2017年4月1日土曜日

新弐号機の初期設定が完了しました

新弐号機
昨日(3月31日)届いた6千円中古パソコン(新弐号機)の初期設定やっと終了。モニターとマウスは旧弐号機で使用していたのをそのまま使用するが、キーボードは別途購入予定。1千円前後のものを探すつもり。これで「自宅用」と「職場用」の2台分を確保できた。相互の遠隔操作も可能にしておいた。

2017年3月31日金曜日

2016年度の感謝

日本基督教団 各位

2016年度は私にとって日本基督教団教務教師としての初年度でした。

主日礼拝で説教させていただいた日本基督教団阿佐谷東教会、上総大原教会、新松戸幸谷教会、千葉北総教会、千葉本町教会、豊島岡教会南花島集会所、習志野教会、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会の皆さまに感謝いたします。

2017年3月31日

日本基督教団教務教師  関口 康

2017年3月30日木曜日

上機嫌の一日でした

プリンアンドチョコパフェ
今日(2017年3月30日木曜日)は千葉市内で仕事の打ち合わせ。全く予期せぬ新たな展開に驚きつつ、喜んでお引き受けした。エスプレッソコーヒーとプリンアンドチョコパフェをごちそうになった。日中かなり暑かったので美味しかった。疲れがふっとんだ。甘くて冷たくて美味しい打ち合わせだった。

驚きはさらに倍。千葉市内での仕事の打ち合わせからの帰り、偶然ばったり親友に出会い、すぐに意気投合。最寄りのマクドで2時間話し込む。こういう日の私は上機嫌。まあだいたい毎日能天気チックの私だが、今日は格別アゲアゲ。パイポパイポ、パイポのシューリンガン。シューリンガンのグーリンダイ。

これで終わりではなかった。夕食は妻が作ってくれた最高に美味しい唐揚げと具だくさんの手作りいなり寿司。他いろいろ。家族みんなでいただく。祭りだわっしょい。贅沢なんかしていない。慎ましく生きてきた。一攫千金の幸せというのもあるだろう。でもコツコツ作り上げる幸せというのもあると思うよ。

2017年3月29日水曜日

「江ノ島が見えてきた 俺の家も近い」と歌ってきました

ルノアール大船店
大船駅前
湘南モノレール
片瀬東浜海水浴場から見る江ノ島 
江ノ島パーキング
20時33分
国道1号から見る東京タワー
日本橋
国道6号から見る東京スカイツリー
野菜ラーメン(ラーメン横綱松戸店)
本日の走行ルート: 

【往路】国道6号→四つ木IC(入口)→首都高(中央環状線→湾岸線→狩場線)→横浜横須賀道路→日野IC(出口)→県道21号→大船駅前「大船ルノアール」(神奈川県鎌倉市大船1-7-1)にて打ち合わせ。往路の所要時間、約2時間30分。 

【復路】大船駅前「大船ルノアール」→湘南モノレールの下の道→国道467号→片瀬東浜海水浴場→国道134号(江ノ電と並走している海岸沿いの道)→由比ヶ浜→県道21号→県道22号→国道1号→国道4号→国道6号。復路の所要時間、約6時間。

自作合体デスクトップの再分離失敗という昨日の残念な結果を踏まえ、ついに昨夜、アマゾンの中古品市場で6千円の中古デスクトップを注文。ウィンドウズ10、4ギガメモリ、インテルセレロン搭載。現物を見ないと状況は分からないが、なんとかなるだろう。週明け配送予定。「これから」の備え着々と。

2017年3月28日火曜日

再分離失敗

致命的な故障が判明した弐号機の電源ボックス
ぐは、自作機の再分離に失敗した。昨日はうまく行ったと思ったが今日になって弐号機が何度試みても起動しない。半日かけて調べた結果、原因は弐号機の電源ボックスの致命的な故障が判明。がっかりだ。敗北宣言。悔しい。まあでも、ここまで費用ゼロ円だ。財政的ダメージはないので引き分けでもいいか。

遊んでいるわけではなく「これから」に備えるためにしていることだが、費用ゼロで新しいパソコンを生み出すのはほぼ錬金術なので、すべてダメもと。かくなる上は新しい中古デスクトップパソコンを買うしかないか(新しい中古という言い回し、自分で書いて面白い)。しかし新しい眼鏡を購入したばかり。

そういうわけで自作機の再分離に失敗してしまったので、再分離前の合体状態に戻したのだ。失敗は成功のママなので、今日の努力が無駄だったとは考えないことにするのだ。パソコンが2台になるのも便利だが、1台でダブルスクリーンのパソコンもいろいろ使えて便利なのだ。わしはバカボンのパパなのだ。

再分離前の合体状態に戻したのだ

2017年3月27日月曜日

再分離完了

右:壱号機、左:弐号機(いずれも仮称)
2017年3月27日(月)21時00分、合体機の再分離が完了。これで自作PCが計2機に戻った。右:壱号機、左:弐号機(いずれも仮称)。壱号機の肋骨、ではなくバックアップ用HDDを引き抜いて弐号機に転用。ウブントゥ(無料OS)とオンスクリーンキーボードを使用しているので費用ゼロ円。

ウブントゥ(無料OS)の性能チェックはまだしていない。ファイアーフォックスを利用してGメール、フェイスブック、ツイッター、ユーチューブは問題なく使用できた。音声も出たが、スピーカーを購入すると費用が発生するのでイヤホン使用。とりあえずこれだけ分かれば今夜は十分なのでチェック終了。

新しいやつが来やがって「くそっ。私はもう用済みか。6年もさんざんこき使われてきたのに」と肩を落としていたら「きみにはまだ働いてもらうよ」。振り向くと昨年の春に百均ショップから来たあいつ。「きみとぼくが手を組めば最強さ。ぼくはきみが必要なんだ」と慰めてくれた。ありがとう老眼鏡くん。
壊れた眼鏡と老眼鏡のコラボ
元々2台だった自作PCを1年前に合体して1台にしたが、それを今日再分離した。気分転換のためにモニターの配置を換えた。20年前から使用してきたパソコンケースの上にオムロンのデジタル自動血圧計を置くと、ちょっとだけ診察室っぽくなった。しかしここは書斎である。診察室でも改造室でもない。
モニターの配置を換えてみた

博士の話

無料イラストを拝借しました
でもどうなんだと思うのは、「博士号取得者」を大学教員採用の条件にすると(もうなっている)、国内の他の研究者による過去の蓄積がかなりある「取り組みやすいテーマ」で学位を取得する人が増えそうなというかそういう人ばかりになりそうな気がするが、それでいいかというあたり。当て推量すぎるか。

私にかろうじて分かるのは神学(学問かどうかを疑われている神学)のことくらいだが、聖書はともかく、アウグスティヌス、トマス、ルター、カルヴァン、ウェスレー、バルトなどの研究は、過去の蓄積が豊富な(それを「ライバルが多い」と受け取るかどうかはともかく)「取り組みやすいテーマ」だろう。

「取り組みやすいテーマ」で急いで博士号を取得することが悪いとは思わないが、良いとも思えない。私のような純粋な一般人からすれば「博士様」に抱くイメージは、一般人が思いもつかないとてつもなく素晴らしい発見をして、人類の誰も聞いたことがない斬新かつ感動的な発表をしてくださる存在なので。

「博士号」が名誉称号であったような時代は完全に終わっているのかもしれないが(大学の事情は全く分からないが)、なんていうか、数十年かけてコツコツやって人生の最期の頃に「おおこれだ。大発見」となるような人のほうが、古い価値観にとらわれているらしい私にとっては、やっぱり「博士っぽい」。

でも、そういう古い頭の私にとっての「博士っぽい」人は、「資格(学位)なくして就職なし」という今のシステムの中では、無冠のまま、市井の人のままで終わることになるかもしれないなと思うと、残念なような、寂しいような。まあ部外者がこれ以上首を突っ込まないほうがよさそう。くわばらくわばら。

私の中の「博士イメージ」がなぜか常に「高齢者」なのはマンガの読みすぎなのだろう。実際たとえば「博士」という検索語で出てくる画像の多くは、頭頂に毛髪なく、白髪、白眉、白ひげ、眼鏡、肥満体、白衣の人だ。この風貌の20代30代の「博士」が存在しないわけではなかろうが、多くはないはずだ。

しかし、「博士」の中にはめっちゃ苦労した人がいる。それだけは断言できる。5年も自室に引きこもってずっと論文書いていたと言っておられた。なのに、ほら穴(どこだよそれ)から出てきてもちゃんと(ちゃんととか言うな失礼な)人として立派だし、明るくて素敵。そういう「博士」を私は知っている。

その「博士」は、今は某私立高校の教員をしている。博士のくせに(その嫉妬やめろ)何でもできる。スポーツできるし、ギターうまいし、ダンスできるし、田植えもできる。めっちゃイケメンで、スリムで、おしゃれ。非の打ちどころがない。この先生に会う人は皆「やっぱり博士やわ~」と思うに違いない。

私が知る、あのまだ若い、田植えもできるイケメン博士が、将来は「頭頂に毛髪なく、白髪、白眉、白ひげ、眼鏡、肥満体、白衣」の博士になるのだろうか。信じたくない。そうか。私が抱いている「博士イメージ」がいかに誤っているかを自覚し、修正することのほうが先決問題のようだ。やっと気づいたよ。

2017年3月26日日曜日

神の言葉を蒔く(新松戸幸谷教会)

エレミヤ書20章7~9節
マルコによる福音書4章13~20節

関口 康(日本基督教団教務教師)

「また、イエスは言われた。『このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を播く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。』」

新松戸幸谷教会のみなさま、おはようございます。日本基督教団教務教師の関口康です。このたびは説教の機会を与えていただき、ありがとうございます。どうかよろしくお願いいたします。

お世辞でもなんでもなく、私は吉田好里先生の説教が大好きです。すぐ近くに住んでいますので、昨年の半ばから礼拝に出席させていただくようになりました。吉田先生の説教に毎回魅了されています。大先輩の先生に対して偉そうな言い方かもしれませんが、「これだ!」と思いました。私が過去51年の教会生活で聴かせていただいた説教の中でいちばんいいと本気で思っています。

本当のことを言えば、毎週欠かさずこの教会の礼拝に出席させていただきたいです。しかし最近はいろんな教会から説教を依頼されるようになりましたので、なかなかお訪ねできません。吉田先生の説教のどこに魅了されているかについては、説教の最後に申し上げます。

先ほど旧約聖書と新約聖書の朗読がありましたが、今日共に学ばせていただきたいのはマルコによる福音書4章13節から20節までの箇所です。主イエス・キリストがお語りになった「種を蒔く人のたとえ」を主イエス御自身が説明しておられる箇所です。と読める箇所です。

しかし、この箇所についてはかなり前から多くの有力な聖書学者たちが、主イエス御自身がお話しになったものとは考えられないと判断しています。それでは誰が書いたのかと言えば、主イエスが亡くなった後の原始キリスト教会です。原始キリスト教会による主イエスのたとえ話の解釈をマルコが採用した、ということです。これは私が言っていることではなく、有力な聖書学者が言っていることです。

私が東京神学大学大学院を修了したのは27年前の1990年です。当時よく読まれていた本は、C. H. ドッド『神の国の譬』(室野玄一、木下順治訳、日本基督教団出版局、1964年)、A. M. ハンター『イエスの譬・その解釈』(高柳伊三郎、川島貞雄訳、日本基督教団出版局、第一版1962年、第二版1964年)、J. エレミアス『イエスの譬え』(善野碩之助訳、新教出版社、1969年)の3冊です。

どの本も私が申し上げた方向で解説されています。エレミアスはこの箇所が原始キリスト教会の解釈であると判断すべき根拠を4点にまとめています(エレミアス同上書82頁以下参照)。

21世紀の聖書学者の方々にとっては古い本ばかりかもしれませんが、私は狭い意味での聖書学者ではありませんので、最新の研究成果を調べる力はありません。しかし、私は聖書学者の意見は尊重すべきであると考えています。

そしてそれは決して無理な説明ではありません。直前の箇所にやはり主イエス御自身がお語りになった言葉として「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」(4章11節)と記されています。

その趣旨は、「たとえ話」というのはそもそも初めから「分かる人には分かるが、分からない人には分からない」ように語られるものであるということです(加藤隆『「新約聖書」の「たとえ」を解く』ちくま新書、2006年、206頁以下参照)。

「分からない人には分からない」たとえ話だからこそ、主イエスは、せめて常に行動を共にしている弟子たちにはたとえ話の意味を説明なさったのだと考えることもできます。しかし逆に、常に行動を共にしている弟子たちなのであれば、主イエス御自身の説明など全く不要なほど、このたとえ話を聞けばすぐにその意味を理解できたはずだと考えることもできます。

むしろ、たとえ話の説明が必要になったのは、主イエスのことも弟子たちのことも知らない後の世代の人たちです。その人々のために原始キリスト教会がこの説明文を付け加えた、と考えることもできるわけです。

ややこしい説明が長くなってしまいましたが、疑問が生じやすい箇所ですので、ある程度のことを申し上げておこうと思いました。そして私もまた、この箇所は主イエス御自身による説明ではなく、原始キリスト教会による解釈であるという立場でお話しすることにします。

ここから中身に入っていきます。たとえ話そのものはよく知られていますので、いきなり説明の部分から始めます。

「種を播く人は、神の言葉を蒔くのである」(14節)と記されています。「神の言葉」(ホ・ロゴス)とは「福音」を意味する原始キリスト教会が生み出したテクニカルタームであると、先ほどから言及しているエレミアスが書いています(エレミアス同上書83頁)。さらに「種を蒔く」とは「宣べ伝える」ことを意味する比喩的な表現であるとも言っています(同上頁)。

これで分かるのは、「神の言葉」を蒔く「種を蒔く人」とは福音を宣べ伝える説教者のことであるということです。

しかしそれは、狭い意味での牧師、伝道者、説教者だけを指していると考えるべきではないと私は思います。少なくとも、狭い意味での牧師、伝道者、説教者と共に歩む教会の信徒の方々ひとりひとりを含めなければなりません。伝道は、説教は、牧師個人の趣味ではなく教会全体のわざだからです。

いや、そうではない、「種を播く人」を牧師とか伝道者とか教会であると解釈するのは間違っているという反論が実際になされてきました。そうではなく、「種を蒔く人」はあくまでもわたしたちの救い主イエス・キリスト御自身でなければならない、と。

福音を宣べ伝える主体はあくまでも主イエス・キリスト御自身のみであり、同時に父なる神御自身のみであって、我々人間ではない。我々人間は、せいぜい「神の宣教」(ミッシオ・デイ)のお邪魔をしないように手控えながら、しもべとしてただ仕えるのみである、と。

しかし、もうひとり先ほどから言及しているC. H. ドッドは、今私が申し上げているような「種を蒔く人」をイエス・キリストに限定する読み方に対して明確に反対しています。ドッドは次のように記しています。

「キリスト御自身が種蒔く者であるとは意味していない。誰にもせよ信仰深いキリスト教の説教者であれば、その人が種蒔く者である。彼は自分の働きの多くが無駄であったことを見いだすであろう。ある聴衆は、まったく真理をしっかりと把握しないであろう。他の者は困難によって失望したり、繁栄によって惑わされたりするであろう。しかし説教者は最後には、彼の働きから果が結ばれることを確信してよいのである」(ドッド同上書239頁)。

ドッド教授の原著は1935年に出版されたものですので、今から82年前です。しかし、これ以上付け加えることがないほど簡潔で的確な解説がなされていると思います。このような意味でこの箇所は読まれ、解釈されるべきだと私も思います。

ここまでのところで私に言いうるのは、今日の箇所に記されている主イエスのたとえ話の説明は、現実の教会の伝道の様子をありのままに描いているものと理解してもよいということです。それはわたしたちの姿そのものです。教会の伝道には挫折があります。つまずきがあります。落ち込むことがあります。しかし、手応えがあることもあります。

その場合、先ほど申し上げたとおり「御言葉」(ホ・ロゴス)は「福音」を意味します。いや、それは「聖書」ではないかと思われるかもしれませんが、それも限定しすぎです。「聖書を蒔く」という話であれば、国際ギデオン協会の方々が無料で聖書を配布する活動が思い浮かびます。しかしここで「御言葉」を「聖書」という意味だけに限定して理解するのは行き過ぎです。

ここで言われている「種を蒔く」とは「聖書を無料で配布すること」よりもっと広い意味です。「福音を宣べ伝えること」です。「聖書」だけでなく、少なくとも必ず「説教」が含まれます。「説教」が行われる「礼拝」が含まれます。「教会のすべての活動」が含まれます。「日常生活における信徒としての証し」が含まれます。それらすべてが「福音」です。それらすべてが「神の言葉」です。

しかしまた、ここで少し立ち止まって考えてみたいことがあります。ここから先は過去の聖書学者の意見ではなく、私の感覚だけで申し上げます。それは、「種を蒔くこと」が「福音を宣べ伝えること」を意味する比喩であるというエレミアスの説明と関係しています。

「種を蒔くこと」が「福音を宣べ伝えること」です。これを逆の方向から言い直しますと、「福音を宣べ伝える」とは「神の言葉を蒔くこと」を意味するとも言えます。これで分かるのは、説教というのは、ある意味で「蒔く」だけであるということです。

「蒔く」とは「植える」にも「育てる」にも「収穫する」にもまだ至っていない、いわばそれ以前の段階です。しかしだからといって、無作為に、無差別に、めちゃくちゃに「撒き散らす」こととは全く違います。

「種を蒔く人」は、必ず芽が出ますように、葉が茂りますように、実が結びますように、と願いながら、祈りながら、丁寧に「蒔く」のです。

すべての種が必ず実を結ぶわけではありません。しかし、だからといって、すべての種が必ず実を結ばないわけでもありません。たとえそれが多くの中のたったひとつの種であっても、その種が三十倍、六十倍、百倍の実を結んできました。だからこそ教会は二千年の歴史を刻んできましたし、これからも絶望しません。

最初にお約束しましたとおり、私が吉田先生の説教が大好きな理由を最後に申し上げます。私が吉田先生の説教を論評する立場にあると思っているのではありません。「吉田先生のファン」のひとりとして申し上げるだけです。

それが最後に申し上げた点にかかわります。まさに「種を蒔く人」の説教であると感じます。植えてやろう、育ててやろう、実を結ばせてやろう、収穫してやろうというような、一方的に押し付けてくるところが全くありません。「こうである、ああである」と断定し、決めつけてくるところが全くありません。少なくとも説教でそういうことをなさいません。

しかしそうであるからこそ、温かい見守りと深い祈りと丁寧な配慮をいつも感じます。デリケートな問題をデリケートに扱ってくださいます。

私の最も理想とする模範的な説教者と共に長年歩んでこられた新松戸幸谷教会の皆さまのことが、本当に羨ましく思います。これからも仲良くしていただけますと幸いです。

(2017年3月26日、日本基督教団新松戸幸谷教会 主日礼拝)

2017年3月25日土曜日

合体から再分離へ

1年間休眠させていた空のパソコンケース
長期有給休暇5日目。昨夜から悩み始めたことはパソコンどうするか。自作機2台を教会と自宅(牧師館)で使っていたのを、1年前に合体させて1台にした。再分離して自作機2台にするか。それとも合体機はこのまま残して、安いのを新たに購入するか。再分離の方向で考えはじめたが、スペックは落ちる。

それと、再分離する場合は、1機分のOSを新規購入すると高く付くので、無料のリナックス(Ubuntu)にすることになりそう。OSのインストール自体はさほど面倒ではないが、以前リナックス機を作ってみたとき障害になった周辺機器(特にプリンタ)のドライバー関係が最近どうなのかは気になる。

いずれにせよはっきりしているのは、私の仕事には「職場用」と「自宅用」の2台のパソコンがどうしても必要だということだ。職場(教会の書斎)と自宅(牧師館)の書斎が一体化していた(同一だった)頃がかつて私にもあった(ずいぶん長かった)が、最近は分かれているところが増えてきていると思う。

パソコンを「職場用」と「自宅用」の2台に分けず、1台の可動(モバイル)パソコンにするという考えは私にはない。仕事の性質上、データの多くは機密性の高い個人情報となる。動かすうちに無くす壊すは最悪だ。どっしり重いデスクトップが職場にも自宅にもあるのが私の理想。モバイルはガラケーのみ。

ああ、こういうときにデスクトップパソコンがどこかに落ちていないかと考えてしまう。恥ずかしいやら、情けないやら。まあ1年前に空にして休眠させていたパソコンケースに、合体機から元のパーツを引っこ抜いて元の状態に戻せば済む話でもあるので、がたがた騒ぐんじゃねえと自分に言い聞かせている。

しかし、今日はこのようなことにかかずらわることは全くできない。明日の説教に全力で集中せよ。お訪ねするのは初めてではないが、説教壇に立たせていただくのは初めての教会だ。「今日の礼拝に出席してよかった」とせめて思ってもらえるように、なしうるかぎりの精一杯の準備をして臨むことにしよう。

なぜだろう、今日は午後から集中力が急激に加速して、まだ明るいうちに明日の説教の原稿を書き終えることができた。朝6時に起きたのに一度も眠くならず気力と体力が持続した。妻が作ってくれた美味しい「豆腐ハンバーグ」のおかげだろうか。大豆たんぱくは偉大だ。レシチン、サポニン、イソフラボン。

うへえ、説教原稿を書き終えたらたちまち眠くなってきた。緊張の糸切れた。現金な気力と体力だこと。今夜は早めに夕食たべて、のんびりしてから、ねるとしよう。明日から新しい眼鏡になるし。この鬱陶しいセロテープ眼鏡とおさらばじゃ。「見よすべてが新しくなったぜ」。そんなふうに言いたい気持ち。

2017年3月23日木曜日

サイボーグ化の一途です

長期有給休暇3日目。寝坊して8時起床。寝床から這い出しても何もする気が起きず。食欲もわかずテレビもつけず本も読まず。このままでは危険だと「親指動け」「人差し指動け」と脳波通信で命令して、パーツ単位でひとつひとつ再起動させる。近所のコンビニでチキンカツ弁当を買って食べてほっと一息。

職場に置いていた仕事道具をすべて持ち帰り自宅(借家)の書斎机に戻したが、大きな変化はない。完全ペーパーレスとは行かないまでも、いかにもクラウド依存型の職務形態になっていることを実感。言い方を換えれば、インターネットが不通になりクラウドにアクセスできなくなったら手も足も出ない形だ。

LINEはいまだに全く使いこなせていない。かろうじて自宅PCのLINEアプリを常時起動しているが、メッセージは来ない。しかし今朝なんと、小金原のコンビニの阿藤店長がメッセージをくださった。とてもうれしかったので、LINEを使うことにした。ID: yasushi.sekiguchi

ついに悲願の新しい眼鏡を購入。仕上がり3月26日日曜日。検査の結果、両眼とも1.0前後見えているが、老眼が進んでいたのと乱視の角度が若干変わっていた。男性店員が「調整力が強い目ですね」と言うので「それ褒め言葉?」と聞き返したら「いえ他の人より疲れやすいということです」と言われた。

男性店員いわく、検査機で度数や乱視の角度が違うレンズを入れ替えて私の視力を測るたびに数値が変わっていくらしい。私の目ががんばりすぎなのだそうで、つまり「疲れやすいこと」を意味するらしい。その答えにがっかりして言葉を失ったが「順応性が高い人工眼のサイボーグです」と答えればよかった。