2017年8月23日水曜日

『ミニストリー』第34号「空想神学読本」に拙文が掲載されました

「次世代の教会をゲンキにする応援マガジン」として好評のキリスト新聞社の季刊雑誌『ミニストリー』第34号(2017年8月号)の連載記事「空想神学読本」に編集部よりご依頼いただいた私の文章が載りました。内容も装丁も素晴らしいDVD付き1500円(税別)の雑誌です。ぜひお読みください。

「空想神学読本」『ミニストリー』第34号(キリスト新聞社)
『ミニストリー』第34号(キリスト新聞社)

2017年8月22日火曜日

『福音と世界』9月号をお贈りいただきました

敬愛する広島大学の辻学教授(聖書学)から、連載記事をお持ちの雑誌『福音と世界』2017年9月号をお贈りいただきました。新教出版社の看板雑誌であり、内田樹氏や佐藤優氏の連載もあります。辻先生に心から感謝すると共に、ますますのご活躍とご健勝をお祈り申し上げます。ありがとうございます!

『福音と世界』2017年9月号(新教出版社)

2017年8月20日日曜日

悲しみには肯定的な意味がある(阿佐谷東教会)


コリントの信徒への手紙二7章8~10節

関口 康(日本基督教団教師)

「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」

阿佐谷東教会の皆さま、おはようございます。礼拝で説教させていただくのは、ちょうど1年ぶりです。今年もお招きいただき、心から感謝いたします。今日もどうかよろしくお願いいたします。

今日お話ししようと思って準備してきましたのは説教題のとおりです。「悲しみには肯定的な意味がある」という趣旨のことを使徒パウロが書いています。しかし、なぜこのテーマを阿佐谷東教会の皆さまにお話ししようと思ったかについて具体的な動機があるわけではありません。坂下道朗先生とはネット上のやりとりはありますが、お会いする機会がありません。ですから私は、貴教会の内部のことは全く存じません。ピントの外れた抽象的な話になってしまわないかを心配しているほどです。

しかし、言い方は乱暴かもしれませんが、わたしたちにとって「悲しみ」の問題はその規模や状況の大小の差こそあれ日常茶飯事であり、普遍的な問題です。いま悲しみの中になくても明日そうなるかもしれません。そのことを考えれば、わたしたちは常に悲しみと隣り合わせで生きている身であることを自覚しつつ、悲しみの日に備えて生きていかなければなりません。

しかし私は、たったいま自分で言ったばかりのことを次の瞬間に否定するようなことを言います。それは、今日の箇所に出てくる「悲しみ」は一般的な意味の「悲しみ」とは異なるものであるということです。その区別をパウロが今日の箇所にはっきり書いています。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(10節)。

ここでパウロは「神の御心に適った悲しみ」と「世の悲しみ」をはっきり区別しています。そして、パウロがその中に肯定的な意味を見出している「悲しみ」は前者(神の御心に適った悲しみ)のほうであって、後者(世の悲しみ)のほうではありません。「世の悲しみ」のほうは「死をもたらす」とあるとおり否定的な意味しかないし、そもそも意味はないとパウロは考えています。

ですから私もパウロと同じように考えたいと願っています。今日の説教題の「悲しみには肯定的な意味がある」の「悲しみ」も、すべての悲しみを指しているわけではなく、多くの悲しみの中に肯定的な意味を持つ悲しみがいくらか含まれているというような意味で理解していただきたいと願います。すべての悲しみに必ず肯定的な意味があるという意味ではありません。もしそういう誤解を招くだけの説教題だったとすればお詫びしなくてはならないし、付け替える必要があると思います。

しかし、そうは言いましても、パウロがしている二種類の悲しみ(?)の区別とその意味を正しく理解することは、わたしたちにとって非常に難しいことだと私は感じます。しかも、二種類の悲しみ(?)には当然のことながら共通点があります。それは「悲しみ」であるという点で両者は全く同じであるということです。

「悲しみ」は人の心の中に生まれる否定的な感情です。自分の存在や行為が否定され、生きる意味や望みを見失いそうになっている心の状態です。その点においては、「神の御心に適った悲しみ」であろうと「世の悲しみ」であろうと、少なくともそれをわたしたちが感じるときの主観的感覚は同じです。そして、私たちの心は体とダイレクトにつながっています。心の苦痛と体の苦痛は同じです。

あるいは、もしかしたら苦痛の度合いにおいては、前者(神の御心に適った悲しみ)のほうが後者(世の悲しみ)よりも強く激しく感じるかもしれません。なぜなら「神の御心に適った悲しみ」とは「神がもたらした悲しみ」を指しているからです。それは対人関係で生じた悲しみではなく、神との関係で生じた悲しみです。もっと言えば「神が私を悲しませた」ことを意味しています。そんなことに誰が堪えられるでしょうか。しかし、パウロが書いているのは明らかにそういう意味です。

しかも、難しい問題がまだ残っています。「神の御心に適った悲しみ」なるものの出どころは論理的に考えれば、当然「神」です。しかし、今日の箇所にパウロが書いているのは「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません」(8節)ということです。

これで分かるのは、私はたった今「神の御心に適った悲しみ」とは「神が私を悲しませた」ことを意味すると言ったばかりですが、パウロはそのように一方で言いながら、別の一方で、あなたがたを悲しませたのは私であるとも言っているということです。

どういうことでしょうか。パウロは神でしょうか。パウロがだれかを悲しませることと、神がだれかを悲しませることとは同じでしょうか。そんなことを言っていいのでしょうか。最も厳しい言い方をすれば、パウロは自分が何かやらかして相手を悲しませたことを都合よく神のせいにしているだけではないでしょうか。そのような批判を受けたときに、パウロはどう答えるのでしょうか。

そして、その問題もさることながら、ここで最も大切な問題は、パウロは何をしたのかということでしょう。「あの手紙によってあなたがたを悲しませた」と彼自身がはっきり書いています。つまり、パウロがだれかを悲しませることになった原因は彼自身が書いた手紙だったということです。パウロは何を書いたのでしょうか。その手紙はどこにあるのでしょうか。

いま皆さんに開いていただいているのはコリントの信徒への手紙二(第二の手紙)です。新約聖書に二つ収められているコリントの信徒への手紙には解釈上の難しい問題があります。聖書学者たちの意見によれば、パウロがコリント教会の人々に宛てて書いた手紙はもっと多くありました。その中で現在まで残っているのが新約聖書に収められた二つの手紙です。

しかし、このいわゆる第二の手紙はパウロがコリント教会に対して二番目に書いたものではありませんし、第一の手紙と第二の手紙の間に少なくとももう一つの、あるいは一つ以上の手紙が書かれました。また、この第二の手紙は一度にすべて書きおろされたものではなく、もともと何通かだった手紙が後で一つの手紙として編集された形跡があります。そして、そのいくつかの手紙の中に、いわゆる「涙の手紙」が含まれています。

しかも、そのいわゆる「涙の手紙」をわたしたちが読むことは可能であると言われています。実はいま私たちが開いている第二の手紙の10章から13章までが「涙の手紙」の一部であろうと聖書学者たちは考えています。10章から13章までを、ぜひおうちで読んでみていただきたいです。

はっきり言えば、かなり辛辣な言葉が記されています。明らかに感情的で、けんか腰です。皮肉と嫌味と攻撃性に満ち満ちています。これほどあからさまに攻撃的な手紙を送り付けておいて、この中にあなたがたへの愛情を読み取ってもらいたいというのは、求めすぎの感があるほどです。

もちろんパウロには相手に対する愛情はありました。しかし、だからこそ言わなければならないことがある、ここで自分が躊躇することは相手のためにならないと、彼を強い決心に駆り立てたものがありました。パウロとしては、もしこれで関係が終わるとしても、それはそれでやむをえないという覚悟で書いていると、私は思います。それほどの決定的な内容です。

もともとパウロはコリント教会の事実上の設立者でした。しかし、その後パウロはコリントを離れ、別の地で伝道を始めました。ところが、その後、コリント教会の中にいろいろな問題が発生し、混乱しはじめました。そこでパウロは第一の手紙をコリント教会に送りました。そして、その後パウロは自らコリント教会に足を運んで訪問したのです。

しかし、その訪問が失敗に終わりました。パウロが来たことに腹を立てた人々がパウロを名指して非難しはじめました。その人々はパウロが来ることで自分たちの居場所を失うことを恐れたのです。そういうわけで、パウロの二回目の訪問が問題の解決になるどころか、かえって火に油を注ぐ結果になりました。

それでパウロは強い決意をもって「涙の手紙」を送りました。その内容の一部が先ほど申し上げたとおり10章から13章までにあります。それは非常に激しい手紙でした。その手紙を読んだコリント教会の人々の多くは傷つき、そして反省しました。それを知ったパウロは、コリント教会に三度目の訪問をしようとしましたが、パウロが行く前にテモテから、コリント教会が悔い改めたという知らせを受けました。その知らせを聞いたパウロは喜び、私たちが手にしているこのいわゆる第二の手紙を書いたのです。そういう経緯であるとご理解ください。

このような背景があるということを理解しなければ、この箇所にパウロが書いていることの意味を理解することは全く不可能です。ここに書いていることだけを読めば、相手が悲しんだという事実があるのに「私は後悔しない」と言っている。サディストではないかと言われかねません。しかし、パウロはサディストではありません。しかし、どのように説明すれば理解していただけるでしょうか。

パウロがこの箇所で強調している「神の御心に適った悲しみ」は「取り消されることのない救いに通じる悔い改め」をもたらしたというただ一つの理由ゆえに、パウロは「悲しみ」に肯定的な意味を見出しています。その手紙を私が書いたからあなたがたは悔い改めたではないか。もし私があの手紙を書かなかったら、あなたがたはずっと変わらない調子で、教会の中で分裂し続け、問題は解決しなかっただろう。だけど、私の手紙で問題が解決したではないか。だから私は手紙を書いたことを後悔しないのだ。それがパウロの主張です。

しかし、私の今日の説教の最終的な結論は、だから私たちもパウロと同じようにしましょうということではなく、ちょうど正反対のことです。この箇所に記されていることはよくよく慎重に扱う必要があります。「ああなるほどそうか、どんなに厳しいことを言って相手を傷つけても、それによって相手が悔い改めるならば、そうするほうがいいのだ。厳しい言葉をどんどん言って、相手を傷つけ、悲しませましょう。パウロもそう言っているではないか」とわたしたちが考え、そのとおり実行することは極力避けるべきです。

それはなぜかといえば、先ほど申し上げたとおり「神の御心に適った悲しみ」と「世の悲しみ」は、どちらも「悲しみ」であることには変わりがないからです。それは、人間の心の中に起こるきわめて否定的な感情であり、生きる意味や望みが完全に絶たれてしまったかのように感じることさえある、痛みと苦しみを伴う感情です。そのような感情を相手の心に故意に引き起こすことについては、どれだけ慎重であっても慎重すぎることはありえません。

そしてもうひとつ理由を挙げるとすれば、これも先ほど申し上げたことですが、二種類の悲しみ(?)を厳密に区別できるようになるためには多くの時間がかかるからです。それは、長い年月をかけて教会生活を続け、聖書と教理を徹底的に学ばないかぎり決して理解できないでしょう。

どんなに厳しいことを言っても、それが悔い改めにつながるから悲しみには肯定的な意味があるというのは、信仰において成熟した人々の間だけで成り立つ議論です。未熟な人を相手にそういうことをしてはなりません。それは教会が壊れていく原因になります。

なぜなら、教会には必ず、成熟した人もいれば、そうでない人もいるからです。教会が「伝道する」とはそのようなことです。教会が信仰的に成熟した人たちだけの集まりになるなら、伝道していないのと同じです。教会はそういうところであってはならないのです。常に必ず未熟な人が共にいるのが教会です。

ですからわたしたちは、教会では、言いたいことがあってもできるだけ我慢しましょう。もし我慢できなくなったら、そこで大きく深呼吸をして言いたいことを飲み込むくらいでちょうどいいです。

「そういうふうに関口が言っていた」と坂下先生に報告しておいてください。よろしくお願いいたします。

(2017年8月20日、日本基督教団阿佐谷東教会 主日礼拝)

2017年8月18日金曜日

「日本のプロテスタント各教団の規模」と「各教団の思想的な左右」の関係について

イメージ図

これはあくまでもたとえだが、上も下も「日本のプロテスタント各教団の規模」と「各教団の思想的な左右」の関係を私が勝手に言いたがっているイメージ図。上だろうと思っている人が多い気がするが、実際は下である。右は右で、左は左でまとまれるのではないかと思われがちだが、現実はそうはいかない。

鋭い方はこのイメージ図だけでピンと来るものがおありだろうが、私見によれば、そもそも少なくとも日本のプロテスタント各教団はいわゆる「政党」と比較される存在ではなく、むしろ「行政区」(の住民)と比較されるべき存在である。各「行政区」(の住民)の中には当然「右」の人も「左」の人もいる。

私が勝手に描いたイメージ図の意図を別の角度から言い直せば、上の図は70年前からの30年後(1970年代)くらいまではかろうじて成立していたかもしれないが、今は全く成立しない。ほとんどもっぱら下の図に移行している。昔の記憶は通用しないので、大幅に更新される必要がある。

2017年8月17日木曜日

The Inori (Prayer) Festival 2017 in Okayama


Dear Ladies and Gentlemen,

I heard with big surprise that my beloved city Okayama will become the holy ground of prayer, soon.

It's a big news! Then I will recommend you to participate the event. Not only the persons at Okayama city, but also at more far places.

There is no doubt that the event is interesting. The place will be the Okayama Church, the United Church of Christ in Japan (UCCJ).

The Okayama Church is near from Tenmaya, the most famous, traditional and large department store in the most central of the Okayama city.

The admission is free. I also would like to join from Chiba. But I also heard from one of the chief organizer of the event that...

they are looking for the following persons.

- The cosplayers who can participate the event.

- The attendees of the talk live.

The talk live of the couple of the Buddhist professional Rakugo teller wife and the Christian professional magician husband.

- The Comiket's sellers.

- The advertisers and collaborators of the event.

Then let us cheer and join that by all means.

Especially the persons who have each histories in Okayama (I myself too). This will certainly be an opportunity to make Okayama famous.

I expect this big event even to be taken up in Okayama's newspaper and Television.

If we do not, who else will cheer it?

'If I do not, who else will do it?' This is the word of Denchu Hiragushi , the sculptor in Okayama.

August 17, 2017

Yasushi  Sekiguchi


「いの☆フェス2017」の開催地は「岡山」じゃ!




わしからも謹告するわ。

わしの大事な岡山がついに祈りの聖地になるらしーけーな。すげーじゃろ。

岡山の人だけじゃのーて遠くの人も行かれーよ。

もんげーおもしれーけーな。

場所は日本キリスト教団岡山教会じゃ。

天満屋の近くじゃが。岡山の真ん中のえーとこじゃ。入場無料じゃし。

わしも行きてーなー。

当日コスプレする人と、

「尼さん落語家とクリスチャン曲芸師のぶっちゃけ夫婦(めお)トーク」を聴きに来てくれる人と、

コミケに出品する人と、

宣伝してくれる人・団体がまだまだ足りんらしいけーな。

みんなで応援せんといけんが。岡山を有名にするチャンスじゃが。

岡山の新聞とかテレビとかで取り上げてくれんかなー。

岡山の人が応援せんかったら誰が応援するんで。

「わしがやらねば誰がやる」じゃが。

岡山の人ならだれでも知っとる言葉じゃろ。

(この投稿、爆いいね、爆シェア、爆リツイート歓迎じゃが)


2017年8月13日日曜日

みんなで分け合う喜び(千葉若葉教会)


ヨハネによる福音書6章9~11節

関口 康(日本基督教団牧師)

「『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』イエスは、『人々を座らせなさい』と言われた。そこにはたくさんの草が生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」

今日もヨハネによる福音書を学びます。先ほど朗読していただきました箇所に描かれているのは、イエスさまが御自身のもとに集まった5千人の人々に食事をふるまったという出来事です。このことは新約聖書の4つの福音書すべてに描かれています。それぞれの福音書に記されている内容には少しずつ違いがないとは言えませんが、大きな差はありません。

出来事の流れは次のとおりです。発端は、イエスさまがガリラヤ湖の向こう岸に渡られたことです(1節)。すると、大勢の群衆がイエスさまの後を追いました(2節)。するとイエスさまは山に登られ、弟子たちと一緒にそこにお座りになりました(3節)。そしてイエスさまは、御自身のもとに集まった大勢の群衆の食事についての心配をなさいました。

「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われた」(5節)と書いてあるとおりです。しかし、すぐに続けて、そのようにイエスさまがおっしゃったのは「フィリポを試みるため」(6節)であったとも書かれています。「試みる」とは、テストすることです。イエス先生が学生フィリポに試験問題をお出しになったのです。

そのときのフィリポの答えは次のようなものでした。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(7節)。

「デナリオン」は当時のローマの銀貨の単位です。1デナリオンが当時の労働者の1日分の賃金に当たります。それが今のわたしたちにとってのいくら分かを言うのは難しいことです。労働者の賃金にばらつきがありますので。

しかし、話を単純にするために、1デナリオンを1万円と考えることは不可能ではないかもしれません。それで言えば、フィリポがイエスさまに答えた「二百デナリオン分のパン」は200万円分です。あるいは、1デナリオンを5千円とすれば100万円分です。どちらにしても高額です。

しかし、金額の問題もさることながら、ここでわたしたちが考えなければならないのは、フィリポが返した答えの意味です。それが仮に、今の200万円分のパンに相当するとしても、100万円分のパンに相当するとしても、それだけでは足りないとフィリポがイエスさまに答えたとき、それだけのパンを、それを買うためのお金を、はい分かりました、これからわたしたちが全力で準備いたします、という意味で答えているかどうかが問題です。

全くそうではありませんでした。フィリポは、わたしたちにそれだけのパンやお金を準備する力はありませんと言いたかっただけです。それはわたしたちには不可能です、そのような無理なことを、あなたはわたしたちにご命令なさるおつもりなのですかと、イエスさまに不平を述べているだけです。それを言いたいがために「二百デナリオンのパン」という数字を言っているだけです。

このフィリポの答えをイエスさまはどのようにお聞きになったでしょうか。それが、わたしたちがよく考えるべきことです。5千人に二百デナリオン分のパンが必要だというのは、あなたの言うとおりであると、イエスさまはフィリポをおほめになったでしょうか。

二百デナリオンが200万円なら1人400円、100万円なら1人200円です。コンビニに行けば、それくらいのパンやお弁当が売っている。現実的な答えを考えてくれたフィリポよ、よくやったと喜んでくださったでしょうか。どうやらそうではなさそうです。雲行きは怪しいです。

なぜなら、フィリポの答えは大勢の群衆の食事の心配をなさったイエスさまのお気持ちに同意し、なんとかしてこの事態を打開したいと思いますという意思表示ではないからです。はなからあきらめ、そんなことは無理です、不可能ですと、ただ言いたいがために言っているだけだからです。なんとかしようという姿勢が少しも見られません。イエスさまが了解してくださるはずはありません。

そのとき、イエスさまの弟子のひとりでシモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスさまに次のように言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(9節)。

アンデレはフィリポに助け舟を出しているのかもしれません。いくらなんでもフィリポの答え方ではまずい。イエスさまの顔色が悪い。このままだと弟子たちみんながお叱りを受ける。もう少しましな答えを考えなくてはと、大慌てだったかもしれません。

するとそのとき、ちょうどいいところに一人の少年が見つかった。この少年は5つのパンと2匹の魚を持っている。我々の側に全く手持ちがないわけではない。完全にゼロではない。しかし、いくらなんでもこれだけで5千人の食事をどうにかするのは無理であると、アンデレも言おうとしています。

つまり、アンデレの答えもフィリポの答えと結論が同じであるということです。アンデレが少年を見つけ、5つのパンと2匹の魚があるということをイエスさまに知らせたのは、「これだけありました。これでなんとかしましょう」とイエスさまに提案するためではなく、「これだけしかないのであきらめましょう」とイエスさまを説得するための具体的なデータを探してきただけでした。

皆さんはどう思われますでしょうか。つまらない話だとお思いになりませんか。フィリポにしてもアンデレにしても、共通しているのは、危機的な状況に直面したときに「これだけあります。これでなんとかしましょう」と前向きな提案をするのではなく、「これしかありません。だからやめましょう、あきらめましょう」と後ろ向きの提案しかできない人々であったということです。

たとえばの話ですが、もしみなさんが会社の人事部に配属されて新入社員の面接を担当することになったとき、最初から最後まで後ろ向きのことしか言わない、否定的なことしか言わない人を、それでも採用しようと思いますでしょうか。「無理です、無理です、やめましょう」としか言わない人を。

何もイエスさまは、現実離れした大言壮語を弟子たちに言わせようとしたのではないと思われます。しかし、はなからあきらめていて、どこかしら投げやりで、どうせ無理だから、我々にどうすることもできないと一方的に言い張るだけで、それ以上のことを考えるのをやめてしまう。どれほど現実のニードがあっても、わたしたちにその責任を引き受けるのは不可能であると、ひたすら逃げ腰でいる。そのような弟子たちの姿にイエスさまはがっかりなさったのではないでしょうか。溜め息しか出ない。二の句が継げない。そういうお気持ちになられたのではないでしょうか。

実はここで私はもう一つ気になる点があるのですが、それは後回しにします。特にこのアンデレの答えの中に気になることがあります。腹が立つほどに。しかし、それは後で申し上げます。

さて、それでイエスさまがお命じになったのは「人々を座らせなさい」ということでした(10節)。「そこには草がたくさん生えていた」(10節)と記されています。

「草」についてはマタイによる福音書にもマルコによる福音書にも記されていますが、ルカによる福音書には記されていません。まさかとは思いますが、皆さんの中に「ああそうか、この草をむしって食べたのか、そういう話だったのか」と連想なさる方がおられないことを私は願います。

そういう話ではありません。固い地べたの上ではなく柔らかい草の上に座るように群衆に呼びかけたのはイエスさまの優しい配慮だったと考えるほうがよろしいのではないでしょうか。

そしてイエスさまがお始めになったのが、少年が持っていた5つのパンと2匹の魚を、5千人の人々に「分け与える」ことでした。「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいぶんだけ分け与えられた」(11節)と記されています。他の福音書にも基本的に全く同じことが記されています。すべて確認します。

マタイによる福音書の記述は次のとおり。「そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた」(マタイ14章19節)。

マルコによる福音書の記述は次のとおり。「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された」(マルコ6章41節)。

ルカによる福音書の記述は次のとおり。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」(ルカ9章16節)。

今確認したことで分かるのは、すべての福音書に共通しているのは、イエスさまが「五つのパンと二匹の魚」を「5千人に分け与えた」ということです。それ以上のことは記されていません。「五つのパンが五千個に増えました」とも「二匹の魚が二千匹に増えました」とも記されていません。

しかし考えてみれば、「分ける」ということはある意味でそういうことかもしれません。5つのパンを5千個にすることは物理的に可能です。一つのパンを千個に分けるのは難しいことではありません。そこに超自然的な力も奇跡の要素も必要ありません。ただ「分ける」だけであれば。

そんなばかな、と思われるかもしれません。すぐあとに「人々が満腹した」(12節)ことや、パン屑で12の籠がいっぱいになったと記されていること(13節)はどうなるのかと、きっとお思いになるでしょう。

私はそのことを否定したいのではありません。もちろんこの出来事はイエスさまが行われた奇跡として確かに記されています。しかし、聖書に記されているのは、イエスさまはがなさったのは「五つのパンと二匹の魚」を「五千人に分け与えた」ことだけです。それは物理的に可能なことです。

いま私が持っているわけではありませんが、ここに5千円札があることを想像してみてください。この5千円札を5千人に分けることになりました。それは可能です。ただし、ハサミで5千分の1に切って分けるのは、ばかげています。1人1円ずつにして分けるでしょう。ただそれだけです。なんら奇跡の要素はありません。

お金と食べ物は違うと思われるのは当然です。私も一緒くたに考えているわけではありません。ただ、この出来事を理解するためのヒントにはなると思っています。

この出来事に謎の要素はいくつかあります。一つは、5千人もいた人の中で食べ物を持っていたのが一人の少年だけだったということがありうるだろうかということです。もう一つは、少年が持っていた魚は、生だったのか、それともすでに調理済みだったのか、ということです。もし生魚だったら、どうやって分けたのかが気になります。刺身でしょうか。包丁があったのでしょうか。

さてそろそろ、先ほど私が、アンデレの答えの中に腹が立つほど気になることがあると言ったことを申し上げます。アンデレは「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます」(9節)と言いました。

私が気になるのは、アンデレはこの「五つのパンと二匹の魚」をどうするつもりだったのかということです。食事はすべて自己責任だ、我々の責任ではないと言い放って、5千人の群衆は手ぶらで帰らせて、「五つのパンと二匹の魚」をイエスさまと弟子たちだけで全部せしめるつもりだったのでしょうか。その表現しがたい狡猾さ、ケチくささ、特権意識が、私には気になります。

もし仮に弟子たちがそうしたとしても、群衆にはバレなかったかもしれません。しかしイエスさまがそれをお許しになったでしょうか。「5千円しかない。だから分けられない」と言い張って、5千円を独り占めするか、それとも1円ずつにして全員に分けるか。イエスさまならどちらをお選びになるでしょうか。どちらが「皆の満足」になるでしょうか。

しかし、この箇所についての説教や解説を私は何度となく聴いてきましたが、だいたいいつも奇跡の話で終わってしまい、「分け合うこと」の意味を教える話になりません。それが私にとっていちばん謎です。

人のお腹は不思議なものです。1日2日食べなくても平気なときもありますし、のど元まで食べても満足できないときもあります。「満腹」にせよ「満足」にせよ、人の心の問題と結びついているからです。

「これしかない」からと言って分け合うことをやめ、特定の人々だけがせしめてしまうのがいちばんよくないことです。その問題を、教会こそがよく考える必要があります。

(2017年8月13日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会 主日礼拝)






2017年8月6日日曜日

聖書はキリストを証しする(千葉若葉教会)


ヨハネによる福音書5章39~40節

関口 康(日本基督教団牧師)

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」

今日もヨハネによる福音書を開いていただきました。今日の箇所に記されているのは、イエスさま御自身の言葉です。ただし、他の福音書には出てきそうにない、ヨハネによる福音書独特の雰囲気を持つ言葉であると感じられます。

しかし、本当にこういうことをイエスさまがおっしゃったのかという問題には触れないでおきます。どのみち水かけ論になりますので。はっきり言えるのは、ヨハネによる福音書はこれをイエスさまの言葉として記しているということです。

内容的にわたしたちにとって興味深いことが記されているのは間違いありません。ここで問われている根本問題は「聖書の正しい読み方は何か」であり、そしてまた同時に「そもそも聖書とは何か」ということです。

わたしたちは最低でも毎週日曜日には聖書を開いて読んでいます。日曜日も読まないというのではさすがに困ります。もちろん、日曜日だけでは足りない、毎日読まなければならないとお考えの方もおられるでしょう。

しかし、どうあるべきだというような言い方はしないでおきます。プレッシャーを感じる人が必ずいますので。それぞれ長年続けてきた読み方を守っていけばいいことです。

そのことよりもむしろよく考えなければならない問題は、それがまさに「聖書の正しい読み方は何か」ということであり、そしてまた「そもそも聖書とは何か」という問題です。

みなさんはパソコンをお使いになるでしょうか。機械がてんで苦手だという方もおられるでしょう。私はパソコンでもなんでも「取扱説明書」を全く読まない人間です。そんなものを読まなくてもなんでもすぐに使えるという意味ではありません。むしろ全く使えません。すべては手探りです。だから最初は失敗だらけです。それでも使っているうちにだんだん分かってきます。

私の場合は「取扱説明書」を読むのが面倒くさいだけです。だから無駄な回り道をしてしまいます。しかし、回り道などしている余裕がない方は最短コースを選ぶほうがいいでしょう。そういう方々のために「取扱説明書」があります。

今申し上げているのは、聖書にも「取扱説明書」があるということです。それが今日の箇所であるということです。

わたしたちは聖書をどのように読んでも構いません。聖書はキリスト教書店だけでなく一般の書店で買えます。インターネットでも買えます。だれでもどこでも手にすることができる本の読み方を規制することはできません。しかし、聖書そのものが「聖書の読み方」を教えています。聖書の「取扱説明書」が聖書の中に記されています。それがわたしたちの助けになります。

ここに記されているのは3つの文章です。順を追って説明します。第一の文章は、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している」(39節)です。

訳はこれで問題はありませんが、問題は意味です。「聖書の中に永遠の命がある」とはどういうことでしょうか。おそらく「聖書という中に永遠の命を得るための方法が記されているとあなたがたは考えている」という意味です。

ここではっきり申し上げておきたいのは、これは聖書についての正しい理解であるということです。聖書の中には「永遠の命」を得るための方法が確かに記されています。少しも間違っていません。

しかし、ここで言われているのが「聖書の中に永遠の命を得るための方法が記されているとあなたたちは考えている」ので「あなたがたは聖書を研究している」ということです。こういうふうに言われますと、それはいけないことなのでしょうか、間違っているのでしょうかと聞き返したくなります。しかし、決して間違っていません。これで十分、正しい聖書理解であり、正しい聖書の読み方です。

しかし、まだ気になる方がおられるかもしれません。ひょっとしてこの箇所で「あなたたちは聖書を研究している」と言われている、この「研究」が問題ではないかとお考えになるかもしれません。しかし、結論を先に言えば、「研究」そのものは問題ではありません。少しも間違っていません。

ここで「研究」と訳されているギリシア語の言葉は、新約聖書の中で多く用いられている言葉ではありません。この言葉が用いられている最も有名な箇所は、使徒パウロのローマの信徒への手紙8章27節です。「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます」。この中に出てくる「見抜く」が今日の箇所の「研究する」と同じ言葉です。

これで分かるのは、今日の箇所で「聖書を研究する」と言われているのは決して悪い意味ではないということです。聖書の意味を深く考え、洞察することです。それは、聖書の中に記された神の御心は何かを「見抜く」ことです。それが悪いということはありません。

「聖書は研究するものではない」と考える人は、教会の中に決して少なくありません。「研究する」と言われるとどうしても学校を思い出すことになります。しかし、教会は学校ではない。聖書は研究するものではなく信じるものである。そう言いたくなる気持ちは私も分かります。

日本の教会でたいてい水曜日か木曜日あたりに行われることが多い「祈祷会」を「聖書研究祈祷会」とか「聖書研究会」と名づけている教会があります。それは間違っている、聖書は研究するものではない、と言われることがあるのですが、間違っていません。教会も聖書を研究しますし、研究してもいいのです。「聖書研究」自体は問題ではありません。

しかし、あらかじめ申し上げておきますが、今日の説教の最後にもう一度この問題に戻ってきます。それは「聖書研究」には限界があるという問題です。それは最後に触れます。今申し上げられるのは、第一の文章に記されていることの中に間違っている部分はないということです。すべて正しいことが言われています。

しかし、第二の文章は「ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(39節)となっています。ここで「ところが」という否定的な接続詞が出てくるので第一の文章を否定しようとしているに違いないと、つい反応してしまいますが、否定ではありません。原文もbutではなくandの意味を持つギリシア語が用いられています。「しかし」ではなく「そして」です。

しかしそれでは、第二の文章の意味はどういうことになるのでしょうか。それをよく考える必要があります。「聖書はわたしについて証しをするものだ」の「わたし」はイエス・キリスト御自身です。そして「証しをする」とは「証言する」ことです。これまでのヨハネによる福音書の学びの中で2回「しるし」の話が出てきました。「しるし」と「証し」は言葉も意味も違いますが、内容的に重なり合うところが多くあります。

しるしの話で用いたたとえを繰り返します。空を見ると、黒い雲が立ち込めている。その雲を見て、まもなく雨が降ることを知る。その場合の「雲」は「雨」のしるしです。雲それ自体は雨ではなく、雨を指し示すものです。

それと「証し」が似ています。聖書はイエス・キリストについて証しをする。それは聖書そのものはイエスさま御自身ではないという意味にもなります。聖書そのものは救い主ではなく神でもない。聖書はあくまでも救い主を指し示し、神を指し示す存在にすぎない。それが「聖書はわたしについて証しをするものだ」と言われていることの意味です。

わたしたちがそんなことをすることはありえませんが、もし聖書そのものが救い主そのものであり、神そのものであるとすれば、わたしたちは聖書そのものを拝み、聖書そのものを信じ、聖書そのものに向かって祈るというようなことをしなくてはならなくなります。しかし、そんなことをわたしたちはしません。

今申し上げたことは脱線です。大事なことは、聖書がイエス・キリストを指し示す書物であり、その意味で「キリスト証言」の書物であるということを第二の文章が明言していることです。しかしそれは第一の文章で言われている「聖書の中に永遠の命があると考えて聖書を研究すること」と矛盾することなのかというと全くそうではありません。矛盾も対立もありません。

ここで言われていることの意味は、聖書に記されている「永遠の命を得るための方法」と、聖書が指し示す「イエス・キリスト」を知ることは同じであるということです。一方に「永遠の命」があり、他方に「イエス・キリスト」がおられるので、聖書の読者はどちらか一方を選ばなければならないということではなく、二つのことは一つであると言っているのです。

これで第三の文章の意味ははっきりお分かりになるでしょう。第三の文章は「それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(40節)です。

「永遠の命を得る方法を知ること」と「イエス・キリストを知ること」という二つのことは一つのことなのに、まるでそれが二つのままであるかのように思っている。あれかこれかの二者択一を迫られているかのように思い込んでいる。その認識は間違っていると、イエスさまはおっしゃっているのです。

そして、聖書を研究する人々が「わたしのところへ来ようとしない」のはどういうわけなのだとイエスさま御自身がおっしゃっています。イエスさまは腹を立てておられるのではありません。強いて言えば、残念がっておられます。もったいないと思っておられます。そして、早く来てほしいと首を長くして待っておられます。そんなふうにとらえるほうがよさそうです。

そして、ここで「後でお話しします」と申し上げた問題に戻ることになります。「聖書を研究すること」そのものは間違っていませんが、限界があると申しました。

それは、「研究」だけであればすべて自分ひとりでできてしまうことです。「聖書を研究すること」は「イエス・キリストのもとへ行くこと」と同じではありません。自分の部屋に引きこもり、本を読み、想像力を働かせ、自分なりの結論を出して納得することはできます。しかしそれは「イエス・キリストのもとへ行くこと」とは違います。

私にとっては屈辱的な話ですが、私は子どもの頃から肥満体で、人生で一度も痩せていたことがありません。それで、子どもの頃からスポーツが苦手でした。その代わり本はよく読みました。母や伯母が教えてくれたことですが、私の記憶にない2歳くらいの頃から私はじっと黙って一人で本を読んでいるタイプだったそうです。

そして私は、スポーツが苦手だった代わりに、スポーツについて書かれている本を読むのが好きでした。「野球について」、「サッカーについて」、「卓球について」というような本を。

しかし、それは野球そのもの、サッカーそのもの、卓球そのものをプレイすることとは違います。頭の中でただ想像しているだけです。王貞治選手の一本足打法とか、サッカーのルールとか、卓球のラケットのラバーの張り方とか、興味津々でした。しかし、自分でそれをやったことはありません。

聖書も同じであると言いたいのです。聖書を研究すること自体がいけないわけではありません。しかし、そのこととイエス・キリストとの生きた交わりの中に入ることは根本的に違います。

イエス・キリストとの生きた交わりに入るためにはどうしたらいいのでしょうか。途中の議論を省いて結論だけ言えば、イエス・キリストの体なる教会の交わりに入ることです。教会の活動に参加し、教会の仲間と共にイエス・キリストの御心を行うことです。

それが「永遠の命を得ること」とどのように関係しているのかについてお話しする時間は、今日はもうありません。しかし、教会は聖書を研究するだけではなく、聖書に記された神の御心を実践し、実現していくためにあると申し上げておきます。それは神と隣人を心から愛し、互いに助け合うことを意味します。それが「永遠の命」に至る道です。

(2017年8月6日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)

2017年8月5日土曜日

牧師の転任と世代の関係

牧師の転任の頻度と世代は関係がある。戦後日本にキリスト教ブームが起こった。ピークは1950年代。その頃作られた教会の牧師になった人は初代牧師でもあり、同じ教会に長くとどまる人がいた。しかし当時30代だった人が仮に40年同じ教会にいたとしても、1990年代には交代を余儀なくされた。

その1990年に私は牧師になった。当時25歳。1990年代以降、どこの教会も牧師交代と教会堂・牧師館の改築・新築ブーム。それでどこの教会も混乱ブーム。それを若い牧師たちの力不足のせいにされたりして。そのあたりの事情との関係で私と同世代の牧師は転任の頻度が高い。私は平均的なほうだ。

しかし、ある意味もう慣れたし、ある意味この状況を楽しんでもいる。ネットがなかったころは、教会の混乱は若い牧師の力不足のせいだなどと明に暗に断じられたりすると凹んで孤立感を深めたものだが、今は違う。同じ境遇の者たち同士で励まし合うことができる。理解者、協力者がいれば、心は折れない。

私は同世代で心が折れそうになっている牧師たちに「あと5年耐えようよ」とよく言っている。理由は書けない。あと5年でかなり変わる。良く変わるか悪く変わるかは分からないし言えない。言えるのは「苦難→忍耐→練達」を経た先に「希望」があるということだ。逆算すれば「今」が大事だということだ。

2017年8月3日木曜日

神学はラベリングではない

ウェスレー研究は実用性高いですよ。日本国内に多くあるいわゆるメソジスト系やウェスレー・アルミニウス系の教会は、ウェスレー本人をもっとお読みになるべきだと思うのに、そちらの方向にあまり行かれていないように見えます。学会があるのは存じていますし、メンバーの中に親しい方々が数名います。

それこそ、ウェスレーの本も、メソジスト教会の歴史も知らないでWikipediaか何かで即席の知識を手に入れただけの部外者然とした人たちがウェスレーについてああだこうだと決めつけるようなことを言ってくるときが、一次文献をちゃんとやってる人たちの出番ですよ。実用性ものすごくあります。

Wikipediaに関しては両面あると思いますけどね。ガチの専門家が追従を許さないほど異様に詳しく書いていて全部読む気を失わせるようなのもありますね。他方全くお話にならないほどシロウトの作文のようなのもある。

まーまー、そんなに結論を急がないでいいですよ。ウェスレー思想の現代的意義は、ある意味で後回しでいいんじゃないですか。それより18世紀当時のコンテクストの中でウェスレーが何を考え、何を言ったかを精密に解明していくほうが。そうすれば聞く耳のある人たちは聞いて理解してくれますよ。ね。

ウェスレーとメソジスト教会の存在は、二千年のキリスト教史の中で脇道のエピソードなどでは決してなく、ど真ん中の本流ですよ。いわゆる「メインライン」です。無視できるわけがありません。まさに大船ですので、どっしり構えて一次文献をコツコツ読んでいくことあるのみですよ。ね。

そういうコツコツやる研究者と成果を待ち望んでいる人は潜在的に日本の教会にたくさんいると思います。私は直接かかわっていませんが、私もメンバー(いちおう書記)のアジア・カルヴァン学会日本支部の方々が、カルヴァン説教集をフランス語版からコツコツ訳して出版しています。そういうのが大事です。

カルヴァンも同じ目に遭うんですよ。1ページもお読みになっていないのではと感じられる方々が、文科省検定教科書『倫理』の数行の文章か、かろうじてヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』くらいまでの知識でカルヴァンの悪口を言ったりする。言葉を失うことしばしばです。

べつに誰が何を言っても構わないんですけどね。言論の自由はある。肌感覚レベルの違和感や拒絶感を持つ人がいるのも尊重されるべきだと私は思う。不可侵の教祖のような扱いをするのはかえってまずい。ただ、批判するならテキストを読んでからにしましょう。そういう当たり前のことを私は思うだけです。

反応ありがとうございます。私が書いたのは、そんな大げさなことではなく、テキストを読みもしないで、どこかで聞いたうわさ話のような、根拠にもならないような根拠で、判で押したような批判をする軽率な人が多すぎるので困ったものだと言っているだけです。でも、おっしゃることの意味は分かります。

和魂洋才ですか。大木先生と古屋先生の日本の神学あたりから出発した議論ですよね。懐かしいです。私は30年前から耳タコで聞かされてきた話です。

相手のテキストを読まないで批判するというのは、たとえていえば、カナダに行ったことがない人が、カナダについての薄っぺらな旅行ガイドブック程度の知識で、世界地図でカナダを指さしながら「カナダとはこういう国である」と論じちゃってるようなものですよ。現地の人からすれば「アホか」ですよね。

神学をやる人たちの中にそういう大げさで大ざっぱな議論する人がいるんですよ。なので、神学を知らない人たちは「神学ってあんな雑なこと言っても許されるんだ。くだらない」と思ってるだろうし、アホらしくて近づかない人多いでしょうね。でも違いますよ。もっとディティールにこだわるのが神学です。

たとえば、無教会の方々がサクラメントを否定する。外部の人が「それはけしからん」の一言で切って捨てることは簡単です。ですが、無教会の方々の言い分がある。その中へと深く分け入って、無教会の方々の側に立って悩みぬくのが本来の神学です。単純な三段論法で軽々しく批判なんかできないんですよ。

そもそも神学は教会の日々の伝道と牧会から生まれたものです。今や似ても似つかぬ大げさで大ざっぱなヘリクツに成り下がっているかもしれませんが。伝道と牧会にとって重要なことは、相手の心と立場に寄り添うことです。「あなたは間違っている。私が正解を教えてあげる」というスタンスの正反対です。

私が現代のいわゆる「批判的な」聖書学が素晴らしいと思っているのは、過去のある時代の聖書の読み方に基づいて成立した教会の教義や教理「に」聖書「を」従わせることをせず、「その聖書の読み方が間違っている」と指摘することで教義や教理そのものを根本から問い直す視座を持っておられるからです。

とにかく私が言いたいのは、テキストを深く読むことがすべての学問の始まりであるのと同様に、神学も全く同じだということです。だから私は、ウェスレーであれ、ファン・ルーラーであれ、ひとりの神学者のテキストをトータルに読む作業が大事だと思っています。つまみ食いでなく、いいとこどりでなく。

私の意図が伝わっていないようですね。私が嫌がっているのは、まさに今お書きになったような、「はいこれは中世カトリック。はいこれは近代主義。はいこれは宗教改革の立場」というような三段論法で問題を単純化して分かった気になることです。世界地図でカナダを見るような視点だと言っているのです。

「宗教改革」と一言で言っても、改革者ひとりひとりの言っていることは違うし、その中のひとりでも時期や状況によって思想や立場が変化していたりするわけでしょう。「これが宗教改革の立場です」だとか、なんでそんな雑なことを大胆に言ってのけることができるのか分からないと思うことがありますよ。

そんなのは神学でもなんでもなくて、ただのラベリングなんですよ。レッテル貼り。それで相手を「理解」したことには全くならないし、「分析」すらできていません。むしろ偏見や差別を助長するだけです。即興のディベートゲームには瞬間的に勝利できるかもしれませんが、それで誰も幸せにはなりません。

厳しいと言っていただけて光栄です。私はツイッターで議論しているつもりはありません。無教会ガーとか、宗教改革ガーとか決めつけるようなことをお書きになるので、いちいち不愉快に思っているだけです。お目にかかったことのない方ですので「忠告」ではありませんよ、そんな責任は私には皆無です。

私は「機嫌」など少しも損ねていません。私には無教会の親友もいるし、カトリックの親友もいるし、聖書学者の親友もいます。その私の親友たちを、あなたの粗雑な言葉で傷つけられることに耐えがたいものを感じているだけです。「いちいち不愉快に思っている」とはそういう意味です。もういいですかね。

(追記)

以上の趣旨は「万国の牧師よ勉強せよ」ということではない。「よそさまの教派・教団のことについて軽々しい口を叩くなよ」と、軽々しい口を叩くクセがあるとおぼしき人に向かって個人的に文句を言っているにすぎない。そこまで言うならその教派・教団の「内部の論理」に寄り添って考えたうえで言えと。

よく知りもしない人たちのことを外部から論評すべきでないと言っている。どこの教派・教団でも、無教会でも、それぞれの内部に葛藤があり、苦しみ、涙を流しながら危機と向き合い、未来を切り開こうとがんばっている。そんなの知るかと言わんばかりのスタンスで、外からガタガタ言うなと、言っている。