2021年8月5日木曜日

【重要】昭島教会からのお知らせです

昭島教会の最寄りの公園です(昭島市立富士見公園)

親愛なる各位

国内で新型コロナウィルス感染者が急増する中、政府が「重症患者や重症リスクの高い方以外は自宅での療養を基本とする」との方針を8月2日(月)に表明しました。

わたしたちは、この事態を深刻に受け止め、昭島教会の主日礼拝と集会を8月8日(日)から8月末まで(延長の可能性あり)礼拝堂で行うことを休止いたします。

主日礼拝は「各自自宅礼拝」とします。教会学校と聖書に学び祈る会(木曜)は「休会」とします。

日曜日は礼拝堂を閉鎖する形をとらず、午前9時から12時まで開きます。安全な移動手段でお越しいただき、各自で祈りをささげることはできます。

連絡は、電話、インターネット、郵便で行います。

なにとぞご理解いただけますと幸いです。皆様の健康と安全が守られるようお祈りいたします。

2021年8月5日

日本キリスト教団 昭島教会
牧師 関口 康

〒196-0022 東京都昭島市中神町1232-13
TEL:042-543-9562 akishimakyokai@gmail.com

-----------------

【追記】

以上の連絡を、メール、電話、はがき、ブログなどで本日付けでお知らせしましたことをご報告申し上げます。

「郵送不要」を申し出てくださっている方々には、はがきを割愛させていただきました。

上の文章は日ごろ親しくしてくださっている皆様宛てに書きましたので、第三者の観点からすると誤解を招く部分があるかもしれません。

コロナ対策の観点から「各自自宅礼拝」を本教会が行うのは今回が初めてではありませんし、これまで事態を深刻に受け止めて来なかったという意味でもありません。言葉が足りていないところがありましたらお許しください。


2021年8月1日日曜日

宣教への派遣(2021年8月1日 平和聖日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
旧讃美歌 531番 こころのおごとに 奏楽・長井志保乃さん


「宣教への派遣」

使徒言行録9章26~31節

関口 康

「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」

今日は日本キリスト教団が毎年8月の第1主日を「平和聖日」と定めたことに基づく礼拝です。日本キリスト教団がこの日を定めたのは1962年であり、実施は翌年1963年8月からです。私は1965年生まれなのでまだ生まれていませんが、前回の東京オリンピックが開催された1964年の前年から始まったと言えば、憶えやすい話になるかもしれません。

まだ生まれていなかった私は、当時の空気を知る立場にありません。しかし、太平洋戦争終結の1945年から15年経過した1960年に締結された新しい日米安保条約に反対する人々が国会前等で大規模なデモを行った、いわゆる60年安保の議論を背景にしながら、日本キリスト教団でも活発な議論を経て「平和聖日」が定められたという流れにあることは明白です。

石川先生はじめ昭島教会のこれまでの歩みを熟知しておられる方々から教えていただいたのは、わたしたちは「平和聖日」をたいへん重んじる教会として歩んできたということです。この日に特別講師をお招きして講演会を行っていたこともあります。週報の「今週の祈り」の中に「世界の平和と核兵器廃絶のために。飢餓と騒乱に苦しむ人々のために」という祈りを今日に至るまで毎週記載してきたのもその一環であるということです。

私のことが皆さんにどう見えているかは分かりません。表立った平和運動のようなことは全くしていません。しかし、「平和聖日」を重んじることや「平和の祈り」を献げ続けることには一切異存がありません。偶然ですが、昨年から非常勤講師として聖書を教えている神奈川県茅ヶ崎市のアレセイア湘南中学校高等学校、そして今年度から小学校でも教えるようになった学校法人の名称が「平和学園」であることを、私はたいへん誇りに思っています。

あるいは、ふだんからいつもそういうことをしていないのが心苦しいですが、8年前の2013年の特定秘密保護法や、その2年後の2015年の安保関連法案に反対する大規模な国会前デモには、私も行きました。特定のグループに属していないのでひとりで行って黙って立っていただけですが、何もしないでいるわけに行かないという気持ちで参加しました。私がそういう人間であることをご記憶いただく機会になればと思い、このことを証しします。

平和の教えとその祈りがキリスト教からだけ出てきたものである、などと申し上げるつもりはありません。しかし、キリスト教からも出てきたものであり、キリスト教信仰の根幹にかかわるものであることは明白です。

「ちょっと待て」と言われるかもしれません。キリスト教国と呼ばれる国こそ歴史の中の多くの戦争の当事者だったし、今もそうではないかと。そのことを知らずにいるわけではありません。しかし、すべてを知り尽くす力は私にはありませんが、まさにキリスト教国と呼ばれる国の教会の中にはいつも必ず戦争に反対し、平和を教え、平和を祈り続ける小さなグループがあり続けてきたように思います。

そういう人たちは、政治の中でも宗教の中でも少数派になりがちです。公然と反対運動などしようものなら、たちまち弾圧されて消されてしまう。その中を堪えて、隠れて、抵抗して、平和を求めた人々がいたからこそ、今日の教会まで平和の教えと祈りが受け継がれてきたのだと思います。もっと論証的に具体例を挙げて話せるようになりたいですが、勉強不足をお詫びします。かろうじて私にできるのは、聖書の中で「平和」の意味は何かを調べて話すことくらいです。

今日の聖書箇所も、いつもと同じように日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。この箇所の31節に「平和」という言葉が出てきます。「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」(31節)。

この意味での「平和」が、あくまでも教会の内部の安定を指していることは明らかです。社会全体の中で実現されるべき「平和」の範囲まで達していません。しかし、とにかく「平和」という言葉がここにはっきり出てきます。

そして特に大事な点は、たとえ教会の内部だけであれ、とにかく「平和」が保たれたからこそ、基礎が固まって発展したのだと記されていることです。この意味での「平和」の対義語は「戦争」というより「対立」や「分裂」でしょう。教会の内部に対立や分裂があるかぎり、基礎が固まって発展することはないということでしょう。

対立している各グループは一時的に人数が増えるかもしれません。しかし中身を見ると、一方のグループから他方へ移動したにすぎず、全体の数は変わらなかったりします。内部分裂を繰り返しているうちに、みんな疲れ果ててしまいます。いつまで経っても教会の基礎が固まりません。

今日の箇所には背景と文脈が分かるように記されています。それは使徒パウロが「サウル」と名乗っていた頃のことです。しかも、その「サウロ」がキリスト教へ入信したばかりのころです。

「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だと信じないで恐れた」(26節)とあるのは当然です。9章の初めの言葉が「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」(1~2節)です。

そこから急激な変化が起こり、その同じ人が、今度はキリスト教会の仲間に加わりたいと申し出てきたというのです。そうは問屋が卸さないと誰しも感じたでしょう。

しかし、バルナバの仲介を得て、パウロはエルサレム教会の信頼を獲得し、さらにユダヤ教団からパウロが追われていることを知った人々が逃亡を支援しました。このときからパウロの生涯3回に及ぶ世界宣教旅行が開始されました。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じました。

エルサレム教会の人々は、なぜパウロを信頼できたのでしょうか。今日の箇所に詳しい説明はありません。しかし、そうであるとしか言いようがありません。彼らはパウロのすべてを赦したのです。憎しみも恨みもすべて乗り越えてパウロを愛したのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章44節)と教えたイエス・キリストの言葉を本気で信じ、実践したのです。そこに十字架の愛があり、平和が実現する基礎があると信じたのです。

教会だけに当てはまることだと私は思いません。順序としては教会内部の平和を実現することが先決かもしれません。それができたならば、世界の平和を実現する道筋があることを示すことができるでしょう。そこに十字架の愛と赦しが必要であることを証しすることができるでしょう。

(2021年8月1日 平和聖日礼拝)

2021年7月25日日曜日

憐れみの福音(2021年7月25日 主日礼拝)

日本キリスト教団 昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 462番 はてしも知れぬ 奏楽・長井志保乃さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます


「憐れみの福音」

コリントの信徒への手紙二5章16節~21節

関口 康

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」

わたしたちは歴史の中で、歴史と共に生きる存在です。信仰を持って生きる者たちも、歴史と無関係であることは決してありません。しかしそれは、全体の流れに調子を合わせて生きることを全く意味しません。とりわけイエス・キリストと共に生きているわたしたち、今日の聖書箇所の言葉を用いて言えば「キリストと結ばれる人」は、全体の流れにむしろ抵抗して、神の真理を語りかつ実践する者として歴史の中に立たされる場面が多いです。

大げさな言い方をこれ以上続けようとは思いません。私個人は、明確な歴史哲学や政治思想のようなものは持っていません。私が政治について話し始めると空想のような話に終始してしまいます。それは実は「キリスト教」と「教会」に対して強い期待を持ち続けているからです。

現在のドイツのメルケル首相の所属政党がキリスト教民主同盟です。メルケル氏自身は牧師の子女です。キリスト教政党は、ドイツだけでなくヨーロッパ各国や南アフリカやオーストラリアなどにもあります。日本でも戦後一度だけ(1977年)「日本キリスト党」という政党が作られたことがありますが、一議席も獲得できず解党しました。そのことと関係ありませんが、その政党の党首だった武藤富男氏が東京都東村山市に作った学校で、私はいま聖書の講師をしています。

もしそういう政党があれば、私はそういうところを応援したいと考えます。しかし存在しないので無党派層に属しています。教会が政党のようにふるまうことにも反対です。それだと政治に対して無責任であるということになるかもしれませんが、他にどうすることもできません。

このような話をするのはオリンピックのことが念頭にあるからです。多くの反対を押し切って開催されました。しかし、始まれば、反対していた人たちも含めてテレビに釘付けになっているのではないでしょうか。そのことを責める気持ちが、私にあるわけではありません。

私は理由があって3年前からテレビを全く観ていませんので、オリンピックも観ていません。オリンピックの話をされても私は分かりません。これで何が言いたいか。わたしたちが歴史の中で、歴史と共に生きることと、テレビに釘付けになることとは、別の話であるということです。テレビを観てコメントすることが、教会の社会的責任の果たし方であるわけでもありません。

かろうじてインターネットは用いています。世界中の情報がどんどん入ってきます。開会式で天皇の開会宣言のとき総理大臣の起立が遅かったとか、バッハ会長の挨拶が長かったとか。その知識に何の意味があるのかが理解できないままですが、いろんな人がいろんなことを書きます。

細かいことに関心を持つことが間違っていると言いたいのではありません。「だからどうした」と明確な線を引く権利を、私はむしろ擁護したいです。「それよりも大事なことがあるだろう」と言いたいのでもありません。「知らなくていいこともある」と言いたいだけです。

先ほど一度触れました。今日の箇所にパウロが記している「キリストと結ばれる人」は、原文を補っている訳です。「と結ばれる」という言葉は原文にはありません。5月23日のペンテコステ礼拝で秋場治憲兄が宣教を担当してくださったとき、ローマの信徒への手紙8章1節の「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」という一文を取り上げて、「に結ばれている」について、原文のεν(エン)、英語のin(イン)をNew English Bibleがbe united withと訳したことと結びつけて説明してくださいました。それと同じです。

英語のin(イン)には多くの意味があることは英語の辞書を見れば分かります。しかし、最も単純な意味は「における」や「の中に」でしょう。ギリシア語も同じです。「キリストの中の人」と訳しても意味は通じませんが、原文を直訳するとそうなります。

しかし、コリントの信徒への手紙一(いち)12章27節に「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」とあります。今日の箇所は「二(に)」の手紙ですが、「キリストの中の人」と「キリストの体の部分である人」を関連付けることは、不可能ではないでしょう。

「あなたがたはキリストの体である」の「あなたがた」は「教会」であり、「キリストの体」は「教会」です。「キリストの中の人」と「教会の中の人」を区別したい人が私の知り合いに少なくないのですが、私はその区別ができません。2千年前のパウロが必ずそういう意味で言っているという意味で申し上げるのではありません。しかし、「キリストに結ばれてはいるけれども教会には結ばれていない」状態が何を意味するのかが私には理解できません。

端的に言えば「キリスト者であること」と「教会員であること」は同一であるというおそらく最も古典的で保守的な理解を、私は持ち続けています。そして、だからこそ私は「キリスト教」と「教会」に対して強い期待を持ち続けています。

今日の箇所の「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(17節)を「キリストの体なる教会と結ばれる人は」と言い換えても同じであると私は心から信じています。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じる」場は「教会」をおいて他にないと信じています。だからこそ私は何があっても教会から離れることができません。

宣教が牧師の意見を述べる場でないことは重々承知しています。しかし、理解の根本がずれているとコミュニケーションがうまく行かないので、私の理解を説明させていただいています。

そして、もちろん「それは事実なのか」という厳しい問いかけが「教会」に対してあり続けていることも知っています。「教会こそが古いものをいつまでも温存し続ける諸悪の根源ではないか」と言われます。その批判に私は負けてしまいます。目を閉じ、耳をふさぎ、大声で叫びたいです。

しかし、今日の箇所の「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」(18節)という言葉に、私は深い慰めを覚えます。

わたしたちもまた、かつては神と敵対していました。そのわたしたちを神がキリストを通してご自分と和解させてくださったので、今日のわたしたちがあります。教会にはもはや何の問題もないと言いたいのではありません。わたしたちも日々赦しが必要な罪深い存在です。神の憐れみと赦しなしに(「キリストの体なる教会の部分」である)わたしたちは一日も立っていません。

神はそのわたしたち教会(!)にこそ「和解のために奉仕する任務」を授けてくださいました。「あなたたちのような罪深い存在をこのわたしが愛し、赦しているのだから、あなたたちも互いにいがみ合うのをやめて、新しい仲間を常に求め続けて、互いに愛し合い、赦し合いなさい」と、神がキリストを通して教会(!)にお命じになっているのです。

(2021年7月25日 主日礼拝)

2021年7月18日日曜日

異邦人の救い(2021年7月18日 主日礼拝)

昭島教会はJR青梅(おうめ)線「中神(なかがみ)」駅の北口から徒歩5分です

  
讃美歌21 460番 やさしき道しるべの 奏楽・長井志保乃さん


「異邦人の救い」

ローマの信徒への手紙9章19~28節

関口 康

「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」

「いいかげんにしてほしい」と、誰に言うでもなく、呟きたくなる「コロナ、コロナ、コロナ」の毎日です。この文脈であまり言いたくないことではありますが、今の状況が続けば続くほど、聖書の教えがわたしたちをますます苦しめる原因になるかもしれません。

なぜそうなるのかといえば、聖書の教えの基本が、わたしたちの神さまがただおひとりであり、天地万物が創造者なる神の作品であるという点にあるからです。もし聖書の教えが、良いことや楽しいことは神さまが与えてくださるものだけれど、悪いことや悲しいことは神さま以外の別の存在がもたらすものであるというものであれば、逃げ道ができますが、そうではありません。

もし創造者がおひとりであり、万物がそのおひとりの神がお造りになったものであるならば、世界はどうしてこんなにひどいのか、人生はどうしてこんなに苦しいのかを、途中の議論を全部省いて問いと答えだけをつないで言えば「神さまに原因がある」と言わざるをえなくなるのです。

責任問題を言おうとしているのではありません。誰の責任かという問題の答えは、罪を犯した人間にある、ということになるでしょうし、そういう方向に誘導されていくところがあります。結局「人間が悪い」と責められて、その人間の罪をイエス・キリストの十字架によって神さまが赦してくださり、神の憐れみのうちに生かされて生きる謙遜な人生を送ることがキリスト者たる者たちの目指すべき道である、ということで、だいたい話が終わります。

しかし、それはある意味で問題のすり替えです。原因の問題と、責任の問題は、別問題です。それは今日の聖書の箇所に、使徒パウロがいみじくも書いているとおりです。

「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』と」(19節)とパウロが書いているのは責任の問題です。神が人を責めるとは、世界の悪と混乱の責任は人間にある、ということを意味します。しかし、「そんなふうにわたしたちに責任を問われても困ります」と、神さまに対して反論を企てる人の言葉が持ち出されていると考えることができます。

なぜ責任を問われても困るのか。そもそもこの世界を造ったのは神さまでしょう、なぜ神さまは悪と混乱の原因になるようなものをこの世界に造ったのですか、そんなものがそもそも世界に存在しなければ、悪も混乱もなかったでしょうに、と反論者が言おうとしているわけです。

しかし、それに対するパウロの答え方が乱暴と言えば乱暴です。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か」(20節)と一刀両断です。「黙れ、文句を言うな」と言っているのと同じです。学校の先生が生徒から質問を受けたときにこういう答え方をしたら大問題になるでしょう。

「造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないものに用いる器に造る権限があるのではないか」(21節)とパウロが続けています。言い方を換えれば、先ほどから申し上げているとおり、責任の問題と原因の問題は区別しなければならない、ということです。

ごく分かりやすくたとえれば、ご本人の前で申し上げることをお詫びしなくてはなりませんが、石川先生と私の体型の違いの問題などを考えてくださると、すぐにご理解いただけるのではないでしょうか。石川先生はお若いころから今日に至るまでスマート。私はご覧のとおりです。

私が神さまに「どうしてこんな体型に私をお造りになったのでしょうか。私の責任ではないではありませんか」と言うと、神さまから「黙れ、文句を言うな」と叱られる流れです。「何をどのように造ろうとも焼き物師の勝手だろうが」という論法なので、納得が行かないも何もないわけです。原因は神さまにあると、はっきり言えるわけです。

しかし、造られた側が自分の造作やら何やらが気に入らなくて、他の人と比較してひがんだり、腹を立てたり、文句を言ったりするのは、創造者なる神に逆らうことを意味するので、それは罪であり、人間の責任だと言われることになります。つまり、原因は神さまにあるが、責任は人間にある、という一見矛盾しているようにも思えることが両立することになる、というわけです。ただし、この理屈に納得できない人は、「神に口答えするとは、あなたは何者か」と、まるで恫喝されているかのような言葉を聞かなくてならないことにもなります。

しかし、わたしたちを本当に悩ませ、苦しませる問題は、責任の問題のほうではなく、原因の問題ではないでしょうか。なぜ神はこのような世界を造られたのか、なぜ私はこのような存在に造られたのか。この問いは、神さまに責任をとってほしいと言いたいわけではないのです。ただ、どうしてこうなのかの理由を知りたいだけです。

これと同じ問いであるとあえて断言したいのは、イエスさまが十字架の上で絶叫されたと聖書に記されている「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という問いです。これはイエスさまが失敗者として失意と絶望のうちにあられたことを意味するわけではないと、石川先生がお話しくださったことを覚えています。私もそうだと思います。そうではなくイエスさまも原因、あるいは理由を問われたのだと思います。

そのことが悪いわけではないと私は申し上げたいのです。「どうしてこうなのか」という問いは、いくら問うても答えがない場合が多いです。だからといって「問うのをやめなさい。それは信仰的に未熟な人の問いである」などと言って制したり禁じたりする権限がだれにあるでしょうか。

コロナだけではありません。地震、津波、土石流、気候変動。すべてを人間の罪の責任にするのは簡単です。人災の面がないわけではない場合がありますし、政治批判や訴訟問題につなげていくこともできなくはありません。しかし「だれのせいなのか」という責任の問題と、「どうしてこうなのか」という原因の問題は別です。なぜ神はこのような世界とこのような人間をお造りになったのかを真剣に問う人を責めたりからかったりすべきではありません。たとえ答えが無くても、問い続けることを妨げてはなりません。そうでないかぎり、人間の心はおさまりません。

その問いを問うたうえで、世界にはさまざまな悩みや苦しみがあることを認めたうえで、その問題の解決と和解の道を求めていくことが大切です。ユダヤ人も異邦人も共に「神の憐れみの器」(24節)とされたことを互いに認め合い、イエス・キリストの体なる教会へと共に連なる同士、協力して生きていこうではないかと、パウロは今日の箇所で呼びかけているのだと理解できます。

(2021年7月18日 主日礼拝)

2021年7月11日日曜日

生活の刷新(2021年7月11日 主日礼拝)

昭島教会へようこそ
落ち着いた礼拝堂です

  
536番 み恵みを受けた今は 奏楽・長井志保乃さん

「生活の刷新」

使徒言行録19章11~20節

関口 康

「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。」

今日の朗読箇所と宣教題も、これまでと同じように日本キリスト教団聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。

日本キリスト教団がそうすることを諸教会に求めているのではありません。あくまで便利に利用させてもらっているだけです。しかし、自分で考えて決めると、自分の狭い興味や関心の中で話してしまうので、それを防ぐメリットがあります。

今日の箇所もそうです。私にとっては自分で選ぶことがまず無いような箇所と宣教題です。

「生活の刷新」という宣教題も『日毎の糧』から戴いた表現です。面白がって使わせてもらいました。現在は、いろんな言葉の意味をインターネットで調べることができます。

「刷新」という言葉を調べてみたところ、複数の辞書を見比べて共通している要素は、「刷」にペンキやほこりを払う「刷毛(はけ)」という道具があるように「こすって清める、はく」という意味があり、つまり従来のあり方の中の悪い部分を取り除く仕方で、よりよき新しいあり方へと変えることを指すと分かりました。

類語として「更新」や「革新」などがあるけれども、それぞれ意味が違うというようなこともずいぶん詳しく説明してくれているウェブサイトも見つけました。

聖書日課の作者がそこまで考えて付けた題かどうかは分かりません。しかし、たしかに今日の聖書箇所に記されているのは、いま申し上げた意味での「刷新」であるということを、このたび学ばせていただきました。

今日の箇所の出来事は、使徒パウロが生涯で3回行った伝道旅行の、3回目のときに起こったことです。19章1節に「パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て」と記されていることから、彼がエフェソで遭遇した出来事であることが分かります。

エフェソでのパウロの姿に、少し前の17章に描かれていたアテネにいたときとは違う宣教姿勢を読み取ることができるかもしれません。アテネのパウロは「憤慨」(17章16節)していました。「あなたが説いている新しい教え」を聞かせてもらいたいと興味本位で集まってきたアテネ市民に対して腹立ちまぎれの当てこすり説教をするパウロの姿が描かれています。

しかし、エフェソのパウロについては、反対者との直接対決を避ける姿勢があったかのように描かれています。「ある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた」(9節)とあるとおりです。

元々パウロが攻撃性と柔軟性を兼ね備えた人だったのか、それともアテネで示したあからさまな攻撃性が宣教の妨げになったことに自分で気づくなり反省したりして、エフェソを訪れた頃には柔軟な姿勢を学んでいた、というようなことが言えるかどうかは分かりません。しかし、教会の宣教のあり方を考える際の大切な問題が含まれていると私には思えてなりません。

「押してダメなら引いてみろ」と言うではありませんか。全く異なる文脈で用いられる言葉かもしれませんが、全く無関係でもなさそうです。

しかし、今申し上げていることが「生活の刷新」を意味すると申し上げたいのではありません。パウロが自分の宣教姿勢を反省して、強引で攻撃的なものから柔軟なものへと変化させたことがそうであると。そのことが大事でないとは申しませんが、もっと大事なことは、パウロの宣教によって、エフェソの人々の側に「生活の刷新」がもたらされたことです。

今日の箇所で特に興味深いのは、ユダヤ人の祭司長スケワの7人の息子たちが、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」という言葉で悪霊払いをする祈祷師のようなことをしていたと書かれていることです。すると、悪霊が彼らに言い返してきた、というのです。

「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と悪霊が言い出して、このスケワの7人の息子を含む祈祷師たちに飛びかかって来て、押さえ付けて、ひどい目に遭わせて、彼らを裸にして、傷つけてきたので、逃げ出したというようなことが書かれています。

悪霊払い(エクソシズム)については、昔の映画「エクソシスト」で描かれたような怪奇現象が本当にあるのかどうかは、私には全く分かりません。しかし、世界は広いです。わたしたちの知らないことがまだまだ多くあるかもしれない、と言うだけにとどめておきます。

「生活の刷新」に該当するのは、ここから先です。「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」という呪文で悪霊払いをしようとした祈祷師たちが悪霊から反撃を受けたといううわさが広がったことで、エフェソの人たちがすっかり恐れを抱いて、信仰に入ったことが記されています。きっかけはなんでもいいかもしれません。

そして、そのうえで、「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった」(18~19節)と書かれています。

ここが今日の箇所の核心部分です。「刷新」の意味は「過去の悪いものを刷いて新しくすること」です。キリスト教以外の宗教のすべてが「悪い」と私が言いたいのではありません。各自が自分で気づいて判断するしかない面があります。第三者が命令したり強制したりしてどうなるものでもありません。

しかし、「この道が正しい」と信じた人が、それまで信頼してきたものを抱え込んだままであるか、それともこれまでのもの、過去のものは、きっぱり捨てるかで、その後の歩みに違いが出てくるかもしれません。そのことについては、黙っていないほうがよいでしょう。

エフェソの人たちがキリスト教を受け入れたとき「自分たちの悪行をはっきり告白した」(18節)とか、魔術を行っていた人たちもその書物を「焼き捨てた」(19節)と書かれていることの意味は大きいです。

「銀貨五万枚」は、現在の5億円ほどです。「そんな勿体ないことを、どうして」と考える方もおられるでしょう。焼き捨てたりしないで「魔法図書館」を建てて保存しておけば、21世紀の今ごろ、多くの研究論文のテーマとして取り上げられたかもしれないのに、と。

そういう考えも一理あるかもしれません。しかし、そこから先は各自の判断です。わたしたちは宗教学者になるのか、それともイエス・キリストの十字架を目指して生きるキリスト者になるのかの分かれ道が、いずれ訪れるでしょう。

(2021年7月11日 主日礼拝)

2021年7月4日日曜日

祈り(2021年7月4日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

  
讃美歌21 458番 信仰こそ旅路を 奏楽・長井志保乃さん


「祈り」

テモテへの手紙一2章1~7節

関口 康

「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」

先週6月27日(日)一人の姉妹の洗礼式が石川献之助名誉牧師の司式によって行われました。主にある仲間が新たに教会に与えられましたことを心から慶び、感謝しています。

キリスト者としての信仰生活の基本は、主の日ごとの礼拝と日ごとの祈りと賛美にあります。もちろんそこに聖書の学びが含まれます。しかし、おそらくどのキリスト教の入門書を見ても、聖書はキリスト教の「正典」であり、「正典」は英語でcanonと言い、「ものさし」や「基準」という意味で、わたしたちの心や日々の生活と照らし合わせながら、神に喜ばれるよりよき人間へと成長するためにあるという趣旨のことが記されています。

それが何を意味するのかを分かりやすくするために少し大げさな言い方をお許しいただけば、聖書そのものはものさし以上ではないということです。ものさしも大事です。しかしそれで測るもののほうがもっと大事です。私たちの心と生活、そして長きにわたる人生のほうが大事です。わたしたちが自分の人生を大切にし、家族や社会、そして教会の仲間と共に、喜んで生きていくために聖書が役立つことがありうるというくらいの線で十分すぎるほどです。

このように申し上げることは、石川先生が過去70年昭島教会で教えてこられたことと軌を一にしていると私は信じています。聖書そのものは、今のわたしたちにとっては、古代文献であるという以外に表現のしようがありません。書かれている内容は、新約聖書は2000年前、旧約聖書は4000年前から2400年前ほどまでの事実とも伝説とも区別をつけにくい事柄です。わたしたちは、そのようなことをあくまで参考にしながら、今の時代の中で現実的に生きることが大切です。

最近私は、学校の授業の中でちょうど40年前の日本のテレビで放送された「アニメ親子劇場」(1981年)や「トンデラハウスの大冒険」(1982年)といった聖書物語を描いたアニメを見せています。40年前は私が高校生だったころです。

その内容は、かわいらしい主人公や友人がタイムマシンで聖書の時代の世界まで飛んで行き、そこで起こる出来事を聖書の登場人物たちと一緒に体験したうえで、もちろん必ず再び現代社会に戻ってきて自分の心や生活について反省するというものです。その「現代社会に戻ってくること」が重要であって、聖書の時代に行ったきり、戻って来られなくなるようでは意味が無いのです。

学校の話は教会ではあまりしないようにしています。しかし私は教会にいるときと学校にいるときとで異なる人格を使い分けているわけではありませんし、していることに差があるわけでもありません。学校でも私は「聖書の知識は程々で良いので、それよりも今の時代をどう生きるかのほうが大切だ」と教えています。教会の皆さんにも全く同じことを申し上げたい気持ちです。

今日はテモテへの手紙一2章1節から7節までを朗読しました。この手紙は使徒パウロが弟子のテモテに書き送ったものであると、冒頭の挨拶の中に記されています。本当にこれをパウロが書いかどうかについての議論がありますが、その問題には立ち入らないでおきます。

そのことより大事なことは、今日の箇所に記されている内容に基づいて、西暦1世紀の教会の中で「祈り」についてどのように理解されていたかを知ることです。そして、わたしたち自身の祈りのあり方を吟味し、よりよき信仰生活を送るように成長していくことです。

「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」(1節)とあります。「願い」と「祈り」と「執り成し」と「感謝」と、4つの言葉が並んでいます。「それぞれの意味と違いを述べなさい」という試験問題になりそうですが、私もうまく答えることができません。

この4つに明確な区別がもしあるとしたら、たとえば「願い」と「祈り」の違いは何かという問題を考える必要があるでしょう。比較的分かりやすいのは「感謝」です。わたしたちは「願い」ばかりを祈るのではなく、神の恵みに対する「感謝」を祈ることが大切であると言えそうです。

さらに、それとは区別される「執り成し」は、対立関係にある甲と乙の仲介役になることです。最も深刻な対立関係にあるのは、神と人間です。つまり、神と人間の間に立って祈ることが大切だということになるかもしれません。しかし、今日の箇所に「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(5節)とも記されています。そうなりますと「執り成しの祈り」は人間には不可能であると言わなくてはならないかもしれません。こういうことは、考えれば考えるほど、深い謎の森の中に入っていくでしょう。

「願い」と「祈り」と「執り成し」と「感謝」の区別の問題も大事かもしれません。しかし最も大事なのは、それらの祈りを「すべての人々のために」ささげなさいと言われている点でしょう。その「すべての人々」は、どう間違えてもキリスト者である人々だけを指していないという点が大事です。「王たちやすべての高官のためにもささげなさい」(2節)と言われているとおりです。言うまでもないことですが、西暦1世紀の世界にキリスト教会で洗礼を受けた王は存在しませんでした。キリスト教国もキリスト教政党も全く存在しませんでした。

「王たち」(2節)がどの王かは分かりません。しかし、旧約聖書に登場するような、たとえば紀元前11世紀のサウル、ダビデ、ソロモンの各王のために祈りなさいという意味ではありません。そうではなく、そのときそのときの世界を支配する政治的支配者のために祈りなさいという意味です。キリスト教会にとっての迫害者や敵対者のために祈りなさいという意味です。

なぜそのような人のために祈るべきでしょうか。その人たちも、イエス・キリストへの信仰によって救われるべき存在だからです。わたしたちは、政治的支配者になるような人は、常に悪意に満ちていて、聖書に示されている神もイエス・キリストも信じることはありえず、キリスト教的行動をとることもありえない、ということを確信すべきではありません。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(4節)とあるとおりです。

神が全世界と全人類とに強い関心を持っておられるのです。もちろん牧師だけでなく、すべてのキリスト者が、教会から世界へと派遣され、救いのみ言葉を告げ知らせるべきなのです。

すべての人が教会に来て洗礼を受けて、教会が栄えることを祈りなさいという意味かどうかは分かりません。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。

20世紀の教会は「教会の外」に「隠れたキリスト者」がいるという議論を、盛んにしました。キリスト教信仰に立っていないが、生き方と行動においてはキリスト者よりはるかに優っている人々がいるというようなことも、しばしば語られました。

私は「そうである」とも「そうではない」とも言いません。教会とキリスト者に対する期待と希望を持っています。それが正しいかどうかも分かりません。「私はそう祈る」と、申し上げたいだけです。人それぞれの祈りを妨げるべきではありません。

(2021年7月4日 主日礼拝)

2021年6月27日日曜日

主にある共同体(2021年6月27日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 402番 いともとうとき 奏楽・長井志保乃さん


「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。」

今日の朗読箇所は、新約聖書の使徒言行録4章32節から37節までです。この箇所に描かれているのは、イエス・キリストの復活と昇天、そして聖霊降臨の出来事が起こってまもなくの頃の初代のキリスト教会の姿です。

よく似た内容の記事が、2章43節から47節までにもあります。そちらのほうから先に読むと、「信者たちは皆一つになって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(2章44~45節)とあります。今日の箇所にも「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」(4章32節)とあります。

さらに「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた」(4章34~37節)とあります。

これで分かるのは、今日の箇所に描かれている時期の初代のキリスト教会の人々は、自分たちの持ち物や財産を共有し、ひとりも貧しい人がいないように分配していたということです。初代のキリスト者人口がどれくらいだったかについては、4章4節に「男の数が五千人ほどになった」とあるのを信頼すれば、女性と子どもを含めて1万人ほどではないかと想像できます。それだけの人々が自分の持ち物や財産を売ってお金に換え、全部集めて使徒の足もとに置いたという話が事実であれば、それなりの金額にはなっただろうとも想像できます。

先ほどから「信頼するとしたら」とか「事実であれば」と、やや引っかかる言い方をしているのは、使徒言行録が描く初代教会の姿は完全な作り話であるなどと言いたいからではありません。他の箇所についてはかなり批判的な解釈をしている註解書を見ても、今日の箇所に記されていることはおそらく事実であろうと記しています。

財産共有について、他に例がなかったわけでもありません。古代ギリシアの哲学者プラトンやピタゴラスといった人々が財産共有の理想を提唱していたとされます。また西暦1世紀のユダヤ教の中に財産の共有を義務づける教えを持つグループがあったと言われます。初代教会の人々が実際に財産共有をしていたとしても、人類史上初めての実践であるとは言えません。

しかし、他の実践例と初代教会のあり方との違いがあることは明らかにしておくべきでしょう。そのことを考える際に重要な点は、初代教会の中心にいたのは、十字架につけられる前のイエスさまとの生きた交わりの中でイエスさまご自身から直接教えを受けた人々だったということです。ペトロにせよヤコブにせよヨハネにせよ。それが意味することは、今日の箇所が描く初代教会の姿は、イエスさまの教えとは無関係の、全く別の原理によるものではないということです。

よく知られているのは、まだ漁師であったペトロとその兄弟アンデレにイエスさまが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたとき、「2人はすぐに網を捨てて従った」出来事です。同じく漁師だったヤコブとその兄弟ヨハネも「舟と父親とを残して」イエスに従いました(マタイ4章18~22節など)。

また、イエスさまは弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」とおっしゃいました(マタイ16章24~25節など)。

しかし、実際の弟子たちはどうだったかといえば。マルコ1章29節に「シモンとアンデレの家」と記されています。「シモン」はペトロのことです。つまり、ペトロはイエスさまの弟子になった後も、カファルナウムに自分の家を持っていました。その家にペトロの家族が住んでいました。そして、その家をイエスさまが宣教拠点とされ、弟子たちと一緒に遠くにお出かけになっても、再びその家に帰ってこられる様子が描かれています。

このことは、ペトロがイエスさまのために自分の家を差し出した、と考えることができるかもしれませんが、それがペトロの持ち家であることには変わりないので、その意味では、すべてをお金に換えて財産共有をしていたとは言えないでしょう。もしそうだとすれば、初代教会の最高指導者となった後のペトロが、自分がしていなかったことを他のキリスト者にさせるというのは、矛盾以外の何ものでもないでしょう。

しかし、いま申し上げていることの趣旨は、聖書がいかに矛盾に満ちた書物であるかを明らかにしたいというようなことでは全くありません。そうでなく、今日開いている使徒言行録が描く初代教会が実行していた「財産共有」の意味は何であるかを厳密にとらえる必要があるだろうと申し上げたいだけです。そしてそれは、イエスさまご自身の教えと行いに基づくものでなければならない、ということです。

そして、その場合、ペトロはたしかに「すべてを捨てて」イエスさまに従いながら自分の家を売らずに持ったままであり、その家をイエスさまが宣教拠点にしておられたことは、重要な事実です。そうすることが聖霊降臨後の初代教会においては全く放棄され、変質してしまったわけではないと考えることが、もちろん許されるのです。

もうひとつ言わなくてはならないのは、初代教会の「財産共有」は短い期間だけだったということです。問題が発生したりもして、別の形に変わっていきます。それを聖書は、教会の堕落として描いてはいません。

その時々の状況に対応するために、教会のあり方を変化させていったのです。なにがなんでも財産共有をしなければならないというような執着はありません。義務でも命令でもありません。すべてはあくまでも自発的なものであり、問題解決のためのひとつの手段だったにすぎません。

初代教会にとって大事な問題は、「すべての物を共有にし、財産や持ち物を売ること」自体ではなく、「心も思いも一つにすること」(32節)と「一人も貧しい人がいないこと」(34節)でした。別の方法でそれが実現するならば、やり方を変えることに何の問題もなかったと考えるべきです。そして最も大事なことは「大いなる力をもって主イエスの復活を証しすること」(33節)でした。

このことを私が強調するのは、洗礼を受けて教会員になるためには自分の全財産をお金にして、すべてを教会に献金しなければならないのだろうか、そのようなとんでもないことをキリスト教の人々は教えているのかというような、ありもしない誤解を避けたいからです。全く違います。初代教会においてすら、義務でも命令でもありませんでした。

現代の教会は、なおさらです。大丈夫ですので、自分の家と財産をしっかり守ってください。よろしくお願いいたします。

(2021年6月27日)

2021年6月20日日曜日

生涯のささげもの(2021年6月20日 主日礼拝) 

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 515番 きみのたまものと 奏楽・長井志保乃さん

【付録】湘南の浜辺から江ノ島を望む(2021年6月18日)

「生涯のささげもの」

コリントの信徒への手紙二8章1~15節

関口 康

「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。」

今日の朗読箇所は、使徒パウロのコリントの信徒への手紙二8章1節から15節までです。この箇所の趣旨は「献金のすすめ」です。

ただし、そのことがはっきり分かるようには書かれていません。回りくどい書き方だと言うのは言い過ぎです。しかし、パウロが言いにくいことを言いにくそうに書いている様子が伺えます。それはたとえば、この箇所のどこにも「お金」という言葉が用いられていないことから感じます。その代わりに用いられているのは「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕」(4節)です。

ここで「聖なる者たち」の意味は、キリスト者であり、教会です。「慈善の業と奉仕」と聞くと今のわたしたちは、教会バザーのようなことをすぐ連想するでしょう。しかし、ここで言われているのは、パザーのようなことに限りません。

要するにここでパウロが求めているのは、わたしたちが自分の働きで得た収入のすべてを自分のために用いるのでなく、その一部を教会の働きのために献げることです。そのことを総称して「慈善の業と奉仕」と書いていますが、「お金」という言葉を用いるのを避けたがっているようにも見えます。

今日の箇所の内容は、大別すると以下の3つの部分に分けることができます。

(1)マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて(1~7節)
(2)慈善の業と奉仕は、命令ではなく、自発的に行う(8~12節)
(3)慈善の業と奉仕は、全体の釣り合いをとるために行う(13~15節)

第1の部分である「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて」の趣旨は例示です。「諸教会」と書かれているのは、単独の教会でなく複数の教会を指しています。今のわたしたちなら「教区」や「支区・分区」などの教会的な行政区を表現する名称を付けるであろう区域内の複数の教会を指していると言えます。

しかし、この当時に「マケドニア教区」というような名称が用いられるなどして明確な組織化がなされていたとは思えません。もう少し緩やかな仕方で、しかし実際に行われた「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕」を例として挙げています。

そして印象深い言葉が2節に記されています。「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」(2節)。

「極度の貧しさがあふれ出る」というのがどのような状態を指すかは、献金をしてきたわたしたちは分かります。「豊かさ」ならば「あふれ出る」が当てはまりそうだが、どうすれば「貧しさ」があふれ出るのか教えてほしいと抗議口調で言いたい気持ちが起こらないわけではありませんが、実際に「貧しさ」は「あふれ出る」ものです。ただしこれは理屈では説明できないことです。実際に体験してみるしかありません、としか申し上げようがありません。不思議な、不思議な話です。

しかし、ひとつだけ説明できそうなことがあります。それは、ここで言われている「貧しさ」と、その対義語として「豊かさ」と言われていることは、保有しているお金の分量だけを指していないということです。それがはっきり分かるのが7節の言葉です。「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」(7節)。

これが、パウロが考える「豊かさ」の定義です。信仰、言葉、知識、熱心、そして愛されることにおいて豊かであることが真の「豊かさ」であるというのです。この中に「お金」がありません。そして「この慈善の業」は、具体的には教会の活動を支える献金を指しています。

つまりそれは、お金という点では自分の収入ではなく支出のほうなので、「慈善の業において豊かな者になる」は「豊かに献げる者になる」と言っているのと同じです。それが「極度の貧しさがあふれ出る」状態を示していると言えるでしょう。

このあたりで、現在の私自身の話をすると、まるで自慢話をしているように響いてしまうかもしれません。多方面に差しさわりが出るので、私の過去の経歴について詳しいことを明かすわけには行きません。

しかし皆さんはご存じのとおり、まだわずか3年前の2018年4月に昭島教会にたどりついたときの私は、パウロがコリントにたどりついたときの心境として「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(コリントの信徒への手紙一2章4節)と書いているのと同じ状態でした。その前年の2017年度の1年間、私は日本キリスト教団の無任所教師でした。

私が高校からストレートで東京神学大学に入学し、卒業と同時に日本キリスト教団の補教師になったのが1990年4月です。それ以来26年間、教会の牧師として働きましたが、27年目に無職を体験しました。牧師28年目に昭島教会に副牧師としてお招きいただき、アマゾンの八王子倉庫で週30時間アルバイトをしながら、石川献之助先生をお助けすることを始めました。

その1年後(2年前)に明治学院中学校東村山高等学校(東京都東村山市)で聖書科非常勤講師の職を得て、アマゾンをやめました。さらに翌年(昨年)、アレセイア湘南中学校高等学校(神奈川県茅ヶ崎市)でも非常勤講師になり、今年から上記2校に加えて平和学園小学校(同上所)でも教えています。

つまり今の私は、昭島教会の牧師と、2つの中高一貫校と1つの小学校で聖書科の非常勤講師であるという状態です。「極度の貧しさがあふれ出る」とはこういうことを言うのかもしれません。教会の皆さんを傷つける意図などは全くありませんが、今の私が金銭的に豊かかどうかは皆さんがご存じです。

また、信仰、言葉、知識については、豊かでないと務まらないはずの職責にありながら、覚束ないところが多すぎて、皆さんを不安にするばかりで申し訳なく思っています。

しかし、ひとつだけは自信があります。パウロの言葉を借りれば「わたしたちから受ける愛」(7節)において私は豊かです。「愛される豊かさ」を、今の私は教会においても学校においても味わわせていただいています。「豊かさ」はお金だけの問題ではないということを実感しています。

覚束ない働きで良いとは思いません。「教会も学校も」とか「複数の学校で」と分散すると意識も働きも散漫になります。私個人の願いは、いずれ教会の働きに集中できるようになることです。

パウロの言葉を借りて、皆さんに献金のお願いをしているように響いてしまっているとすれば申し訳ないことです。牧師である者にとって「献金のお願い」は「言いにくいこと」に属します。だから、自分で言わず役員さんに言ってもらう牧師が多いです。献金の中に牧師自身が受け取るものが含まれているからです。

しかし、すべては神と教会のためであるということを、忘れずにいたいと願う者です。そして、これから新たに牧師になる人が起こされることを祈る者です。

(2021年6月20日 主日礼拝)

2021年6月13日日曜日

世の光としての使命(2021年6月13日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232番地13)

「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」

今日の朗読箇所は、使徒パウロのフィリピの信徒への手紙2章12節から18節までです。新共同訳聖書で「共に喜ぶ」と小見出しが付けられている段落です。12節の初めに「だから」と記されているのは、この箇所までに書かれたすべての内容を受けています。パウロがこの箇所までに書いていることには辛辣な内容が含まれています。

この手紙をパウロは「監禁されている」状態、すなわち獄中から書き送っていることを彼自身が明らかにしています(1章7節、1章13節など)。辛辣な内容は、そのことに関係しています。パウロが監禁されている状態にある中、「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいる」(1章10節)というのです。

それはどういうことか。「一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」(1章15~17節)というのです。

パウロが言おうとしていることは、なんとなく分かります。キリストを宣べ伝えることを競争心や利己心や名誉心などで考えている人たちがいる、ということです。

私が説教した日の礼拝に何人集まったか。何人の人が洗礼を受けることを決心したか。自分が牧師をしている教会に何人の信徒が所属しているか。そのようなことを比較と競争で考え、あの人より私は優れているとか劣っている、など言い始める。他の教会や他の伝道者と協力関係を結ばず、蹴落とす対象と見る。

パウロは今、獄中で監禁されていて身動きがとれない。これはチャンスであると競争心をむき出しにして元気づいた人たちがいるということでしょう。それに対してパウロは大らかなことを書いています。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが宣べ伝えられているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(1章18節)。

たとえば今の日本で「不純な動機で洗礼を受けました」とか「不純な動機で牧師になりました」という人が何人いるかは私には分かりませんし、それが何の得になるのかはもっと分かりません。しかし、たとえそうであっても問題ないと、もしパウロならそう答えるかもしれないと考えることができる根拠が、ここにあります。

わたしたちにとっても決して他人事ではないでしょう。信仰生活や、あるいは牧師生活が長くなればなるほど、最初は純粋だったかもしれない動機の中に、いつの間にか不純物が入り込むことがありえます。「みなさんはどうですか」と皆さんにお尋ねしないでおきます。その代わりに、私も自分の話をしないでおきます。「お互いさま」ということにしておきましょう。

パウロは、たとえ動機は不純でも、とにかくキリストが告げ知らされているのだから問題ないとしたうえで、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(1章27節)と書いています。「キリストの福音にふさわしい生活」は、「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦うこと」(1章27節)を指しています。

この「一つの霊によって」「心を合わせて」ということと、信仰生活と福音宣教の動機に競争心や利己心や名誉心が入り込むこととは矛盾しているかもしれません。しかし、ここから先は大人と子どもの違いだと申し上げておきます。

たとえ心の中に別の動機があるとしても、すべてをさらけ出さないでいるのが、大人としての態度ではないでしょうか。そしてそのことと、今日の箇所の最初に記されている「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」(14節)がつながっているでしょう。

「不平や理屈を言わずに行うこと」の勧めは軍隊式であるとお感じになる方がおられるかもしれませんが、必ずそこに結び付けなくてもよいでしょう。黙って従う。それは、あらゆることに反抗心をむき出しにして、現場を混乱に陥れ、そこで協力して共に働く人々の働きや目標達成を妨害することを意味することの反対を指しているとすれば、どうでしょう。

言いたいことを我慢することには苦痛が伴います。言うべきことを押し黙ることは無責任の面が生じます。しかし、だからといって、言いたいことの最初から最後まで言わなければ気が済まないというのは子どもの状態でしょう。もう少し成長する必要があるでしょう。

その続きに書かれている「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(15~16節)は、成熟した人の姿を指していると言えるでしょう。

また同じことを申します。その「世にあって星のように輝く、非の打ちどころのない神の子」になることと、動機に不純なものが入り込んでいることとは矛盾しているかもしれません。神はわたしたちの心の中のすべてをご存じであるというのも、そのとおりです。しかし、自分の心の中にあることをすべて外へとさらけ出すことが、その人の心の純粋さを表すかといえば、そうではありません。そこは区別すべきでしょう。

パウロが推奨しているのは、「キリストを模範とすること」です。そのことが、今日の朗読箇所の直前の2章1節から11節までに記されています。この箇所の中で私がいつも思い起こし、自分の戒めとしているのは、3節から5節の途中までに記されていることです。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。

特にこの中の「互いに相手を自分よりも優れた者と考える」というのは、順位や序列を一切考えずに、要するに自分は誰よりも下であると考えること以外の何を意味するでしょうか。

「私はあの人よりは下だが、あの人よりは上である」と常に考え続ける状態は、苦しいです。相対評価と言います。イエス・キリストはそうではないと、パウロは信じ、またそのように初代教会の人々は信じました。6節から8節までに記されているのは、初代教会の信仰告白です。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6~8節)。

イエス・キリストの「謙遜」が、わたしたちの模範です。神であられるキリストが、その立場をすべて捨て、すべての人の僕になられました。そのキリストにならって、わたしたちもすべての人の僕であるべきです。

これは教会の中だけの話ではありません。「世にあって星のように輝く」すなわち「世の光」として生きていこうとする、わたしたちの人生の目標です。

(2021年6月13日)

2021年6月6日日曜日

悔い改めの使信(2021年6月6日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 奏楽・長井志保乃さん


「悔い改めの使信」

使徒言行録17章22~34節

関口 康

「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」

今日の聖書の箇所に登場するのは使徒パウロです。パウロは生涯で3回の伝道旅行を行ったことが知られています。今日の箇所に描かれているギリシアの首都アテネでパウロが伝道したのは、第2回伝道旅行のときです。

ギリシアにとってアテネは古代から現代に至るまで最大都市であり、文化や芸術や学問の中心地であり続けてきました。そのアテネにパウロが行きました。

パウロがアテネに人生の中で何度行ったことがあるかは分かりません。しかし、少なくとも彼がユダヤ教徒からキリスト教徒へと改宗した後にアテネを訪ねたのは、このときが初めてだったのではないかと思えてなりません。

なぜそう思うのか。今日の箇所にはっきり書かれているとおり、アテネの至るところに偶像があるのを見て「憤慨した」(16節)と証言されているからです。

パウロに限らず、ある人が過去に一度も体験したことがないことを新しく始めるとか、いまだかつて行ったことがない場所に初めて行ったときに、その人が「憤慨する」としたら、明らかに違和感の表明でしょうし、もっと強く言えば「居たたまれない」「苦痛でたまらない」というような感情を抱いたことを意味するでしょう。

しかもここで、アテネでパウロが抱いた「憤慨」の理由が「この町の至るところに偶像がある」のを見たからであるとはっきり書かれていることから分かるのは、それは決して大げさな意味ではなく、一方の「ヘレニズム」と歴史家たちが名付けてきた古代ギリシア文明において培われてきた宗教性と、他方のかつてはユダヤ教徒だったけれどもキリスト教徒へと改宗したパウロが、いずれにせよ「広義のヘブライズム」と総称できる、彼自身の宗教的な自覚とが激突したことで発生した否定的な感情であろう、ということです。

つまり、別の言い方をすれば、と言いましても、なるべくすべきでない言い方であり、パウロに失礼な言い方ではあるのですが、それをあえてお許しいただくとすれば、もしパウロがかつてユダヤ教徒だったこともなければその後キリスト教徒にもならなかったとしたら、そこで「憤慨」という感情を抱かなかった可能性が高いと言えるかもしれない、ということです。

しかし、それはとても失礼な言い方です。パウロが自分で言うならともかく他人から言われるようなことではないでしょう。わたしたちが「もしあなたがクリスチャンでなかったら」というような仮定の話をされても困るのと同じです。

それはともかく、パウロはアテネの「偶像」を見て「憤慨」しました。そして、その「憤慨」の感情を抱いたまま、彼はアテネ伝道を開始しました。その調子は明らかにけんか腰です。アテネの人々を言い負かしてやろう、説き伏せてやろう、という姿勢です。17節に「それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた」と記されているとおりです。

私の気になるのは、アテネのユダヤ人ともパウロが論じ合ったことが記されていることです。その論争が「偶像」の問題と直接関係しているかどうかは分かりません。もし関係あるとしたら、パウロはアテネのユダヤ人たちに「なぜ偶像が至る所にあるのに黙っているのか」とけしかけたのではないかと考えてみました。パウロにとって黙っていられない、我慢ならない空気がアテネに蔓延していると感じたゆえの「憤慨」だったのでしょうから。

そのようなパウロの伝道姿勢に対するアテネ市民の反応が、18節あたりに記されています。「『このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか』と言う者もいれば、『彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた」(18節)。そして、その人々がパウロを、おそらくからかい半分の調子で、アレオパゴスへと連れて行きました。

アレオパゴスは、パウロの時代よりずっと前に最高裁判所があった場所です。そこで「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ」(19~20節)と人々が言いました。それでパウロが語り始めたのが、22節以下の「アレオパゴス説教」です。内容は単純明快です。

この街の至るところに偶像があります。その中に「知られざる神に」と刻まれている祭壇まであるのを見かけました。知らない神さままで拝んでしまわれるあなたがたは、なんと信仰のあつい人たちでしょう。しかし、あなたがたが知らずに拝んでいる神さまのことを私が教えてあげましょう。それは天地万物を創造された真の神さまです。

その神さまは、人間の手で造った神殿だとか偶像だとかの中にはお住まいになりません。そもそも、人の手で造ったもので神さまの足りないところを補ってあげましょうなどと考える必要がない満ち足りた方です。

ですから、この街の至るところにある偶像も神殿も、有害無益の無用の長物ですよね、というような調子です。

私がパウロをからかっているわけではありません。しかし、このときのパウロの伝道姿勢に、わたしたちが考えなければならないことがあると思います。

私なりの問いは、今のわたしたちがパウロと同じような伝道姿勢を持つべきだろうか、ということです。「腹立ちまぎれのけんか腰伝道」です。それを恭(うやうや)しい言葉のオブラートに包んで一方的に言い放っているだけです。

それを語る人の胸の中はすっきりするかもしれません。しかし、聞く側の人たちは、ある意味での恐怖や戸惑いを感じて逃げ出すか、売られたけんかを買う式に反発したり攻撃したりするか、あるいはひたすら冗談めかしてからかう姿勢をとるかしか無くなる可能性があるでしょう。

いま申し上げているのは、私の空想でもなんでもなく、現実に体験してきたことばかりです。みなさんも大なり小なり同様の体験をしてこられたはずです。

もちろん人によると思います。しかし、私がみなさんに問いたいのは、今日の箇所のパウロのような宣教のあり方によってわたしたちの中の何人の人が救われたでしょうか、ということです。

「あなたの生き方は間違っている。この国の宗教も文化も間違っている。見ているだけで不愉快でたまらない」と言いたそうな教会と牧師の言葉で心を入れ替えた人が、何人いるでしょうか。

このことを問う私は、偶像や宗教の異なる人々に対して曖昧な態度をとるべきだと言いたいのではありません。しかし、今日の箇所のパウロの説教はわたしたちが必ず模範にしなくてはならないという意味で残されていると考える必要はありません。わたしたちならばどのように語るのかを考えるための材料にすることが許されています。

日本伝道が進展しない原因は、教会にあるかもしれません。悔い改めなければならないのは、わたしたち自身かもしれません。

おそらく人は、愛されなければ、悔い改めることはありません。愛されて、受け入れられて、かわいがられて、安心して、初めて人は自分の心を開くでしょう。

(2021年6月6日 主日礼拝)