2015年12月31日木曜日

牧師館より退去しました

2015年12月31日(木)をもって、11年9ヶ月過ごした松戸市小金原7丁目の牧師館より退去いたしました。東京電力、京葉ガス、松戸市水道局に電話し、電気、ガス、水道を停止してもらいました。

駐車場
石段
玄関前
玄関内
食事室
台所
居間
1F和室
階段
2F洋室1
2F洋室2
2F和室
2F物干し場
便所
裏庭通路
縁側
裏庭
庭木



2015年12月28日月曜日

年賀状割愛のお願い

みなさまへ。

12月24日(木)千葉県柏市に転居いたしました。

12月末の転居で大混乱状態ですので、誠に申し訳ありませんが、新年の年賀状はすべて割愛させていただきます。新住所は私宅(借家)につき一般公開は控えます。連絡はメール(yasushi.sekiguchi@gmail.com)かメッセージをご利用いただけますと助かります。

郵便局には新住所への転送依頼済みです。旧住所(松戸市小金原7丁目の牧師館か教会の住所)宛てのはがきや手紙のうち関口個人名義宛てのものに限り、一年間は新住所に転送されます。年賀状等をすでに送ってくださった方はご安心ください。

しかし、申し訳ありませんが、返信は割愛させていただきます。

2015年12月28日

関口 康

2015年12月26日土曜日

横浜中華街に行きました


今日(2015年12月26日土曜日)の夜は、横浜中華街の善隣門の近くにある中華料理店で家族で食事をしました。首都高速湾岸線を使い、東京湾アクアラインと横浜ベイブリッジを通って行きました。これから住む柏市の借家から横浜中華街まで往路90分、復路60分。一年間本当にお疲れさまでした。

2015年12月12日土曜日

「ウェストミンスター信仰告白との出会い」をめぐる回想

近藤勝彦『現代神学との対話』(ヨルダン社、1985年)
近藤勝彦先生の『現代神学との対話』(ヨルダン社、1985年)は過去3回は購入しましたが、人にあげるくせがあり失ったままでしたが、このたび落札することができました。私の一般教養の「哲学」の先生であり、学部の卒論と修士論文の指導教授でした。神学の講義を受けたことがないという意味です。

楽屋落ちの話をすれば、私の組織神学の先生は、組織神学Ⅰ(教義学)と組織神学Ⅲ(弁証学)が大木英夫教授、組織神学Ⅱ(倫理学)が佐藤敏夫教授でした。受講する年度が1年でも違うと教授が違うというローテーション方式だったので、私と同じ学年の人でも、受けた講義の内容が違う人がいるはずです。

楽屋落ちついでに覚えているままを書けば、1986年4月から履修した「組織神学Ⅰ(教義学)」の中で大木英夫教授が、今で言うアクティヴラーニングのようなことを学生にさせました。「あなたにとって教会とは何かを書きなさい」と言われ、書き終わったら一人ひとりに教室内でそれを発表させました。

そのとき私(学部3年、20歳から21歳になる年度)は当然のことのように、生まれたときから高校を卒業するまで通った教会の姿を思い浮かべたままを、いわば体験主義的に描写しました。ところがその同じ教室に私とは全く正反対の答えをした学生がいました。私の一学年上に学士編入してきた人でした。

と言っても29年前の記憶なので若干不鮮明なところがあることをお許しいただきたいのですが、その学生は大木教授からの「あなたにとって教会とは何かを書きなさい」という問いかけに対して、ウェストミンスター信仰告白(もしくは大小どちらかの教理問答)の教会の定義を丸暗記する形で回答しました。

そのような答え方を聞いた私は正直あっけにとられましたし、反感さえ覚えました。雑に言えば「なんだよ、すかしやがって」的な心理的リアクションがありました。しかしそのとき大木教授が「うむ。そういう答え方もある」と肯定的に受容なさるのを聞いて、これまた驚き、目が開かれる思いを抱きました。

その学生に対して大木教授がおっしゃったことを、私の記憶しているかぎりですがもう少し正確に言えば、「うむ。そういう答え方もある。そういう伝統の教会がある」でした。そのお答えに私が驚いたのは、私が生まれたときから高校を卒業するまで通った教会の伝統には全く欠片もない要素だったからです。

しかし、その体験(1986年の東京神学大学「組織神学Ⅰ(教義学)」での大木英夫教授のアクティヴラーニングでの一人の学生の回答)が私にとっての「ウェストミンスター信仰告白との最初の出会い」となり、12年後の1998年には「ウェストミンスター信仰告白に基づく教派」の一員になりました。

しかし、その私はいまだに、29年も前に自分の中で起こった「なんだよ、すかしやがって」という心理的リアクションを、さして罪悪感なしにはっきり覚えていることも事実です。現実の教会は、一つの神学や信条・信仰告白の命題だけで言い表せるものではない。そう認識することが重要だと思っています。

2015年12月9日水曜日

ある牧師

人口1600人強の寒村の教会に25歳で人生初の主任牧師として赴任した半年後、教会役員の親戚の会社社長と大げんかになり、日刊新聞紙上で大罵倒大会をする。赴任2年目に会社社長の親戚の教会役員が「役員やめる」と言いだす。3年目に都会の女性と結婚する。牧師夫妻は政治活動に熱心に取り組む。

会社社長と大げんかになった原因は、会社の従業員の多くが教会の会員で、その人々が「給料があまりにも少なすぎる」とこぼす声を聞き、「これは味方しなければ」と思ったから。その牧師は次々と(合計3つの)労働組合の立ち上げを支援する。それを知った会社社長はそんな牧師はつまみ出せと激怒する。

赴任4年目に初めての赤ちゃんが生まれる。その頃も牧師夫妻は政治活動に熱心に取り組む。赤ちゃんが4ヶ月になったときに戦争が始まる。ついに牧師は政治的に態度決定をし、開戦の半年後(教会赴任5年目)、戦争に大反対する側の政党に入党する。そして土日以外の週日はもっぱら政治活動に没頭する。

その牧師は赴任6年目になると(ちょうど30歳)、自分が対立している会社社長やその親戚である教会役員に当てこするようなことを日曜日の礼拝の説教の中で言うようになる。さらには、そのような内容の説教の文章を自費で印刷して、1600人強の村の全家庭に配布しはじめる。村は当然大騒ぎになる。

ということをしていたと思ったら、その年(30歳)の夏休みの直後から急に書斎に引きこもり、一冊の本を書きはじめる。若いのにがんばっているその牧師を応援したいのか、自分たちの手下にしたいのか分からない、とにかく手を差し伸べてくる大人たちを次々蹴散らし、進むべきわが道を独りで模索する。

赴任7年目は、ほぼ一年じゅう引きこもり、誰が読むかも分からない本を書き続ける。牧師の任期延長に反対するか態度を保留する教会員が85人になり(任期延長賛成者は189人)、日曜日の礼拝出席者は減り、教会分裂運動が起こっても、牧師は書斎に引きこもり、自分でも体調を崩しながら、本を書く。

翌年(赴任8年目)の夏に、その本の原稿がやっと完成する。本の形にして出版してくれる出版社が決まるまでに5ヶ月かかる。それは小さな出版社で、初版の印刷は1000部。すぐに売れたのはわずか300部だった。その後、残部を別の出版社が買い上げて売ってくれたおかげで初版はなんとか完売する。

その牧師(32歳)にとっては記念すべき本の出版予定日の前月、教会役員会の6名中4名が、牧師に対する抗議として役員を辞職する。その理由は「牧師のくせにゼネラル・ストライキを賛美した」からだという。その牧師は「賛美」した覚えはなく「解説」しただけだと釈明するが、聞き入れられなかった。

本を書くための引きこもり期間が終わり、教会役員会との決裂が修復不可能になって、かえって吹っ切れる。その翌年(赴任9年目)、牧師は大々的な政治活動を再開する。大規模なデモ行進に参加する。そして翌年(赴任10年目)、かろうじて初版が完売した本を全面的に書きなおして、第二版を出版する。

その第二版が大売れし、一大ブームになる。牧師は一躍、時の人になる。本の評判を聞いたスカウトマンたちが頭をひねり、この牧師を教会に置いたままにすると教会が壊れるばかりなので、学校で若い子たちに教える教師にしようと思いつく。こうして牧師は、10年働いた教会を辞めて、学校の教員になる。

左・第一版(1918年(表記は1919年)、右・第二版(1921年(表記は1922年)

2015年12月3日木曜日

無題

今日の来訪者とカール・バルトの話になった。バルトは牧師をやめて大学で教え始めた4年後、「私は結局のところ、ザーフェンヴィルの牧師としてはまったくうまくやれなかったという思いが私を苦しませます」と友人トゥルナイゼンに書いた(E.ブッシュ『カール・バルトの生涯』新教出版社、92頁)。

「ザーフェンヴィルの牧師としてはまったくうまくやれなかった」が、他の教会ならばうまく行ったに違いないという意味かどうかは分からない。歴史的事実としては、バルトの牧師としての経験は、ジュネーヴ教会(ドイツ語部)の副牧師だったことと、ザーフェンヴィル教会の牧師だったことがあるだけだ。

そのバルトがザーフェンヴィル教会を去るとき抱いた複雑な心境をブッシュが描いている。「一方で彼は、『私はこの10年間、まったく役に立たない僕』であったと考えた。しかし他方では、彼にとって『マタイ福音書10:14の思い出も、宗教的高慢なしで、身近に感じられた』」(同上書、178頁)。

「マタイ福音書10:14の思い出」とバルトが言っている意味は説明しがたいが、牧師たちには分かる。なんら武勇伝ではない。バルトの思いは教会の牧師としては失敗したというものだったとほぼ言える。今日の来訪者が「バルト先生にしてこの発言とは慰められますねえ」と。その言葉に私が慰められた。

2015年11月26日木曜日

出身大学関係者のみなさまへ

本文とは関係ありません
資金的にはまだまだ苦しいのですが、出身大学の「全面的」支援者に復帰すべきではないかと思い詰めている、この今の瞬間です。いえ別に単純に、もし出身大学が消滅してしまうと、私の「大卒・大学院卒・教員免許取得」の客観的根拠も消滅してしまうのでは、という危機感だけです。超・自己目的的です。

他大卒の学士編入者、修士編入者と張り合うつもりはありませんが、そうでない私のほうが切実感・深刻感は強いのではないかと(やや張り合う思いを否めぬまま)言いたくなります。高卒ストレートで入学すると「偏差値35」の地獄のラベルを貼りつけられたままですからね。別にどうでもいいですけどね。

出身大学ももっと入学者を増やしたいなら、「偏差値とはなんぞや」の大真面目な神学的レクチャーをホームページなりに公開して、「そういうこと」と「我々がしていること」との関係を丁寧に説明するようなことをもっと大真面目にやらないと、超然としたままでは今の高校生のだれも見向きもしませんよ。

もう少しちゃんと書いておきます。重要な問題の一つではないかと思うのは、「研究者」と「伝道者」の区別の中に潜む「教会の牧師としての伝道活動にとってヴィッセンシャフト(サイエンス)としての神学は不要であり有害無益かもしれない」という、私見によれば敬虔主義的な前提理解の是非の問題です。

「伝道そのものにヴィッセンシャフト(サイエンス)は要らない」と言い切るならば、ブルース・リーやマスター・ヨーダらの「考えるな、感じろ」(Don't think, feel)の世界と大差ありません。それでいいといえばいいのかもしれませんが、考えるなと言われると人は鬱屈・暴発します。

鬱屈・暴発も、それはそれで大変なので、「そこから先は自分で考えてください」と牧師が教会に対して言える環境を、私はもっと拡充しなければ、と考えている次第です。そのためにも、教会の伝道者たる牧師こそがヴィッセンシャフト(サイエンス)としての神学にもっと精通する必要があると思うのです。

私の学歴とか教員免許のことを書きましたが、それは「枕ことば」のような意味で書かせていただいただけで、私自身はどうでもいいことです。

2015年11月22日日曜日

一人の人間としても、主を信じる者としても(松戸小金原教会)

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
フィレモンへの手紙8~16

「それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします。年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが、監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。彼は、以前はあなたにもわたしにも役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれませ。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。」

この個所は解説なしに読むと、いろいろと誤解を生んでしまう個所かもしれません。しかし、逆に言えば、解説を聞けば理解できる内容です。趣旨は次のようなことです。ただし、これから私が申し上げるのは、想像の要素が多く含まれている解説であることを、あらかじめお断りしておきます。

場所がどこであるかは分かりませんが、「パウロ」はどこか(おそらく牢獄)に監禁されている状態であると言っています。その監禁中の「パウロ」がオネシモという「子ども」を「もうけた」というのです。しかし、「子どもをもうけた」は比喩です。オネシモという人がイエス・キリストへの信仰へと導かれ、洗礼を受けたという意味です。信仰上の親子になったということです。

そのオネシモを「パウロ」としてはフィレモンのもとに「送り帰したい」と願っているわけです。前回申し上げたことですが、フィレモンはテモテやテトスとは違い、この手紙のどこにも、彼が狭義の教師、伝道者、牧師であったことを示す証拠は見当たりません。そのため、フィレモンをテモテやテトスと同じ意味で「伝道者」と呼ぶことは、根拠がないので不可能です。

ただ、前回は触れませんでしたが、フィレモン側の状況が少しは分かるかもしれない唯一の根拠は「あなたの家にある教会」(1:2)という表現です。私たちにとってピンときやすい、それに近そうな関係にあるのは「伝道所」かもしれません。しかし、フィレモンについて言われている「あなたの家にある教会」は、伝道所になる前の家庭集会のようなものを考えるほうが、より近いかもしれません。

その教会に、フィレモンというパウロが絶大なる信頼感を寄せている人がいる。その人がリーダーになり、中心になって、定期的あるいは不定期の礼拝なり集会なりが行われている。

この手紙から伝わってくるフィレモンの人となりは、人の世話をよくできる、その面で信頼されている人だったのではないかというようなことです。その人がいるだけで、周囲のみんなが明るくなり、元気になるような存在。「パウロ」よりもずっと若い世代の人の姿です。

そのフィレモンのもとにオネシモを「送り帰したい」というのが、今日の個所に書かれていることの趣旨です。そしてまた、この手紙全体の執筆目的であると考えることができます。「送り帰す」とは、もともとオネシモがフィレモンのもとにいたことを意味しています。

すべて想像の範囲内ですが、考えられることを申し上げます。オネシモはフィレモンの家で「奴隷」として雇われていた可能性がある、ということです。ただし、フィレモンの家にいた頃のオネシモは「役に立たない者」(11節)だったようです。一般的な言い方をすれば「仕事ができない人」だったのかもしれません。

また、書いていることを文字どおり受けとるとすれば、オネシモは「パウロ」にとって「監禁中にもうけた子ども」であるということは、二人の出会いの場所は監獄であるということです。オネシモは収監されるような犯罪をおかした人だったと考えられます。パウロはキリスト教信仰を宣べ伝えたことで迫害を受けての収監だったわけですが、オネシモは全くそうではない。しかし、不思議な導きで二人の間に接点が生まれた。そして、オネシモはキリスト教信仰へと導かれ、洗礼を受けた。

そして、「パウロ」としては、そのオネシモをフィレモンのもとに戻らせようと考えているわけです。しかし、フィレモンにとって、オネシモは、はっきりいえばかなり迷惑な存在でありえたわけです。犯罪をおかして収監された人でもある。一度雇ってみたが、以前の働きは全く使い物にならなかった。もう二度と雇うつもりはないと、フィレモンが考えていた可能性がある。

そのフィレモンの気持ちは「パウロ」もよく分かっている。だから、押し付けるつもりはない、と言いたいわけです。「先輩風を吹かせて強制的にオネシモをあなたに押し付けたいわけではありません。でも、誠に申し訳ありませんが、このオネシモをもう一度雇ってくださいませんでしょうか。どうかお願いいたします」と言っているわけです。オネシモの「就活」のために一肌脱いでいる感じです。

そのような「パウロ」の気持ちがよく表れているのが、「あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします」(8節)とか「あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです」(14節)というくだりです。

そして興味深いことが書かれています。「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためだったのかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです」(15~16節)。

「パウロ」が言いたいのは、こういうことではないでしょうか。

「たしかにオネシモは、フィレモンくんのところにいた頃は、どうしようもないほど使い物にならない人間だったかもしれません。そのことは私にも分かります。しかし、フィレモンくん、このオネシモという男は、人間としても信仰者としても立派に成長しました。私どもがしっかり指導しましたので、もう大丈夫です。なにとぞどうかお考えいただきたいのは、オネシモが私の指導を受けたことは、あなたさまのところにこれからずっとおらせていただくためだったのではないでしょうかということです。奴隷としてではなく、主にある兄弟として、これからあなたさまと一緒に生きることに必要な人間的な成長に必要な時間だったのではないかということです」。

牧会者「パウロ」の真骨頂です。

(2015年11月22日、松戸小金原教会主日夕拝)

神に倣う者(松戸小金原教会)

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
エフェソの信徒への手紙5・1~5

「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。」

今日からエフェソの信徒への手紙の5章に入ります。全部で6章ある手紙ですので、残りあと3分の1です。12月末で学び終えることができるようにスケジュールを組みました。この手紙の最後まで、共に学ばせていただきたいと願っています。

しかし、いまお読みしました個所は、新共同訳聖書をご覧になればお分かりいただけますが、4章の終わりで話題が途切れていませんので、段落が区切られていません。それは先週学んだ4章25節からの話題が続いていることを意味しています。本当は今日のような読み方をしてはいけないのかもしれません。とにかく了解しておくべきことは、すべては前回の個所の続きであるということです。

前回の個所に付けられている小見出しは「新しい生き方」でした。そういう内容のことが、今日の個所にも続いていると考えてください。しかし、新共同訳聖書の小見出しは元々のギリシア語原文に最初からあったわけではなく、あとから便宜的につけられたものです。このタイトルが不適切であるというような考えがあれば、別のタイトルをつけても、もちろん構いません。そのようなことも申し上げておく必要があるでしょう。

しかし、その前の段落の小見出しが「古い生き方を捨てる」であり、その「古い生き方」との対比を意図して「新しい生き方」という小見出しがつけられたことは明らかです。しかしまた、やや気をつけなければならないことは、この段落に「新しい生き方」という言葉そのものは出てこないということです。

それが出てくるのは、さらにその前の段落です。「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け」(4:22-23)。

今申し上げているのは大事な点です。「新しい生き方」という段落には出てこない「新しい」という言葉がその前の段落に出てきますが、「新しい生き方」でなく「新しい人」を「身に着け」と書かれています。その前には「古い人を脱ぎ捨て」と書かれています。「古い生き方」とは書かれていません。

ここでわたしたちが気づく必要があるのは、ここで言われている「新しい生き方」とは、「自分の力で自分が変わる」ということとは全く違うということです。そうではなくて、外から身に着けるものです。「新しい人を身に着ける」のです。

この「身に着ける」は自分が生まれながらに持っている性質や才能を育て、伸ばすことによって、自覚や考え方の方向性を換えるといったこととは違うことです。文字どおり服を着るように、まとうこと、羽織ることです。着用です。つまり、ここで「新しい人」とは、元々の私に、外からプラスされるものです。

この説明だけで聖書の人間理解、キリスト教の人間理解のすべてを語り尽くすことはできないかもしれません。しかし、そのようなことが少なくともこの個所に確かに書かれています。

言い方を換えれば、「自分が頑張りました。自分で頑張りました。自分で自分を変えました」と言い続けている間は何一つ「新しい生き方」になっていないし、「新しい人」を着ていません。「古い生き方」の「古い人」のままです。こういうふうに言い直せば皆さんにとって少しはピンとくるものがあるかもしれません。

生まれた時から先天的に与えられている性質や才能を育て、伸ばすことが間違っていると言いたいわけではありません。それは正しいことであり、必要なことであり、大事なことです。しかし、そのような方法でうまく行くのは、たぶん若いうちだけです。教会で年齢の話をするのはかなり慎重でなければならないと思いますが、私も先週50歳になりました。上り坂ではなく、下り坂です。そのことを謙虚に認める必要があります。

しかし、がっかりする必要はありませんし、どうかがっかりしないでください。聖書に教えられている意味の「新しい生き方」とは、自分の持って生まれた才能を育て、伸ばすことによって得られるようなものではないからです。天賦の才能のようなものは、年齢と共に失われます。しかし、それを失ったからといって、わたしたちの人生が終わるわけではありません。

それどころかむしろ、「私が頑張っている。私が頑張ってきた。私の力で私を変える」。そういうことが何ひとつ言えなくなったその日から「新しい生き方」が始まるのです。なぜなら「新しい生き方」とは100パーセント神さまから与えられるものだからです。自分の力で手を伸ばしてつかみとるものではないからです。

私が頑張った、自分の力で手に入れたと思っているものは、失うのが怖いでしょう。自分より力をつけてきた他の人々に、いつでも奪われる恐れがあるでしょう。しかし、「新しい人」はそのようなものではありません。

「新しい人」を得るために、努力は必要ありません。しかも、すべて無料(ただ)です。願えば、だれでもいただけます。その意味では無差別です。無料で、無差別でだれでもいただけるものというのは一般的には価値が無いものだとみなされるはずです。見せびらかすことの意味がありませんので。「それは無料ですよね。だれでももらえるものですよね」と言われてしまうようなものを、わざわざ見せびらかす人はいません。

しかし、神さまが与えてくださる「新しい人」とは、そういうものです。一般的には無価値なものです。人との差を競う思いの反対です。そういうのはすべて「古い生き方」であり、「古い人」です。そして、ここで重要なことは、その「古い人」はわたしたちの中に死ぬまで残り続けるものだということです。それを否定することはできません。「古い人」を「脱ぎ捨て……なければなりません」と書かれてはいますが、完全に脱ぎ捨てることができないからこそ、「……なければならない」のです。

しかし、その脱ぎ捨てようとしても脱ぎ捨てきれない「古い人」の上に「神にかたどって造られた新しい人」を「身に着ける」ことが勧められています。「古い人」と「新しい人」は重ね着が可能なのです。「あなたがその古い人を脱ぐまで待っています。新しい人を着るのは、それまでお預けです」と神さまから言われてしまうようなら、だれもそれを着ることはできません。

重ね着感がよく表されていたのが、先週の個所の「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」でしょう。すぐに腹を立てるのはクリスチャンらしくないとか言われてしまうでしょう。でも、腹が立つことはだれにだってあるでしょう。先週の個所では、腹を立てること自体は禁止されていませんでした。しかし、日が暮れるまでには落ち着きなさいよという意味のことが言われていました。

「古い人」がいつまでもちらちら見え隠れする。「新しい人」は「古い人」の上から重ね着しているだけです。それでいいのです。それ以外の道はないのです。

今日の個所の「神に倣う者となる」は「神にかたどって造られた新しい人を身に着け(る)」(4:24)と同じ意味です。そうでなければ理解不可能です。

「倣う」とは真似することですので、「神さまの真似をしなさい」という意味になりますが、神さまではありえないわたしたち人間が神さまを真似することなどできっこない。どうしたらいいのかと、ただ戸惑うばかりです。

しかし、その「神に倣う」というわたしたち人間には不可能なことを神さまが可能にしてくださるのです。神の「何」に倣うのかといえば、ここで言われているのは「赦し」と「愛」です。「赦し」のほうは「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(4:32)です。

「愛」のほうは「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(5:2)です。「赦し」も「愛」も、神さまが、キリストにおいて、わたしたちにしてくださったことです。

つまり、「神に倣う者となる」とは「神さまはわたしたちの罪を赦してくださったでしょ、神さまのひとり子であるイエス・キリストの命をくださるほどまでにわたしたちを愛してくださったでしょ、だからわたしたちも互いに赦し合い、愛し合わなくてはなりませんよね」ということです。

わたしたちがどれほど神さまの真似をしても、わたしたち自身が神さまになるわけではありません。わたしたちにできるのは、神さまがわたしたちにしてくださった無条件の「赦し」と犠牲的な「愛」の道筋の真似をして、人を赦し、人を愛すことを諦めずに続けていくことですよね、という話です。

残る問題は、これらのことをわたしたちがどれくらい自分のこととして真剣に考えることができるかです。それが実はいちばん難しいことです。「互いに愛し合いなさい」とか「互いに赦し合いなさい」とか何度言われても、自分のことにならず、他人事のように思えてしまう。むなしい思いが消えない。心の中で「あかんべえ」と舌を出している。

それでもいいですし、そういうものですよ、という話です。「重ね着」でいいのです。

(2015年11月22日、松戸小金原教会主日礼拝)

2015年11月20日金曜日

ネット界も習うより慣れろ界

記事とは関係ありません
論じ尽くしている方がおられるかもしれないが、今朝しきりと考えさせられているのは、いろんな「いいね」があるということだ。特定の文脈への反応として考えているわけではない。同じ「いいね」に種類がある。「感謝いいね」も「同意いいね」も「了解いいね」も「冷笑いいね」も「軽蔑いいね」もある。

「エアいいね」もある。「いいね」なきいいね。「いいね」を押さないことで、いいねの意思表示をする。それが「弔意」の場合もあるし、「まあ落ち着け」と宥める意思表示の場合もあるし、「申し訳ありませんが、重要な問題だと思うので、少し考えるお時間をいただけませんか」の「エアいいね」もある。

記事を書く側も書く側で、その日の虫の居所によって「いいね」を押してもらえてうれしい場合もあれば激怒する場合もあるものだ。「どんな気持ちと丹念な調べに基づいてこの記事を書いたと思っているのだ。ヤスヤスといいねだけ押しちゃって。押してもいいけど、もっと丁重に押してくださいませ」とか。

だから、要は慣れだ。そうとしか言いようがない。そして強いて言えば、今の自分は「いいね」を押されると傷つきそうだという自覚があるときは、記事を書くのをしばらく休むほうがいいと思う。人の「いいね」は容赦ない。容赦なき「いいね」。仁義なき「いいね」。そういうものだと受け容れるしかない。

あとは、「友達」や「フォロワー」も、ある程度かもしれないが、絞ることはできる。自分に都合のいい「いいね」を押してくれる人だけに絞るという意味ではない。この「いいね」の意味は何であるかをだいたい察することができる人、顔や姿が想像できる人に絞る。そうすることが悪いとは私には思えない。

自虐や自己批判を書くと、そういうのばかり狙いすましたように「いいね」を押してくる人がいると、さすがにつらいものだ。そういうタイプの「攻撃性いいね」は押されれば押されるほどブロックしたくなるものだ。「嫌なら書くな」となる。そうやって自虐も自己批判も世から消え去る。油断もスキもない。