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| ジャン・カルヴァン(1509-1564) |
2017年10月9日月曜日
宗教改革500年
今日(2017年10月9日月曜日)はついに今年初めて宗教改革500年関連行事に参加した。会場は東京都内の某教会。テーマは宗教改革者たちの聖書観を扱うもので、メインはカルヴァンだった。私はやはりカルヴァンの話を聴くほうが落ち着く。
2017年10月8日日曜日
11月以降の主日は礼拝説教と礼拝出席に専念します
各位
11月以降の主日は礼拝説教と礼拝出席に専念します(結婚式は10月末で終了します)。新しい予定ができつつあります。説教のご依頼をいただきたくぜひお願いいたします。
2017年10月8日
日本基督教団教師 関口 康
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■新しい予定
11月12日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)主日礼拝
「キリストと共に生きる」(ヨハネによる福音書6章54~56節)
12月10日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)主日礼拝
「キリストも説教された」(ヨハネによる福音書7章14~16節)
12月24日(日)
日本基督教団上総大原教会(千葉県いすみ市)クリスマス礼拝
■未定の日曜日(説教のご依頼を承ります)
11月5日(日)
11月19日(日)
11月26日(日)
12月3日(日)
12月17日(日)
12月31日(日)
2018年1月以降、予定なし
2017年10月4日水曜日
国際基督教大学高等学校キリスト教講演会
2017年10月3日火曜日
還流
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| 記事とは関係ありません |
「ペトロの死に方」を指すという「年をとると両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ヨハネ21章18節)は、まだ一度も行ったことがなくて知らないところだから行きたくない、なのか、行ったことがあってよく知っているから行きたくない、なのかが気になる。
他の人であればどちらの可能性もありうるだろうが、ペトロの場合は後者かもしれない。「イエスの死に方」も「死に場所」もペトロは知っている。そこにいた人々の行為や声を覚えている。思い出すだけで寒気がする。あのときのあれが今度は自分の身に襲いかかることになるのかと考えるだけで足がすくむ。
あのときは自分が逃げる側だったが、今度はだれかに自分が逃げられる番かという思いがよぎると恐怖心が増す。仲間という仲間がすべて逃げ去り、自分だけ置き去りにされるのはどんな気持ちかと想像するだけで落ち込む。よく知っている場所や状況だからこそ「行きたくない」。しかし「連れて行かれる」。
「年をとると」そういうことになるというわけだ。ペトロひとりだけが年をとるわけでなく、すべての人が年をとる。ペトロ限定の特殊な話をしているわけでなく、すべての人に当てはまる普遍的な話をしている。「行きたくない」。しかし「連れて行かれる」。もういいオトナだろ、甘えるな、ということか。
ペトロが知っているのは「イエスの死に方」と「死に場所」だけではない。全体の流れを知っている。イエスはあのときこう言って、それが嫌われ憎まれる原因となって、その後こうなって、最後にああなった。イエスはペトロの反面教師だろうか。自分はあんなへまはしないと心に誓うものがあっただろうか。
そうではないだろう。イエスの死をへまだと言うなら、同じへまをペトロもする。イエスがたどった同じ流れをペトロもたどる。イエスと同じことを言い、同じように嫌われ憎まれ、その後も最後も同じになる。イエスの背中を見ていたときはその流れの最後の一歩手前まで一緒にいたが、耐えられずに逃げた。
しかし「年をとると行きたくないところへ連れて行かれる」。「死に方」や「死に場所」だけがイエスと同じだから「行きたくない」のではなく、途中の流れも同じ(でないと同じ最終地点に至らない)だから「行きたくない」。しかし「連れて行かれる」。かつて逃げ出した元の流れへと還流「させられる」。
それはペトロの勇気ではない。「年をとること」自体に勇気は要らない。努力も要らない。「行きたくない」のだから勇気はむしろない。自発性も主体性もない。他人のせい、運や星のせい、神のせいにますますしたがる。四の五の言う。当たり散らす。英雄性はない。しかし「連れて行かれる」。観念しろよ。
当時の人が何歳くらいまで生きたのかを私は知らない。しかし、「年をとると」の対象者の中に50代以上の人はすでに十分に入っていると思う。つまり私はその対象者であると自覚している。年寄りいじめだなどと受けとらないでほしい。「行きたくないところへ連れて行かれる」のは誰よりもまず私自身だ。
2017年10月1日日曜日
目白教会の主日礼拝に出席しました
2017年9月30日土曜日
神学に流行り廃れはない
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| 内容とは関係ありません |
個人や自分に関心がない神学がもしあるとしたら必ずしもそうでないかもしれないが、そうでない神学はおそらく必ず「今の私はなぜこうなのか」という問いから出発する。「今の世界がこうだから私はこうなのだ」という答えもあれば「今の世界がこうであるにもかかわらず私はこうだ」という答えもあろう。
しかし、それはなんら答えではないと感じる人は多い。謎は已まない。「ならば今の世界はなぜこうなのか」と問いはじめる。「政治が」「経済が」「教育が」と答え探しをしはじめる。それは決して無駄ではない。そのあたりをすべてスキップして「神が」「運が」「星が」と言い出さないほうが誠実である。
しかし人の関心は「神」なり「運」なり「星」なりに早晩たどり着く。そこから先が神学の出番であるわけではない。この認識が重要だと私は考えている。神学はもっと前の、いちばん最初の「今の私はなぜこうなのか」という問いからすでに始まっている。「なんでやねん」がすでに十分に神学の問いである。
そしてその「なんでやねん」は多くの場合、言い切りで終わる。「なんでやねん」という問いかけに対する答えの多くは、客席からのゲラゲラ笑いである。答えを知っているから笑っている人もいれば、自分も答えが分からないから笑っている人もいるだろう。しかし、ゲラゲラ笑い自体が答えではないだろう。
神学も同じだ。「なんでやねん」という問いの答えが神学ではなく、その問い自体が神学であり、その問いの多くは言い切りで終わる。神学が天文学のように仮説と実験を重ねて結論を導き出すことはありうる。しかし「人類はここまで解明できた」という話にはなりにくい。聖書学はそれに近いかもしれない。
そうではなく神学はむしろ、太古の昔から存在する多種多様な思想を、通時的にというより共時的に扱い、そのうちのどれが妥当かを主体的に選択し、責任的に決断することに重きを置く。どの思想は時代遅れでどの思想はそうでないというような見方も言い方もできないと思っている。神学に流行り廃れはない。
「三位一体論が流行してるんだよねえ」とか「売れ筋は贖罪論だぜい」とか「やっぱ聖霊論っしょ」とか、そういうトレンドは出版業界にはもしかしたらあるのかもしれないが、神学そのものの展開とは無関係だ。どれが古くてどれが新しいとかはない。新しいから良くて古いから悪いということもその逆もない。
三位一体の神学はどのゲートから入っても構わない
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| 記事とは関係ありません |
神が三位一体であるという教えで我々は、神の内部の(ad intra)三つの位格(御父、御子、御霊)の区別にとどまらず、神の外部の(ad extra)外見上は大きく異なる三つの経綸(創造、贖罪、聖化と完成)の区別をしたうえで、三つの働きはただおひとりの神によることを教えようとする。
神の内部の(ad intra)の位格と外部の(ad extra)の経綸は一対一対応ではない。御父は創造のみ、御子は贖罪のみ、御霊は聖化と完成のみを担当なさるのではない。御父も御子も御霊も、創造も贖罪も聖化と完成も担当なさる。外部の経綸は区別できない(sunt indivisa)。
人間が神を見る場合、内部(ad intra)の透視はできないので、外部(ad extra)の経綸を見て内部の各位格の関係性を類推するしかない。そして出発点は常に神を見ようとする自分自身でしかありえないので「聖化から」出発するしかない。聖化から贖罪そして創造へとさかのぼるしかない。
神の内部(ad intra)との関係についても、たとえ透視はできないとしても「私の内に宿る御霊」(inhabitatio Spiritus sancti)は私との明確な接触点を有する神だと言える。それゆえ出発点は「御霊から」になる。御霊から御子そして御父へとさかのぼることになる。
しかも聖化は御霊だけの働きではなく御父と御子の働きでもある。神認識の出発点を「御霊による聖化」だけに限定するのは不適切であるし、目標を「御父による創造」だけに限定するのも不適切である。しかし聖化から贖罪そして創造へ、御霊から御子そして御父へという「後ろからの」発想の順序は正しい。
それはいわば、結果から原因へとさかのぼる順序に近いと言える。「今の私はなぜこうなのか」という自分自身のありのままの存在に対する現実認識から出発して、そのいわば究極的な原因を探し求める思索の中で、神までたどり着く人もいれば、別の何かにたどり着く人もいる。これ以外の経路はたぶんない。
「贖罪論一点張りの神学」には私も批判的だが、「贖罪論は不要だ」と考えたことはいまだかつてない。どちらの選択肢も三位一体の神学には不可能である。三位一体の神学は「創造論も贖罪論も聖化論も終末論も大事である」と必ず語る。どのゲートから入っても構わない。全体を見て回るには何年もかかる。
2017年9月26日火曜日
ヘッペ『キリスト教倫理』オランダ語版(1882年)を入手しました
久々に古書を買った。注文して6日で届いた。ヘッペ『キリスト教倫理』フニンク訳オランダ語版(1882年)(中央)。発行者序によると本書は看過された手稿の没後出版。私のヘッペ蔵書は3冊目。左から『改革派教義学』『キリスト教倫理』『特にオランダの改革派教会における敬虔主義と神秘主義』。
ヘッペ(Heinrich Ludwig Julius Heppe)は1820年3月30日ヘッセン州カッセルに生まれ、1879年7月25日マールブルクで没したドイツの神学者、教会史学者。1844年マールブルク大学で博士号の学位を得た。1845年からカッセルの聖マルティン教会の牧師。
1850年マールブルク大学神学部助教授、1864年正教授。ヘッペの専攻分野は教義学とヘッセン教会史研究。マールブルク大学でヘッペはルーテル派の信条主義者フィルマー教授(August Friedrich Christian Vilmar [1800–1868])のけんか相手だった。
ヘッペが1861年に出版した『改革派教義学』(原題Die Dogmatik der evangelisch-reformierten Kirche)は、1935年にカール・バルトの巻頭言がついたビツァー編集版となり、そのビツァー版をトムソンが英訳して1950年に英国で出版された。
カール・バルトは、ゲッティンゲン大学教授だったときヘッペの『改革派教義学』(1861年)を読んで触発されたことが『教会教義学』執筆の足掛かりになった。ファン・ルーラーは、ヘッペ『改革派教義学』のビツァー編集版(1935年)をユトレヒト大学神学部の教義学講義の教科書として採用した。
19世紀のドイツ国内で「改革派教義学」を教えたヘッペが「ルーテル派の信条主義者フィルマー教授のけんか相手(アンタゴニスト)」だったという点は非難されるべきではない。ルーテル派の圧倒的優位のドイツの中で改革派(カルヴァン主義)の立場に立つ少数の人々を神学的に擁護していたに違いない。
そのドイツ人ヘッペが書き残して出版に至らなかった手稿『キリスト教倫理』を、オランダ改革派教会の著名な神学者J. H. フニンク(Johannes Hermanus Gunning [1858-1940])がオランダ語に訳して出版していたことを今日初めて知った。驚き、興奮している。
目次を見るとキリスト教倫理の歴史的概観に始まり、各論では結婚、家庭、国民としてどう生きるか、教会の信徒としてどう生きるかなどに踏み込んでいることが分かる。19世紀のドイツで改革派(カルヴァン主義)の神学者がそれらをどのように教えていたかを知ることができるようになったのはうれしい。
ヘッペ(Heinrich Ludwig Julius Heppe)は1820年3月30日ヘッセン州カッセルに生まれ、1879年7月25日マールブルクで没したドイツの神学者、教会史学者。1844年マールブルク大学で博士号の学位を得た。1845年からカッセルの聖マルティン教会の牧師。
1850年マールブルク大学神学部助教授、1864年正教授。ヘッペの専攻分野は教義学とヘッセン教会史研究。マールブルク大学でヘッペはルーテル派の信条主義者フィルマー教授(August Friedrich Christian Vilmar [1800–1868])のけんか相手だった。
ヘッペが1861年に出版した『改革派教義学』(原題Die Dogmatik der evangelisch-reformierten Kirche)は、1935年にカール・バルトの巻頭言がついたビツァー編集版となり、そのビツァー版をトムソンが英訳して1950年に英国で出版された。
カール・バルトは、ゲッティンゲン大学教授だったときヘッペの『改革派教義学』(1861年)を読んで触発されたことが『教会教義学』執筆の足掛かりになった。ファン・ルーラーは、ヘッペ『改革派教義学』のビツァー編集版(1935年)をユトレヒト大学神学部の教義学講義の教科書として採用した。
そのドイツ人ヘッペが書き残して出版に至らなかった手稿『キリスト教倫理』を、オランダ改革派教会の著名な神学者J. H. フニンク(Johannes Hermanus Gunning [1858-1940])がオランダ語に訳して出版していたことを今日初めて知った。驚き、興奮している。
目次を見るとキリスト教倫理の歴史的概観に始まり、各論では結婚、家庭、国民としてどう生きるか、教会の信徒としてどう生きるかなどに踏み込んでいることが分かる。19世紀のドイツで改革派(カルヴァン主義)の神学者がそれらをどのように教えていたかを知ることができるようになったのはうれしい。
2017年9月25日月曜日
関西学院大学理工学部で説教させていただきます
「ネットしかしていなかった」わけではない
| 記事とは関係ありません |
ネットに書けるのは公開可能なことだけだ。それが急速に拡散するので「書いたこと」ばかり目立つ。「それしかしていない人間」だと誤解されることもある。しかし実際は「書けないこと」のほうが多い。私もそうだ。教会や中会や大会のことは「書けなかった」。しかしすべての労力をそれらに注いでいた。
ただ、使用するメディアの新旧交代の過渡期ではあった。「手書きでないと牧師らしくない」「封書を受け取れば封書で、はがきを受け取ればはがきで返信すべきだ」という固定観念をもつ世代の圧倒的支配力のもとで、メールやブログやSNSを「仕事に」活用するという切り替えが始まりつつある頃だった。
しかも、私はずっと田舎の牧師だった。都会の教会との情報格差に苦しむ中でネットを始めた。今は都会にいるので情報には困らない。しかし自分さえよければいいとは思わない。田舎の教会の現実は30年前と大差ない。情報不足で苦しんでいる。私がネットから撤退できないと思っているのはそれが理由だ。
とはいえ、都会の教会が主催する講演会や演奏会などの案内をネットで知らされても、ジェットや新幹線でも使わないかぎり参加できるはずがない。そんなのはどうでもいいとは言わないが、知らされても困ることは現実に少なくない。そのような宣伝チラシの拡散より地方の教会が必要としている情報がある。
地方の教会が必要としている情報とは何であるかを特定するのは難しい。それぞれの意見があろう。私はそれを「中身のある話」だと考えてきた。それが説教であれ教理であれ神学であれ、中身がしっかり詰まった情報だ。チラシばかりが届いて「中身が知りたければお買い求めください」というだけでは困る。
しかし、そんなことを考えながらネットに力を入れているうちに、「電脳牧師」「パソコンいじってるだけ」「信徒の顔を見ているのか」と、見知らぬ人からネットで、あるいは他教会の人から面と向かって言われた。歯がゆくて仕方がなかったが黙るしかなかった。信念を持っていたので耐えることができた。
今は牧師がネットを使うのは当たり前の時代になり、私ごときよりはるかに多くの情報を発信しておられる方々が多くおられる。私ごときが「電脳牧師」などと呼ばわられる理由はもうない。自称したことは一度もないし、不愉快ですらある。謹んでご返上申し上げたい。ラベル貼りはいいかげんにしてほしい。
厳しい言葉で終わると「悲しいね」か「ひどいね」ボタンを押されてがっかりするので、しめの言葉はいつも肯定的でありたいと願っている。さて、それをどう書くかな。それが難しい。希望のメッセージを何か。どんなひどいことを言われても、最後は感謝と喜びを語るメッセージを。書いてきたつもりだが。
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