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日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂 |
マルコによる福音書14・10~21
「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、『過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか』と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。『都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。「先生が、『弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか』と言っています。」すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。』弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。』弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。イエスは言われた。『十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。』」今日の個所に登場する中心人物は、イエスさまの十二人の弟子の一人のイスカリオテのユダです。ユダがイエスさまを裏切ったことはあまりにも有名です。聖書を読んだことがない人でも知っている話です。ユダといえば裏切り者、裏切り者といえばユダ。それくらいよく知られています。
ユダがしたのは、祭司長、律法学者、長老と呼ばれる人々と手を組み、協力することでした。彼が実際にしたのは、イエスさまを捕まえるために捜している人たちにイエスさまの居場所を教えるために、その人々が遣わした兵隊たちを先導してイエスさまがおられる場所まで連れて行くことでした。
その裏切りによってユダが得たのはお金でした。マタイ福音書によると、祭司長たちに金銭を要求したのはユダ自身でした。「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った」(マタイ26:14-15)。
ユダに対する祭司長たちの答えも、マタイ福音書に書かれています。「そこで、彼らは銀貨30枚を支払うことにした」(マタイ26:15)。なぜ銀貨30枚なのかは聖書に記されていませんが、当時の奴隷一人分の値段が銀貨30枚だったと言われます。理由はおそらくそれであると思われます。
しかし、銀貨30枚にどれくらいの価値があったのかははっきりとは分かりません。ある説明によれば今の100万円くらいだそうです。ユダとしては、ある程度まとまったお金であると言えそうです。しかし、視点を換えて言えば、祭司長たちはイエスさまに100万円の値札を付けたということです。
そして、ここで重要なのは、その具体的な金額を決めたのは祭司長たちであって、ユダが要求した金額ではなかったという点です。もしユダが「銀貨30枚をください」と要求したのであれば、イエスさまの命の値段を決めたのはユダ自身であったことになりますが、そうではありませんでした。
しかし、このときユダがある程度まとまったお金を欲しがっていたということは否定できません。そのことはヨハネ福音書を読めば分かります。先週わたしたちがマルコ福音書で学んだ、イエスさまにナルドの香油を注ぎかけた女性の話が、ヨハネ福音書12章にも記されています。その中に、なんとユダが登場します。
ヨハネは、イエスさまにナルドの香油を注ぎかけた女性がマリアだったことを明らかにしています。このマリアはベタニアに住むマルタの妹、ラザロの姉でした。そして、そのマリアに「なぜこの香油を300デナリオンで売って貧しい人々に施さなかったのか」と言ったのがイスカリオテのユダでした。
そして、ヨハネは次のように記しています。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(ヨハネ12:6)。これで分かるのは、ユダは金入れを預かる会計担当者だったということです。
しかし先週学んだ個所に記されているのは、「この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言ったのは「そこにいた人の何人か」(14:4)であり、ユダ一人が言ったことのようには記されていません。ですからわたしたちは、両方を合わせて考える必要があります。
それはつまり、ナルドの香油をイエスさまに注ぎかけた女性を非難した「何人かの人たち」の中にユダが含まれていたということです。先週私が申し上げたのは、彼女を責めた人々の言い分にも一理あるということでした。しかし、ユダは別です。彼にはやましいことがあったのです。
ユダは弟子たちから預かっている金入れの中身をごまかしていました。その帳尻を合わせるためにお金が必要でした。彼がごまかしていた金額は分かりません。もしかしたら300デナリオン(約300万円?)だったかもしれません。銀貨30枚(約100万円?)では足りなかった可能性があります。
ですから、ここで考えられるのは、ユダが、不正が発覚しないようにするために帳尻を合わせようとしていたということです。そのために、「ナルドの香油を売ればよかった」と言ってみた。しかし、それは失敗した。それでついにイエスさまを売ることにしたということです。
おそらくユダは、イエスさまがいなくなってくれれば、いやもっとはっきり言えば死んでくれれば、自分がしている不正のすべては有耶無耶になるだろうというようなことを考えていたのです。なんと浅ましい。なんと卑劣。弁護の余地がありません。
しかし、彼がごまかして開けてしまった会計上の穴が、イエスさまを売ることで得た銀貨30枚程度で埋まるものだったかどうかは分かりません。その穴はもっと大きいものだったのではないかと私は思います。結局ユダは、最後は自分で自分の命を絶ちます。彼が犯した不正のすべては藪の中です。
お金が人を狂わせる。それはいつの時代でも同じです。しかし、決して誤解すべきでないことは、すべての会計担当者が不正を犯すわけではないということです。忠実で良心的な人はたくさんいます。
そしてわたしたちが忘れてはならないのは、ユダを十二人の一人に選んだのはイエスさまであるということです。彼に会計の仕事を任せたのもイエスさまです。そのことは聖書には記されていませんが、そうだとしか考えようがありません。任命権者はイエスさまです。最終責任者はイエスさまです。
その意味では、もしユダが、自分の犯した不正をイエスさまに正直に打ち明け、その罪を深く悔い改めることができたとすれば、イエスさまはユダを必ず赦してくださったに違いないのです。あなたを弟子に選んだのも、お金を預けたのも、その責任は私にあるということを認めてくださり、一緒に解決策を探してくださったに違いありません。
しかし、それがユダにはできませんでした。最悪の道を選びました。イエスさまを銀貨30枚で売り渡しました。ユダが祭司長たちとそのような打ち合わせや約束をしている現場を、イエスさまが目撃なさったわけではありません。しかし、イエスさまはユダの心を見抜かれました。イエスさまの目は節穴ではありませんでした。
それは「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」のことでした。弟子たちがイエスさまに「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意しましょうか」(12節)と言いました。すると、イエスさまはかなり細かく具体的な指示を出されました。弟子たちが行ってみると、ある建物のある部屋にその準備が整っていました。
そのような部屋があることをなぜイエスさまがご存じだったのかは記されていませんが、理由を想像するのは難しいことではありません。イエスさまがエルサレムに来られたのは初めてではありません。幼い頃から両親と共に毎年のように行かれていました。イエスさまはエルサレムをよくご存じだったのです。
それにイエスさまは、何の計画もなしに、行き当たりばったりで、エルサレムまで来られたわけではありません。むしろ綿密な計画をもって来られました。神殿の境内の商人たちを追い出したことも、急に不愉快になって、怒りに任せて当たり散らしたわけではありません。すべては計画どおりでした。
そのように考えれば、過越の食事の席が整っている部屋があるということをイエスさまが弟子たちに教え、我々のために食事の準備しなさいとお命じになったことは、それほど不思議なことではないし、驚くべきことでもありません。
そしてイエスさまと弟子たちがその部屋に行き、過越の食事が始まりました。その席でイエスさまがユダの裏切りをはっきり指摘されました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18節)。それはユダのことでした。
弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と口々に言いました。すると、イエスさまは「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」(20節)と言われました。今いちばん近くにいる、少なくとも外見上は最も親しい関係にあるように見えるこの人が裏切る、と。
そしてイエスさまは続けて言われました。「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(21節)。このようにイエスさまが言われたことの意味は、御自分の死もまた計画どおりであるということです。
ただしそれは聖書に書いてある計画です。神の計画です。神はメシアを世にお遣わしになりました。そして神は、メシアを十字架につけることによって、全人類の罪の贖いを行われました。そのような神の人類救済計画を実行するために、メシアであるイエスさまがエルサレムに来られたのです。
そのことをイエスさまははっきりと自覚しておられました。ですから、イエスさまにとってユダの裏切りは、父なる神御自身の計画の中で定められたことであると信じておられました。それは考えれば考えるほど凄まじい話なのですが、イエスさまはユダの存在と彼の裏切りを間違いなくそのようにご覧になっていました。
ですから、イエスさまの最後の言葉は、ユダへの呪いではなく、むしろ憐れみです。神の人類救済計画の中でメシアが十字架につけられるために弟子の一人がメシアを裏切る。その不幸で残念な役割を与えられたユダは、イエスさまの目からご覧になれば、憐れみの対象以外の何ものでもありません。
これとは別の道はなかったのでしょうか。だれもメシアを裏切らない、ユダのような不幸な存在が登場しなくて済む、もっと明るくてみんなが幸せになれるような道はなかったのでしょうか。それは今さら問うても仕方がないことかもしれません。その問いに神は沈黙されたままです。
(2015年6月7日、松戸小金原教会主日礼拝)