2013年11月18日月曜日

千葉の東京 Tokyo in Chiba

東京ディズニーランドが千葉にあることが「偽装」だというなら、東京大学(柏)も、東京歯科大学(千葉)も、東京電機大学(千葉NT)も、東京基督教大学(印西)も、千葉にあるのはすべて「偽装」ですかね。

こういうことをあんまりうるさく言い過ぎると、ギスギスしそう。ネット時代に地名の意味はだんだん薄れてきている気がします。

「新東京」とか「新都心」とか「副都心」というのは、まだちょっと遠慮がある感じですよね。堂々と「東京」を名乗りながら千葉、というのは、ぼくはもう慣れましたが、いまだにネタにされ続けられるところがありますね。

柏・松戸が十分東京であることはぼくもそうだと思います。が、それでどうなるかっていうと、柏・松戸在住の「若い元気なクリスチャン」は、柏・松戸にある教会の前を華麗にスルーして、自動車・バス・電車で東京の教会まで行っちゃうんですよね。悲しい、悲しい、悲しい、悲しい現実です。

しかし、その「若い元気なクリスチャン」だった人たちも、やがて華麗に加齢する。その頃になってやっと、「ああ、しんどい。遠くまで行くの、やんなっちゃった。苦労して東京の教会まで行っても、東京の教会は若い人たちばっかりで、ぼく/あたしの居場所が無くなっちゃったわ。...あれ?よく見ると、うちの近くにも教会あるじゃない、気づかなかったわ(50年くらい前から同じ場所にあるんですが...)。ま あ、仕 方 な い、こ こ で も い い わ。」(ゲシュペルトは筆者)とか言って、来てくれたりします。

これは教会だけの話でなく、病院や商店や学校なども基本的にだいたい同じことが当てはまります。ちょっと大きめの手術をすることになった人は、ほぼ必ず、東京の有名な病院のスーパードクターにやってもらうために、何日でも何か月でも待ちます。松戸・柏にも名医はたくさんいると思うのですが、病院や医師までブランドものです。

商店も基本的に同じことが当てはまると思います。全国チェーンのタコ焼き屋の「松戸小金原店」と、東京の「原宿店」とで、タコ焼きの味が違うとは考えにくいのですが、松戸・柏の「若くて元気な」人たちは、「松戸小金原店」の前を華麗にスルーして、「原宿店」のタコ焼きをハフハフしたりします。

学校も然り。場合によっては小学校くらいから、何時間もかけて東京の有名校に通わせられている子どもたちがいます。それが悪いとは思いませんが、「地元の学校は荒れている」という神話を信じるゆえにそうする、という親もいます。しかし、それは神話です。べつに荒れてません。

こういうことを書くと嫌われることは分かっているのですけどね。

まあ、ぼくは「岡山県人」ですから、千葉の空気も、東京の空気も、読んであげる義理はありません。

ネット時代の教会と牧師

以下、思いつくままに書きます。

注意していただきたいのは、これはぼく自身の直接的な体験ではないという点です。あくまでも可能性であり、一種のフィクションです。悪しからず。

(1)教会関係とネット関係

毎週日曜日に教会に集まる同士(とくに牧師と教会員)と、牧師自身のネット関係の仲間は、別々のほうがいいような気がします。

なぜなら、教会の中にはネットを使わない人がいますので、いわば必然的に、教会員「の一部」と牧師がネット関係にあることになるからです。

そうなりますと、牧師の言葉や牧師経由の情報が「伝わっている人」と「伝わっていない人」が教会の中に併存する格好になることは、必然的です。

それは、教会の中に不信感、不和、対立を引き起こす遠因ないし直接の原因になりかねません。

(2)ネット経由の情報は「パソコン(モバイル含む)の前」でしか得られない

ネット時代の牧師は、(ぼくら日本キリスト改革派教会でいえば)大会や中会の委員会や、その他ありとあらゆる方面からの情報が、今やメールはじめネット経由で送られてきています。

「ネット経由で送られる情報」を入手するための「唯一の」方法は、「パソコンの前に座ること」です。他にどうすることもできません。

しかし、「パソコンの前に座る牧師」の姿が、見る人によっては、非常に「不愉快な存在」に見えてしまうらしいのです。その感情たるや、「人間を相手にするのではなく、パソコンを相手にしている不埒な牧師」だ、みたいな感じのようです。

イヤ、違うんですが。「大昔の」手旗信号とか、モールス信号とか、交換電話とか、わりと最近のファックスとかと、ネットは、基本何も変わらないんですが。

「パソコンの画面を見つめるだけで、ぼく/あたしの顔を見てくれない」とか文句言いたい気持ちも、まあ分からないでもないですが、それ、毎日通っておられる病院のお医者さんへの不満ですよね。そのお医者さんたちに文句言ってくださいね。

(3)ネット時代の「忙しい」牧師は、ハタから見ると、「何もしていない」ように見える

教会は、いますでに、あらゆる情報をネット経由でやりとりしはじめています。

たとえば、ぼくら日本キリスト改革派教会の「東関東中会」では、

中会の会議や各委員会の開催通知、議案書、会議録略報、あるいは緊急連絡や訃報などはPDFやワード文書形式でメールに添付されて送られてきます。プリントアウトやファイリングは各人に任されています。

他にも、多くの委員会が各自のメーリングリストなどを設けて日常的に議論が交わされていますし、最近はfacebookなども積極的に利用されるようになりました。

あるいは、これは大会や中会のケースではありませんが、個人的なグループなどでは、スカイプやハングアウトなどのビデオ通話で、会議や勉強会が行われるようになりました。

このような動きはネットコミュニケーションの発達に連動しているものでもありますが、同時にそれは「教会の伝道不振」という時代的背景を持っています。

それはどういうことかといえば、早い話、各個教会も中会も大会も献金収入が減る一方で、経済的に追い詰められているため、会議や委員会のたびに支出される「日当、交通費、食事代、宿泊費」といったものを切り詰めることに必死です。

その中でのネットコミュニケーションの活用は、きわめて危機的な財政難にある各個教会、中会、大会を「助ける」意義もあるのです。

ところが、ここに大きな問題が発生します。

上記のような多岐にわたるネットコミュニケーションは、すべてパソコン(モバイル含む)の前で行われます。

そして、その姿を「客観的に見れば」、

牧師が書斎にひとりで引きこもり、パソコンの前に座って、目と指を不断に動かし続け、独りごとを言い、時々爆笑したり、大きな声でしゃべっている、

というふうな絵になります。

しかも、多くの牧師は、教会に近接した場所に自宅(牧師館)があり、長時間の通勤などをしていません。

そのため、「ネット時代の忙しい牧師」は、ハタから見ると、「自室に引きこもってパソコンをいじっているだけのヒマな人」に見えてしまうのです。

すると、どうなるか。

「ヒマそうな牧師」は、教会からの尊敬の対象にはなりにくくなります。

「ぼくたち/あたしたちは、毎日毎日、汗水たらして長時間の通勤を耐え、

ひどい人間関係の中でもみくちゃにされ、イヤな仕事をこなしている。

それなのに、うちの牧師は、自室にこもってパソコンをいじっているだけ。

冗談じゃないわ。あんな牧師に耐えられるか」

というような話になりかねません。

イヤイヤ、そんなことないから。

めっちゃ忙しいですよ、まあたしかに「パソコンをいじっている」だけですが。


2013年11月17日日曜日

神に計画があり、万事が益となります

ローマの信徒への手紙8・28~30

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」

今日もローマの信徒への手紙を開いていただきました。今日の個所に記されているのは多くの人の心を慰めてきた有名な御言葉です。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)と記されています。

「神を愛する者たち」と言われているのが、被造物がその出現を待ち望んでいるとパウロが書いていた「神の子たち」(19節)のことです。それはわたしたちです。イエス・キリストと結ばれるために洗礼を受けた者たちです。それは教会です。

しかもそれは、教会という団体を指していると同時に、この団体の中にいる一人一人のキリスト者を指しています。その場合の個人と団体との関係は、「鶏が先か、卵が先か」という問題ほどには難しくありません。教会の場合は個人が先です。個人としての一人一人のキリスト者が集まって教会をつくるのです。その逆はありません。そこに一人もキリスト者はいないけれども、教会が存在するということはありません。

しかし、パウロは「神を愛する者たち」とは「御計画に従って召された者たち」であると、ただちに言い換えています。「御計画」とは神の御計画です。わたしたちの神は心をもっておられる存在です。その神が、御自身の心の中に、この地上に教会をつくる計画をもっておられるのです。その意味は、神がこの世界に教会が必要であると信じておられるということです。そして、その神が御自身の必要と御計画に基づいて、神を愛する者たちを神のみもとに召し集められるのです。

この「召された」という点は重要です。わたしたちは自分で教会を探して、ここに来たと思っています。電話帳を調べたかもしれませんし、最近ではインターネットで調べたという方も多いでしょう。チラシを見てくださった方もおられるかもしれませんし、聖書を本屋で買って読んだ、キリスト教の本を読んだ、キリスト教のラジオ番組を聞いたという方もおられるかもしれません。あるいは、教会の人から誘われた。親に連れて来られ、自分も信じるようになった。そのように、わたしたちが教会に通いはじめるまでには、いろいろなきっかけがあったと思います。

しかし、それがどのようなきっかけだったにせよ、わたしたちは、とにかく自分でここに来たのだと、最初は誰でもそう思います。遠くの町から引っ越してきたとき、いくつかの教会をまわってみて、自分にいちばん合いそうな教会はここだと思って通うことにした。そのように最初は誰でも思います。そのように考えること自体が間違っているわけではありません。当然のことです。

しかし、そのわたしたちが教会に通いはじめて、しばらくすると、分かって来ることがあります。それは、わたしは自分で教会に来たと思っていたけれども、実はそうではなかったということです。神がわたしを教会へと召されたのだということが分かってきます。神御自身があらゆる手段を用いて、わたしたちを教会へと導いてくださったのだ、ということが分かってきます。

それはよく考えてみれば、ものすごく分かりにくい、めちゃくちゃに現実離れした考え方ではないということをお分かりいただけるはずです。先ほど電話帳だ、インターネットだ、チラシだ、本だ、ラジオだと言いました。あるいは教会の人から直接誘われた。それらはすべて教会自身ができるだけ多くの人たちに教会の存在を知っていただきたいという強い願いをもって行っていることです。ここに教会が存在していること自体も、教会の建物も、ずっと前からここにあったわけではなく、教会のみんなで力を合わせ、献金を集めて作っているものです。

そういうことは、教会に初めて来たばかりの頃のわたしたちには分からなかったことです。最初はみんなお客さんでした。お客さんであることが悪いわけではありませんが、だんだん教会の内部事情が分かってくるときが来ます。

神を信じることも、教会に通うことも、自分で始めた、自分で決めたと、最初はみんなそう思うのです。しかし、実際はそうではなく、わたしたちは招かれ、召され、集められたのです。すべての人、すべての生き物が自分で自分を生み出すことはできず、必ずその親から生まれるように、わたしたちの信仰も、教会生活も、自分で生み出したものではなく、神が生みだしてくださったものなのです。

もちろん、いま申し上げていること自体が信仰です。わたしたちは神を信じる信仰へと導かれないかぎり、そのような考え方をもつことができません。信仰がなければ、わたしたちはあいかわらず、自分でここに来た、自分で教会を選んだと思うでしょう。しかしその思いは、信仰を与えられたときに初めて、実はそうではなかった、神が私をここへと召し集めてくださったのだという思いへと置き換えられるのです。

いま、少し長く説明させていただいたのは「召された」という言葉の意味です。パウロが言いたいことは、教会は神がつくってくださったものであり、わたしたちは神によって教会に集められたのだ、ということです。それは神がこの世界に教会が必要であるとお考えになったからです。

それでは、なぜ神はこの世界に教会が必要であるとお考えになったのでしょうか。その答えはこうです。神は、御自身の手によって創造されたこの世界と人間から、御自身が愛される存在でありたいと願われたのです。神は「神を愛する者たち」をこの世界に生み出すことを願われたのです。

人間の親子の関係を考えてみれば、いま申し上げていることは、ある程度はご理解いただけるはずです。親が自分の子どもたちに願うことは、それはやはり自分のことを愛してもらいたいということだと思います。自分の子どもに嫌われたい、憎まれたいと願う親は、通常はいません。全くいないとは言い切れませんが、多くはないと思います。ほとんどの親は子どもから愛されたいと願うでしょう。

もちろん、そのように、親が子どもから愛されるために親がしなければならないことは、子どもを愛することです。自分が愛した分だけ、相手から愛してもらえるでしょう。親は子どもを愛さないが、子どもからは愛されたいというのは虫が良すぎます。親と子どもの関係は、ギブアンドテイクです。親から子どもへの愛は一方通行の場合もあると思います。しかし、親から愛されなかった子どもが、それでも親を愛するということは通常ないと考えるべきです。

神は世界と人間を心から愛してくださっています。わたしたち一人一人を愛してくださっています。しかし、親から子どもへの愛は一方通行である場合もあると、たったいま申し上げました。そのようなことが神とわたしたち人間との間にもありえます。そのようなことが現実にあります。

わたしたちの命は神が創造されたものです。わたしたちの存在と人生を創造されたのは、神です。そして、わたしたちは生きている間、あらゆる種類の恵みと祝福、楽しみと遊びを神から与えられています。

しかし、そのようなことは全く考えたこともないという人は、残念ながら少なくないのだと思います。わたしたちは神から愛されているとか、神の恵みをいただいているとか言われても、その意味がよく分からないと感じる人は、おそらく多いのだと思います。神からどれだけ愛されていても、その愛に気づくことがなく、ありがたいとも思わないので、「神を愛する」ということの意味が分からないのです。

教会とか牧師とか、そういう人たちが、聖書の言葉に基づいてそのようなことを言っていることについては、それを全く知らないわけではないし、少しくらいは耳を傾けることもやぶさかではない。しかし、だからといって、それを信じなさいとか受け容れなさいとか言われても困る、と感じる人は、多いのだと思います。

なぜ困るのでしょうか。その理由は分かります。なるほどたしかにわたしたちには恵みというようなものも与えられているのかもしれない。しかし不幸もたくさんあるではないか。わたしたちの人生は苦労だらけ、不幸だらけではないかと考えてしまうからだと思うのです。神が世界を愛し、人間を愛しておられるというなら、なぜこの世界と人間には苦労があり、不幸があるのか。それを説明してくれなければ納得できないし、信じなさいと言われても不可能だ。そのようにはっきりおっしゃる方もおられます。

その言い分を、私自身は全く分からないと感じるわけではありません。ある意味で、よく分かる話です。しかし、ここから先は少しだけ、私の考えを言わせてください。私はいま、牧師という立場で教会に関わらせていただいています。その私が知っていることは、いま教会に集まっておられるみなさんがどういうきっかけで教会に通うようになられたのか、ということです。

私はみなさん全員のことを何もかも知っているわけではありません。また、私が知っていることをべらべらしゃべることはできません。しかし、はっきり言えることは、ほとんどの人は、「私は幸せな人生を送ることができています。だから神を信じます」という理由で教会に通い始め、信仰をもって生きるようになったのではない、ということです。「私は幸せだから、神を信じます。不幸だから神を信じることができません」とおっしゃる方は、ほとんどいません。私自身はそのような方と出会ったことがありません。

現実はむしろ正反対です。多くの人は、不幸のどん底にいたときに救いを求め、助けを求めて教会に来られたのです。大切な家族を失った。自分が病気になった。人生に空しさを感じた。世間に絶望した。何が真実で、何が嘘っぱちかが分からなくなった。そのようなときに、聖書を読みたい、神の御言葉を知りたいと願って、教会に来られたのです。

そうでもないという方がおられるかもしれません。それはそれで問題ありません。人生に不幸など無いに越したことはありません。しかし、不幸を体験したことがないという人は、どこにもいないのです。病気になったことがないという人はいません。苦しんだことも泣いたこともないという人など一人もいません。わたしたちが人間であり、傷つきやすい肉体をもつ存在であるかぎり、ほとんど毎日のように疲れを感じ、不満を抱え、助けを求めて生きているのです。

それこそが今日の個所でパウロが言っている「万事」の具体的な内容です。わたしたちが人生の中で体験するあらゆることが「万事」です。世界に起こるすべての不幸、すべての絶望を含むあらゆる出来事が「万事」です。

その「万事」が「益となるように共に働く」のだとパウロは書いています。わたしたちの人生に襲いかかる不幸が、かえってわたしたちを、神を信じ、神に依り頼む信仰に導き、教会へと招き入れるのです。そのような方法で神はわたしたちを「神を愛する者」へとつくりかえてくださいます。神がこの私を心から愛してくださっていることが分かるようにしてくださるのです。

(2013年11月17日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年11月16日土曜日

「○○フォーティーエイトになりました!」とは決して言いたくないです

今日は独りでひっそり自分の誕生日を祝いました。

一昨年も昨年もfacebookの皆さまから怒涛のバースデーメッセージをいただいて、うれしかったです。

誕生日を非公開に設定してみたら、一日中し~んとしているので、それはそれで寂しい誕生日でした(ウソです、ぜんぜん寂しくありません)。

48歳になりました。

昨年の誕生日の時点で、「来年関口は『ぼくは○○フォーティーエイトになりました!』とか騒ぐに違いない」と予測されていましたので、それだけはするまいと、かたく心に誓いつつ、去る一年を過ごしてまいりました。

人生はややしんどいですが、とりあえず前に進んで行くしかありません。

ぼくは今の10代、20代くらいの人たちを応援したいです。

30代以上の人たちは、どうぞご自由に、自分の力で生きて行ってください。よろしくお願いいたします。

それではまた。

もうすぐ日付が変わりますので、これにて終了します。

2013年11月14日木曜日

余裕のやっちゃんです

全く個人的なつぶやきなのですが。

ぼくの属する「東関東中会」は、

これまでは毎年の第二回定期会を11月23日(祝)に固定してきましたが、

今年はいろいろ考えて11月4日(月)に行い、もう終わってしまいました。

それで何が起こったか。

今とっても精神的に余裕がある状態なんです。ぽけーっとしています。

中会会議というのは「決めごと」をする場ですので、

会議までは心理的に混乱状態ですが、

会議が終われば決議内容を実行に移すだけです。すっきりさわやかです。

というわけで、今年に限っては、クリスマスまでポカン顔の関口です。

教会の牧師室や牧師館の、掃除とか片づけとか、しています。

まるで、いつでも引っ越しできるような、さわやかさです。

余裕のよっちゃん、というやつです。ぼくはやっちゃんですけどね。

「教会を動かす」の含意は「教会をよくする」です

前稿の続き。

「教会を動かす」の含意は、もちろん「教会をよくする」です。

歴史が証明するとおり、巨悪がはびこるのは社会だけでなく教会も然りです。

ぼくは悪人かもしれませんが(だとしたら、すいません)、ぼくは巨大ではないので「巨悪」ではありえません。ぼくが片付けば済むならいつでも退場しますけど、何の変化もありません。

ぼくのことはともかく、社会だけでなく教会にも巣食う巨悪の根源を正当な手続きで排斥し、かつ教会をよくすることが「動かす」です。

でも、教会は簡単に動かせません。

教会を利用してビジネスをしようと思いついた人は、たいていあきらめて出て行きます。営利目的で教会を乗っ取るのは容易ではないというか、全く不可能だからです。

教会はカネにはなりません。特定政党や特定企業に利用されることも断固拒否します。

それは教会の保守性(「この世で最も保守的な存在としての教会」トレルチ)の良い面だと、ぼくは思います。

しかし、悪い面もあります。

健全な批判精神を持っている人たちが、多くの場合、教会の周辺においやられてしまいます。

何も変えたくない、変わらないでほしいと願っている人たちが、ど真ん中に居座る。

ど真ん中に居座って、それで何かを懸命にしてくれるならいいけど、何もしない。

偏執的にミクロ的な一真理に固執し、不毛な同語反復を続け、さまざまな可能性に目を向けず、自派の存続を揺るがす人たちを組織票で抹殺する、といったやり方を好む。

これも「教会」ですよね。だけど、動かさなくてならないと思う。

世界で最も保守的なものを変革できれば世界は変革しうるんじゃないかな

昨日は「教会(キルへ)はインドのカースト制度を除けば多分この世の中で最も保守的なものである」というエルンスト・トレルチの言葉(1921年)に改めて接し(久しぶりに読みました)、

ちょっとファイトの念が燃えはじめたぼくだったりします。

なんていうか、

それって逆に考えれば、

トレルチをして「この世で最も保守的」と呼ばしめた「教会」を変えることができるほどの説得力ある言葉と生き方が見つかれば、そのとき世界は変わるってことですよね。

「教会」という、この押しても引いても梃子でも動かない、がっかりするほど鈍重なものを動かすことができる力があれば、世界は動くってことですよね。

そして、その言葉、その生き方、その力は、「教会」の中にいる者たちにしか手に入れることはできませんよね。教会に関わったことない人たちに、教会を動かす力はない。

「世界が変わらない、動かない」と嘆く気持ちは、ぼくも同じ。

だけど、それを言うなら、ぼくらはまず「教会」を変え、動かしてみせなくちゃね。

それができたら、世界も動いてますよね。

こういう考え方、間違ってますかね。

2013年11月13日水曜日

国や社会の形成にとって教会は必要不可欠だと思う

以下、今日読んでいる本から引用します。

日本語版原文では改行なしでつながっていますが、読みにくいので、適当に改行を加えました。

「さてしかしながら、われわれの関連にとって決定的に重要なのは、教会型に基づく社会哲学は、分派型に基づく社会哲学と全く別のものであるという事態である。

結局、完成された理論としての社会哲学をもっているのは教会だけである。というのは、教会のみが学問に対する関心と、この世を支配するのに役立つその学問の力に対する関心をもっているからである。

教会の学問性つまり教会哲学と神学は、それ自体が教会の相対的世界性の一部であり、この世界性と一緒になって一層広範に発展したのである。

しかしことに内容的な面で矛盾しているところが見られる。教会はこの世との妥協を企て、しかも自らの罪の赦しの理念や恩寵の理念を用いてこの妥協をかなりうまく実現することができた。教会はこうして、相対的自然法の諸々のこの世的な秩序を冷静に認めることができた。

また教会はそれらのおかげで、持続するこの世の中で継続的な労働を営む準備をすることができた。

教会は、その全体的な施設の理念、恩寵の理念、権威の理念それ自体において保守的である。それは、インドのカースト制度を除けば、多分この世の中で最も保守的なものである。

教会は、国家と社会における諸々の世俗的な秩序との関連においても保守的である。教会は一般に国家の権威と世襲的な社会組織の安定性に対して、それらによって束縛されることはないが、親和性をもっている。」

1922年(91年前)に発表された文章です。論者の炯眼に圧倒されました。

ただし、読み方というか解釈には、工夫というか予備知識がかなり必要な文章ではあります。

なかでも、「教会」(キルへ)と「分派」(ゼクテ)の明確な区別は、日本のキリスト教界にはピタリとは当てはまりません。

この人の分類法で考えていけば、日本のキリスト教界にあるのはほとんどすべて「分派」(ゼクテ)だ、という判断になるでしょう。

彼にとって「教会」(キルへ)とは、「学問への関心」をもち、「世界と妥協する」存在なのです。

しかし、そのことを踏まえたうえでも、ぼくはやはり、この論者が定義する意味での「教会」の存在が日本に必要だと考えさせられました。

この論者に言わせると、「教会」はインドのカースト制度に匹敵するくらいの「保守的な存在」だということになるようですが、それは当たっているとぼくは思う。

しかし、教会が「保守的」であること自体が悪いことだとは、ぼくは思わない。

一つの国や社会が形成されていくためには、教会のように「腰の据わった存在」が必要不可欠だと思うのです。

反論はあるでしょう。

この文章が発表されてから10年ほど後のドイツに出現したあの極右政党と「教会」(キルへ)との「妥協」はあってはならなかった。それも、そのとおりです。

上記の引用はエルンスト・トレルチの論文「キリスト教社会哲学」の一節です。

(佐々木勝彦訳、『トレルチ著作集』第3巻、ヨルダン社、1983年、24~25頁)。

1922年といえば、トレルチがプロイセン文部省次官を辞した1921年と、57歳で死去する1923年との間に発表されたもの、ということになります。

当時、ベルリン大学哲学部の教授でした。トレルチの個人史においても、ドイツの政治史においても、重要な意義を持つ論文だと思います。

2013年11月12日火曜日

「超訳聖書」のブログを立ち上げました

三つしか記事がありませんので、独立させるのは早いかもしれませんが、

頭と心の整理の必要もあり、「超訳聖書」のブログを立ち上げました。

超訳聖書
http://chouyaku.blogspot.jp/

「萌訳聖書」というタイトルにしてほしいという要望があるんですが、どうしたものか...

何度も書きますが、するどいツッコミには耐えられません。

ケンカ腰でかかってくるタイプの批判は無視しますので、悪しからず。

とにかく、ぼくは自分の読み方に、何のこだわりもありません。

また、最新の聖書学的知識などは、持っていません。

強いて言えば、ぼくが試しているのは「文体研究」のようなことです。

まあ、でも、まだほとんど何もできていませんので、

先走ったことを書くのはやめておきます。

2013年11月11日月曜日

のれんに腕押し、ぬかにクギ

だけど、日本だけではないと思いますが、

「プロテスタント」教会は、いろいろグループで細分化しているので、

他からの批判も自己批判もできにくい構造になっていると思うんです。

のれんに腕押し、ぬかにクギで、ひらひらかわすことばかり得意で、

自分にとって都合の良い「教会批判」にはやたら関心が強い割に、

自分に都合の悪い「教会批判」は、自分のこととして聞こうとしない。

ぼくは今、このことを他人事として書いてるわけではないですよ。

他人事になるわけないじゃん、生まれて(あと数日で)48年、

日本の「プロテスタント」教会から離れたことは一度もない人間なので。

ぼくは牧師の子弟ではないですが、

日曜日に教会にいなかった日は両手の指で数えられるほどしかないです。

年数で競うつもりはない、ということは、前から繰り返し書いています。

70代、80代の人に、40代、50代の者たちが、年数で勝てるわけないよね。

「外部」から文句言われるのはイヤですけどね。本当は聞きたくもない。

「何が分かるんだ」と言いたくなる衝動にかられることもあるほどです。

だけど、「身内」をかばい続けるのは、少々疲れました。

ホントに疲れました。

疲れても牧師。

死ぬまで牧師。

やりますよ、牧師。

ためいきもつかないぞ。

ぼくとかがためいきつくと、

「自分はもっとたいへんだ」と、

たいへんアピールしたくなる人たちがいるもんね。

ためいきついてません。ついてませんついてません。