2017年8月6日日曜日
聖書はキリストを証しする(千葉若葉教会)
ヨハネによる福音書5章39~40節
関口 康(日本基督教団牧師)
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」
今日もヨハネによる福音書を開いていただきました。今日の箇所に記されているのは、イエスさま御自身の言葉です。ただし、他の福音書には出てきそうにない、ヨハネによる福音書独特の雰囲気を持つ言葉であると感じられます。
しかし、本当にこういうことをイエスさまがおっしゃったのかという問題には触れないでおきます。どのみち水かけ論になりますので。はっきり言えるのは、ヨハネによる福音書はこれをイエスさまの言葉として記しているということです。
内容的にわたしたちにとって興味深いことが記されているのは間違いありません。ここで問われている根本問題は「聖書の正しい読み方は何か」であり、そしてまた同時に「そもそも聖書とは何か」ということです。
わたしたちは最低でも毎週日曜日には聖書を開いて読んでいます。日曜日も読まないというのではさすがに困ります。もちろん、日曜日だけでは足りない、毎日読まなければならないとお考えの方もおられるでしょう。
しかし、どうあるべきだというような言い方はしないでおきます。プレッシャーを感じる人が必ずいますので。それぞれ長年続けてきた読み方を守っていけばいいことです。
そのことよりもむしろよく考えなければならない問題は、それがまさに「聖書の正しい読み方は何か」ということであり、そしてまた「そもそも聖書とは何か」という問題です。
みなさんはパソコンをお使いになるでしょうか。機械がてんで苦手だという方もおられるでしょう。私はパソコンでもなんでも「取扱説明書」を全く読まない人間です。そんなものを読まなくてもなんでもすぐに使えるという意味ではありません。むしろ全く使えません。すべては手探りです。だから最初は失敗だらけです。それでも使っているうちにだんだん分かってきます。
私の場合は「取扱説明書」を読むのが面倒くさいだけです。だから無駄な回り道をしてしまいます。しかし、回り道などしている余裕がない方は最短コースを選ぶほうがいいでしょう。そういう方々のために「取扱説明書」があります。
今申し上げているのは、聖書にも「取扱説明書」があるということです。それが今日の箇所であるということです。
わたしたちは聖書をどのように読んでも構いません。聖書はキリスト教書店だけでなく一般の書店で買えます。インターネットでも買えます。だれでもどこでも手にすることができる本の読み方を規制することはできません。しかし、聖書そのものが「聖書の読み方」を教えています。聖書の「取扱説明書」が聖書の中に記されています。それがわたしたちの助けになります。
ここに記されているのは3つの文章です。順を追って説明します。第一の文章は、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している」(39節)です。
訳はこれで問題はありませんが、問題は意味です。「聖書の中に永遠の命がある」とはどういうことでしょうか。おそらく「聖書という中に永遠の命を得るための方法が記されているとあなたがたは考えている」という意味です。
ここではっきり申し上げておきたいのは、これは聖書についての正しい理解であるということです。聖書の中には「永遠の命」を得るための方法が確かに記されています。少しも間違っていません。
しかし、ここで言われているのが「聖書の中に永遠の命を得るための方法が記されているとあなたたちは考えている」ので「あなたがたは聖書を研究している」ということです。こういうふうに言われますと、それはいけないことなのでしょうか、間違っているのでしょうかと聞き返したくなります。しかし、決して間違っていません。これで十分、正しい聖書理解であり、正しい聖書の読み方です。
しかし、まだ気になる方がおられるかもしれません。ひょっとしてこの箇所で「あなたたちは聖書を研究している」と言われている、この「研究」が問題ではないかとお考えになるかもしれません。しかし、結論を先に言えば、「研究」そのものは問題ではありません。少しも間違っていません。
ここで「研究」と訳されているギリシア語の言葉は、新約聖書の中で多く用いられている言葉ではありません。この言葉が用いられている最も有名な箇所は、使徒パウロのローマの信徒への手紙8章27節です。「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます」。この中に出てくる「見抜く」が今日の箇所の「研究する」と同じ言葉です。
これで分かるのは、今日の箇所で「聖書を研究する」と言われているのは決して悪い意味ではないということです。聖書の意味を深く考え、洞察することです。それは、聖書の中に記された神の御心は何かを「見抜く」ことです。それが悪いということはありません。
「聖書は研究するものではない」と考える人は、教会の中に決して少なくありません。「研究する」と言われるとどうしても学校を思い出すことになります。しかし、教会は学校ではない。聖書は研究するものではなく信じるものである。そう言いたくなる気持ちは私も分かります。
日本の教会でたいてい水曜日か木曜日あたりに行われることが多い「祈祷会」を「聖書研究祈祷会」とか「聖書研究会」と名づけている教会があります。それは間違っている、聖書は研究するものではない、と言われることがあるのですが、間違っていません。教会も聖書を研究しますし、研究してもいいのです。「聖書研究」自体は問題ではありません。
しかし、あらかじめ申し上げておきますが、今日の説教の最後にもう一度この問題に戻ってきます。それは「聖書研究」には限界があるという問題です。それは最後に触れます。今申し上げられるのは、第一の文章に記されていることの中に間違っている部分はないということです。すべて正しいことが言われています。
しかし、第二の文章は「ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(39節)となっています。ここで「ところが」という否定的な接続詞が出てくるので第一の文章を否定しようとしているに違いないと、つい反応してしまいますが、否定ではありません。原文もbutではなくandの意味を持つギリシア語が用いられています。「しかし」ではなく「そして」です。
しかしそれでは、第二の文章の意味はどういうことになるのでしょうか。それをよく考える必要があります。「聖書はわたしについて証しをするものだ」の「わたし」はイエス・キリスト御自身です。そして「証しをする」とは「証言する」ことです。これまでのヨハネによる福音書の学びの中で2回「しるし」の話が出てきました。「しるし」と「証し」は言葉も意味も違いますが、内容的に重なり合うところが多くあります。
しるしの話で用いたたとえを繰り返します。空を見ると、黒い雲が立ち込めている。その雲を見て、まもなく雨が降ることを知る。その場合の「雲」は「雨」のしるしです。雲それ自体は雨ではなく、雨を指し示すものです。
それと「証し」が似ています。聖書はイエス・キリストについて証しをする。それは聖書そのものはイエスさま御自身ではないという意味にもなります。聖書そのものは救い主ではなく神でもない。聖書はあくまでも救い主を指し示し、神を指し示す存在にすぎない。それが「聖書はわたしについて証しをするものだ」と言われていることの意味です。
わたしたちがそんなことをすることはありえませんが、もし聖書そのものが救い主そのものであり、神そのものであるとすれば、わたしたちは聖書そのものを拝み、聖書そのものを信じ、聖書そのものに向かって祈るというようなことをしなくてはならなくなります。しかし、そんなことをわたしたちはしません。
今申し上げたことは脱線です。大事なことは、聖書がイエス・キリストを指し示す書物であり、その意味で「キリスト証言」の書物であるということを第二の文章が明言していることです。しかしそれは第一の文章で言われている「聖書の中に永遠の命があると考えて聖書を研究すること」と矛盾することなのかというと全くそうではありません。矛盾も対立もありません。
ここで言われていることの意味は、聖書に記されている「永遠の命を得るための方法」と、聖書が指し示す「イエス・キリスト」を知ることは同じであるということです。一方に「永遠の命」があり、他方に「イエス・キリスト」がおられるので、聖書の読者はどちらか一方を選ばなければならないということではなく、二つのことは一つであると言っているのです。
これで第三の文章の意味ははっきりお分かりになるでしょう。第三の文章は「それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(40節)です。
「永遠の命を得る方法を知ること」と「イエス・キリストを知ること」という二つのことは一つのことなのに、まるでそれが二つのままであるかのように思っている。あれかこれかの二者択一を迫られているかのように思い込んでいる。その認識は間違っていると、イエスさまはおっしゃっているのです。
そして、聖書を研究する人々が「わたしのところへ来ようとしない」のはどういうわけなのだとイエスさま御自身がおっしゃっています。イエスさまは腹を立てておられるのではありません。強いて言えば、残念がっておられます。もったいないと思っておられます。そして、早く来てほしいと首を長くして待っておられます。そんなふうにとらえるほうがよさそうです。
そして、ここで「後でお話しします」と申し上げた問題に戻ることになります。「聖書を研究すること」そのものは間違っていませんが、限界があると申しました。
それは、「研究」だけであればすべて自分ひとりでできてしまうことです。「聖書を研究すること」は「イエス・キリストのもとへ行くこと」と同じではありません。自分の部屋に引きこもり、本を読み、想像力を働かせ、自分なりの結論を出して納得することはできます。しかしそれは「イエス・キリストのもとへ行くこと」とは違います。
私にとっては屈辱的な話ですが、私は子どもの頃から肥満体で、人生で一度も痩せていたことがありません。それで、子どもの頃からスポーツが苦手でした。その代わり本はよく読みました。母や伯母が教えてくれたことですが、私の記憶にない2歳くらいの頃から私はじっと黙って一人で本を読んでいるタイプだったそうです。
そして私は、スポーツが苦手だった代わりに、スポーツについて書かれている本を読むのが好きでした。「野球について」、「サッカーについて」、「卓球について」というような本を。
しかし、それは野球そのもの、サッカーそのもの、卓球そのものをプレイすることとは違います。頭の中でただ想像しているだけです。王貞治選手の一本足打法とか、サッカーのルールとか、卓球のラケットのラバーの張り方とか、興味津々でした。しかし、自分でそれをやったことはありません。
聖書も同じであると言いたいのです。聖書を研究すること自体がいけないわけではありません。しかし、そのこととイエス・キリストとの生きた交わりの中に入ることは根本的に違います。
イエス・キリストとの生きた交わりに入るためにはどうしたらいいのでしょうか。途中の議論を省いて結論だけ言えば、イエス・キリストの体なる教会の交わりに入ることです。教会の活動に参加し、教会の仲間と共にイエス・キリストの御心を行うことです。
それが「永遠の命を得ること」とどのように関係しているのかについてお話しする時間は、今日はもうありません。しかし、教会は聖書を研究するだけではなく、聖書に記された神の御心を実践し、実現していくためにあると申し上げておきます。それは神と隣人を心から愛し、互いに助け合うことを意味します。それが「永遠の命」に至る道です。
(2017年8月6日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)
2017年8月5日土曜日
牧師の転任と世代の関係
牧師の転任の頻度と世代は関係がある。戦後日本にキリスト教ブームが起こった。ピークは1950年代。その頃作られた教会の牧師になった人は初代牧師でもあり、同じ教会に長くとどまる人がいた。しかし当時30代だった人が仮に40年同じ教会にいたとしても、1990年代には交代を余儀なくされた。
その1990年に私は牧師になった。当時25歳。1990年代以降、どこの教会も牧師交代と教会堂・牧師館の改築・新築ブーム。それでどこの教会も混乱ブーム。それを若い牧師たちの力不足のせいにされたりして。そのあたりの事情との関係で私と同世代の牧師は転任の頻度が高い。私は平均的なほうだ。
しかし、ある意味もう慣れたし、ある意味この状況を楽しんでもいる。ネットがなかったころは、教会の混乱は若い牧師の力不足のせいだなどと明に暗に断じられたりすると凹んで孤立感を深めたものだが、今は違う。同じ境遇の者たち同士で励まし合うことができる。理解者、協力者がいれば、心は折れない。
私は同世代で心が折れそうになっている牧師たちに「あと5年耐えようよ」とよく言っている。理由は書けない。あと5年でかなり変わる。良く変わるか悪く変わるかは分からないし言えない。言えるのは「苦難→忍耐→練達」を経た先に「希望」があるということだ。逆算すれば「今」が大事だということだ。
その1990年に私は牧師になった。当時25歳。1990年代以降、どこの教会も牧師交代と教会堂・牧師館の改築・新築ブーム。それでどこの教会も混乱ブーム。それを若い牧師たちの力不足のせいにされたりして。そのあたりの事情との関係で私と同世代の牧師は転任の頻度が高い。私は平均的なほうだ。
しかし、ある意味もう慣れたし、ある意味この状況を楽しんでもいる。ネットがなかったころは、教会の混乱は若い牧師の力不足のせいだなどと明に暗に断じられたりすると凹んで孤立感を深めたものだが、今は違う。同じ境遇の者たち同士で励まし合うことができる。理解者、協力者がいれば、心は折れない。
私は同世代で心が折れそうになっている牧師たちに「あと5年耐えようよ」とよく言っている。理由は書けない。あと5年でかなり変わる。良く変わるか悪く変わるかは分からないし言えない。言えるのは「苦難→忍耐→練達」を経た先に「希望」があるということだ。逆算すれば「今」が大事だということだ。
2017年8月3日木曜日
神学はラベリングではない
ウェスレー研究は実用性高いですよ。日本国内に多くあるいわゆるメソジスト系やウェスレー・アルミニウス系の教会は、ウェスレー本人をもっとお読みになるべきだと思うのに、そちらの方向にあまり行かれていないように見えます。学会があるのは存じていますし、メンバーの中に親しい方々が数名います。
それこそ、ウェスレーの本も、メソジスト教会の歴史も知らないでWikipediaか何かで即席の知識を手に入れただけの部外者然とした人たちがウェスレーについてああだこうだと決めつけるようなことを言ってくるときが、一次文献をちゃんとやってる人たちの出番ですよ。実用性ものすごくあります。
Wikipediaに関しては両面あると思いますけどね。ガチの専門家が追従を許さないほど異様に詳しく書いていて全部読む気を失わせるようなのもありますね。他方全くお話にならないほどシロウトの作文のようなのもある。
まーまー、そんなに結論を急がないでいいですよ。ウェスレー思想の現代的意義は、ある意味で後回しでいいんじゃないですか。それより18世紀当時のコンテクストの中でウェスレーが何を考え、何を言ったかを精密に解明していくほうが。そうすれば聞く耳のある人たちは聞いて理解してくれますよ。ね。
ウェスレーとメソジスト教会の存在は、二千年のキリスト教史の中で脇道のエピソードなどでは決してなく、ど真ん中の本流ですよ。いわゆる「メインライン」です。無視できるわけがありません。まさに大船ですので、どっしり構えて一次文献をコツコツ読んでいくことあるのみですよ。ね。
そういうコツコツやる研究者と成果を待ち望んでいる人は潜在的に日本の教会にたくさんいると思います。私は直接かかわっていませんが、私もメンバー(いちおう書記)のアジア・カルヴァン学会日本支部の方々が、カルヴァン説教集をフランス語版からコツコツ訳して出版しています。そういうのが大事です。
カルヴァンも同じ目に遭うんですよ。1ページもお読みになっていないのではと感じられる方々が、文科省検定教科書『倫理』の数行の文章か、かろうじてヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』くらいまでの知識でカルヴァンの悪口を言ったりする。言葉を失うことしばしばです。
べつに誰が何を言っても構わないんですけどね。言論の自由はある。肌感覚レベルの違和感や拒絶感を持つ人がいるのも尊重されるべきだと私は思う。不可侵の教祖のような扱いをするのはかえってまずい。ただ、批判するならテキストを読んでからにしましょう。そういう当たり前のことを私は思うだけです。
反応ありがとうございます。私が書いたのは、そんな大げさなことではなく、テキストを読みもしないで、どこかで聞いたうわさ話のような、根拠にもならないような根拠で、判で押したような批判をする軽率な人が多すぎるので困ったものだと言っているだけです。でも、おっしゃることの意味は分かります。
和魂洋才ですか。大木先生と古屋先生の日本の神学あたりから出発した議論ですよね。懐かしいです。私は30年前から耳タコで聞かされてきた話です。
相手のテキストを読まないで批判するというのは、たとえていえば、カナダに行ったことがない人が、カナダについての薄っぺらな旅行ガイドブック程度の知識で、世界地図でカナダを指さしながら「カナダとはこういう国である」と論じちゃってるようなものですよ。現地の人からすれば「アホか」ですよね。
神学をやる人たちの中にそういう大げさで大ざっぱな議論する人がいるんですよ。なので、神学を知らない人たちは「神学ってあんな雑なこと言っても許されるんだ。くだらない」と思ってるだろうし、アホらしくて近づかない人多いでしょうね。でも違いますよ。もっとディティールにこだわるのが神学です。
たとえば、無教会の方々がサクラメントを否定する。外部の人が「それはけしからん」の一言で切って捨てることは簡単です。ですが、無教会の方々の言い分がある。その中へと深く分け入って、無教会の方々の側に立って悩みぬくのが本来の神学です。単純な三段論法で軽々しく批判なんかできないんですよ。
そもそも神学は教会の日々の伝道と牧会から生まれたものです。今や似ても似つかぬ大げさで大ざっぱなヘリクツに成り下がっているかもしれませんが。伝道と牧会にとって重要なことは、相手の心と立場に寄り添うことです。「あなたは間違っている。私が正解を教えてあげる」というスタンスの正反対です。
私が現代のいわゆる「批判的な」聖書学が素晴らしいと思っているのは、過去のある時代の聖書の読み方に基づいて成立した教会の教義や教理「に」聖書「を」従わせることをせず、「その聖書の読み方が間違っている」と指摘することで教義や教理そのものを根本から問い直す視座を持っておられるからです。
とにかく私が言いたいのは、テキストを深く読むことがすべての学問の始まりであるのと同様に、神学も全く同じだということです。だから私は、ウェスレーであれ、ファン・ルーラーであれ、ひとりの神学者のテキストをトータルに読む作業が大事だと思っています。つまみ食いでなく、いいとこどりでなく。
私の意図が伝わっていないようですね。私が嫌がっているのは、まさに今お書きになったような、「はいこれは中世カトリック。はいこれは近代主義。はいこれは宗教改革の立場」というような三段論法で問題を単純化して分かった気になることです。世界地図でカナダを見るような視点だと言っているのです。
「宗教改革」と一言で言っても、改革者ひとりひとりの言っていることは違うし、その中のひとりでも時期や状況によって思想や立場が変化していたりするわけでしょう。「これが宗教改革の立場です」だとか、なんでそんな雑なことを大胆に言ってのけることができるのか分からないと思うことがありますよ。
そんなのは神学でもなんでもなくて、ただのラベリングなんですよ。レッテル貼り。それで相手を「理解」したことには全くならないし、「分析」すらできていません。むしろ偏見や差別を助長するだけです。即興のディベートゲームには瞬間的に勝利できるかもしれませんが、それで誰も幸せにはなりません。
厳しいと言っていただけて光栄です。私はツイッターで議論しているつもりはありません。無教会ガーとか、宗教改革ガーとか決めつけるようなことをお書きになるので、いちいち不愉快に思っているだけです。お目にかかったことのない方ですので「忠告」ではありませんよ、そんな責任は私には皆無です。
私は「機嫌」など少しも損ねていません。私には無教会の親友もいるし、カトリックの親友もいるし、聖書学者の親友もいます。その私の親友たちを、あなたの粗雑な言葉で傷つけられることに耐えがたいものを感じているだけです。「いちいち不愉快に思っている」とはそういう意味です。もういいですかね。
(追記)
以上の趣旨は「万国の牧師よ勉強せよ」ということではない。「よそさまの教派・教団のことについて軽々しい口を叩くなよ」と、軽々しい口を叩くクセがあるとおぼしき人に向かって個人的に文句を言っているにすぎない。そこまで言うならその教派・教団の「内部の論理」に寄り添って考えたうえで言えと。
よく知りもしない人たちのことを外部から論評すべきでないと言っている。どこの教派・教団でも、無教会でも、それぞれの内部に葛藤があり、苦しみ、涙を流しながら危機と向き合い、未来を切り開こうとがんばっている。そんなの知るかと言わんばかりのスタンスで、外からガタガタ言うなと、言っている。
それこそ、ウェスレーの本も、メソジスト教会の歴史も知らないでWikipediaか何かで即席の知識を手に入れただけの部外者然とした人たちがウェスレーについてああだこうだと決めつけるようなことを言ってくるときが、一次文献をちゃんとやってる人たちの出番ですよ。実用性ものすごくあります。
Wikipediaに関しては両面あると思いますけどね。ガチの専門家が追従を許さないほど異様に詳しく書いていて全部読む気を失わせるようなのもありますね。他方全くお話にならないほどシロウトの作文のようなのもある。
まーまー、そんなに結論を急がないでいいですよ。ウェスレー思想の現代的意義は、ある意味で後回しでいいんじゃないですか。それより18世紀当時のコンテクストの中でウェスレーが何を考え、何を言ったかを精密に解明していくほうが。そうすれば聞く耳のある人たちは聞いて理解してくれますよ。ね。
ウェスレーとメソジスト教会の存在は、二千年のキリスト教史の中で脇道のエピソードなどでは決してなく、ど真ん中の本流ですよ。いわゆる「メインライン」です。無視できるわけがありません。まさに大船ですので、どっしり構えて一次文献をコツコツ読んでいくことあるのみですよ。ね。
そういうコツコツやる研究者と成果を待ち望んでいる人は潜在的に日本の教会にたくさんいると思います。私は直接かかわっていませんが、私もメンバー(いちおう書記)のアジア・カルヴァン学会日本支部の方々が、カルヴァン説教集をフランス語版からコツコツ訳して出版しています。そういうのが大事です。
カルヴァンも同じ目に遭うんですよ。1ページもお読みになっていないのではと感じられる方々が、文科省検定教科書『倫理』の数行の文章か、かろうじてヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』くらいまでの知識でカルヴァンの悪口を言ったりする。言葉を失うことしばしばです。
べつに誰が何を言っても構わないんですけどね。言論の自由はある。肌感覚レベルの違和感や拒絶感を持つ人がいるのも尊重されるべきだと私は思う。不可侵の教祖のような扱いをするのはかえってまずい。ただ、批判するならテキストを読んでからにしましょう。そういう当たり前のことを私は思うだけです。
反応ありがとうございます。私が書いたのは、そんな大げさなことではなく、テキストを読みもしないで、どこかで聞いたうわさ話のような、根拠にもならないような根拠で、判で押したような批判をする軽率な人が多すぎるので困ったものだと言っているだけです。でも、おっしゃることの意味は分かります。
和魂洋才ですか。大木先生と古屋先生の日本の神学あたりから出発した議論ですよね。懐かしいです。私は30年前から耳タコで聞かされてきた話です。
相手のテキストを読まないで批判するというのは、たとえていえば、カナダに行ったことがない人が、カナダについての薄っぺらな旅行ガイドブック程度の知識で、世界地図でカナダを指さしながら「カナダとはこういう国である」と論じちゃってるようなものですよ。現地の人からすれば「アホか」ですよね。
神学をやる人たちの中にそういう大げさで大ざっぱな議論する人がいるんですよ。なので、神学を知らない人たちは「神学ってあんな雑なこと言っても許されるんだ。くだらない」と思ってるだろうし、アホらしくて近づかない人多いでしょうね。でも違いますよ。もっとディティールにこだわるのが神学です。
たとえば、無教会の方々がサクラメントを否定する。外部の人が「それはけしからん」の一言で切って捨てることは簡単です。ですが、無教会の方々の言い分がある。その中へと深く分け入って、無教会の方々の側に立って悩みぬくのが本来の神学です。単純な三段論法で軽々しく批判なんかできないんですよ。
そもそも神学は教会の日々の伝道と牧会から生まれたものです。今や似ても似つかぬ大げさで大ざっぱなヘリクツに成り下がっているかもしれませんが。伝道と牧会にとって重要なことは、相手の心と立場に寄り添うことです。「あなたは間違っている。私が正解を教えてあげる」というスタンスの正反対です。
私が現代のいわゆる「批判的な」聖書学が素晴らしいと思っているのは、過去のある時代の聖書の読み方に基づいて成立した教会の教義や教理「に」聖書「を」従わせることをせず、「その聖書の読み方が間違っている」と指摘することで教義や教理そのものを根本から問い直す視座を持っておられるからです。
とにかく私が言いたいのは、テキストを深く読むことがすべての学問の始まりであるのと同様に、神学も全く同じだということです。だから私は、ウェスレーであれ、ファン・ルーラーであれ、ひとりの神学者のテキストをトータルに読む作業が大事だと思っています。つまみ食いでなく、いいとこどりでなく。
私の意図が伝わっていないようですね。私が嫌がっているのは、まさに今お書きになったような、「はいこれは中世カトリック。はいこれは近代主義。はいこれは宗教改革の立場」というような三段論法で問題を単純化して分かった気になることです。世界地図でカナダを見るような視点だと言っているのです。
「宗教改革」と一言で言っても、改革者ひとりひとりの言っていることは違うし、その中のひとりでも時期や状況によって思想や立場が変化していたりするわけでしょう。「これが宗教改革の立場です」だとか、なんでそんな雑なことを大胆に言ってのけることができるのか分からないと思うことがありますよ。
そんなのは神学でもなんでもなくて、ただのラベリングなんですよ。レッテル貼り。それで相手を「理解」したことには全くならないし、「分析」すらできていません。むしろ偏見や差別を助長するだけです。即興のディベートゲームには瞬間的に勝利できるかもしれませんが、それで誰も幸せにはなりません。
厳しいと言っていただけて光栄です。私はツイッターで議論しているつもりはありません。無教会ガーとか、宗教改革ガーとか決めつけるようなことをお書きになるので、いちいち不愉快に思っているだけです。お目にかかったことのない方ですので「忠告」ではありませんよ、そんな責任は私には皆無です。
私は「機嫌」など少しも損ねていません。私には無教会の親友もいるし、カトリックの親友もいるし、聖書学者の親友もいます。その私の親友たちを、あなたの粗雑な言葉で傷つけられることに耐えがたいものを感じているだけです。「いちいち不愉快に思っている」とはそういう意味です。もういいですかね。
(追記)
以上の趣旨は「万国の牧師よ勉強せよ」ということではない。「よそさまの教派・教団のことについて軽々しい口を叩くなよ」と、軽々しい口を叩くクセがあるとおぼしき人に向かって個人的に文句を言っているにすぎない。そこまで言うならその教派・教団の「内部の論理」に寄り添って考えたうえで言えと。
よく知りもしない人たちのことを外部から論評すべきでないと言っている。どこの教派・教団でも、無教会でも、それぞれの内部に葛藤があり、苦しみ、涙を流しながら危機と向き合い、未来を切り開こうとがんばっている。そんなの知るかと言わんばかりのスタンスで、外からガタガタ言うなと、言っている。
2017年8月2日水曜日
真に突き抜けた人は謙虚だ
もちろん「教会」こそがお互いの学歴の自慢大会の場になっていたりする現実も、私はよく分かっています。「くっだらないなあ」と内心ではいつも思っていますが、いちいち目くじらを立てずに適当にお付き合いしています。でも、その自慢大会の中で傷ついている教会員がいることを絶対に忘れないように。
それに、大学でも高校でも「学校」には必ず多くの卒業生がいます。自分だけが卒業したわけではなく非常に多くの「自分と同じ学歴」の人々がいます。自分の学歴を卑下することは「自分と同じ学歴」の人々を貶め、傷つけることを意味します。そういうことを牧師や神学生が率先してすべきではありません。
私は「学歴コンプレックス」は全く持っていませんよ。だって、そういうのを競うレースから降りたのですから。競い合っている人たちを軽蔑するつもりはありませんが、降りる権利がある。マウンティンガー・ゼットみたいな人から距離を置く自由がある。パラダイムシフトですよ。世界が別様に見えますよ。
ここから先は言いにくいことですが、ポスドクで仕事がなくて高校に教えに来る非常勤の先生がたがいますが(聖書科ではない)、生徒の評判が良い先生も良くない先生もいる。自分の学歴を鼻にかけているのが伝わってしまう先生は後者(評判悪い)。そういうオーラを全く感じない先生は前者(愛される)。
今書いたことで私が言いたいのは「学歴コンプレックスを持っていないこと」と「自分の学歴を鼻にかけること」は全く違うことだ、ということです。その違いを説明するのは難しいことですけどね。私が生徒から愛される教員だったとは思いませんが、「どういう先生は嫌われるか」だけはよく分かりますよ笑
すでに始まっていると思いますが、予備校は消滅する可能性があるでしょう。そうでなくても少子化で、大学全入時代で、しかもネットが発達してきて、予備校に行ってもどのみちビデオ講義で、それと同じネット環境が各自宅に完備されている時代ですから。予備校の「功罪」が問われる日が来るでしょうね。
予備校の先生がたを傷つける意図で書いていることではありませんので悪く思わないでくださいね。というか、ご自分たちがいちばんよく分かっておられることだと思う。だって賢い方々だもの。学校の先生がたも同じ。賢いから先生してるんでしょ。自分の道は自分で切り開けよと、周りの人は思ってますよ。
まあ、ここから先は暴言のたぐいですが、中途半端な人がいちばん人を見くだしますよね。自分よりほんの少しでも劣っていると見える(主観の問題)人を見さげ続けることで自分の位置を確認し続けるというか。自信の無さがよく表れている証左じゃないですかね。真に突き抜けた人はそんなことしませんよ。
そう。そのマーチ、マーチのオンパレード。ひとくくりにしすぎですよねえ。MARCHの一校一校ゼンゼン違うだろうと思う。33年前に私がレースから降りた理由も「医学部」か「法学部」かどちらか選べというような進路指導の声を耳にしたから。何それと思った。偏差値教育の空虚さをそれで察知した。
それに、大学でも高校でも「学校」には必ず多くの卒業生がいます。自分だけが卒業したわけではなく非常に多くの「自分と同じ学歴」の人々がいます。自分の学歴を卑下することは「自分と同じ学歴」の人々を貶め、傷つけることを意味します。そういうことを牧師や神学生が率先してすべきではありません。
私は「学歴コンプレックス」は全く持っていませんよ。だって、そういうのを競うレースから降りたのですから。競い合っている人たちを軽蔑するつもりはありませんが、降りる権利がある。マウンティンガー・ゼットみたいな人から距離を置く自由がある。パラダイムシフトですよ。世界が別様に見えますよ。
ここから先は言いにくいことですが、ポスドクで仕事がなくて高校に教えに来る非常勤の先生がたがいますが(聖書科ではない)、生徒の評判が良い先生も良くない先生もいる。自分の学歴を鼻にかけているのが伝わってしまう先生は後者(評判悪い)。そういうオーラを全く感じない先生は前者(愛される)。
今書いたことで私が言いたいのは「学歴コンプレックスを持っていないこと」と「自分の学歴を鼻にかけること」は全く違うことだ、ということです。その違いを説明するのは難しいことですけどね。私が生徒から愛される教員だったとは思いませんが、「どういう先生は嫌われるか」だけはよく分かりますよ笑
すでに始まっていると思いますが、予備校は消滅する可能性があるでしょう。そうでなくても少子化で、大学全入時代で、しかもネットが発達してきて、予備校に行ってもどのみちビデオ講義で、それと同じネット環境が各自宅に完備されている時代ですから。予備校の「功罪」が問われる日が来るでしょうね。
予備校の先生がたを傷つける意図で書いていることではありませんので悪く思わないでくださいね。というか、ご自分たちがいちばんよく分かっておられることだと思う。だって賢い方々だもの。学校の先生がたも同じ。賢いから先生してるんでしょ。自分の道は自分で切り開けよと、周りの人は思ってますよ。
まあ、ここから先は暴言のたぐいですが、中途半端な人がいちばん人を見くだしますよね。自分よりほんの少しでも劣っていると見える(主観の問題)人を見さげ続けることで自分の位置を確認し続けるというか。自信の無さがよく表れている証左じゃないですかね。真に突き抜けた人はそんなことしませんよ。
そう。そのマーチ、マーチのオンパレード。ひとくくりにしすぎですよねえ。MARCHの一校一校ゼンゼン違うだろうと思う。33年前に私がレースから降りた理由も「医学部」か「法学部」かどちらか選べというような進路指導の声を耳にしたから。何それと思った。偏差値教育の空虚さをそれで察知した。
2017年7月31日月曜日
レースはもう終わっている
15年以上前、マウンティングしたがり男と出会った。男の職業は牧師。私が高校を出てストレートで牧師養成専門の「偏差値35と進学塾が表示する大学」に入ったと言っているのに「共通一次は受けただろう。その偏差値はどのくらいだったのか」としつこく聞いてくる。受けていないと言っているのに。
Fランとでも何とでも呼んでもらって構わないが、そういうのからフリーになれよと本気で言いたくなるときがある。もっと大変だけどね。そういうことで評価されることは一切ないから。その代わり手に入れられるものも大きいよ。躊躇なく全く外から(ganz andere)今の競争社会を分析できる。
ちなみに私の出身大学は、私が受験した33年前(1984年)から今日に至るまで、進学塾が「偏差値35」と表示し続けている。高校からのストレート入学者を受け入れる学部1年の定員が、当時も今も10名弱。つまり、その10名弱の椅子を獲得できるかどうかの偏差値が表示されているというわけだ。
よし、争え。その10名弱の椅子を奪い合え。死に物狂いで闘い、見事その椅子をかっさらえ。そういうバトルでも始まれば偏差値はうなぎ上りだろう。ただし、その人は必ず牧師になること。その「牧師になること」という点については最近ごくわずかな緩和策が講じられたようだが、本質は変わっていない。
話を元に戻す。15年以上前に出会ったマウンティングしたがり男。職業は牧師。なんかねえ「牧師のくせに」という言葉はこういうときこそ使うべきだと思う。なんだか意味不明なほど学歴コンプレックス持ちすぎの牧師多すぎなんじゃないの。いいかげん降りてくださいね、レースもう終わってますからね。
あと留学と学位。出身大学の影響であることは間違いないが、私はそういうのに全く興味がなかった。ややナショナリスティックな感覚も含んでいたことを否定しないでおくが、大学や神学校の教授になる方々は別格として、牧師として働くために必然性がないし、何の意味を持つのかが本当に分からなかった。
しかしその後、日本キリスト改革派教会に移ったとき、この教派独特のインターナショナリズムの影響を受けた。いくらか皮肉を込めた言い方をすればインターナショナルな「改革派教会」なるものの日本ブランチであるかのように自らを位置付けることを全く苦にしていないように見える人々の影響を受けた。
神学を重んじる教派にしては日本国内の教派神学校が「大学」でないことが関係しているのかもしれないが、私にはよく分からないほどの外国志向があり、留学と学位に興味津々の牧師たちが結構いたように思う。へえそんなものかと最初は驚いたが、慣れというのは恐ろしいもので、私も興味を持ちはじめた。
ただ、今思えば不覚にも留学と学位にほんの少し興味をもってしまったことの理由は本当にひとつだけだった。ここでまたファン・ルーラーが登場する。ファン・ルーラーの翻訳をしてなんとか出版にこぎつけたいと思った。そのときに訳者の肩書きとしては今のままでは足りないなと思った。ただそれだけだ。
しかしファン・ルーラーに関しては紙の本の出版は私の仕事ではないと悟ったので、その問題は片付いた。今の私のもっぱらの関心は日本語にもっと習熟したいということだ。難読漢字や典雅な古典表現を使えるようになりたいという意味ではない。威圧感がなく安心してもらえる言葉を書けるようになりたい。
Fランとでも何とでも呼んでもらって構わないが、そういうのからフリーになれよと本気で言いたくなるときがある。もっと大変だけどね。そういうことで評価されることは一切ないから。その代わり手に入れられるものも大きいよ。躊躇なく全く外から(ganz andere)今の競争社会を分析できる。
ちなみに私の出身大学は、私が受験した33年前(1984年)から今日に至るまで、進学塾が「偏差値35」と表示し続けている。高校からのストレート入学者を受け入れる学部1年の定員が、当時も今も10名弱。つまり、その10名弱の椅子を獲得できるかどうかの偏差値が表示されているというわけだ。
よし、争え。その10名弱の椅子を奪い合え。死に物狂いで闘い、見事その椅子をかっさらえ。そういうバトルでも始まれば偏差値はうなぎ上りだろう。ただし、その人は必ず牧師になること。その「牧師になること」という点については最近ごくわずかな緩和策が講じられたようだが、本質は変わっていない。
話を元に戻す。15年以上前に出会ったマウンティングしたがり男。職業は牧師。なんかねえ「牧師のくせに」という言葉はこういうときこそ使うべきだと思う。なんだか意味不明なほど学歴コンプレックス持ちすぎの牧師多すぎなんじゃないの。いいかげん降りてくださいね、レースもう終わってますからね。
あと留学と学位。出身大学の影響であることは間違いないが、私はそういうのに全く興味がなかった。ややナショナリスティックな感覚も含んでいたことを否定しないでおくが、大学や神学校の教授になる方々は別格として、牧師として働くために必然性がないし、何の意味を持つのかが本当に分からなかった。
しかしその後、日本キリスト改革派教会に移ったとき、この教派独特のインターナショナリズムの影響を受けた。いくらか皮肉を込めた言い方をすればインターナショナルな「改革派教会」なるものの日本ブランチであるかのように自らを位置付けることを全く苦にしていないように見える人々の影響を受けた。
神学を重んじる教派にしては日本国内の教派神学校が「大学」でないことが関係しているのかもしれないが、私にはよく分からないほどの外国志向があり、留学と学位に興味津々の牧師たちが結構いたように思う。へえそんなものかと最初は驚いたが、慣れというのは恐ろしいもので、私も興味を持ちはじめた。
ただ、今思えば不覚にも留学と学位にほんの少し興味をもってしまったことの理由は本当にひとつだけだった。ここでまたファン・ルーラーが登場する。ファン・ルーラーの翻訳をしてなんとか出版にこぎつけたいと思った。そのときに訳者の肩書きとしては今のままでは足りないなと思った。ただそれだけだ。
しかしファン・ルーラーに関しては紙の本の出版は私の仕事ではないと悟ったので、その問題は片付いた。今の私のもっぱらの関心は日本語にもっと習熟したいということだ。難読漢字や典雅な古典表現を使えるようになりたいという意味ではない。威圧感がなく安心してもらえる言葉を書けるようになりたい。
2017年7月30日日曜日
善いことを躊躇しない(千葉若葉教会)
ヨハネによる福音書5章15~17節
関口 康(日本キリスト教団教師)
「この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』」
ヨハネによる福音書の学びの6回目です。先週から数えてなんと4週連続で私が説教です。今日もどうかよろしくお願いします。
先ほど今日の箇所を朗読していただきました。これだけ読んでも意味がよく分からないと思います。と言いますのは、この箇所には、すでに一つの出来事が起こった後に、その結果として起こったことだけが記されているからです。その部分だけを切り取って朗読していただきました。
どのような結果だったかと言えば、ユダヤ人たちがイエスさまを迫害しはじめたという結果です。「この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた」(15節)と記されているとおりです。
もう一つ、イエスさまがその人をいやした日が「安息日」であったこと(9節)も迫害の理由です。しかし、今日は「安息日」の問題は、時間の都合で割愛します。「いやし」の問題だけを扱います。
しかし、これは奇妙な話です。イエスさまは一人の人の病気をいやしたのです。それをきっかけにイエスさまが迫害されはじめたというのです。原因と結果の関係でいえば、原因が病気のいやしで、結果が迫害だったというのです。
内容はあとで見ますが、この人は38年間も病気で苦しんでいました。しかし、イエスさまがその人を長年の苦しみから解放なさったのです。それは善いことです。悪いことであるはずがありません。しかし、それでイエスさまへの迫害が始まったというのです。理不尽としか言いようがありません。
しかし、ここで一つ考えたいことがあります。このような結果になることをイエスさまが全く予測しておられなかっただろうかという問題です。
イエスさまは純粋にご自分は善いことをしたと思っておられた。しかし、全く予想していなかった結果が生じた。「ええっ、びっくり。なぜ私はこんな目に遭わなきゃならないの。こんなはずではなかった。後悔先に立たず」と狼狽えるばかり、ということだったでしょうか。
それは違うと思います。むしろイエスさまはそういう結果になることをよく分かっておられました。しかし、だからといって躊躇なさらなかったのです。この点が大事です。迫害を恐れて何もしないとか、人目を気にして手を引くとか、そういうことをイエスさまは全くなさいませんでした。
イエスさまが躊躇なさらなかったのは、38年間も病気で苦しんでいた人を助けなければならないとお考えになったからです。そのことを決心なさったからです。その人を助けた結果として御自分の身が危険にさらされることになるとしても、そこで躊躇なさるような方ではなかったのです。
そのようなイエスさまだからこそ十字架につけられました。イエスさまの十字架の死は、ご自身は全く予想していなかった不慮の事故などではありません。イエスさまは、あらかじめの決意と覚悟をもって十字架をめざして歩まれました。その点を後から付け加えられた話であるかのように言われるのは困ります。そのことを最初に確認しておきたいと思いました。
5章の冒頭から始まっているのはイエスさまがエルサレム神殿に来られたときの話です。「ユダヤ人の祭りがあったので」(1節)と記されていることから分かるのは、そのときエルサレムは非常に大勢の参拝客で賑わっていたであろうということです。
「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で『ベトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった」(2節)とあります。「羊の門」はエルサレム神殿の北東に、読んで字のごとく羊が通る門として設けられたものです。その羊は神殿の祭儀に犠牲としてささげられるために連れてこられました。
そして、そこに今日の箇所の出来事に直接関係する二つの重要なポイントが出てきます。一つは「回廊」、もう一つは「ベトザタ」という名の「池」でした。
「回廊」に関して「この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」(3節)と記されています。その場所が、ここに記されているような人々にとっての「居場所」だったと言えるかもしれません。良い意味でも、もしかしたら悪い意味でも。
「もしかしたら悪い意味でも」と申し上げたのは、神殿の門というのは、まさに入り口、あるいは出口です。神殿の中心ではなく周辺であり隅っこです。そういうところに自らの意思で集まっていたのか、それとも追いやられていたのかが気になります。
そしてもう一つ大事なポイントが、その「回廊」が「ベトザタ」という名の「池」に近かったことです。その池には言い伝えがあったようです。そのことを、これからイエスさまが病気をいやすことになる、その人自身が説明しています。
「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(7節)。
これで分かるのは、その「ベトザタ」という池にまつわる言い伝えの内容です。池の水が動くときがある。そのときにその池の中に入れば病気が治る、という言い伝えです。
しかも、この人の言い分をそのまま受け取るとしたら、みんな一緒に入っても効き目がなかったのかもしれません。一回水が動くたびに、ひとりしか入れない。その順番待ちをしていた人々が回廊にいたのかもしれません。
しかし、ここから先は全くの想像ですが、いろいろ考えるべきことがあります。この人はまさか、その同じ場所に38年間も座り続けていたのでしょうか。そういうことがありうるでしょうか。それはさすがにないだろうと私は思います。
むしろ考えられるのは、すでにこれまでにあらゆる手を尽くしてきた可能性です。自分自身もなんとかしてその病気の苦しみから解放されたいと願ってきたが治らなかった。最後の最後にこの池にたどり着いた。来る日も来る日も順番を待っていた。しかし、誰も自分を池に入れてくれる人がいなかったという可能性です。
しかし、私は一つ、とても気になる解説を読みました。それは私がいつも愛読している聖書注解の説明です。それによりますと、ベトザタの池の水の中に入れば病気が治るというようなことは当時のユダヤ人たちは誰も信じていなかったという説明です。つまりそれは迷信であると、当時のユダヤ人たちも考えていたというのです。
それはわたしたちにはよく分かる話です。旧約聖書の教えを思い返してみると、迷信的なこととは全く相容れないものであることがお分かりになるはずです。いわゆる科学的な根拠があり、あの池の水の成分の中には病気をいやす力があるというような実証的な研究が積み重ねられてきたとでもいう話であればともかく、そういう話では全くない。「ベトザタ」に関しては、当時のユダヤ人でさえ、そのような治療効果などは全く信じていなかったことであるというのです。
しかし、そうなるとどうなるのでしょうか。この羊の門の傍らの五つの回廊に集まっていた大勢の病気を抱えた人々は、だまされていたのでしょうか。それとも、自分たちもそんなのは迷信であると分かっていながら、それでも集まっていたのでしょうか。そのどちらであるかは分かりません。
しかし、もし彼らがだまされていたということであれば、問題はきわめて深刻なものになります。だましていたのは誰なのかという問題が必ず生じるからです。エルサレム神殿でしょうか。つまり、当時のユダヤ教団の指導者たちでしょうか。その人々が、エルサレム神殿で行われるお祭りの参拝客をひとりでも多く集めるために、ベトザタの池にまつわる言い伝えなどと称して、ありもしないことを言い広めていたということでしょうか。そういうのを今の私たちは「悪質な宗教ビジネス」と呼ぶのではないでしょうか。
いや、そんなのは全く違うと。そんなのは言いすぎだし、考えすぎだと反論されるかもしれません。回廊に集まっていた病気の人たちも、それが迷信であることくらいみんな分かっていたことなのだと。すべて織り込み済みだった。そのうえで、いわば観光の一環として、遊びの一種として池に入る順番を待つゲームをしていただけなのだと。「悪質な宗教ビジネスだ」などと目くじらを立てて言うようなことでは全くないのだと、そういう見方もできるかもしれません。
しかし、もしそうであれば、事態はもっと深刻になります。この38年間も病気で苦しんでいた人が、イエスさまが「良くなりたいのか」とお尋ねになったときに「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」と答えたことの意味は一体何なのかということが、ひどく謎めいたものになります。
2つの可能性を考えることができます。第1の可能性は、もしこの人が自分で言っているとおりのことを本気で信じ込んでいたとしたら、それは完全に詐欺に遭っていたことになります。つまりこの人は100パーセント被害者です。ただし、その場合は誰がこの人をだましていたのかを問題にしなければならなくなります。神殿がだましていたのか、それとも他のだれなのか。
しかし、第2の可能性があります。この人自身も、こんなことは迷信なのだということが分かっていたという可能性です。そんなことは織り込み済みだと。なんだかんだとやかく言われるようなことではないと。
しかし、この人自身もそういうことはよく分かっていたにもかかわらず、イエスさまにこのように答えたのだとしたら、どうなるでしょうか。私はその可能性は十分ありうると思います。しかし、それは最も深刻な状態です。この人の言葉の裏側に潜んでいる、その言葉の「本当の意味」を考えざるをえません。この人の「心の問題」に深く立ち入らざるをえません。
いろんな可能性が思いつきます。もしかしたらすべてジョークで言っているだけかもしれません。皮肉と自嘲の薄笑いを浮かべながら、こんな迷信にすがっている私ってバカでしょう、はははと。
あるいは、自分弁護する意味で言っているかもしれません。病気が治らないのは私のせいではないと言いたがっている。それはそのとおりです。しかし、あの池に私をだれも入れてくれないせいだと言いたがっている。人のせいにし、池のせいにしている。
あるいは、完全な絶望、虚無主義(ニヒリズム)に陥っていたのかもしれません。こんなのが迷信であることなど、とっくの昔に分かっている。しかし、こんなことにでもすがっていなければ、私は生きていられない。いっそ治らなければいい。自分は早く死にたいのだ。早く私を殺してくださいと。そのように言いたがっているのかもしれません。
この人の返事を聞いて、イエスさまはこの人を救う決心をなさいました。このまま放っておくわけにはいかないと思われました。そして言われました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8節)と。
そのとき起こったのは、この人を38年間も苦しめてきた病気が一瞬で吹き飛んでいく奇跡でした。しかし、それだけではありません。イエスさまはこの人を、体の苦しみからだけでなく、心の苦しみから解き放ってくださいました。迷信からも、自嘲からも、虚無主義(ニヒリズム)からも、それらすべての背後にある絶望からも、イエスさまはこの人を救い出してくださいました。
わたしたちはどうでしょう。いつまで迷信にとらわれているのでしょうか。いつまで自嘲し続けるのでしょうか。それは何の解決にもなりません。しかし絶望と虚無主義に耐えられる人はいません。
わたしたちにもイエスさまは「良くなりたいか」と、いつも問いかけてくださっています。それは「良くなるための努力をしていますか」という意味ではありません。健康管理をしていますか、とか、ダイエットしていますか、という意味ではありません。しかし、「良くなりたいという希望を捨てていませんか」という意味ではあると思います。
「あなたは絶望していませんか」とイエスさまは今もわたしたちに問いかけてくださっています。そして「絶望してはいけません」と、わたしたちに強く呼びかけてくださっています。
(2017年7月30日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)
2017年7月29日土曜日
「宣教の課題」ではあるが「伝道集会」ではない
ブライダルは牧師としての行き場を失った者のバイト先などではありえず(新郎新婦にも司式者にも失礼な言い方だ)、教会の宣教の課題だと私も思います。ただ、結婚式あるいは葬式は「みことばを聞いてもらう良い機会」だとはとらえていません。結婚式も葬式も伝道集会にしてはならないと思うからです。
もちろん牧師であるかぎりどこかの教会ないし教団に所属しているはずであり、その教会ないし教団には「一人でも多くの会員を!」という渇望があり、その要請と事情を熟知する牧師たちが、それでも「無私の奉仕」として結婚式や葬式を行わなければならないなどと、いま申し上げているのではありません。
しかし結婚式も葬式も「みことばを聞いてもらう良い機会」ではありませんし、そういう動機付けでもないかぎり、教会が(教会員以外の)結婚式や葬式を引き受けることも、牧師を式場のブライダルに喜んで送り出すこともできないというのでは困ります。言葉の最も正しい意味で「あざとい」と言うのです。
今書いていることは、先生がお書きくださったことを批判する意図ではなく、もっと自由になりましょうよと、「えらそうに!」と思われるでしょうけど(すみません)お励ましの気持ちです。新郎新婦も参列者も「みことば」を求めていません。そこで牧師だけドン・キホーテになる必要はないと思うのです。
最初から最後まで式文を読み上げるだけでも、我々は結婚式において十分に牧師としての役割を果たせています。あるいは逆に、最初から最後まで冗談を言って笑わせ続けることができる話力があれば、聖書のみことばに一言も触れなくても、結婚式において十分すぎるほど牧師としての役割を果たせています。
しかし結婚式も葬式も伝道集会ではありません。そのような場にしてはなりません。教会が牧師を式場のブライダルに送り出すときに「先生、伝道してきてくださいね」と言うなら、それは間違っています。そういう意味付けができないところなら牧師を送り出すことはできないと阻止するのも間違っています。
もちろん牧師であるかぎりどこかの教会ないし教団に所属しているはずであり、その教会ないし教団には「一人でも多くの会員を!」という渇望があり、その要請と事情を熟知する牧師たちが、それでも「無私の奉仕」として結婚式や葬式を行わなければならないなどと、いま申し上げているのではありません。
しかし結婚式も葬式も「みことばを聞いてもらう良い機会」ではありませんし、そういう動機付けでもないかぎり、教会が(教会員以外の)結婚式や葬式を引き受けることも、牧師を式場のブライダルに喜んで送り出すこともできないというのでは困ります。言葉の最も正しい意味で「あざとい」と言うのです。
今書いていることは、先生がお書きくださったことを批判する意図ではなく、もっと自由になりましょうよと、「えらそうに!」と思われるでしょうけど(すみません)お励ましの気持ちです。新郎新婦も参列者も「みことば」を求めていません。そこで牧師だけドン・キホーテになる必要はないと思うのです。
最初から最後まで式文を読み上げるだけでも、我々は結婚式において十分に牧師としての役割を果たせています。あるいは逆に、最初から最後まで冗談を言って笑わせ続けることができる話力があれば、聖書のみことばに一言も触れなくても、結婚式において十分すぎるほど牧師としての役割を果たせています。
しかし結婚式も葬式も伝道集会ではありません。そのような場にしてはなりません。教会が牧師を式場のブライダルに送り出すときに「先生、伝道してきてくださいね」と言うなら、それは間違っています。そういう意味付けができないところなら牧師を送り出すことはできないと阻止するのも間違っています。
2017年7月28日金曜日
ネットを使う牧師は全員「サイバー牧師」だ
ネットを使う牧師はいわば全員「サイバー牧師」だ。「使う」かどうかはもはや問題ではない。ユーチューブで伝道している人がいると伺った。それ自体で献金を集めておられるか、アフィリエイトか。私の根本的な問いは、ネットでしていること自体を「職業」と認める「教会」が存在するかという点にある。
ユーチューブであれメールであれ、それを使っての「伝道」を個人でしているかぎり、従来のカテゴリーで言えばいわゆる「個人伝道」に該当する。それはそれで尊重されるべきである。第三者がとやかく言うべきではない。でも、それは私が思い描く「ネット専属牧師」(仮称)とはまるきりベツモノである。
「勤務時間中のSNSは禁止」という会社や学校はまだ多い。もちろん公私混同はよくない。しかし牧師にとって「公」とは何か「私」とは何かという問題は難しい。どこまでが「勤務」でどこから「勤務外」かを区別できない。すべてが勤務であるとも言えるし、すべて遊びだと見られるなら甘受する他ない。
さらに違う問い方をすれば、そもそも牧師にとっての「勤務」ないし「仕事」とは何なのかという問題がかかわってくる。専門用語で言うとそれは「伝道」と「牧会」だが、「伝道」とは日曜朝の礼拝出席者を増やすことか、それ「だけ」なのか、献金額を増やし、教会財政を潤すことか、それ「だけ」なのか。
「牧会」とは家庭訪問をすることか、個人面談をすることか、それ「だけ」か。「手書きの書簡を送ること」なのか、メールやチャットではだめなのか。今やもはやSNSで90パーセントくらい代替できることばかりではないのか。SNSはだめだが、メールやブログならいいのか。本質的な違いがあるのか。
教会自体が牧師たちに教会と隣接ないし併設されている「牧師館」への居住を要請しているために「通勤時間ゼロ」の牧師がまだ多い中で、「通勤で汗を流さぬ牧師たちがパソコンをいじってSNSで遊んでばかりだ、けしからん」とか言い出されてしまうに至っては、言葉を失う牧師が続出するのではないか。
そもそも、「牧師としての行き場をなくして」ブライダルをしながらユーチューブで伝道しているという牧師さんの話から分かるのは、ブライダルそのもの、ネットそのものは「牧師の仕事そのもの」としては認められていないということだ。「牧師としての行き場」そのものとしては認められていないわけだ。
牧師たちまでが、というか、牧師たちこそが率先して「ブライダルなんか」と見下げるようなことを書いている。よく書けるわと思う。明日は我が身だろうに。こういうことを書いていると「ネット専属牧師にお前がなりたいのか」と言われそうだが、私の話ではない。そういう言いがかりは謹んでお断りする。
そうね、たとえばもし私が将来、複数の牧師が必要な規模の教会の主任牧師になったら、副牧師になってもらいたいのは年がら年中パソコンかスマホをいじっている人のほうがいいや。人間と世界に関心がある証拠だし、言葉を用いてのコミュニケーションに長け、広い視野と知識を持っている人だと思うから。
高校の授業を思い返しても、お世辞抜きで感心したのは、私が原稿なしでフリートークしているとき、耳慣れない言葉を聴いたと思ったらしい生徒が手元の電子辞書で瞬時に意味を調べ、納得しながら続きを聴いてくれていたことだ。スマホならもっと広く調べることができただろう。今はそういう時代なのだ。
いまだに散見する「ネット害悪論」の趣旨を全く理解できないと思っているわけではない。しかし、牧師を含む教会関係者ないし宗教関係者の方々ならばこそ、ネットにどんどん良質の情報を発信なさったらいいと思う。玉石混淆だと思うならばこそ、玉のほうの数を増やす努力をしていくしかないではないか。
ネットを使っての「伝道」に取り組んでおられるとのこと。もしそれに教会自体が取り組んでいる、または牧師個人の働きを教会が理解し支援しているなら、素晴らしいことです。
しかし、問題はその先です。ツイッターはどうですか、フェイスブックはどうですか。説教や教理解説でない、ただのおしゃべりはどうですか。「そんなヒマがあるなら仕事しろ」と言われませんか。
ツイッターやフェイスブックを「仕事の合間の息抜き」に利用するのはもちろん良いことだと思いますが、どう言ったらいいのか、そもそも牧師の仕事というのは「キリスト教安息日(それは日曜日)に慰めの言葉を語ること」だったりするわけで、他の人が息抜きしているときこそ仕事するわけですよね。
しかも、ホームページやブログに文章や音声や動画(録画)を公開しても、それはどこまで行っても固定された過去の情報でしかない。「生きた会話」(それが音声なのかチャットの字なのかは実は問題ではない)ではない。「ああ疲れた、息抜きしたい」と思っている人は「会話」を求めている可能性が高い。
私が問題にしたがっているのは、今書いた意味での「生きた会話」をSNS越しにしている部分は、牧師の「仕事」なのか、そうでないのかというあたりです。しかも、その意味での「仕事」は何分・何文字書いたらいくらもらえるというようなお金の問題とダイレクトに結びつくわけではない(ありえない)。
そういうお金の話ではなく(ありえず)、「教会」がそれ(牧師がそういうことをしていること)を白眼視したり、「そんなことをしているヒマがあるなら仕事しろ」などと言って非難したり拒絶したりせずに、「あれもれっきとした牧師としての働きなのだ」と認め、応援してくれているかどうかの問題です。
つまり言い方を換えれば、「ネット伝道」という概念がもしあるなら、その定義の問題だということです。どこまでのことがその定義に含まれるのか、です。
(追記)
自分で書いた言葉を直したくて仕方がない。「そもそも牧師の仕事というのは『キリスト教安息日(それは日曜日)に慰めの言葉を語ること』だったりするわけで」の続きは「他の人が息抜きしているときこそ仕事するわけですよね」ではなくて「他の人の息抜きに付き合うのが牧師の仕事ですよね」だなあと。
ユーチューブであれメールであれ、それを使っての「伝道」を個人でしているかぎり、従来のカテゴリーで言えばいわゆる「個人伝道」に該当する。それはそれで尊重されるべきである。第三者がとやかく言うべきではない。でも、それは私が思い描く「ネット専属牧師」(仮称)とはまるきりベツモノである。
「勤務時間中のSNSは禁止」という会社や学校はまだ多い。もちろん公私混同はよくない。しかし牧師にとって「公」とは何か「私」とは何かという問題は難しい。どこまでが「勤務」でどこから「勤務外」かを区別できない。すべてが勤務であるとも言えるし、すべて遊びだと見られるなら甘受する他ない。
さらに違う問い方をすれば、そもそも牧師にとっての「勤務」ないし「仕事」とは何なのかという問題がかかわってくる。専門用語で言うとそれは「伝道」と「牧会」だが、「伝道」とは日曜朝の礼拝出席者を増やすことか、それ「だけ」なのか、献金額を増やし、教会財政を潤すことか、それ「だけ」なのか。
「牧会」とは家庭訪問をすることか、個人面談をすることか、それ「だけ」か。「手書きの書簡を送ること」なのか、メールやチャットではだめなのか。今やもはやSNSで90パーセントくらい代替できることばかりではないのか。SNSはだめだが、メールやブログならいいのか。本質的な違いがあるのか。
教会自体が牧師たちに教会と隣接ないし併設されている「牧師館」への居住を要請しているために「通勤時間ゼロ」の牧師がまだ多い中で、「通勤で汗を流さぬ牧師たちがパソコンをいじってSNSで遊んでばかりだ、けしからん」とか言い出されてしまうに至っては、言葉を失う牧師が続出するのではないか。
そもそも、「牧師としての行き場をなくして」ブライダルをしながらユーチューブで伝道しているという牧師さんの話から分かるのは、ブライダルそのもの、ネットそのものは「牧師の仕事そのもの」としては認められていないということだ。「牧師としての行き場」そのものとしては認められていないわけだ。
牧師たちまでが、というか、牧師たちこそが率先して「ブライダルなんか」と見下げるようなことを書いている。よく書けるわと思う。明日は我が身だろうに。こういうことを書いていると「ネット専属牧師にお前がなりたいのか」と言われそうだが、私の話ではない。そういう言いがかりは謹んでお断りする。
そうね、たとえばもし私が将来、複数の牧師が必要な規模の教会の主任牧師になったら、副牧師になってもらいたいのは年がら年中パソコンかスマホをいじっている人のほうがいいや。人間と世界に関心がある証拠だし、言葉を用いてのコミュニケーションに長け、広い視野と知識を持っている人だと思うから。
高校の授業を思い返しても、お世辞抜きで感心したのは、私が原稿なしでフリートークしているとき、耳慣れない言葉を聴いたと思ったらしい生徒が手元の電子辞書で瞬時に意味を調べ、納得しながら続きを聴いてくれていたことだ。スマホならもっと広く調べることができただろう。今はそういう時代なのだ。
いまだに散見する「ネット害悪論」の趣旨を全く理解できないと思っているわけではない。しかし、牧師を含む教会関係者ないし宗教関係者の方々ならばこそ、ネットにどんどん良質の情報を発信なさったらいいと思う。玉石混淆だと思うならばこそ、玉のほうの数を増やす努力をしていくしかないではないか。
ネットを使っての「伝道」に取り組んでおられるとのこと。もしそれに教会自体が取り組んでいる、または牧師個人の働きを教会が理解し支援しているなら、素晴らしいことです。
しかし、問題はその先です。ツイッターはどうですか、フェイスブックはどうですか。説教や教理解説でない、ただのおしゃべりはどうですか。「そんなヒマがあるなら仕事しろ」と言われませんか。
ツイッターやフェイスブックを「仕事の合間の息抜き」に利用するのはもちろん良いことだと思いますが、どう言ったらいいのか、そもそも牧師の仕事というのは「キリスト教安息日(それは日曜日)に慰めの言葉を語ること」だったりするわけで、他の人が息抜きしているときこそ仕事するわけですよね。
しかも、ホームページやブログに文章や音声や動画(録画)を公開しても、それはどこまで行っても固定された過去の情報でしかない。「生きた会話」(それが音声なのかチャットの字なのかは実は問題ではない)ではない。「ああ疲れた、息抜きしたい」と思っている人は「会話」を求めている可能性が高い。
私が問題にしたがっているのは、今書いた意味での「生きた会話」をSNS越しにしている部分は、牧師の「仕事」なのか、そうでないのかというあたりです。しかも、その意味での「仕事」は何分・何文字書いたらいくらもらえるというようなお金の問題とダイレクトに結びつくわけではない(ありえない)。
そういうお金の話ではなく(ありえず)、「教会」がそれ(牧師がそういうことをしていること)を白眼視したり、「そんなことをしているヒマがあるなら仕事しろ」などと言って非難したり拒絶したりせずに、「あれもれっきとした牧師としての働きなのだ」と認め、応援してくれているかどうかの問題です。
つまり言い方を換えれば、「ネット伝道」という概念がもしあるなら、その定義の問題だということです。どこまでのことがその定義に含まれるのか、です。
(追記)
自分で書いた言葉を直したくて仕方がない。「そもそも牧師の仕事というのは『キリスト教安息日(それは日曜日)に慰めの言葉を語ること』だったりするわけで」の続きは「他の人が息抜きしているときこそ仕事するわけですよね」ではなくて「他の人の息抜きに付き合うのが牧師の仕事ですよね」だなあと。
神学は嫉妬心が強い
たまに見せびらかしたくなる岩波文庫コレクション(現在299冊)。4段目前列はサイボーグ009(豪華版、サンデーコミックス版、メディアファクトリー版、文庫版、コンビニコミックス版)。後列にプラトン全集、アリストテレス全集、ヘーゲル全集、ジンメル著作集、トレルチ著作集、聖書注解など。
見せびらかしたくないカオスな本棚はこちら。テルトゥリアヌス、オリゲネス、アウグスティヌス、アクィナス、リュースブルク、ルター、カルヴァン、ウェスレー、バルト、ボンヘッファー、カイパー、バーフィンク、ベルカウワー、ファン・ルーラー、モルトマン、パネンベルク、ゼレ他。どなたも後列に。
神学でも競争が激しいテーマはある。各教団の創設者ないし中興の祖の主要思想を扱う場合。各教団にとっての事実上の死活事項(articulus stantis et cadentis ecclesiae)を扱う場合。しかもそれを論者自身もその教団の継承者として自己を位置付けて扱う場合。
デキル人はそこをとことんやるべきだと私なんかはいつも思っている。やる人はやっているが。アウグスティヌス、アクィナス、ルター、カルヴァン、ウェスレー、バルト、ボンヘッファー。研究会や学会は日本にもある。競争が激しいのは仕方ない。語弊を恐れながら言えば、すきまや周辺でなくど真ん中を。
おそらく神学は最終的には評論家を嫌うのだと思う。ハスに構えて遠くからあれこれ論評してくる存在から神学もまた距離を置く。自らを「担ってくれる」存在に神学は憑依し、宿る。神学は嫉妬心が強い。「ルターになってくれる人」「カルヴァンになってくれる人」「バルトになってくれる人」を募集する。
せっかくデキルのに、やればデキそうなのに「ど真ん中」をやろうとしない人を何人か知っている。もったいないと思う。もちろん人それぞれの生き方だ。選択の自由はある。でも、あなたにしか座れない操縦席があるよ、あなたしか動かせないロボがあるよと言いたくなる。逃げちゃだめだ逃げちゃだめだと。
2017年7月27日木曜日
ネットこわいと久々に思った
おお、なんだかいつの間にかユーチューブで観える映画やアニメが一気に増えた気がする。もちろんすべて有料だが。観たいとも思わないようなのでなく、けっこう話題作が揃っている。近いうちにレンタルの店舗が一気に姿を消すときが来るのかな。どっと来る感、久々にネットこわいと思った(今さらか)。
この恐怖感というか威圧感というか急激性かもしれないなと。教会や神学にネットを使うことにいまだにストップがかかる理由というか要素は。教会やいわゆる神学校が100%ネットで代替される日が来るとは少なくとも私には全く思えないが、90%くらい代替できてしまうかもしれないと思わなくもない。
牧師さんたち、そろそろネットから引き上げよっかとか言いたくなったりして。私がネットを始めた20年前もブログやSNSを始めた9年くらい前も「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」の気持ちでいたが、今そうでもないよ。私の、というより牧師さんたちの書き込み、すんごい読まれていると思う。
だけどさ、私もそうだが、何の反応もないときは平気で言えたり書いたりできるのに、注目されたり話題にされたりすると急に赤面して凹んだりする。持ち上げられたりすると逃げる、隠れる。だって恥ずかしいもの。出たがりなのか恥ずかしがりなのかワケわからんタイプ、私と同じ仕事の人に多いと思うよ。
今書いたことは横に置くとして、「教会を失いたくない」と願いながら自分が果たすべき機能の大部分をネットで代替させてしまっているとしたら、これどう考えても矛盾なんだよね。それはずっと前から感じていたことだけど、そろそろ「無料お試し期間終了」というところかもね。はは、まあ冗談だけどね。
ありがとうございます。私の話ではないですよ。私はネットは全く苦にならないので。ただ、ネット人口がこれだけ増えると「ネットに献身する人」が必要ですね。でも、その姿をハタから見ると、教会からも家族からも背を向けてPCの画面だけ見て指先だけ動かしている牧師ってことになっちゃうんですよね。
そういう「ネット専属牧師」をサポートする仕組みができるといいのかもしれません。それを可能にするだけの力が日本の教会にないんですけどね。
そうですそうです。残る問題は、教会の理解だけです。やや誇張気味に言えば「ぜひネットに献身してください。わたしたちの顔など見なくていいです。PCの画面だけを見つめ、字を書くことだけに集中、専念してください。それがあなたのミッションです」と喜んで派遣してくださる教会が必要です。
はい全くおっしゃるとおりです。ネットが苦にならなくて、瞬時にいろいろ考えられて、炎上とかしないように言葉を選べて、しかも笑えることを書ける熟練したネット伝道者の育成が急務かもしれません。
呼称はともかく「ネット専属牧師」に対するニードは潜在的にものすごくある。私がなりたいという意味ではない。「日曜日に教会に通うこと」は仕事や病気や加齢、家族の同意を得られないなどの理由で「不可能」だが、聖書は知りたい、自分の悩みに答えを求めているという方は、ものすごくたくさんいる。
ネットに公開された説教や教理解説の文章を読め、録画を見ろ、音声を聴けと言われても、それはそれで一方通行だし、自分の問いにぴったりの答えが得られない。そういう場合にSNSのような双方向の、しかも「1対1の」閉鎖空間でない「みんなの中でさりげなくやり取りできる」開放空間が意味を持つ。
いつもはほぼ冗談しか言い合っていないけど、なんとなくそこにいてくれると安心するという存在が、「自称」も「公式」も含めた「ネット専属牧師」について私が描いているイメージだ。信頼できて威圧感がない存在。たとえていえば、ドラゴンクエストの世界に登場する「教会」のような存在かもしれない。
この恐怖感というか威圧感というか急激性かもしれないなと。教会や神学にネットを使うことにいまだにストップがかかる理由というか要素は。教会やいわゆる神学校が100%ネットで代替される日が来るとは少なくとも私には全く思えないが、90%くらい代替できてしまうかもしれないと思わなくもない。
牧師さんたち、そろそろネットから引き上げよっかとか言いたくなったりして。私がネットを始めた20年前もブログやSNSを始めた9年くらい前も「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」の気持ちでいたが、今そうでもないよ。私の、というより牧師さんたちの書き込み、すんごい読まれていると思う。
だけどさ、私もそうだが、何の反応もないときは平気で言えたり書いたりできるのに、注目されたり話題にされたりすると急に赤面して凹んだりする。持ち上げられたりすると逃げる、隠れる。だって恥ずかしいもの。出たがりなのか恥ずかしがりなのかワケわからんタイプ、私と同じ仕事の人に多いと思うよ。
今書いたことは横に置くとして、「教会を失いたくない」と願いながら自分が果たすべき機能の大部分をネットで代替させてしまっているとしたら、これどう考えても矛盾なんだよね。それはずっと前から感じていたことだけど、そろそろ「無料お試し期間終了」というところかもね。はは、まあ冗談だけどね。
ありがとうございます。私の話ではないですよ。私はネットは全く苦にならないので。ただ、ネット人口がこれだけ増えると「ネットに献身する人」が必要ですね。でも、その姿をハタから見ると、教会からも家族からも背を向けてPCの画面だけ見て指先だけ動かしている牧師ってことになっちゃうんですよね。
そういう「ネット専属牧師」をサポートする仕組みができるといいのかもしれません。それを可能にするだけの力が日本の教会にないんですけどね。
そうですそうです。残る問題は、教会の理解だけです。やや誇張気味に言えば「ぜひネットに献身してください。わたしたちの顔など見なくていいです。PCの画面だけを見つめ、字を書くことだけに集中、専念してください。それがあなたのミッションです」と喜んで派遣してくださる教会が必要です。
はい全くおっしゃるとおりです。ネットが苦にならなくて、瞬時にいろいろ考えられて、炎上とかしないように言葉を選べて、しかも笑えることを書ける熟練したネット伝道者の育成が急務かもしれません。
呼称はともかく「ネット専属牧師」に対するニードは潜在的にものすごくある。私がなりたいという意味ではない。「日曜日に教会に通うこと」は仕事や病気や加齢、家族の同意を得られないなどの理由で「不可能」だが、聖書は知りたい、自分の悩みに答えを求めているという方は、ものすごくたくさんいる。
ネットに公開された説教や教理解説の文章を読め、録画を見ろ、音声を聴けと言われても、それはそれで一方通行だし、自分の問いにぴったりの答えが得られない。そういう場合にSNSのような双方向の、しかも「1対1の」閉鎖空間でない「みんなの中でさりげなくやり取りできる」開放空間が意味を持つ。
いつもはほぼ冗談しか言い合っていないけど、なんとなくそこにいてくれると安心するという存在が、「自称」も「公式」も含めた「ネット専属牧師」について私が描いているイメージだ。信頼できて威圧感がない存在。たとえていえば、ドラゴンクエストの世界に登場する「教会」のような存在かもしれない。
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