2018年6月18日月曜日

どうすれば天国に行けるか(東京女子大学)

東京女子大学(東京都杉並区)
東京女子大学(東京都杉並区)

ルカによる福音書14章21~24節

関口 康

「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った、『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

東京女子大学の礼拝でお話しさせていただくのは2回目です。最初は1年前の2017年6月(27日)でした。そのとき「私も就活中です」と言いました。あからさまに言えば、1年前の私は無職でした。どうしてそうなったのかは話が長くなりますので割愛させていただきます。昨年の説教は私のブログで公開していますので、探してみてください。

昨年私が申し上げたのは「同情してもらいたいのではありません。『おじさんも必死で生きています』と言いたいだけです。私は絶対にあきらめません。皆さんも絶対にあきらめないでください」ということでした。勝手な話ですが、そのとき私は皆さんの前で再就職の誓いを立てた気持ちでした。そして、これまた勝手な話ですが、今日は再就職完了の報告をさせていただきに参りました。

失業中、ハローワークに通いました。いろんなアルバイトを探しました。私が持っている免許は、自動車の普通免許と宗教科の教員免許と牧師の免許だけです。「使えないやつだ」と思われたようです。多くの会社から不採用通知を受け取りました。応募したのは、警備会社、湯灌師(おくりびと)、浮気調査の探偵会社、などなど。学校関係は競争率が高すぎて不採用。塾講師も応募しましたが不採用。

やっと採用してもらえたのが物流関係の倉庫でした。ピッキングのアルバイト。しかし、現場が自宅から遠く、交通費がかかりすぎて収入が目減りする一方なので、1か月でやめました。自宅から歩いて行ける距離に印刷関係の会社を見つけて応募したら、なんとか採用してもらえました。

今年4月から教会の牧師の仕事に復帰しました。それ以前の25年間続けてきた私の本業です。本業に戻ることができました。競争率が高いわけではありません。そもそも就職先が少なく、成り手も少ない職種です。

今は牧師の仕事をしながら、昨年の経験を活かしてアルバイトをしています。自転車で通える距離の八王子のアマゾンの倉庫で週3日、1日10時間働いています。内容はピック(注文品探し)とパック(梱包)とストー(棚入れ)です。

なぜこんな話をしているか。皆さんの参考になるかもしれないと思うからです。「おじさんとわたしたちを一緒にしないでほしい」と叱られるかもしれません。ごめんなさい。

この私の話と、今日の聖書に記されていることと、「どうすれば天国に行けるか」という今日のお話のタイトルとの三者がどういう関係にあるかを、そろそろ申し上げなくてはなりません。

これはイエス・キリストのたとえ話です。ある人が宴会を開きました。たくさんの人を招待したいと願いました。ところが、招待した人たちが、いろんな理由をつけて宴会に来ませんでした。腹を立てた主催者が、要するにだれでもいいから無理にでも人々を連れてきて、この家をいっぱいにしてくれと、しもべに言いました。天国とはそういうところだと、イエスさまがおっしゃいました。

たとえ話はその意味を考えなくてはなりません。私なりの言葉で言えば「天国は競争率が低い」ということです。タダでごちそうをいただけるのにだれも来ないし、理由をつけて逃げられる。―チャペルの礼拝のようでしょうか。今日はたくさんの方が出席してくださり、ありがとうございます。空席だらけで、行けばだれでも大歓迎してもらえる。―教会の礼拝のようでしょうか。そうかもしれません。

主人に招かれた人々が、なぜ誰も来なかったのでしょうか。タダでもらえるものには価値がないと思ったからでしょうか。自分が一生懸命頑張って手を伸ばして自分の力で勝ち取り、つかみ取るようなものでなければ。

要するにだれでもいいの例として、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の自由な人」をイエスさまが挙げておられることに差別の意図はありません。それだけは誤解のないように言っておきます。しかし、競争社会の中で遅れがちになりやすい人々であるのは否定しにくいことではあるでしょう。

「世の中は違う。そんなに甘くない」と思われるでしょうか。そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。競争そのものが目的ならば話は別ですが、人生は競争だけで成り立つものではありません。

就活に悩んでいる方にぜひ考えていただきたいです。一度でいいから競争心を捨ててみませんか。「自分はあの人より上である、あの人より下かもしれないが」というその競争心を。生きていくために、仕事を得るために、世のため人のために役立つために。忍耐して生きのびたごほうびとしての「天国」に迎え入れていただくために。

(2018年6月18日、東京女子大学 日々の礼拝)

2018年6月17日日曜日

約束が与えられる

ローマの信徒への手紙4章13~25節

関口 康

「恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼るだけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。

すでに何度かお話ししましたが、私の両親がキリスト者で、二人とも教会学校の教師をしていたこともあり、私は生まれたときから教会に通っていました。

その影響で、と言いますか、その環境の中で、と言うほうがぴったり当てはまりますが、子どもの頃から実は今日に至るまで拭いきれずにいる「教会」というものに対する私の中でのイメージは「連れて行かれる」ところだったりします。否でも応でも。

それは間違ったイメージであるということは、一方では分かっているつもりです。「連れて行かれる」を漢字の熟語にすると「連行」です。国語辞典で調べてみると、連行とは「本人の意思にかかわらず、連れて行くこと。特に警察官が犯人・容疑者などを警察署へ連れて行くこと」だと書かれていました。お前の主体性はどこに行ったのかと叱られるかもしれません。

しかし他方で、私は牧師の仕事を始めて28年目ですが、今に至ってもそのイメージを拭いきれずにいます。かえってますますその感覚が強まっているとも感じています。私が牧師だからこそそのように感じるのだと言える要素があるかもしれません。

ここで申し上げたいのは、私が教会に抱くイメージのそれは、キリスト者として果たすべき「義務」だからとか、「責任」だからとか、「神の命令」だから、というような言葉で表現できることではないということです。

そうではなく、まさに「恵み」です。「神の恵み」です。それ以外に表現しようがありません、少なくとも私には。ただし、その中に強制の要素がある。「強いられた恵み」というのは矛盾に満ちた言い方かもしれませんが、まさにそれが当てはまる。そのように思うのです。

教会は日曜日だけ存在する存在ではありません。教会は建物や組織の意味だけでなく、キリスト者の存在そのものが教会です。ふだんひとりひとりが別々にいるときは教会の姿は見えにくく、日曜日に集まると、よりはっきりと姿を現します。

しかし、それはそうとしても、日曜日に集まることが教会のほとんどすべてを集中的に現していると言えないわけではありません。その中で牧師に与えられている責任は説教の準備をすることです。日曜日は7日ごとに巡ってくる。ある意味で「襲い掛かってくる」。否応なしに。体調や状況如何にかかわらず。

感謝の気持ちはもちろんあります。感謝の気持ちしかありません。しかし、これは私の考えですが、教会は牧師にとって居心地の良い場所だけであってはならないと思っています。それは悪い意味での自己満足です。教会の私物化に通じます。教会は牧師の職場でもあるからです。

15年前に出版された『バカの壁』(2003年)が一世を風靡した養老孟司氏が何冊かの本に繰り返し書いていたのは、正確な引用ではありませんが、こういうことでした。「仕事して給料をもらえるのは仕事が苦しいものだからだ。仕事が楽しいというのはおかしい。職場は遊園地ではない。仕事が楽しいなら、職場に入園料を払わなくてはならないだろう」。すべてが教会に当てはまるとは思いませんが、痛いところは突いていると思います。

何の話をしているかといいますと、牧師はつらいよという話ではないし、教会はつらいよという話でもありません。わたしたちは「神の恵み」について語ります。「恵み」と言うかぎり、神から一方的に「与えられるもの」であることを意味します。それは、わたしたち人間の意志や願いにかかわらず、まさに「与えられるもの」であるという性格を持っています。

場合によってはそれは、わたしたち人間の意志や願いに反して与えられることもあります。自分が欲しいものだけ自分で選ぶことができるわけではない。欲しくないものまで押し付けられる。そのため、わたしたち人間の側からすると、強制的な要素があると感じるところが出てくるのではないかと思うのです。

今申し上げていることの文脈で、わたしたちには信教の自由があるので、いかなる意味でも強制があってはならないという話を持ち出すのは全く間違っています。信教の自由の理念は正しいものです。しかし、それとこれとは全く違う話です。今申し上げているのは、わたしたちが生まれたことも、人間として生きていることも、自分の願いや祈りの実現であるとは言えないという意味で強いられたものであると言っているのに近いことです。

わたしたちのうちのだれが「生まれたい」という明確な意志をもって生まれたでしょうか。DNAとかそのあたりの謎のレベルで「私は生まれたがっていた」と主張する人がいるかどうかは知りませんが、そういう話とは区別して考えていただきたいです。そういう話ではありません。

少なからぬ少年少女が、あるいは大人になってからも、私はなぜ生まれたのか、私はなぜ生きているのかという悩みを解決できずにいます。私は生まれたかったわけではない、生きていたいと思わないと。

実際そのとおりだとしか言いようがない面があります。身も蓋もない言い方をしてしまえば、親にとって子どもは、子どもの意志とは全く無関係であるという意味で「勝手に」産んだものです。だからこそ親の責任は重大であると言わなければならないことは事実です。

いま、うちにテレビがありませんし、仮牧師館から牧師館に引っ越してから私用のインターネットがまだつながっていませんので、最近のニュースが全く分かりません。親が子どもを殺したとか、親子関係が悪かった人が人を殺したとか、そういう痛ましい話がいろいろあるようですが、どれも噂話のようなこととして間接的に聞いているだけで、具体的な中身がさっぱり分かりません。

ですから、いま申し上げているのは時事の出来事についてのコメントではありません。聖書的・キリスト教的な意味での一般論をお話ししているにすぎません。

先週は「信仰が与えられる」という題でお話ししました。今日は「約束が与えられる」という題です。来週は「希望が与えられる」という題であることを週報で予告しました。「信仰」も「約束」も「希望」も未来に属する事柄です。6月の関口牧師の説教は「与えられる未来シリーズ三部作」であると覚えていただくとよさそうです。

この「与えられる」に私がこめた意味が、ある意味で「強いられる」でもあると申し上げたいのです。私は二人の子どもの父親です。私は子どもたちに「ごめんなさい」と謝らなくてはならないかもしれません。「こんな目に合わせて、ごめんなさい。こんな時代に、こんな苦しい世界に立たせてしまって。もっと良い時代に生まれたかったよねえ」と。そう言うと、人のせいですが。

そこで私が「でもね、それはぼくも同じだよ」とか言い出すのは無責任な言い逃れかもしれませんが、そういう連鎖のようなところが人生にあります。人は面倒な時代の中に生まれ、その人自身が面倒の原因を作り出す。それぞれの時代に、それぞれ異なる悩みがある。大げさに言えば、人類の歴史は、そのような連鎖によって作り出されてきたものでもあります。

今日の箇所にパウロがアブラハムの生涯について、とくにイサク誕生の経緯に触れて書いています。イサクの側の視点は全く考慮されません。すべてあくまでも親であるアブラハムの側からの視点だけです。「あなたに星の数ほど多くの子孫を与える」と神が約束してくださったにもかかわらず100歳になるまで一人の子どもも与えられなかったアブラハムに、やっとイサクが与えられました。

子どもが与えられるかどうかということ自体の問題ではありません。神の約束が実現するかどうかの問題でした。アブラハムは、その約束がいつになっても実現しないので、約束そのものを疑ったことも全くなかったわけではありません。神の約束の内容とは違う方法で子どもをもうけたことまで聖書に記されています。しかし、最終的にアブラハムは神の約束に立ち戻り、それを信じ続け、ついにその約束の実現を見ることができました。

アブラハムがしたことは「あきらめなかった」ということだけです。子どもを産むことができる身体的な能力という意味での限界を超えてもなお、「神の約束は必ず実現する」と、神とその約束を信頼し続けました。

私は、100歳のアブラハムと90歳のサラに初めての子どもとしてイサクが与えられたという創世記の物語を「奇跡物語」としては受けとめていません。超自然という意味での奇跡の要素は全くありません。夫婦に子どもが与えられることに超自然の要素はありません。強いて「奇跡」だと言いうるところがあるとしたら、100歳のアブラハムが自分に子どもが与えられると信じることができた、そのことです。その信仰が奇跡です。

当時の年齢の数え方と今の年齢の数え方が違っていたのだ、というような合理的な解釈の可能性があるかもしれませんが、そういうのは私にとってはどうでもいいことです。重要なことはアブラハムもサラも「高齢者」であったということです。

そして彼らがイサクに託したのは信仰の継承でした。その信仰はアブラハムに与えられた「あなたに星のような多くの子孫を与える」という神の約束を信頼することであり、同時に未来において信仰の民が多く与えられることへの希望を持つことを意味していました。このあたりで、アブラハムの話とわたしたちの教会の話が結びついてくるものがあると私には思えます。

もうずいぶん前からですが、「日本の教会の未来がない」と嘆く声を教会の中で繰り返し聞いてきました。やれ少子高齢化だ、やれ教会に高齢者しかいない、やれ子どもや若者がいない、だから我々には未来がないと、絶望の三段論法を教会自身が言い続けるのです。

あと10年で多くの教会が消滅するそうです。すでにそれは始まっています。毎年いくつもの教会が閉鎖や合併を余儀なくされています。それはすべて事実です。

しかし、その話を聞くたびに何とも言えない気持ちになります。少子高齢化が「問題」であると言われると拒絶反応すら抱きます。だからどうしたのかと言いたくなります。教会は、恵みによって信仰によって受け継がれるものです。年齢は関係ありません。

パウロが取り組んだ「異邦人伝道」とは具体的に言うと何でしょうか。人生の多くの時間ないしほとんどの時間を異教徒ないし無神論者として過ごしてきた人を神の子どもにすることです。その仕事をわたしたちはパウロから受け継いでいます。

(2018年6月17日)

2018年6月10日日曜日

信仰が与えられる

ローマの信徒への手紙4章1~12節

関口 康

「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。

個人的なことでもありますが、教会の事柄でもありますので最初に申し上げます。私は昨日、JR東中神駅前の仮牧師館から牧師館に引っ越してきました。ダンボール箱80箱の本と7つの本棚は引越業者に運んでいただきました。布団とパソコンはNさんの車で、冷蔵庫と洗濯機と電子レンジはTさんの車で運んでいただきました。Nさん、Tさんありがとうございました。

残ったものはすべて、私が自転車で運びました。梱包しにくいものを自転車の前のかごにそのまま乗せて、20往復しました。距離は片道700メートルですので、それほど時間はかかりませんでしたが、疲れました。

それで昨晩から牧師館で休ませていただいています。今朝は鶏の鳴き声で目を覚ましました。コケコッコーと、ちゃんと言いました。幼稚園の鶏です。悪い意味ではありませんが、不慣れな点がまだ多く、これのスイッチはどこにあるのか、これの置き場所はどこかと探し回る感じですが、すぐに慣れるだろうと思っています。まだ若いので。

ローマの信徒への手紙は4章まで来ました。この手紙は全部で16章まであります。来年3月にすべて読み終わるように計画しています。なるべく分かりやすい話をしたいと願っております。最後までお付き合いいただけますと幸いです。

今日の箇所に書かれていることは難しいという印象をお持ちになる方が多いかもしれません。アブラハムが出てきたりダビデが出てきたりします。語られている内容もなんとなく理屈っぽい。分かるようで分からない。しかし、パウロが言おうとしている事柄の内容そのものは比較的単純なことであると申し上げておきます。

もうばれていると思いますが、私は理系の知識がほとんど全くないという意味の典型的な文系人間です。理系の知識に関しては相当でたらめなことを言いますので、そのあたりは理系の方々にお助けいただきたいと願っております。

パウロが言おうとしているのは、昔から多くの人たちが頭を悩ませてきた「卵が先か鶏が先か」という話に近いことです。鶏卵論争(けいらんろんそう)という言い方もします。鶏が卵を産み、その卵から鶏が生まれる。最初はどちらが先だったのかという話です。突き詰めていけばどちらが先かが分からなくなる。だから論争になるわけです。

今申し上げたのは、あくまでたとえです。パウロが「鶏が先か卵が先か」と問うているわけではありません。わたしたちが教えられてきたのは、わたしたちはイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのであって、わたしたちの行いや努力、業績や功徳を積み重ねることによって救われるのではないということです。しかし、この話も突き詰めて考えていくと分からなくなる点が必ず出てきます。

「信仰によって救われる」ということは、単純にひっくり返せば「信仰のない人は救われない」ということになります。それはそのとおりのことなので、やむを得ないことだと言って済ましてしまうのは非常に危険です。そういう言葉で切って捨てられて、ものすごく深い心の傷を負う人々が必ず出てきます。

そして、そこでわいてくる疑問は、その場合の「信仰」とは何を意味するのかということです。信じることも人間の行為ではないかと言われれば、そのとおりです。もしそうだとしたら、結局わたしたちは「信仰という行為によって救われる」のだろうかと問わざるをえません。

そもそもわたしたちが頭を悩ませること、すなわち「考えること」も人間の重要な行為です。また少し余談になりますが、今回の引っ越しに私は一週間かかりきりでした。他の約束をすべてキャンセルして引っ越しだけに集中しました。一週間と言っても日曜日は礼拝があり、木曜日は聖書に学び祈る会がありますので、実質5日です。それで最初の3日間は何をしていたかというと、ただ考えていただけでした。

物を箱に詰める作業も、運ぶ作業も、始まってしまえばすぐに終わることです。しかし、それよりもはるかに大事なことは、教会の働きを止めないでそれを行うにはどうすればいいかということですので、それを考える必要がありました。それを考えることをしないで、ただ物を動かすことだけをしてしまいますと、すべてがめちゃくちゃになってしまいます。

しかし、人が考えている姿というのは、はたから見ると何もしないでサボっているだけのように見えるものです。考えるのをやめて働け、と言われてしまいます。しかし、考えることは人間の重要な行為です。「人間は考える葦(thinking reed)である」とブレーズ・パスカルが言ったということは最新の高校倫理の教科書にも載っています。私は一昨年、高校生たちにこういう話を一生懸命していました。

「考えること」が人間の重要な行為であるなら、「信じること」はもっとそうではないかと言えなくもないわけです。「信じること」はどこまでも私の行為です。信仰は動詞です。主語は私です。「私が信じる」のです。もしそうだとしたら、わたしたちが救われるのは信仰によるのであって行いによるのではないという教えはおかしいのではないかと疑問が生じるのは当然です。信仰も行為であり、しかも、人間の重要な行為であるならば。

実際に教会の中でそういうことが問題になることがありうるわけです。あの人は熱心な信者であると言われる人は必ずいます。「熱心な人がいる」ということは、これも単純にひっくり返せば「熱心でない人もいる」ということになります。

そうしますと、その違いは何なのかが必ず問題になります。信仰が人間の重要な行為であるならば、わたしたちが救われるのは「熱心な信仰」によるのであって「熱心でない信仰」では救われないということになるのかということが現実の問題になります。そして、そういう言葉で傷つき、嫌な思いをする人々が必ず出てきます。

これはとても深刻な問題です。わたしたちが元気なときはこういうことは問題にならないかもしれません。体も心も自由に動き、なんでもできるときは。しかし、信仰は一生ものですので、途中に紆余曲折が必ずあります。年齢だけの問題ではありません。いろいろなきっかけや事情で、教会の礼拝や奉仕に参加できなくなるときが必ずあります。あれほど熱心だった人が。

わたしたちが救われるのは熱心な信仰によるのであって、熱心でない信仰では救われないのでしょうか。そういうことをパウロが言っているでしょうか。そうではないと、今日私ははっきりと申し上げたいのです。

今日の箇所に書かれていることの中でいわゆる鶏卵論争に最も似ていると私に思えるのは5節の言葉です。「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義とされます」。

これがどういう意味かお分かりでしょうか。「不信心な者」というのは訳者が遠慮し、躊躇した形跡がにじみ出ている訳であるように思えます。もっとはっきり「不信仰な者」と訳しても全く問題ありません。そういう意味のことをパウロが書いています。「信仰など全くない者」と。そして「義とされる(義とする)」は「救われる(救う)」という意味です。つまり、パウロがこの箇所に書いているのは「信仰など全くない者を救う神」のことです。

しかし、「を信じる人は」とも書いてありますので一筋縄では行きません。「信仰など全くない者を救う神を信じる人は救われる」のであれば、結局は信仰が求められているではないかという疑問がまた浮かんでくるでしょう。しかし、「働きがなくても」とはっきり書かれています。「働き」とは行為です。信仰も働きの一種、行為の一種であるならば、その行為としての信仰がなくても救われると、パウロがはっきり書いています。

それはいったい何なのか、何を意味するのかということを、わたしたちは何度も考える必要があります。考えれば考えるほど堂々巡りに陥る面がありますが、それでも考えることが重要です。

いずれにせよはっきりしているのは、神がわたしたちを救ってくださるときに、行為としての信仰は求められないということを、パウロがはっきり書いているということです。「お前はおれを信じるのか。もし信じるなら救ってやる」と神は言わない。「信仰など全くない者を神は救う」と。しかし、パウロはそのことを述べたうえで「その神を信じる者は救われる」と言っています。

その場合の「信仰」とは、具体的に言うとどのようなものでしょうか。それを考える必要があります。

人生のほとんどすべての時間を信仰など全くなしに生きてきた人が、最期の最期の局面で、遠のく意識の中で問われた問いに対してうなずく。否、うなずいたかどうかも分からないほどの、かすかな意思表示をする。否、意思表示があったかどうかすらはっきりとは分からない「信仰」。たとえそうであっても「そんなのは信仰とは言えない」などと熱心な人たちから見下げられる筋合いにはない「信仰」。

もうひとつ。今日は花の日子どもの日の礼拝として、わたしたちの前に美しいお花がたくさん飾られています。この花を見て「美しい」と言う。あるいは、口に出さなくても、心の中で思う。美しいと思うかどうかは主観的な問題でもあります。

「信仰など全くない者を救う神を信じる信仰によってわたしたちは救われる」と言われる場合の「信仰」とは、そのようなものではないかと私には思えます。熱心な活動もできないし、具体的な行為もできないけれども、「へえ、神さまってそういう方なのか」と、ただ思い、ただ感じ、ただ受け容れるだけの「信仰」。

「救いが先か信仰が先か」の鶏卵論争は、パウロの中では決着がついています。救いが先です。信仰は後です。信仰というわたしたちの行為がわたしたちを救うのではありません。神の一方的な恩恵によって与えられた信仰によって、わたしたちは救われるのです。

(2018年6月10日、日本基督教団昭島教会 主日礼拝)

2018年6月3日日曜日

教会学校でのお話

おはようございます。今日はこの教会の教会学校で初めてお話しします。でもまだ最初ですので、聖書のお話というよりも、私の「この人だあれ」の自己紹介のような話をさせていただきます。みなさんにも自己紹介をしてもらいますからね。いろいろ教えてください。よろしくお願いします。

私の仕事は牧師です。4月からこの教会の牧師になりました。これまでもいくつかの教会の牧師をしてきました。高等学校で聖書を教える先生になったこともありますが、それも牧師の仕事の延長です。とにかくずっと牧師の仕事をしてきました。牧師はとても楽しい仕事です。自分ではそうだと思っています。

それで今日みなさんに考えていただきたいことがあります。もしみなさんの中に、洗礼を受けるかどうかで迷っている方がおられるようでしたら、ぜひ考えてほしいということです。それと、自分は将来何になろうかと悩んでいる方がおられるようでしたら、牧師になることをぜひ考えてほしいということです。

今まで私は誰に対しても「洗礼を受けてください」とも「牧師になってください」とも言ったことはありません。だって、それを言うと「私は〇〇先生から言われたから洗礼を受けました」とか「牧師になりました」と言い続けて、人のせいにする人が出てくるからです。

逆に、いつも意地悪く「洗礼を受けないでください」「牧師にならないでください」と言ってきました。私がそう言うと、どんどん洗礼を受けてくださり、どんどん牧師になりました。人はアマノジャクのようです。あ、アマノジャクってみんなは知らないか。(「知ってる!」という声)あ、知ってましたか。

私がどうだのと言うつもりはありませんが、楽しそうに見えるようなんですよね。牧師の仕事は楽しいです。私が楽しそうにしているので、ああいうのもいいかなと思ってくださる方がおられたかもしれません。実際どうだかは分かりませんけどね。だからみんなもぜひ考えてみてください。楽しいですから。

私は生まれたときから通っていた教会の附属の幼稚園を卒業しました。その幼稚園の年長組さんのとき、小学校に入る前のクリスマスに、自分で牧師先生に申し出て洗礼を受けました。45年も前のことですが、そのときのことははっきり覚えています。

小学校に入ってからもずっと教会に通いました。途中ですごくイヤになったことがありましたけどね。日曜なのに、眠いのに、友達はプールとか行って遊んでるのに、なんでぼくは教会に行かなくちゃいけないのとかね。でも自分で「洗礼を授けてください」と言ったことを忘れることができませんでした。

だって、神さまとの約束ですからね。その約束を破るのは、神さまにも申し訳ないですが、自分自身を裏切ることでもあると思えてきて、どんなにイヤだと思っても教会に行きました。どんなにイヤだと思っても、とかはわざわざ言わなくてもいい、余計な言い方ですけどね。でも本当にそうだったんです。

それで高校3年生の夏休みになって、自分がどこの大学に行くかとか、どういう職業に就くかで悩んでいたとき思い浮かんだことが、ぼくは小さいときからずっと教会に通ってきたので、教会で何かお仕事させていただきたいなということでした。

それで牧師先生のところに行って、どう言おうかと迷って、「先生、ぼくは将来、教会のトイレの掃除をするような仕事をしたいと思います」と言いました。今考えた作り話ではないです。本当にそう言いました。高校3年生の夏休み。そうしたら先生が「それなら牧師になりなさい」と言ってくれました。

それから牧師先生が牧師のなり方を教えてくれまして、そういう大学に行って試験を受ければ牧師になれると分かりました。それで先生が勧めてくださったのが三鷹市にある東京神学大学でした。三鷹市は近いですよね。私は岡山県にいたので、三鷹市がどこかも、東京神学大学が何かも知りませんでした。

それで、東京神学大学を卒業したのが24歳で、いま52歳です。ずっと牧師の仕事をしてきました。52から24を引くといくつ?って、それはまあいいや。ずっと楽しかったです。牧師は楽しいです。だからね、みんなもぜひ考えてみてくださいね。

イエスさまが最初の弟子を集めるときに「私についてきなさい。人間をとる漁師にしましょう」とおっしゃいました。イエスさまと弟子たちの関係と、牧師と教会の人たちの関係は違いますけどね。でも、「牧師の仕事は楽しいから牧師になってください」と言えるのは、牧師さんたちだけかもしれません。

でも、私のせいにしないでくださいよ。「〇〇先生に言われたから牧師になりました」とか言うのは無しで。責任とれないし。自分自身と神さまとの約束ですからね。それは忘れないでください。私は知りませんからね。自分でしっかり考えて、神さまにお祈りして決めてください。よろしくお願いします。

(2018年6月3日、教会学校)

2018年5月27日日曜日

救いを求める

ローマの信徒への手紙3章27~31節

関口 康

「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。」

同じことを何度も言うと嫌われますのでそろそろやめますが、毎回冒頭で申し上げていることを今日も繰り返します。今させていただいているのはローマの信徒への手紙を読みながらわたしたちが共有すべきキリスト教信仰とは何なのかを確認する作業です。しかし、それはどういう意味なのかについての説明が足りていないかもしれません。

うまく行っているかどうかはともかく、私がずっと意識していることをたとえていえば、もしパウロが今の時代に生きていたら、あるいは「よみがえったら」、彼は何を考え、どのように語るだろうかということです。

反対の方向で考えることもできるでしょう。もしわたしたちがパウロの時代に生きていたら、わたしたちは何を考え、何を語るでしょうか。わたしたちが何らかの方法でパウロの時代に行き、パウロの説教を聴いたら、その説教にわたしたちが納得することができるでしょうか。

どちらにしても難しいことです。しかし、どちらかといえば前者のほうが、パウロがひとりであるという点で、想像のしやすさがあります。それはパウロの言葉、ひいては聖書の言葉全体の「現代的解釈」であると言ってしまえばそれまでです。しかし、現代的解釈とは何を意味するのだろうかと、さらに深く考えなければなりません。

その問いに対して私は、わたしたちがパウロの時代に行くことではなく、パウロにわたしたちの時代に来てもらうことのほうを考えています。

別の言い方をすれば、驚かれるかもしれませんが、今のわたしたちがパウロの言葉をそのまま鸚鵡(おうむ)返ししさえすれば、それがキリスト教信仰であるとは言えない、ということです。なぜなら、パウロはパウロで、彼の時代の中で特定の問題に取り組み、その答えを求めて葛藤し、格闘したからです。それは彼の問いと答えであっても、わたしたちの問いと答えではありません。

もちろん、そのパウロ自身の葛藤と格闘の中で見出された普遍的な真理があるからこそ、それを今のわたしたちが学ぶことに意味があります。しかしそれは、パウロの言葉を鸚鵡返しすればよいということを意味しません。似ても似つかない全く別の言葉になっていきます。

それでいいのです。わたしたちはパウロの言葉を最大限に尊重します。神の言葉であると信じてもいます。しかし、悪い意味で縛られるべきではありません。わたしたちは、わたしたち自身の言葉で語るべきです。

今日朗読していただきましたのは、3章27節から31節までです。前回までの箇所の続きです。特に前回の箇所に記されていた「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべて神の義が与えられること」と「イエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされること」、すなわち「贖罪の教理」と「信仰義認の教理」という、いわば二つの教えでもあり、ひとつにつながっているようでもある教えを念頭にして書かれているのが今日の箇所です。

いま「贖罪の教理」とか「信仰義認の教理」とか難しい言い方をしました。しかし、その内容の詳しい解説は、前回もしませんでしたが、今日もしません。どうでもいいことだとは思いませんが、とにかく今日はやめておきます。

それより今日お話ししたいのは、今日の箇所の最初に書かれていることです。「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです」(27節)。

これでパウロが言おうとしていることを言い換えれば、「贖罪の教理」にせよ「信仰義認の教理」にせよ、そのめざすところの目標は「人間の誇りを取り除くことにある」ということです。「誇り」の対義語は「恥」ですから、もっと大胆に言い換えるとしたら、「キリスト教信仰の目標は、人に恥をかかせることにある」ということになるかもしれません。プライドをもって生きている人の鼻をへし折ることにある。

このように言われますと嫌な気持ちになるかもしれません。私もこういうことを言いながら、自分でなんだか気持ちが悪いです。ぞっとする要素があることは確かです。そして、激しく問い詰めたくなるかもしれないのは「なぜそんなことを必要があるのか」ということです。

「人の誇りを取り除く」というのは、人間の尊厳に対する侮辱ではないか。人を貶め、辱める。「あなたがたは何をしたいのか」と抗議の電話が教会にかかってくるかもしれません。それほどのことをパウロが書いていると考えることは不可能ではありません。

しかし、もう少し我慢して、次の言葉を読んでみましょう。「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです」(29~30節)と書かれています。パウロが言おうとしていることは、はっきりしています。神は特定の宗教を信じる人々だけを依怙贔屓なさらない方であるということです。

なぜそう言えるのかといえば、繰り返し申し上げてきたことですが、パウロが「ユダヤ人」と書いているのは民族の意味ではないからです。ユダヤ教徒という意味です。しかもそれは、現代の宗教学者が世界のいろんな宗教を分類し、他の宗教と区別して言うような意味ではありません。パウロが書いているのは「聖書の神を信じる人々」というくらいのずっと広い意味です。

そうしますと、パウロの言っていることの意味は「聖書の神を信じる人々だけを創造し、救済する神は存在しない」というようなことになります。それは「神は異教徒をも創造し、救済する」ということです。「神が唯一である」とは、そういうことです。ユダヤ教の神とイスラム教の神とキリスト教の神がいるわけではないのです。そういうことを言い出すこと自体が多神教です。

これもわたしたちにとっては相当ぞっとする言葉ではあります。特定の宗教を信じる人を依怙贔屓なさらない神は、キリスト教を信じる人々に対しても同様の態度をおとりになるでしょう。ここで話を終わりにすれば「ならば、なぜ教会に通う必要があるか」と疑問に思う人が出てくるかもしれません。こんなに一生懸命に教会に通っているのに特別扱いしてもらえないのであれば。

しかし、私はあえて「依怙贔屓(えこひいき)」という言葉を使っていますが、もちろん、その意味をよく考える必要があると思っているからです。依怙贔屓することがよく問題になるのは、学校でしょう。学校の先生が、自分の担任するクラスの中のある特定のお気に入りの生徒を特別扱いし、他の生徒を無視したり邪険に扱ったりすること。こういうことを神はなさらないと私は言っているだけです。

この先生はどの生徒も同じように大事にしてくださいます。しかしすべての生徒が先生の公平な眼差しと態度を認めてくれるかというと、話が別です。今の学校には「授業評価」というのがあり、生徒が先生に点数をつける時代です。生徒の見方は歪んでいるとか言い出すのは間違っています。しかし、ひとりの先生を生徒が評価する場合、評価の内容が違うことは十分ありえます。

今申し上げたのは、あくまでもたとえです。神と人間の関係は、先生と生徒の関係と合致するわけではありません。わたしたちが理解すべきことは、神はどの人のことも依怙贔屓なさらない方であり、どの宗教の人に対しても、宗教を持たない人に対しても、宗教を憎む人に対してさえも、同様の態度をお示しになる方であるということです。

そういう先生こそ生徒から信頼される存在ではないでしょうか。それは甘い考え方でしょうか。私は今の学校の事情を正確に把握していませんので、深入りはしません。ただ、いま申し上げた意味の「信頼」と、キリスト教の「信仰」が合致します。そのことを言いたいだけです。

そしてそれはどういう意味かといえば、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに神の義を与えること」(信仰義認の教理)も「イエス・キリストによる贖いの業を通して神の恵みにより無償で義とすること」(贖罪の教理)も同じおひとりの神の働きですが、その神をわたしたちが信じるという場合の「信仰」は、「どの生徒も依怙贔屓しないゆえに多くの生徒から信頼される先生がいる」という場合の「信頼」と合致する、ということです。

そのように考えることができるようになれば、いわばそのとき初めて、ひとつ前に申し上げた「キリスト教信仰のめざすところの目標は、人に恥をかかせることにある」という、ひどい言葉の意味が理解できるようになると思うのです。

パウロが取り組んだ問題はユダヤ人の強すぎる宗教的なプライドの問題でした。それが至る所で災いをもたらしました。教会分裂の原因になりました。ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が教会内部で対立しあうのです。ユダヤ教徒によるキリスト教徒迫害の理由でもありました。

「自分たちだけが救われて他の人々は救われない」ということを徹底的に信じることのどこに問題があるかといえば、他の宗教を信じる人々に対して排他的で攻撃的な態度を持つようになるということで間違っていませんが、問題の底はもっと深いところにあるように思えます。

私が思うのは、他の宗教に対する排他的で攻撃的な態度は、本来どの人に対しても依怙贔屓をなさらない神への「信頼」を多くの人から奪う結果を生むだろうということです。依怙贔屓するような神なら信じたくないと、多くの人に思わせてしまうのです。自分だけ依怙贔屓してもらいたい人の鼻はへし折られるかもしれません。しかし、そんな鼻はへし折られたほうがいいのです。

依怙贔屓なさらない神に「私はこれだけのことをしました。できました」と自分の業績自慢をしても無駄です。「よしよし、よくがんばった」とほめてはいただけるでしょう。しかし、だからといって、他の生徒よりも先生に寵愛される生徒に自分がなれると思わないほうがいいです。

先生によりますが、「だめな子ほどかわいい」ということが十分ありえます。「だめとは何か」と叱られるかもしれませんが、いつまでも記憶に残るのは、そういう生徒です。下駄を履かせて(救済!)あげないと及第できない生徒のほうが。

神の愛と憐れみによる罪人の救いとは、そのようなことです。罪人でない人はひとりもいないので、救いの御手(下駄!)はすべての人に差し伸べられます。

(2018年5月27日)

2018年5月20日日曜日

聖霊と生きる

使徒言行録2章29~42節

関口 康

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

おはようございます。今日の礼拝はペンテコステ礼拝としてささげています。「ペンテコステおめでとうございます」という挨拶を私は聞いたことがありません。しかし、今日がおめでたい日であることは確かです。

ペンテコステは、最も単純にいえば全世界のキリスト教会の誕生日です。教会は「団体」ですから「設立記念日」と言っても構いません。ペンテコステは、イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスに匹敵するほど大切な記念日です。また、イエス・キリストの復活をお祝いするイースターと同等の価値を持つ祝祭日です。

しかし、これはあくまでも私個人の印象であるとお断りしたうえで申し上げますが、もしかしたら日本の教会に、そうであることの認識が欠けているかもしれないと感じることがあります。全世界の教会の誕生日だからおめでたいと言われてもピンとこないと思われる方がおられませんでしょうか。

たとえば、各個教会に設立記念日があります。日本キリスト教団にも創立記念日があります。それらについても同じことが当てはまるのではないかと思います。「だから何なのか」と感じてしまう。「それが私の人生と何のかかわりがあるのか」と。

「私にとって重要な意味を持つのは、この私の誕生日であり、この私が洗礼を受けてキリスト者としての歩みを始めたことを記念する受洗記念日である。それをお祝いするならまだ分かる。教会の誕生日なんかどうでもいい。私とは関係ない」と。

かなり穿った見方が混ざっていますので、そのようなことは一度も考えたことがありませんとおっしゃる方がおられるようでしたらお許しください。どうか怒らないでください。

そして私は、もしこういう感覚をお持ちになる方がおられても責めるような気持ちは全くありません。私自身もこういうことをしょっちゅう考えているからです。もしかしたら皆さんの中に私と同じ感覚を持っておられる方がおられるのではないかと想像して、あえてお尋ねしています。

ひと言でいえば個人主義なのだと思います。「神は好きです。イエス・キリストも好きです。しかし教会は嫌いです」とおっしゃる方がおられます。私の知るかぎりでも少なくありません。「教会などなくても自分の信仰は維持できます。神と自分の一対一の関係が重要なのであって、教会は邪魔になるだけです。面倒くさいものに巻き込まれたくありません」と。

そういう感覚をお持ちの方々を私が責めるつもりがないのは、教会はそういう存在であると私自身が考えているからです。「お邪魔してすみません」と謝りたくなります。「皆様の人生と生活を支配しようなどとは全く考えておりません。もしお役に立てることがあるようでしたら、何なりとお申し付けください」という気持ちがあるだけです。

この気持ちは私が牧師の仕事を始めた最初の日から全く変わっていませんので、かつて牧師をした教会の方々からよくお叱りを受けました。「弱腰すぎる」「頼りない」「もっと権威をもってください」と。「はいはい分かりました」とお答えすると「はいは一回」と言われたり。のれんに腕押し、ぬかに釘。

どの教会もどの牧師も、みんなそうだと思いません。強い権威をもって立とうとする教会もあります。しかし、そのほうがいいと私にはどうしても思えません。私の個人的感想としてではなく、聖書と神学に基づく結論として。教会は個人に「弱く優しく」寄り添う存在以上であるべきでない。

今日開いていただいたのは使徒言行録2章です。最初のペンテコステの日に起こった聖霊降臨の出来事が描かれている箇所です。しかし、今日の箇所に入る前に見ておきたいのは使徒言行録1章6節以下に記されているイエス・キリストの昇天の出来事です。

昇天は、使徒言行録1章3節によると、イエス・キリストの復活から40日目に起こったことです。そのとき何が起こったのかといえば「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」(1章9~10節)ということです。

これを文字通り受けとるべきかどうかに疑問を持つ方がおられるかもしれません。イエス・キリストの背中に羽根が生えて、鳥か飛行機のように飛んで行かれたのでしょうか。そのようにとらえるべきなのか、それともこれはある意味での比喩としてとらえてよいかの判断は、わたしたちに任せられています。

この箇所で重要な点は、ひとつです。イエスが「彼らの目から見えなくなった」ことであり、「離れ去って行かれた」ことです。つまり、このときからイエス・キリストは地上において不在になられたのです。

そして、イエス・キリストの昇天から10日目、イエス・キリストの復活から数えれば50日目に起こったのが聖霊降臨の出来事です。そのように使徒言行録が描いています。

「五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(2章1~4節)。

そこで何が起こったのかは、記されていることに基づいて想像するほかはありませんが、これも文字通り受けとるべきなのか、それともある意味での比喩なのかを考える必要がありそうです。「激しい風」や「炎のような舌」といった、大げさというと語弊がありますが、ドラマティックな形容詞や副詞が目立つ文章が続いています。

この中で重要な点は二つです。第一は、ひとつの場所に集まっていたイエス・キリストの弟子たちが「聖霊に満たされたこと」です。第二は、彼らが「ほかの国々の言葉で話しだしたこと」です。

どちらも奇跡的な出来事として描かれています。しかし、第二のほうからいえば、彼らがほかの国々のいろんな言葉で語り出したのは、いろんな国の多くの人々にイエス・キリストの福音を宣べ伝えるためでした。つまり、このときから世界伝道の準備が始まったのです。

そして第一の、イエス・キリストの弟子たちに聖霊が注がれたことの意味は何かと考えるときに大事なことが、先ほど触れたイエス・キリストの昇天の出来事との関係です。昇天の出来事がイエス・キリストの「不在」の始まりだったとすれば、聖霊降臨の出来事はイエス・キリストの「代わり」としての聖霊が、弟子たちと共に働いてくださることの始まりだったと言えます。

それとも、イエス・キリストが不在になった時点で、教会は伝道をやめて解散すべきだったでしょうか。初代教会はそうしませんでした。イエス・キリストの弟子たちが、イエス・キリストの「代わり」に伝道を継続したのです。

キリスト教会の信仰において「聖霊」は、神の力(パワーやポテンシャル)であるというだけにとどまりません。「聖霊」は端的に「神」です。わたしたちの「神」は父・子・聖霊なる三位一体の神です。この点は譲ることができません。

そして「聖霊」が「神」であるとしたら、聖霊降臨の出来事において起こったことは、イエス・キリストの弟子である者たちの存在(体と心)の内部に「神」が宿ってくださることが起こったとしか言いようがない、ということです。

しかも「聖霊」が三位一体の神であるということは、わたしたちの存在(体と心)の内部には「聖霊のみ」が宿るのであって、父なる神もイエス・キリストも宿ってくださらないということではなく、「聖霊」が宿るこの私の中に、父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださることを意味します。

私が教会の方々によくお勧めしてきたのは「山のあなたの空遠くにおられるかどうか分からない方に呼びかけるような祈りではなく、自分に言い聞かせるように祈るとよいと思います」ということです。この私に神が宿っておられ、その神に祈るのですから、それでよいのです。

それはものすごく重要なことであり、驚くべきことです。なぜなら、イエス・キリストの弟子たちは、あくまでも一個人だからです。その一個人の内部(体と心)に「神」が宿ってくださるということは、その現象としての外見上は、神がたくさん増えたかのようです。なぜなら各個人は「ほかの国々の言葉で話しだした」とあるとおり、いろんな言葉で語るからです。

聖霊が注がれた人、すなわち「聖霊なる神が宿ってくださった人」は、それ以前に持っていた記憶も感情も失うのかといえば、決してそうではありません。それらを失うとすれば「洗脳」を意味しますが、各個人は元々の人間のままです。なんら変化はありません。たとえ「上書き保存」されたとしても、元々の記憶も感情も残ったままです。思い出したくないような過去の記憶も事実もすべて。

それでよいのです。元々のこの弱い人間性を持ったままの私を「神」が用いてくださるのです。神はおひとりであり、三位一体の神を信じる信仰は多神教ではありません。しかし、聖霊と共に生きる者たちは、判で押したような同じ言葉しか言わなくなるわけではありません。それぞれ違った言葉や発想で語ります。それが聖霊の働きの特徴です。

教会とはそういうところです。基本的に全く自由な団体です。自分の感情を押し殺す場所ではありません。故意に人を傷つけるようなことは言わないほうがいいに決まっていますが、思ったことを思ったとおり語ることが許されています。わたしたちは何も怯える必要がありません。

そういう場所がわたしたちの人生の中にあることを感謝したいと思います。

(2018年5月20日)

2018年5月13日日曜日

福音を味わう

ローマの信徒への手紙3章21~26節

関口 康

「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」

毎回申し上げていますが、私が説教を担当させていただくときにしているのは、ローマの信徒への手紙を読みながら、わたしたちが共有すべきキリスト教信仰の要点を押さえていくことです。

その中で私がいちばん最初に申し上げたのは、ローマの信徒への手紙は、そのほとんど最初の部分から「わたしたち人間は罪人である」ということを、まるで機関銃のようにこれでもかこれでもかの勢いで書いている書物ではありますが、だからといってパウロは、あるいは聖書全体の教えは、神が人間を罪人として創造されたと信じていないし、教えてもいないということです。

神は人間を「きわめて善い」存在として創造されました(創世記1章31節)。人間性の本質は善です。人間を初めから罪人として創造するような神を、少なくとも私は真面目に信じることができません。人生の悩みと世界の混乱の原因としての罪を自分で作っておいて、その罪の中からあなたを救ってあげましょうと言い出すような神は、マッチポンプ(自作自演)の神です。

そうではありません。火をつけたのはあなたです。わたしたち人間です。理屈を言いたい人は、もし神が人間を初めから罪を犯すことができない存在へと創造してくれていたならば、世界に罪など起こりようがなかったのに、神が人間に罪を犯すこともできる自由を与えたばかりにとんでもない結果を生み出してしまった。そうであれば罪の原因も責任もすべて神にあると言います。

そして、そのように考える人は、罪は神のせいであり、永遠の定めであり、逃れがたい宿命であり、「人が罪を犯すのは当然である」などと言い出して、罪に市民権を与えはじめます。

しかし、神はわたしたち人間を、命令通りに動く機械仕掛けの存在にしたくなかったのです。神を信じることも、神の戒めを守ることも、神御自身がそれを人間に強制なさりたくなかったのです。神の願いは、強制ではなく自由のうちに神を愛する人間であってほしいということです。そもそも自由でなければ愛ではないのです。強制された愛は偽装です。これが、神が人間に自由をお与えになった理由です。

もちろん、神から与えられたその自由を、神を愛することに用いるのではなく、神に背くことにこそ用いるようになってしまった人間を、聖書が描いていることは事実です。しかし、だからといって神は、わたしたち人間から神に背くことができる自由を奪おうとなさいません。それは神が罪を放置しておられるからではありませんし、人間に無関心だからでもありません。

正反対です。神は人間をはらはらしながら見守っておられます。御自身のもとに帰ってくるのを待っておられます。それは、放蕩息子の帰りを待つ父親の姿そのものです(ルカ15章)。

あの放蕩息子の父親は、非難を受けやすい存在です。親のくせに自分の子どもを、なぜ捜しに行かないのか。なぜ待っているだけなのか。自分の子どもへの愛があるなら、あらゆる手を尽くして捜せばいいではないか。そうしないのは愛がないからだ、冷たい親だと、さんざんです。

その反対の存在として神を描いているように見えるのが、99匹の羊を野原に残してでも1匹の迷子の羊を捜しに行く羊飼いを描く、イエス・キリストのたとえです。ここで疑問を持つことは許されるかもしれません。なぜ神は、1匹の迷子の羊のことは捜しに行くのに、放蕩息子は捜しに行かなかったのかと。

その答えを私は知りません。迷子の羊は動物だけど、放蕩息子は人間だからでしょうか。羊は持っていないが放蕩息子は持っている「人間としての意志」を尊重するというテーマが隠されているからでしょうか。いろいろ想像したくなります。

しかし、二つのたとえに共通しているのは、迷子の羊を捜しに行く羊飼いも、放蕩息子の帰りを待っている父親も、愛を失ったわけでも関心を失ったわけでもないことです。羊飼いは迷子の羊を全力で捜す。父親は放蕩息子を全力で待つ。

「全力で待つ」というのは言葉の矛盾か、捜しに行かない怠慢の言い訳だ、詭弁だと言われてしまうかもしれません。しかし、子どもは、親の所有物ではありません。自分の意志を持つ存在です。たとえ親であっても自分の思い通りになりようがない、それが子どもです。どれほど非難を受けようと、自分の子どもの帰りを「全力で待つ」という態度を貫くのが、父親としての神のお姿であると言えるかもしれません。

今日開いていただいたのは、ローマの信徒への手紙3章21節から26節です。ここに記されているのは、この手紙の1章18節から3章20節までに記されている「人間の罪」の問題に対する神の態度決定の内容であると申し上げておきます。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(21節)と記されています。「律法とは関係なく」と訳すのは誤解を生みかねません。

原文には「律法なしに」という意味の言葉が記されているだけです。これは直前の「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(20節)を受けていますので、もし敷衍するとしたら、「律法を実行するという方法ではなく別の方法で得られる神の義が示されました」というあたりです。

「律法とは関係なく」と言いながら「しかも律法と預言者によって立証されて」と言うのは、何を言っているのか分からない感じですが(関係ないものが立証する?)、ここで「律法と預言者」はひとつの熟語であると考えるべきです。

厳密な話ではありませんが、いわゆるユダヤ教の聖書はキリスト教会の「旧約聖書」と内容は同じですが、「律法」(トーラー)と「預言者」(ネビーム)、「諸書」(ケスビーム)という三部構成になっていることと関係あります。「トーラーとネビームの内容と矛盾していない神の義が示されました」という意味であると理解できます。

別の言い方をすれば、そもそも「トーラーとネビーム」、キリスト教会にとっての「旧約聖書」が教えているのは「律法を実行することによって神の義を得る」という道ではないというパウロの信仰が表明されています。旧約時代はそうだったが、新約時代はそうではなくなったわけではありません。変化が起こったのではありません。

神の義を得る道に変化はありません。「神の義」という言葉が分かりにくければ「神の救い」と言い換えても構いません。「神の義」ないし「神の救い」は、わたしたち人間がこれこれこれだけの条件を満たしたから得ることができるというような、要するに自分の努力によって獲得するものではなく、神が与えてくださるものだと、パウロは言っているのです。

しかもそれは、「律法と預言者」(ネビームとケスビーム)においてはそうでなかったわけではないと言っているのです。そのときから今日に至るまで、神の態度は全く変わっていないのです。

「神の義」ないし「神の救い」は、神の戒めをどれだけ忠実に守ったか、それをどれだけ破らなかったかによって評価され、点数と成績をつけられて、その面で秀でた人たちだけに与えられる賞状や勲章のようなものではありません。そういうのは典型的な功績主義です。行為義認主義です。しかし、神の義(救い)はそういうものではありません。

しかもそれは旧約聖書の頃はそうだったというわけではありません。神は最初からずっと変わりません。神は御自分に背く罪深い存在になってしまった人間をご覧になって、だから見捨てるとか、愛するのをやめるとか、関心を失うことは、いまだかつて一度もありません。

しかし、今日の箇所に記されていることのいわばもうひとつの中心点は、神に背く罪深い存在になってしまった人間を罪の中から救い出す方法として「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに神の義が与えられる」という方法が、いわば新たに加わったということです。しかしまた、それは究極的な方法であるために、過去の方法が不要になったということです。

「イエス・キリストの贖いの業を信じることによる神の義」(23~26節)について今日は詳細に説明できません。その機会は必ずありますので、今日は簡単な説明だけでお許しください。

ここにパウロが書いていること自体は、わたしたちの「旧約聖書」、ユダヤ教の「律法と預言者」(トーラーとネビーム)をユダヤ教がそのように理解した贖罪の儀式と関係づけて説明する必要があります。

神は「人間の罪を無視する、ごまかす、記録を改竄する」というような意味で「人間の罪を見逃す」のではありません。罪は罪として厳正に裁き、必ず処罰するのが神です。しかし、人間の罪はあまりにも重すぎるため、もし人間の罪の全責任を人間自身に負わせるとしたら、全人類を滅ぼさざるをえないほどです。しかし、そうなさることを神が惜しまれるのです。

それで、いわば人間の代わりに動物に死んでもらうことによって、本来は人間が受けるべき罰を代わりに動物に受けてもらうのがユダヤ教の動物犠牲の趣旨です。しかし、それでは足りないほど人間の罪は重い。「人をあやめた人にいくら賠償金を支払ってもらっても死んだ人の命は返ってこない」と言われることに通じます。動物の命も、あるいはお金も、罪の償いとしてそれで十分だということはありえません。

そこで、究極的で完璧な犠牲として、神の御子イエス・キリストが人間の身代わりに殺されることによって人間自身が神の罰を受けずに見逃される道が開かれました。それが、23節から26節にパウロが記している教えの趣旨です。贖罪の教理です。

しかし、このような説明を聞いても、ぼんやりするだけではないでしょうか。難しい理屈を聞かされたという気持ちになるだけかもしれません。その感覚は正常です。福音は理屈で納得するものではありません。福音は「味わうもの」です。体験するものです。

神の方法は人間の予想を超えるものです(「予想を超えること」を現代用語で「斜め上」と言うそうです)。イエス・キリストの十字架の死がなぜわたしたちの救いになるのかを、わたしたちが完全に理解することはできません。

それで全く構わないと私は思います。要するにわたしたちは、イエス・キリストの十字架の死によって、神の救いを得ているのだ。罪の中にとどまったままではないのだ。神の罰を受けないで永遠の命に至る約束を得ているのだ。そのことを信じ、感謝し、喜ぶことが求められています。

(2018年5月13日)

2018年4月29日日曜日

事実を見る

ローマの信徒への手紙3章1~20節

関口 康

「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては罪の自覚しか生じないのです。」

今日もローマの信徒への手紙を開いていただきました。今していることの狙いは、ローマの信徒への手紙を共に読みながら、それを狭い意味の聖書研究の時間にするのではなく、わたしたちが共有すべきキリスト教信仰の大切なポイントを押さえていく時間とすることです。

二千年前のパウロがどのように考え、信じていたかはどうでもいいなどと申し上げるつもりはありません。しかし、もっと大切なことは、今のわたしたちがどのように考え、信じるかです。

二千年前のパウロが考え、信じたとおりに、今のわたしたちも考え、信じればいいではないかと思われるかもしれません。しかし事態はそれほど単純ではありません。わたしたちは二千年前のパレスチナとは全く異なる状況を生きています。それが悪いわけではありません。

わたしたちは現代人です。現代人が現代的な考え方をし、現代的な信じ方をするのは当然です。そもそも、わたしたちにはそれ以外にどうすることもできません。

だからこそ、古代と現代をつなぐ橋渡しが必要です。教会と説教の役割は、古代と現代の橋渡しです。橋渡しの必要がないのであれば、聖書を朗読するだけで事が足ります。しかし、それだけでは済まないので、教会と説教が必要です。

パウロとわたしたちの共通する要素はもちろんあります。全くないなら、わたしたちが聖書を読む意味がありません。共通点は、パウロもわたしたちも同じ生身の人間であることです。パウロもわたしたちと同じように、空気を吸い、食べ物を食べました。うれしいことがあれば笑い、悲しいことがあれば涙を流しました。孤独なときは寂しいと感じました。

人間としての本質、そして感性や肌感覚において、パウロとわたしたちは完全に共通しています。だからこそわたしたちはパウロの手紙を、たとえ全部ではなく部分的であっても理解できるのです。それで十分だと私は思います。

今日の箇所の最初に出てくるのは、「ユダヤ人の優れた点は何か」(1節)という問題です。「優れた点」とは「長所」のことです。「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます」(2節)と続いています。そしてその「あらゆる面からいろいろ」の最初に挙げられているのが「まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです」という点です。

「まず」の意味は「第一に」です。ここで面白いのは、パウロがユダヤ人の長所について実際に挙げているのはひとつだけだということです。第一はあっても第二も第三以下もありません。おそらくパウロは、ユダヤ人の長所を箇条書きしようとしたのです。しかし、第一に挙げたことを深く考え、詳しく述べているうちに箇条書きするのを忘れたか、意図的に放棄したのです。

なぜパウロは箇条書きをやめたのか、その理由は何かという問題を深く追及するつもりはありません。ひとつだけ言いたいのは、パウロはこの手紙を、生きた会話として書いたのであって、学術論文を書いたのではないということです。思いつきでべらべらしゃべっているとまで言うのは言いすぎですが、あらかじめ整えた原稿を読んだわけではなかった様子が分かります。

しかし、今の点はあまり重要ではありません。はるかに重要なことは、パウロが「ユダヤ人の長所」を「神の言葉をゆだねられたこと」だと言っていることです。これは逆の順序で考えることができます。「神の言葉をゆだねられた人」が「ユダヤ人」です。そう考えることができるとしたら、そのとき初めて、ここに書かれていることと今のわたしたちとの関係ができます。

わたしたちは「教会」です。「教会」は「神の言葉をゆだねられた」存在です。つまり教会は、パウロが書いている意味の「ユダヤ人」です。パウロが挙げている「ユダヤ人の長所」は、そのままわたしたち教会の長所です。長所があれば必ず短所もあります。パウロが「ユダヤ人」について書いているとおりのことが、わたしたち教会に当てはまります。

今申し上げたことは、この続きに書かれていることを読むときにも当てはまります。「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか」(3節)。

この「彼らの中に」を、わたしたちが「教会の中に」と読み替えて考えることが可能です。「教会の中に不誠実な人がいる」と言われると、わたしたちはドキッとします。そういうことがないとは言えません。

しかし、そのとき重要なことは、「それはあの人のことだ」と自分以外の人を真っ先に思い浮かべるのをやめましょうということです。それは先週申し上げたことです。なぜ自分のことを真っ先に考えないのでしょうか。なぜ自分自身に当てはめないのでしょうか。「教会の中に不誠実な人がいる」と言われたときドキッとするほうがはるかに正解です。

しかし、そういう人が教会の中にいるとしても、だからといって、教会は信用できないとか、あんな信用できない人たちが信じている神は信用できないとか言い出すのはおかしな話であると、パウロが言おうとしていると考えることが可能です。

実際にはそういうことをよく言われます。高校で教えていたときも、よく言われました。よく勉強ができる生徒が世界史を学んで、キリスト教は歴史の中で戦争や差別を引き起こしてきた諸悪の根源だというようなことを言いました。歴史そのものは否定できません。しかし、だからといって、教会は信用できない、神は信用できないとまで言うのは、飛躍しすぎです。

「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」(4節)と書かれています。「真実」の意味は約束を守ることにおいて首尾一貫しているということです。神はご自分が立てた約束を絶対に裏切ることができません。それが「真実」の意味です。

しかし、だからといって「牧師もうそをつきます」だの「牧師も約束を破ります」だのと牧師である者たち自身が、声を大にして言うのは不適切です。開き直っているようです。そのこと自体で信頼を失うこともあります。

ここでパウロは、話を一歩先に進めます。「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない」(5~6節)。

特に重要な言葉は「わたしたちの不義が神の義を明らかにする」です。仮定の話ではなく事実です。しかし強いて言えば、教会に通っているわたしたちにはよく分かる話ですが、そうでない方々には何を言っているかが分からない、難しい話かもしれません。

それはどういうことかといえば、牧師が信用できないとか、教会が信用できないというような嫌な経験をしたことがある人には分かる話だ、ということです。そういう経験をしたのに、それでも教会生活を続けてきた人には。もう少し一般的な言い方をすれば、家族や友人など最も近い関係の人に完全に裏切られたことがある人にもきっと分かります。それでも生きてきた人には。

あなたはなぜ、今でも教会生活を続けることができているのでしょうか。信用できない教会、信用できない牧師から逃げ出すことができて、信用できる教会、信用できる牧師のもとに移ることができたからでしょうか。

あなたはなぜ、今でも生きることができているのでしょうか。あなたを裏切った家族や友人のもとから離れることができて、絶対に裏切らない人たちのもとに保護されたからでしょうか。

そのような教会があったでしょうか、そのような人がいたでしょうか。もしあったなら、いたなら幸せなことです。しかし、本当にそうでしょうか。理由は違うのではないでしょうか。

信用する対象が変わったからではないでしょうか。言い方は極端かもしれませんが、人間を信じるのをやめた。人間ではなく神を信じるようになったからではないでしょうか。

ひどい経験はしないほうがいいに決まっています。しかし、すべての人に裏切られ、教会にまで裏切られたときにこそ「神」を信じることへと初めて次元が移行することが実際にあります。神の存在が現実味を帯び、真剣なものになる。それは、人間に裏切られたときにこそ起こることである、ということは実際にあります。

だから教会は信用できない団体であり続けてよいし、牧師はうそばかりついてよいという話ではありません。そういうばかげた言い方は「『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか」(8節)というパウロの指摘に通じます。教会と牧師が積極的に悪さを働けば働くほど神が正しいお方であることの証明になるので、どんどん悪いことをしましょう、などというのは、全く恐るべき冒涜です。

しかし、「わたしたちの不義が神の義を明らかにする」は、わたしたちの体験的な事実です。それは人を煙に巻く神学議論ではなく、ふざけた話でもありません。そういうきっかけでもなければ人が真剣に神を信じようとすることはないという事実そのものは、何とも言えない気持ちにさせられることではあるのですが。

最後に書かれているのは、箇条書きしようとしてひとつしか書かなかった「ユダヤ人の長所」の裏面です。「神の言葉をゆだねられたユダヤ人」がなぜ罪人なのかという問いの答えです。

「すべて律法の言うところは律法の下にいる人々に向けられている」(19節)からです。聖書の教えを、他人ではなく、自分自身に当てはめましょう。それができるとき初めて分かるのは、自分の存在が神の御心からいかに遠く離れた罪人であるかという事実です。「神の言葉をゆだねられた人」(わたしたち教会!)の長所が、そのまま短所です。

聖書を読んで「自分は罪人だ罪人だ」と自分を責めるだけの出口のない堂々巡りの中に閉じこもってしまうのは、きわめて危険です。小さな針穴でいいので風穴を開けましょう。そこが出口になります。

しかし、聖書に照らし合わせると自分は罪人であるということをはっきり自覚できることが聖書を読むことの恵みです。自分の弱さや欠けを自覚できるのは、まだ「伸びしろ」が残っていると知ることに通じますので、前向きな生き方です。

事実を直視するために、わたしたちは聖書を読みます。聖書は眼鏡です(カルヴァン)。

(2018年4月29日)

2018年4月27日金曜日

2017年度説教報告

各位

私が「日本キリスト教団無任所教師」だった2017年度の説教報告を行う場所がありませんので、ネットの皆様に謹んで報告いたします。42回でした(キリスト教講演1回を含む)。小さなしもべに奉仕の場を与えてくださいました諸教会ならびに諸学校の皆様に感謝いたします。

【2017年】

4月2日(日)
日本キリスト教団上総大原教会(千葉県いすみ市)主日礼拝

4月9日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

4月16日(日)
日本キリスト教団下関教会(山口県下関市)イースター礼拝

4月23日(日)
日本キリスト教団千葉本町教会(千葉市中央区)主日礼拝

4月30日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

5月14日(日)
日本キリスト教団青戸教会(東京都葛飾区)主日礼拝

5月21日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

5月28日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

6月4日(日)
日本キリスト教団下関教会(山口県下関市)ペンテコステ礼拝

6月11日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

6月18日(日)
日本キリスト教団青戸教会(東京都葛飾区)主日礼拝

6月25日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

6月27日(火)
東京女子大学(東京都杉並区)日々の礼拝

7月16日(日)
日本キリスト教団上総大原教会(千葉県いすみ市)主日礼拝

7月23日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

7月30日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

8月6日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

8月12日(土)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル1回

8月13日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

8月20日(日)
日本キリスト教団阿佐谷東教会(東京都杉並区)主日礼拝

8月27日(日)
日本キリスト教団蒲田教会(東京都大田区)主日礼拝

9月3日(日)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル2回

9月10日(日)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル1回

9月17日(日)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル1回

10月1日(日)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル2回

10月11日(水)
国際基督教大学高等学校(東京都小金井市)キリスト教講演会

10月15日(日)
日本聖書神学校礼拝堂(東京都新宿区)ブライダル1回

10月16日(月)
関西学院大学理工学部(兵庫県三田市)チャペルトーク

10月22日(日)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル2回

10月29日(日)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル2回

11月10日(金)
代々幡斎場(東京都渋谷区)某氏前夜式

11月11日(土)
代々幡斎場(東京都渋谷区)某氏葬式

11月12日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

12月10日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

12月24日(日)
日本キリスト教団上総大原教会(千葉県いすみ市)クリスマス礼拝

【2018年】

1月28日(日)
日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市)主日礼拝

2月18日(日)
日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市)主日礼拝

3月18日(日)
日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市)主日礼拝

2018年4月22日日曜日

聖書を読む

ローマの信徒への手紙2章17~29節

関口 康

「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」

今日の箇所は、ローマの信徒への手紙2章17節から29節までです。この手紙の「本文」が始まる1章18節以下から話し始めて3回目になります。この手紙のパウロの書き方が螺旋階段になっていますので、私の説教の内容も「またその話か」と思うほど同じことを繰り返しつつ、少しずつ前進しているような感じになっていると思います。とにかく前進していますので、我慢していただきつつ、お聞きいただけますと幸いです。

今日の箇所の内容に入る前に、この箇所の読み方について私が思うところの注意点を一点だけ申し上げます。それは、パウロがこの箇所を、まるでパウロ自身には全く当てはまらないことであるかのように自分を棚に上げたうえで、自分以外の他の人々に対する批判や皮肉や当てこすりを書いているのではないということです。もしほんの少しでもパウロがそのような意図で書いているとすれば、この箇所でパウロが厳しく批判している相手と彼自身が同じことをしていることになります。しかし、パウロの意図はそういうのとは違います。

「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」(17~20節)と記されています。

ここでパウロは、自分を棚に上げて、自分以外の「ユダヤ人と名乗る」人々のことを批判しているのではありません。パウロが言おうとしているのは、今日の箇所の最後のほうに出てくる「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、内面がユダヤ人である者こそユダヤ人である」(28~29節)という話につながります。民族や国籍の話をしているのではありません。その意味での「ユダヤ人」が「ユダヤ人を名乗る」こと自体には問題ありません。しかし、この問題は後回しにします。

「律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています」と書かれているのも、批判でも皮肉でもなく、すべて良い意味です。「律法」は今の「聖書」です。パウロが「律法」と書いている箇所のすべてを「聖書」と読み替えることが可能です。

「また、律法の中に」以下に書かれていることも同様です。「自負しています」(20節)にも「彼らはこういう偉そうなことを言っています」という意味はありません。パウロが挙げているすべてのことは「ユダヤ人の長所」です。それが悪いと言われなければならない点は、ひとつもありません。

私が繰り返し強調させていただいているのは、この手紙の中でパウロが「ユダヤ人」と呼んでいるのは、民族や国籍の話ではないということです。もちろん歴史的な意味での「当時のユダヤ教徒」を指していると言えないわけではありません。しかし、そう言ってしまいますと、わたしたちとは関係がない話になります。ですから私は、パウロが言う意味での「ユダヤ人」は、幼いころから聖書に親しんできた人のことだと申しています。私がそのようにこじつけているのではなく、パウロ自身がその意味で言っています。

私が申し上げたいのは、パウロが挙げている「ユダヤ人の長所」が、わたしたちにとっての「何」に当てはまるかをよく考えながらこの箇所を読む必要があるということです。まだ抽象的すぎるかもしれませんので、もう少し具体的な話をします。

本日礼拝後、私にとってはこの教会で初めての教会総会が行われます。私はこの教会のことを何も存じませんので、皆さんのお話を聴かせていただく立場にあります。しかし、それだけでは無責任だと思い、過去の教会総会の議事録をかなり前のものから順に読ませていただきました。

時期や状況は皆さんのほうがよく覚えておられることでしょうから、そこはぼかしておきます。しかし居住まいを正されたところがあります。それは自由討論の記録でした。どなたのご発言であるかは記されていませんでしたが、「牧師の働きの80パーセントは説教である」というご発言がありました。とても重いお言葉として受けとめました。

なぜ今このような話をしているのかと言えば、今日の箇所でパウロが挙げている「ユダヤ人の長所」は今のわたしたちの「何」を意味するかを具体的に例示する必要があると思うからです。それはたとえば「牧師にとっての説教」です。「キリスト者にとっての教会生活」です。それは祈りであり、賛美です。聖書に忠実に従って生きる堅実な生活であり、献身的な社会奉仕です。

説教や教会生活そのものについて、それを営むこと自体が悪いと言われてもわたしたちは困るだけです。しかし、パウロが言っているのが「ユダヤ人の長所」そのものが「ユダヤ人の短所」であるということだと私は指摘せざるをえません。「ユダヤ人」としての「営み」自体をやめるべきだと言っているのではありません。ここは理解が難しいところです。

「それならば、あなたは他人に教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と教えながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」(21~23節)と記されているのがそれです。

ここでパウロが極端なことを書いていると考えることは許されるでしょう。「教える」とか「説く」と言われているのは、説教者である私にとっては他人事ではありえません。しかし説教者全員が窃盗を働き、姦淫を犯し、教会の施設を破壊していると言われるのは、いくらなんでも言い過ぎです。

おそらくパウロ自身も、ここは極端なことを書いているという自覚を持っていただろうと私は信じます。しかし、パウロが言おうとしているのは、各論ではなく総論です。「あなたは他人に教えながら自分には教えないのか」という点です。自分の目の中の丸太を取り除くことをしないで、他人の目の中のおが屑を取り除こうとすることです。

そしてこれは決して、狭い意味での説教者だけに限定される問題にしてはならないことです。「聖書を読むこと」が「聖書を教えること」の大前提です。聖書を読むことはすべてのキリスト者が取り組んでいることであり、例外はありません。その意味でいえば、パウロの指摘は自分には全く無関係であると言える人は、教会にはひとりもいません。

今日の箇所でパウロが問題にしていることも、「聖書の教え方」の問題というよりは「聖書の読み方」の問題であるといえます。少なくとも事柄の順序は「教えること」よりも「読むこと」のほうが常に先です。逆の順序はありえません。

しかし、パウロがここで問うている「聖書の読み方」は、聖書に書かれていることについてのたとえば「歴史的・文献学的な知識の」正しさを問うているのではありません。パウロが問うているのは「あなたが教えているその聖書の御言葉を、他のだれよりも先に自分自身に当てはめていますか。そのうえで教えていますか」ということに尽きます。

そしてその場合の「自分自身への当てはめ」を考える際に、先ほど「後回しにする」とお約束した「外見上のユダヤ人」と「内面のユダヤ人」の区別の問題が関係します。聖書の御言葉を当てはめるべきは、わたしたちの「外見」ではなく「内面」であるということです。聖書の御言葉に外見的・形式的に従うだけなら、悪い意味の律法主義者と同じです。私たちの内面に、わたしたちの心の奥底に、聖書の御言葉をしっかり当てはめることが求められています。

そのことをしっかり行ったうえで教えられると、どのような教え方になるかを最後に申し上げます。聖書の言葉を自分に当てはめずに自分以外の人に当てはめて裁きの説教をすれば、もしかしたら説教者自身はスカッと爽やかな気分になれるかもしれません。「言ってやった」と。その説教者の個人的な支援者も同じかもしれません。「よくぞ言ってくださった」と。あるいは聖書に出てくる「悪役」を「これはあの人のことだ」と自分以外の人に当てはめるのも同じです。

しかし、真っ先に自分に当てはめたうえで聖書を教える人の言葉は、自分の心が痛くて辛くてたまらない状態で「この痛みをあの人にもこの人にも味わわせなければならないのか」と躊躇や葛藤を覚えながらのなんとなく歯切れの悪い説教になるかもしれません。それはもしかしたら、曖昧で優柔不断な説教です。肯定的に言い換えれば、説教者自身がクッションもしくは防波堤になっていて、人当たりの柔らかい説教です。

重要なことは、その聖書の言葉で説教者自身がどれほど傷ついているかです。人を慰める言葉になっているか、人を傷つけるだけの言葉になっているかです。家族に対しても、友人に対しても、わたしたちがふだん「キリスト者として」何を語っているかをよく吟味すべきです。

(2018年4月22日)