いま考えたことだが、イエスのもとに子どもたちを連れて来た人々を叱った弟子たちにイエスが憤ったという記事(マルコ10章13節以下)の子どもたちは、マルコ福音書が書かれた頃(1世紀後半)は高齢者だ。子どもはいつまでも子どものままではない。あのとき追い払われていたらどうなっただろうか。
何の根拠もないので検証できないが、もしイエス死後の教会に、弟子たちに追い払われそうになったがそれをイエスが制し、イエスに抱き上げられ祝福された当時の「子どもたち」が残っていたとしたらどうだろう。その人々の心に「弟子たちに追い払われそうになった」記憶が残っていたとしたらどうだろう。
そういうことをされた幼いころの記憶というのは、いつまでも残っているものだ。「追い払う側」の大人たちは記憶していなくても、「追い払われそうになった側」の子どもたちは、それを忘れはしない。そして、自分たちをかばってくれた大人のこともよく憶えている。抱き上げてくれた手のぬくもりまでも。
いま書いたことは、まだつい先ほど思いついたばかりなので、もう少し練ったり温めたりする必要がありそうだ。そのうち説教の題材として取り上げてみたい気がする。説教のタイトルは何にしよう。「追い払われそうになった子どもたちはそのことをいつまでも憶えている」にしようか。ちょっと長すぎるか。
2016年10月22日土曜日
「若い人を教会に」という祈りを実現するための提案
「若い人を教会に」という祈りを実現するためのひとつの方策として、20代以下の信徒のみで構成された伝道所を生み出し、その中で教会役員を選び、その伝道所の牧師は彼/彼女らの親の世代か、あるいは親の親の世代の人にし、土地・建物・伝道資金は親教会がすべて負担するというあり方はどうだろう。
日本プロテスタント教会史の最初期の「横浜バンド」「札幌バンド」「熊本バンド」の各教会の状況は上記のようなものだったはずだ。このようなことを書く私には、長老がたに忍耐を強い続けてきた「少子高齢化時代の教会」における「いつまで経っても若い牧師」を代表してお詫びしたいという思いがある。
会社の株主になることと教会の献金をすることは似ている面があるかもしれないが、もちろん全く違う。「前者は人に、後者は神に」とか言いたいのではない。献金の「献」をどこまで字義通りとらえるかだ。回り回って自分の利益(名誉など)として返ってくるのを腹の底で求めているようで何が「献」金か。
20代で教会の牧師になったばかりの頃、当時60代だったか70代だったかの教会の人(どこの教会かの詮索無用)が、自分より若い人を「ねぎらう」言葉として「私の手足となってよく働いてくださった」と言うのを聞いて、げっそりしたことがある。そういう感覚が入り込むと、教会は早晩壊れるだろう。
私が何度も繰り返し「教会は会社でも学校でもない」と説教で語ってきたのは、理論の帰結ではなく、こういう過去の実際の体験と記憶にすべて結びついている。会社や学校をおとしめる意図で言うのではないが、教会の建物と組織を利用して会社ごっこや学校ごっこをするのはやめてもらいたい。全く別物だ。
このように言うと、会社や学校のあり方のほうを常識だととらえている人々から、教会は非常識だと反発されてきた。会社や学校のあり方のままで教会に来、教会に違和感を覚え、反発を感じたら、教会のほうに近寄ってもらえなくなった。残念だが、そこは譲れない。教会は教会なのだ。他の何ものでもない。
「会社や学校のあり方」と「教会のあり方」とを峻別することは、会社や学校に不利益をもたらさず、かえって利益になると思う。会社も学校も教会ではない、すなわち宗教団体ではない。各組織においてどれほど厳しい上下関係があろうと、その関係は崇拝・信仰の関係ではないし、そうであってはならない。
そして、いま書いた点は教会も同じだし、教会こそが声を大にして言ってきたことだ。教会の中に会社や学校などの組織の中にあるような意味での上下関係はないし、あってはならないし、たとえ形式的に類似する要素があるとしても、その関係は崇拝・信仰の関係ではないし、断じてそうであってはならない。
「献金」の話に戻す。「献」げたのであれば、自分のものではない。引っ張ればいつでも戻ってくるひもをつけて何が「献」金か。見栄張りや恩着せの身ぶりつきで何が「献」金か。回り回っても自分の利益として戻ってはこないが、世界と教会の将来のためにささげるという動機を取り戻すことはできないか。
教会と会社や学校との峻別、そして今書いた意味の「献」金がないかぎり、先に書いた「20代以下の信徒のみで構成され、土地・建物・伝道資金は親教会が負担する伝道所」を生み出すことは夢のまた夢だ。「若い人を教会に」という祈りは正しい。しかし「若い人」は高齢教会員の部下でも舎弟でもない。
高齢教会員を疎んじる意図は皆無である。むしろ正反対である。心から敬意を表し、尊重する思いゆえに書いている。思う存分、同世代の人々との会話を楽しんでいただきたいし、何の気兼ねもなく昔の言語感覚や価値観の中で生きていただきたい。こんなこと言われなくてもすでにしておられるに違いないが。
ただ、ご自分たちのあり方を変えるつもりはないという点については一切お譲りにならないのに「若い人を教会に」とお祈りになることがいかに矛盾しているかということにはぜひお気づきいただきたいと願っている。ご自分たちが敷いたレールの上を「若い人」が走らないのは「若い人」が悪いわけではない。
かつては「外国」(とくにアメリカ)の教会が、1ドル360円の力で日本国内に伝道所を作り、土地・建物・伝道資金をプレゼントしてくれたので「若者の教会」ができた。稼ぎが乏しく、思うように献金できなくても、教会役員として選んでもらえ、若者らしい発想をもって教会運営に積極的に参加できた。
これからは「外国の資金力」ではなく「高齢者の資金力」で「若者の教会」を生み出すしかないだろう。「我々の二軍候補者が教会に来てくれないか」と指をくわえていても、そんなことを願われている時点で、若者は教会に近づかない。手下にされるのを嫌がる。現今の「伝道不振」の最大の原因ではないか。
日本プロテスタント教会史の最初期の「横浜バンド」「札幌バンド」「熊本バンド」の各教会の状況は上記のようなものだったはずだ。このようなことを書く私には、長老がたに忍耐を強い続けてきた「少子高齢化時代の教会」における「いつまで経っても若い牧師」を代表してお詫びしたいという思いがある。
会社の株主になることと教会の献金をすることは似ている面があるかもしれないが、もちろん全く違う。「前者は人に、後者は神に」とか言いたいのではない。献金の「献」をどこまで字義通りとらえるかだ。回り回って自分の利益(名誉など)として返ってくるのを腹の底で求めているようで何が「献」金か。
20代で教会の牧師になったばかりの頃、当時60代だったか70代だったかの教会の人(どこの教会かの詮索無用)が、自分より若い人を「ねぎらう」言葉として「私の手足となってよく働いてくださった」と言うのを聞いて、げっそりしたことがある。そういう感覚が入り込むと、教会は早晩壊れるだろう。
私が何度も繰り返し「教会は会社でも学校でもない」と説教で語ってきたのは、理論の帰結ではなく、こういう過去の実際の体験と記憶にすべて結びついている。会社や学校をおとしめる意図で言うのではないが、教会の建物と組織を利用して会社ごっこや学校ごっこをするのはやめてもらいたい。全く別物だ。
このように言うと、会社や学校のあり方のほうを常識だととらえている人々から、教会は非常識だと反発されてきた。会社や学校のあり方のままで教会に来、教会に違和感を覚え、反発を感じたら、教会のほうに近寄ってもらえなくなった。残念だが、そこは譲れない。教会は教会なのだ。他の何ものでもない。
「会社や学校のあり方」と「教会のあり方」とを峻別することは、会社や学校に不利益をもたらさず、かえって利益になると思う。会社も学校も教会ではない、すなわち宗教団体ではない。各組織においてどれほど厳しい上下関係があろうと、その関係は崇拝・信仰の関係ではないし、そうであってはならない。
そして、いま書いた点は教会も同じだし、教会こそが声を大にして言ってきたことだ。教会の中に会社や学校などの組織の中にあるような意味での上下関係はないし、あってはならないし、たとえ形式的に類似する要素があるとしても、その関係は崇拝・信仰の関係ではないし、断じてそうであってはならない。
「献金」の話に戻す。「献」げたのであれば、自分のものではない。引っ張ればいつでも戻ってくるひもをつけて何が「献」金か。見栄張りや恩着せの身ぶりつきで何が「献」金か。回り回っても自分の利益として戻ってはこないが、世界と教会の将来のためにささげるという動機を取り戻すことはできないか。
教会と会社や学校との峻別、そして今書いた意味の「献」金がないかぎり、先に書いた「20代以下の信徒のみで構成され、土地・建物・伝道資金は親教会が負担する伝道所」を生み出すことは夢のまた夢だ。「若い人を教会に」という祈りは正しい。しかし「若い人」は高齢教会員の部下でも舎弟でもない。
高齢教会員を疎んじる意図は皆無である。むしろ正反対である。心から敬意を表し、尊重する思いゆえに書いている。思う存分、同世代の人々との会話を楽しんでいただきたいし、何の気兼ねもなく昔の言語感覚や価値観の中で生きていただきたい。こんなこと言われなくてもすでにしておられるに違いないが。
ただ、ご自分たちのあり方を変えるつもりはないという点については一切お譲りにならないのに「若い人を教会に」とお祈りになることがいかに矛盾しているかということにはぜひお気づきいただきたいと願っている。ご自分たちが敷いたレールの上を「若い人」が走らないのは「若い人」が悪いわけではない。
かつては「外国」(とくにアメリカ)の教会が、1ドル360円の力で日本国内に伝道所を作り、土地・建物・伝道資金をプレゼントしてくれたので「若者の教会」ができた。稼ぎが乏しく、思うように献金できなくても、教会役員として選んでもらえ、若者らしい発想をもって教会運営に積極的に参加できた。
これからは「外国の資金力」ではなく「高齢者の資金力」で「若者の教会」を生み出すしかないだろう。「我々の二軍候補者が教会に来てくれないか」と指をくわえていても、そんなことを願われている時点で、若者は教会に近づかない。手下にされるのを嫌がる。現今の「伝道不振」の最大の原因ではないか。
2016年10月16日日曜日
松戸つながりの個人的な話
今日初めて礼拝に出席させていただいた新松戸幸谷教会の源流は日本基督教団松戸教会の新松戸集会だったと教えていただきました。私の父は群馬県前橋市の出身者ですが、千葉大学園芸学部(松戸市)の学生だった頃、松戸教会で洗礼を受けました。その意味では私の信仰の源流も松戸教会であると言えます。
父から聞いた話では、父が松戸教会で洗礼を受けたのは、賀川豊彦先生を招いての伝道集会が松戸市内で行われたときに誘いを受けて参加したことがきっかけだったそうです。千葉大学園芸学部の学生寮から最も近い教会として松戸教会を紹介されたので、出席するようになり、まもなく洗礼を受けたそうです。
父は大学卒業後、岡山県立農業高校の園芸科教員として定年まで働き、現在も岡山市で夫婦で暮らしています。父は1933年11月生まれの82歳ですが、電話(最近はビデオ通話)で話すかぎりしっかり受け応えしてくれます。私が幼いころ、道端に生えている草の名前をひとつひとつ教えてくれた父です。
父から聞いた話では、父が松戸教会で洗礼を受けたのは、賀川豊彦先生を招いての伝道集会が松戸市内で行われたときに誘いを受けて参加したことがきっかけだったそうです。千葉大学園芸学部の学生寮から最も近い教会として松戸教会を紹介されたので、出席するようになり、まもなく洗礼を受けたそうです。
父は大学卒業後、岡山県立農業高校の園芸科教員として定年まで働き、現在も岡山市で夫婦で暮らしています。父は1933年11月生まれの82歳ですが、電話(最近はビデオ通話)で話すかぎりしっかり受け応えしてくれます。私が幼いころ、道端に生えている草の名前をひとつひとつ教えてくれた父です。
新松戸幸谷教会の主日礼拝に出席しました
2016年10月15日土曜日
挨拶
今年3月22日から24日まで信濃町教会で行われた日本基督教団春季教師検定試験で教師転入試験を受け、翌4月より教団関係学校である千葉英和高等学校の宗教科(聖書科)常勤講師になり、教団教務教師に登録しました。現在50歳です。東京神学大学大学院を修了して四国教区総会で補教師准允を受領したのは26年前の1990年4月です。当時は24歳でした。その後1992年12月に同じく四国教区総会で正教師按手を受けましたが、1998年7月より昨年2015年12月までの17年6ヶ月間は日本キリスト改革派教会の教師でした。教団の外にいたあいだ一度も休職や無任所の期間がなかったので教団教規に従って転入者として扱っていただきましたが、実質は復帰者であると自覚しています。転入試験の中での教師検定委員との面接でも復帰者扱いの質問を受けました。なぜ教団を離れたのか、なぜ戻ってくるのかをはっきり問われましたが、その問いに十分に納得していただけるような明瞭な答えができたかどうかの自信はありません。それでも教師転入を認めてくださった日本基督教団の皆さまに心から感謝いたします。主の前に恥じるべきことは一切ありません。すべてを主がご存じです。そのことをご信頼いただきたく願っています。千葉英和高等学校での働きはまだ始まったばかりです。学校教員としての経験が皆無の状態で飛び込んだ、私にとって全く新しい世界ですので、うろたえることが多い日々です。あと10歳若ければ、などと無駄な思いにとらわれることもしばしばあります。キリスト教学校と教務教師の働きは、教会の皆さまの熱いお祈りとご声援なしには成り立ちません。この小さなしもべのためにお祈りいただけますと幸いです。
(日本基督教団東京教区千葉支区だより『しののめ』第36号、2016年10月15日発行)
(日本基督教団東京教区千葉支区だより『しののめ』第36号、2016年10月15日発行)
2016年10月10日月曜日
教義学と説教における論理の役割
| 本日の首都圏上空(正午) |
具体的な内容は忘れたがたしか宗教法人関係の手続きに関することだったと思うが、だいぶ前にお世話になった司法書士の方が頼もしかった。提出すべき書類を法務局で受理してもらえるようにするにはどういう論理の組み立てが必要かをきちんと説明してくれた。教義学がこれに似ている。大切なのは論理だ。
説教においても大切なのは本当は論理なのだが、説教における論理はある程度壊れているほうが説教らしい。ツッコミどころがあるほうが興味がわくし、対話が始まる。しかし「自分の説教の論理は壊れている」という説教者の自覚が必要だ。その自覚のためには、論理というものが意識されている必要がある。
「何を言っているのか分からない説教」は、論理が壊れていること自体に原因があるのではない。論理が壊れているということを説教者が自覚していないか、自覚していてもそれ以外の論理を知らないのでメタな視点を併せ持ちつつ軌道修正しながら語ることができないか、そのどちらかではないかと私は思う。
分からないことは「分からない」、知らないことは「知らない」と認め、「このへん私はまだ十分に突き詰めて考えることができていないのできちんと説明できない状態です。分かりにくい話になって申し訳ありませんが現時点でお話しできるところまででお許しください」と断る説教は「よく分かる説教」だ。
教義学のことを書こうとしても、いつの間にやら説教について書いている。こういう私のような書き方が「論理が壊れている」というわけだ。話を分かりやすくしようと自分なりに噛み砕いているうちに横道にそれている。元の線にはもはや戻れない。そういう性分の人間なのだと、あきらめるしかなさそうだ。
2016年10月9日日曜日
キリスト者の自由(千葉若葉教会)
関口 康(日本基督教団教務教師)
「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を負う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、霊により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」
今日の箇所にパウロが書いていることを一言でまとめていえば、イエス・キリストを信じる信仰をもって生きている人々は、律法に定められた割礼を受ける必要はないし、受けるべきではないということです。律法のもとへと逆戻りすることはキリストの恵みを否定するのと同じです。恵みは贈り物ですので、お断りするのはもったいない。そのようなことはやめなさいということです。
パウロがこのように書いていることにはもちろん理由があります。当時の教会の中で指導的な立場にあった人々が、イエス・キリストを信じる信仰をもって生きている人々に「人が救われるためには信仰だけでは足りません。割礼を受けなければ救われません」と呼びかけるようになったからです。
なかでも、当時の教会の最高指導者であった使徒ペトロがその呼びかけをする側に加わり、事態が深刻化しました。平たくいえばペトロが先輩で、パウロは後輩です。当時の教会の人々にとっては、両者の意見が矛盾し、対立している場合に、どちらが正しいかを選びなさいと言われれば、パウロの意見よりもペトロの意見のほうを尊重し、選ぼうとしたはずです。
しかもパウロは、もともと熱心なキリスト教迫害者であったという黒歴史(ブラックヒストリー)を持つ人でもありました。そのことは当時の教会の中でよく知られていた事実です。この人は本当に信頼できる人なのかどうかを疑う人は少なからずいました。パウロについての人物評価は当時の教会の中で二分し続けていました。
そのことはパウロ自身も十分自覚していました。それでパウロは、イエス・キリストの福音の根幹を揺るがすとんでもないことを言い出した人々の中で中心的な人物になってきたペトロと直接会って説得しなければならないと考えました。そして、実際にパウロとペトロの直接対決の場面があったことを、パウロはこの手紙の2章11~14節に記しています。
「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。『あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のほうに生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか』」。
この中に出てくる「ケファ」が使徒ペトロです。「ケファ」も「ペトロ」も「岩」という意味です。「面と向かって反対した」は「面罵した」という意味です。先輩ペトロを後輩パウロが面と向かって怒鳴りつけた格好です。理由は何であれそのこと自体がとんでもないという評価もありうるでしょう。後輩のくせに生意気だと。
パウロから抗議を受けたペトロがその後どうなったかは分かりません。ペトロの考えが変わったかどうかは、聖書のどこを探しても調べがつきません。変わったかもしれないし、変わらなかったかもしれません。
そして、そのパウロとペトロの直接対決の場面があった前なのか後なのかは分からないのですが、内容的に明らかに直接関係ある出来事が使徒言行録15章に記されています。そこに描かれているのはキリスト教会史上初めて行われた教会会議である「エルサレム会議」です。
その会議の議題は、割礼の問題でした。「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」(使徒言行録15章1節)とキリスト者たちに向かって教える人々が登場したので、その問題に決着をつける必要が生じたために開かれたのが、エルサレム会議でした。
私が個人的に興味深く思うのは、エルサレム会議の様子を描く使徒言行録15章の中にペトロの名前が出てこないことです。ペトロがいなかったはずはないのです。むしろ中心人物であったはずです。しかし、そのペトロの名前が出てこないのは、隠されているとしか言いようがないです。使徒言行録の著者がペトロの名前をなぜ隠しているのか、その理由は分かりません。
ただ一つ言えることは「割礼を受けなければ救われない」というイエス・キリストの福音に反する教えを広めようとしたのは、使徒ペトロ個人ではないとしても、ペトロを中心に置くほどの最古層の人々であったことは間違いないということです。
その人々は、教会について語るときには使いたくない表現ではありますが、教会の中で「権力」をもつ人々です。その人々に逆らえば教会の中にとどまることができなくなるような存在。そういう人々と闘うことをパウロは余儀なくされたわけです。つまり、パウロの論敵は教会の外だけでなく、教会の中にもいました。しかも教会のど真ん中にいたのです。
それに、教会の教えに関してどちらか正しいかを争うのは本当に大変なことです。まさに神学論争です。「神学論争」という言葉を「答えが出ない堂々巡りの屁理屈」という意味で使う人々がいます。今私が申し上げたことも、その意味を含んでいます。
しかし、パウロはどうしても引くことができませんでした。なぜなら、この論争に負けるならば、パウロがその後半生において死力を注ぐことになった「異邦人伝道」にとって著しい障害になることが目に見えていたからです。
「人が救われるためには信仰だけでは足りません。割礼を受けなければ救われません」という教えを異邦人に向かって語るや否や、異邦人の教会に集まる人々は、たちまちのうちに蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまうでしょう。なぜなら、割礼は自分の体に傷をつけることだからです。割礼を受けるという高いハードルを超えてまで救いを求めようとする異邦人はほとんどいないでしょう。
そのことがパウロの目にはっきり見えていたのです。パウロは、異邦人にとってのハードルや障害をできるかぎり取り除いてあげたいと願っていたのです。だからパウロはこの論争からおりることができなかったのです。
そのパウロの気持ちを最もよく表わしているのは、使徒ペトロを面罵したときに言った言葉です。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」。これです。
私が今日みなさんにお話ししたいと願ってきたことも同じです。説教題に「キリスト者の自由」と書かせていただきました。私が最近しばしば考え込んでいるのは「キリスト者とは何か」という問いです。パウロが証言しているのは、使徒ペトロが「異邦人のように生活していた」ということです。イエス・キリストの一番弟子であり、教会の最高指導者になった、あの使徒ペトロが、です。
「異邦人のように生活する」とは、第一義的には旧約聖書の律法から全く自由にされた生活を営むことです。それはユダヤ人たちが最も軽蔑し、差別していた生き方です。そのような生き方を当時の教会の最高指導者たる使徒ペトロがしていたということは、まさに「異邦人のような生活」のあり方が「キリスト者の生活」のあり方になったことを意味しています。ということは「キリスト者の自由」とは「異邦人のように生きる自由」であると言ってはいけないでしょうか。
そして、もしそのように言ってよいなら、パウロの言葉は、次のようにも言い換えることができるはずです。「あなたはキリスト者でありながら、キリスト者らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にキリスト者のように生活することを強要するのですか」。
いま申し上げた言い換えには、強烈な皮肉と、激しい批判の思いを込めています。しかし私は50歳で50年教会に通ってきた人間です。まるで他人事であるかのように教会を批判する思いはなく、強い自戒を込めて申し上げているつもりです。
先ほど申し上げたとおり、私が最近しばしば考えさせられているのは、「キリスト者とは何か」という問いです。「キリスト者らしい生き方」とは何を意味するのでしょうか。「キリスト者として」とか「キリスト者らしく」とかそのような言い方をよく耳にしますが、それは何のことでしょうか。
パウロが見たペトロの姿は「異邦人のような生活をしている人」でした。それは「信仰を持たない人々と変わらぬ生活をしている人」と言っているのと同じです。それが当時の教会の最高指導者の姿でした。それ以上のことが「キリスト者」に求められるのでしょうか。
それとも「キリスト者」には、「異邦人のような生活」とは異なる、プラスアルファの要素があると考えるべきでしょうか。具体的に何をすることが「キリスト者らしい生活」なのでしょうか。これをすればあれをすれば「キリスト者らしい」ということを言えば言うほど、新たな律法、もっと過酷な負担を負わせるだけの結果になっていないでしょうか。
新約聖書の複数の福音書の中で紹介されている、主イエスが語られた「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10章15節)という言葉の「子どものように」が具体的に何を意味するかは不明であるとされています。「子どものように」は「静寂な集会の邪魔をする騒がしい存在」という意味でしょうか。そうかもしれません。しかし「罪がない存在」という意味ではないと思われます。聖書の価値観に従えば、子どももまた「罪ある存在」です。
私が思いつく答えは「子どものように」の「子ども」の意味は「喜び楽しみ遊ぶ存在」です。キリスト者の信仰生活や教会活動が悪い意味の「仕事」になっていないかどうかをよく考える必要があります。義務だから責任だからノルマだからと追い回される状態になっていないかどうかを。「キリスト者」はもっと自由に遊んでよいのです。義務だの責任だのという意味で教会が存在するのではないのです。
(2016年10月9日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会主日礼拝)
2016年10月8日土曜日
昔「映画館で」観た映画リスト
| お台場 |
「1983年の映画」で検索したらその年(私は高3)はたくさん映画を観たことが分かりました。「探偵物語」「時をかける少女」「フラッシュダンス」「楢山節考」「スターウォーズエピソード6」「戦場のメリークリスマス」「宇宙戦艦ヤマト完結編」「スーパーマンⅢ」は間違いなく映画館で観ました。
ならばついでにと調子に乗って「1982年の映画」でも検索したらその年(私は高2)の映画はほとんど観ていないことが分かりました。映画館で観たのは「ロッキー3」「愛と青春の旅だち」「蒲田行進曲」「わが青春のアルカディア」です。すっかり忘れていましたが、ネットが思い出させてくれました。
えい乗りかかった船だと「1981年の映画」でも検索したらその年(私は高1)に映画館で観た映画も分かりました。「ブルース・ブラザース」「おじゃまんが山田くん」「宇宙戦艦ヤマト新たなる旅立ち」「さよなら銀河鉄道999」「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」「セーラー服と機関銃」です。
大学在学中に映画館で観た映画がほとんどないことも分かりました。1984年(大1)ゼロ、1985年(大2)「ネバーエンディング・ストーリー」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」、1986年(大3)ゼロ、1987年(大4)「プラトーン」「アンタッチャブル」です。4年間でわずか4本です。
大学院在学中に映画館で観た映画も少ないながら、かろうじて2本あることが分かりました。1988年(院1)はゼロでしたが、1989年(院2)の「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2」と「レインマン」を映画館でたしかに観ました。前者はひとりで、後者はふたりで観た記憶が残っています。
1990年に大学院を卒えて仕事を始めてからは、映画館に足を運ぶことがほとんどなくなりました。それでも1990年の「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3」と1990年の「レナードの朝」は映画館で観ました。結婚してからは、映画といえばほとんど地上波やビデオで観るようになりました。
子どもが生まれてからは映画館といえば家族みんなで行く場所になったこともあり、それ以降に映画館で観た映画の記憶があまり残っていません。憶えているのは「ハリー・ポッター」シリーズの全作品(2001年~2011年)を観たことくらい。あとはジブリの「ハウルの動く城」(2004年)くらい。
さすがネット。小中学生の頃ひとりで映画館で観た映画が分かりました。1977年(小6)「ロッキー」が最初。そして同年「宇宙戦艦ヤマト」。1978年(中1)は「スター・ウォーズ」「サタデー・ナイト・フィーバー」「さらば宇宙戦艦ヤマト」「スパイダーマン」「ピンクパンサー4」を観ました。
1979年(中2)は「スーパーマン」「銀河鉄道999」「ロッキー2」「がんばれタブチくん」「ファンタズム」。「ファンタズム」は恐怖映画で、他との同時上映で観てしまいましたが、嫌だった記憶しか残っていません。1980年(中3)は「復活の日」「奇跡の人」「ヤマトよ永遠に」を観ました。
2016年10月2日日曜日
高井戸教会の主日礼拝に出席しました
誰からも支配されたくないので誰をも支配しない
![]() |
| 内容とは関係ありません |
詳細を明かすことはよしますが、さほど遠くない何代か前の人々が、豊臣さんと徳川さんから「邪宗門」と指定された岡山の日蓮宗不受不施派でして、そこからキリスト教への改宗は「邪宗門」から「邪宗門」への乗り換えの面があったと日本史的に考えられなくもありません。反権力の線の継承ではあります。
しかし、その線は「反権力主義」というようなものではありません。権力に「迎合」することがほとんど全くないので、おそらくは「扱いにくい」と思われて、猛烈に排撃されてしまうだけです。平たく言えば「かわいくない」のでしょう(平たすぎますかね)。そして、事は政治ではなく、あくまで宗教です。
私個人は政治に関心がないわけでなく、大いに関心があるほうですが、政治プロパーで考えることはめったにないし、その能力や土台がないです。常に宗教の立場から政治を見つめ、緊急の場合に限って動いているにすぎません。政治プロパーの人々からは物足りなく感じられるでしょうけど、やむをえません。
ただ、権力にからめとられ、おしつぶされそうかどうかの触覚は比較的敏感なほうだと自覚しています。「(神以外の)」と断りつつではありますが、何ものかに支配されることに耐えられない。「誰からも支配されたくないので誰をも支配しない」。どなたがおっしゃったか、これが私の第二の座右の銘です。
登録:
コメント (Atom)






