2025年4月12日土曜日

改革派教会の訓練規定

日本基督教団紅葉坂教会(神奈川県横浜市西区宮崎町 1 )

講演「改革派教会の訓練規定」

日本基督教団足立梅田教会牧師 関口 康

はじめに

私に与えられた宿題は「改革派教会の訓練規定」について話すことです。貴『通信』35号に記したとおり、1990年 5 月に日本基督教団(以下「教団」)補教師准允、1992年12月に正教師按手を受けた私が1997年 1 月から2015年12月までの19年間を日本キリスト改革派教会(以下「改革派教会」)で過ごし、2016年 4 月に日本基督教団教師に戻りました。その経験に基づいて、改革派教会の「訓練規定」との比較において教団の戒規ルールの問題点を浮き彫りにすることが本講演の目標です。

誤解を避けたいと願っています。今の私は正真正銘、日本基督教団教師です。私にはもはや改革派教会を擁護する意図も責任もありません。彼ら自身も、みずからの教会規程(政治規準、訓練規定、礼拝指針)を「途上にある」ととらえています。その意味で「ひらかれた」姿勢を持っています。

改革派教会の基本姿勢

日本キリスト改革派教会は、戦前は旧日本基督教会に属し、1941年の日本基督教団創立当初は「教団第一部」に属し、戦後最も早く教団を離脱し、1946年に創立されました。創立当初から、彼らが「簡易信条」と呼ぶ旧日本基督教会の1890年の信仰告白および諸規則を下敷きにしつつ、米国南長老教会の伝統に基づき、彼らが「精密信条」と呼ぶウェストミンスター信仰基準(信仰告白、大・小教理問答書)の翻訳と教会規程(政治規準、訓練規定、礼拝指針)の整備に取り組みました。

創立50周年記念誌『日本基督改革派教会史 途上にある教会』1996年(142頁)によると、「条文となった規則によって教会のあるべき姿を定めるのが改革派教会の教会形成の基本的な姿勢」であり、「これらの条文は教会の理想を描いているのではなく、現実の教会が曖昧で不透明な道を歩むことなく、分かりやすい筋道立った手順で運営・指導されるための規律である」としています。

もう少し続けます。「日本のプロテスタント教会は当初から法的精神が希薄であったといわれる。家族的な親しみが重視される一方、情緒的な慣れあいに支配される傾向が至るところにあらわれた。規律を重んじ、法に基づく秩序ある教会を形成することは、日本基督改革派教会に課せられた大きな責任である」。

彼らが言おうとしているのは、現実の教会において「曖昧で不透明な」余地を残すと人治主義を招来しやすいので、よろしくない。法治主義の教会を築くためには詳細で精密な条文が必要であるということです。痛いところを突いていないでしょうか。

教会の「家族的な親しみ」は大事にされるほうがよいと私は考えています。しかし、反面の「情緒的な慣れあい」が多くの弊害を生んできたことは否定できないでしょう。

ご承知のとおり、日本基督教団の諸規則は簡易なものです。改革派教会のそれとの違いを明らかにするために、戒規ルールに限定した比較対照表を作ってみました。

戒規ルールの比較対照表

 

日本基督教団

日本キリスト改革派教会

判定規準

〇教憲・教規

〇戒規施行細則

(〇「日本基督教団信仰告白」?)

(〇「戦責告白」?)

〇ウェストミンスター信仰基準(信仰告白、大・小教理問答書)

〇教会規程(政治規準、訓練規定、礼拝指針)

裁判権者

〇教団教師委員会(定数 名)構成員の 分の 以上の同意で戒規執行(戒規施行細則(「細」)条、条)

〇当該教師が所属する「中会」(「中会」とは一定地域内の全教師、無任所教師、引退教師、各教会の代表者である治会長老で構成される教会会議を指す)

〇教会会議は政治規準に従って、裁判権を有する特命委員会を設置することもできる。(訓41条 

原告

(規定なし)

〇原告は常に日本キリスト改革派教会であって、その名誉と純潔が維持されるべきである。(訓練規定(以下「訓」)21条 

訴追者

(規定なし)

〇訴追者は自発的にしても、任命によるにしても、常に日本キリスト改革派教会の代表者であって、その事件においては、同代表者としてそのあらゆる権利を持つ。(訓21条 

〇訴追者は、教会会議の一員でなければならない。(訓20条 

〇和解と違反者の矯正との手段を試みることなしに訴追者となってはならない。(訓23条 

〇内密の違反を知る人々は、まず私的な方法によってつまずきを除去する努力なしに、訴追者となってはならない。(訓233

〇被告に対して悪意をもつと知られている者、善良な性質でない者、戒規または裁判手続き中の者、被告の有罪判決と深い利害関係をもつ者、または訴訟好き、無分別もしくは極めて軽率な性質であると知られている者による告訴を受理するときには最大の注意を払うべきである。(訓261

〇訴追者が告発の根拠に蓋然性があったことを示すことに失敗した場合は、悪意または軽率による中傷者として自ら戒規を受けなければならない。(訓27条)

事情聴取

 

(規定なし)

〇小会および中会は、その管轄下の人々の信仰と行状についての好ましくない報道に接したときは相当な注意と十分な思慮分別をもって判断し、必要と認めるときはかれらに満足な釈明を求めなければならない。中傷によって侵害を受けたと思う人々が調査を要求するときは、より一層釈明を求めなければならない。(訓20条 

公判

(規定なし)

〇議長の開会宣言

〇起訴状の朗読

〇被告の答弁

〇証人尋問(訴追者側、被告側)

〇当事者の発言

(訴追者→被告→訴追者)

〇中会議員による意見表明

〇投票(有罪・無罪)

〇判決    (訓44条)

証人

(規定なし)

〇被告は証言することは許されるが強制されない。(訓64条)

〇夫または妻は、いかなる会議においても、配偶者に不利な証言を強制されてはならない。(訓65条)

上告

〇不服なるときは教団総会議長に之を上告することを得。教団総会議長前項の上告を受けたるときは通告を受けたる日より14日以内に常議員会の議を経て審判委員会若干名を挙げ之を審判させるものとする。(細 条)

〇上訴とは、下級会議で判決が下された裁判事件を上級会議に移管することである。上訴は不利な判決を受けた当事者にのみ許される。(訓110条)

(教師に関する裁判権は中会にあるので、教師の裁判に関する「上級会議」は必ず「大会」を指す)


私の意見

繰り返しますが、私は今日、改革派教会の宣伝に来たのではありません。改革派教会の存在と彼らの訓練規定を理想化する思いは、加入前は少しありましたが、今は全くありません。彼らの用語を借りて言えば「被告に対して悪意をもつと知られている者」や「被告の有罪判決と深い利害関係をもつ者」や「訴訟好き」による告訴で苦しむ人々もいました。「なぜそんなことで」と耳を疑うような不可解な理由で戒規を受けた教師や信徒に接して来ました。

日本基督教団と日本キリスト改革派教会を往復し、体験的比較が可能になったからこそ、教団の「簡易な」ルールの利点がよく分かります。「抜け道が多くて都合が良い」と言葉にすると邪悪な響きを帯びるでしょうが、「ゆるさ」ゆえにブラック企業や家庭内でパワハラを受けて傷ついた人々の逃れの場になっているケースもあるはずです。「情緒的な慣れあい」と言われてしまうと返す言葉がありませんが、教会の「ゆるさ」や「家族的な親しみ」は保護されるべきです。

いずれにしても、精密な条文をどれほど整備しても、そのこと自体で「盗むなと説きながら盗み、姦淫するなと言いながら姦淫を行い、偶像を忌み嫌いながら神殿を荒らし、律法を誇りとしながら律法に背く」(ローマ 2 章21~23節)教師の問題は解決しません。「人が義とされるのは」〝精密な条文の厳守〟によるのではなく「信仰による」(ローマ 3 章28節)のです。しかし、この件は私に与えられた宿題の範囲を超えます。

それよりも、第43回教団総会において 2 教区から提案された北村牧師関連議案を「上程しない」とする趣旨説明の中で雲然俊美教団議長が「教憲・教規に再検討を可能とする規定がないこと、再検討をした場合、教師委員会での決定を最終決定とする施行細則と齟齬を来すこと、上程した場合、前例となり、教団の活動の混乱が予想される等」(『通信』35号の小海基先生の証言)と発言したことは、きわめて重大です。

もし教団議長の答弁内容が事実ならば、現行の教憲・教規ならびに戒規施行細則は、教師委員会(定数 7 名)が一教師の生活基盤を剥奪する決定を一度したら最後、二度と取り消すことも再検討することもできず、仮にたとえ冤罪であっても覆らないことになっていると言っているのと同じです。教師委員会の決定は〝無謬〟でしょうか。これほどプロテスタント教会にそぐわない議長答弁を、私は寡聞にして知りません。

しかも、それは今に始まったことではなく、北村先生に免職戒規が執行された2010年時点も同じ状態だったはずです。もしそうであるならば、北村先生の免職は、少なくともプロテスタント教会とは異質な思考が働いて執行されたものであるとしか私には考えようがありません。これは真剣な問いです。私たちは〝教団教師委員会無謬説〟を信じなくてはならないでしょうか。

もし教団議長の答弁通り「教憲・教規に再検討を可能とする規定がないこと」が事実なら「再検討を可能とする規定」を速やかに新設して北村牧師関連議案を正式な議題として取り上げるべきです。それが最もまっとうで、プロテスタント教会らしい対応であると私は考えます。

北村慈郎牧師のご健康が守られ、福音が力強く前進しますようお祈りいたします。

(2025年 4 月12日、講演レジュメ、北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる会、日本基督教団紅葉坂教会)

2025年4月7日月曜日

「日本基督教団信仰告白」についての主題説教(全10回)を行います

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

5月4日(日)から7月6日(日)まで全10回の予定で「日本基督教団信仰告白」についての主題説教(教理説教)を行います。

 

日程

説教題

「日本基督教団信仰告白」該当箇所

1

月 

聖書と教会

我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。

2

11

聖書と生活

されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。

3

18

三位一体の神

主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。

4

5 月25

キリストによる贖罪

御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり。

5

月 

神の恵み

神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。

6

月 

聖霊の働き

この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。

7

15

教会の使命

教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり。

8

22

礼拝と宣教

教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、

9

29

洗礼と聖餐

バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、

10

月 

信仰・希望・愛

愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。


2025年4月6日日曜日

十字架の意味

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「十字架の意味」

マタイによる福音書20章20~28節

関口 康

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(26-27節)

ユダヤ人は「十字架刑」を執行しませんでした。ユダヤの極刑は石打ち刑でした。十字架刑を最初に発案した、または少なくとも最初に使用したのはペルシア人でした。ゾロアスター教の神に聖なるものとして献げた大地が被処刑人の体で汚されてはならない、という理由でした。

ギリシアで十字架刑は、国内では行われませんでしたが、アレクサンドロス大王と彼の後継者がカルタゴ人の処刑に使いました。カルタゴからローマ人に伝わり、重犯罪者の処刑方法になりました。ローマの属州では、秩序と安全の維持のため最も強力で最も残酷な手段とされました。

ローマにとっての「不穏な」属国ユダヤでは、十字架刑の例が無数にあります。一度に二千人のユダヤ人を十字架に引き渡した例もあります。西暦70年の「エルサレム攻囲戦」のときには、毎日あらゆる身分のユダヤ人が500人またはそれ以上捕らえられて町の中で十字架につけられたため、最後は十字架に使う木材もそれを立てる場所も足りないほどでした(以上、ヨーゼフ・ブリンツラー著『イエスの裁判』大貫隆、善野碩之助訳、新教出版社、1988年、356~357頁参照)。

十字架刑の主たる目的は「さらす」ことです。日本でも「さらし首」は明治初期まで行われていました。まだ150年前ぐらいですので、決して他人ごとではありません。『写真集「甦る幕末」オランダに保存されていた800枚の写真から』(朝日新聞社、1986年)に当時の写真があります。

十字架の高さは遠くから見えるように人間の身長よりも少し高いか、それ以上でした。死刑囚の首に死刑の理由(causa poenae)を記した看板がかけられました。体を支えるために、途中に取り付けられた木片を足置きか腰掛けにすることもあったようですが、古い報告書にそのような木片についての言及はありません。

十字架刑がローマで初めて廃止されたのは、西暦313年の「ミラノ勅令」によってローマ帝国でキリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝(西暦270~337年)の治世になってからでした。

今日の箇所で「ゼベダイの息子たちの母」が2人の息子と一緒に、イエスさまのもとに来て、ひれ伏して、あることをお願いしました。「ゼベダイの息子たち」とは、主イエスの最初の弟子になった4人のうちの「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」(マタイ4章21節)の2人です。

彼らの母が言いました。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(21節)。これは神の国、つまり天国の話です。要するに、「天国でイエスさまがナンバーワンになられたときは、うちの子たちをナンバーツーとナンバースリーにしてください」というお願いです。

イエスさまが「あなたがたは自分が何を願っているか分かっていない」(22節a)と言われていますが、これは決して怒りや非難の言葉ではありません。この後すぐに「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(22節b)と続きます。イエスさまとしては「わたしが飲もうとしている杯は十字架刑なのですよ?本当に大丈夫ですか?」と心配してくださっているのです。そのイエスさまの質問への答えは、2人とも「できます」。ますます心配になるパターンです。

ゼベダイの子たちはその杯を実際に飲みました。ヤコブは西暦44年ごろ殉教しました。ヨハネについては、殉教したという記録もあれば、エフェソで46歳で自然死したという記録もあります。いずれにしても、イエスさまの質問に対する彼らの答えは決して軽いものでも簡単に言えるものでもありませんでした。彼らは主イエスと共に、苦しみの道を歩む意志を持っていました。

イエスさまはそのことも分かっておられます。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」(23節a)と認めてくださいました。しかし「わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない」(23節b)ともおっしゃいます。それは神さまが決めてくださることですと、主イエスは最高の権威を天の父である神にお委ねになりました。

すると、他の10人の弟子が腹を立てました。ヤコブとヨハネに嫉妬したのではなく、彼らがイエスさまの弟子の中でナンバーワンとナンバーツーを狙っているということは、つまり我々10人のことを下に見ているからだろうと感じたのだと思います。だから彼らは腹を立てました。狭い仲間内の順位争いです。

そこでイエスさまは、彼らみんなを呼び寄せて説教されました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」(25~26節)。

世界の支配者がいばりちらし、権力を行使する。そういうことをする人がいることを、あなたがたは知っています。あなたがた自身はそうであってはなりません。これは、相手と同じになってはいけないという意味です。

イエスの弟子になりたい人に対しては、世の中の価値観とは正反対の基準が適用されることになります。その基準が「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」(27節)です。いちばん上になりたければいちばん下になりなさい、ということです。

イエスさまのこの教えの中で「偉くなりたい」「一番になりたい」という人の思いは、少しも否定されていません。むしろ肯定されています。「仕える者」の意味は「奴隷」です。つまりイエスさまは「いちばんになって偉くなりたい人は、すべての人に奉仕する者になりなさい」と言われています。

「奉仕すること」はギリシア人にとって価値が低いことと考えられていました。ギリシア人の「男らしさ」の基準は「支配すること」と「奉仕しないこと」でした。イエスさまの弟子になれるかどうかの条件は、その正反対です。「奉仕」の心があるかどうかです。

イエスさまご自身も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための、贖いの代価として自分の命を与えるために来てくださいました。イエスさまは、十字架の上でご自身の命を献げることは「奉仕」であると理解しておられ、「人の子」すなわちイエスさまは「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(28節)と明言されました。

この「身代金」が誰に支払われるかは分からないように記されています。テロリストに屈するようなことをしてはならないのはごもっともです。しかし、「身代金」の本来の意味は、捕らえられているだれかを解放するために支払われるお金のことです。身代金を支払う者は、その身代金を支払われた人を解放し、新しい人生を始められるようにします。

つまり、主イエスがご自身のことを指して言われた「多くの人の身代金」という表現は、ご自身が意識的に人間を罪と罪悪感から解放するために命をささげようとしたことを示しています。

このように、イエスさまの弟子になることは、世間では当たり前とされていることの逆です。「自動的に」または「生まれつき」または「努力によって」または「反省によって」得られるものではありません。神の恵みによって起こる「回心」を経ることが必要です。

わたしたちに求められているのは「奉仕」の心です。イエスさまと同じように、十字架の上で命を献げることまでは求められていません。神を愛し、隣人を愛し、共に生きるすべての人々に「仕える」心をもって生きるとき、主イエス・キリストはわたしたちと共におられます。

(2025年4月6日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年4月3日木曜日

ゴッホとオランダ改革派教会(NHK)の関係

ゴッホの自画像(1887年)(パブリックドメイン)


【ゴッホとオランダ改革派教会(NHK)の関係】

長年尊敬する先輩牧師から「ゴッホの時代のオランダ改革派の芸術に対する、絵画に対する基本的な姿勢は如何なるものか。彼の作品で訴えたかった点は、その根底にオランダ改革派に対する強い抵抗意識があったのではないかと思われる」というご質問をいただきましたので、以下のようにお答えしました(ブログ公開に際し、趣旨が変わらない範囲内で修正)。

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先生、ご質問ありがとうございます。

1853年3月30日生まれのオランダの画家、フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ(ホッホ)(Vincent Willem van Gogh [1853-1890])の時代、すなわち19世紀中盤のオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk、以下「NHK」)の「芸術観」についての情報は、現時点の私は持っていません。しかし、当時の「NHK」の神学的背景ならば少し分かるかもしれません。

ゴッホの祖父は1789年生まれ。ゴッホの父は1822年生まれ。どちらもNHKの牧師でした。

(1)ゴッホの祖父

ゴッホの祖父(1789年2月11日生まれ)は、ライデン大学神学部で1805年から神学を学び、1811年博士号取得。1822年から引退する1853年までブレダ教会牧師。1825年から1866年まで、北ブラバント州のプロテスタント教会の地位向上をはかる互助会の書記と会計でした。ブレダ教会は大規模でした。

北ブラバント州(Noord-Brabant)はオランダの南端、ベルギーとの国境に位置する地域です。しかし、それは今日的な感覚です。ゴッホの祖父の時代(1789~1874年)、オランダとベルギーは「オーストラリア領ネーデルラント」(1790~1815年)や「ネーデルラント連合王国」(1815年~1830年)という仕方で、ひとつの国でした。

武力による領土争いの激動の中、ゴッホの祖父は、カトリックが強い地域の中でオランダ改革派教会(NHK)の地位を守るために尽力しました。

ちなみに、19世紀中盤のライデン大学神学部教授として象徴的な存在はヤン・ヘンドリク・スホルテン(Jan Hendrik Scholten)(1811年生まれ)です。ゴッホの祖父が直接学んだ可能性はありませんが、スホルテンはアブラハム・カイパー(1837年生まれ)のライデン大学時代の教師です。スホルテンはイエス・キリストの復活を否定する神学者でした。

アブラハム・カイパーは学生時代はスホルテンの教えに疑問を抱きませんでしたが、のちに見解が変わり、NHKを1886年に離脱して新しいオランダ改革派教会(Gereformeerde Kerken in Nederlands)を創立しました。カイパーに新教団設立を決心させるほどに、スホルテンの神学はリベラルでラディカルでした。

(2)ゴッホの父

ゴッホの父(1822年2月8日生まれ)は、祖父の長男として生まれ、自らも牧師になり、1849年から1878年でズンデルト(Zundert)の教会、また1878年から1885年の没年までエッテン(Etten)の教会、そしてヌエネン(Nuenen)の教会も兼牧しました。

ズンデルト、エッテン、ヌエネンという3つの教会も北ブラバント州にあり、現在のベルギーとの国境地域です。ズンデルトはカトリック優位の町でしたが、ゴッホの父は「改革派」の厳格な立場をとらず、カトリックの貧困家庭を助けていたので人気を博しました。見た目はハンサムな牧師だったが、説教者としての才能は無かったと書いている記事があります。

このあたりで想像できるのは、ゴッホの父は「オランダ改革派教会(NHK)」の牧師でしたが世襲の要素があり、北ブラバント州というベルギーとの国境付近のカトリックが強い地域で「調停的な」立場をとり、なんとかうまくやろうとした人ではないかということです。

この牧師を父に持つ画家ゴッホ(1853~1890年)がズンデルト教会の牧師館で過ごしたのは、1853年から彼がゼーフェンベルゲン(Zevenbergen)の寄宿学校に入寮する1864年までの11年間。エッテン教会の牧師館やヌエネン教会の牧師館でも過ごしました。

ゴッホの「ヌエネン教会を出る人々」(Het uitgaan van de hervormde kerk te Nuenen)という絵は有名のようですね。

(3)画家ゴッホ自身

画家ゴッホの経歴は以下の通り。

1853年(0歳)

 ズンデルト改革派教会(Zundert Hervormde Kerk)の牧師の長男として生まれる

1864年(11歳)

 ゼーフェンベルゲン寄宿学校入学

1866年(13歳)

 ティルブルフ高等学校入学

1869年(16歳)

 国際美術商「グーピル&シー」ハーグ支店就職

1873年(20歳)

 「グーピル&シー」パリ本社やロンドン支店で勤務

1876年(23歳)

 会社を解雇される。ラムズゲート(Ramsgate)で教員をする

 アイルワース(ロンドン)のメソジスト教会の補助説教者になる

 牧師になる志を与えられる

 ターナム・グリーン(ロンドン)の組合教会で日曜学校教師になる

1877年(24歳)

 1~5月、オランダに戻り、ドルトレヒトの書店で働く

 同年5月から翌1878年7月まで、アムステルダムの叔父の家で牧師国家試験の勉強

 ラテン語とギリシア語に興味がなく、また神学理論の学びに不満で、受験を断念

 ブリュッセル(ベルギー)近郊のプロテスタント伝道訓練校へ入校

1878年(25歳)

 12月からボリナージュ(ベルギー)に派遣

1879年(26歳)

 2月から炭鉱労働者の町プチワム(Petit-Wasmes)で信徒説教者

 4月炭鉱爆発事故の犠牲者を看護するが、彼らにとって「部外者」で「異質」と自覚

 プチワムのプロテスタント仲間から「過度に熱狂的で付き合いづらい」と拒絶される

 孤独で惨めな時期に、その中から抜け出したいという思いで次のような本を読む

  チャールズ・ディケンズ『ハード・タイムズ』(1854年)フランス語版(1869年)

  トーマス・ア・ケンピス『イミタチオ・クリスティ』フランス語版

  ヴィクトール・ユーゴー『シェークスピア』フランス語版(1869年)

  ジョン・バニヤン『天路歴程』英語版(1852年)

  ハリエット・ビーチャー・ストウ『アンクル・トムの小屋』英語版(1852年)

1880年(27歳)

 画家になることを決意し、ブリュッセルのアトリエに移る

 11月に王立美術アカデミーに入学。12月の試験で最下位。1881年2月の試験は未受験

1881年(28歳)

 エッテン教会の両親のもとに戻る

 その後、ハーグ(Den Haag)やヌエネン(Nuenen)〔牧師館?〕でひとり暮らし

 モデル女性の妊娠や売春などの証拠画があると議論がある時期

1885年(32歳)

 父の死去に伴い、ヌエネンから退去。アントワープ(ベルギー)に移る

1886年(33歳)

 1月に名門のアントワープ美術アカデミーに入学するが、2か月で退学

 3月からパリ(フランス)で、同じ画家の弟テオと同居を始める

1889年(36歳)

 弟テオがアムステルダムで結婚。兄はアルピーユ山麓(フランス)の施設に自主入院

1890年(37歳)

 主治医がいるパリ近郊のオーヴェル(Auvers)移住

 5月20日 ラヴー旅館(Auberge Ravoux)の屋根裏にアトリエ設置

 7月27日 銃で自分の胸を撃つ。2日後、死亡

1891年(翌年)

 1月25日 弟テオがユトレヒトで死亡。享年33歳

画家ゴッホ自身の経歴や、彼の祖父や父の経歴から私が受ける総合的な第一印象としては、先生からの「オランダ改革派に対する強い抵抗意識があったのではないか」という問いかけには首をかしげるところのほうが多いです。そのように感じる理由は次のようなことです。

①第一の理由は、そもそも「祖父→父→ゴッホ本人」が居住していた「北ブラバント州」が、改革派(NHK)とカトリック(RK)の混合地域だったことです。祖父は「改革派(NHK)の地位向上」を訴える牧師代表でしたが、父は「カトリック(RK)との共存」の道を選んだので、画家ゴッホがあえて「オランダ改革派に対する強い抵抗意識」を持つ理由があるのだろうかというあたりに疑問を感じます。

②第二の理由は、23歳のゴッホがロンドンのメソジスト教会や組合教会を渡り歩いていたり、24歳でブリュッセルの伝道訓練校に入校し、2年足らずの訓練で「炭鉱労働者伝道」のような難しい課題があるに決まっている場所にいきなり派遣されて、当然のようにうまく行かなくて挫折したりしていることのほうが、私にとってはよほど重大に思えることです。

もしかしたらロンドンのメソジスト教会や組合教会で「オランダ改革派教会(NHK)」の悪口をたくさん聞かされたかもしれません。それらの教会の人たちがベルギー信条やドルト規準、ウェストミンスター信仰基準などと真逆の考え方をしていた可能性は確かにあります。

アウェイで不安定なゴッホに「ウェスレー」と「メソジスト教会」と「アルミニウス主義」と「カルヴァン主義とオランダ改革派教会に反対すべき理由」をしっかり教え込んだ人たちがいたかもしれません。

19世紀のオランダですからね。今のわたしたちのコンテクストと大差ありません。ゴッホの時代に「カール・バルト」は登場しませんが、日本伝道はすでに開始され、「日本基督公会→日本基督一致教会」まで来ていました。日本基督教会創立の「1890年」がゴッホの没年です。このころの植村正久先生は「リバイバリズム」の内実を熟知しておられたと思います。

炭鉱伝道挫折後のゴッホが読んだ『イミタチオ・クリスティ』や『天路歴程』や『アンクル・トムの小屋』などは、戦後の日本で『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版などを購読していた世代の人たちがよく読んでいました。私の両親(1930年代生まれ)も、神学書などは1冊も持っていませんでしたが、ゴッホが読んだこれらの本は若い頃に教会ですすめられて読んだようです。

そういうわけで、私の第一印象としては、ゴッホがロンドンやベルギーでその影響を受けた可能性がある「リバイバリズム」との関係はよく考えなくてはならないと思いますが、それと「オランダ改革派に対する強い抵抗意識」がダイレクトに結びつくかどうかは不明です。

③周囲の人たちとうまく行かない画家ゴッホに、画家になった弟テオ以外、両親を含む家族は距離を置いたり冷たくしたりはしたので、その仕打ちに対する反発心が彼の中にあったのではないかと考えることは私にもできます。しかし、それと「オランダ改革派に対する強い抵抗意識」は区別されるべきです。

2025年4月2日水曜日

ファン・ルーラーは「田舎伝道」を志した

ファン・ルーラー牧師の初任地「クバート教会」訪問(2008年12月8日)


【ファン・ルーラーは「田舎伝道」を志した】

昨年度から参加している有志神学書読書会の4月例会でファン・ルーラーを取り上げていただけることになった。うれしい。「キリスト論的視点と聖霊論的視点の構造的差異」を過去の『季刊教会』に連載された牧田吉和訳で読む。ボーレン『説教学』やイミンク『信仰論』に大きく取り上げられた著名な論文。

事前に読んでいただく資料として、私が10年以上前に書いた雑誌論文のPDFをメンバーに送るなど準備を進めている。資料に基づいて私がまとめた彼の略伝に、ファン・ルーラーの牧師としての最初の任地「クバート教会」について「彼自身が田舎伝道を志して赴任した」と書いた自分の文章に感じ入っている。

ファン・ルーラーと我々は時代も状況も違うので単純な比較はできないが、牧師になるためにギムナジウム(今の日本の普通科高校相当)からストレートで神学部に入学し、卒業後の初任地として「田舎伝道」を志す若者が、オランダにあるいは日本に今どれくらいいるかについて私は興味を持たざるをえない。

ファン・ルーラーの生誕地は、オランダ王室の離宮ヘット・ロー宮殿に近いアペルドールン(Apeldoorn)。父はパン配達職人だったことが伝記文書に記されている。彼が自ら志した「田舎伝道」に世襲の要素は無い。あくまで私の印象にすぎないが、この進路選択は彼の神学的な志向と関係ありそうに思える。

なぜそう言えるかを考えるときもヘンドリク・クレーマー(1888年生まれ)の著書『信徒の神学』(原著Theology of laity, 1958、日本語版あり)が思い浮かぶ。教職中心の教会に対する批判の書。教会の中央集権への批判も含む。信徒宣教師クレーマーはジャワ島(当時オランダ領東インド)へ宣教に行く。

クレーマーより20歳若い牧師ファン・ルーラー(1908年生まれ)は、ジャワ島には行かなかったが、神学部卒業後の初任地として「田舎伝道」を志す。クレーマーによれば当時のオランダの教会に中央集権構造があったらしいわけだから、その逆方向へと進むことがファン・ルーラーの志ではなかっただろうか。

単純な比較はできないが、私も高校からストレートの神学部入学者。「世間知らず」とファン・ルーラーの時代にも言われたそうだ。言わせておけばいい。始めるのは早ければ早いほどよいとも言う。ドラゴンクエストの「僧侶」と同じ。その職業の経験値は他の職業とは無関係。レベル上げには時間がかかる。

とにかく私はうれしい。ファン・ルーラーの存在と神学に関心を寄せてくださる方々が増えることを、これまでも、これからも願っている。

2025年4月1日火曜日

キリスト教とヒューマニズムの関係

『教会とヒューマニズム』(1956年)と「実用オランダ語入門』(1994年)

冷たい雨のエイプリルフールに古書が2冊届き、その温もりで暖を取る。

(1)ヘンドリク・クレーマー『教会とヒューマニズム』(オランダ語版、1956年)

(2)戸部実之『実用オランダ語入門』泰流社、1994年)


Ⅰ クレーマー『教会とヒューマニズム』(1956年)

クレーマーの『教会とヒューマニズム』の全文をChat GPTが瞬時に要約してくれた。かなりいい線だと思う。積ん読よりはるかにまし。ありがとう!

(以下、ChatGPT要約)

本書はキリスト教会とヒューマニズム(人文主義)との歴史的関係性を探求しています。キリスト教会はギリシャ・ローマの古代世界で誕生し、そこでのヒューマニズム的な思想と相互作用を持ちながら発展してきました。​初期の教父たちは、信仰と理性の関係性についてさまざまな立場を取り、例えばアレクサンドリアのクレメンスやオリゲネスは、ギリシャ哲学をキリスト教的思索に取り入れる試みを行いました。​

中世においては、トマス・アクィナスが『神学大全』の中で、キリスト教の啓示と古代哲学を統合し、「恩寵は自然を廃止するのではなく、完成させる」という考えを示しました。​しかし、宗教改革期には、ルターが福音の純粋性を強調し、キリスト教とヒューマニズムの間に再び距離が生じました。​現代においても、カール・バルトなどの神学者が、キリスト教とヒューマニズムの統合を根本的に拒否する立場を示しています。​

本書は、ヨーロッパ文化の形成において、キリスト教とヒューマニズムが相互に影響を与えながら発展してきたことを強調しています。​また、現代における技術や科学の進展、全体主義的な世界観の台頭により、これらの伝統的な精神的価値が挑戦を受けていることを指摘しています。​さらに、アジアの大宗教との対話を通じて、新たなヒューマニズムの形態が現れる可能性についても言及しています。​

結論として、本書は、キリスト教とヒューマニズムの関係性を再評価し、現代社会における精神的再生の可能性を探求する必要性を訴えています。​先入観や偏見を排除し、歴史的背景と現状を正直に見つめることで、真実と現実に基づいた結論に到達できると述べています。


Ⅱ ファン・ルーラー『政府とヒューマニズム』(1954年)

クレーマーの『教会とヒューマニズム(Kerk en humanisme)』(1956年)出版の前年、ファン・ルーラーが『政府とヒューマニズム(Overheid en humanisme)』(1955年)を出版。内容はオランダ政府が「ヒューマニスト協会」(Het Humanistisch Verbond)の要請にどのように対応すべきかを検討する論考。

ファン・ルーラー『政府とヒューマニズム』(1955年)

具体的には、刑務所や軍隊等での精神的ケアに同協会が公式に関与することの是非が議論されている。​ファン・ルーラーは、この問題が全く新しい現象であり象徴的な意味を持つと指摘。​ヒューマニスト協会は人間の存在全体に焦点を当てる運動であり、世界と人生の包括的な見方を提供していると評価。

他方、ヒューマニズムが独立した全体主義的ビジョンとして現れ、国家組織に影響を与える可能性もあるという。​​ファン・ルーラーは、国家と教会の関係、そしてヒューマニズムの役割について、憲法的な視点から再評価する必要性を強調している。

第4章が「キリスト教とヒューマニズムの関係」について。ファン・ルーラーによると、ヒューマニズムは精神的価値を重視し、時にキリスト教と共鳴するが、必ずしもキリスト教に至るとは限らない。キリスト教徒とヒューマニストは共通の目的で協力できるが、本質的には異なる基盤を持つ。

歴史的に見ればヒューマニズムの起源はキリスト教に根ざしていると言いうるが、現代ではそれが忘れられ、独自の哲学として発展。現代のヒューマニズムは包括的性格を持つゆえにキリスト教との関係が相互排他的になることが予測される。しかし両者が分断されていることは西洋文化にとって危機的である。

ファン・ルーラーはボンヘッファーの獄中書簡の視点を導入。極限状況での叫びであるゆえ世界観の土台ではないが、キリスト教とヒューマニズムの関係を考える一つの視点となるという。ファン・ルーラーは、キリスト教とヒューマニズムの分裂は回避されるべきで両者の関係を再考する必要があると結論。


Ⅲ クレーマーとボンヘッファーの神学の関係

「クレーマー」+「ヒューマニズム」で探したら、クレーマーとボンヘッファーの神学の関係が詳述された素晴らしい論文に出会えた。「バルト→ボンヘッファー→クレーマー→ファン・ルーラー」の線が見えて来た。

佐藤全弘「成人せる世界 : ボンヘッファーとわれわれ(2)」

大阪市立大学文学部『人文研究』19巻1号(1967年)、37~69頁。

https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp 

(以下、佐藤全弘氏の同上論文の62~63頁の抜粋。まだ続きがあるので、未読の方はぜひリンクをクリックしてご一読を)

この外にもボンヘッファーに注目している人は数多いが,最後にオランダの平信徒神学者 Hendrik Kraemer をあげたい。クレーマーはボンヘッファーも関与していた世界教会(エキュメニカル)運動の指導者の一人であり、戦後日本を訪れたこともあり、その後著した大著 World Cultures and World Religions, 1960.の日本についての一章は、短いながら日本精神の特質を鋭くとらえている。いまここにとりあげるのは、The Communication of the Christian Faith, 1956である。この本は、「人間と人間との間の伝達」と、「神から人間への伝達」という、対話・伝達の根本的に異る二つの種類についての深い洞察を中軸として、現代世界における対話喪失の問題伝達回復の問題を論じたもので、読者の思索反省を迫ってやまない。

人間と言葉と宗教とは時を同じうしてつくられたものである。個人として唖〔ママ〕の人もあり無宗教の人はあっても、全く言語をもたぬ社会、宗教を欠いた社会はない。両者は人間に本質的なものである。ところが現今ではこの言葉が破壊され、伝達が失われている。それはボンヘッファーもいう世俗化の果てにみられる現象である。ことにクレーマーは神から人への伝達を担う教会の問題に注意をむける。

世俗化を教会外のことと考え、教会とキリスト者とはそれに縁がないように思っては誤りである。 「実は、教会も、この世同様(仕方はちがうけれども)いたるところで徹底的に世俗化している、いな教会の世俗化は、この世の世俗化より一層由々しいものでさえある。すべてが「神聖なる」 「聖式の」マントをまとっていて、たいがいその世俗化が目に見えないからである。」クレーマーはしかし世俗化を単に福音の敵とだけみないで、教会とこの世に共通の現実であり、そこには最大の危険とともに最大の可能性もが含まれていると考える。これもボンヘッファーの成人せる世界に対する考えと同じである。つまり世俗化には積極的側面,本当の利点があるとみるのである。ではそれは何か、 「聖書の福音の光に照らしてみた場合、世俗化はたしかに精神がとほうもなく痩せ細る過程、人生の規範の基礎となるものに対する破局的な認識混乱・盲目 を意味する。しかしキリスト者の間ではとくに、世俗化はまた浄化作用をも有する。すなわちもしわれわれが賢明にもそれをみとめ確と把むならば,われわれ を徹底した現実直視へ導かずにはおかぬものであるというべきである。」世界の世俗化によって教会の世俗化はあらわとなり、教会は世俗世界の方法を用いその本来の職務から外れたのである。世俗化の浄化作用を言いかえれば、「世俗化の全過程は、神が教会をその真の性質と本来の職務へ召し戻し給い、キリストが生の一切の領域に王たるべきことを断乎として宣べるという教会の真の主張を、よりよく弁え知らしめ給うところの,皮肉なる仕方の一つである。」神は世俗化を通して教会にいやでも伝達の崩壊を知らしめ給うのであるから,教会はこれに達巡 ・不平 ・防衛的態度をとってはならない。しかも今なお教会は、自らを省みよ、自らを正せ、というこの神の声に十分耳を傾けていない。教会には既に確立した組織体があって、この事態を真剣に扱う勇気と信仰を奪っているのである。 さらにまた、世俗化のおかげで、教会と世界との境界を、伝統が確固としていた時よりはっきり見ることができる。真の教会はいつも少数であって、教会は成員の増減によって盛衰しないことが判るが、これも浄化の一面である。

教会の世俗化の一面は福音の世俗的解釈にもみられる,宗教が倫理化されるのもその一つ、キリスト教信仰が聖書の文言の不可謬性と共に立ちもし倒れもするように考えるのもそれである。非神話化というおぞましい方法を用いて、福音に制限を加えることに対するボンヘッファーの批評に、クレーマーも満腔の賛意を表するのである。

世俗化の積極面から目を離さぬ限り、この世は教会の解放者であるといえ、近代の聖書研究にも神の器としての意味がある。「教会にはこの大衝撃が必要であった。というのは、教会は、聖書はイエス・キリストが真理であることを教えるのだということを忘れ、聖書が真理だという誤った基礎に日を送っていたからである。」しかしクレーマーは決して基本主義(ファンダメンタリズム)ではない、これは神がわれわれをその摂理の下なるこの世俗的近代世界の中に置き給うたことを否むからである。

以上の世俗化に鑑みるとき、今日キリスト教国と呼ばれる国も、実はキリストを棄てた異教の虚無的世界であることが判る。クレーマーの現代世界の精神的情況についての洞識は、前稿(1)でのべたボンヘッファーのそれと根本的に同じで、誤るところがない。(引用終わり)


私個人の感覚に最もなじむのは「世俗化」を肯定的な意味で言うこと。「世俗化」が悪いと言われても困る。否定されると生きる場所が無くなる。それにしても寒い一日だった。冷たい雨がやんだら、春のうららの隅田川までニンジャ1000でまた行きたい。いま願っていることはそれ以上でもそれ以下でもない。

2025年3月29日土曜日

ファン・ルーラーの教授就任講演(1947年)の「パプア」の意味

ファン・ルーラーの教授就任講演「神の国と歴史」(1947年)を収録した論文集(右)

【ファン・ルーラーの教授就任講演(1947年)の「パプア」の意味】

グーグルで日本円に換算して「34,094円」と表示されて天を見上げる。名門Brill社のA History of Christianity in Indonesia (2008)。インドネシア・キリスト教史。一部をネットで読むことができた。本当は現物が欲しい。高額すぎて手が出ない。しかしファン・ルーラーの文章の意味がやっと分かった。

ファン・ルーラーが1947年11月3日に「ユトレヒト大学オランダ改革派教会担当教授(hoogleraar vanwege de Nederlandse Hervormde Kerk aan de rijksuniversiteit te Utrecht)就任講演」を行った。その冒頭で「パプア」(de Papoea)の話が出る。それをまるでジョークであるかのように面白がった人がいる。

ファン・ルーラーの意図を正確に読み取りたい。直前までは地方教会で牧師をしていた。教員として大学で教えるのは初めて。最初に任された担当科目は「聖書神学」(bijbelse theologie)、「オランダ(lit. 祖国)教会史」(vaderlandse kerkgeschiedenis)、「宣教学」(zendingswetenschap)の3科目。

講義準備で苦心したのは、3つの科目をどうしたら調和的に一致(harmonisch geheel verenigen)させるかであり、具体的に言うと「信仰の父アブラハム」と「この名門大学でオランダ神学の中心人物になったフーティウス(Voetius)」と「宣教地パプア」を同時に統一的に見る視点を得ることだったという。

これを面白がった人が「こうした表現の仕方の中にわれわれはファン・リューラーの意表を突いたファンタスティックな表現の自由さを見ることができるであろう」とコメントした。私はどう理解すべきか長年分からなかった。しかし「インドネシア・キリスト教史」がこの謎を解明してくれそうだと分かった。

ほんの少し読めた部分によると、パプアへのキリスト教宣教の開始は1855年。それ以前に公式の宣教がなされた証拠はないが、1520年以降、ポルトガルやスペインのフランシスコ会宣教師がモルッカ諸島で活動したが、パプアと貿易関係にあったので、間接的にパプアの宗教に影響を与えた可能性があるという。

興味深いことがたくさん書かれている。1550年のイエズス会の報告書にパプア諸島にキリスト信者がいると記されているとか、1931年から1962年まで活動したオランダ改革派教会の宣教師が、パプアのシャーマンが占いの道具として使用していたトマス・アクィナスの『神学大全』を発見したとも書かれている。

そのパプアで最初にキリスト教宣教を始めたのはゴスナー(Gossner)というドイツ人だったが、オランダ人牧師が援助したという。そのオランダ人牧師が、19世紀のオランダの信仰復興運動「レベイユ」の流れの人で、その教えが、現在のパプアのキリスト教の人たちの考えに非常に近いという。

そして、1855年に恒久的な伝道所(教会)が西ニューギニアに設立され、宣教師カール・オットー(Carl Ottow)とヨハン・ガイスラー(Johann Geissler)が活動開始。しかし、パプア人側はしばらく様子見。宣教師たちが最初に取り組んだのは現地の言葉を習得すること。単語帳や文法書を作成したという。

しかし、第二次大戦が始まる。1941年5月、ドイツ軍オランダ占領。オランダの宣教本部とパプアの通信遮断。1942年4月、日本軍パプア上陸、大部分制圧。ドイツ国籍所持者以外のすべてのヨーロッパ人宣教師とヨーロッパ人が抑留、東インドネシアの収容所に強制移送。1942年7月、日本軍が宣教師15人処刑。

1944年9月から1945年3月までマッカーサー司令部パプア設置。1944年7月までに日本軍パプア撤退。インドネシアの残りの地域は1945年8月15日まで日本軍占領下。オランダ政府は1946年初頭までパプアに戻れなかった。翌年1947年のファン・ルーラーの「パプア」発言が「ファンタスティックな表現」だろうか。

「信仰の父アブラハム」と「ユトレヒト大学神学部創設者フーティウス(Voetius)」と、第二次大戦で深い傷を負うた「パプア」を「同時に統一的に見る神学的視点」を得る苦労についての表明が「意表を突いたファンタスティックな表現の自由さ」のあらわれだろうか。違うのではないかと思えてならない。

2025年3月26日水曜日

2025年4月・5月の予定

ご用命をお待ちしております

【2025年4月・5月の予定】

以下の日程で出張します。よろしくお願いいたします。

***

4月12日(土)13時~日本基督教団紅葉坂教会(神奈川県横浜市)

「北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる会」

講演・関口 康

5月 9 日(金)19時~日本基督教団信濃町教会(東京都新宿区)

「東京教区北支区・東支区合同祈祷会」

奨励・関口 康

5月10日(土)8時~カトリック松戸教会(千葉県松戸市)

「松戸朝祷会」

奨励・関口 康

2025年3月25日火曜日

ホーケンダイクとファン・ルーラーの関係

『ユトレヒト大学神学部400年史』(2001年)

【ホーケンダイクとファン・ルーラーの関係】

最近入手したばかりの戸村政博訳・ホーケンダイク『明日の社会と明日の教会』(新教出版社、1966年)の本文にも脚注にもファン・ルーラーの名前は登場しない。ホーケンダイクの博士論文の指導教授がファン・ルーラーだったことは『ユトレヒト大学神学部400年史』(画像参照)のホーケンダイクの章に記されている。

ホーケンダイクは1912年5月3日生まれ、ファン・ルーラーは1908年12月10日生まれ。4歳差。ホーケンダイクは世界教会協議会(WCC)初代宣教部幹事。宣教(apostolaat)と神の宣教(missio Dei)はホーケンダイクが最初の発案者ではないけれども、WCCの宣教論の土台に両概念を据えた人であるとは言える。

残念ながら私は戸村政博牧師(1923-2003)にお会いできなかった。1962年から1974年まで日本基督教団宣教部幹事。ホーケンダイクの同書の日本語版(1966年)はその時期の戸村先生訳。ファン・ルーラーはその影すら見えない書物だが、日本基督教団はホーケンダイク経由で間接的な影響を受けたと言える。

今読んでいるファン・ルーラーの文章に、WCCへの距離感が表明されている。まだ正確な紹介ができるほど読めていないが、ローマ(カトリック)教会などと比べればオランダ改革派教会(NHK)の規模は小さいので、公平な対話や協力は難しいのではないかという意味のことをファン・ルーラーが書いている。

その一方でファン・ルーラーは「改革派教会」をecclesia catholica reformata、つまり「改革されたカトリック教会」であるととらえ、自分たちをまるでキリスト教の一形態であるかのように言うのは間違いで、そういう分派主義的な発想は「最良の堕落は最悪」(corruptio optimi pessima)だと批判する。

私見によれば教文館版ファン・リューラー『伝道の神学』(2003年)の表題は誤訳だが、「序」の中の「ホーケンダイク教授は教会の委託を受けた教授である」(13頁)も重要な言葉が脱落。原文"Prof. Hoekendijk is - mirable dictu - kerkelijk hoogleraar”。mirable dictuは「なんとびっくり」ぐらい。

kerkelijk hoogleraarは「教会の委託を受けた教授」で意味は合っているが、当時のユトレヒト大学やライデン大学などの神学部に配属された「オランダ改革派教会担当教授」の略称。改革派教会の大会で任命された教授だったので、やっかみの対象になって就任後しばらく他の教授全員から無視されたらしい。

ホーケンダイクについてファン・ルーラーがmirable dictuと書いた理由とニュアンスが今までよく分からずにいたが、この2人が指導教授と学生の関係だったことを知って、やっと腑に落ちた。教え子の活躍に対するうれしい気持ちと、元学生の「行き過ぎ」に苦笑いせざるをえない気持ちの両面あると思える。

とにかくはっきりしているのは、最初期の世界教会協議会(WCC)の宣教論を構築し、日本基督教団の初期の宣教論に影響を与えたクレーマーとホーケンダイクと同じ日本語で、ファン・ルーラーのapostolaat概念は訳されなくてはならないということ。そうでなければ何の議論をしているのか分からなくなる。

2025年3月24日月曜日

「板書説教」なら専門用語が多くても大丈夫なのだ

これがニンジャ1000の「倒立フォーク」だ

【「板書説教」なら専門用語が多くても大丈夫なのだ】

最近まで「倒立フォーク」の意味を知らなかった。「それが採用されているからツアラーなのにスポーツもこなせる」と説明される。「倒立」の意味は逆立ちだろう。「フォーク(食器)の柄が下向き」という意味か。それとも「横に倒れた(?)フォーク」という意味かと思っていたが、そうではなかった。

これで何を言いたがっているかといえば、専門用語というのはどの領域にも必ずあるということだ。知っている人と知らない人がいて当然だし、分からなければ自分で調べるか、知っていそうな人に質問すればよい。ただそれだけの話なのに、教会だけたいてい別扱いになる。「専門用語を使った」と叱られる。

いま言いたがっていることの結論は「専門用語は教会でも積極的に使うべき」。専門用語を避けて話そうとすると、説明が長いのに正確でない話が延々と続いてしまうから。ただし、専門用語を使ったうえで即座にその意味を図や文字で解説すべき。そのために「板書」が必要。「板書説教」もあり、という話(【「板書説教」自己評価 6か月点検】)。

「倒立フォーク」の意味は書かないでおく。知っている人は「何を今さら」と思っておられるだろうし、知らなくて興味を持ってくださった方は、「俺の指先一本で 一本で(「一本で」を2回言う)」(テレビアニメ「怪物くん」(1968年)OP「おれは怪物くんだ」より)、意味が分かる時代になっている。