ウェスレーとメソジズム双書1『ウェスレーとカルヴィニズム』(1963年) |
ネット上では唐突に「ジョン・ウェスレー研究」を開始した私です。実は30年近く前からの宿願でした。しかし、なかなかその環境が整いませんでした。
そして、もちろん強引ではありますが、「ジョン・ウェスレー」と「ファン・ルーラー」を結びつけて考えてみたいという思いが今の私には当然あります。
まだ見たことも触ったこともないデューク神学校版『ジョン・ウェスレー著作集』の構成を見て、ウェスレー先生は「牧師さん」だったのだなということがよく分かります。『著作集』を埋め尽くす要素は、「説教」と「日誌・日記」です。「神学」や「教理」の部分は、全くないわけではないが、多くはない。
あとは対社会的アクションですが、ウェスレー先生は他の要素とのバランスがとれているように見えます。しかしそれは比率の問題です。全部するのが「牧師」です。説教はするけど神学はノータッチ。逆に、神学はのめり込むが説教や教会的実践や対社会的アクションはノータッチ。これはアンバランスです。
ファン・ルーラーも牧師でした。同世代の著名な神学者よりも教会的な人でした。彼の「牧師性」と「教会性」を明らかにするために書いた拙論「説教・教会形成・政治参加、そして神学―A. A. ファン・ルーラーの『教会的実践』の軌跡―」が『改革派神学』第35号(2008)に掲載されています。
拙論の「暗黙の」目的は、神学者ファン・ルーラーの「教会的実践」を明らかにすることにおいて彼の「牧師性」を浮き彫りにすることでした。「牧師なるもの」はもはや「学なるもの」に関わりえないと見なされている今日的状況の中で「現実はそうでもないんだけどね」と言いたい思いだけで書きました。
今年(2015年)に入って2月16日(月)、3月9日(月)と立て続けに2回行ったファン・ルーラーについての講演は、教会の週報のカレンダーの中に書きましたが、それだけにとどめ、教会の中では一切宣伝しませんでした。教会の方々には全く責任のないことですので、批判でも愚痴でもありません。
「牧師は教会に専念しろ。学者は大学・神学校に専念しろ。二兎を追う者は一兎をも得ずだ」。主旨は100パーセント同意します。
「牧師」の存在と「大学」だ「学会」だの存在とは論理的に結びつきえない、まるで相反関係にあるかのように見なされる、わが国のというより現代社会の風潮に配慮しました。
しかし、こういうことを言われる時代の中で私がしきりと考えることは、「それではだれが組織神学をやってくれるのか」という問いです。兼務の人たちは別ですが、教会の職務から解放されて大学・神学校に専念しているはずの学者たちが、組織神学をちゃんとやってくれているようにあまり見えないのです。
その人々に文句を言いたいがために、何の権限も資格もない私ごときが、やたら神学だ神学だと騒いでいます。
現在オランダで刊行中の新しい『ファン・ルーラー著作集』は、それでもかなり「組織神学」の部分が多い構成になっていますが、独立した一冊の本として書かれたものは少なく、大部分は新聞や雑誌に書き散らしたものです。それをかき集めて『著作集』として仕上げている編集者には心から敬意を表します。
デューク神学校版『ジョン・ウェスレー著作集』の大部分が「説教」と「日誌・日記」で埋め尽くされていることに安堵感を覚えつつ、ウェスレーの「神学」に関心がある私です。まとまらない、とりとめのない書き散らしで、すみません。
そして牧師は料理もします。これも比率の問題です。お味噌を加えた「照り焼き鶏」、湯通しした「キャベツの千切り」、3月9日(月)「講演を聴きに来ました」と神戸から青山学院大学までおいでくださった森川甫長老の贈物の「いかなごのくぎ煮」が美味です。
今日の自作料理 |