2016年8月22日月曜日

雨ニモマケズ風ニモマケズ

私の夏休みは昨日終わり、今日から出勤となりましたが、さっそく1時間早退しました。毎日1錠服用している血圧降下剤の残錠が無くなり、続きをもらう必要が生じました。台風9号直撃中の帰宅でしたが、なんとか無事にクリニックにたどり着きました。

クリニックの待合室で「台風9号上陸」のニュース
台風9号直撃中、血圧降下剤を薬局で受け取り、帰宅したところ、最近ヤフオクで落札した岩波文庫版のジンメル『哲学の根本問題』(初版)が届いていました。出品時に手違いがあったと出品者からお詫びの切手同封。とても恐縮。ありがとうございます。

岩波文庫版ジンメル『哲学の根本問題』(初版)

伝道礼拝のご案内

親愛なる各位

来週日曜日(2016年8月28日)、日本基督教団千葉北総教会の「伝道礼拝」で説教のご奉仕をさせていただきます。とても親切で素晴らしい教会です。心をこめてご奉仕いたします。どなたもぜひお集まりください。

(2016年8月22日、関口記す)

日本基督教団千葉北総教会(千葉県印西市)

「日本基督教団千葉北総教会 伝道礼拝」ご案内

日時 2016年8月28日(日)午前10時30分~11時45分

場所 日本基督教団千葉北総教会(大串眞牧師)

住所 千葉県印西市草深天王脇1139-7(〒270-1337)

説教 「神が全力であなたを救う」関口康(日本基督教団教務教師)

聖書 フィリピの信徒への手紙1章15~20節

【告知!】

礼拝後「そうめん流し、スイカ割り、かき氷、スーパーボールすくい」が行われます!

◎アクセス等は千葉北総教会の公式ホームページをご覧ください。

「日本基督教団千葉北総教会」公式ホームページアドレス
http://hokuso-church.la.coocan.jp/

2016年8月21日日曜日

夏のまぼろし

私の夏休みは今日で終わり。結局どこにも行きませんでした。ずっと書斎に引きこもっていました。せめて最終日の記念にと思い、今日阿佐谷東教会で説教させていただいた帰りに近くを通った東京スカイツリーを撮りました。中に入ったことはありません。

東京スカイツリー
今日は阿佐谷東教会で説教させていただいた帰りに浅草も通りましたが、車で走り抜けただけです。多くの人々で賑わっていましたし、人力車に乗って楽しんでいる人もいました。私にはガソリンエンジンで動く車がありますので、人力車には乗らないです。

浅草付近
「今年の夏休みはどこにも行かなかった」と書きましたが、そもそも旅行が得意でないので、今年に始まった話ではありません。山も海も街も外国も行きませんでしたので、夏休み最終日の記念に書斎のベランダから富士山と東京スカイツリーを撮りました。

東京スカイツリーと富士山
今年の夏休みはイベントにもキャンプにも花火大会にも行かなかったし、と書こうとしたら、窓の外に突然巨大な花火が打ち上がったので驚きました。借家から1キロしか離れていない麗澤大学(千葉県柏市光ヶ丘)の花火大会でした。麗澤さんありがとう!

麗澤大学の花火
他の人に無関係なことなのでしつこく書かないでいますが、今年の夏休みの最大の出来事は「ガーネット・クロウさんに魅了されたこと」。毎日朝から深夜までユーチューブで視聴していました。それが私の引きこもりの「原因」なのか「結果」なのかは現在調査中です。Vo中村さんだけでなく、みんないい!

神は世界を傲慢から救う(阿佐谷東教会)

日本基督教団阿佐谷東教会(東京都杉並区阿佐谷北5-13-2)
コリントの信徒への手紙一1章26~31節

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵ある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあがたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」

阿佐谷東教会の皆さま、はじめまして。私はいま、千葉県八千代市にある日本基督教団関係学校である高校で聖書を教えています。日本基督教団教務教師の関口康と申します。今日はどうかよろしくお願いいたします。

なぜ私が今日、講壇に立たせていただいているのか。そのことを最初にお話しすることで自己紹介とさせていただきます。私は貴教会牧師の坂下道朗先生の東京神学大学の後輩です。いわばそれだけです。坂下先生からご連絡いただいたのは5月の半ばです。

しかし、その日から今日までの3ヶ月間、坂下先生と直接お目にかかる機会がついぞありませんでした。メールのやりとりだけでした。坂下先生とお会いしたのは27年くらい前です。それから一度もお目にかかっていません。

しかも、坂下先生は東京都内にご実家がおありで、東京神学大学にはご自宅から通っておられました。私は学生寮で6年間過ごしました。寮生と通学生は仲が悪いわけではありませんが、実はあまり接点がありません。

あともう一つ付け加えますと、私は1990年4月に日本基督教団の教師になりましたが、その7年後の1997年から昨年末(2015年12月末)までの19年間は、別の教派の教師をしていました。そして、この春に転入試験を受けて教団に戻ってきた人間です。

このことを言いますと必ず出てくる質問は、なぜ日本基督教団を出たのか、なぜ戻ってきたのかということですが、その質問にはっきり答えることができない人間です。転入試験で面接があり、その場にずらりと並んだ教師検定委員からその質問を受けましたが、そのときもはっきり答えることができませんでした。それで通してくださった教師検定委員会の皆さまに感謝しています。

日本基督教団が嫌になったから出て行ったとか、行った先の教派が嫌になったから教団に戻ってきたとか、そのようなことは考えたこともありません。自分の感情に任せて行動したつもりはありません。そのことはどうかご信頼いただきたく願っております。

私の話が長くなりました。申し訳ございません。先ほど司会者の方に朗読していただいたコリントの信徒への手紙一の1章26節から31節までを説明し、メッセージを述べさせていただきます。

最近の聖書学者たちは、新約聖書のいわゆるパウロ書簡の中のいくつかは、パウロが書いたものではなく、パウロの名前を借りた別の人が書いたものであるというようなことを盛んに議論する傾向にありますので、だんだん自信がなくなります。しかし、今日お読みしましたこの手紙のこの箇所は、使徒パウロが書きました。そのことを自信をもって堂々と宣言いたします。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを思い起こしてみなさい」(26節a)とあります。この訳で間違ってはいませんが、ずいぶん柔らかくなっています。「思い起こしてみなさい」は「見る」という言葉です。「召された」は「呼ばれる」です。声をかけられることです。私は坂下先生を通して神から今日の説教をするようにと命ぜられました。それと同じ意味です。何かの働きにつきなさい、この仕事をしなさいと、声をかけていただくことです。

そのときのことを「思い起こしてみなさい」と言われています。その意味は「見なさい」です。もう少し強く言えば「直視しなさい」です。直視するのは、その頃の自分自身のぶざまな姿です。なぜぶざまなのか。初めは何も知りません。どうすればよいかが分かりません。思い出すのも恥ずかしい。そのぶざまな姿です。

しかも、パウロが書いているのはキリスト者の信仰の問題であり、教会生活の問題です。「召された」は「呼ばれた」です。呼んだのは神さまです。「わたしに従いなさい」という、神の声なき声です。その神の声を、聖書を通して、教会を通して、説教を通して聴き、神に従うことを決心し、約束しました。キリスト者の過去には必ずそういう日があります。その日のことを思い起こしてみなさい。そのときの自分の姿を直視しなさい、と言われています。

それによって思い出される自分たちの姿はどのようなものでしょうか。それが次に書かれています。「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけではありません」(26節b)。

この「人間的に見て」も直訳すれば「肉によれば」です。「肉」(サルクス)という言葉が使われています。人間存在を構成する肉体です。その「肉」が「人間」という意味になります。べつに悪い意味ではありません。肉は汚らわしいから人間も汚らわしいという意味ではありません。

パウロが言いたいことは、はっきりしています。「わたしに従いなさい」と神からお呼びがかかり、その声に従うことを決心し、約束したときの自分自身の姿を思い出しなさい。目をそらさないで直視しなさいということです。

そして、ここに時間の次元がかかわってきます。時間的な過去の自分を思い出すことが求められています。今より若かった頃の自分の姿です。当時はまだ「知恵」も「能力」もあった。そういうことを皆さんは覚えているでしょう。忘れたとは言わせません。そのようにパウロは言おうとしています。また「家柄」というのは、自分の努力で得るものというよりは、親から譲られるものです。

しかし、思い出してみてください。あなたがたが神から召されたとき、「知恵」や「能力」や「家柄」のようなことが問われましたか、そんなことは問われませんでしたよねと、パウロは言おうとしています。そういうことが入会の条件ではなかったですよねと。あなたは「知恵」があり、「能力」があり、「家柄」もいい。そういうあなたにはぜひ教会に来てください。そうでない人はお断りいたします、などとは言われませんでしたよねと。

なぜそういうことを言われなかったのかといえば、教会はそういうことを問題にする団体ではないからです。そういうことが条件で入れるか入れないかが決まるような団体は「教会」ではありません。

そして、それは神のお考えだったのだということを、次にパウロは述べています。「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(27~28節)。

教会とはまさにそういう存在なのだということをパウロが言おうとしています。はっきり言いますと、世間的な目で見れば、教会は無学で、無知で、無力で、無意味な人たちがかき集められたような存在なのだと。はっきり言い過ぎでしょうか。

しかし、それこそが神の意図なのだとパウロは言おうとしています。それが神の御心であり、神のご計画です。そういう教会を作ることを、神がお求めになったのです。それは何のためでしょうか。神がなぜ教会を無学で、無知で、無力で、無意味な人の集まりにしたのでしょうか。パウロが記しているその理由は「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため」(29節)です。

すなわち、その理由とは、世間的な価値判断の中で傲慢になっている人たちに対して神御自身が戦いを挑み、抗議するためです。そして傲慢な人に恥をかいてもらうためです。それによって神御自身が傲慢な人に「ちょっと、そこのあなた、もっと謙遜になってくださいよ」と言うためです。パウロが言おうとしていることは、そういうことです。

しかし、その教会も変質していきます。教会は世間から隔絶されて立っているわけではありません。たえず交流がありますので、明確な区別はできません。パウロがこのようなことを書いているのも、こういうことをわざわざ書かなければならないほどの変質がコリント教会の中に起こっていたからであると思われます。

だからといって、教会が世間と全く同じになってしまって、教会の中で、知恵や知識、能力、家柄の競争が始まってしまうなら、そういうことに欠けや引け目を感じている人々は、教会の中でも居場所を失ってしまいます。そのうち「私には生きている意味も価値もない」と言って絶望する人々が出てくることになります。

こういうことを言いますと、熾烈な競争の中に絶えず身を置いている方々から、「教会だけが特別ではない。甘えるな」と叱られてしまうかもしれません。しかし、そういう方々には申し訳ありませんが、もし教会までもがそのような「世知辛い」場所になってしまうなら、どこにも行き場がなくなるし、居場所がなくなる人々が必ず出てくるでしょう、ということは言わせていただきます。

もちろんそうは言いましても、教会が「世知辛い」ところであるかぎりは、世間と大差ありません。教会の中で競争しあっているようでは。私が過去に牧師として働いた教会で出会った人々の中には、「教会に来て本当によかったです。こんなに安心できるところは他にありません」とおっしゃる方が何人もおられました。そういう場所がわたしたちの人生の中に確保されていることが大切です。

そのような場所があることが、わたしたちにとって、たとえどんなことがあっても失望しないで生きていくことができる、希望の根拠になります。知恵も能力も家柄も、そのこと自体が問われることがない、そのこと自体で競争しあうことがない、そのような場所があるとしたら、それが「教会」です。

わたしたちの教会がこれまで以上にそのような教会になっていくにはどうしたらよいのかについては、私は何も言いません。もう時間切れです。あとのことは坂下先生にお任せいたします。

(2016年8月21日、日本基督教団阿佐谷東教会主日礼拝)

2016年8月20日土曜日

美味しい焼肉弁当をごちそうになりました

昨日と今日、「請われて」アルバイトに行きました。1月から3月まで勤めた建設会社でブログ作り、スキャナー設定、公式書類ひながた作り、OSアップデート等をお手伝いしました。美味しい焼肉弁当をごちそうになりました。ありがとうございました。
とても美味しかった焼肉弁当

半世紀の半生記の反省期

今年の夏休みは「一に反省、二に反省、三四がなくて、五に反省」。ただただひとり部屋に引きこもって過去と向き合っています。ブログのアクセス数が上がっている理由はさっぱり分かりませんが、過去20年のネット歴、8年半のブログ歴で初めてです。


半世紀の半生記を綴った自己紹介

2016年8月19日金曜日

「歴史的資料」が見つかりました!

「東京神学大学学科履修表(学部)」(1987年後期)
探せば出てくるものですね。私の東京神学大学学部4年後期(つまり卒業時)の履修表(成績表)。当時の履修学科の「体系」が分かります。もちろん本当は私の当時の成績が書かれていますが消しました。成績がよかったことを自慢するようでしたので笑。

この「歴史的資料」に基づいて昨日ブログにアップした私の自己紹介の文章を以下のように訂正しておきました。

関口 康 自己紹介
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/p/blog-page_17.html

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(以下、訂正版)

東京神学大学で履修した講義は以下のとおり(記憶が誤っている点は後日訂正)
「Ⅰ 一般教育科目」
・第1類
 国文学 川 鎮郎
 哲 学 近藤勝彦
 倫理学 岡野昌雄
 心理学 三永恭平
・第2類
 法 学 最上敏樹
 社会思想史 梅津順一
 宗教社会学 大西直樹 
・第3類
 物理学 原島 鮮
 精神医学 赤星 進
・第4類
 キリスト教通論 北森嘉蔵
 聖書通論Ⅰ 左近 淑
 聖書通論Ⅱ 松永希久夫
 聖書歴史(旧約)左近 淑
 聖書歴史(新約)山内 眞
「B 外国語科目」
 英 語Ⅰ ゴードン・レーマン
 英語実践 ゴードン・レーマン
 ドイツ語Ⅰ 近藤勝彦
 ドイツ語Ⅱ 加藤常昭
「C 保健体育科目」
 保健講義
 体育実技
「Ⅱ 基礎教育科目」
 神学通論 熊澤義宣
「Ⅲ 教職課程」
 教育原理
 教育心理学
 宗教科教育法
 道徳教育の研究
 教育実習(聖学院高等学校で実施)
「Ⅳ 専門科目」
〈A 聖書神学〉
 旧約緒論 左近 淑
 旧約神学 船水衛司
 ヒブル語 未履修
 ギリシア語 平野 保
 新約緒論 松永希久夫
 新約釈義 竹森満佐一
 新約神学 平野 保
 新約原典講読 平野 保
 神学書講読(英)ゴードン・レーマン
 神学書講読(独)川村輝典
〈B 組織神学〉
 組織神学Ⅰ(教義学)大木英夫
 組織神学Ⅱ(倫理学)佐藤敏夫
 組織神学Ⅲ(弁証学)大木英夫
 神学書講読(英)大木英夫
 神学書講読(独)熊澤義宣
〈C 歴史神学〉
 教会史Ⅰ(古代教会)徳善義和
 教会史Ⅱ(中世教会)徳善義和
 教会史Ⅲ(宗教改革)徳善義和
 教会史Ⅳ(近代教会)ヘンリー・フレンチ
 教会史Ⅴ(日本教会)鵜沼裕子
 宗教史Ⅰ デイヴィッド・リード
 アメリカ教会史 古屋安雄
 英国教会史 八代 崇
〈D 実践神学〉
 実践神学概論 加藤常昭
 キリスト教教育概論 小林公一
 牧会心理学 三永恭平
〈G 学部演習〉
 組織神学 近藤勝彦
 歴史神学 赤木善光
「大学院博士課程前期課程科目」
 説教学 山口隆康
 牧会学 山口隆康
 礼拝学 竹森満佐一
 組織神学演習 大木英夫
 修士論文指導演習 近藤勝彦
など

久しぶりにアルバイトに行きました

今日(2016年8月19日金曜日)は久しぶりにアルバイトをしてきました。1月から3月までの無職期間にお世話になった建設関係の会社から「請われて」行ってきました。お昼にごちそうになったお弁当が美味しかったので、記念写真をアップします。
美味しかった久しぶりのアルバイト先でごちそうになったお弁当

2016年8月18日木曜日

ブログに「自己紹介」ページを新設しました

実家周辺の現在の景色(2016年2月撮影)
夏休みにしかできないことをと思い、過去50年余の人生を回顧し、時系列順に並べました。あれもこれもときりがないので、とりあえずの公開です。人の前で誇れることは何もありませんが、主の前に恥じるところはありません。

【1965年】

岡山県岡山市に生まれる(11月16日)
自宅は岡山市南部の児島湾干拓によって造成された新興住宅地の一角
両親が所属していた日本基督教団岡山聖心教会(岡山市)に生後まもなく通いはじめる

続きは「自己紹介」ページで

2016年8月17日水曜日

「分かりやすい説教」の落とし穴

この角度はジャンプ台のようだ
出るかレジェンドの新記録
意図的といえば意図的であるが、私の説教へのほめ言葉として「ギリシア語も神学用語も専門用語も出てこない(ので良い)」というのがある。ほめていただけるのはうれしいことだが、そのように言ってくださる方がこれまで聴いてこられた説教はどういうのだったのだろうと、やや心配になる場面でもある。

たしかに私はそういう言葉を意図的に避けている。いばるわけではないが、そういう知識がないわけではない。しかし説教を専門用語で埋め尽くしてどうするという思いが強くある。英語を全く知らない人に英英辞典を読めと言っているのと大差ないではないか。それを読むための辞典がさらに必要ではないか。

もちろん、専門用語を用いる以外に事柄に即して「正確に」語るすべが無い場合はあるし、少なくない。だれが言ったか「神」は「神」以外の概念で正確に説明できそうにない。例の「存在の類比」(analogia entis)を用いて「神」は「エンペラー」のような存在だとやるとファシズムになる。

「とにかく分かりやすくあれ」という考えは危険な面をもつ。それはティリッヒが「神は霊なり」はGod is MindともGod is intellectとも訳せないし、ヘーゲルの精神現象学はPhenomenology of the Mindとは訳されなかったと言っていることに通じる。

しかしそのことと、説教原稿をギリシア語と神学用語と専門用語で埋め尽くすのを是とすることとを我々は区別しなくてはならないということは直感的には分かる。後者は端的に怠慢を意味する。説教の本来の目的であるギャップの橋渡し(Bridging the Gaps)を怠っている。あるいは衒学。

説教における衒学の問題は、これはこれで深刻で厄介ではある。需要と供給のバランスがとれている場合すらあるし少なくない。知的好奇心が常に刺激されるようでないかぎり食指が動かないタイプの人はいるので、そのニードを満たすには衒学系説教は有効である。平易な説教は聴くに値しないというわけだ。

するともしかして理想的な説教とは、ギリシア語と神学用語と専門用語で埋め尽くされているようでないが、「神」が「神」以外の概念に置き換えられていない点で事柄に即して「正確」であり、かつギャップの橋渡し(Bridging the Gaps)に果敢に取り組んでいるようなそれかもしれない。

しかし説教において最も難しいのは、ギャップの橋渡し(Bridging the Gaps)をどうするかだ。「救い主が人の身代わりに犠牲として死したこと」を今の人に「分かりやすく」説明する。たとえば「それは我々が救い主を見習って人の身代わりに犠牲として死すべきことを意味する」とやる。

あるいはそうでなく、「それは、我々の身代わりに犠牲として死した救い主とまるで同じような姿で我々の身代わりに犠牲として死した人々を、我々の救い主を我々が礼拝するのと同じような思いで崇敬することを意味する」などとやる。これでもうほぼ論理的に分かりにくくなっているが、分かる人は分かる。

私は今、それでいいのか?(いいわけがない!)と強い疑問符をつけたいがために書いている。ならばお前に別の解決策があるのかと問われても、まだその十分な答えがないままであるが、内心にわいてくるのはやや憤りに近いほどの拒絶感だ。いずれにせよ人の犠牲死への美化が起こっていると思えるからだ。

というあたりまでを深夜から未明にかけて、書斎の座椅子にすわったまま何度も寝落ちながら考えていた。その先が続かないのだが。何も見えていないわけではない。字にすることに心理的抵抗が起こり、いつもそこで止まってしまうという意味で。眼前の厚い壁に行く手を阻まれていると感じるという意味で。