2021年8月22日日曜日

忍耐(2021年8月22日 各自自宅礼拝)

多摩川南側の遊歩道から多摩大橋へと向かう道で(撮影・中島克枝さん)
  
讃美歌21 493番 いつくしみ深い 奏楽・長井志保乃さん

「忍耐」

ローマの信徒への手紙8章18~25節

関口 康

「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」

私が昭島教会で今日の聖書箇所の宣教をするのは3回目だそうです。教会の様々なことを記録してくださっている林芳子さんが、昨日教えてくださいました。ありがとうございます。

「この箇所が好きだから」何度もお話しするという動機は、私にはありません。いつもと同じように、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選ばせていただきました。

しかし、今は教会暦の「聖霊降臨節」です。日本キリスト教団の聖書日課は、教会暦に基づいて聖書箇所が選ばれています。その観点からいえば、「教団の聖書日課」に基づいて聖書の箇所を選ぶことによって「教団の教会暦」に従って聖書を読んでいる、という意味にはなります。

聖霊降臨節とは何なのかについては詳しい説明が必要でしょう。神の御子イエス・キリストが罪人の身代わりに十字架につけられて死に、3日目に復活されました。その40日後に、イエス・キリストが天の父なる神のみもとへとお戻りになり、御父の右に着座される「昇天」の出来事が起こりました。

そしてその後、ユダヤ教の「五旬祭」に当たる日に、御父と御子のもとから聖霊なる神が地上へと降り、その聖霊の力によって勇気づけられた人々の群れが立ち上がり、十字架につけられたイエスこそ真の救い主キリストであると力強く宣べ伝えることを開始する出来事が起こりました。

その出来事を「聖霊降臨」と言い、またそれを「ペンテコステ」という、それだけ耳で聞いてもすぐに意味が分からない方がきっと多いであろうカタカナ言葉で呼びます。そしてその聖霊降臨、すなわちペンテコステの出来事を覚えて過ごす季節が「聖霊降臨節」である、と説明できます。

しかし、このようなことをいくら説明しても「よく意味が分からない」というお返事が戻ってくるだけで会話が終わってしまうことはしばしばあります。「イエス・キリストが父なる神のもとへとお戻りになった」(?)とか「父なる神と御子イエス・キリストのもとから聖霊なる神が来てくださった」(?)とか、まるで現実からかけ離れた、不思議の国の物語を聞かされているような気分になる方が少なくないだろうということも当然理解しています。

しかし、聖書には確かに、いまご説明したようなことが縷々書かれています。しかも、それらのことが、手で触りうるし、肉眼で見うる現象が起こったように記されています。

しかし、こういうことを理解できないとお感じになる方はきっとおられるに違いありませんが、心配する必要はありません。イエス・キリストの十字架と復活と昇天の出来事、そして聖霊降臨の出来事のすべては「キリスト教会の誕生秘話」であり、キリスト教会の「存在理由」(フランス語の哲学用語の「レゾンデートル(raison d'être)」)についての教会自身の自己理解だからです。

それは「教会はなぜ存在するのか。何をする団体なのか」という問いの答えです。別の言い方をすれば、これらの出来事は洗礼を受けて教会の仲間に加わり、教会生活を続けていくうちに、だんだん理解できるようになるような性質のことです。すぐ分からなくても気に病むことは全くありません。教会の中の奥深くへと入って行かないと理解できないことばかりだからです。

ですから、私の心からの願いは「よくわかりません」とおっしゃる方こそ教会の仲間になっていただきたいということです。とことん理解し、納得できるまで共に学ぼうではありませんか。学ぶべき内容は、尽きることがありません。

さて今日の箇所です。私が昭島教会で取り上げるのが3回目だそうですが、ローマの信徒への手紙の8章の18節から25節までで止めて、26節以下に記されている内容と切り離したうえで「忍耐」というタイトルを付けたのは、教団の聖書日課に従った形です。

しかし、私が過去にお話ししたのは、25節までで止めないで、26節以下も含めた記述の流れの中に「3者のうめき」がある、ということではなかったかと、おぼろげに記憶しています。

「3者のうめき」とは「被造物のうめき」(22節)、「わたしたち人間のうめき」(23節)、そして「聖霊なる神のうめき」(26節)の3者です。

人間の罪によって世界が壊れてしまいました。しかし、その世界をなんとかして壊れていない状態へと修復しようと、努力し、うめいている存在があります。その存在が「被造物」であり、「わたしたち人間」であり、「聖霊」と呼ばれる「神ご自身」です。そのことをこの箇所にパウロが、難解な言葉の連続ではありますが、確かに記しています。

そのパウロは一方で「被造物は虚無に服していますが」(20節)とまで書いています。「虚無」はナッシング(nothing)です。何も無い、むなしい、です。「存在するもの」が「無い」と言っています。仏教表現の「色即是空」とほとんど変わらないことを言っています。

目の前に家族や友人がいるところで「すべてはむなしい」と言えば、きっと腹を立てられるか、呆れられるでしょう。目の前にいるわたしたちのことを、まるで存在しないかのように言い放つ、あなたは何様なのかと、叱られるでしょう。しかし、パウロはそれとほとんど変わらないことを言っています。

「被造物は虚無に服している」。存在するものは存在しない。ビーイング・イズ・ナッシング。そう言っているのと同じです。他人を「透明人間」呼ばわりするのと変わりません。

しかし、「そんなわけに行くか」と、もがいているのです。もがいて苦しんで、激しいうめき声をあげているのです、被造物自身と、わたしたち(人間)と、神さまが。神さまは、世界と人類を「甚だ善きもの」(旧約聖書 創世記1章31節)として、ヴェリーグッド(very good)なものとして創造してくださいました。それほど価値あるものを「むなしい」だとか言わせない!

すべての人類が感謝と喜びの人生を安心して送ることができる場として、世界を本来の「甚だ善きもの」へと回復させるために、神と人と被造物が協力するのだと、パウロは信じています。その究極目標にまだ到達していないので「目に見えない」段階ではある。しかしそれは希望の光にあふれる目標である、だから「忍耐して待ち望む」ことができるのだとパウロは信じています。

このパウロの信仰に、わたしたちも今こそ学びたいです。感染症、異常気象、自然災害、人のあざけり、差別。わたしたちの生きる意欲を根こそぎ刈り取っていくような出来事を次々と経験しています。しかし、苦しいのはあなただけではありません。みんな苦しいし、もがいています。

世界を虚無から救い出し、感謝と喜びにあふれる世界を取り戻すために、みんなで協力しようではありませんか。そのことのために、聖霊なる神さまも、そして被造物も、激しいうめき声をあげながら、協力してくれるのだと、パウロが教えてくれています。

だから、わたしたちは孤独ではありません。あなたは孤独ではありません。

(2021年8月22日 各自自宅礼拝)

2021年8月15日日曜日

家族(2021年8月15日 各自自宅礼拝)

教会から見えた夜明けの虹(2021年8月10日(火)午前5時)
讃美歌21 459番 飼い主わが主よ 奏楽・長井志保乃さん


「家族」

コロサイの信徒への手紙3章18節~4章1節

関口 康

「父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。」

今日も「各自自宅礼拝」です。新型コロナウィルスは幾多にも変異し、その感染は抑制されるどころか、日増しに拡大しています。

そうであるということを教会自身が検証するすべを持ちうるわけではありません。関係機関の発表内容を信頼するしかありません。「恐れることはない。ただの風邪である」と高を括る人たちもいます。しかし、私はそうは思いません。今は礼拝堂に集まって礼拝や集会を行うことは危険です。ご理解いただきたく、伏してお願いいたします。

今日の聖書の箇所も、ずっとそうしているように、日本キリスト教団の聖書日課どおりです。今の私にとっては必ずしも率先して選びたい箇所ではありません。なぜなら今日の箇所のテーマが「家族について」だからです。

ご承知のとおり私は、2018年3月に昭島市に転入したときから単身赴任です。ちょうど3年半になります。妻子3人は東京都内で元気にしています。している「と思います」。おかしな言い方をするのは毎日顔を合わせる関係にないからです。ほとんどのことは、私の想像の範囲内です。

結婚したのが1991年4月ですので30年前です。そのときから数えて27年分の家族と過ごした日々を思い出さない日はありません。しかし、言い方を換えれば、どれもこれも遠い昔の思い出になってしまっている、ということでもあります。

この夏も一度も会っていません。私の家族は、夜勤も多い福祉関係や出勤時刻が早い食品関係の仕事をしています。多忙をきわめ、家には寝るために帰ってきているだけです。加えてコロナです。会いに行っても、マスクすら外すことができず、かえって迷惑になるだけです。

こんな話をするのは、今の私にとって「家族について」語ることは非常に重い気持ちになるということを、明け透けに申し上げておきたいからです。私は自分の家族は(まだ)壊れていないと信じています。それはつまり「信じるかどうか」の問題であると自覚しています。私は妻と2人の子どもを信じています。それ以上ではないし、それ以下でもありません。

こんなことを言うことすら家族にとっては失礼かもしれないし、迷惑かもしれません。しかし、いま申し上げていることのすべては、単身赴任の生活を始めることによって、やっと認識できたことです。「気づくのが遅すぎる」と叱られても仕方がありません。

教会の皆さんの中に、この文章を読んでくださっている皆さんの中に、「家族」の問題で悩んでいるという方がおられるなら、その方々の心に届く言葉を、今の私は語ることができるかもしれません。しかし単身赴任を始める前の私には、それを語る力がありませんでした。

一方で「今日の箇所は必ずしも率先して選びたいと思えない」と言いながら、「今の私なら家族について語る資格があるかもしれない」と言うのは矛盾しているかもしれません。しかし、今日の箇所を開いてみてほしいです。実際に読んでいただけば、いま私が何を言おうとしているのかを理解していただける気がします。

最初に記されているのが、「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」(18~19節)です。

この言葉を笑いもせず怒りもしないで真顔で読める人が、今どれくらいいるでしょうか。自分に都合の良いほうの文章は「そうだ、そうだ」と同意しながら読めるかもしれません。しかし、そうでないほうの言葉はそうでない。互いに自己主張するために聖書の言葉を利用し合うだけ。どちらの言葉も成り立たないと思えば、聖書の言葉そのものを放棄するだけ。

次の言葉にも同じことが言えるでしょう。「子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです」(20節)。「主に喜ばれる」うんぬんとあるので、キリスト教の信仰を受け入れている親子関係に該当すると考えるのは可能でしょう。しかし、だからといって信仰と関係なく生きている人々には無関係であるとまで言い切るのは、行き過ぎです。子どもが親に従うことが大切であるという教えは、普遍性を持つでしょう。

しかし、問題はそこから先です。今に始まったことではありえません。しかし広く報道されるようになったのはさほど昔でもないのは、親である人が子どもを虐待する事象です。「どんなことについても」子どもは親に従うべきであると聖書が教えていると、この言葉だけを切り取って、親から虐待を受けている子どもたちに伝えると、その子たちの絶望の根拠になりかねません。

しかし、すぐ後に「父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです」(21節)と記されているので、ちょっとほっとします。とはいえ、なぜ「父親たち」だけなのか、母親は無関係なのかと、即座に反発を感じる方がおられるに違いありません。

この箇所に「母親たち」と書かれていないので、母親は子どもを苛立たせてもよいと読む方がおられるなら、それはもちろん完全なる誤読です。しかし、この箇所の原文に「父親たち」(πατερες パテレス)と記されている事実を変更することはできないでしょう。ただそれだけのことです。

親子関係のことについては、今週の週報に「以下、短くお勧めします」と最初に記した短文を掲載しましたので、ぜひお読みいただきたいです。特にコロナ禍で、ステイホームやテレワークが社会的に奨励されている中で、親が自宅で仕事をすることが家庭内不和の原因になっていることが広く知られています。それを「虐待」だと言われると困る親の立場も痛いほど分かります。しかし、子どもたちの居たたまれない立場も分かります。

週報に載せた短い文章の最後に「いつも共に生活している人たちに対してこそ、敬意を持ち、かけがえのない存在であると信じようではありませんか」と書かせていただきました。

そんなのはきれいごとだ、などと思わないでください。「仕事中に苛立つのは当たり前であり、その苛立つ仕事を自宅でしなければならないのは、自分のせいではなく、コロナのせいであり、会社の命令であり、社会の要請なので、親である自分が子どもの前で苛立ち、つらく当たるのは避けがたいことなので、子どもたちに我慢してもらうしかない」などと合理化しないでください。

わたしたちもかつては子どもでした。そのことを忘れないでいましょう。「自分も親からつらく当たられた。だから、私も自分の子どもにつらく当たる」と考えるのをやめましょう。

自慢ではありませんが、牧師たちはステイホームとテレワークの先駆者です。いま至るところで起こっていると言われる家庭内不和の原因そのものだった過去が、私にもあります。家族には申し訳ない気持ちでいっぱいです。私は皆さんの「反面教師」です。単身赴任は反省期間です。だからこそ、皆さんにお話しできる立場にあると思います。

(2021年8月15日 各自自宅礼拝)

2021年8月8日日曜日

苦難の共同体(2021年8月8日 各自自宅礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 405番 すべての人に 奏楽・長井志保乃さん


「苦難の共同体」

使徒言行録20章17~38節

関口 康

「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」

今の予定では、今日から8月29日まで4回の主日礼拝を「各自自宅礼拝」に切り替えることにしました。私の独断ではなく、役員・運営委員の了解を得ました。皆様の中に別のご意見があるかもしれません。しかし、8月5日付けの連絡についてどなたからも直接のご意見をいただいていません。ご理解いただけますと幸いです。

今日の聖書箇所と宣教題は、日本キリスト教団の聖書日課に基づいて半年以上前に決めたものです。今の状況に合わせたものではありません。しかし「苦難の共同体」は今のわたしたちです。

「苦難」という言葉が今日の箇所に出てくるのは23節です。「ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」(23節)。

この「苦難」と訳されている言葉(θλιψις スリフィス)は、聖書の中に多く出てきます。共通しているのは「外部の状況によってもたらされる困難や貧困」という意味、もしくは「心理的・精神的に苦しい状態」という意味であるとギリシア語の辞書に記されています。言い換えれば、自分に原因も責任もないという意味での「外因性の苦しみ」であると言えるでしょう。

今のわたしたちがまさに「苦難の共同体」であると先ほど結び付けて申し上げたのも、わたしたち自身に非がある形での苦しみを味わっているわけではないと言いたい気持ちを含んでいます。運命論や宿命論のような立場から「コロナ禍はあなたの罪への天罰である」とか「あなたの日頃の行いが悪かった」とか、そのようなことは誰にも言われたくありません。

それでは誰の責任なのか、何が原因なのかということに興味や関心を持つことを全く妨げることはできません。考えてはいけないと禁止されたから考えるのをやめるという人はまずいませんし、禁止する権限は誰にもないでしょう。しかしだからといって、考えてもすぐに答えが出ない場合、あるいは原因を突き止め、責任を追及したからといって、苦しい状態や危険な状態をすぐ治めることができない場合は、「とにかく逃げるしかない」としか言いようがありません。

今日の箇所に登場するのは使徒パウロです。「苦難」という言葉を発しているのもパウロです。第2回宣教旅行の最中です。そのパウロが「苦難」を口にすることに、明確な文脈があります。

22節から読むと、その文脈が少し分かります。「そして今、わたしは、霊に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません」(22節)とパウロはまず語り、その続きに「ただ、投獄と苦難がわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」(23節)と語っています。

そのことがはっきり分かっているのならば、エルサレムに行かなければいいだけではないかと言いたくなる気持ちが、私の中に起こらないわけではありません。なぜなら「苦難」の辞書的な意味は「外部の状況によってもたらされる困難や貧困」なのですから。あなたのせいではないのですから。危険からは逃げてもいいし、困難や貧困や苦痛を避けて生きたからといって誰からも咎められることはないし、そのことを咎める権限など誰も持っているはずがないのですから。

いま申し上げた気持ちが私の中に起こらないわけではないと言いました。このパウロの説教を聴いた人々にも同じ気持ちが起こったようです。

パウロが「そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています」(25節)と言った言葉に反応した人々が、その説教が終わった後「激しく泣いた」(37節)と記されています。「特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ」(38節)と続いています。

つまりこれは、パウロが自分の死を覚悟していることの表明であり、私がエルサレムに行くと殺されるだろうという意味です。しかし、そのことがあらかじめ分かっているのにあなたはなぜそのような危険なところに行こうとするのですか、行かないでください、と引き止めたい人々が泣き出したわけです。しかし、パウロはその人々を振り切ってエルサレムへと旅立ちました。

しかも、この説教の中で、パウロが最も強く、そして最も厳しいことを語っているのは、26節です。「だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません」(26節)と言っています。

「責任」と訳されている言葉(καθαρος カタロス)の辞書的な意味は英語のpure(ピュア)やclean(クリーン)、つまり「純粋」や「きれい」という意味です。転じて、特に道徳的・宗教的な文脈では「罪から自由である」という意味になります。

そして「だれの血についても」の「血」は、神の言葉に背く人に神が与える刑罰の血を指しています。つまり、ここでパウロが言っていることの趣旨は「あなたがたのうちの誰かが神の言葉に背いて神から罰を受けたとしても、あなたがたに神の言葉を教えた者としての私の罪ではない」ということです。その「責任」は私にはない、ということです。

パウロの説教を聴いていた人たちは冷たく突き放されたような感覚を抱いたかもしれません。事実パウロは突き放したのです。パウロは死の覚悟と決意をしていました。自分がいなくなっても、あなたがた自身が神の前で責任をとりうる自己を確立できるようになってほしいとパウロは強く願ったのです。「すべての責任は私が引き受けるので、あなたがたが責任を負う必要はない」などと言わないで。そのように優しく温かく言うほうがパウロの株が上がったかもしれませんが。

31節と32節に記されているパウロの言葉の趣旨も、それと同じです。「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」(31~32節)。

この箇所は読み間違える可能性がありますので、注意が必要です。パウロは「神とその恵みの言葉と『を』あなたがた『に』ゆだねます」と言っていません。パウロが言っているのは「今までは私が神の言葉を語る立場にあった。しかし、これからはきみたちが神の言葉を語る番だ。私の立場をきみたちに譲る」という意味ではありません。

そうではなく「あなたがた『を』神の言葉『に』ゆだねる」とは、あなたがたについての責任は私には一切ありません、という意味です。文字通りの「別れ」の言葉をパウロは語っています。

パウロの言葉にかこつけて私が何かを言おうとしているのではありません。しかし、パウロの言葉から学べることがあります。それは、聖書に学び、神の言葉に聴くことと、常に誰かに依存して生きるのでなく自立した自己の確立を目指すことは、同じ方向を向いているということです。

(2021年8月8日 各自自宅礼拝)

2021年8月5日木曜日

【重要】昭島教会からのお知らせです

昭島教会の最寄りの公園です(昭島市立富士見公園)

親愛なる各位

国内で新型コロナウィルス感染者が急増する中、政府が「重症患者や重症リスクの高い方以外は自宅での療養を基本とする」との方針を8月2日(月)に表明しました。

わたしたちは、この事態を深刻に受け止め、昭島教会の主日礼拝と集会を8月8日(日)から8月末まで(延長の可能性あり)礼拝堂で行うことを休止いたします。

主日礼拝は「各自自宅礼拝」とします。教会学校と聖書に学び祈る会(木曜)は「休会」とします。

日曜日は礼拝堂を閉鎖する形をとらず、午前9時から12時まで開きます。安全な移動手段でお越しいただき、各自で祈りをささげることはできます。

連絡は、電話、インターネット、郵便で行います。

なにとぞご理解いただけますと幸いです。皆様の健康と安全が守られるようお祈りいたします。

2021年8月5日

日本キリスト教団 昭島教会
牧師 関口 康

〒196-0022 東京都昭島市中神町1232-13
TEL:042-543-9562 akishimakyokai@gmail.com

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【追記】

以上の連絡を、メール、電話、はがき、ブログなどで本日付けでお知らせしましたことをご報告申し上げます。

「郵送不要」を申し出てくださっている方々には、はがきを割愛させていただきました。

上の文章は日ごろ親しくしてくださっている皆様宛てに書きましたので、第三者の観点からすると誤解を招く部分があるかもしれません。

コロナ対策の観点から「各自自宅礼拝」を本教会が行うのは今回が初めてではありませんし、これまで事態を深刻に受け止めて来なかったという意味でもありません。言葉が足りていないところがありましたらお許しください。


2021年8月1日日曜日

宣教への派遣(2021年8月1日 平和聖日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
旧讃美歌 531番 こころのおごとに 奏楽・長井志保乃さん


「宣教への派遣」

使徒言行録9章26~31節

関口 康

「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」

今日は日本キリスト教団が毎年8月の第1主日を「平和聖日」と定めたことに基づく礼拝です。日本キリスト教団がこの日を定めたのは1962年であり、実施は翌年1963年8月からです。私は1965年生まれなのでまだ生まれていませんが、前回の東京オリンピックが開催された1964年の前年から始まったと言えば、憶えやすい話になるかもしれません。

まだ生まれていなかった私は、当時の空気を知る立場にありません。しかし、太平洋戦争終結の1945年から15年経過した1960年に締結された新しい日米安保条約に反対する人々が国会前等で大規模なデモを行った、いわゆる60年安保の議論を背景にしながら、日本キリスト教団でも活発な議論を経て「平和聖日」が定められたという流れにあることは明白です。

石川先生はじめ昭島教会のこれまでの歩みを熟知しておられる方々から教えていただいたのは、わたしたちは「平和聖日」をたいへん重んじる教会として歩んできたということです。この日に特別講師をお招きして講演会を行っていたこともあります。週報の「今週の祈り」の中に「世界の平和と核兵器廃絶のために。飢餓と騒乱に苦しむ人々のために」という祈りを今日に至るまで毎週記載してきたのもその一環であるということです。

私のことが皆さんにどう見えているかは分かりません。表立った平和運動のようなことは全くしていません。しかし、「平和聖日」を重んじることや「平和の祈り」を献げ続けることには一切異存がありません。偶然ですが、昨年から非常勤講師として聖書を教えている神奈川県茅ヶ崎市のアレセイア湘南中学校高等学校、そして今年度から小学校でも教えるようになった学校法人の名称が「平和学園」であることを、私はたいへん誇りに思っています。

あるいは、ふだんからいつもそういうことをしていないのが心苦しいですが、8年前の2013年の特定秘密保護法や、その2年後の2015年の安保関連法案に反対する大規模な国会前デモには、私も行きました。特定のグループに属していないのでひとりで行って黙って立っていただけですが、何もしないでいるわけに行かないという気持ちで参加しました。私がそういう人間であることをご記憶いただく機会になればと思い、このことを証しします。

平和の教えとその祈りがキリスト教からだけ出てきたものである、などと申し上げるつもりはありません。しかし、キリスト教からも出てきたものであり、キリスト教信仰の根幹にかかわるものであることは明白です。

「ちょっと待て」と言われるかもしれません。キリスト教国と呼ばれる国こそ歴史の中の多くの戦争の当事者だったし、今もそうではないかと。そのことを知らずにいるわけではありません。しかし、すべてを知り尽くす力は私にはありませんが、まさにキリスト教国と呼ばれる国の教会の中にはいつも必ず戦争に反対し、平和を教え、平和を祈り続ける小さなグループがあり続けてきたように思います。

そういう人たちは、政治の中でも宗教の中でも少数派になりがちです。公然と反対運動などしようものなら、たちまち弾圧されて消されてしまう。その中を堪えて、隠れて、抵抗して、平和を求めた人々がいたからこそ、今日の教会まで平和の教えと祈りが受け継がれてきたのだと思います。もっと論証的に具体例を挙げて話せるようになりたいですが、勉強不足をお詫びします。かろうじて私にできるのは、聖書の中で「平和」の意味は何かを調べて話すことくらいです。

今日の聖書箇所も、いつもと同じように日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。この箇所の31節に「平和」という言葉が出てきます。「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」(31節)。

この意味での「平和」が、あくまでも教会の内部の安定を指していることは明らかです。社会全体の中で実現されるべき「平和」の範囲まで達していません。しかし、とにかく「平和」という言葉がここにはっきり出てきます。

そして特に大事な点は、たとえ教会の内部だけであれ、とにかく「平和」が保たれたからこそ、基礎が固まって発展したのだと記されていることです。この意味での「平和」の対義語は「戦争」というより「対立」や「分裂」でしょう。教会の内部に対立や分裂があるかぎり、基礎が固まって発展することはないということでしょう。

対立している各グループは一時的に人数が増えるかもしれません。しかし中身を見ると、一方のグループから他方へ移動したにすぎず、全体の数は変わらなかったりします。内部分裂を繰り返しているうちに、みんな疲れ果ててしまいます。いつまで経っても教会の基礎が固まりません。

今日の箇所には背景と文脈が分かるように記されています。それは使徒パウロが「サウル」と名乗っていた頃のことです。しかも、その「サウロ」がキリスト教へ入信したばかりのころです。

「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だと信じないで恐れた」(26節)とあるのは当然です。9章の初めの言葉が「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」(1~2節)です。

そこから急激な変化が起こり、その同じ人が、今度はキリスト教会の仲間に加わりたいと申し出てきたというのです。そうは問屋が卸さないと誰しも感じたでしょう。

しかし、バルナバの仲介を得て、パウロはエルサレム教会の信頼を獲得し、さらにユダヤ教団からパウロが追われていることを知った人々が逃亡を支援しました。このときからパウロの生涯3回に及ぶ世界宣教旅行が開始されました。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じました。

エルサレム教会の人々は、なぜパウロを信頼できたのでしょうか。今日の箇所に詳しい説明はありません。しかし、そうであるとしか言いようがありません。彼らはパウロのすべてを赦したのです。憎しみも恨みもすべて乗り越えてパウロを愛したのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章44節)と教えたイエス・キリストの言葉を本気で信じ、実践したのです。そこに十字架の愛があり、平和が実現する基礎があると信じたのです。

教会だけに当てはまることだと私は思いません。順序としては教会内部の平和を実現することが先決かもしれません。それができたならば、世界の平和を実現する道筋があることを示すことができるでしょう。そこに十字架の愛と赦しが必要であることを証しすることができるでしょう。

(2021年8月1日 平和聖日礼拝)

2021年7月25日日曜日

憐れみの福音(2021年7月25日 主日礼拝)

日本キリスト教団 昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 462番 はてしも知れぬ 奏楽・長井志保乃さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます


「憐れみの福音」

コリントの信徒への手紙二5章16節~21節

関口 康

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」

わたしたちは歴史の中で、歴史と共に生きる存在です。信仰を持って生きる者たちも、歴史と無関係であることは決してありません。しかしそれは、全体の流れに調子を合わせて生きることを全く意味しません。とりわけイエス・キリストと共に生きているわたしたち、今日の聖書箇所の言葉を用いて言えば「キリストと結ばれる人」は、全体の流れにむしろ抵抗して、神の真理を語りかつ実践する者として歴史の中に立たされる場面が多いです。

大げさな言い方をこれ以上続けようとは思いません。私個人は、明確な歴史哲学や政治思想のようなものは持っていません。私が政治について話し始めると空想のような話に終始してしまいます。それは実は「キリスト教」と「教会」に対して強い期待を持ち続けているからです。

現在のドイツのメルケル首相の所属政党がキリスト教民主同盟です。メルケル氏自身は牧師の子女です。キリスト教政党は、ドイツだけでなくヨーロッパ各国や南アフリカやオーストラリアなどにもあります。日本でも戦後一度だけ(1977年)「日本キリスト党」という政党が作られたことがありますが、一議席も獲得できず解党しました。そのことと関係ありませんが、その政党の党首だった武藤富男氏が東京都東村山市に作った学校で、私はいま聖書の講師をしています。

もしそういう政党があれば、私はそういうところを応援したいと考えます。しかし存在しないので無党派層に属しています。教会が政党のようにふるまうことにも反対です。それだと政治に対して無責任であるということになるかもしれませんが、他にどうすることもできません。

このような話をするのはオリンピックのことが念頭にあるからです。多くの反対を押し切って開催されました。しかし、始まれば、反対していた人たちも含めてテレビに釘付けになっているのではないでしょうか。そのことを責める気持ちが、私にあるわけではありません。

私は理由があって3年前からテレビを全く観ていませんので、オリンピックも観ていません。オリンピックの話をされても私は分かりません。これで何が言いたいか。わたしたちが歴史の中で、歴史と共に生きることと、テレビに釘付けになることとは、別の話であるということです。テレビを観てコメントすることが、教会の社会的責任の果たし方であるわけでもありません。

かろうじてインターネットは用いています。世界中の情報がどんどん入ってきます。開会式で天皇の開会宣言のとき総理大臣の起立が遅かったとか、バッハ会長の挨拶が長かったとか。その知識に何の意味があるのかが理解できないままですが、いろんな人がいろんなことを書きます。

細かいことに関心を持つことが間違っていると言いたいのではありません。「だからどうした」と明確な線を引く権利を、私はむしろ擁護したいです。「それよりも大事なことがあるだろう」と言いたいのでもありません。「知らなくていいこともある」と言いたいだけです。

先ほど一度触れました。今日の箇所にパウロが記している「キリストと結ばれる人」は、原文を補っている訳です。「と結ばれる」という言葉は原文にはありません。5月23日のペンテコステ礼拝で秋場治憲兄が宣教を担当してくださったとき、ローマの信徒への手紙8章1節の「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」という一文を取り上げて、「に結ばれている」について、原文のεν(エン)、英語のin(イン)をNew English Bibleがbe united withと訳したことと結びつけて説明してくださいました。それと同じです。

英語のin(イン)には多くの意味があることは英語の辞書を見れば分かります。しかし、最も単純な意味は「における」や「の中に」でしょう。ギリシア語も同じです。「キリストの中の人」と訳しても意味は通じませんが、原文を直訳するとそうなります。

しかし、コリントの信徒への手紙一(いち)12章27節に「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」とあります。今日の箇所は「二(に)」の手紙ですが、「キリストの中の人」と「キリストの体の部分である人」を関連付けることは、不可能ではないでしょう。

「あなたがたはキリストの体である」の「あなたがた」は「教会」であり、「キリストの体」は「教会」です。「キリストの中の人」と「教会の中の人」を区別したい人が私の知り合いに少なくないのですが、私はその区別ができません。2千年前のパウロが必ずそういう意味で言っているという意味で申し上げるのではありません。しかし、「キリストに結ばれてはいるけれども教会には結ばれていない」状態が何を意味するのかが私には理解できません。

端的に言えば「キリスト者であること」と「教会員であること」は同一であるというおそらく最も古典的で保守的な理解を、私は持ち続けています。そして、だからこそ私は「キリスト教」と「教会」に対して強い期待を持ち続けています。

今日の箇所の「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(17節)を「キリストの体なる教会と結ばれる人は」と言い換えても同じであると私は心から信じています。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じる」場は「教会」をおいて他にないと信じています。だからこそ私は何があっても教会から離れることができません。

宣教が牧師の意見を述べる場でないことは重々承知しています。しかし、理解の根本がずれているとコミュニケーションがうまく行かないので、私の理解を説明させていただいています。

そして、もちろん「それは事実なのか」という厳しい問いかけが「教会」に対してあり続けていることも知っています。「教会こそが古いものをいつまでも温存し続ける諸悪の根源ではないか」と言われます。その批判に私は負けてしまいます。目を閉じ、耳をふさぎ、大声で叫びたいです。

しかし、今日の箇所の「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」(18節)という言葉に、私は深い慰めを覚えます。

わたしたちもまた、かつては神と敵対していました。そのわたしたちを神がキリストを通してご自分と和解させてくださったので、今日のわたしたちがあります。教会にはもはや何の問題もないと言いたいのではありません。わたしたちも日々赦しが必要な罪深い存在です。神の憐れみと赦しなしに(「キリストの体なる教会の部分」である)わたしたちは一日も立っていません。

神はそのわたしたち教会(!)にこそ「和解のために奉仕する任務」を授けてくださいました。「あなたたちのような罪深い存在をこのわたしが愛し、赦しているのだから、あなたたちも互いにいがみ合うのをやめて、新しい仲間を常に求め続けて、互いに愛し合い、赦し合いなさい」と、神がキリストを通して教会(!)にお命じになっているのです。

(2021年7月25日 主日礼拝)

2021年7月18日日曜日

異邦人の救い(2021年7月18日 主日礼拝)

昭島教会はJR青梅(おうめ)線「中神(なかがみ)」駅の北口から徒歩5分です

  
讃美歌21 460番 やさしき道しるべの 奏楽・長井志保乃さん


「異邦人の救い」

ローマの信徒への手紙9章19~28節

関口 康

「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」

「いいかげんにしてほしい」と、誰に言うでもなく、呟きたくなる「コロナ、コロナ、コロナ」の毎日です。この文脈であまり言いたくないことではありますが、今の状況が続けば続くほど、聖書の教えがわたしたちをますます苦しめる原因になるかもしれません。

なぜそうなるのかといえば、聖書の教えの基本が、わたしたちの神さまがただおひとりであり、天地万物が創造者なる神の作品であるという点にあるからです。もし聖書の教えが、良いことや楽しいことは神さまが与えてくださるものだけれど、悪いことや悲しいことは神さま以外の別の存在がもたらすものであるというものであれば、逃げ道ができますが、そうではありません。

もし創造者がおひとりであり、万物がそのおひとりの神がお造りになったものであるならば、世界はどうしてこんなにひどいのか、人生はどうしてこんなに苦しいのかを、途中の議論を全部省いて問いと答えだけをつないで言えば「神さまに原因がある」と言わざるをえなくなるのです。

責任問題を言おうとしているのではありません。誰の責任かという問題の答えは、罪を犯した人間にある、ということになるでしょうし、そういう方向に誘導されていくところがあります。結局「人間が悪い」と責められて、その人間の罪をイエス・キリストの十字架によって神さまが赦してくださり、神の憐れみのうちに生かされて生きる謙遜な人生を送ることがキリスト者たる者たちの目指すべき道である、ということで、だいたい話が終わります。

しかし、それはある意味で問題のすり替えです。原因の問題と、責任の問題は、別問題です。それは今日の聖書の箇所に、使徒パウロがいみじくも書いているとおりです。

「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』と」(19節)とパウロが書いているのは責任の問題です。神が人を責めるとは、世界の悪と混乱の責任は人間にある、ということを意味します。しかし、「そんなふうにわたしたちに責任を問われても困ります」と、神さまに対して反論を企てる人の言葉が持ち出されていると考えることができます。

なぜ責任を問われても困るのか。そもそもこの世界を造ったのは神さまでしょう、なぜ神さまは悪と混乱の原因になるようなものをこの世界に造ったのですか、そんなものがそもそも世界に存在しなければ、悪も混乱もなかったでしょうに、と反論者が言おうとしているわけです。

しかし、それに対するパウロの答え方が乱暴と言えば乱暴です。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か」(20節)と一刀両断です。「黙れ、文句を言うな」と言っているのと同じです。学校の先生が生徒から質問を受けたときにこういう答え方をしたら大問題になるでしょう。

「造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないものに用いる器に造る権限があるのではないか」(21節)とパウロが続けています。言い方を換えれば、先ほどから申し上げているとおり、責任の問題と原因の問題は区別しなければならない、ということです。

ごく分かりやすくたとえれば、ご本人の前で申し上げることをお詫びしなくてはなりませんが、石川先生と私の体型の違いの問題などを考えてくださると、すぐにご理解いただけるのではないでしょうか。石川先生はお若いころから今日に至るまでスマート。私はご覧のとおりです。

私が神さまに「どうしてこんな体型に私をお造りになったのでしょうか。私の責任ではないではありませんか」と言うと、神さまから「黙れ、文句を言うな」と叱られる流れです。「何をどのように造ろうとも焼き物師の勝手だろうが」という論法なので、納得が行かないも何もないわけです。原因は神さまにあると、はっきり言えるわけです。

しかし、造られた側が自分の造作やら何やらが気に入らなくて、他の人と比較してひがんだり、腹を立てたり、文句を言ったりするのは、創造者なる神に逆らうことを意味するので、それは罪であり、人間の責任だと言われることになります。つまり、原因は神さまにあるが、責任は人間にある、という一見矛盾しているようにも思えることが両立することになる、というわけです。ただし、この理屈に納得できない人は、「神に口答えするとは、あなたは何者か」と、まるで恫喝されているかのような言葉を聞かなくてならないことにもなります。

しかし、わたしたちを本当に悩ませ、苦しませる問題は、責任の問題のほうではなく、原因の問題ではないでしょうか。なぜ神はこのような世界を造られたのか、なぜ私はこのような存在に造られたのか。この問いは、神さまに責任をとってほしいと言いたいわけではないのです。ただ、どうしてこうなのかの理由を知りたいだけです。

これと同じ問いであるとあえて断言したいのは、イエスさまが十字架の上で絶叫されたと聖書に記されている「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という問いです。これはイエスさまが失敗者として失意と絶望のうちにあられたことを意味するわけではないと、石川先生がお話しくださったことを覚えています。私もそうだと思います。そうではなくイエスさまも原因、あるいは理由を問われたのだと思います。

そのことが悪いわけではないと私は申し上げたいのです。「どうしてこうなのか」という問いは、いくら問うても答えがない場合が多いです。だからといって「問うのをやめなさい。それは信仰的に未熟な人の問いである」などと言って制したり禁じたりする権限がだれにあるでしょうか。

コロナだけではありません。地震、津波、土石流、気候変動。すべてを人間の罪の責任にするのは簡単です。人災の面がないわけではない場合がありますし、政治批判や訴訟問題につなげていくこともできなくはありません。しかし「だれのせいなのか」という責任の問題と、「どうしてこうなのか」という原因の問題は別です。なぜ神はこのような世界とこのような人間をお造りになったのかを真剣に問う人を責めたりからかったりすべきではありません。たとえ答えが無くても、問い続けることを妨げてはなりません。そうでないかぎり、人間の心はおさまりません。

その問いを問うたうえで、世界にはさまざまな悩みや苦しみがあることを認めたうえで、その問題の解決と和解の道を求めていくことが大切です。ユダヤ人も異邦人も共に「神の憐れみの器」(24節)とされたことを互いに認め合い、イエス・キリストの体なる教会へと共に連なる同士、協力して生きていこうではないかと、パウロは今日の箇所で呼びかけているのだと理解できます。

(2021年7月18日 主日礼拝)

2021年7月11日日曜日

生活の刷新(2021年7月11日 主日礼拝)

昭島教会へようこそ
落ち着いた礼拝堂です

  
536番 み恵みを受けた今は 奏楽・長井志保乃さん

「生活の刷新」

使徒言行録19章11~20節

関口 康

「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。」

今日の朗読箇所と宣教題も、これまでと同じように日本キリスト教団聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。

日本キリスト教団がそうすることを諸教会に求めているのではありません。あくまで便利に利用させてもらっているだけです。しかし、自分で考えて決めると、自分の狭い興味や関心の中で話してしまうので、それを防ぐメリットがあります。

今日の箇所もそうです。私にとっては自分で選ぶことがまず無いような箇所と宣教題です。

「生活の刷新」という宣教題も『日毎の糧』から戴いた表現です。面白がって使わせてもらいました。現在は、いろんな言葉の意味をインターネットで調べることができます。

「刷新」という言葉を調べてみたところ、複数の辞書を見比べて共通している要素は、「刷」にペンキやほこりを払う「刷毛(はけ)」という道具があるように「こすって清める、はく」という意味があり、つまり従来のあり方の中の悪い部分を取り除く仕方で、よりよき新しいあり方へと変えることを指すと分かりました。

類語として「更新」や「革新」などがあるけれども、それぞれ意味が違うというようなこともずいぶん詳しく説明してくれているウェブサイトも見つけました。

聖書日課の作者がそこまで考えて付けた題かどうかは分かりません。しかし、たしかに今日の聖書箇所に記されているのは、いま申し上げた意味での「刷新」であるということを、このたび学ばせていただきました。

今日の箇所の出来事は、使徒パウロが生涯で3回行った伝道旅行の、3回目のときに起こったことです。19章1節に「パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て」と記されていることから、彼がエフェソで遭遇した出来事であることが分かります。

エフェソでのパウロの姿に、少し前の17章に描かれていたアテネにいたときとは違う宣教姿勢を読み取ることができるかもしれません。アテネのパウロは「憤慨」(17章16節)していました。「あなたが説いている新しい教え」を聞かせてもらいたいと興味本位で集まってきたアテネ市民に対して腹立ちまぎれの当てこすり説教をするパウロの姿が描かれています。

しかし、エフェソのパウロについては、反対者との直接対決を避ける姿勢があったかのように描かれています。「ある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた」(9節)とあるとおりです。

元々パウロが攻撃性と柔軟性を兼ね備えた人だったのか、それともアテネで示したあからさまな攻撃性が宣教の妨げになったことに自分で気づくなり反省したりして、エフェソを訪れた頃には柔軟な姿勢を学んでいた、というようなことが言えるかどうかは分かりません。しかし、教会の宣教のあり方を考える際の大切な問題が含まれていると私には思えてなりません。

「押してダメなら引いてみろ」と言うではありませんか。全く異なる文脈で用いられる言葉かもしれませんが、全く無関係でもなさそうです。

しかし、今申し上げていることが「生活の刷新」を意味すると申し上げたいのではありません。パウロが自分の宣教姿勢を反省して、強引で攻撃的なものから柔軟なものへと変化させたことがそうであると。そのことが大事でないとは申しませんが、もっと大事なことは、パウロの宣教によって、エフェソの人々の側に「生活の刷新」がもたらされたことです。

今日の箇所で特に興味深いのは、ユダヤ人の祭司長スケワの7人の息子たちが、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」という言葉で悪霊払いをする祈祷師のようなことをしていたと書かれていることです。すると、悪霊が彼らに言い返してきた、というのです。

「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と悪霊が言い出して、このスケワの7人の息子を含む祈祷師たちに飛びかかって来て、押さえ付けて、ひどい目に遭わせて、彼らを裸にして、傷つけてきたので、逃げ出したというようなことが書かれています。

悪霊払い(エクソシズム)については、昔の映画「エクソシスト」で描かれたような怪奇現象が本当にあるのかどうかは、私には全く分かりません。しかし、世界は広いです。わたしたちの知らないことがまだまだ多くあるかもしれない、と言うだけにとどめておきます。

「生活の刷新」に該当するのは、ここから先です。「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」という呪文で悪霊払いをしようとした祈祷師たちが悪霊から反撃を受けたといううわさが広がったことで、エフェソの人たちがすっかり恐れを抱いて、信仰に入ったことが記されています。きっかけはなんでもいいかもしれません。

そして、そのうえで、「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった」(18~19節)と書かれています。

ここが今日の箇所の核心部分です。「刷新」の意味は「過去の悪いものを刷いて新しくすること」です。キリスト教以外の宗教のすべてが「悪い」と私が言いたいのではありません。各自が自分で気づいて判断するしかない面があります。第三者が命令したり強制したりしてどうなるものでもありません。

しかし、「この道が正しい」と信じた人が、それまで信頼してきたものを抱え込んだままであるか、それともこれまでのもの、過去のものは、きっぱり捨てるかで、その後の歩みに違いが出てくるかもしれません。そのことについては、黙っていないほうがよいでしょう。

エフェソの人たちがキリスト教を受け入れたとき「自分たちの悪行をはっきり告白した」(18節)とか、魔術を行っていた人たちもその書物を「焼き捨てた」(19節)と書かれていることの意味は大きいです。

「銀貨五万枚」は、現在の5億円ほどです。「そんな勿体ないことを、どうして」と考える方もおられるでしょう。焼き捨てたりしないで「魔法図書館」を建てて保存しておけば、21世紀の今ごろ、多くの研究論文のテーマとして取り上げられたかもしれないのに、と。

そういう考えも一理あるかもしれません。しかし、そこから先は各自の判断です。わたしたちは宗教学者になるのか、それともイエス・キリストの十字架を目指して生きるキリスト者になるのかの分かれ道が、いずれ訪れるでしょう。

(2021年7月11日 主日礼拝)

2021年7月4日日曜日

祈り(2021年7月4日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

  
讃美歌21 458番 信仰こそ旅路を 奏楽・長井志保乃さん


「祈り」

テモテへの手紙一2章1~7節

関口 康

「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」

先週6月27日(日)一人の姉妹の洗礼式が石川献之助名誉牧師の司式によって行われました。主にある仲間が新たに教会に与えられましたことを心から慶び、感謝しています。

キリスト者としての信仰生活の基本は、主の日ごとの礼拝と日ごとの祈りと賛美にあります。もちろんそこに聖書の学びが含まれます。しかし、おそらくどのキリスト教の入門書を見ても、聖書はキリスト教の「正典」であり、「正典」は英語でcanonと言い、「ものさし」や「基準」という意味で、わたしたちの心や日々の生活と照らし合わせながら、神に喜ばれるよりよき人間へと成長するためにあるという趣旨のことが記されています。

それが何を意味するのかを分かりやすくするために少し大げさな言い方をお許しいただけば、聖書そのものはものさし以上ではないということです。ものさしも大事です。しかしそれで測るもののほうがもっと大事です。私たちの心と生活、そして長きにわたる人生のほうが大事です。わたしたちが自分の人生を大切にし、家族や社会、そして教会の仲間と共に、喜んで生きていくために聖書が役立つことがありうるというくらいの線で十分すぎるほどです。

このように申し上げることは、石川先生が過去70年昭島教会で教えてこられたことと軌を一にしていると私は信じています。聖書そのものは、今のわたしたちにとっては、古代文献であるという以外に表現のしようがありません。書かれている内容は、新約聖書は2000年前、旧約聖書は4000年前から2400年前ほどまでの事実とも伝説とも区別をつけにくい事柄です。わたしたちは、そのようなことをあくまで参考にしながら、今の時代の中で現実的に生きることが大切です。

最近私は、学校の授業の中でちょうど40年前の日本のテレビで放送された「アニメ親子劇場」(1981年)や「トンデラハウスの大冒険」(1982年)といった聖書物語を描いたアニメを見せています。40年前は私が高校生だったころです。

その内容は、かわいらしい主人公や友人がタイムマシンで聖書の時代の世界まで飛んで行き、そこで起こる出来事を聖書の登場人物たちと一緒に体験したうえで、もちろん必ず再び現代社会に戻ってきて自分の心や生活について反省するというものです。その「現代社会に戻ってくること」が重要であって、聖書の時代に行ったきり、戻って来られなくなるようでは意味が無いのです。

学校の話は教会ではあまりしないようにしています。しかし私は教会にいるときと学校にいるときとで異なる人格を使い分けているわけではありませんし、していることに差があるわけでもありません。学校でも私は「聖書の知識は程々で良いので、それよりも今の時代をどう生きるかのほうが大切だ」と教えています。教会の皆さんにも全く同じことを申し上げたい気持ちです。

今日はテモテへの手紙一2章1節から7節までを朗読しました。この手紙は使徒パウロが弟子のテモテに書き送ったものであると、冒頭の挨拶の中に記されています。本当にこれをパウロが書いかどうかについての議論がありますが、その問題には立ち入らないでおきます。

そのことより大事なことは、今日の箇所に記されている内容に基づいて、西暦1世紀の教会の中で「祈り」についてどのように理解されていたかを知ることです。そして、わたしたち自身の祈りのあり方を吟味し、よりよき信仰生活を送るように成長していくことです。

「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」(1節)とあります。「願い」と「祈り」と「執り成し」と「感謝」と、4つの言葉が並んでいます。「それぞれの意味と違いを述べなさい」という試験問題になりそうですが、私もうまく答えることができません。

この4つに明確な区別がもしあるとしたら、たとえば「願い」と「祈り」の違いは何かという問題を考える必要があるでしょう。比較的分かりやすいのは「感謝」です。わたしたちは「願い」ばかりを祈るのではなく、神の恵みに対する「感謝」を祈ることが大切であると言えそうです。

さらに、それとは区別される「執り成し」は、対立関係にある甲と乙の仲介役になることです。最も深刻な対立関係にあるのは、神と人間です。つまり、神と人間の間に立って祈ることが大切だということになるかもしれません。しかし、今日の箇所に「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(5節)とも記されています。そうなりますと「執り成しの祈り」は人間には不可能であると言わなくてはならないかもしれません。こういうことは、考えれば考えるほど、深い謎の森の中に入っていくでしょう。

「願い」と「祈り」と「執り成し」と「感謝」の区別の問題も大事かもしれません。しかし最も大事なのは、それらの祈りを「すべての人々のために」ささげなさいと言われている点でしょう。その「すべての人々」は、どう間違えてもキリスト者である人々だけを指していないという点が大事です。「王たちやすべての高官のためにもささげなさい」(2節)と言われているとおりです。言うまでもないことですが、西暦1世紀の世界にキリスト教会で洗礼を受けた王は存在しませんでした。キリスト教国もキリスト教政党も全く存在しませんでした。

「王たち」(2節)がどの王かは分かりません。しかし、旧約聖書に登場するような、たとえば紀元前11世紀のサウル、ダビデ、ソロモンの各王のために祈りなさいという意味ではありません。そうではなく、そのときそのときの世界を支配する政治的支配者のために祈りなさいという意味です。キリスト教会にとっての迫害者や敵対者のために祈りなさいという意味です。

なぜそのような人のために祈るべきでしょうか。その人たちも、イエス・キリストへの信仰によって救われるべき存在だからです。わたしたちは、政治的支配者になるような人は、常に悪意に満ちていて、聖書に示されている神もイエス・キリストも信じることはありえず、キリスト教的行動をとることもありえない、ということを確信すべきではありません。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(4節)とあるとおりです。

神が全世界と全人類とに強い関心を持っておられるのです。もちろん牧師だけでなく、すべてのキリスト者が、教会から世界へと派遣され、救いのみ言葉を告げ知らせるべきなのです。

すべての人が教会に来て洗礼を受けて、教会が栄えることを祈りなさいという意味かどうかは分かりません。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。

20世紀の教会は「教会の外」に「隠れたキリスト者」がいるという議論を、盛んにしました。キリスト教信仰に立っていないが、生き方と行動においてはキリスト者よりはるかに優っている人々がいるというようなことも、しばしば語られました。

私は「そうである」とも「そうではない」とも言いません。教会とキリスト者に対する期待と希望を持っています。それが正しいかどうかも分かりません。「私はそう祈る」と、申し上げたいだけです。人それぞれの祈りを妨げるべきではありません。

(2021年7月4日 主日礼拝)

2021年6月27日日曜日

主にある共同体(2021年6月27日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 402番 いともとうとき 奏楽・長井志保乃さん


「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。」

今日の朗読箇所は、新約聖書の使徒言行録4章32節から37節までです。この箇所に描かれているのは、イエス・キリストの復活と昇天、そして聖霊降臨の出来事が起こってまもなくの頃の初代のキリスト教会の姿です。

よく似た内容の記事が、2章43節から47節までにもあります。そちらのほうから先に読むと、「信者たちは皆一つになって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(2章44~45節)とあります。今日の箇所にも「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」(4章32節)とあります。

さらに「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた」(4章34~37節)とあります。

これで分かるのは、今日の箇所に描かれている時期の初代のキリスト教会の人々は、自分たちの持ち物や財産を共有し、ひとりも貧しい人がいないように分配していたということです。初代のキリスト者人口がどれくらいだったかについては、4章4節に「男の数が五千人ほどになった」とあるのを信頼すれば、女性と子どもを含めて1万人ほどではないかと想像できます。それだけの人々が自分の持ち物や財産を売ってお金に換え、全部集めて使徒の足もとに置いたという話が事実であれば、それなりの金額にはなっただろうとも想像できます。

先ほどから「信頼するとしたら」とか「事実であれば」と、やや引っかかる言い方をしているのは、使徒言行録が描く初代教会の姿は完全な作り話であるなどと言いたいからではありません。他の箇所についてはかなり批判的な解釈をしている註解書を見ても、今日の箇所に記されていることはおそらく事実であろうと記しています。

財産共有について、他に例がなかったわけでもありません。古代ギリシアの哲学者プラトンやピタゴラスといった人々が財産共有の理想を提唱していたとされます。また西暦1世紀のユダヤ教の中に財産の共有を義務づける教えを持つグループがあったと言われます。初代教会の人々が実際に財産共有をしていたとしても、人類史上初めての実践であるとは言えません。

しかし、他の実践例と初代教会のあり方との違いがあることは明らかにしておくべきでしょう。そのことを考える際に重要な点は、初代教会の中心にいたのは、十字架につけられる前のイエスさまとの生きた交わりの中でイエスさまご自身から直接教えを受けた人々だったということです。ペトロにせよヤコブにせよヨハネにせよ。それが意味することは、今日の箇所が描く初代教会の姿は、イエスさまの教えとは無関係の、全く別の原理によるものではないということです。

よく知られているのは、まだ漁師であったペトロとその兄弟アンデレにイエスさまが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたとき、「2人はすぐに網を捨てて従った」出来事です。同じく漁師だったヤコブとその兄弟ヨハネも「舟と父親とを残して」イエスに従いました(マタイ4章18~22節など)。

また、イエスさまは弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」とおっしゃいました(マタイ16章24~25節など)。

しかし、実際の弟子たちはどうだったかといえば。マルコ1章29節に「シモンとアンデレの家」と記されています。「シモン」はペトロのことです。つまり、ペトロはイエスさまの弟子になった後も、カファルナウムに自分の家を持っていました。その家にペトロの家族が住んでいました。そして、その家をイエスさまが宣教拠点とされ、弟子たちと一緒に遠くにお出かけになっても、再びその家に帰ってこられる様子が描かれています。

このことは、ペトロがイエスさまのために自分の家を差し出した、と考えることができるかもしれませんが、それがペトロの持ち家であることには変わりないので、その意味では、すべてをお金に換えて財産共有をしていたとは言えないでしょう。もしそうだとすれば、初代教会の最高指導者となった後のペトロが、自分がしていなかったことを他のキリスト者にさせるというのは、矛盾以外の何ものでもないでしょう。

しかし、いま申し上げていることの趣旨は、聖書がいかに矛盾に満ちた書物であるかを明らかにしたいというようなことでは全くありません。そうでなく、今日開いている使徒言行録が描く初代教会が実行していた「財産共有」の意味は何であるかを厳密にとらえる必要があるだろうと申し上げたいだけです。そしてそれは、イエスさまご自身の教えと行いに基づくものでなければならない、ということです。

そして、その場合、ペトロはたしかに「すべてを捨てて」イエスさまに従いながら自分の家を売らずに持ったままであり、その家をイエスさまが宣教拠点にしておられたことは、重要な事実です。そうすることが聖霊降臨後の初代教会においては全く放棄され、変質してしまったわけではないと考えることが、もちろん許されるのです。

もうひとつ言わなくてはならないのは、初代教会の「財産共有」は短い期間だけだったということです。問題が発生したりもして、別の形に変わっていきます。それを聖書は、教会の堕落として描いてはいません。

その時々の状況に対応するために、教会のあり方を変化させていったのです。なにがなんでも財産共有をしなければならないというような執着はありません。義務でも命令でもありません。すべてはあくまでも自発的なものであり、問題解決のためのひとつの手段だったにすぎません。

初代教会にとって大事な問題は、「すべての物を共有にし、財産や持ち物を売ること」自体ではなく、「心も思いも一つにすること」(32節)と「一人も貧しい人がいないこと」(34節)でした。別の方法でそれが実現するならば、やり方を変えることに何の問題もなかったと考えるべきです。そして最も大事なことは「大いなる力をもって主イエスの復活を証しすること」(33節)でした。

このことを私が強調するのは、洗礼を受けて教会員になるためには自分の全財産をお金にして、すべてを教会に献金しなければならないのだろうか、そのようなとんでもないことをキリスト教の人々は教えているのかというような、ありもしない誤解を避けたいからです。全く違います。初代教会においてすら、義務でも命令でもありませんでした。

現代の教会は、なおさらです。大丈夫ですので、自分の家と財産をしっかり守ってください。よろしくお願いいたします。

(2021年6月27日)