2014年1月30日木曜日

「本」は背表紙ですよね

何をもって「電子書籍」と呼ぶか、その定義にもよると思いますが、(有料の)「電子書籍」、ぼくは結局、買う気も、利用してみようという意欲も、全く起こらないですね。無料で公開されている夏目漱石の小説とか、パラパラ(という音までする)めくってみましたが、途中でやめてしまいました。

ぼくにとって「本」の存在とは、ある意味で、第一義的に「背表紙」なんです。なぜなら、たとえば、ぼくの書斎にある大量の本は、一度にすべてを読めるわけではないからです。本棚に並んでいる「背表紙」と、そこに書いてあるタイトルや著者名だけを眺めながら、何年も、何十年も過ごして来ました。

買ってから実は一度も開いていない本も、ぼくの本棚の中にある。だけど、「背表紙」だけは何十年も見続けてきた。そして、その中に書かれていることは何かを、開くことも読むこともしないまま、ずっと想像し続けてきた「本」があります。だけど、電子の本には、そういうことはできないと思うのです。

だから、逆に言えば、「背表紙がない本」とか「背表紙に本のタイトルが書かれていない本」は、ぼくにとっては「本」として認識しづらいものでもあります。「背表紙」が付く厚さまであって「本」です。でも、新聞や(パソコンやら芸能やらの)雑誌は「電子書籍」で十分です。紙の新聞は読んでいません。

2014年1月24日金曜日

神学に取り組む《権利》はどうしたら獲得しうるか

「神学」は万人に公開されているもので、だれでも取り組むことができます。

ファン・ルーラーは「神学」を「最もポピュラーな学問」と呼んでいます。

することは、本を読むことと、字を書くことです。他にどうすることもできません。

本を読むことは、立ってでもできるし、座ってでも、歩きながらでもできます。

字を書くことは、どうでしょう、なるべくなら座ってのほうがいいような気がします。

でも、立ってでも歩きながらでも字を書くことができる人がいるなら、それもよし。

とはいえ、はっきりしていることは、

神学への取り組みとして本を読むことと字を書くことには、長大な時間がかかる、

ということです。

そして、それは「没頭すること」なしには、たぶんモノになりません。

しかし、困ったことがあります。

本を読み、字を書いている人の姿は、

ハタから見ると「何もしていない」ように見えることがあります。

だから、その人は「売れる本」を書かねば「仕事している」と認められません。

ですが、「売れる本」を書くために、たとえば小説家のような人は、

ほとんどすべての時間を「本を読み、字を書くこと」に費やしています。

「神学」も、たぶん同じです。

そうすることが「仕事」であると認めてもらう《権利》を獲得することなしに、

長大な時間を「本を読み、字を書くこと」に費やすことはできません。

しかし、その《権利》は、どのようにして獲得すればよいのでしょうか。

やっぱり修道院が必要でしょうかね。

インディーズ系の神学は、いつまで経ってもオタク呼ばわりですかね(自暴自棄)。

「一気に」ファン・ルーラーが分かります


思想とキリスト教研究会機関誌『途上』第28号に掲載された

拙論「A. A. ファン・ルーラーの神学思想の特質」

をご一読いただいた方々から感想が届いています。

2人の方が「一気に読みました」と同じ言葉を書いてくださいました。

うれしいです。

「一気読み」できます。

「一気に」ファン・ルーラーが分かります。

みなさま、ぜひ「一気に」お願いします。

『途上』第28号、1,700円(税別)です。

2014年1月17日金曜日

阪神・淡路大震災の記憶


ぼくも「阪神・淡路大震災の記憶」を書きます。

1995年1月16日(月)と17日(火)、

ぼくは岡山市内にいました。

「ニケア信条を学ぶ研修会」(講師 関川泰寛先生)に出席するためでした。

その前日の1月15日(日)は、前年(1994年)12月26日(月)に生まれたばかりの長男に、父(ぼく)の手で幼児洗礼を授けた日でもあります。

つまり、当時、長男は生後3週間。

その子と妻を高知県南国市の牧師館に残して、ぼくは「ニケア信条を学ぶ研修会」に出席するために岡山市にいました。

一日目の学びが終わり、岡山市に実家があるぼくは、他の出席者と別れ、実家で宿をとりました。

翌朝5時46分。ぼくはまだ就寝中。

「枕が揺れる~」という違和感がありました。でも、目が覚めるというほどではなく、夢の中のようでした。兵庫県の隣県にもかかわらず、岡山市内の揺れはその程度でした。

その直後、テレビをつけた父が

「おお、康。神戸がたいへんだ」

と言ったことを忘れることができません。

それで飛び起き、眠い目をこすりながら支度して、

「ニケア信条を学ぶ研修会」の会場の蕃山町教会に行きました。

当然、二日目の学びは中止。この会の出席者は、遠くは和歌山あたりから大阪、兵庫くらいまでの教師・信徒でした。

自分の家と連絡がつかない!

道路も電車も止まっている。どうする。

それでみんなで思いついたのは、紀伊半島や大阪方面からの出席者を、岡山から瀬戸大橋経由で徳島港まで送り、フェリーで帰っていただくことでした。

ぼくは四国からの参加組でしたので、ぼくの車にも紀伊半島在住の何人かの方が乗り、徳島港まで行きました。

そのことに必死になっている間、意識の外に置いてしまっていたのは、高知の牧師館の二人のことでした。

高知もかなり揺れたそうです。

帰宅後、長男は「ああ、こわかったー」とは言いませんでしたが(生後3週間でしたので)、妻の表情が若干こわかったことを、忘れることができません。

大きな被害に遭われた方々のことを知るにつけ、胸が痛みました。

そして、「いろんな意味で」阪神・淡路大震災は、ぼくの人生の転機になりました。

1995年時点で父が「神戸がたいへんだ」と言ったことの背景には、その数年前からぼくと神戸改革派神学校(日本キリスト改革派教会立)との関係がありました。

2年後の1997年1月にその神学校の2年に編入しました。

編入後、神学生から震災時の苦労を教えてもらいました。

2014年1月14日火曜日

日記「奇跡が起こりました!」

奇跡が起こりました!信じるか信じないかは、あ・な・た次第。

【事件編】

たった今です(2014年1月14日火曜日の夕方)。

「ごめんくださーい。郵便局でーす」

「(なんだろ?)はーい。どうぞー」

カチャ(教会の玄関が開く音)

「お荷物でーす。サインお願いしまーす」

「はーい。サイン、ここでいいですかー」

「そうでーす。ありがとうございましたー」

「どもー」

で、デカイ小包がドスン。

「(なんだろ?)」

ビリリ(粘着テープをはがす音)。

え、え、え、えーーーーーっ???!!!


【解決編】

デカイ小包の中身は、二人の有名なギリシア人でした。

それはもうスゴイ勢いで箱から飛び出して、すっくと立ちました。

召還したのは、ぼくじゃないです。

昨日お祈りはしました。

だけど、まさか翌日に二人が来てくれるだなんて、めっちゃびっくりしました。

ありがとうございました!とてもうれしいです。


【番外編】

今日来てくれた二人のギリシア人と、以前からのぼくの部屋の住人との比較です。


「月報」コンプリートです!うしっ!


「新刊案内」もほとんど揃ってました。やたっ!


地に足をつけるとは、ゆっくり歩くことのようだ


19世紀を「ついこないだ」とか言ってしまう。

そんな加速装置を持つ「神学」だ「哲学」だに頭を悩ましていると、

どこにも行ってないのに時差ボケが起きる。

時差ボケ解消の有効な方法は「歩くこと」だと、今さらながら気づく。

ここは50年前のニュータウン。

今はオールドタウンだ。

年齢についての話題を書くと傷つく方がおられるので、書かないでおく。

交差点の信号待ちをしていたとき、

ぼくの目の前にいた80歳くらいの男性が、タバコを吸いながら、

携帯電話で大きな声で話していた。

「おれはあの店ヤだよ。

 だってタバコ吸えないでしょ。

 他の店探してよ。

 タバコ吸える店がいいよ。」

その話題をえんえんと続けていた。

その話を聞いていて(聞き耳を立ててたわけではない)

やっと、加速装置を解除できたような気がした。

地に足をつけるとは、ゆっくり歩くことのようだ。

まあ、これはこれで、けっこう楽しいな。

2014年1月10日金曜日

日記「マンガ版『純粋理性批判』を夢中で読んでいます」


おっ、今日は久々にちょっとだけ冴えてるぞ。

暗算とか大の苦手のぼくですが、最近は経験則で「いくらぐらい」が分かるようになりました。

だいたい予算どおりでした。よし。

経験則に頼りすぎると「経験したことがないことは分からないので興味もない」というような懐疑論や無関心に陥る。

しかし、全く経験なしにア・プリオリに「それはこうに決まっている」と言い張る独断論的認識論は、危なっかしくて仕方ない。

しかも、財布のお金を有効活用するには何をどのくらい買えばよいのか、いかにコストを削減するのかなどをミクロ的に丁寧に考え抜く「分析的認識」が必要である。

しかし、重要なことはそれだけではない。

これらの買い物をどのような料理に仕上げるかをトータルかつマクロ的に見通す「総合的判断」もまた同時に必要である。

マンガ版のカント『純粋理性批判』を夢中で読んでいます。面白いですよ。

「第22回 カール・バルト研究会」報告


2014年1月10日金曜日、「第22回 カール・バルト研究会」を行いました。出席者は以下のとおりです(五十音順、敬称は略させていただきます)。

小宮山裕一(茨城県ひたちなか市)
齋藤 篤(ドイツ・ケルン市)
関口 康(千葉県松戸市)
中井大介(大阪府吹田市)
藤崎裕之(北海道亀田町)

なんと、カール・バルト研究会、丸一年続いてしまいました。

次回(1月24日金曜日)、「第23回」でカール・バルト研究会の一周年記念会を行います。

いつもと同じようにカール・バルトの本を「批判的に」読むだけのことですけどね。

一年間、ありがとうございました。

2014年1月9日木曜日

子どもの頃の記憶

意識的に考えないようにしていたことなので、本格的に忘れてました。

でも「考えないようにしていたこと」を思い出しちゃった。困った脳だ。

子どもの頃、「あなたの尊敬する人は?」という質問をけっこう受けた。

学校とかいろんなところでのアンケート用紙とかの質問だったかも。

その質問に答えられなくて、答えられなくて、答えられなくて嫌だった。

なんでこんな質問するのか、答えさせるのかが、全く分からなかった。

踏み絵よりもこの質問が、ぼくは嫌だ。

 この質問を強要する人間に対して憎悪を抱くレベルだ。

なんでこんなに嫌なんだろう、憎いんだろう。 なんなんでしょうね。

今日(いま)ふと気づいたのは、その答えかもしれないことだ。

書きませんけどね。ぼく、怪人二十面相らしいしね。だれが言うか。

2014年1月8日水曜日

どうしたら行けるのだろう 教えてほしい

悲しいとか悔しいとかいうほどの強い思いはありませんが、教会が常に新しい価値を生み出していく姿勢(価値創出的)ではなく、既存価値を追いかけるだけの姿勢(価値追認的)であることは、なんだかつまらないです。はっきりいえば、教会なんかやってる意味ないです。世の価値を教会に持ち込んで「へ~」だ「は~」だ言ってるだけなら。

でも、だからといって、いかにもしょぼいものをつくってごく近い身内だけで自己満足にひたっているというのも、おかしいといえば、たしかにおかしい。

文脈は違いますが、青島刑事の言うところの「許してくれるのはな、パパのお友達だけだ」ってやつです。

「両方大事ですね」と、他の件なら大抵そう言うぼくですが、本音をいえば、どっちもイヤですね。でも、強いて選べば、後者(しょぼいほう)です。たぶん、だからぼくはダメなんでしょうけどね。

背負ってるものが、いまだにほとんどない。無責任の極みです。気楽ではありますよ。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(旧約聖書 ヨブ記1章21節)です。

あ、でも、ぼくがどうであるかはどうでもいい。問題は、教会はどうなのかです。

いちばん理想的なのは、真に価値創造的でありつつ、あらゆる価値を凌駕すること、かな。

それ、なんなんでしょうね。そういう何かこそ「権威」の名にふさわしいと、ぼくは思います。

「ガンダーラ」みたいだ。

その国の名はガンダーラ
どこかにあるユートピア
どうしたら行けるのだろう
教えてほしい

仏教化してきたのかな、ぼく。

2014年1月7日火曜日

ここ何年もぼくは、よく独り言、言ってます

旧約聖書からぼくが最も学んできたと思っていることは、

何ごとであれ、人の営みがある程度の形になるまでには、

長い時間がかかるし、

三、四代くらいは世代を重ねなければならない、ということです。

だけど、そのくらい世代を重ねる頃には、

とてもじゃないが何かの責任を負いえないような人が「中心」を占め、

根腐れが起こり、弱体化し、求心力を失って、大きな山は崩れる。

しかし、崩れた山で遭難しかかったけど奇跡的に避難しえた数人が、

ほとんど「ふりだし」同然の地点に戻り、

元の山よりさらに大きい山を積み上げていこうとする。

そういうことが何度も繰り返される。

う~ん、ほんとは言いたくないんですけどね...

あ、言いたくないことは言わないでおきます。

ネットつながりのみなさんへのなんとかではありません。

教会でも牧師でも社会でも政治でもない。

ぼくが心底文句を言いたいのは、神さま...と言いたいところですが、

そこは遠慮して、

自分自身のような気がします。

ここ何年もぼくは、よく独り言、言ってますよ。

しかも、傷がついて音が飛ぶCDのようです。

ハードロックオムニバスの「ハイウェイスター」の冒頭のいちばんいいところに傷。

聴くたびに、その部分だけ「ブルルルル」と重複的なノイズ。がくっと来ます。

そのノイズがぼくの独り言ですね。

ブルルルル。

拙論「日本キリスト改革派教会創立宣言に学ぶ」(2001年)をリニューアルしました

今朝、ある方からメールが届いて飛び上がりました。

ぼくが2001年(13年も前)に行った講演をネットで見つけてくださった方が連絡してくださいました。ありがたいことです。

忘れるほど過去のもので、完全に放置したままでしたので、この機会に少しは読みやすいように校正しました。

読み返すと恥ずかしい稚拙な文章ですが、記録として残しておきます。

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関口 康「日本キリスト改革派教会創立宣言に学ぶ」(2001年)

目次

講演1 今、なぜ創立宣言の学びか
http://ysekiguchi.blogspot.jp/2001/08/blog-post_9974.html

講演2 日本キリスト改革派教会の二つの主張
http://ysekiguchi.blogspot.jp/2001/08/blog-post_5422.html

講演3 創立宣言の諸問題
http://ysekiguchi.blogspot.jp/2001/08/blog-post_16.html

付録  日本キリスト改革派教会創立宣言(1946年)現代語訳
http://ysekiguchi.blogspot.jp/2004/11/1946_08.html

2014年1月5日日曜日

「だんだんエスカレートする感じ」というコンセプトです

「だんだんエスカレートする感じ」に訳してみました。

しかし、これはあくまでも「超訳」です。

お叱りの向きもあろうかと存じます。

あらかじめお詫びいたします。

申し訳ございません。

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マタイによる福音書5章27~30節

マタイ著/関口 康「超訳」


聖書の中に「あなたは姦淫してはならない」と書いてますよね。それはどういう意味なのか、みなさんは分かってますか。

聖書に出てくる姦淫禁止の戒めってね、人目を盗んでいちゃいちゃするとか、あやしげな場所に出はいりしてどうのこうのするとか、そういう話だけで済む問題じゃないんです。

はっきりいえば、実際の行為に至るかどうかだけが問題じゃないです。もっと心の問題ですよ。あるいは、人間としてのプライドの問題。人格的尊厳の問題ですよ。人としてどうよという話。そして、自分といつも一緒に生きている家族や仲間たちとの関係性の誠実さの問題です。

たとえばの話ですけどね、まだ結婚してない女の人ならいいという意味ではありませんけどね、でもまあ、それはともかく、結婚している女の人のことを、自分自身も結婚している男どもが、いかにもいやらしい目でじろじろ見てしまう。そういうことを堂々としている時点でアウトなんですよ。

厳しすぎる話だと思われるかもしれませんけどね。でもさ、実際どうなんでしょ。恥も外聞もなく、じとー、でれでれー、みたいな目で女の人を見ちゃって。あなたのその顔、写真に撮っときたいですよ、かなりみっともないよ。なんなら鏡に映して自分のアホヅラ見てみたらいいわ。

そういう目つきというか、顔つきっていうのは、あなたが視線を送っているその女性に対して失礼だし、その女性のご主人にも失礼だし、あなたのおくさんにも失礼なんだよね。

だいたい、その女性が美しさを保つためにどれだけ苦労してるか、そういうこと考えたこともないでしょ。もっとさかのぼって言えばさ、その女性が生まれた日から手塩にかけて育ててきた親御さんたちの苦労だってあるんだよ。美貌は一日にして成らず、ですよ。

そういうことゼンゼン知らないでさ、「人は見た目が9割」とかエラそうなこと言っちゃって。ナニ言ってんの、てめえの見た目はナンなんだよ。少しくらいは恥を知れよ。あんたの存在そのものがセクハラなんだよ、もはや。

そういう、デレデレ目線そのものが、すでに「姦淫」なんです。聖書が言ってることってね、それくらい厳しいことなんですよ。ここ、ちゃんと覚えといてくださいね。

だからね、ぼくは「姦淫」なんか犯してません、そんなことはしてません、ぼくは聖書の教えに忠実に生きてます、文句言われたり責められたりする覚えはありません、とかエラそうなことを言いたい人は、自分の目なんか取っちゃうしかない感じになるんです。

あ、べつに目、ホントに取らなくていいですよ、「それくらい聖書の教えは厳しい」という意味ですよ。聖書の教えをなめてたら痛い目に遭いますからね、間違いなく。

だって、どんなに強く自分に言い聞かせても、きれいな女の人が前を通り過ぎると、その目が勝手に動いちゃうでしょ。目をつぶってもダメですよ、どうしても見たくなっちゃって、どっちか片方の目をつい開けちゃう感じになるんじゃないかな。そうやって片方の目だけで「姦淫」を犯しちゃう。あーあ、やっちまった、ですな。

それでも、「ぼくはやってない。聖書の教えを破ってない」と何がなんでも言い張りたいなら、いっそ、その右目を取っちゃいなよ、と言わなくちゃいけなくなりますよね。そういうある意味で極端な話なんです、ぼくの言いたいことは。

だからさ、目、ホントに取らなくていいですからね。ホラー映画じゃないんだから。ホントに目を取っちゃって、あとで「責任とってくれ。どうしてくれる」とか言われてもね、それは困るよ、ぼくのせいにしないでね。

ちゃんとぼくの言わんとしている意図をくみ取ってほしいわけです。「ぼくは聖書の教えに忠実で、だれからも責められる覚えはありえない」とかエラそうなことを言える人は一人もいないんだよ、ということを言いたいだけです。

まあ、でもさ、目の一つや二つくらい無くなったって、かまいやしませんよ。だって、あんたのその目が美しい女性を自動追尾してしまうわけでしょ。まあそれは、動物的本能みたいなものだよね。本能だから許されるという意味ではないですけどね。「ホルモンが悪さするんだ」とか、ヘンな言い訳してもね、それで許してもらえるかどうかは分かんないですよ。

でも、ぼくら男どもの目の自動追尾機能は、もし解除できるものならしたほうがいいと、ぼくは思うよ。

だって、そのあと、おくさんに叱られて、地獄見て、もう別れるのなんのと、泥沼にはまってしまうことになるんだとしたら、そっちのほうがはるかにたいへんだと思うもん。そっちのほうが、よっぽど痛くて苦しくてつらいから。そんなことになるくらいだったら、目なんかくれてやれ、という話にもなるわけです。そのほうが、よっぽど幸せかもしれませんよ。

まあ、でも、目だけで済めば、まだいいほうですよ。行き過ぎの男どもは、その次に手が出る。危ない橋をわたってしまう。なんで、その手前で踏みとどまれないのかね。はっきり言いすぎかもしれませんけど、アホとしか言いようがない。もうその手、切っちゃいなよ、と言いたいよ。

だって、おくさん、かわいそうじゃん。手の一つや二つくらい無くなっても、地獄を見るよりましだよ。

せっかく結婚したんだからさ、ふらふらしてないで、おくさんのこと、大事にしてあげなよ。ぼくが言いたいのは、それだけのことです。

え、「そんな厳しい話になるんだったら、結婚したくない」? 知らん知らん。そこから先は、もう自分で考えてくださいよ。

2014年1月4日土曜日

「微妙な神学」の鍵概念としての「反射性」

ぼくが「微妙な神学」を目指すと言う場合の模範は、やはりファン・ルーラーの神学だ。彼の神学ほど微妙なものは過去に見たことがない。最初は何を言いたいのか分からなかった。「細かすぎて伝わらない○○」のような、徹底的にディティールにこだわる神学だ。この神学教授に鍛えられた学生たちは幸いだ。

「微妙な神学者」ファン・ルーラーが自分の教義学に持ち込んだ概念の一つはreflexiviteitだ。英語のreflexivityなのだが、なんと訳せばいいだろう、「反射性」か「再帰性」か、そのあたりだろうか。1950年代の社会学の概念らしい。出典はカール・ポパーではないかと思う。

社会学などで言われる「反射性」(reflexiviteit)は、事物の原因と結果が鏡面反射のような呼応的な相互関係にあることを指しているのだと思う。そういう概念をファン・ルーラーは教義学に持ち込んだのだ。これは「微妙な神学」にとっては、きわめて有用な概念だ。

「反射性」(reflexiviteit)の概念が教義学に有効であるということは、実際の教会生活をしていれば、すぐに分かることである。教会には、牧師と信徒が、説教を語る者と聴く者が、啓示と現実がまるで鏡面反射関係のように「向き合う」ないし「対峙する」場で満ち満ちているからだ。

そして実際の教会生活を体験すれば分かることであるが、同じ一人の牧師が語る説教を毎週のように聴いている人たちが、その牧師の説教を各人各様の聴き方をする。牧師自身の問題意識やその説教にこめた意図などどうでもいいことかのように、その説教を聴く人たちは、それぞれ自分の問題に当てはめる。

もし説教を語る者とその説教を聴く人々との関係を「鏡面反射関係」のようなものかもしれないと考えてみるとしても、それは「原本とコピーの関係」だと言っているわけではない。角度によって、その時々の光線の照度によって、鏡面のゆらぎ具合によって、写り方は異なる。同じ写真は二度と撮れないのだ。

同じ写真は二度と撮れない。説教を語る者と聴く人の「鏡面反射関係」は両者の同一性を意味せず、むしろ違いを担保する。説教者の意図は事実上無視される。「ぼく/あたしの説教はこういうふうに聴いてほしかった(のに、そういうふうに聴いてもらえなかった)」という愚痴は、牧師の日常茶飯事である。

しかし、それでいい。それでいいのだ。説教は、どんなふうに聴かれてもよい。各人の信仰は、説教者の思想のコピーによって成り立っているのではない。説教者の思想の影響が無いとは言わない。しかし、それを言うとしても、一人の説教者の影響ではありえない。複数の説教者の思想がからみあっている。

「説教者の思想」という、最も反発を受けやすい言葉を今はあえて使っている。説教は神の純粋な啓示ではありえない。そこにいろいろなものが混入する。説教者の思想も混ざって当然だ。しかし、その説教が説教者の口から放たれ、聴く人の耳に届いても、それで神の啓示が「目標」に到達したわけではない。

説教が、聴く人の耳に届き、「心」に届く。その場合おそらく脳に届き、そこで何らかの反応が起こり、一部ないし全部が記憶される。それが神の啓示の「目標」ではない。その人は礼拝堂の椅子から立ち上がり、帰宅する。そしてその日あるいは次の日から、神の啓示が混入した存在としての言動を開始する。

だから説教を語る者は説教を聴いた人々を「教会の壁の外」(extra muros ecclesiae)へ押し出す必要がある。むろん説教者自身も「教会の外」へ出ていく。教会の外は「世」と呼ばれる。外に出た人が、神の啓示が混入した存在としての言動を開始する。それが神の啓示の「目標」だ。

ファン・ルーラーは「神の啓示」について語ったり書いたりするときにはいつでも、いまぼくが書いたくらいの長いスパンのことを考えている。神の啓示は、聖書→説教→信仰→個人生活で終わらない。社会へと出ていくことでも終わらない。社会の中で神の啓示が「政治的な形態」を獲得するまで終わらない。

念のため書いておくが、教義学が「反射性」の概念を受容することは、牧師は教会員の日常行動を監視し、思想チェックをすべきである、というようなこととは全く異なることである。そのような恐怖政治は断固拒否すべきである。むしろ、「反射性」は信仰の自由を保障する。説教の聴き方の自由を保障する。

とはいえ、説教者自身に責任もあるだろう。それは単純素朴な因果律で説明できるものではないかもしれないが、仮に説教を「原因」とする「結果」なるものがどこかにあるとするならば、それは何なのか、どうなっていくのか、良い結果なのか悪い結果なのかに関心をもつというくらいの責任はあるだろう。

説教者は、毎週の説教が終わった後、「今日も分かりにくい説教でごめんなさい」と思っている。実際、その日の夜あたりは、説教を聴いた人の心に「今日は分かりにくい説教だった」という思いが残っている。その話題で家族で盛り上がる。牧師の体調の心配が話題になる。それも「反射性」の一種である。

新年早々ずいぶん長々と書いてしまいました。そろそろ休みます。ではでは。

2014年1月3日金曜日

「微妙な神学」をめぐる三つの断想

あぁ、こういう感じかなと悟れるものがあります。

「パウロにつく」「アポロにつく」「ケファにつく」「キリストにつく」。パウロはどーれだ、という四択問題を出されることがありますが、正解はたぶんどれでもない。

出題自体が間違い。そうやって人をどの選択肢かに誘導しようとすること自体が間違い。

というか、「どれでもある」と答えるほうがいいのかも。パウロにもアポロにもケファにもキリストにもつけばいい。みんなリスペクトすればみんな相対化される。

ぼくがそうだと言ってるんじゃないですよ、パウロが言ってるのはそういう意味じゃないでしょうか、というくらいのことです。

 * * *

日本教会史上最大の誤訳は「弟子」ではないか。これほど発語するたびに苦痛を感じる言葉も珍しい。

ペトロやパウロといった人たちはイエス・キリストの「弟子」ではないと思うし、テモテはパウロの「弟子」ではないと思う。

まして、言わずもがなであることを十分すぎるほど知りつつあえて書くが、どう間違えても教会員は牧師の「弟子」ではありえないと思う。根本的な日本語の誤りを感ぜざるをえない。

ちなみにぼくは生まれた日から教会に通い始めて48年経過する者で、かつ、教会の牧会を始めて24年目を迎えようとしている者だが、いまだかつて誰の「弟子」になった覚えもなく、かつ、誰をも「弟子」とした覚えはない。

それはぼくの職務怠慢ではなく、むしろ職務への忠実さの現れであると確信する。

「弟子」という日本語のもつ独特の卑屈さやみっともなさは、ぼくに言わせていただけば目を覆うばかりである。

教会に限らずどの世界の人についても、「私は○○の弟子である」という言葉を平気で使える人に接すると、「よくもそういうことを、恥ずかしげもなく言えるものだ」と、ぼくは内心で感じている。

 * * *

「原資料の喪失が確実なので、原資料を根拠にして明瞭に語ることが不可能であるゆえに、あらゆる言説において、はっきり言いえないことを、はっきり言わないままにしておく」というのは、神学にとっては当然すぎるほどであるはずだが、そういう曖昧さを許そうとしない空気が神学の一部にあることは事実。

ただし、今のぼくは「神学論壇」のようなもの(がもし日本国内にあるのだとしたら、そのようなもの)からはすっかり離れた位置にいるので、そういう曖昧さを許そうとしない空気が神学の一部にあることは事実「のような気がする」としか、実は書くことができない。

曖昧なことを曖昧なままにしておく神学は「微妙な神学」だが、そういう神学、しかもそういう組織神学をぼくは目指したい。

「微妙な組織神学」とか「曖昧な教義学」というと、まるで概念矛盾のように思われてしまうかもしれないが、そんなことはない。それこそが神学本来の姿を取り戻すことだ。

「微妙な神学」というのは、神学の微分積分というべきことだ。数学的論理の神学的応用のようなことを言いたいのではない(数学は苦手なので)。

人の心理や行動、歴史的な事実や判断に接近し、そこに見られる曲線や曲面、しわやひだ、傷や血、汗や涙の意味や価値に目と手が届く認識が「微妙な神学」だ。

カール・バルト研究会が今月で一周年を迎えます

謹賀新年

2013年1月25日(金)に第1回目を行った「カール・バルト研究会」が

今月で一周年を迎えます。

最初はスカイプ、後にグーグルプラス・ハングアウトを利用して、

グループビデオ通話による読書会を続けてきました。

北海道、宮城県、茨城県、千葉県、大阪府、兵庫県、ドイツから

ご参加いただきました。

研究会の一年の歩みを簡単にまとめましたので、

下記の通り謹んでご報告いたします。

カール・バルトに関心がある方はどなたでもご参加いただけますが、

「バルト主義者にならないこと」

という条件をご理解いただける方に限ります。

お志ある方は、ぜひご参加ください。参加は無料です。

今年も続けます。次回(第22回)は1月10日(金)午後9時(日本時間)です。

「カール・バルト研究会」をどうかよろしくお願いいたします。

2013年1月3日

関口 康

ブログ   http://barth-research.blogspot.jp
ツイッター http://twitter.com/barthresearch

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「カール・バルト研究会」の歩み

第 0回 2013年 1月11日(金) 2名
    準備会
第 1回 2013年 1月25日(金) 4名
    『教義学要綱』「1 課題」
第 2回 2013年 2月 8日(金) 4名
    『教義学要綱』「1 課題」
第 3回 2013年 3月 1日(金) 4名
    『教義学要綱』「2 信仰とは信頼を意味する」
第 4回 2013年 3月15日(金) 4名
    『教義学要綱』「2 信仰とは信頼を意味する」
第 5回 2013年 3月29日(金) 4名
    『教義学要綱』「3 信仰とは認識を意味する」
第 6回 2013年 4月12日(金) 3名
    『教義学要綱』「3 信仰とは認識を意味する」
第 7回 2013年 4月26日(金) 5名
    『教義学要綱』「4 信仰とは告白を意味する」
第 8回 2013年 5月10日(金) 4名
    『教義学要綱』「4 信仰とは告白を意味する」
第 9回 2013年 5月24日(金) 4名
    『教義学要綱』「5 高きにいます神」
第10回 2013年 6月 7日(金) 4名
    『教義学要綱』「5 高きにいます神」(ニコ生神学部出演)
第11回 2013年 7月 5日(金) 4名
    『教義学要綱』「6 父なる神」
第12回 2013年 7月19日(金) 6名
    『教義学要綱』「7 全能の神」
第13回 2013年 8月 2日(金) 4名
    『教義学要綱』「7 全能の神」
第14回 2013年 8月30日(金) 4名
    『教義学要綱』「8 造り主なる神」
第15回 2013年 9月13日(金) 5名
    『教義学要綱』「8 造り主なる神」
第16回 2013年 9月27日(金) 5名
    『教義学要綱』「9 天地」
第17回 2013年10月11日(金) 4名
    『教義学要綱』「9 天地」
第18回 2013年10月25日(金) 4名
    『教義学要綱』「10 イエス・キリスト」
第19回 2013年11月 8日(金) 4名
    『教義学要綱』「10 イエス・キリスト」
第20回 2013年12月 6日(金) 4名
    『教義学要綱』「11 救い主にして神の僕」
第21回 2013年12月27日(金) 5名
    『教義学要綱』「11 救い主にして神の僕」(忘年会)
第22回 2014年 1月10日(金) 予定
    『教義学要綱』「11 救い主にして神の僕」