近藤勝彦『現代神学との対話』(ヨルダン社、1985年) |
楽屋落ちの話をすれば、私の組織神学の先生は、組織神学Ⅰ(教義学)と組織神学Ⅲ(弁証学)が大木英夫教授、組織神学Ⅱ(倫理学)が佐藤敏夫教授でした。受講する年度が1年でも違うと教授が違うというローテーション方式だったので、私と同じ学年の人でも、受けた講義の内容が違う人がいるはずです。
楽屋落ちついでに覚えているままを書けば、1986年4月から履修した「組織神学Ⅰ(教義学)」の中で大木英夫教授が、今で言うアクティヴラーニングのようなことを学生にさせました。「あなたにとって教会とは何かを書きなさい」と言われ、書き終わったら一人ひとりに教室内でそれを発表させました。
そのとき私(学部3年、20歳から21歳になる年度)は当然のことのように、生まれたときから高校を卒業するまで通った教会の姿を思い浮かべたままを、いわば体験主義的に描写しました。ところがその同じ教室に私とは全く正反対の答えをした学生がいました。私の一学年上に学士編入してきた人でした。
と言っても29年前の記憶なので若干不鮮明なところがあることをお許しいただきたいのですが、その学生は大木教授からの「あなたにとって教会とは何かを書きなさい」という問いかけに対して、ウェストミンスター信仰告白(もしくは大小どちらかの教理問答)の教会の定義を丸暗記する形で回答しました。
そのような答え方を聞いた私は正直あっけにとられましたし、反感さえ覚えました。雑に言えば「なんだよ、すかしやがって」的な心理的リアクションがありました。しかしそのとき大木教授が「うむ。そういう答え方もある」と肯定的に受容なさるのを聞いて、これまた驚き、目が開かれる思いを抱きました。
その学生に対して大木教授がおっしゃったことを、私の記憶しているかぎりですがもう少し正確に言えば、「うむ。そういう答え方もある。そういう伝統の教会がある」でした。そのお答えに私が驚いたのは、私が生まれたときから高校を卒業するまで通った教会の伝統には全く欠片もない要素だったからです。
しかし、その体験(1986年の東京神学大学「組織神学Ⅰ(教義学)」での大木英夫教授のアクティヴラーニングでの一人の学生の回答)が私にとっての「ウェストミンスター信仰告白との最初の出会い」となり、12年後の1998年には「ウェストミンスター信仰告白に基づく教派」の一員になりました。
しかし、その私はいまだに、29年も前に自分の中で起こった「なんだよ、すかしやがって」という心理的リアクションを、さして罪悪感なしにはっきり覚えていることも事実です。現実の教会は、一つの神学や信条・信仰告白の命題だけで言い表せるものではない。そう認識することが重要だと思っています。