讃美歌21 460番 やさしき道しるべの 奏楽・長井志保乃さん
「異邦人の救い」
ローマの信徒への手紙9章19~28節
関口 康
「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」
「いいかげんにしてほしい」と、誰に言うでもなく、呟きたくなる「コロナ、コロナ、コロナ」の毎日です。この文脈であまり言いたくないことではありますが、今の状況が続けば続くほど、聖書の教えがわたしたちをますます苦しめる原因になるかもしれません。
なぜそうなるのかといえば、聖書の教えの基本が、わたしたちの神さまがただおひとりであり、天地万物が創造者なる神の作品であるという点にあるからです。もし聖書の教えが、良いことや楽しいことは神さまが与えてくださるものだけれど、悪いことや悲しいことは神さま以外の別の存在がもたらすものであるというものであれば、逃げ道ができますが、そうではありません。
もし創造者がおひとりであり、万物がそのおひとりの神がお造りになったものであるならば、世界はどうしてこんなにひどいのか、人生はどうしてこんなに苦しいのかを、途中の議論を全部省いて問いと答えだけをつないで言えば「神さまに原因がある」と言わざるをえなくなるのです。
責任問題を言おうとしているのではありません。誰の責任かという問題の答えは、罪を犯した人間にある、ということになるでしょうし、そういう方向に誘導されていくところがあります。結局「人間が悪い」と責められて、その人間の罪をイエス・キリストの十字架によって神さまが赦してくださり、神の憐れみのうちに生かされて生きる謙遜な人生を送ることがキリスト者たる者たちの目指すべき道である、ということで、だいたい話が終わります。
しかし、それはある意味で問題のすり替えです。原因の問題と、責任の問題は、別問題です。それは今日の聖書の箇所に、使徒パウロがいみじくも書いているとおりです。
「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』と」(19節)とパウロが書いているのは責任の問題です。神が人を責めるとは、世界の悪と混乱の責任は人間にある、ということを意味します。しかし、「そんなふうにわたしたちに責任を問われても困ります」と、神さまに対して反論を企てる人の言葉が持ち出されていると考えることができます。
なぜ責任を問われても困るのか。そもそもこの世界を造ったのは神さまでしょう、なぜ神さまは悪と混乱の原因になるようなものをこの世界に造ったのですか、そんなものがそもそも世界に存在しなければ、悪も混乱もなかったでしょうに、と反論者が言おうとしているわけです。
しかし、それに対するパウロの答え方が乱暴と言えば乱暴です。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か」(20節)と一刀両断です。「黙れ、文句を言うな」と言っているのと同じです。学校の先生が生徒から質問を受けたときにこういう答え方をしたら大問題になるでしょう。
「造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないものに用いる器に造る権限があるのではないか」(21節)とパウロが続けています。言い方を換えれば、先ほどから申し上げているとおり、責任の問題と原因の問題は区別しなければならない、ということです。
ごく分かりやすくたとえれば、ご本人の前で申し上げることをお詫びしなくてはなりませんが、石川先生と私の体型の違いの問題などを考えてくださると、すぐにご理解いただけるのではないでしょうか。石川先生はお若いころから今日に至るまでスマート。私はご覧のとおりです。
私が神さまに「どうしてこんな体型に私をお造りになったのでしょうか。私の責任ではないではありませんか」と言うと、神さまから「黙れ、文句を言うな」と叱られる流れです。「何をどのように造ろうとも焼き物師の勝手だろうが」という論法なので、納得が行かないも何もないわけです。原因は神さまにあると、はっきり言えるわけです。
しかし、造られた側が自分の造作やら何やらが気に入らなくて、他の人と比較してひがんだり、腹を立てたり、文句を言ったりするのは、創造者なる神に逆らうことを意味するので、それは罪であり、人間の責任だと言われることになります。つまり、原因は神さまにあるが、責任は人間にある、という一見矛盾しているようにも思えることが両立することになる、というわけです。ただし、この理屈に納得できない人は、「神に口答えするとは、あなたは何者か」と、まるで恫喝されているかのような言葉を聞かなくてならないことにもなります。
しかし、わたしたちを本当に悩ませ、苦しませる問題は、責任の問題のほうではなく、原因の問題ではないでしょうか。なぜ神はこのような世界を造られたのか、なぜ私はこのような存在に造られたのか。この問いは、神さまに責任をとってほしいと言いたいわけではないのです。ただ、どうしてこうなのかの理由を知りたいだけです。
これと同じ問いであるとあえて断言したいのは、イエスさまが十字架の上で絶叫されたと聖書に記されている「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という問いです。これはイエスさまが失敗者として失意と絶望のうちにあられたことを意味するわけではないと、石川先生がお話しくださったことを覚えています。私もそうだと思います。そうではなくイエスさまも原因、あるいは理由を問われたのだと思います。
そのことが悪いわけではないと私は申し上げたいのです。「どうしてこうなのか」という問いは、いくら問うても答えがない場合が多いです。だからといって「問うのをやめなさい。それは信仰的に未熟な人の問いである」などと言って制したり禁じたりする権限がだれにあるでしょうか。
コロナだけではありません。地震、津波、土石流、気候変動。すべてを人間の罪の責任にするのは簡単です。人災の面がないわけではない場合がありますし、政治批判や訴訟問題につなげていくこともできなくはありません。しかし「だれのせいなのか」という責任の問題と、「どうしてこうなのか」という原因の問題は別です。なぜ神はこのような世界とこのような人間をお造りになったのかを真剣に問う人を責めたりからかったりすべきではありません。たとえ答えが無くても、問い続けることを妨げてはなりません。そうでないかぎり、人間の心はおさまりません。
その問いを問うたうえで、世界にはさまざまな悩みや苦しみがあることを認めたうえで、その問題の解決と和解の道を求めていくことが大切です。ユダヤ人も異邦人も共に「神の憐れみの器」(24節)とされたことを互いに認め合い、イエス・キリストの体なる教会へと共に連なる同士、協力して生きていこうではないかと、パウロは今日の箇所で呼びかけているのだと理解できます。
(2021年7月18日 主日礼拝)