います。

しかし、これは結婚式です。お祝いの席です。厳粛な要素もあります。そして何より、招待された人々が集まる場所でした。不特定多数の集まりではありませんでした。

そうだとしたら、主催者側が用意したものが尽きた時点でお開きにしてもよかったはずです。「宴もたけなわではございますが、そろそろお開きとしたいと思います。 本日は忙しい中お集まりいただき、ありがとうございました」と丁重にご挨拶して、みなさんにお帰りいただいたらいいのです。

ところが、そこでマリアが動きました。イエスさまのところに「ぶどう酒がなくなりました」(3節)と言いに来ました。イエスさまとしては、それがどうしたの、という話です。そのことを私に言いに来て、私にどうしてほしいのですか、とおっしゃってもおかしくないような話です。

普通に考えれば、マリアの要求は「近くのお店までひとっ走り行ってきておくれ」だと思いますが、マリアが息子にお金を渡した形跡はありません。イエスさまはどうしたらいいのでしょうか。立て替えでしょうか、つけでしょうか。何をしてもらいたいのかがさっぱり分かりません。マリアはただ「ぶどう酒がなくなりました」と言いに来ただけです。

そして、このときの状況を想像するに、イエスさまも弟子たちも、おいしいごちそうをいただいてひと安心、さてそろそろおうちに帰りましょう、と腰を上げようとしていた頃です。いくらお母さまのお言いつけだからと言って簡単に引き受けるわけには行かないよと、イエスさまがお断りになっても無理のない状況だったのではないでしょうか。

いや、そうではない。当時の結婚式は何日も続けて行っていたので、お酒が尽きたのだという説明を聴いたこともあります。しかし、もしそうであればなおさら、主催者が追加分を買いに行けばいいだけです。何もわざわざ招待客であるイエスさまを使い走りにしなくてもいいではありませんか。

マリアが言ったのは「ぶどう酒がなくなりました」ということだけです。買って来いとも、借りて来いとも、盗んで来いとも言っていません。しかし、それだけ言われると、かえって困ります。その次の言葉は何かが気になります。どうしてほしいのか、何をしてもらいたいのか。

しかし、イエスさまは賢明な方ですので、お母さまに対して失礼のないように、丁重にお応えになりました。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(4節)。

ここで必ず問題になるのは、イエスさまがご自分の母親であるマリアのことを「婦人」(ギュネー)と呼んでおられることです。実のお母さんによそよそしいことを言っている。冷たく突き放した言い方だと説明されることもありますが、そうではありません。

ギリシア語辞典に書いてあることですが、「婦人」に失礼な意味はありません。反抗期の子どもが母親を「ばばあ」呼ばわりしたというような話とは違います。一緒くたにしないでください。

ただ、そうは言っても、それではなぜイエスさまはマリアを「お母さん」とお呼びにならなかったのかは確かに気になります。その理由を考えてみました。あくまでも私の想像です。私が思い至ったのは、イエスさまの近くには弟子たちや結婚式の参列者が大勢いたということです。そこは「公の」場所だったということです。

そういう場所でマリアがしくじりました。マリアには厳しい言い方になりますが、彼女は公の場でイエスさまに対して母親づらをしました。これは公私混同です。そうではないでしょうか。

この結婚式の中でイエスさまはどういう扱いを受けていたでしょうか。若い先生だったかもしれませんが、弟子たちと共に参列なさいました。まるで友達のように「来てもいいけど来なくてもいいよ」というようなどうでもいい扱いで新郎新婦がイエスさま宛ての招待状を書いたでしょうか。それは考えにくいです。むしろイエスさまは主賓扱いだったのではないでしょうか。

もしそうであれば、マリアがしたことはやはり問題です。主賓席に座っている人を公の場で自分の息子として扱い、母親の立場で何かを言いつけようとしました。そういうのを公私混同というのです。

そのことをイエスさまがお気づきになり、マリアに伝えるために、つまり「あなたはこの場所では母親として振る舞うべきではない」と窘(たしな)めるために「婦人よ」とおっしゃったのではないでしょうか。

今申し上げたのと似たようなことが教会で問題になることがあります。具体例をあげるといろいろ差し障りが出てきますのでやめておきますが、牧師と教会との関係の中で難しい問題になることがありうるのは、牧師の家族と教会との関係です。私の家族はそういうことは重々心得ていましたので、教会の中では私に対して個人的に話しかけて来ることもありませんでした。

少し脱線しました。元に戻します。イエスさまがマリアを「婦人」と呼んだのは冷たい言い方ではなく丁寧な言い方です。イエスさまがおっしゃっているのはおそらく次のようなことです。

「親愛なるご婦人のかた、誠に申し訳ありませんが、用意された酒を全部飲み尽くしてまだ足りないと文句を言っている方々の面倒まで、わたくしどもが見なくてはならないとおっしゃるのでしょうか。そのようなことがわたくしどもの出番であると、失礼ですがご婦人はおっしゃっておられるのでしょうか」。

「わたしの時はまだ来ていません」という言葉に深い神学的な意味を読み取ろうとする人々は多いのですが、あまり難しく考えすぎないほうがよいと私は考えます。

イエスさまからそう言われてマリアは引き下がります。しかし、召し使いたちには「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言いつけます(5節)。こういうのを読むと私はカチンと来ます。「自分で買いに行けばいいのに」と言いたくなります。私がまだ反抗期なのかもしれません。

しかし、イエスさまはどこまでも優しい方です。マリアの願いを退けず、しっかりお応えになりました。

そこに石の水がめが6つありました。1つの容積は「2ないし3メトレテス」でした。1メトレテス39リットル。2メトレテスで78リットル、3メトレテスで117リットル。どちらの水がめが多かったのか分かりませんので両方を足して2で割って平均97.5リットルで計算します。

石がめは6つあったので6かけて585リットル。コンビニで売っている手持ちワインボトルのサイズが750ミリリットル。その780本分。65ダース。プロ野球の優勝チームのビールかけはビール3000本とか5000本とかを開けるそうです。それにはかなわないとしても、ワインボトル780本分の「水」はかなりの量です。

イエスさまは召し使いたちに、その6つの石の水がめに「水をいっぱい入れなさい」(7節)、そして「さあ、水をくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」(8節)と言われました。水の重さは1リットル1キログラム。6つで585キログラム。しかも石の水がめ自体が重い。ひとりで運ぶのは無理。何人かで苦労して運ぶことになります。

しかし、ともかく彼らはイエスさまのおっしゃるとおりにしました。そして、その「水」を世話役が味見したところ、なんと驚くべきことに「ぶどう酒」でした。これが「世にも不思議な物語」です。

それが「どのようにして」起こったのかは分かりません。しかしこれだけは言えます。イエスさまはお母さまの言いつけを守られました。楽しい宴は続きました。喜びが持続しました。そのようなことのためにイエスさまは不思議な力を示してくださいました。

この出来事の「意味」は何かがしばしば問われます。いろんな説明があります。いくつか読みましたが、しっくり来る説明は見当たりません。理由は分かっています。この物語の「意味」を説明したがる人に限って、水がぶどう酒に変わることはありえないという前提を初めから持っています。これは事実無根の作り話なのだ。たとえばなしのようなものなのだ。だから「意味」を考えなければならないのだ、という主張です。

そういうのは面白くないです。ユーモアが感じられません。「ありえない」「作り話だ」「うそだ」と言われてしまうと二の句が継げません。思考停止が起こります。

しかし「物は考えよう」です。想像力を働かせる余地がまだたくさん残っています。私もひとつ考えました。ただし「冗談」です。真に受けないでください。

先週の礼拝後、みなさんからきれいなお花をいただきました。名前は覚えています。カスミソウ、芳純、ロイヤル・ハイネス、シャルル・ド・ゴールです。

カスミソウ以外の3つはすべて「バラ」であると、みなさんから教えていただきました。そういうことを全く知らずに51歳になりました。家に帰ってインターネットで調べたら、バラの種類は2万種以上あると書いてあって驚きました。

ワインの種類はどのくらいあるでしょうか。3種類です。赤、白、ロゼ。これは冗談です。産地などが異なる多くの種類のワインがあるようです。そういうこともインターネットですぐに分かる時代です。

私が言いたいのは、バラにしろ、ワインにしろ、たくさんの種類があるということは、それぞれの種類に最初に名前をつけた人がいることを意味している、ということです。

「これはバラである」と見極めた人がいる。新しい色や花びらの形を見つけるたびに名前を付けた人がいる。だれかが「これはバラだ」と決めたら、それが「バラ」になるのです。

私が言おうとしている「冗談」がお分かりでしょうか。ワインボトル780本分の「水」を召し使いたちが抱えて持ってきました。それを世話役が味見しました。その世話役が「これはぶどう酒である」と名付けたから、それは「ぶどう酒」なのです。

私は、イエスさまは素晴らしい力の持ち主であると信じています。しかし、もし仮にその「水」が水のままだったとしても、「ああ、これはなんておいしいワインだ」と楽しむことも可能だと思っています。

それと同じことを、わたしたちは聖餐式のたびごとにしているではありませんか。

「これはわたしの体です」「わたしの血です」と言いながら差し出されるパンとぶどう酒を、わたしたちはイエス・キリストの真実の体と血として味わいます。「ああ、これはなんて血なまぐさい、気持ち悪いワインだ」などとはだれも言いません。

説教も讃美歌もお祈りも同じです。わたしたちが信仰生活の中で味わうものはすべて、多くの想像力を働かせながら楽しむためにあるのです。

(2017年5月28日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)

2017年5月26日金曜日

キリスト新聞社の新社長・松谷信司氏への応援歌

http://www.kirishin.com/
「キリスト新聞」ホームページ(画像をクリックすると開きます)

ささやかな応援歌として書かせていただくが、キリスト新聞社の新社長・松谷信司氏(@macchan1109)が数年にわたり、旧態依然たる日本のキリスト教会・教界に対して真摯に問いかけてくださっていることに、私は心から感謝すると共に、同氏のご意見に深く同意し、かつ連帯の意思を表明するひとりである。

もっとも松谷氏と私の年齢差が2ケタを超えていることで、私が影響を受けたサブカルが古すぎるというかレアすぎるため、同氏の真似をしようとしても、思いつくのはせいぜい「悪球打ちの信仰」とか「希望の加速装置」とか「愛の波動砲」とかあたりで、それで誰の琴線に触れるのかと自問せざるをえない。

松谷氏としても、キリスト教を単にサブカル語に翻訳すれば事が足りると考えておられるのでは決してない。刺さるどころかカスリもしない言葉や方法で「我々は福音を宣べ伝えている」などと言い張ることの空虚さを、ある意味で逆説的に描き出すために、非難轟々の嵐を耐えて訴えておられるのだと思う。

あえて言うまでもなく、私自身は全くもって無力な者である。しかしそれでもいちおう半世紀を超える人生を経、残りの年月を数えはじめる時期に至った者として、松谷氏の真摯な問いかけに対して、真摯なお応えができるような「伝道と教会形成」(これも教会用語であるが)に専心したいと願う所存である。

2017年5月25日木曜日

現代オランダの「3大神学者」とは誰か

本棚の整理が必要だろう

オランダに13年前の2004年まで、訳せばどちらも「オランダ改革派教会」になるNederlandse Hervormde Kerk (NHK)とGereformeerde Kerken in Nederlands(GKN)という2教団があった。両者は2004年5月1日に合同した。

2007年にオランダで刊行が始まった新しい『ファン・ルーラー著作集』の宣伝文に「ファン・ルーラーは、ノールトマンス、ミスコッテと並び称されるオランダ改革派教会の3大神学者の1人である」と書かれている。その「オランダ改革派教会」は上記2教団のうちの前者NHK(エンハーカー)を指す。

それに対し、1983年に「増補版」が出版された東京神学大学神学会編『キリスト教組織神学辞典』(教文館)に「オランダ神学の三巨頭と言えば、ベルカーワー、ヴァン・ルーラー、ベルコフの三人である」(113頁)と書かれている。日本語に訳すとかえって混乱する可能性があるので、整理が必要だ。

食い違いの理由はベルカウワー(前出「ベルカーワー」)がGKN(ヘーカーエン)の人であるのに対し、ファン・ルーラー(「ヴァン・ルーラー」)とベルコフはNHK(エンハーカー)の人だからである。GKN単独で「3大神学者」を言うなら、今でも「カイパー、バーフィンク、ベルカウワー」だろう。

しかし『ファン・ルーラー著作集』の宣伝文が謳うNHKの「3大神学者」は「ノールトマンス、ミスコッテ、ファン・ルーラー」であって「ベルコフ」はいない。理由はベルコフの年齢がこの3人の神学者より若いからではないかと思う。しかし「4大神学者」とすればベルコフが入るかどうかは分からない。

ちなみに、今書いているオランダの神学者「ベルコフ」は「ヘンドリクス・ベルコフ」だが、日本のキリスト教書店に「ルイス・ベルコフ」というアメリカに移民したオランダ人神学者の著書の日本語版も売っている。この2人の「ベルコフ」は全く別人であり、親戚でもない。このあたりも整理が必要だろう。

それにしても、「NHK(エンハーカー)の3大神学者」(ノールトマンス、ミスコッテ、ファン・ルーラー)を言っても、「オランダ神学の三巨頭」(ベルカウワー、ファン・ルーラー、ベルコフ)を言っても、どちらにも登場してくる「ファン・ルーラー」の存在は、最も際立っていると言えないだろうか。

黒い思い出のブルンナー

学年は覚えていないが東京神学大学の学部生だった頃(30年前)、エーミル・ブルンナー(Emil Brunnner [1889-1966])の『教義学』(Dogmatik)第2巻(3版、1972年)を買い、数頁訳して挫折した黒歴史がある。ドイツ語は昔から苦手だ。日本語版がありがたい。




開けてびっくりブルンナー

こんな幸せがあってよいのかと何度も頬をつねる(痛い痛い)。一昨日「ブルンナーを読み直すべきではないか」という題をつけてブログとSNSに載せた記事を読んでくださった方(親しい方です)が、なんと、教文館『ブルンナー著作集』1~5巻をプレゼントしてくださいました。ありがとうございます!

ブログ記事はこちら(↓)です。
「ブルンナーを読み直すべきではないか」





説教分析の問題

国際説教学会紀要『説教研究』第4号(2002年)

説教分析については、熱心な支持者の前では言いにくいが、「分析素」とか言い出す時点で終わっている。「分析素」なる概念さえ知らなかった過去の説教者の文章を色分けするなら問題ない。問題は、自分の説教が「分析素」で色分けされることを初めから意識した芝居がかった文章を書くようになることだ。

説教分析の問題について書くのは初めてである。30年沈黙してきたので、そろそろいいだろう。私の長年の問いは「ハイデルベルク説教分析理論」に絞られる。国際説教学会(ソキエタス・ホミレティカ)が2002年に発行した紀要『説教研究』(Studia Homiletica)第4号が私の手元にある。

その紀要の巻頭論文で、国際説教学会の会長であられたヘリット・イミンク先生が「ハイデルベルク説教分析理論」を短い言葉で批判しておられる。イミンク先生はオランダプロテスタント神学大学の実践神学教授。初代学長でもあられた。実践神学の世界的権威者である。ファン・ルーラーの研究者でもある。

イミンク先生が書いておられるのは、説教分析は重要だが「ハイデルベルクの方法」は採用しないということだ。欠点がある。「いつも同じ質問をもって説教に近づくこと」(you always approach the sermons with the same questions)であると。

その「いつも同じ質問」が、「ハイデルベルク説教分析理論」のいわゆる4つの分析素を指している。(三位一体の)神の言、聖書テキスト、説教者の関与、共同体と社会の状況の4つ。調査対象は「書かれた説教テキスト」で、調査目標は「その説教テキストは実際は(in fact)何を語っているか」。

なされる議論はたとえばこうだ。一見するとこの説教者はこの聖書箇所に基づいて真摯に説教しているようである。しかし我々の説教分析方法で厳密に精査してみると、実際は(in fact)この説教者が聖書の言葉を借りて自分の意見を述べているにすぎないことが白日の下に晒される、など。

最初に教えてもらったとき(おお、なんとちょうど30年前だ)は、よくできた分析方法だとは思った。しかし、なんとも腑に落ちなかった。うまく説明できないが、なんか変だ。その問いを20年近く抱えて悶々としていた。それで今から10年くらい前にイミンク先生の上記の文章に接して、謎が解けた。

イミンク先生の言葉をお借りすれば、彼らは「いつも同じ質問をもって」説教テキストを分析する。その質問が「4つの分析素」だ。色鉛筆で説教テキストを分析素別に4色に塗り分ける楽しいアクティヴラーニングまである。それのどこが問題か。「いつも同じ質問」なら「いつも同じ答え」だろうということだ。

学生時代に暗記ものが得意だったような優等生タイプの説教者にとっては、この宿題はいとも簡単だ。4つの分析素((三位一体の)神の言、聖書テキスト、説教者の関与、共同体と社会の状況)のところで必ずチェックが入ることを先読みできる。減点を免れ、見事なまでの模範答案を書き上げることができる。

しかし、説教とはそういうものなのか。私には疑問でならない。私が最初に書いたことの意味はそれだ。「いつも同じ質問」が出題されることがあらかじめ分かっている人は、自分の説教が「分析素」で色分けされることを初めから意識した芝居がかった文章を書くようになる。これは憶測で言っているのではない。

ご自分の説教テキストを「4つの分析素」で分析される調査対象として惜しみなく差し出すのをいとわない説教者を何人か知っている。その方々の説教テキストを読ませていただくと「説明」や「論理」を意図的に避けているのが容易に読み取れる。「心地よいフレーズの羅列」である。私には薄っぺらく感じる。

説教者自身の思索や葛藤についても「と私は考えました」「と私は悩みました」という仕方で説教テキストに書き込まれることは、全くないとは言えなくても、意図的に削り落とされているとは言える。説教テキストに書かれていなくてもアドリブで言っているのかもしれないが、それは分からない。

字として書いてあるか書いていないか、実際に言ったか言わなかったかはさほど大きな問題ではない。大きな問題は、説教者自身の思索や葛藤の要素は、完全に禁じられてはいないとしても、「4つの分析素」の中で下位に置かれ、どちらかといえば減点対象であり、削れば削るほど評価が高くなることである。

30年の沈黙を破って書いたので、ちょっと疲れた。ひとまず筆をおく(どこに筆が)。

2017年5月23日火曜日

ブルンナーを読み直すべきではないか

エーミル・ブルンナーの単行本(すべて日本語版)

「正統主義はその守ろうとする聖書を変造するという逆説的な結果に至る」
エーミル・ブルンナー Emil Brunner [1889-1966])

「懐かしい」とか言われそうだが、思い出話をしたいのではない。エーミル・ブルンナーの研究はもっとされるべきだ。教文館『ブルンナー著作集』全8巻が高価すぎて6、7、8巻だけ持っているが当然全部揃えたい。ただし過去の単行本をすべて収録する著作集でないのが残念。古い本はどれも崩壊寸前だ。

たとえばブルンナーはこう言う。「神の言と教理との同一視によって...ある特定の教会的教理の体系が...聖書における神の言と等置されたのであった。聖書は、ある所では非常に異なったまた矛盾にさえも満ちた多様性をもつ教理において我々に神の言を語っている、ということが単純に無視された」(ブルンナー『聖書の真理の性格 出会いとしての真理』弓削達訳、日本基督教青年会同盟、1940年、222-223頁)。

ブルンナーが言おうとしているのは、「逐語霊感説」への拒否と、ルター派や改革派などの諸教派の教理体系そのものと聖書の教理体系そのものを「等置」する立場への拒否である。

ブルンナーは続ける。「パウロの神学はヨハネの神学または共観福音書の神学と同じではないし、新約聖書の神学は旧約聖書の神学と同一ではなく、旧約聖書の中でも祭司の神学は預言者の神学と同じものではない。聖書をして、その固有の意味合いで発言させようとする者はそのことを知っている」(同上)。

これを認めない者は、21世紀の神学的状況の中では、もしいても少数だろう。しかし、ブルンナーの時代にはいた。「けれども、正統主義神学はそれを承認してはならないのである。であるから、正統主義神学は、教理のこの相違を無視するか、あるいは比喩的な解釈法によって除去せざるをえない」(同上)。

そして言う。「正しい信仰はこの一つの言は非常に異なった諸教理の中に示されているということを十分自由に認めなければならない。正しい信仰は神の言と教理とを決して同一視しないのである。ところが正統主義はこの区別を知らない。正統主義はその守ろうとする聖書を変造するという逆説的な結果に至る」(同上)。

このブルンナーの引用で私は何を言いたいか。ブルンナーは組織神学者であり、教義学者だった。20世紀に世界的に有名になり、日本の国際基督教大学(ICU)でも教えた。その人が聖書各書の多様性を十分認める発言をしている。ドグマティックでないドグマティック・セオロジアンだった。

こういう発言は無視されてはならない!教義学はまるで二千年の眠りの中にあるかのように、聖書各書の違いなどは一切無視する暴力を働き続ける存在であるかのように誤解され続けたくない!それはブルンナーがそう呼んだ「正統主義者」には当てはまるかもしれないが、全教義学に当てはまるわけではない!

ブルンナーといえばすぐにカール・バルトとの自然神学論争が思い起こされ、どちらが勝ったどちらが負けた、いや引き分けだ、そもそも噛み合っていなかったなど、たいてい勝負や格付けの話になって終わる。なんとも不幸で不当な扱いを受け続けてきた人である。新しい文脈で読み直されるべきではないか。

【注記】上記の弓削達訳からの引用の際、旧漢字・旧仮名遣いを新しいものへと書き換えさせていただいたことをお断りする。

2017年5月22日月曜日

「連続講解説教」の苦しみと喜び

カール・バルト『説教学』(Homiletik)

私自身を含む、聖書のことばをある程度の長さずつに取り分けながら前から順々に解説していく「連続講解説教」を実践する説教者の多くが根拠にするのがカール・バルトの説教論であると思うが、そのやり方がよいとバルトが勧めている理由はかなりシンプルなものである。原文だと次のように記されている。

Bei diesem Modus stellt sich nicht so leicht die Gefahr ein, daß wir uns ausgepredigt und nichts mehr zu sagen haben. (K. Barth, Homiletik, 76)

日本語版だとこうだ。「説教したいことが尽きて、言うことがもうないという危険がはいりこむことは、こういうやり方では、そう簡単には起こらなくなる」(加藤常昭訳、1988年、122~123頁)。言い換えれば、このやり方でないかぎり説教者は同じ話を繰り返すばかりになるだろうということだ。

バルトがあげる理由はもうひとつある。順序はそちらが先である。So daß man sich also der Führung des Wortes überliese. (Barth, ebd.)「そうすることで、み言葉の導きに全く身を委ねるためである」(前掲、加藤訳、122頁)。

この理由も大事だが、バルトが2番目にあげている理由は、必ずすぐに切実な問題になる。しかし「連続講解説教」をする者たちはみな知っていることだが、つらいことがままある。「ここから何のよきものが出ようか」と頭を抱える聖書箇所は少なくない。そのときは説教者も、聴く人々も、苦しむ日となる。

それで「連続講解説教」だけでなくいわゆる「主題説教」や「聖書日課説教」を取り入れているという説教者はいるし、そもそも「連続講解説教」は全くしないと決めている説教者もいる。どういう説教をするかは各教会の伝統にもよる。これらのことを知らずに今私がこういうことを書いているわけではない。

今書こうとしているのは「ここから何のよきものが出ようか」と苦しむ聖書箇所がめぐってきたときのことだ。どうしようもないときがある。説教者の顔は暗いし、聴く人々の顔はもっと暗い。空気は重くどんよりしている。説教者として言いたいのは、そのときは説教者も逃げたい気持ちなのだということだ。

説教が終わり礼拝が終わって、みんなの顔がパアアと明るい日がある。「いい説教でした!」とほめてもらえる日もたまにある。そのたびに「いやいや説教が良かったのではなくて今日の聖書の箇所が良かったんですよ」と思うのだが、それは言わず「ありがとうございます!」とお礼だけ言うことにしている。

「キリスト教学は道徳科目ではない」かどうかを考えてみた

記事とは関係ありません

高校は義務教育ではないものの学習指導要領の拘束下にある点で小中学校と状況が酷似していると思いますが、現時点ではまだキリスト教学校の小中の「道徳」、高校の「倫理」は「聖書」で代替しうるという文科省のお墨付き(良いことか悪いことかはともかく)がありますが、これをめぐる議論はあります。

だけど言うまでもないことですが「聖書」でセンター試験は受けられないし、神学部以外の受験には無関係なので、大学受験を志す生徒にとっては有害無益な無駄時間と化す。それに「聖書」で代替することで「道徳」も「倫理」も教えず学ばず、高校でプラトンの名前もカントの名前も聞かず大学受験となる。

「そんなもんだろ今の高校生なんて」と見下げたことを言い出す人たちもいると思いますが、私などはそういう風潮に「抗し」たいクチなので、高校以下の「聖書」の授業に文科省が教えたがっている「道徳」や「倫理」の要素をできるだけ取り入れるほうがより多く有意味的な授業になるだろうと考えます。

それで、私と似たことを考える教員がどれほどいるかは分かりませんが、少なくない気がします。高校以下の「聖書」の授業までそんな感じで来て、キリスト者推薦や指定校推薦を含む形でキリスト教大学に入学して「キリスト教学は道徳・倫理の科目ではない」と言われると面食らう学生が出てくるかもしれません。

トレルチに言わせると、倫理学は「宗教学がその枠組のなかに組み込まれている上位の最も原理的な学問」だそうです(邦語著作集3巻112頁)。die Ethik die übergeordnete und prinzipiellste Wissenschaft ist, in deren Rahmen die Religionswissenschaft sich einfügt (G.S.2,1922,553)です。

このトレルチの「倫理学」の定義の中の「宗教学」に「キリスト教学」は含まれるものと思われますので、トレルチに言わせれば「キリスト教学」は、より上位の学問としての「宗教学」の一部であり、かつ最上位の学問としての「倫理学」の一部であるということになります。この定義を教会で言うのはまずいですが、学校現場では通用すると私は考えています。

私は聖書学の範疇にカウントされると理解していますが、川島貞雄先生がお訳しになったNTD聖書注解補遺4巻のH.-D.ヴェントラント著『新約聖書の倫理』(日本基督教団出版局、1974年)がありますよね。難しくて私は読みこなせないのですが、大学の「キリスト教学」で用いる価値は十分かと。

私の感覚では道徳というか倫理というか「倫理学」というか、いずれにせよ「人間の生き方を問う学」の要素が、高校以下の聖書の授業なり大学の「キリスト教学」なりから抜け落ちることはたぶんないと思っていますし、ないとつまらないと思っています。

だって「自分の生き方と関係のある話」にしか興味を持たないでしょう、「要するにどう生きりゃいいんだよ」と悩んでいる年代としては。私の勝手な思い込みかもしれませんが。

まあでも、かく言う私も「キリスト教学は倫理学の一部である」とか「倫理学の下位学問である」とか言われるといい気持ちがしないところも無きにしも非ずです。「ちがわい!」と反発したくなります。こちとら神の啓示を扱うのであって、人さまの生き方などどうでもいいわいと(いやそこまでは)。

しかし、ここから先はEKK聖書注解のコンセプトの「影響史」の話ではないかと。聖書解釈に歴史があり、過去の各時代にいろんな読み方がなされ、人間の行為規範にされた。それを時系列でとらえる。過去を無視しないで。

でもそれは、現代の文献学の視点に立てば、未発見の写本とか間違った聖書翻訳等に基づく「聖書誤解史」だったかもしれませんよね。それも私は否定しませんよ。トマスもルターもカルヴァンもウェスレーも誤解の神学者。二千年の教会も聖書誤解の上に立つ砂上の楼閣。あえて言えばそうなるかもしれません。

まあでも、どうなんでしょう。大学や高校以下の純粋にアカデミックな場で「キリスト教学」を営む場合、二千年の教会史を完全にスキップすることは可能かもしれないし、むしろ歓迎されさえするかもしれませんが、それはそれでラディカルすぎませんかね。

二千年の教会史は、「影響史」の観点からすれば聖書解釈史でもあるし、もしかしたら不完全な神の啓示が、とりあえず地上に着地し、人間に聞き取られ、人間の行為規範とされ、教会という難物を生み出し続けてきた一種の「倫理史」ではあるわけですよね。それは学問(勉強)でしかとらえられないと思います。

トレルチのエンチュクロペディーの全貌が明らかにされている文献があるかどうかは残念ながら存じませんが、彼が「倫理学」における「宗教学」における「キリスト教学」という位置づけを主張したのは、私見によれば、というか、私の師匠や同僚と共有する見方によれば、トレルチの「保守主義」ゆえです。

すべて私の言葉で書きますが、ベルリン大学哲学部教授になった元ハイデルベルク大学神学部教授トレルチには、フランス革命後の「世俗化=脱教会化」の時代のヨーロッパ最高峰のベルリン大学の中に「どうしたら神学的思索の場を残すことができるか」という内的心理的葛藤と外的政治的闘争がありました。

それで「かろうじて」見出した場、それが「倫理学」における「宗教学」における「キリスト教学」という位置づけだと私は理解しています。この位置づけの生存権まで奪われれば、少なくとも国家予算によって運営される「国立」大学の中で「キリスト教」を「学問として扱う」権利は喪失したことでしょう。

トレルチの「倫理学」における「宗教学」における「キリスト教学」という位置づけの図式は、これも私見ですが、現在の日本の文科省が認定する高校「倫理」教科書に事実上採用されています。それは偶然ではないと思います。なぜなら高校倫理著者陣の「主流派」が東大卒業生であることは明白だからです。

卒業生でも何でもない私が東大を云々する資格は皆無であることなどは重々承知していますが、あの大学のある時期のマックス・ヴェーバーの位置づけは比類なきものだったと思われ、ヴェーバーは友人トレルチから多くのことを学んだし、互いに影響し合っていた関係であるという実際のつながりがあります。

そういうわけで、最初の私の文中の「(トレルチの図式は)学校現場では通用すると私は考えています」の意味は、「日本の文部科学省の学習指導要領の拘束下にある(特に高等学校の)「倫理」の教科書が事実上トレルチの図式通りになっているという意味で、この図式は「使える」と思う、ということです。

その意味は、このトレルチの「倫理学」における「宗教学」における「キリスト教学」という図式がかろうじてであれ確保されていさえすれば(それを失ってしまえば話は変わる)、日本の公立学校の中で「キリスト教」を「学問」として「教育する」堂々たる権利を確保することができる、ということです。

それと、また考えたことですが、トレルチの基本図式が現実の学校教育課程の中で機能しているうちは「まだまし」だ、ということです。今の日本の大学で「倫理学部」を名乗るところを私は寡聞にして知りませんが、その代わりむしろ流行っているとさえ見えるのが「人間学部」とか「人間科学部」ですよね。

長いのでいえば「総合人間学部」とか「人間総合学部」とか「環境人間学部」とかでしょうか。これらがどれも、100年前のドイツでトレルチが考えた「最上位の原理的な学としての倫理学」と基本は同じです。失礼な言い方かもしれませんが、より目新しい言い方にして看板を掛けかえているだけだと思う。

その「人間学部」の中に「比較宗教学」があるなら宗教者の立場としては単純にありがたい。その中に「キリスト教学」も(also)かろうじてあり、かつそれを教える先生がしっかりアカデミックでありつつ、かつキリスト教に対して「ゆるやかに前向きの姿勢」でいていただけるなら、御の字中の御の字。

もしかして「教会的神学」のトレーニングを徹底的に受けてきた人であれば我々的にはラッキーという感じではないかと。しかし現実はそうならない。教会で洗礼を受ければ水のパワーで頭脳明晰になれるというならまだしも「教会的であること」と「アカデミックであること」を両立できる人は現実には希少。

そういう人材が確保できないので、キリスト教にアンチの人であろうと、宗教に無関心な人であろうと、採用の基準を満たしていれば雇う。それでも「学問的」でなければならないので、その水準を維持しながら「キリスト教学」を教えなければならない。それで歯止めが働くのではないかと。甘いでしょうか。

逆に「神学部」を名乗りながら中身が入れ替えられているほうが、私は問題だと思う。トレルチの図式でキリスト教の学問的地位を保護するほうが健全。どちらが「教会的」でどちらが「リベラル」かをあえて単純化すれば、トレルチの図式のほうが「教会的なもの」をプリミティヴな状態で守り抜けると思う。

2017年5月21日日曜日

信仰生活を始めよう(千葉若葉教会)

ヨハネによる福音書1章32~34節

関口 康(日本基督教団教師)

「そしてヨハネは証しした。『わたしは、〝霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、「〝霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が〝聖霊によって洗礼を授ける人である」とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

4月から9月まで月2回説教するようにというご依頼を千葉若葉教会の皆さまからいただきました。それでいろいろ考えまして、ある程度連続的な聖書の取り上げ方をするのをお許しいただこうと願うに至りました。ただし、「連続講解説教」というほど堅苦しいことは考えていません。「続きもののお話」というくらいです。それで選ばせていただきましたのがヨハネによる福音書です。

そして、先ほどは1章32節から34節を朗読していただきました。この箇所に登場するのはイエスさまに洗礼を授けたことで知られるバプテスマのヨハネです。「そしてヨハネは証しした」(32節)と記されています。このヨハネの「証し」のことを中心に、今日はお話しします。

「証しした」とは「証言した」という意味です。この言葉が多く用いられるのは裁判所の法廷です。原告側であれ被告側であれその場にいる人々が、被告人について「これこれこういう事実があります」と具体的な証拠をあげて「だからこの人は罪に定められるべきだ」「この人の罪は赦されるべきだ」「この人は無罪だ」などと主張することです。それが「証言」という意味での「証し」です。

その場合重要なのは、具体的な証拠をあげることです。証拠がなければ「証言」とは言えません。ただの思い込みや憶測にすぎません。そして、法廷で証言する人がもしそこで嘘をつけば、証言した人自身が偽証罪に問われ、罰を受けなければなりません。ですから「証言する」とは、虚偽ではなく真実を述べることを意味しますし、そうでなければなりません。

しかし、この「証し」には「証言」以外にも重要な意味があります。それは「信仰を告白する」という意味です。「信仰を告白すること」を意味するギリシア語の表現がこれしかないという意味ではありません。他の表現もあります。しかし、「証しする」という語に「信仰を告白する」という意味があるという事実が重要であると私は考えます。

なぜそう考えるのかといえば、両者に共通する要素があることが分かるからです。それがやはり、証拠・根拠・理由をあげて言うことです。そういうものが一切なく、ただ言い張るのとは違います。「信仰を告白すること」にも「証言すること」と同じように証拠・根拠・理由が必要なのです。

本当にそうでしょうか。そんなことを言われると困るとおっしゃる方がおられるかもしれません。「私の信仰には証拠も理由もない。ただ信じているだけだ。それで何が悪いのか」と。その気持ちは分かります。

だって、神を見たことがある人はひとりもいないのです。それはヨハネによる福音書の中に書いてあることです。「いまだかつて、神を見た者はいない」(1章18節)とはっきりと書かれています。それは二千年前も今も同じです。だとすれば、だれも見たことがない神さまを、だれが信じることができるというのでしょうか。「具体的な証拠をあげてください。嘘をつけば偽証罪に問われます」とまで言われると、どうしたらよいのでしょうか。

ヨハネは「証し」しました。それは「証言した」という意味です。そして同時に、それは「信仰を告白した」という意味でもあります。このときヨハネは「イエスさまこそ神の子である」という彼の信仰を初めて公に言い表したのです。ヨハネはこの日このときから新しい信仰生活を始めたのです。 

「ええっ」と思われるかもしれません。私はこういう言い方をして本当に大丈夫なのでしょうか。

バプテスマのヨハネはイエスさまに洗礼を授けた人です。人間的観点から言えばヨハネはイエスさまの師匠です。年齢的な意味での先輩でもあります。そして、ヨハネはもちろん神を信じていました。十分な意味での信仰者でした。多くの弟子を持つ指導者でもありました。

そのヨハネについて、まるでこのとき初めて信仰生活を始めたかのように言うのは、名誉棄損であり、侮辱ではないでしょうか。

しかもヨハネはやはりだんぜん「先生」でした。みんながみんな同じではないかもしれませんが、かなり多くの「先生」は強いプライドを持っています。そうでなければ「先生」なんか務まらないという面もあります。

この文脈で私が自分のことを言うのはおこがましい限りですが、ほんの少しだけお許しください。前々からお話ししているとおり、私は高校を卒業してすぐに神学大学に入学し、卒業後すぐに牧師になりました。24歳から今年51歳までの27年、牧師をしてきました。

しかももう少し前があります。18歳まで神学大学に入学した最初の年、東京で神学生として奉仕した教会の日曜学校の教師になったときから、教会では「先生」と呼ばれ始めました。18歳で「先生」です。面映ゆかったことを覚えています。つまり私は18歳から51歳まで33年間「先生」をしてきました。人生の64パーセントです。

私自身がそんなふうに呼ばれたがっているわけではありません。しかし「先生」と呼ぶのを意図的に避けられていると感じるときはなんとも言えない気持ちになります。そういうときは私も「先生」であることに慣れ過ぎたかなと反省させられます。

ヨハネはどうだったでしょうか。もちろんまだ別の可能性は残っています。ヨハネにとってイエスさまは自分が洗礼を授けた、いわば自分の子どものような存在でした。年齢も後輩でした。しかし、いわば先生同士であり、同僚が増えたのだと考えることはできそうです。それならばヨハネも「先生」のままでイエスさまも「先生」であるという関係が維持できますので、ヨハネのプライドは傷つかずに済みます。

私は今、どうしてこんな話をしているのでしょうか。そんなことどうでもいいではないかと思われるかもしれません。しかし、今申し上げているようなことが今日の箇所で、あるいはヨハネによる福音書の中で、あるいは新約聖書の中で全く問題になっていないかというと、全くそうではないところがあるのです。どうでもいい話であるどころか大問題になっています。

たとえば1章24節以下はどうでしょうか。ファリサイ派の人々がヨハネにずいぶんずけずけと余計なことを言っています。

「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」。彼らはヨハネに、あなたは何の資格や権限があってそういうことをしているのですかと問うています。

ヨハネは次のように答えています。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人は、わたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(26~27節)。

これで分かるのは「あなたが先生かどうか」とか「あなたは誰の先生であり、だれの弟子なのか」とか、もっとはっきりいえば「あなたは誰の上で誰の下なのか」とかいうようなことは決して小さな問題ではなく、大問題だったということです。

順位とか、格付けとか、資格とか、そのようなことは本人が気にしていなくても、周りにいる多くの人にとっては興味津々であるということです。

だいたいどこでも同じです。人が2人3人集まってだれかのうわさを始めれば、たいていその話題になります。人事の話がいちばん盛り上がります。そして、その話題の参加者の心を支配しているのは「あの人は自分よりも上なのか下なのか」というような、競争心や劣等感に基づく関心です。

ヨハネはそういう感覚からすっかり解放されていたでしょうか。もしそうだったとすれば、ヨハネという人はものすごく謙遜で偉大な人だったと言えます。だってそんな人、そうそういないですから。

あるいは、それと同じ理由で、全く逆の方向でヨハネを悪く否定的に評価することも可能性としてありえます。ヨハネという人は、後輩に追い抜かれようと、ライバルに出し抜かれようと、全く気にならない人でした。この人はとっても変わり者で、この世離れしている、世捨て人でしたという評価になるかもしれないし、実際はその可能性のほうが高いわけです。

現実のヨハネがそうでした。彼はユダヤ教の「エッセネ派」に属する禁欲主義者でした。生活様式は「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べものとしていた」(マタイ3章4節)というものでした。

どのように生きようとすべては個人の自由です。差別してはいけません。しかし、当時のユダヤ社会の中でのヨハネの生活様式が、他の人とはかなり異質であったという意味で「特筆すべき」ものであったことは否定できません。

そういうわけですので、「ヨハネはそういう人だったのだ」と言って片付けてしまうことも可能かもしれません。そのような、風変わりでこの世離れした人がイエスさまのことを「その履物のひもを解く資格もない」とか言って尊敬し、「この方こそ神の子である」と言い始めたのだと。

つまり、ヨハネのようなそういう人だから、そういうことができたのだと。自分についての他人の評価など全く意に介さないし、プライドがないから競争もしない。そういうタイプの人だから、自分よりも若くて後輩のイエスさまに従うことができたのだと。そのような片付け方です。

私は今おかしなことを言っているように聞こえているかもしれません。しかし、実際にはよくある話です。「宗教を求める人だとか信仰の道を志す人だとかは、そもそもそういうこの世離れしていてプライドがない人たちなのだ。だからそういうことができるのだ」と。こういう話はよく耳にします。

実際のヨハネがどういう人だったのかは、ヨハネ自身に訊いてみなくては分かりません。私は今、いくつかの可能性を申し上げているだけです。しかし、私自身はもう少し違う次元のとらえ方をしているつもりです。とはいえ、それをどう説明すれば納得していただけるのかがよく分からないのです。

それは今日の箇所でまだ触れていないところです。ヨハネが「証し」したその内容そのものです。最も大事なところなのですが、どう説明すればいいのかがよく分からないので、後回しにしました。

それは「わたしは、〝霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(32節)と記されていることです。

もうひとつあります。「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『〝霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た」(33節)です。

これでヨハネは、私の証言は思い込みではないと言おうとしています。ヨハネを「遣わした方」とは「神」(1章6節)です。イエス・キリストの父なる神です。その方があらかじめヨハネにお告げになっていたことがそのとおり起こった。だから真実なのだと言おうとしています。

つまりヨハネの「証し」には2つの要素があるということです。第一は「イエスに聖霊が鳩のように降るのを見たこと」、そして第二は「そのようなことが起こるとあらかじめ告げられていたことがその通り起こったこと」です。

ちょっと待ってくださいよ、そんなことが「証拠」であるはずがないではありませんかと思われるかもしれないわけです。その疑問はある意味で当然です。

聖霊(?)が鳩のように降る(?)のが「どのように」見えた(?)のか。そもそも、聖霊は人の目に見えるものなのか。見えるというなら「どのように」見えるのか。

そして、そういうことが起こると「どのように」あらかじめ告げられた(?)のか、そのあたりを言ってもらわないと、なるほど確かに「証拠」ではありえないわけです。

ヨハネの「証し」の内容は信仰そのものです。つまり、彼の「信仰告白」の根拠は信仰なのです。それでは納得できないとお思いになる方はおられるでしょう。

しかし、ひとつだけ申し上げておけば、そのような疑問のすべては合理主義的な考え方です。物理的な現象しか「証拠」として認めないわけですから。しかし、わたしたちの現実はそのようなことだけで説明できるものではありません。多くの異なる次元の事柄があります。それをどう説明するかは本当に難しいことです。

「聖霊は鳩のように降ります!神のお告げはあります!」

私もそのように言い張っておきます。

(2017年5月21日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)

2017年5月16日火曜日

Windowsタブレットにデータを詰め込んでいます

私はいま何を必死でしているのかと言えば、まもなく私は「出かける」機会が多くなるだろうとの観測に基づき、1万円強で買って1年間休眠させていた中古Windowsタブレットに、今後常に持ち歩くべきデータを詰め込むという、私の終生のミッションたる「伝道と教育」に欠かせぬ重要な作業である。


やったやっとつながった。よく分からなくて手間取ったが、デスクトップのプリンターをタブレットと共有できた。これでタブレットから直接印刷できる。このタブレット、丸1年放置していたが、けっこう使えそう。Windows10を持ち歩く機動性は得がたい。加速装置を2回押した感じだ。カチカチ。


2017年5月15日月曜日

ガーネット・クロウさんの全曲リストを作りました

ガーネット・クロウさんの全曲リスト(未完成)

「狭く深く」

昨日は初めて説教させていただいた教会で燃え尽き、今日はいい感じに焦げていた。ネットで情報を集めてガーネット・クロウさんの全曲リストを作り、また中古CD等を買ってうちで聴ける曲の再生リストを作り、デスクトップでもタブレットでも聴けるようにした。うちに計100曲、7時間21分の至福。

そういうことをやっていて今さら気付いたことがある。私はマニアではないが、「広く浅く」よりも「狭く深く」のタイプだとは思う。音楽はガーネット・クロウさん、マンガはサイボーグ009、趣味は岩波文庫蒐集、神学はファン・ルーラー。これを王道と呼ばず何と呼ぶ。「狭く深く」は普遍に通じるよ。

他には全く目が行かないとか「好きなもの以外は嫌いである」とかそういう意味ではない。排他主義者の濡れ衣は着せられたくない。良いものを良いと言える心は持っているつもりだし、関心は自分なりに広いつもり。まあでも、好きとなったら一途ではある。浮気性ではない。幼児の頃からそうだったらしい。

「庶民上等」

食べ物のこだわりはない。どこどこのコシヒカリ以外は食べないとか、神戸牛以外は牛肉ではないとか、だれだれシェフの料理を食べないと落ち着かないとか全くない。自分で料理をするときは、どの食材も最安値のものを買う。高価でおいしいのは当たり前。安いものをおいしくするのが料理人の腕前だろう。

いま書いたのとちょっとだけ似たことを、10年くらい前に観たテレビアニメ「あたしンち」のお母さんが、2人の子どもに言っていた。毎日の食事はいちばん安いものを食べるのでないと大人になって困ることになるという趣旨だったと思う。さすがお母さん、いいこと言うなあと感激したことを覚えている。

ケチで結構、庶民上等。全く問題ない。仕事柄それなりのものをいただく機会はあるので、舌が鈍いわけではない。食べもので人を見くだす人は昔から嫌いだった。どこのスイッチが入るのか分からないが、むしょうに憤りを感じる。想像するだけでいままた腹が立ってきた。何のスイッチなのかは分からない。

「未来志向」

江戸時代に戻るべきだとも縄文時代に戻るべきだとも私は断じて思わない。前世紀にさえ戻りたくない。年甲斐もなく「未来志向の」人間を自負している。「2千年前」についても「4千年前」についても姿勢は同じだ。学びはするが戻るべきだと思わない。時間は不可逆である。その厳粛な事実に立つべきだ。

字を書いているうちに昨日燃え尽きて焦げたところの「かわ」が少しずつ剥けてきたようだ。お風呂に入るとヒリヒリするかも。おかげさまで睡眠障害は全くない。ぐっすり眠れるし、朝は体が軽い。先週末からのどにほんの少し痛みがあるが、ベンザブロックのどスプレーとイブプロフェンがよく効いている。

作りはじめたばかりで完成していないがガーネット・クロウさんの全曲リストをとりあえずプリントした。漏れがありそうだが、今分かっているところで166タイトルある。私ごときが言うのもおこがましいことだが、作曲も作詞も編曲も演奏もレベルとクオリティがものすごく高い。ぜひ再結成してほしい。

2017年5月14日日曜日

新しい時代に伝道を(青戸教会)

日本基督教団青戸教会(東京都葛飾区青戸3-31-2)
コリントの信徒への手紙二10章1~6節

関口 康(日本基督教団教師)

「さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」

青戸教会の皆さま、おはようございます。日本基督教団教師の関口康です。深沢教会の齋藤篤先生のご紹介により、青戸教会の主日礼拝で初めて説教させていただきます。よろしくお願いいたします。

初めてお会いする皆さまにどんなお話をしようかと考えましたが、すぐに心が定まりました。日本の教会が今こそ考えなければならないことは、一に伝道、二に伝道です。伝道についてお話しします。皆さんが元気になるような話をします。

それで開いていただきましたのが新約聖書のコリントの信徒への手紙二10章1節から6節までです。使徒パウロの手紙です。ここに書かれていることをわたしたちはよく読んで理解する必要があります。この箇所に書かれていることが、わたしたちの伝道の重要な突破口になるだろうと信じます。

本当にそれほどのことが書かれているでしょうか。そうであるかどうかを、これから見ていきます。1節に次のように記されています。

「さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います」。

新共同訳聖書はこのように訳されていますが、原文を読みますと、もう少し違った感じに訳すほうがよさそうです。この新共同訳聖書の文章は、原文の言葉の順序をかなり組み替えて訳しているからです。原文の順序に戻すと次のようになります。

「このわたしパウロが、あなたがたに願います。キリストの優しさと心の広さとをもって。あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強固な態度に出ると思われている」。

しかしこの訳はだいぶ硬い感じです。実際のパウロはもっと柔らかい優しい言い方をしています。そのように言える理由をこれから申し上げます。

原文では最初になっているのは「このわたしパウロが、あなたがたに願います」です。わたしたちがここで考えなければならないのは、いきなり難しい話になって申し訳ありませんが、ギリシア語の文法の話です。

神学校でギリシア語を勉強すると最初に必ず学ぶのは、ギリシア語の動詞は人称ごとに格変化するので、主語を省略しても文意は十分伝わる。だから、「わたし」とわざわざ書いている場合は強調があると考えなさい、ということです。

それはどういうことかといえば、今日の箇所にパウロが「このわたしパウロが」と書いているときに読者が考えるべきことは、著者パウロは「わたし」を強調しているということです。「他の誰でもなく、このわたしが」言っています。俺さま口調が入っているということです。

しかし、ここでパウロは「俺の言うことを聞け」と上から目線で押し付けるようなことを言いたいのではありません。むしろ逆です。正反対です。

ここでパウロが「このわたしパウロが、あなたがたに願います」と言っていることの意図は、自分が書いているのは、神の権威においてでもキリストの権威においてでもなく、あくまでもただのひとりの人間である私の個人的な意見にすぎない、という謙遜の意味です。

つまり、ここでパウロが「このわたし」をわざわざ強調して書いているのは、神とキリストの権威に基づく絶対的な命令ではありませんということです。押し付けられているなどと決して思わないでくださいという呼びかけでもあるということです。

そのことを言うために付け加えられているのが、原文では二番目の文章である「キリストの優しさと心の広さとをもって」です。その意味は、救い主イエス・キリストが優しい方であり心が広い方であることを思い起こしつつ、ということです。つまり「優しい」のはキリストです。「心が広い」のもキリストです。パウロが「俺さまは優しい」とか「俺さまは心が広い」と言っているわけではありません。

しかし、このあたりもわたしたちがよく考えなければならないところです。パウロが書いているのは「キリストの優しさ」であり「キリストの心の広さ」であって、パウロ自身の優しさでも心の広さでもありません。しかしだからといってパウロは、私自身は優しくもないし心が広くもないと言っているのかというと、それもなんだかおかしな言い方です。

私が愛用している聖書注解の中にオランダ語で書かれたものがあります。その著者の訳は「キリストの謙遜(zachtmoedigheid)と友情(vriendlijkheid)をもって」です(F. J. Pop, De tweede brief van Paulus aan de Corinthiers, De prediking van het Nieuwe Testament, 1962, 277)。

「謙遜」も「友情」も、キリストはそうであるが私はそうではないなどと言って済ませてよいことではなく、キリストを信じる者たちも学ぶべきだし、真似るべきことです。

そのことはパウロもよく分かっていました。だからこそパウロは、これはあくまでもわたしパウロがお願いしていることではあるが、「俺さまの言うことを聞け」と言いたいのではなく、キリストが示してくださった「優しさ」と「心の広さ」、あるいは「謙遜」と「友情」に自分自身も常に学び、真似しようとしている者のひとりとして、謹んで申し上げたい、と言っているのです。

そしてそれに続くのが、原文では三番目の文章である「あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている」です。これは私はいかにもパウロらしい彼の真骨頂を表す極めつけの一文だと思っています。

なぜ私はそう思うのでしょうか。この文章の中で誰もが目を引かれる衝撃の事実は「あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが」とパウロが書いていることでしょう。

ここで最も重要な言葉は「弱腰」(タペイノス)です。この言葉をギリシア語辞典で調べるといろいろ面白い訳が出てきます。単純に「弱い」という意味もありますが、「卑屈」とか「へつらう」とか「腰抜け」という意味もあります。ここでパウロが書いているのはどうやら後者の意味です。

そして、いずれにせよはっきりしているのは、これは人を軽蔑する言葉であるということです。ほめているのではありません。パウロは明らかに、貶されているのです。

しかも、誰から貶されているのかというと、これが大問題なのですが、悲しいことに教会の人々からです。キリスト教や教会のことが大嫌いな人々からではありません。教会に通っている人々です。キリスト者です。その人々からパウロは「弱い」だの「卑屈」だのと、あからさまに侮辱され、軽蔑されていたのです。

わたしたちならどうだろうかと、考えるほうがよさそうです。教会の牧師をつかまえて「弱い」だの「卑屈」だのさんざん言う方が皆さんの中におられるでしょうか。言っても構わないと思いますが。

しかし、立場を逆にして、軽蔑する側ではなく軽蔑される側になったときはどうでしょうか。皆さんはそれに耐えられるでしょうか。そういうことをよく考えてみる必要がありそうです。

ここでパウロが書いている「弱腰」と訳されているタペイノスという言葉の意味として「卑屈」とか「へつらう」とか「腰抜け」というのがあると申し上げました。それは肯定的な言い方をすれば、平身低頭を貫く謙遜な態度であるということです。

「平身低頭」とは、ひれ伏して頭を下げ、恐れ入ることです。それは良いことでしょう。しかし、それと全く同じ姿がパウロに対して批判的な人々の目から見れば「卑屈だ」「へつらっている」「へこへこしている」「腰抜けだ」「慇懃無礼だ」という否定的な評価にもなるということです。

ですから、今申し上げたように考えることができるなら、もしわたしたちがパウロと同じ立場なら、無視するのが最良の対応かもしれません。だって、人の評価というのは勝手気ままなものですから。謙遜な人をつかまえて卑屈だ腰抜けだと言いたい人には言わせておけばよい。そういう対応の仕方も十分ありえます。

しかし、パウロは無視しません。言い返してしまいます。炎上するタイプです。しかし問題はその返し方です。「やられたらやり返す。倍返しだ」というのもあるでしょう。パウロはどうでしょうか。

ここで大きく脱線するのをお許しいただきたいです。「腰抜け」という言葉で私が思い出すのは、30年前に世界的に大ヒットし、3部作になった映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」です。ご覧になっていない方には分からない話で申し訳ありません。

あの映画の主人公の名前がマーティー・マクフライと言ってマイケル・J. フォックスが演じましたが、その主人公の弱点が「腰抜け(チキン)」と人から言われることでした。

この言葉を聞くと頭に血が上り、冷静さを失って、自分が今しなければならないことを忘れ、それを言った相手を思いっ切りぶん殴ってしまい、取り返しのつかないことになって後悔するという、あの3部作の映画全体のキーワードでもありました。それが「腰抜け」でした。

その主人公のセリフとして有名になったのが、Nobody calls me chickenでした。日本語版の字幕や吹き替えは「だれもぼくを腰抜けと呼ばせない」でした。このセリフを言ってからマーティーは相手を思い切りぶん殴るというのが、ひとつのパターンでした。

パウロはどうだったでしょうか。今日は映画の話をしに来たわけではなく、聖書の話をしに来ました。今日の箇所にはっきりと書かれているのは、パウロは教会の人々から「あいつはチキンだ」と罵られていた、ということです。

このように言われると、どこかのスイッチが入って、頭に血が上り、相手をぶん殴ったでしょうか。どうもそうではなさそうです。むしろパウロは「腰抜け」呼ばわりされるのを喜んでいたようでさえあります。

本当にそうでしょうか。そうではない。2節以下を見なさい。「勇敢に立ち向かうつもりです」とか「そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています」とか、ずいぶんと強そうな言い方をしているではないか。彼はすっかり腹を立て、仕返しする気まんまんでいたのだという読み方もありうるかもしれません。

しかし、私にはそういうふうに読めません。もう時間がありませんので詳しい話はできませんが、ここでパウロが「勇敢に立ち向かう」と言っているのは、パウロは「肉に従って」(カタ・サルキ)生きていると誤解する人々に対してです。そうではなく私は「肉において」(エン・サルキ)生きているだけだと言っているだけです。

「肉に従って」生きるとは、肉の欲望のままに生きることです。それに対して「肉において」生きるとは、「肉体の中で」あるいは「肉体をまとって」生きる人間として、ありのままに生きることです。全く異なる2つのことを一緒くたにしないでほしい、と言っているだけです。

パウロは人間でした。「人間臭い」人でした。ある見方をすれば「腰抜け」でした。そう言われて無視するのではなくしっかり受けとめたうえで、腹を立てずに受け容れる人でした。自分が貶されることには大らかでした。自分の評価やプライドなどどうでもいいことでした。

パウロは神とキリストの権威に立っても語りました。そのことを否定するつもりはありません。しかしパウロは彼自身の言葉でも語りました。人間らしい、人間的な言葉でも語りました。その両面があったということです。それが大事です。こういうのを格闘技の用語で「二枚腰」と言います。

こういう人はどうでしょうか。私はこのような人こそ今の教会に求められていると思っています。

私は昨年度1年間、高等学校で聖書を教える常勤講師(代用教員)でした。その経験の中ではっきり分かったことですが、今の高校生たちは居丈高に振る舞う教師などは心の底から毛嫌いします。一方的に押し付ける言葉などには全く聞く耳を持ちません。

まして宗教や聖書に関してはなおさらです。神の権威もキリストの権威も教会の権威も全く通用しません。

かろうじて彼らが自分の心を開く相手は「人間として信頼できる大人」だけです。自分も将来そういう大人になりたいという願いを持っています。しかし「信頼できる大人がどこにもいない!」と彼らは嘆いています。そこに彼らの切なる求めもあります。

教会はどうでしょう。わたしたちはどうでしょう。権威的な存在でなければならないでしょうか。今はもうそういう時代ではないし、宗教と教会に権威がある時代は二度と戻ってこないし、戻ってこなくていいのではないでしょうか。

そういうのではなく「弱くて優しい大人の集まり」であることが教会に求められているのではないでしょうか。

今日皆さんに考えていただきたいのは、このことです。

(2017年5月14日、日本基督教団青戸教会 主日礼拝)

2017年5月12日金曜日

サイボーグ009が読みたいだけなのだ

サイボーグ009(コンビニコミック版)
今日の予定がひと段落ついたので、出先で立ち寄ったブックオフで買ったコンビニコミック版サイボーグ009で和む。豪華版とサンデーコミック版各全巻、メディアファクトリー版と文庫版各一部は入手済み。内容は同じだが、味わいは違う。1冊100~300円程度。マニアではないが、楽しみではある。

すべては過去のことなので、そろそろ書いてもいいだろう。ファン・ルーラーを読みたくてオランダ語を独習し、ファン・ルーラー研究会を何人かと立ち上げた。そうしたら、ファン・ルーラーを訳すくらいならカイパーを訳せ、ベルカウワーを訳せと言われはじめた。なぜ人にやらせようとするのかと思った。

何度も明かしてきたことだが、ファン・ルーラーを読むためにオランダ語を独習する気になったのは、東京神学大学の先輩でもある高崎毅志牧師(物故者)が「組織神学をやる者は自分の読みたい著者の言葉を独学するものだ」と励ましてくださったその一言による。全く同じ言葉を私も後輩たちに言ってきた。

もちろん組織神学だけの話ではないとは思うが、こと思想系を学ぶ場合、自分が読める範囲内の語学で本を読むだけでは超えられない壁がある。各国の思想的な空気の中での暗黙の了解のようなものがあり、そのあたりにこそ甘えや罠や弱点がある。そういうのを容赦なく突いていくのが組織神学の仕事である。

しかしそれは今はどうでもいい。自分で読みたい本があるなら自分でその著者の言葉を学び、自分で読んでくれ。それ以外に道はないし、他人のふんどしで相撲はとれない。オーダー通りその本を訳してもお世辞以上のことは言ってもらえないだろう。自分で訳さないかぎり外国語の本の心は分からないものだ。

なぜ今夜こんなことを考えているのかといえば、だからサイボーグ009なのだ。私はサイボーグものやロボットものなら何でもいいと思っているわけではないし、石ノ森章太郎作品なら何でもいいと思っているわけでもないし、すべてを読む気はさらさらない。サイボーグ009が読みたい。それだけなのだ。

2017年5月10日水曜日

おいしいカレーの作り方

おいしいカレーを作りました。レッツ・エンジョイ・クッキン!

①買い出し
②調理
③配膳
④片付け

2017年5月9日火曜日

私は復活の神学のほうがいいや

Windows10 Creators Updateの「ディスプレイ夜間モード」は眠い

幸い私は、というか牧師たちは(とあえて言わせてもらう)「自分がどこから来てどこへ行くのか」を知っている。自分の出発点を覚えているし、目標も分かっている。そういう心の支えがあるので、たとえ生活環境に乱高下があろうと、大いに狼狽えはするが(するんだ)、自己崩壊まではなかなか至らない。

私は復活の神学のほうがいいや。十字架上で絶望して絶叫した存在のままでいてくれるメシアのほうが自分と重ね合わせられる身近な存在なので、自分以上の存在を認めなくて済んで「慰められる」のでプライドが傷つかなくて済むかもしれないが、そういうのはごめんだ。プライドなんかいいかげん捨てろよ。

メシアは復活したが40日したら「昇天」して弟子たちの前から姿を消した。弟子たちは結局置いてきぼりにされたし、自分たちで全部やらなくてはいけなくなった。それが大事なんだよ。「慰め」で終わるとか、はあ?だよね。ありの~ままで~レリゴーレリゴーって言ってもらえるの未成年までじゃないの。

宗教はアヘンだと言った人がどういう理由や根拠でそう言ったのかを調べたこともないし興味もないが、分かるところは大いにある。ありの~ままで~レリゴーレリゴーの線で、あなたのままでそのままで受け容れられているとか言ってもらえる「慰め」だろ。まずいよね。人の自立と成長を阻むものがあるよ。

そういうのがイヤだから牧師になったんだけど。牧師の説教がどうしても納得できなくて、だけど教会や聖書の教えそのものが間違っているとは思えなくて、だったら自分で調べるしかないじゃんという結論が出て、自分が牧師になろうと思っただけだ。それが自立と成長でしょうに。「慰め」が動機ではない。

他人の失敗談とか大好きな人たちいるよね。自分と同じだと「慰め」られるようだけど。一緒にしないでほしいんだけど。そのうち思いっきり振り切って逃げられるよ。そのときまたそのプライド傷つくんじゃない。もっとどん底味わうよ。その覚悟があるならいいけど。「慰め」で終わるなよ、お願いだから。

日本だけではないと思うがとりあえず日本で牧師をしている者たちは、そもそもの最初からマイノリティの極致だったし、ずっとそうだし、死ぬくらいまでそうなので、要は基本が最底辺だということで、乱高下の「高」の状態をほとんど知らないし、ほとんど信用していないところがある。それが強さになる。

それと、神学や教会論を「狭く」切り取ってとらえる立場に立つとか、ピンポイントの聖書箇所についての釈義的な大発見の上に立つ神学(〇〇の神学)のようなものに全体重を乗せてしまうと、自己矛盾に耐えられない状況が訪れるのが早まる可能性が高いので、「論理的な自己崩壊」は比較的起こりやすい。

その手の「狭い」神学にありがちな「あれか・これか」の決断主義はナイーブになりやすい。「あれも・これも」受け容れる包容力というか、ルーズさを身につければ、少なくとも「論理的に」自己崩壊することは免れられる可能性が高くなるし、交友関係が広がり、助け合いの幅が広がる。これも強さになる。

Windows10のCreators Update(バージョン1703)をインストールしたとき加わったらしき「ディスプレイ夜間モード」という新機能に昨夜気づいてさっそく試している。睡眠障害の原因になるブルーライトを抑えているのは分かるが、これなんだか眠くなる。やる気スイッチオフ。

2017年5月8日月曜日

Nobody calls me chicken

最近は毎週のようにどこかの教会で説教させていただいている。定住牧師不在の教会の場合、聖書や信仰についての質問にお応えする日もある。「わたしたちも牧師さんたちがおっしゃることを理解したいと思っているんですよ。質問しやすい先生でよかった」と言われたときはうれしかった。怖くないからね。

同じ理由で叱られることもある。「もっと指示すべきだ」とか「自信がなさそう」とか「優柔不断だ」とか。その先「無責任だ」「卑怯だ」あたりまで言われるとカチンと来て、怖くないキャラでカバーしようとしてもボロが出る。まあでも、このキャラはたぶん一生変わらない。上から言うとか、ほんと無理。

ネットのお友達に勧められて「貴族探偵」を観た。面白かった!木南晴夏さんの個人的なファンを自任。圧巻の名演技。「こういう人いるいる」と納得。リッチでゴージャスで大らかだけど、ゼンゼンいやみが無くて落ち着く。初回から観ればよかった。ネット配信もあるようなので、そのうちまとめて観よう。

「貴族探偵」視聴中
先月よりやる気が回復してきた。来週の礼拝説教は初めてお訪ねする教会。ふだんより緊張するので早めにしっかり聖書に取り組む。説教箇所をギリシア語から私訳し、長年愛用のオランダ語注解署を参考にしながら釈義と黙想。読み込むほど面白い箇所だ。Nobody calls me chicken.

「説教原稿」作成中

2017年5月7日日曜日

小金教会の主日礼拝に出席しました

日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)
今日(2017年5月7日日曜日)は日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)の主日礼拝に出席させていただきました。自宅(借家)から最も近い教会(1.2キロ)です。創立は1949年4月24日とのこと。今泉幹夫牧師の力強い説教を伺い、聖餐式にあずかりました。ありがとうございます。

2017年5月5日金曜日

最高のゴールデンウィークになりました

お茶の水といえば楽器の街
今日(2017年5月5日金曜日)は旅行中の友人Takeshi Hatayaさんと午前9時にお茶の水で待ち合わせ、朝食をご一緒した。「お茶の水の」吉野家で朝定食をいただき、「お茶の水の」スタバで冷コーをいただきながら語り合った。とても有意義で楽しかった。Hatayaさんありがとう!

八千代市市民会館(千葉県八千代市萱田町728)
今日の午後は「千葉英和高等学校吹奏楽部 第32回定期演奏会」(会場・八千代市市民会館 大ホール)に行った。新3年生も新2年生も元気そうで安心した。演奏はとても見事だった。たくさん涙が出た。劇の悪役が名演技だった。司会進行が丁寧で分かりやすかった。最高のゴールデンウィークになった。

2017年5月4日木曜日

日本聖書神学校に行きました

日本聖書神学校(東京都新宿区下落合3-14-16)
今日(2017年5月4日木曜日)は日本聖書神学校(東京都新宿区下落合3-14-16)を訪問した。訪問目的は神学校チャペルでの結婚式の見学。来月から司式者の中に加わることになった。結婚式司式の経験は教会でも一般の式場でも何度もあるが、毎回緊張する。気を引き締めて取り組む所存である。

2017年5月3日水曜日

上野で重要な会合に出席しました

ハードロックカフェ上野駅店(東京都台東区上野7-11-1)
今日(2017年5月3日水曜日)は久しぶりに上野に行き、重要な会合に出席した。何度目の開催だろう。待ち合わせは毎回「ハードロックカフェ上野駅店」(東京都台東区上野7-1-1)の前と決めてある。後代の歴史家はこの場所を「あの重要な会合に出席する人々の集合場所であった」と記すだろう。
日本基督教団下谷教会(東京都台東区東上野3-37-10)
集合時刻より早く到着したので、日頃の運動不足を解消するために上野駅周辺を歩くことにした。5分ほど歩くとなんと教会が。日本基督教団下谷教会(東京都台東区東上野3-37-10)だった。そのとき出席者のひとりから「まもなく到着」と連絡があったので駅へ引き返した。歩行距離1キロ。少なっ。