2015年7月18日土曜日

私はこんなふうにネットを使っています

LINEのアカウントは持っていますが、友達はいません
ずっと前からのことですが、アイティー関係に限らず「最新のもの」は、どうも私は慎重になってしまいます。石橋を叩いてもなかなか渡らない性格なんですかね。アイフォンとかいまだに触ったこともないですし、サーフェスもです。だいたい騒がれはじめて5年くらい経ってから、恐る恐る近づく感じです。

だって初号機の多くはたちまち欠陥が見つかって、すぐ弐号機、参号機が出るじゃないですか。改良と普及が進んでいくにつれて値段も安くなるのを見て、初号機に飛びつくのはヤバイ(損する)という気持ちがしみついた感じです。自分で痛い目に遭ったというより他の人を見ていて、そう思ったわけですが。

かなり負け惜しみも含まれていますけどね。ケータイですか。そもそもスマホ使ってない(ケータイに戻した)わけですが、買う時点で1年以上は古くて在庫処分的に安くなったのを買います。水没するか、充電不可能になったときは、無料交換を期待し、無理だった場合は機種変。その時点でズタボロですね。

たったいま確認しましたところ、今の私のケータイの使用期間は3年1ヶ月ですね。これでfacebookもツイッターもできるし、写メは撮ってもそのままは使わないで、パソコンに取り込んで必ず修正かけますので、問題ないですし。あとは目覚まし時計に使っているだけなので、当分もつと思いますよ。

でも、スマホ業界がケータイ撲滅運動をしているのかどうだか、facebookもツイッターも、つい最近まではできていた、ケータイから直接写メをアップするということが、できなくされてしまいました。ケータイの終末までの残りの日数のカウントダウンをしなくてはならないようです。がっかりです。

LINEは使っていないですね。だからスマホ要らないんだな。LINEのアカウント持ってますが、友達は一人もいません。ケータイでは、LINEは無理です。なので、LINEをする必然性が起こったら、スマホの必然性が同時に起こるというわけです。家族との連絡は、SMSかたまにメールだけです。

LINEは使ったことがないので恨みはありませんが、既読表示が嫌いです。こっちはこっちで自分のペースでやっている仕事あるんだよと言いたいですよね。重い内容の連絡ならばこそ、既読ついてすぐ返信とか、かえってできないですよ。内容をよく読んでよく考えないと、どう返信していいか分からない。

既読ついたのに他の書き込みしてるじゃないか、私への返信を後回しにしやがって、みたいな怒られ方されるかもしれませんが、そんなにすぐ返事が必要なら電話ください。だからfacebookのメッセージも苦手。既読表示あるので。読んでるじゃないか、なんで返事ないんだとイライラされるのが苦手。

家族とのSMSのやりとりは「はい」「いまちょっと無理」「了解」「お疲れさま」「よろしく」「あと5分待って」くらいです。それならすぐ返信できますけどね。それ以上は即答できないです。そこから先は「信頼関係」というやつでしょうね。ネット上のやりとりだけでは、どうしても限界がありますよ。

相手が牧師とか教会関係の人なら直接会うのは簡単です。前日にアポとって行けば「会いに行ける人」です。呼ばれれば行くし。一度でも会ったことがあれば、ああこの人は返事しなくても許してくれそうだとか、親指スタンプ貼っときゃいいやとか、それではダメっぽい人だとか、だいたい分かる感じですね。

ちなみに私は、facebookの自分の壁の自分の書き込みのコメントは、自分のところで終わるのが「礼儀?」かなと思っているところがありますので、私で終わらないと延々と続きますからね。笑。そういうわけですので、みなさま、これからもネット上の「健全な」お付き合いをよろしくお願いします。

そうそう。別の職種がそうでないという意味ではないですが、牧師の場合、ネット上の連絡に即答すると、怪訝な目で見られたり皮肉を言われたりします。「牧師さんはいつもネットに張り付いておられるんですね」とか「もっと人の顔を見てください」とか。それ言われるのが嫌で即答しないこともあります。

2015年7月16日木曜日

ウルトラマンの敗北を見せつけられれば、もはや人類は絶望するしかない

ウルトラマンガイア第50話(1999年8月)より

「安保関連法案、衆院可決。野党は退席や欠席」。朝日と毎日のデジタル版の写真を大きく拡大して見たが、みんな勝ち誇ったような大喜びのニヤニヤ顔で拍手。本当にうれしいんだろうな。おめでたいわけだ。心は日本晴れ。今夜あたりは祝勝会かな。ヒャアヒャア言いながらビールかけとかするんだろうか。

「ッ」を入れて「ヒャアッ、ヒャアッ言いながら」のほうが活き活きとした描写かも。「走り回って」も加えたい。「ヒャアッ、ヒャアッ言いながら走り回ってビールかけとかするんだろうか。」で行くか。それにしても血圧下がらない。血圧降下剤、服用7日目。じわじわでも下がってくれれば助かるのだが。

NHKが国会中継を再開したらしい。テレビ観ていないので分からないが。勝利感に満ちた顔を国民に見せつけて怒りと絶望をあおる心理作戦だな。ウルトラマンガイアの最終話あたりでそういうのあったぞ。ガイアとアグルが息絶えたところだけ放送できるようにして人類の絶望をあおる。ラスボスの手口だ。

怒りと絶望は人の心身を蝕みます。戦意を喪失し、立てなくされてしまいます。果たしてラスボス登場かどうかはまだ分かりませんが(もっとヤバイのが出てきそう)、ヤバイのとやり合うためには、怒りと絶望をカバーして余りある喜びと希望が必要なのだと思います。基本は食って寝て遊ぶです。マジです。

当該番組は、ウルトラマンガイアの第50話(1999年8月)「地球の叫び」でした。いま見てボロ泣きしました。以下、書き起こしました。

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〈キャスト〉

石室コマンダー 渡辺裕之
千葉参謀     平泉 成
ガード幹部    赤星昇一郎
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幹部「よろしいですね、シグも武装を解いてもらう。」

石室「お断りする。」

―シグの女性隊員、ガード幹部、青ざめる。

石室「破滅招来体がとざしたのは、太陽の光だけではありません。」

千葉「人の心です。」

石室「なぜ敵がテレビ回線だけを残したのか。ウルトラマンの敗北を見せつけられれば、もはや人類は絶望するしかない。そういう情報操作で、世界を闇に包み込むためです。」

―ガード幹部、息を飲む。

石室「我々にはまだ戦う力が残っています。いや、戦う意志を、戦う誇りを持っています。」

幹部「シグはガードの指揮から離れるというのかね。それは造反だ!」

石室「我々が守るのはガードという組織ではありません。地球の人々です。」

絶望禁止

今の人たちよりかつてのほうが威圧感があったのは、派閥がいくつもあって一つ倒れても次々にわいてくるので結局全体を倒すのは無理だと思わせる様相があったからではないか。今はそういうのを感じないので、アルキメデス点さえ確立できれば、支点・力点・作用点で一気にひっくり返せる気がするのだが。

しかし、人は忘れてしまう。うん、それも分かる。たしかに今までは、ずっとそうだった。だけど、今回はどうかなと思う。たとえば、三原じゅん子さんとか生き残れるだろうか。あと、結局与党の補完勢力でしかないことがよく見えた次世代とか維新とか言っている人たちが消えるとか。あとは、公明の行方。

代わりの選択肢がない。今のままならそうだけど、今回の騒ぎで有名になった人たちは考えに入れていいかもしれない。これまではキングメーカーとして一歩下がって教えていた憲法学者たち。早稲田の長谷部さんとか、慶應の小林節さんのような人たちが自ら選挙に出てネオナチっぽいのを倒しにかかるとか。

参議院にはテレビ的有名人だからという理由だけで出ている人がけっこういる。とくに比例区。谷亮子さんとか、丸山和也さんとか、橋本聖子さんとか、猪木とか。あの手の人たちが今後どうなるか。あと、ワタミ社長。これからはネットがある。ネット有名人がテレビ有名人を倒しはじめる可能性が出てくる。

日本国内の戦争アレルギー、ハンパないレベルだと思う。徴兵とか想像もつかない人多いだろう。でかくて有名な建物が多い首都圏だと同時多発テロの標的にされることを連想する人多いと思うし。戦争だけはヤバイからやめよう、そっち方向だけは行かないようにしようと脊髄反射的に反応する人多いと思う。

忘れる・忘れないの話で今思い出したことだが、松下政経塾っていうのを名乗ってた人たちがいま見る影もない状態だが、これからどうなるか。あと、テレビ的有名人が出ていた番組。アイドルとかスポーツ選手は別格として、朝まで生テレビ、TVタックル、行列のできる法律なんちゃら、あとは爆笑問題か。

関西の事情は分からないが、タカジンとか、探偵ナイトスクープだろうか。それ系の人たちが今回ことごとくネオナチっぽくなってしまったわけで。かつてなら昼のワイドショー番組に出ればテレビ的有名人になれて、ゆくゆくは立候補。だけど、共働き当たり前の時代にワイドショー番組見てる人どれほどか。

ワイドショー番組の司会をやってるらしいホンジャマカさんとか、ロンドンブーツさんとか、あとだれだろ。その手の人たちにはゆくゆくは立候補、のような野心があると聞いたことがあるが、どうだろう。言っちゃ悪いけど出れば出るほど逆効果なんじゃないか。嵐の桜井くんなら応援するかもしれないけど。

ていうか、私のような地上で最も世事に疎い部類の人間が政治を云々すること自体、かつては考えようがなかった。本気で独裁考える国は真っ先にネット遮断する。だけど日本では絶対不可能。全世代で暴動が起きる。ネットつなぎっぱで独裁とか、笑うしかない状況の「ナチスにならえ政権」なのだとも思う。

でも「アルキメデス点さえ確立できれば」と書いたのは(弱めの)希望でもあるが(強めの)懸念でもある。「野党という職業、批判者というなりわい」の人たちが気がかりだ。アルキメデス点は頑丈な一点じゃないとまずいんじゃないの。柔道の背負投でいえば投げる側の肩骨。そこが弱くちゃ投げられない。

でも、それ難しいに決まっている。「自由でありたい」という願いがあるからこその「野党という職業、批判者というなりわい」なのだろうし、「自由であること」と「頑丈な一点になること」「アルキメデス点を形成すること」とは、あまり深く考えなくても、互いに矛盾するだろうなと分かるようでもある。

最近も、強行採決間近みたいな状況になって、「今それやる?」と言いたくなるようなSEALDsさん批判のようなのがあったのをまるで遠い昔のことのように思い出す。将来ある学生たちをアルキメデス点にするわけにはいかないよ。彼らに夢ある将来を残すためにおっさんおばさんが肩骨にならなくちゃ。

テレビに洗脳されず、「野党という職業、批判者というなりわい」の人たちに依存せず、将来ある若者を犠牲にしないで彼らに夢ある将来を残すために取り組めるのはネットしかないんじゃないかというのが私の忸怩たる思い。たかがネット、されどネット。「ネットしか」ではなく「ネットこそ」。絶望禁止。

2015年7月15日水曜日

これからも変わりなく遠慮なくジョークを書き続けよう

σκυβαλαと書かれています(フィリピ3:8)
誘導の意図はないし、できる気がしないので、しませんが、私も含めたノンポリとか無党派の人たちの言動を伺うかぎり、真面目で反戦的な自立したキリスト教政党があれば支持してくれそうな気がするのは私だけでしょうか。持論に従えば、あと200年後くらいの日本に誕生することになっているのですが。

このタイミングでは何を書いても不謹慎なことを述べているような気持ちになってしまうので、私なりに抑え気味で書いているつもりです。でも絶望がいちばん良くないです。楽しんでよい。自由の喜びを享受し続けてよい。人の喜びの要素を奪い、「陰うつな秩序」に組み込もうとする力に抵抗するためです。

これからも変わりなく遠慮なくジョークを書き続けようではありませんか。せいぜい家系だか財産だかくらいしかプライドの根拠を持てない人たちなど怖くもなんともないことを態度で示すために。教育や感化など後天的な要素は尊いと思いますが、血だの家柄だのなんぞ、その人の「属性」ですらないと思う。

高度にプライベートなことでもありますので、ネットのような場所には絶対に書きませんが、家系のことをもし言うのであれば、そんなに負けていない可能性がありますね。私ではないですけどね。まあこれ以上は書かないでおきます。岸信介さんとか鳩山一郎さんあたりの古い生写真がたくさんあるんですが。

キリスト教は使徒パウロの影響をかなり決定的に受けていますからね。自分の血だの家柄だの言い出せば最もプライドを持つことができる立場にあったパウロが「そんなのくそくらえだ(糞土だ)」と書いた言葉が聖書に残っているわけで。血だ家柄だしかプライドの根拠がない人にぜひ聖書読んでほしいです。

2015年7月14日火曜日

不安な夜でもぐっすり眠ろう

レオンハルト・ラガツ著『ブルームハルト父子の神の国のための戦い』(1925年)
昨夜スカイプで若い牧師としゃべっていた。そのとき私が言ったのは「過去と現在の人間存在へネガティヴな評価を言い渡すときはミクロの視点に立つべきだ。マクロの視点に立ちうるのは将来の人間存在へポジティヴな展望を語るときだけだ」ということだった。大雑把な全否定はやめようねと言いたかった。

「要するに人類は罪深い」「要するに社会は悪い」「要するに教会はだらしない」と言い放つのは痛快ではあるが、激怒を買うか聞き流されるだけだ。全否定すべきでないと言いたいのではないが、全否定するにも丁寧な手続きが必要だ。しかも、全否定する対象の中に、自己の存在は必ず含めることが大切だ。

今の社会は、死刑執行者や無人戦闘機(ドローン)操縦者や積極的安楽死に携わる人のPTSDを緩和する対策を考えようとする。躊躇も葛藤もなく人の命を奪う仕組みを生み出そうとする。宗教はそれではまずい。どれほど精密な対策がなされていても、そこに躊躇があり葛藤があることを言い続けるべきだ。

明日は報道をシャットアウトして投票ボタンを押させることで強行採決の罪悪感を緩和しようとするのか。顔と名前をさらして政権批判を行う若者たちを匿名で叩くネトウヨと大差ない。匿名の国会議員は概念矛盾ではないか。国民の代表者でも何でもない。そのやり方に妥当する形容詞は「卑怯」ではないか。

実際どうするつもりだろう。丸腰のデモ隊に戦車かマシンガン隊でも差し向ける気なのか。戒厳令でも発令するのか。国際世論に耐えられるのか。天につば吐く行為だろう。連休明けたらみんな忘れるだって。本気でそう思うのか。それは希望的観測ならぬ希望的妄想だ。地下シェルターに潜り続ける気なのか。

私が考え過ぎなのか。いっそそうであってほしい。宗教者らしく奇跡を期待しよう。いっそそうしたいものだ。「結局何も起こらなかったね。なーんだあはは」と笑えるようならありがたい。頭痛と胃痛がまたひどいので、そろそろ休む。ぐっすり眠れるだけの神経が残っているのは、かろうじて幸せではある。

2015年7月12日日曜日

御言葉を宣べ伝えなさい

東関東中会講壇交換で船橋高根教会で説教させていただきました
テモテへの手紙二1・1~5

「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」

今日は東関東中会の講壇交換でお邪魔しています。松戸小金原教会の関口です。船橋高根教会の礼拝で説教させていただくのは初めてです。松戸に来て12年目。東関東中会ができて9年目。12年で12教会を回りました。最後が船橋高根教会です。やっと辿り着きました。今日はよろしくお願いいたします。

先ほど司式者に朗読していただきました聖書の個所に記されているのは、わたしたちに対する神の命令です。他人ごとではありません。それは「御言葉を宣べ伝えなさい」(2節)ということです。ただし、「御言葉」の「御」は日本語的な丁寧語です。原文に「御」という字が付いているわけではありません。

原文には単純に「言葉」(ロゴス)と書かれているだけです。つまり「言葉を宣べ伝えなさい」です。しかし、「宣べ伝える」というのも日常的に使うことはほとんどない教会独特の言葉づかいです。原文で使われている言葉に最も近い日本語は「知らせる」です。あるいは「告知する」というようなことです。

説教を行う場所の問題は、ここでは取り上げられていません。しかし最も考えられるのは、日曜日ごとに教会に集まって行われる礼拝の中です。礼拝の中で聖書に基づいて説教を行うことが「御言葉を宣べ伝えること」です。それだけに限定することはできませんが、かなり多くの部分を占めていると言えます。

その礼拝の中で行う説教を指して「御言葉を宣べ伝えること」という表現で言われるようになったものと思われます。日本語的な丁寧語などを取り除いて言い直せば「言葉を知らせること」です。もっと雑な言い方をすれば「しゃべること」。口を開いて言葉を発することです。黙っていないことでもあります。

それを「折が良くても悪くても励みなさい」(2節)とパウロがテモテに命じています。それは同時にわたしたちに対する神の命令です。「折が良くても悪くても」というのは、原文をそのまま日本語に置き換えただけです。しかし、これが何を意味するのかを理解するのはとても難しいことのように思えます。

なんとなく分かるのは、ここに書かれていることの趣旨は、「折が良いときは御言葉を宣べ伝えることに積極的だが、折が悪いときは御言葉を宣べ伝えることに消極的であるような態度」を戒めることに違いないだろうということです。しかし、その場合の「折」とは何でしょうか。これの特定が難しいのです。

それと、先ほど申し上げたとおり、「御言葉を宣べ伝えること」は、日曜日ごとに教会に集まって行われる礼拝の説教を指している可能性が高いです。限定はできませんが。しかし、もしそうだとすると「折」とは何でしょうか。「説教しやすい日曜日」と「説教しにくい日曜日」があるということでしょうか。

そのような意味で書かれている可能性は十分あります。しかし、「説教しやすい日曜日」とは何でしょうか。「説教しにくい日曜日」とは何でしょうか。それは説教者の気分や体調の話でしょうか。良い気分で、良い体調なら、良い説教ができる。しかし、気分がすぐれなかろうと、体調が悪かろうと説教しろ。

「折が良くても悪くても励みなさい」とは、そういう意味でしょうか。面白い解釈ではあると思いますが、それだけではないような気がします。それでは、説教を聴く側の人たちの気分や体調の話でしょうか。今日はごきげんが悪い人たちが大勢集まっている。体調がすぐれず、体を引きずってきた人ばかりだ。

そういう人たちが大勢集まっている日曜日は「説教しにくい日曜日」だ。その日は「折が悪い」。皆うなだれ、苦虫を噛みつぶした顔で我慢して座っている。そのような人々の前でも、お構いなしに説教しろ。それが「折が良くても悪くても励みなさい」という意味であると、そのように考えてよいでしょうか。

それも一案ではあると思いますが、そのようなことだけではないような気がします。もう少し広い意味ではないでしょうか。先週は「説教しやすい日曜日」だったが、今週は「説教しにくい日曜日」である。そういうことはありうると思いますが、まるで気分次第です。風に吹き回されている枯れ葉のようです。

そういうことよりも「折」とはもう少し広い意味の「時代」を指していると考えるほうがよいかもしれません。聖書に基づく説教を積極的に受け容れる気運が高まっている時代があるが、そうでない時代もある。しかし、逆風が吹いている時代であっても、説教をやめてはならない。これなら納得できそうです。

しかし気になることがあります。先ほどから私は、この個所に書かれている「御言葉を宣べ伝えること」は、日曜日ごとに教会で行われる礼拝の中での説教を指していると、やや限定的なことを申し上げています。それ以外の可能性を否定する意図はありません。日曜日以外にも説教することは可能だからです。

しかし、そうなりますとものすごく気になることがあります。日曜日の礼拝に集まる人々の中にも説教を受け容れない人々が含まれている可能性があるというような考え方をしなければならないのかということです。日曜日の礼拝に集まる方の中には、求道者や新来者もおられます。しかし、多くは教会員です。

そうなりますと、ここに書かれている「折が悪くても(御言葉を宣べ伝えることに)励みなさい」の意味は、教会の中に説教に対して否定的な人が混ざっている可能性があること、その人々から吹いて来る逆風を感じたとしても説教しろ、というようなことを意味していると考えなくてはならないのでしょうか。

実はそのとおりです。明らかにそのような意味で書かれています。「とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」(2節)と書かれていることの趣旨も同じです。教会の中に聖書とその説教に反対する人々がいる。そのような人々をとがめなさい、戒めなさい、励ましなさいということです。

続きにとても厳しい言葉が記されています。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(3-4節)。この「時」と「折」が同じ言葉(カイロス)です。

「だれも健全な教えを聞こうとしない時」の「だれも」は、明らかに、教会の人々です。「人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師を寄せ集め」の「人々」も教会です。「真理から耳を背け、作り話の方にそれて行く」のも教会です。教会がこのようになってしまう時が来ると言われています。

しかし、このように言われると私は反発したくなります。「なんてことを言うのか、ひどすぎる。苦労して教会に来ても文句しか言われない。わたしたちのうちのだれが健全な教えを聞こうとしていないのか。誰なのか名前を挙げてはっきり言ってください。当てこすりはやめてください」と言いたくなります。

しかし、そのような反発を感じてしまうことこそが、わたしたちに仕掛けられた罠かもしれません。教会もまた、聖書の真理から離れていく誘惑の中にある。そのことをわたしたちは率直に認めましょう。この個所には教会にとって愉快でない言葉が書かれています。しかし、良薬はしばしば口に苦いものです。

しかし、明るい話もしておきます。わたしたちは、自分にとって都合の悪い話を素直に受け容れることができるほど寛容ではないし、忍耐強くもない、弱さをもった人間です。面白い話、楽しい話のほうがありがたいに決まっています。耳障りの悪い話を聞き続けると心身が壊れます。それも否定できません。

説教は拷問ではありません。教会は牢獄ではありません。教会に行くたびに嫌なことばかり言われ、不断に批判的なことばかり聞き続ければ、神経が破壊されてしまいます。そのあたりの配慮は必要です。大切なことは健全な教えを聞くことです。真理を聞くことです。その点がクリアされていればいいのです。

東関東中会はどうだろうかと考えさせられました。「自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め」られた結果の東関東中会でしょうか。そのようであってはいけないと、東関東中会の教師たちは考えています。健全な教えを語ること、真理を語ることに熱心な教師たちが集まっています。

しかし、説教は教師だけで成り立つ働きではありません。「御言葉を宣べ伝えなさい」という命令は、教師だけではなく、教会全体に与えられた命令として受けとめるべきです。説教は、それを聴く人がいなければ、独り言です。言葉はコミュニケーションにおいて成り立つものです。一方通行ではありません。

「しかし、あなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」(5節)。これも教師だけの話にしてしまってはなりません。教師だけが身を慎み、教師だけが苦しみを耐え忍び、教師だけが福音宣教者の仕事に励むのでしょうか。それは不健全です。

しかし、ここから先は役割分担です。苦労を押し付けあっても意味がありません。互いに協力しましょう。教師と教会が一致協力して御言葉を宣べ伝えましょう。私はまた12年後に船橋高根教会で説教させていただきます。そのときにまたお会いしましょう。その日までどうかお元気でお過ごしくださいませ。

(2015年7月12日、船橋高根教会主日礼拝、東関東中会講壇交換)

2015年7月11日土曜日

まもなくネット生活19周年

この平和がいつまでも続きますように
大昔に卒業した中学の定員が気になって調べた。2015年募集180人、2年前(2013年)200人。うち内部生(小学校から)2015年100人、2013年120人。私は内部生ではなかった。それって入試難易度高いほうだったってことじゃんと卒業後34年も経ってから気づく。抽選だけどね。

金曜ロードショー「おおかみこどもの雨と雪」を観て涙しながら、高校生が買ってきてくれた美味しいチーズケーキを堪能する。この平和がいつまでも続きますように。

来月ネット生活19周年を迎える。実感してきたのは、facebookを始めるまでは何を書いても誰からも何も言われなかったということだ。メーリングリストとブログ。たまに会う人に「読んでるよ」と好意的な言葉をかけてもらうことはあった。読んだ上で無言の人は、たいてい腹を立てていたらしい。

しかし、facebookも本当のところは分からない。「高速いいね」の方々は、内容を読んでいるわけではない感がかなり伝わってくる。同じようなことを私もしているときがあるので、文句を言っているのではない。ただ、親しい間柄の人の場合は、「読まずにいいね」は押してもらいたくない気もする。

「読まずにいいね」は一種の社交辞令かもしれない。「社交じれいーね」だな。相手との関係をとりあえずつないどこう、という。かつての年賀状みたいなものか。そういうのが悪いとは思わない。社交辞令も使えないだなんてガキだよと、おっさん的なことを言い放っておこう。社交じれいーね、いいね。笑。

にしても、返信が遅いとかの理由として「ネットを見るヒマがなかった」という言い方をする人がいまだに年配者に多い。いまだに、それ言われたり書かれたりするたびにがっかりする。「ネットはヒマな人のすること、ネットはヒマな人のすること、ネットはヒマな人のすること...」と脳内でリフレイン。

ネット生活19周年。何の意味があったかは分からない。何の意味もなかったことは分かる。評価を求めて始めたことではない。言いたいことがあっただけだ。すべてメモでもあり、下書きでもある。なのでネットに書いたことだけをもとに叩かれても困る。叩くなら論文のほうを(読んでから)叩いてほしい。

ツイッターで「リツイート、お気に入りは同意にあらず」と断っている方は多いが、facebookも「いいね、シェアは同意にあらず」の人はおられる。当然のことだろう。試験委員のような「いいね」も、かえってどうかと思うわけで。「採点いいね」。きみの記事はレベルC。D以下は落第。かなわん。

2015年7月9日木曜日

風前の灯


今日の午前中考えたことを、もう一つ書き残しておこう。

ネットで散見する言葉に八つ当たりしたいわけではない。しかし、かなり繰り返し見かけるのは「私はキリスト教を信じているのではなく、キリストを信じている」という言い分だ。見かけるたびに思うのは、「という信じ方ないし教え方をするタイプのキリスト教を信じておられるのだな」ということだ。

「教会には行ったことがある。だが、やめた。あのようなところには二度と行かない。いろいろ嫌な目に遭った。しかし、私は神とキリストを自分の心で信じている。それで十分だ。教会なる団体は私には不要だ」とおっしゃる方はあまりにも多い。そのような言葉を見たり聴いたりするたびに、耳も心も痛い。

ふざけているわけではないが、たとえば「教会」を「ケーキ屋」に置き換えたらどうだろう。「ケーキ屋には行ったことがある。だが、やめた。あのようなところには二度と行かない。いろいろ嫌な目に遭った。しかし、私はすべてのケーキを自分で作る。それで十分だ。ケーキ屋なる団体は私には不要だ」。

あるいは「理容室」はどうだろう。「理容室には行ったことがある。だが、やめた。あのようなところには二度と行かない。いろいろ嫌な目に遭った。しかし、私は自分の髪は自分で切る。それで十分だ。理容室なる団体は私には不要だ」。おそらく実はあまり違和感ない文章になっていると思うのは私だけか。

「教会」を「ケーキ屋」や「理容室」に言い換えてみていることに、ケーキ屋さんや理容室の方々、それらのお店に行く人/行かない人に対する揶揄やからかいの意図は全くない。むしろ逆で、よく似ているところがあると思いながら書いている。すぐ思い浮かぶ、かなり共通している要素が実際にあると思う。

「教会」と「ケーキ屋」と「理容室」の共通点としてすぐ思い浮かぶのは、「そのようなことはすべて自分でできる。それで十分事足りる。なのであなたがたは要らない。少なくともそんな団体は要らない」と言われれば、「なるほどそうかもしれませんね」と立ち去るしかない存在かもしれないということだ。

しかし...と、このあたりで話を終わるのがいつもの私のやり方なので、今回もそうする。キキーッ。「あれ?もう着いちゃった。もっともっともーっと話を聞きたかったけど、続きはまたね。ヒゲの隊長さん」「ははっ、お手柔らかに」「シーユー!」みたいな、とても嫌な終わり方だ。いつも申し訳ない。

「を信じる-人々の-団体」の必要性

胃薬の必要性

「を信じる-人々の-団体」というクッションがあるからこそ、うまくいけば主観性-人間性-一般性が出てきて、人にやさしいものになるはずだ。でも「うまくいけば…はずだ」とへんちくりんな断り書きをしなくてはならないのは、クッションの価値が正しく評価されないことが少なくないと思えるからだ。

人へのやさしさなんか要らないと言われてしまうことがあるのかもしれない。でもそうなると脅迫・恐喝のたぐいに近づく。「を信じる-人々の-団体」が正しく機能すれば、それはむしろ阻止できる。阻止できない原因は「団体」が存在すること自体ではなく、「団体」が本来の機能を果たせていないからだ。

「を信じる-人々の-団体」は苦手なのでそういうのを介さない直接的な関係のほうが気楽だという向きがある(少なくない)のは、全く理解できないとは思わないが、そこであとひとふんばりをお願いしたいところだ。主観性-人間性-一般性を「不純」とする潔癖感覚から離脱する必要があるかもしれない。

というようなことを今朝考えた。毎日よく眠れるので、朝だけはとりあえず調子いい。あと数時間もすれば「ああもう疲れた」という感覚に悩まされ始めるのだが。主観性-人間性-一般性は、たしかに疲れる。でもこの疲れこそが、「原液のままで飲むと胃がやける」ものを飲み干すためのクッションになる。

主観性-人間性-一般性は疲れる。しかし、その疲れが「原液のままで飲むと胃がやける」ものを飲み干すためのクッションになるとは、どういうことか。疲れを自覚している人は、一気飲みはしないし、できない。チビチビやる。無理やり一気に決着つけなくてはならない場合でも、せめて胃薬くらいは飲む。

芸術家、ないし芸術家タイプの人(揶揄の意図はない)は、何日も眠らず、何ヶ月も一日も休まず、ひとつの作品を造り上げたりする。文筆家然り、プログラマー然り。強靭な心身の持ち主なら、それやってもすぐ次の作品に着手できるかもしれない。しかし、そうでない人は、一つ仕上がるとしばらく倒れる。

そういう「一気」の集中力なしには、いかなる芸術も完成しない、かもしれない。だけど、そのような「一気」のやり方は人の心身を著しく壊す。そして、悪く行けば、その作品も一発屋で終わる。あとが続かない。それでいいのかと心配になる。「余計なお世話だ」と反発されるかもしれないが、あえて言う。

ファン・ルーラーの神学は日本ではいまだにほとんど評価されていない。その理由が私は分かる。この神学者は「を信じる-人々の-団体」の持つ主観性-人間性-一般性の価値と必要性を擁護し続けるからだ。それが彼の「聖霊論」の趣旨だ。彼の「聖霊論」は人間くさい。それが不純だと思われるのだろう。

しかし私はファン・ルーラーの人間くさい「聖霊論」を擁護する。それは「を信じる-人々の-団体」の価値と必要性を擁護する必要を痛感するからだ。最初からファン・ルーラーの神学を知っていたわけではない。彼の神学が「を信じる-人々の-団体」を擁護する神学だと分かったから支持することにした。

2015年7月8日水曜日

フィリピの信徒への手紙の学び 11

松戸小金原教会の祈祷会は毎週水曜日午前10時30分から12時までです

PDF版はここをクリックしてください

フィリピの信徒への手紙3・12~16

関口 康

この個所にパウロが書いているのは一つのことです。私パウロはまだゴールにたどり着いていないと言っています。走っている最中である。何ひとつ諦めないで、投げ出さないで、走り続けている。一等賞はもらっていないが、最下位でもない。決着はついていない。勝敗は決していない。

書かれていること自体は、パウロの人生を彼自身がそのようにとらえていたことを表わすものです。それは彼の人生観であり、自己理解です。人生とはレースである。スタートがあり、ゴールがある。その間をひたすら走り続けるのが我々の人生である。少なくとも私パウロは自分の存在をそのようなものとしてとらえていると言いたいのです。

人生の時間の長さは人それぞれです。客観的・時間的な意味で短かったと言わざるをえない人生もあり、他の人と比べて長かったと言いうる人生もあります。どちらのほうがよいと一概に言えない面もあります。人間的な言い方をすればイエスさまは「短命」でした。レースには短距離走も長距離走もあります。重要なことはスタートからゴールまで走り切ることです。すべての道を自分なりの力を尽くして走り終えることができたと自分で思えるなら、それでよいのです。

「既にそれを得たというわけではなく」(12節)の「それ」が指している内容が10節から11節までに書かれています。「わたしはキリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」。

これは明らかにパウロの人生の究極目標です。しかし、それをパウロは遠慮がちに「何とかして…したい」と書いています。そのあとのパウロも遠慮がちです。「だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます」(15節)と書いています。

「このように考えるべき」(15節)の「このように」に、パウロがここまで書いて来たこと、とくに10節以下に記されている「わたし」の人生の目標の内容のすべてが含まれています。パウロの意図は明らかに、「わたし」の目標は「わたしたちの中で完全な者」のすべてにとっての目標でもあるべきであるということです。しかし、パウロはあなたがたには「わたし」とは「別の考え」もあるかもしれませんと続けます。私の確信をあなたがたに強制するつもりはありません。みなさん各自のご判断にお任せしますと言い出し始めるのです。

しかしパウロは、どれほど遠慮がちに書いているときでも、自分の信じていることに確信を持っていないわけではありません。すべてのキリスト者のみならず地上に生きる全人類が目標とすべきことはこれであると確信するものを持っています。それは四点あります。

第一は「キリストとその復活の力を知ること」です。

第二は「キリストの苦しみに与ること」です。

第三は「キリストの死の姿にあやかること」です。

第四は「何とかして死者からの復活に達すること」です。

これだけでは、ほとんど意味が分からないでしょう。しかし、ある程度までなら理解できそうなのは、第二と第三かもしれません。「苦しみ」と「死」は全人類の共通する事実であり、体験だからです。苦しんだことがない人はひとりもいませんし、死ぬことがないという人はひとりもいません。

しかしまた、書かれていることをじっくり読めば、パウロが書いていることは、わたしたちが各自の人生の中で体験するのと全く同じ意味の単なる苦しみや単なる死の話ではないように思えてきます。なぜなら、ここでパウロが書いているのは「キリストの苦しみ」だからであり、「キリストの死の姿」のことだからです。

「キリスト」とは歴史上に実在した人物です。パウロはこの方を真の救い主として信じています。その救い主であるお方が地上の人生において深く味わい続けた苦しみが「キリストの苦しみ」です。そして、この方が多くの人々の前にさらされた十字架上の死の姿が「キリストの死の姿」です。このキリストの苦しみに私も与る。このキリストの死の姿に私もあやかる。それが私の、そして私たちの人生の目標なのだと、パウロは語ろうとしています。

「与る」の意味は「参加すること」です。参加するとは、英語でパーティシペイト(participate)と言います。その意味は、パート(part)になること、役割を分担することです。全体の中の一部分を構成する要素になるということです。

このことがパウロの言葉にもそのまま当てはまります。キリストの苦しみにわたしたちが与るとは、誤解を恐れず言えば「キリストの苦しみの一部をわたしたち自身が受け持つこと」です。

もちろん、わたしたちはキリストではありませんので、キリストが味わわれたのと等しい苦しみをわたしたちが味わうことはできないし、そこまでのことはわたしたちに求められていません。

しかし、キリストの苦しみの一部分でも分け与えていただき、それを受け取り、味わうことを、わたしたちの光栄とし、誇りとし、喜びとする。それが「キリストの苦しみに与ること」の意味です。これは難しい話ではありません。キリストが苦しまれた理由をわたしたちは知っているからです。

父なる神の御心に忠実であり続けることにおいて、赦しがたい人類の罪を赦すことにおいて、助けを求める人々のもとを訪ね、力を尽くして助けることにおいて、わたしたちの救い主イエス・キリストは苦しまれました。「キリストの苦しみ」の内容は、イエス・キリストが現実社会の中で働いてくださり、世と人のために最善を尽くしてくださったことと決して無関係ではありません。

キリストは十分な意味で「労働」してくださった方です。そしてわたしたちもその意味での労働者です。教会の中で/教会を通して、さまざまな奉仕を行うことにおいて苦労があり、疲労があります。わたしたちが、教会の中で/教会を通して味わう苦労や疲労は、歴史の中で活躍されたわたしたちの救い主イエス・キリストから受け継いだものです。

たとえば、わたしたちが聖書を読んで理解すること、聖書に描かれているイエス・キリストが地上でなさったのと全く同じことを真似してみること(イミタチオ・クリスチ、キリストのまねび)だけでも一苦労です。

イエスさまは、安息日ごとに会堂で説教されました。多くの人の相談に乗り、悩みを聞き、問題を解決してくださいました。信仰に反対する人々と戦われました。集会を開くこと、団体を運営すること。それらすべてのことをイエスさまがなさいました。

それを今、わたしたちもしています。それらの苦労や努力も、十分な意味で「キリストの苦しみに与ること」です。教会活動に参加することによって、それが十分可能です。

しかしまた、それは単に、教会の中で/教会を通して、ということだけに限定すべきものではありません。教会の外へと出て行くこと、社会の中でキリスト者として生きること、奉仕すること、このこともまた、わたしたちにとっては多くの苦労を味わうことですが、やりがいのあることです。

(2015年7月8日、松戸小金原教会祈祷会)