『ウェスレー著作集 第6巻 神学論文上』(新教出版社、1967年) |
『ウェスレー著作集 第6巻 神学論文上』(藤井孝夫・野呂芳男訳、新教出版社、1967年)を本日入手しました。お恥ずかしながら、遅ればせながら、人生初の購入です。ネットで格安で売られていました。やっと会えたね。よし読もう。
ジョン・ウェスレーのことを本腰を入れて勉強してみたいという気持ちになった理由の一つは、私の書斎の本棚に「18世紀プロテスタンティズム」のものが皆無に等しいことです。16、17世紀のものはあり、19世紀以降のものもありますが、18世紀がない。ほぼ百年分、すっぽりと抜け落ちています。
その代わり、私が持っている「18世紀的な」文献は、カント、ヘーゲルです。いわゆるドイツ観念論の文献です。フランス革命前夜のものというべきか。ヨーロッパが「脱教会化」の方向に踏み出していく時代というべきか。その18世紀のプロテスタンティズムに関する文献を私はほとんど持っていません。
それでよいと私には思えないのです。プロテスタンティズムは16世紀から始まったとしても、その後今日に至るまで一度も途絶えることなく歴史的な歩みを続けてきました。その継続的な歴史を考える中で「18世紀」の百年分が視野から抜け落ちていることは問題です。何とかカバーしなくてはなりません。
18世紀プロテスタンティズムの世界的な代表者としてジョン・ウェスレーをとらえることは決して強引ではないと私は考えます。カルヴァンを起点とする「改革派・長老派教会」とウェスレーを起点とする「メソジスト教会」が長年対立関係にあったことを私ももちろん知っていますが、それは過去の話です。
しかし、神学や思想のレベルでは「改革派・長老派教会」と「メソジスト教会」との折り合いが付いているとは言いがたい状況かもしれません。だからこそ互いにテキストを読むことが重要です。それ以外に相互理解の方法はありません。相手のテキストを読まずに知ったようなことを言うべきではありません。
その際確実に言えることは、言わずもがなのことですが、「カルヴァンはウェスレーを知らないが、ウェスレーはカルヴァンを知っている」ということです。18世紀のプロテスタンティズムを研究することは、16世紀17世紀のプロテスタンティズムの功罪、とくに「罪」の面の後処理の研究でもあります。
まだ確たる焦点が定まっているわけではありませんが、16世紀17世紀にある種ブームのように大量に産み出されたプロテスタント的な信仰告白文書やカテキズムは、18世紀の教会にとってどのような意味や意義を持っていたのかというような問いが浮かんできます。18世紀は私にとっては未知領域です。
今ではよく知られているのは、17世紀オランダ改革派教会の牧師であり神学者であったヤーコプ・アルミニウスの神学思想の影響を、英国国教会の司祭であったジョン・ウェスレーが受けたということです。アルミニウスはオランダ改革派教会から排斥されましたので、いわばカルヴァン主義の傍流扱いです。
しかし私が考えざるをえないのは、カルヴァン主義者がアルミニウスとアルミニウス主義者を排斥した根拠や経緯はどれほど正当なものであったのかというようなことです。本当に袂を分かたなければならないほどの関係だったのでしょうか。小さなことを大きく騒ぎ立てすぎた可能性はなかったのでしょうか。
カルヴァン主義とアルミニウス主義の関係、あるいは改革派・長老派教会とたとえば(アルミニウス主義の影響下で成立したとされる)メソジスト教会やホーリネス教会の関係を、一方を「主流」、他方を「傍流」とすることの正当の根拠は何でしょうか。それは一方の傲慢、他方の卑屈ではないのでしょうか。
私の「ジョン・ウェスレー研究」は、まだ端緒に付いたばかりですので、何かほんの少しでも結論めいたことを申し上げられるほどの段階には全くありません。しかし、私が思い描いていることを具体的にいえば、だいたいいま書かせていただいたようなことであると思っていただけば、全く間違いありません。
私は生後まもなくから31歳まで、日本基督教団におりました。日本キリスト改革派教会での生活は18年です。私を見て「どちらの人間」かを問う人は今はいませんが、私の自覚の中では「一方を切り捨てて他方に立つ」というような考え方や行動をとったことはなく、どちらにも自由に行き来してきました。
その上で申し上げますが、カルヴァン系とアルミニウス系を、一方を主流、他方を傍流と位置づけて「部」に分けたのが1941年時点の日本基督教団の「部制」によく反映されていると私には見えますが、うがった見方でしょうか。主流だから「第一部」、傍流は後ろ。こういうの、どうだったのでしょうか。