しつこく書いていることだが、最近「カール・バルト」にハマっている。面白すぎて、つい読みふけってしまう。
バルトが導きだす答え(Antwort)に同意しているわけでも承服しているわけでもない。そちらのほうはあんまり面白くない。
面白くて仕方がないのは、彼の視点(Gesichtspunkt)である。ブッと吹き出してしまうこともしばしばだ。
いま読んでいるのがバルトの「初期の」論文だからかもしれない。教会の牧師を辞め、ゲッティンゲン大学やボン大学の神学部で教えはじめた頃の作品だ。
押しても引いても動きゃしない「教会」に手を焼いて、これと言ったことを何もできなかったと痛感し、その挫折感や敗北感に打ちのめされ、そのトラウマを引きずりながら、
はたまた、煮ても焼いても食えやしないと世間から見られている「神学」なるものを内心で恥じつつ、もっていたプライドのすべてをずたずたにされながら、
「それでも言いたいことがある」と悲壮な覚悟と激情をもって書かれた神学論文のように読める。それが面白いのだ。
でも、バルトの言葉にぼく自身が癒されてはならないのだと、自分の胸に言い聞かせながら読んでいる。バルトの文章に、やや過度なまでに「牧師をかばう論理」を感じるのだ。
だからこそ「言いにくいことをぼくの代わりに言ってくれている。がんばれバルト」と背後から応援したくなる。それが彼の文章の面白さでもある。弱い者いじめを受けている人たちをかばってくれる彼の論理には、独特の意味で快感と興奮を伴う要素もある。
だけど、それではダメなのだ。誰かにかばってもらわなくちゃ自分では立てないなんてのは、牧師っぽくないね。
「教会」に手を焼き、「神学」を恥じる。まあ惨めといえば惨め。だけど、そういう厄介なものだからこそ、一生かけてかかわる価値があるとも言える。
二千年の教会史をオレの指先一本で動かせると思うなよ。怪物くんか。
手を焼くもの、恥ずかしいものは、いくらでもある。ぼくは、なによりも、ぼく自身の存在に手を焼いてるし、恥ずかしいもの。
だからね、たぶん真相は、「教会」がぼくに手を焼き、「神学」がぼくを恥じている。そのように自覚すべきなのだと思う。
あ、そうそう。
読書会の本が決定しました。ハインリヒ・ヘッペの『改革派教義学』英語版(Heinrich Heppe, Reformed Dogmatics)は次の機会にして、カール・バルトの『教義学要綱』(井上良雄訳)を読むことにしました。
名称はずばり「カール・バルト研究会」。ただし、「バルト主義者にならないこと」が入会条件。
これはスカイプの話です。初回(明日)は二人だけのスカイプ読書会です。
もっと広げられるといいんですけどね。まあ、そのうちね。