2021年7月4日日曜日

祈り(2021年7月4日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

  
讃美歌21 458番 信仰こそ旅路を 奏楽・長井志保乃さん


「祈り」

テモテへの手紙一2章1~7節

関口 康

「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」

先週6月27日(日)一人の姉妹の洗礼式が石川献之助名誉牧師の司式によって行われました。主にある仲間が新たに教会に与えられましたことを心から慶び、感謝しています。

キリスト者としての信仰生活の基本は、主の日ごとの礼拝と日ごとの祈りと賛美にあります。もちろんそこに聖書の学びが含まれます。しかし、おそらくどのキリスト教の入門書を見ても、聖書はキリスト教の「正典」であり、「正典」は英語でcanonと言い、「ものさし」や「基準」という意味で、わたしたちの心や日々の生活と照らし合わせながら、神に喜ばれるよりよき人間へと成長するためにあるという趣旨のことが記されています。

それが何を意味するのかを分かりやすくするために少し大げさな言い方をお許しいただけば、聖書そのものはものさし以上ではないということです。ものさしも大事です。しかしそれで測るもののほうがもっと大事です。私たちの心と生活、そして長きにわたる人生のほうが大事です。わたしたちが自分の人生を大切にし、家族や社会、そして教会の仲間と共に、喜んで生きていくために聖書が役立つことがありうるというくらいの線で十分すぎるほどです。

このように申し上げることは、石川先生が過去70年昭島教会で教えてこられたことと軌を一にしていると私は信じています。聖書そのものは、今のわたしたちにとっては、古代文献であるという以外に表現のしようがありません。書かれている内容は、新約聖書は2000年前、旧約聖書は4000年前から2400年前ほどまでの事実とも伝説とも区別をつけにくい事柄です。わたしたちは、そのようなことをあくまで参考にしながら、今の時代の中で現実的に生きることが大切です。

最近私は、学校の授業の中でちょうど40年前の日本のテレビで放送された「アニメ親子劇場」(1981年)や「トンデラハウスの大冒険」(1982年)といった聖書物語を描いたアニメを見せています。40年前は私が高校生だったころです。

その内容は、かわいらしい主人公や友人がタイムマシンで聖書の時代の世界まで飛んで行き、そこで起こる出来事を聖書の登場人物たちと一緒に体験したうえで、もちろん必ず再び現代社会に戻ってきて自分の心や生活について反省するというものです。その「現代社会に戻ってくること」が重要であって、聖書の時代に行ったきり、戻って来られなくなるようでは意味が無いのです。

学校の話は教会ではあまりしないようにしています。しかし私は教会にいるときと学校にいるときとで異なる人格を使い分けているわけではありませんし、していることに差があるわけでもありません。学校でも私は「聖書の知識は程々で良いので、それよりも今の時代をどう生きるかのほうが大切だ」と教えています。教会の皆さんにも全く同じことを申し上げたい気持ちです。

今日はテモテへの手紙一2章1節から7節までを朗読しました。この手紙は使徒パウロが弟子のテモテに書き送ったものであると、冒頭の挨拶の中に記されています。本当にこれをパウロが書いかどうかについての議論がありますが、その問題には立ち入らないでおきます。

そのことより大事なことは、今日の箇所に記されている内容に基づいて、西暦1世紀の教会の中で「祈り」についてどのように理解されていたかを知ることです。そして、わたしたち自身の祈りのあり方を吟味し、よりよき信仰生活を送るように成長していくことです。

「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」(1節)とあります。「願い」と「祈り」と「執り成し」と「感謝」と、4つの言葉が並んでいます。「それぞれの意味と違いを述べなさい」という試験問題になりそうですが、私もうまく答えることができません。

この4つに明確な区別がもしあるとしたら、たとえば「願い」と「祈り」の違いは何かという問題を考える必要があるでしょう。比較的分かりやすいのは「感謝」です。わたしたちは「願い」ばかりを祈るのではなく、神の恵みに対する「感謝」を祈ることが大切であると言えそうです。

さらに、それとは区別される「執り成し」は、対立関係にある甲と乙の仲介役になることです。最も深刻な対立関係にあるのは、神と人間です。つまり、神と人間の間に立って祈ることが大切だということになるかもしれません。しかし、今日の箇所に「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(5節)とも記されています。そうなりますと「執り成しの祈り」は人間には不可能であると言わなくてはならないかもしれません。こういうことは、考えれば考えるほど、深い謎の森の中に入っていくでしょう。

「願い」と「祈り」と「執り成し」と「感謝」の区別の問題も大事かもしれません。しかし最も大事なのは、それらの祈りを「すべての人々のために」ささげなさいと言われている点でしょう。その「すべての人々」は、どう間違えてもキリスト者である人々だけを指していないという点が大事です。「王たちやすべての高官のためにもささげなさい」(2節)と言われているとおりです。言うまでもないことですが、西暦1世紀の世界にキリスト教会で洗礼を受けた王は存在しませんでした。キリスト教国もキリスト教政党も全く存在しませんでした。

「王たち」(2節)がどの王かは分かりません。しかし、旧約聖書に登場するような、たとえば紀元前11世紀のサウル、ダビデ、ソロモンの各王のために祈りなさいという意味ではありません。そうではなく、そのときそのときの世界を支配する政治的支配者のために祈りなさいという意味です。キリスト教会にとっての迫害者や敵対者のために祈りなさいという意味です。

なぜそのような人のために祈るべきでしょうか。その人たちも、イエス・キリストへの信仰によって救われるべき存在だからです。わたしたちは、政治的支配者になるような人は、常に悪意に満ちていて、聖書に示されている神もイエス・キリストも信じることはありえず、キリスト教的行動をとることもありえない、ということを確信すべきではありません。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(4節)とあるとおりです。

神が全世界と全人類とに強い関心を持っておられるのです。もちろん牧師だけでなく、すべてのキリスト者が、教会から世界へと派遣され、救いのみ言葉を告げ知らせるべきなのです。

すべての人が教会に来て洗礼を受けて、教会が栄えることを祈りなさいという意味かどうかは分かりません。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。

20世紀の教会は「教会の外」に「隠れたキリスト者」がいるという議論を、盛んにしました。キリスト教信仰に立っていないが、生き方と行動においてはキリスト者よりはるかに優っている人々がいるというようなことも、しばしば語られました。

私は「そうである」とも「そうではない」とも言いません。教会とキリスト者に対する期待と希望を持っています。それが正しいかどうかも分かりません。「私はそう祈る」と、申し上げたいだけです。人それぞれの祈りを妨げるべきではありません。

(2021年7月4日 主日礼拝)