2025年2月28日金曜日

「板書説教」自己評価 6か月点検

ホワイトボード

【「板書説教」自己評価 6か月点検】

昨年(2024年)夏から始めたホワイトボードとマーカーを用いた「板書説教」が半年以上。悪い面もあるに違いないが、いま問題にしなくてもいい。以下良いと思える面。順不同。

①同音異義語が多い日本語で、耳で聞くだけで理解できる説教を続けることに限界を感じたことがある説教者たちの活路になる。

②説教中の板書が許可されれば、聖書原典のヘブライ語やギリシア語や、キリスト教の専門用語や現代社会の専門的な知識などの解説に躊躇なく踏み込んで説教することができる。

③板書の手書き速度が説教の進み具合をゆったりしたものにし、理解できないまま置いてきぼりにされる出席者がいなくなる。

④前記③の言い換えだが、事前に印刷したプリントを配布したり、パワーポイントとプロジェクターで「文字や画像や動画」を映写しながら説明する方法と比べて、「板書説教」はのんびりしていて、人にやさしい説教になる。漢字の書き順や難読漢字など「今さら聞けない」知識を派生的に得られたりもする。

⑤「板書説教」は字に書いて説明しうること、つまり「言語化可能」という意味で「理性的・合理的」でありうる。説教者自身が理解できていないことを語っているのではないかと疑われる支離滅裂な説教は、そもそも言語化できていないので板書不可能。「板書説教」を聞いた後味は、モヤモヤが少ないはず。

⑥高齢や他の理由で音声が聞き取りづらい方々が「板書説教」や「説教のブログ公開」を喜んでくださっている。「説教で何が語られたかを理解したい」という願いがある。そのニードにスピーディーに、人にやさしく温かく応えられるのは「板書説教」。紙のプリントや、動画やビデオ通話の追随を許さない。

⑦「板書説教」は小学校から高校までの1教室(30~40名程度)か、大学の大教室(200名程度)と同じような造りの礼拝堂に向いているとは言える。「板書説教」が向いている礼拝堂かどうかで関係するのは、収容人員の問題ではなく「残響」の問題。音楽ホールの方向に近づいている礼拝堂は向かないと思う。

⑧「板書説教」は、主日礼拝を行う礼拝堂とは別に「ホワイトボード『もある』部屋」で行われるのでは、あまり意味はない。主日礼拝そのもののど真ん中で「板書説教」が行われてこそ意味がある。説教の声出しの調子も確実に変わる。音楽ホールで歌うように語る声出しの調子で「板書説教」は成立しない。

⑨コロナ後も教勢が戻らない教会が多いと聞く。巨大な礼拝堂を造ったはいいが、がらんどうに少人数という教会があるだろう。けなしているのではない。少人数だろうと集まっておられる方々に敬意を表する。ひとりひとりの心に届く語り方やふさわしい声出しができていない説教者がいないかと心配になる。

⑩「板書説教」は私が始めたことではない。足立梅田教会の初代牧師がお始めになった、当教会の伝統のようなもの。しばらく途絶えていたことを私が再開したにすぎない。初代牧師が青山学院高等部の聖書科教員をなさっていたため、キリスト教学校の「聖書の授業」や「学校礼拝」との区別や温度差がない。

⑪もうひとつ加える。「ホワイトボードにマーカー」ではなく「黒板にチョーク」にするかどうか迷った時期がある。まだ黒板がないので新規購入するかどうかで迷った。しかし、ホワイトボードで通すことにした。チョークをたまに手を滑らせて床に落とすと砕け散る。マーカーは落としてもびくともしない。