2017年7月28日金曜日

ネットを使う牧師は全員「サイバー牧師」だ

ネットを使う牧師はいわば全員「サイバー牧師」だ。「使う」かどうかはもはや問題ではない。ユーチューブで伝道している人がいると伺った。それ自体で献金を集めておられるか、アフィリエイトか。私の根本的な問いは、ネットでしていること自体を「職業」と認める「教会」が存在するかという点にある。

ユーチューブであれメールであれ、それを使っての「伝道」を個人でしているかぎり、従来のカテゴリーで言えばいわゆる「個人伝道」に該当する。それはそれで尊重されるべきである。第三者がとやかく言うべきではない。でも、それは私が思い描く「ネット専属牧師」(仮称)とはまるきりベツモノである。

「勤務時間中のSNSは禁止」という会社や学校はまだ多い。もちろん公私混同はよくない。しかし牧師にとって「公」とは何か「私」とは何かという問題は難しい。どこまでが「勤務」でどこから「勤務外」かを区別できない。すべてが勤務であるとも言えるし、すべて遊びだと見られるなら甘受する他ない。

さらに違う問い方をすれば、そもそも牧師にとっての「勤務」ないし「仕事」とは何なのかという問題がかかわってくる。専門用語で言うとそれは「伝道」と「牧会」だが、「伝道」とは日曜朝の礼拝出席者を増やすことか、それ「だけ」なのか、献金額を増やし、教会財政を潤すことか、それ「だけ」なのか。

「牧会」とは家庭訪問をすることか、個人面談をすることか、それ「だけ」か。「手書きの書簡を送ること」なのか、メールやチャットではだめなのか。今やもはやSNSで90パーセントくらい代替できることばかりではないのか。SNSはだめだが、メールやブログならいいのか。本質的な違いがあるのか。

教会自体が牧師たちに教会と隣接ないし併設されている「牧師館」への居住を要請しているために「通勤時間ゼロ」の牧師がまだ多い中で、「通勤で汗を流さぬ牧師たちがパソコンをいじってSNSで遊んでばかりだ、けしからん」とか言い出されてしまうに至っては、言葉を失う牧師が続出するのではないか。

そもそも、「牧師としての行き場をなくして」ブライダルをしながらユーチューブで伝道しているという牧師さんの話から分かるのは、ブライダルそのもの、ネットそのものは「牧師の仕事そのもの」としては認められていないということだ。「牧師としての行き場」そのものとしては認められていないわけだ。

牧師たちまでが、というか、牧師たちこそが率先して「ブライダルなんか」と見下げるようなことを書いている。よく書けるわと思う。明日は我が身だろうに。こういうことを書いていると「ネット専属牧師にお前がなりたいのか」と言われそうだが、私の話ではない。そういう言いがかりは謹んでお断りする。

そうね、たとえばもし私が将来、複数の牧師が必要な規模の教会の主任牧師になったら、副牧師になってもらいたいのは年がら年中パソコンかスマホをいじっている人のほうがいいや。人間と世界に関心がある証拠だし、言葉を用いてのコミュニケーションに長け、広い視野と知識を持っている人だと思うから。

高校の授業を思い返しても、お世辞抜きで感心したのは、私が原稿なしでフリートークしているとき、耳慣れない言葉を聴いたと思ったらしい生徒が手元の電子辞書で瞬時に意味を調べ、納得しながら続きを聴いてくれていたことだ。スマホならもっと広く調べることができただろう。今はそういう時代なのだ。

いまだに散見する「ネット害悪論」の趣旨を全く理解できないと思っているわけではない。しかし、牧師を含む教会関係者ないし宗教関係者の方々ならばこそ、ネットにどんどん良質の情報を発信なさったらいいと思う。玉石混淆だと思うならばこそ、玉のほうの数を増やす努力をしていくしかないではないか。

ネットを使っての「伝道」に取り組んでおられるとのこと。もしそれに教会自体が取り組んでいる、または牧師個人の働きを教会が理解し支援しているなら、素晴らしいことです。

しかし、問題はその先です。ツイッターはどうですか、フェイスブックはどうですか。説教や教理解説でない、ただのおしゃべりはどうですか。「そんなヒマがあるなら仕事しろ」と言われませんか。

ツイッターやフェイスブックを「仕事の合間の息抜き」に利用するのはもちろん良いことだと思いますが、どう言ったらいいのか、そもそも牧師の仕事というのは「キリスト教安息日(それは日曜日)に慰めの言葉を語ること」だったりするわけで、他の人が息抜きしているときこそ仕事するわけですよね。

しかも、ホームページやブログに文章や音声や動画(録画)を公開しても、それはどこまで行っても固定された過去の情報でしかない。「生きた会話」(それが音声なのかチャットの字なのかは実は問題ではない)ではない。「ああ疲れた、息抜きしたい」と思っている人は「会話」を求めている可能性が高い。

私が問題にしたがっているのは、今書いた意味での「生きた会話」をSNS越しにしている部分は、牧師の「仕事」なのか、そうでないのかというあたりです。しかも、その意味での「仕事」は何分・何文字書いたらいくらもらえるというようなお金の問題とダイレクトに結びつくわけではない(ありえない)。

そういうお金の話ではなく(ありえず)、「教会」がそれ(牧師がそういうことをしていること)を白眼視したり、「そんなことをしているヒマがあるなら仕事しろ」などと言って非難したり拒絶したりせずに、「あれもれっきとした牧師としての働きなのだ」と認め、応援してくれているかどうかの問題です。

つまり言い方を換えれば、「ネット伝道」という概念がもしあるなら、その定義の問題だということです。どこまでのことがその定義に含まれるのか、です。

(追記)

自分で書いた言葉を直したくて仕方がない。「そもそも牧師の仕事というのは『キリスト教安息日(それは日曜日)に慰めの言葉を語ること』だったりするわけで」の続きは「他の人が息抜きしているときこそ仕事するわけですよね」ではなくて「他の人の息抜きに付き合うのが牧師の仕事ですよね」だなあと。

神学は嫉妬心が強い


たまに見せびらかしたくなる岩波文庫コレクション(現在299冊)。4段目前列はサイボーグ009(豪華版、サンデーコミックス版、メディアファクトリー版、文庫版、コンビニコミックス版)。後列にプラトン全集、アリストテレス全集、ヘーゲル全集、ジンメル著作集、トレルチ著作集、聖書注解など。


見せびらかしたくないカオスな本棚はこちら。テルトゥリアヌス、オリゲネス、アウグスティヌス、アクィナス、リュースブルク、ルター、カルヴァン、ウェスレー、バルト、ボンヘッファー、カイパー、バーフィンク、ベルカウワー、ファン・ルーラー、モルトマン、パネンベルク、ゼレ他。どなたも後列に。

神学でも競争が激しいテーマはある。各教団の創設者ないし中興の祖の主要思想を扱う場合。各教団にとっての事実上の死活事項(articulus stantis et cadentis ecclesiae)を扱う場合。しかもそれを論者自身もその教団の継承者として自己を位置付けて扱う場合。

デキル人はそこをとことんやるべきだと私なんかはいつも思っている。やる人はやっているが。アウグスティヌス、アクィナス、ルター、カルヴァン、ウェスレー、バルト、ボンヘッファー。研究会や学会は日本にもある。競争が激しいのは仕方ない。語弊を恐れながら言えば、すきまや周辺でなくど真ん中を。

おそらく神学は最終的には評論家を嫌うのだと思う。ハスに構えて遠くからあれこれ論評してくる存在から神学もまた距離を置く。自らを「担ってくれる」存在に神学は憑依し、宿る。神学は嫉妬心が強い。「ルターになってくれる人」「カルヴァンになってくれる人」「バルトになってくれる人」を募集する。

せっかくデキルのに、やればデキそうなのに「ど真ん中」をやろうとしない人を何人か知っている。もったいないと思う。もちろん人それぞれの生き方だ。選択の自由はある。でも、あなたにしか座れない操縦席があるよ、あなたしか動かせないロボがあるよと言いたくなる。逃げちゃだめだ逃げちゃだめだと。

2017年7月27日木曜日

ネットこわいと久々に思った

おお、なんだかいつの間にかユーチューブで観える映画やアニメが一気に増えた気がする。もちろんすべて有料だが。観たいとも思わないようなのでなく、けっこう話題作が揃っている。近いうちにレンタルの店舗が一気に姿を消すときが来るのかな。どっと来る感、久々にネットこわいと思った(今さらか)。

この恐怖感というか威圧感というか急激性かもしれないなと。教会や神学にネットを使うことにいまだにストップがかかる理由というか要素は。教会やいわゆる神学校が100%ネットで代替される日が来るとは少なくとも私には全く思えないが、90%くらい代替できてしまうかもしれないと思わなくもない。

牧師さんたち、そろそろネットから引き上げよっかとか言いたくなったりして。私がネットを始めた20年前もブログやSNSを始めた9年くらい前も「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」の気持ちでいたが、今そうでもないよ。私の、というより牧師さんたちの書き込み、すんごい読まれていると思う。

だけどさ、私もそうだが、何の反応もないときは平気で言えたり書いたりできるのに、注目されたり話題にされたりすると急に赤面して凹んだりする。持ち上げられたりすると逃げる、隠れる。だって恥ずかしいもの。出たがりなのか恥ずかしがりなのかワケわからんタイプ、私と同じ仕事の人に多いと思うよ。

今書いたことは横に置くとして、「教会を失いたくない」と願いながら自分が果たすべき機能の大部分をネットで代替させてしまっているとしたら、これどう考えても矛盾なんだよね。それはずっと前から感じていたことだけど、そろそろ「無料お試し期間終了」というところかもね。はは、まあ冗談だけどね。

ありがとうございます。私の話ではないですよ。私はネットは全く苦にならないので。ただ、ネット人口がこれだけ増えると「ネットに献身する人」が必要ですね。でも、その姿をハタから見ると、教会からも家族からも背を向けてPCの画面だけ見て指先だけ動かしている牧師ってことになっちゃうんですよね。

そういう「ネット専属牧師」をサポートする仕組みができるといいのかもしれません。それを可能にするだけの力が日本の教会にないんですけどね。

そうですそうです。残る問題は、教会の理解だけです。やや誇張気味に言えば「ぜひネットに献身してください。わたしたちの顔など見なくていいです。PCの画面だけを見つめ、字を書くことだけに集中、専念してください。それがあなたのミッションです」と喜んで派遣してくださる教会が必要です。

はい全くおっしゃるとおりです。ネットが苦にならなくて、瞬時にいろいろ考えられて、炎上とかしないように言葉を選べて、しかも笑えることを書ける熟練したネット伝道者の育成が急務かもしれません。

呼称はともかく「ネット専属牧師」に対するニードは潜在的にものすごくある。私がなりたいという意味ではない。「日曜日に教会に通うこと」は仕事や病気や加齢、家族の同意を得られないなどの理由で「不可能」だが、聖書は知りたい、自分の悩みに答えを求めているという方は、ものすごくたくさんいる。

ネットに公開された説教や教理解説の文章を読め、録画を見ろ、音声を聴けと言われても、それはそれで一方通行だし、自分の問いにぴったりの答えが得られない。そういう場合にSNSのような双方向の、しかも「1対1の」閉鎖空間でない「みんなの中でさりげなくやり取りできる」開放空間が意味を持つ。

いつもはほぼ冗談しか言い合っていないけど、なんとなくそこにいてくれると安心するという存在が、「自称」も「公式」も含めた「ネット専属牧師」について私が描いているイメージだ。信頼できて威圧感がない存在。たとえていえば、ドラゴンクエストの世界に登場する「教会」のような存在かもしれない。

2017年7月26日水曜日

あの頃はきつかった

一昨年の後半は、25年もゴミ山の中に放置していた教員免許を探し、更新講習を受講して修了試験を受け、教員採用試験(筆記、模擬授業、面接)を受け、日本基督教団転入試験(補教師試験、正教師試験、改革派加入試験に次ぐ4度目の牧師試験)を受けるという三段階認証をクリアするために必死だった。

それを毎週説教し、牧師の仕事を続けながらしていた。なので私は、試験を前にしてプレッシャーを感じている人の気持ちが痛いほど分かる。だけどね、逆の立場に立ってみれば、いいかげんな試験で「牧師」だの「教員」だの名乗っている人間がいたらどうだろうと思うのよ。厳しい試験のほうがいいよねえ。

「三段階認証」と書いたが、それはもののたとえとして書いたまでだ。日本基督教団転入試験は、教員免許更新試験とも教員採用試験ともリンクしていたわけではない。採用条件の中に「日本基督教団教師に限る」と明示されていたわけではない。誤解されると困るので、はっきり書いておくほうがよいだろう。

その3つの試験の準備をしながら、転居先の借家を探したり、家の片づけをしていた。こういうことを少し書けるようになったのは、時間に人の心をいやしてくれる面があるからだ。時間は偉大だ。記憶力が低下しているだけかもしれないが、それも含めて時間は偉大だ。すべて鮮明に覚えていたらたぶん狂う。

あの苦しかったときもネットつながりの方々に助けていただいた。あのお励ましがなかったらたぶん心が折れていたと思う。感謝の言葉以外にない。ありがとうございました。「ただいいねのみ」(ソラ・イーネ)で人は結構立っていられるものだ。不思議なこととは思わない。人はそういうものだと思うから。

ついにブルンナーの教義学を読み始めた。バルトの教義学と比較しながら読み進めるのも面白そうだが、混ぜながら読むのも面白そうだ。バルンナーとかブルトがいてもよいだろう。読者はどちらかの、あるいは誰かの主義者になる必要はないし、他方を全否定する必要もない。すべての神学に一長一短がある。

1931年発行ブルンネル『危機の神学』(新生堂)の「訳者序」に岡田五作氏が次のように書いている。「ボン大学に於けるバルト教授と相並んで、此の学派の重きをなす指導者の一人は、スウィッツル、ツーリヒ大学の組織神学教授、H. エーミル・ブルンネル博士であらう」(2頁。新漢字に改めた)。

そうなのだ。ブルンナーとバルトは勝ち負けの関係ではなく「相並ぶ関係」なのだ。両神学者の日本での紹介のされ方がバルト側に偏りすぎていただけだ。21世紀神学は、前々世紀生まれのこの2人を対等に重んじつつ、両者に対して等距離を保ち、それぞれの長所と短所を見抜く作業に取り組むほうがいい。

どうにも持って行きどころのない、ふつふつわいてくるものは、どこと限らず「学校を作ればもうかる」という前提でもなければ今の事態にそもそもなっていないだろうと感じられてならないことだが、学歴だ経歴だ、プライドだ屈辱だという人の最も弱いところを。みんながもっと独学すれば前提崩れるかも。

教員の受け取りをとやかく言うつもりはない。非常勤だけでなく有期の常勤講師も不安定そのもの。専任者も定年で終わるので、それはそれで戦々恐々。それより、いつから学校が真顔で「教育ビジネス」だのほざくようになったのか。私なんか古い頭の人間なので、そういうことを思うのだ。くっだらねえと。

2017年7月24日月曜日

拙「説教」アクセスランキング

日本基督教団置戸教会(北海道置戸町、2016年2月14日)

2016年1月から2017年7月24日現在までの拙ブログ掲載「説教」(全47編)のアクセスランキングトップ10を調べた。興味深い結果となった。「学校」の影響は強大だった。しかし「教会」も負けていない。

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拙「説教」アクセスランキング(2016年1月1日~2017年7月24日)


第1位「一タラントンを地に埋めたしもべはなぜ主人に叱られたのか」
2017年3月19日、日本基督教団習志野教会(千葉市花見川区)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2017/03/19.html

第2位「神は世界を傲慢から救う」
2016年8月21日、日本基督教団阿佐谷東教会(東京都杉並区)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/08/21.html

第3位「熱く生きろ!」
2017年6月27日、東京女子大学(東京都杉並区)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2017/06/27.html

第4位「失敗を恐れるな」
2016年3月13日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(千葉市)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/03/13.html

第5位「礼拝の意味」
2016年7月14日、千葉英和高等学校(千葉県八千代市)http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/07/04.html

第6位「人を助ける働きをするとは」
2017年2月13日、千葉英和高等学校(千葉県八千代市)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2017/02/13.html

第7位「互いに重荷を担いなさい」
2016年6月6日、千葉英和高等学校(千葉県八千代市)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/06/06.html

第8位「新しい時代に伝道を」
2017年5月14日、日本基督教団青戸教会(東京都葛飾区)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2017/05/14.html

第9位「友達を作りなさい」
2016年8月14日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(千葉市)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/08/14.html

第10位「神があなたと共に苦悶する」
2016年11月13日、日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/11/13.html

第10位「キリストに従う」
2016年2月14日、日本基督教団置戸教会(北海道置戸町)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/02/02-14.html

2017年7月23日日曜日

信じる前に失望しない(千葉若葉教会)


ヨハネによる福音書4章48~50節

関口 康(日本基督教団教師)

「イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた。役人は、『主よ、子供が死なないうちに、おいでください』と言った。イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」

ヨハネによる福音書の学びの5回目です。前回が4章で、今日も4章です。

回数を数えやすいように1章ずつ進めていくことも考えましたが、今日の箇所にはどうしても触れておきたいと思いました。と言いますのは、今日の箇所の出来事は、2回目(2017年5月28日「喜びを追い求めよう」)の2章の出来事と密接な関連があるからです。

それはイエスさまがカナでの結婚式のときに水をぶどう酒にされた出来事です。それと今日の箇所が密接に関係しています。次のように記されています。

「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に替えられた所である」(46節)。「これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである」(54節)。これは明らかに、2章の出来事と今日の箇所の出来事は関係があるということを読者に教えようとしている言葉です。

別の言い方をすれば、今日の箇所の出来事にはイエスさまが水をぶどう酒にしたあの出来事と本質的に共通する要素があるということです。それが「しるし」です。前回も今回も「しるし」だった。そしてこれは「二回目のしるし」だったと記されているのです。

まとめていえば、そもそもの大前提として、今日の箇所に記されている出来事は「しるし」なのだという観点からすべてを読み解く必要があるということです。

しかし、その場合の問題は「しるし」とは何かということです。その答えははっきりしています。それを見ればイエスさまこそ救い主キリストであると信じることができる、信仰の理由ないし根拠が「しるし」です。空が黒い雲でおおわれる。まもなく雨が降る。その雲が雨の「しるし」です。

そして、それはもちろん、単にイエスさまが救い主であるという客観的な事実がその「しるし」によって明らかにされたというだけで済む問題ではありません。救い主であるイエスさまがかつて大昔の人を救ったことがあるというだけでなく、そのイエスさまが今もこの私を救ってくださっているという事実が重要です。以上のことを最初に申し上げておきます。

さて、ここから内容に入ります。カナにおられたイエスさまのもとに、カファルナウムから「王の役人」(46節)が来ました。カファルナウムはイエスさまが伝道活動をお始めになった最初の拠点です。ガリラヤ湖畔の漁師の町。

そのカファルナウムから「王の役人」がイエスさまのもとに来たその目的は、その人の「息子」が「病気」だったので、イエスさまに「カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼む」ためでした(47節)。

「息子が死にかかっていたからである」(47節)と記されています。自分の子どもを失うことの親の悲しみは体験した方にしか分かりません。体験したことのない者には語る資格はありません。想像をめぐらして物を言うこと自体、慎重でなければなりません。ただ確実に言えるのは、この「王の役人」は、あらゆる意味で切羽詰まった思いでいたに違いないということです。

そして、そのような追い詰められた、窮地に立たされたこの人が自分の子どもの命を救ってほしいとイエスさまのもとに助けを求めてきたということは、助けてくれるならイエスさまでなくてもだれでもよかったが、たまたまイエスさまにお願いした、ということではなかっただろうと思うのです。

今の世の中ではいろいろ語弊が出てくるところではありますが、たとえば、この人が「王の役人」であったということは、客観的な意味で社会的地位の高い人であったと考えられます。その人の息子さんであるということは、いわゆる跡取りのことなどが関係してくるかもしれない、将来を相当嘱望されていた子どもさんだったかもしれない、などなど。

だからどうしたと、それ以上のことは言えません。しかし、「王の役人」にとって自分の息子の命を預け、なんとかして助けてもらいたいと願ってイエスさまのところに来たときに、助けてもらえさえすればイエスさまでなくてもだれでもいいと思っていたわけではありません。イエスさまに対する絶大なる信頼をすでに持っていたからこそ、イエスさまに助けを求めて来たのです。

しかし、ここから先はまた非常に難しい問題に立ち入ることになります。問題はこの「王の役人」がイエスさまにそれほどまでの絶大なる信頼をすでに持っていた理由ないし根拠です。それが先ほどから申し上げている「しるし」の問題です。

最初のしるし、すなわち、カナでの結婚式でイエスさまが水をぶどう酒に変えるという、とんでもなくありえない、異常なことをなさった。そういうことができる方ならば、私の息子の死に至る病もいやしてもらえるに違いない。そういう信じ方をしたのだと思います。

すると、イエスさまはこの人に次のようにおっしゃいました。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)。イエスさまは冷たいことをおっしゃっているわけではありません。しかし、突き放しておられるようでもあります。

イエスさまがおっしゃっていることの意図は、「なぜあなたはわたしを信頼するのか」ということです。自分の子どもの命を他人に託すという重大な事柄をこのわたしに任せようとする、そのあなたの理由ないし根拠は何なのかという問いかけです。「しるし」なのか、「不思議な業」なのか。そんなことが理由なのかと。

このイエスさまの言葉を聞いて、「ああうるさい」と、「ああ、もうそんなことを言われるならここに来るんじゃなかった。ただ助けてほしいだけだ。助けてくれるなら、あなたではなくても、だれでもいい。うるさいことを言われるなら、もう結構だ」と、そのような反応が、もしかしたらこの人の心の中に起こったかもしれません。

そうする権利はこの人にあったと思います。しかしそれは、逆の視点に立てばイエスさまも同じだということです。ここから先は、イエスさまならそうお考えになるだろうという意味ではなく、あくまでも私の感覚で申し上げることですが、イエスさまのほうにも断る権利があるといえばあるわけです。

皆さんはどうでしょうか。わたしたちはどうでしょうか。「助けてください」と死にそうな顔と声で頼ってくる人を必ずすべて助けてきたでしょうか。今の私はひどく困っていますが、私が死にそうな顔で「助けてください」と言えば、みなさんは私を助けてくださいますか。

教会にはいろんな問題を抱えた方々が具体的な助けを求めてこられます。そのすべての人々を教会は必ず助けてきたでしょうか。そういうことは実際には不可能ですし、本人のためにならないという理由でお断りする場合も多くあります。

私たちも体験することがあると思います。私もあります。助けを求めてきた人を助けたら、他でも同じことを繰り返している詐欺師だった。あるいは、助けを求められたがやむをえずお断りしたら、あとで逆恨みされた。

いま私が申し上げていることと、今日の箇所に書かれていることとは全く関係ないと思われるかもしれません。この王の役人の子どもさんは死にそうになっていたのですよ。人の命がかかっていたのですよ。そのような切羽詰まった場面でイエスさまが「なぜ私を信頼するのか」などと、そのようなことを問題になさるはずがない。たとえ詐欺師であってもイエスさまなら助けてくださるに違いない。イエスさまを侮辱しないでほしいと思われるかもしれない。

しかし、今日の箇所に確かに記されているのは、イエスさまがこの人に「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とおっしゃったその言葉です。この言葉の意味をわたしたちはよくよく考える必要があると思うのです。

この人が他の人ではなくイエスさまをあえて選んで助けを求めに来た理由は、イエスさまがカナで行われた「最初のしるし」だったことは間違いありません。つまりこの人は、魔法使いか超能力者が引き起こす奇々怪々の超常現象をイエスさまに期待したのです。そういう助けの求め方をしたのです。

しかしイエスさまは、そのような理由でご自分を信頼し、助けを求めてくる人々を退けておられました。そのことがはっきり書かれている箇所があります。「最初のしるし」が描かれていた箇所のすぐ後です。2章23節から25節です。次のように記されています。

「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(2章23~25節)。

さっと読むだけではよく分からない難しい言葉が並んでいますが、はっきり分かるのは、イエスさまは、御自身が行われた「しるし」を見て信じる人々を信用なさらなかった、ということです。

しかし、これは本当に難しい問題です。こういうたとえはどうでしょうか。会社が社員を募集し、応募してくれた人と面接する。その場合、客観的な意味での才能や技能や業績などをその人が持っているかどうかが全く分からない、正体不明の相手をいきなり信用して採用することがありうるでしょうか。

まして、自分の子どもの命を預けるという重大な決断を、何の「しるし」もない正体不明の相手に対してできる人がいるだろうかと考えていただけば、私が今ムニャムニャ口ごもりながら申し上げていることの趣旨をお分かりいただけるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

いま私が申し上げているのは、「イエスさまが、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と指摘されたことは全く反論の余地がないということです。全くイエスさまのおっしゃるとおりです。しかし、イエスさまはそういう相手は信用なさらないということです。さて困りました。

イエスさまがお求めになるのは、「しるし」ではなく、「わたし」を信じることです。イエスさまがなさる「しるし」や「わざ」を信じるのではなく、イエスさまご自身を信じることです。

その意味は、イエスさまという方はこんなにすごいことができる方だから信じるとか、こんなことを私にしてくださった方だから信じるというような、相手の業績を見て、その評価として信じるというような信じ方をする相手を、イエスさまは信用しない、ということです。

「王の役人」がイエスさまに必死でお願いしている言葉の中に、一つ気になる点があります。本人に悪気などは全くないと思います。しかし、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」(48節)と言っています。

気持ちはものすごく分かります。しかし「子供が死なないうちに」という言葉には脅しの要素があります。あるいは命令。私の子どもが死にそうなのはあなたのせいだという意味を持ちはじめます。あのマルタとマリアが弟ラザロが死んで4日も経ってやっと来てくださったイエスさまに向かって「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言い放ったように(ヨハネ11章)。

イエスさまは、だれの脅迫にも命令にも、お従いになりません。人から頼まれるとどんなことでも断ることができないというような、お人よしの方でもありません。「しるし」を見ました、そのご立派な業績の評価としてあなたを信じてあげます、というような近づき方をする相手はお嫌いになります。

イエスさまがお求めになるのは「わたしを信じること」です。その相手を必ず助けてくださいます。私たちも同じです。私たちにもイエスさまが行った「しるし」ではなく「イエスさま」を信じることが求められています。

イエスさまは私たちの願いを願い通りに叶えてくださらないかもしれません。なぜなら、イエスさまは、私たちの自己実現の手助けをしてくださらないからです。そういうふうな求め方をする相手を退けられるからです。

イエスさまは、私たちの要望に応じるのではなくご自身の御心に従って私たちを助けてくださいます。だから、私たちは「イエスさまを信じる前に」失望してはならないのです。

(2017年7月23日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)

2017年7月22日土曜日

ファン・ルーラーと私

ブーケンセントルム版『ファン・ルーラー著作集』

いろんな教会で説教するようになったのは昨年度教務教師だったときからで、それ以前は教会定住の牧師として基本的に毎週同じ教会で説教していた。その頃の説教スタイルは一定していたが、現在は各教会の実情に合わせて変えている。不統一感は自分でも否めないが、ぜひ事情と趣旨をご理解いただきたい。

ただし、教会定住の牧師だったときから(現在復帰を希望している)今日に至るまで私の説教において一貫している「人間と人間性への全面的な肯定」(その中には「自己肯定」が含まれる)という神学的論点は、ファン・ルーラーの神学への同意と共感に基づいている。これはおそらく生涯変わらないだろう。

この論点は私がファン・ルーラーの著作を読み始めてから加わってきたことではない。記憶にないほど相当以前から悩んでいた問題(私の教会生活は0歳から開始され現在51歳まで中断なく継続されている)にファン・ルーラーが、私が生まれるよりもはるか前から取り組んでくれていたことが分かったのだ。

1950年代後半のドイツで、若き説教学者ボーレンと若き教義学者モルトマンがオランダからドイツに講演旅行に来たファン・ルーラーと出会い、甚大な影響を受けた。世界的な神学者と自分を並べて語るおこがましさはないつもりだが、彼らがどれほど感動し、全く新しい視野が開けたかが私はよく分かる。

ファン・ルーラーの神学は、説教と教義学を根本から問い直す。教会の心臓にメスを入れる。軽々しいことではありえない。しかし、強い決心と勇気をもって取り組み、道半ばで62歳で病気で倒れた。世界的知名度に乏しいのはオランダ国内の教会と神学の改革に集中していたからだ。海外旅行をしなかった。

ファン・ルーラーは生涯「オランダ改革派教会」(Nederlandse Hervormde Kerk)のメンバーだったが、ファン・ルーラーの神学的視野は広く、教派を超え、国境を越えて重んじられた。彼の神学について書かれた多くの博士論文の中にカトリック教会の神学者が著したものもある。

私がファン・ルーラーのオランダ語著作を読み始めて20年になる。もっと前からファン・ルーラーの著作を読んでおられた先輩がたもおられる。私の願いは、今後も研究を続行し、日本の教会と神学に貢献することである。しかし現在は、研究はおろか生活もままならない。支援していただきたく願っている。

2017年7月20日木曜日

「ファン・ルーラー研究会」の思い出

カレンバッハ版『ファン・ルーラー神学論文集』全6巻

ふと思い出した。ファン・ルーラーは日本で全く知られていないので「ファン・ルーラー研究会」という名前より「オランダ改革派神学研究会」のほうがいいのではないかと何人くらいだったかから言われたことがある。それで仲間と相談して「これからもファン・ルーラー研究会で行こう」という話になった。

そのとき私が考えたのは、他の神学者の研究会が必要であれば別に作ればいいし、間口を広くしすぎるとすでに著名な神学者の影響力に引っ張られてしまうだろうということだ。ファン・ルーラーをオランダ語から日本語に訳す。これくらいハードルを高くしておけばなかなか追随者は現れないだろうと思った。

競争したかったわけではなく、むしろ正反対で、全く競争したくなかった。競争になるようなことからは手を引こうと思った。ありがたかったのは、研究会の仲間たちの性格がどなたも温厚で、競争が嫌いで、のんびりしている方々ばかりだったことだ。生き馬の目を抜くようなタイプの人はだれもいなかった。

「ファン・ルーラー研究会」は2014年に解散したので今さらどうしたいわけでもない。当時は日本キリスト改革派教会の教師だったが、今は日本基督教団の教師である。しかしまさか日本基督教団をどうしたいわけでもないし、無力感しかないし、事実無力である。何も考えていないというのが最も近い。

しかしファン・ルーラーを読むことはこれからも続けるつもりである。いちばん励まされるし、面白くて元気が出てくるし、いろいろ考えさせられる。教団の違いを十分超えうる汎用性も順応性もある。ファン・ルーラーの神学思想の土台は三位一体論にあるので、彼の神学と無関係なキリスト教はないはずだ。

2017年7月19日水曜日

LINEをPCで再開しました

LINE(Windows10)

LINEをPCで再開したらメッセージが来るようになった。最近のメールは商売系DMばかり。知人との連絡はSNSに移行。faceookもtwitterも、タイムラインよりメッセージを使うことが多くなった。複数の相手と同時進行になることもある(申し訳ない)。それをたぶん「混線」と言う。

対面でも電話でも「話し中」というのがあるが、ネットにはそれがない。自慢ではないが、たぶん年齢に関係していそうだが、私のほうからどなたかに連絡することより、他の方から連絡を受けて始まるやりとりのほうが最近は多い。「いま話し中だから後にして」とネットでは断りにくい、というか断れない。

仕事柄、深刻な相談を受ける場合もあるので、心ここにあらずの対応ではまずい。「混線」を避けるためには、連絡ツールをひとつに絞る(メールなのかfacebookなのかtwitterなのかLINEなのか)ほうがいいのかもしれないが、それぞれつながっている相手が異なるので、どれも切れない。

便利な世の中になったが、その分だけ新たな問題が発生し続ける。そうであることを苦にしているわけではないが、常に手探りの試行錯誤状態なので、いっぱい申し訳ないことをし、いっぱい謝り、いっぱい後悔と恥と苦痛を味わう。昔のままでずっと同じというのが一番楽なのさ。でも、それでは前進はない。

これからの時代を生きるための必須課題は「混線」と「コンセントレーション」(集中)を同時に成り立たせることだ(うまいことを言ったつもりだ)。「字のやりとり」ではあるので、エアでのやりとりのように「メモをとりながらでないと話の筋が分からなくなる」ことは意外に少ない。読み返せば分かる。

2017年7月16日日曜日

互いに愛し合いなさい(上総大原教会)

日本キリスト教団上総大原教会(千葉県いすみ市大原9696)

ローマの信徒への手紙13章8~10節

関口 康(日本キリスト教団教師)

「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』。そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」

上総大原教会の皆さま、おはようございます。日本キリスト教団教師の関口康です。この教会で3回目の説教をさせていただきます。今日もどうかよろしくお願いいたします。

3回目のご依頼をいただいてすぐ、どんな話をさせていただこうかと考えました。1回目は1月1日の新年礼拝、2回目は4月2日でした。2回とも「伝道」の話をしました。

それで結局、今日も「伝道」の話をします。しかし、いわゆるハウツーの話ではありません。そういう話が私にできないわけではありません。むしろいくらでもできます。

しかし、はっきり言わせていただきますが、ハウツーの話というのはこの教会の状況にそぐいません。現実味が全くありません。お題目のような話であれば、目をつぶったままでも言えます。こんな感じでしょうか。

とにかく人を誘わなくては教会に誰もいなくなるので、人を教会に誘いましょう。まず家族に伝道しましょう、次は友人に伝道しましょう。ご近所の人を教会に誘いましょう。

言葉で伝えるのが難しいようなら、チラシを配りましょう。トラクトというのがキリスト教書店に売っているので、そういうのを買って配りましょう。いろいろ有名人に来てもらって講演会やコンサートを開きましょう。

いろいろやってみました。結局教会に人は集まりませんでした。そうか、いろいろやってもダメなのだ。日曜日の礼拝が教会のすべてなのだ。とにかく大事なのは礼拝なのだ。

聖歌隊が欲しいが、人がいないからうちでは無理だ。奏楽者がいて欲しいが、自動演奏機でもやむをえない。とにかく礼拝は説教を聴くことだ。神の言葉を聴くことだ。

そこまで追い詰められて、思い詰めて、とにかく礼拝を重んじることにした。説教を重んじることにした。ところが、その説教がいつもつまらない。私の心に届かない。礼拝しかない教会で、説教しかない礼拝で、説教がつまらないとなると、この教会どうなるの。

よし分かった。私が牧師になってやろう。私が説教してやろう。そうすれば、この教会は以前の活気を取り戻すことができるだろう。などなど。こんなふうに、わたしたちは考え続けていくわけです。

そんなことまで考えている人はいないなどと、どうか思わないでほしいです。教会に来ている人たちはみんな、大なり小なり、こういうことを真剣に考えています。

そして私は今日このことを皆さんにはっきり申し上げておきたいのですが、教会のことを心配しているのは教会に来ている人たちだけではありません。教会に来ていない人たちも教会のことを真剣に考えてくださっています。教会の門を一度もくぐったことがない人たちも同じです。

昨年度私が勤務した学校でのことです。生徒たちにとって例外なく興味があったのは「教会は儲かるのか」ということでした。「牧師はどれくらい給料をもらえるのか」ということでした。

そういうことを、授業中でも、廊下を歩いているときでも、繰り返し質問されました。そんなに興味あるならと、私が担当していたすべてのクラスで「教会の経済と牧師の生活」というテーマで黒板に図解しながら解説したくらいです。

「へえ、たいへんなのですね、それではとても生活できないではありませんか」と心配してくれた生徒もいました。「ええっ、教会の献金はかわいそうな子どもたちや貧しい国の人々に送られているのではなかったのですか」と悲しそうな顔をする生徒もいました。

あるいは、宗教団体というのはとかくお金に汚い人たちの集まりだと教えられてきたのかどうかは分かりませんが、「教会の経済と牧師の生活」についての図解付きの私の説明を聞いて、「なんだ、意外に普通のようだ。つまらない」という反応をした生徒もいました。お金の話をすれば私の鼻を明かせると思ったのかもしれません。

いまお話ししているのは、教会の運営や経済について心配しているのは教会員だけではないということです。多くの人たちが、そして高校生たちも、心配してくれています。

「そういうのはただの興味本位である」と言ってしまえば、それまでです。しかし、わたしたちが見逃してはならないのは、教会の存在は多くの人々から関心を持たれているということです。教会は社会の中で全く孤立しているわけではないということです。

そして、その教会に対する人々の関心は、必ずしも批判的な視線ではありません。好意的な視線を多く含んでいます。

なぜ今私はこんな話をしているのかというと、わたしたちが教会の存在をこの社会の中でとにかく必死で守り抜いていかなければならないと思っているときに、つい自分たちのことを社会の中で完全に孤立し、非難を受け、中傷誹謗にさらされているかのように感じてしまうことがあるからです。しかし、そんなふうに考える必要はないと言いたいのです。

そろそろ今日の聖書の箇所のお話をしなければならないと思っています。しかしここまで話してきたことは今日の聖書の箇所とは無関係なおしゃべりではありません。ものすごく関係していることだと思っているので、このような話をしています。

「互いに愛し合うことのほかに、だれに対しても借りがあってはなりません」(8節)と書いてあります。これは裏返していえば「互いに愛し合うことに限っては借りがあっても構いません」ということになります。論理的に考えれば、そういうことになります。

しかし「借りがある愛」とは何のことでしょうか。「愛を貸してもらう」はどういうことでしょう。「愛を返す」という話であれば、少しは理解可能になるかもしれません。

これは愛の話です。最初は「アイ・ラブ・ユー」から始まります。そうでない始まり方はありえません。しかし、その最初のプロポーズは、必ずどちらか一方が先に言うと思います。必ずそうなります。例外はありません。事前の打ち合わせでもあれば別ですが、それもなしに互いに同時に「アイ・ラブ・ユー」を言って同時に相互の愛が始まったという人は、通常いません。

そしてそこから先は危険な状態です。もしかしたらそのプロポーズを相手に断られるかもしれないからです。その「アイ・ラブ・ユー」のボールは、ピッチャーの手からとにかく離れました。しかし、それをバッターが打たないかもしれません。キャッチャーが捕らないかもしれません。デッドボールになるかもしれません。バックネットにダイレクトで突き刺さるかもしれません。

しかしその「アイ・ラブ・ユー」ボールをホームランにするバッターもいます。サヨナラホームランでさようならという寂しい話ではありません。ピッチャーの全力投球を全力で打ち返したバッターは真剣なプロポーズに誠実に応えたのです。「私はあなたを愛している」と言われて「私もあなたを愛している」と愛し返したという意味です。ということにしておきます。

今申し上げているのは「借りのある愛」とは何なのかについての説明です。はっきりしているのは、愛は必ずどちらかから一方から始まるものだということです。必ず片想いから始まります。例外はありません。それを別の言い方でいえば、愛が貸し借りの関係にあったということです。先に愛されて、その愛を返すということですから。

しかし、ここでパウロが言おうとしていることの中心が「愛に限っては借りがあっても構いません」ということかどうかについては、疑問があるかもしれません。そうではない。パウロが言おうとしているのは「貸し借り」があってはいけないという、ただそれだけであるという見方は出てくるかもしれません。

しかし、その問題については、前後の文脈との関係を考える必要があります。「愛」の話は12章9節から始まっています。13章10節まで「愛」の話が続いています。これで分かるのは、今日の箇所でパウロが「愛」について語っていることは間違いないということです。

それはつまり、パウロがしているのは、人間関係の中には貸し借りがあってはならないという話「ではなく」愛には貸し借りがあってもよいという話「である」ということです。

ここでもう一つ、今日の箇所で大事なことをお話しします。それは「人を愛する者は、律法を全うしているのです」という言葉に続く部分に関することです。

「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」(8~9節)とあります。

これについて簡単に説明しますと、モーセの十戒の前半の4つの戒めは「対神関係」(神との関係)についての戒めであり、後半の6つの戒めは「対人関係」(人との関係)についての戒めであると整理できます。

そしてパウロが言っているのは、そのモーセの十戒の後半の「人との関係」についての戒めの部分を要約すると「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19章18節、マタイによる福音素19章19節)という一言でまとめることができるということです。Love your neighbor as yourselfです。これを校訓にしているキリスト教学校があります。

そして「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(10節)と書かれています。ここに至ってわたしたちが考えなければならないのは、「隣人とは誰のことか」という問いです。それは、あの「善きサマリア人のたとえ」(ルカによる福音書10章25節以下)でイエスさまが発せられたのと同じ「隣人とは誰のことか」という問いです。

この問いの答えははっきりしています。「隣人」とは教会の人々だけではありません。キリスト者だけではありません。教会の「内」にいるか「外」にいるかの区別がない「すべての人」を指しています。それが「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めの「隣人」の意味です。

そのことが、今日最初のほうでお話しした「教会に関心を持っている人々が教会の外にも大勢いる」という話に関係してきます。また、次にお話しした「貸し借りのある愛」の話につながってきます。

今のわたしたちは、教会が無くならないように、教会の存在を守り抜くことでとにかく必死です。しかし祈っても願っても、教会にはなかなか人が来てくれません。そのようなときに、わたしたちがもしかしたら陥るかもしれないのは、教会の周りにいるのは敵だらけだ、という感覚です。

孤立感がきわまり、深刻な疑心暗鬼の状態に陥ってくると、そういう感覚が去来します。そして、それが「敵」であるならば、その存在がだんだん憎らしく思えてきます。愛することなどとんでもないという感情が生まれてきます。

しかし、それではだめです。教会の外にいる人々を心から愛することなしに、伝道は成立しません。「隣人」はキリスト者だけではありません、教会員だけではありません。教会に来てくれない、洗礼を受けてくれない、神にも聖書にもキリスト教にも興味を持ってくれない方々が「隣人」です。

その人々をわたしたちが愛することが、神から求められています。それができないと伝道はできません。わたしたちが世界を敵視しているかぎり、教会は孤立の一途です。もしそのような感覚にわたしたちが少しでも陥っているなら、根本的な方向転換が必要です。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネによる福音書3章16節)と書かれているではありませんか。神が愛された「世」は、世界の「世」、世間の「世」です。字が同じであるだけでなく、意味も同じです。「神は世界を愛された」のです。「神は世間を愛された」のです。

この意味での「世」も、すでに神を愛し返した人々ではなく、むしろ、そうではない「すべての人」を指しています。

神が世間を「その独り子をお与えになったほどに」愛しておられるなら、わたしたちも世間を心から愛するべきです。そうでなければ「伝道」というものは成り立ちません。

この件についてみなさんによく分かっていただけそうな「たとえ」が見つかりました。

わたしたちが教会の中から窓の外を指さしながら「こんな人たちに負けるわけにはいかない!」などと言っているような教会に、だれが行こうと思うでしょうか。

この問題をよく考えていただけば、教会の進むべき道が見えてくると思います。

(2017年7月16日、日本キリスト教団上総大原教会 主日礼拝)