2013年11月13日水曜日

国や社会の形成にとって教会は必要不可欠だと思う

以下、今日読んでいる本から引用します。

日本語版原文では改行なしでつながっていますが、読みにくいので、適当に改行を加えました。

「さてしかしながら、われわれの関連にとって決定的に重要なのは、教会型に基づく社会哲学は、分派型に基づく社会哲学と全く別のものであるという事態である。

結局、完成された理論としての社会哲学をもっているのは教会だけである。というのは、教会のみが学問に対する関心と、この世を支配するのに役立つその学問の力に対する関心をもっているからである。

教会の学問性つまり教会哲学と神学は、それ自体が教会の相対的世界性の一部であり、この世界性と一緒になって一層広範に発展したのである。

しかしことに内容的な面で矛盾しているところが見られる。教会はこの世との妥協を企て、しかも自らの罪の赦しの理念や恩寵の理念を用いてこの妥協をかなりうまく実現することができた。教会はこうして、相対的自然法の諸々のこの世的な秩序を冷静に認めることができた。

また教会はそれらのおかげで、持続するこの世の中で継続的な労働を営む準備をすることができた。

教会は、その全体的な施設の理念、恩寵の理念、権威の理念それ自体において保守的である。それは、インドのカースト制度を除けば、多分この世の中で最も保守的なものである。

教会は、国家と社会における諸々の世俗的な秩序との関連においても保守的である。教会は一般に国家の権威と世襲的な社会組織の安定性に対して、それらによって束縛されることはないが、親和性をもっている。」

1922年(91年前)に発表された文章です。論者の炯眼に圧倒されました。

ただし、読み方というか解釈には、工夫というか予備知識がかなり必要な文章ではあります。

なかでも、「教会」(キルへ)と「分派」(ゼクテ)の明確な区別は、日本のキリスト教界にはピタリとは当てはまりません。

この人の分類法で考えていけば、日本のキリスト教界にあるのはほとんどすべて「分派」(ゼクテ)だ、という判断になるでしょう。

彼にとって「教会」(キルへ)とは、「学問への関心」をもち、「世界と妥協する」存在なのです。

しかし、そのことを踏まえたうえでも、ぼくはやはり、この論者が定義する意味での「教会」の存在が日本に必要だと考えさせられました。

この論者に言わせると、「教会」はインドのカースト制度に匹敵するくらいの「保守的な存在」だということになるようですが、それは当たっているとぼくは思う。

しかし、教会が「保守的」であること自体が悪いことだとは、ぼくは思わない。

一つの国や社会が形成されていくためには、教会のように「腰の据わった存在」が必要不可欠だと思うのです。

反論はあるでしょう。

この文章が発表されてから10年ほど後のドイツに出現したあの極右政党と「教会」(キルへ)との「妥協」はあってはならなかった。それも、そのとおりです。

上記の引用はエルンスト・トレルチの論文「キリスト教社会哲学」の一節です。

(佐々木勝彦訳、『トレルチ著作集』第3巻、ヨルダン社、1983年、24~25頁)。

1922年といえば、トレルチがプロイセン文部省次官を辞した1921年と、57歳で死去する1923年との間に発表されたもの、ということになります。

当時、ベルリン大学哲学部の教授でした。トレルチの個人史においても、ドイツの政治史においても、重要な意義を持つ論文だと思います。

2013年11月12日火曜日

「超訳聖書」のブログを立ち上げました

三つしか記事がありませんので、独立させるのは早いかもしれませんが、

頭と心の整理の必要もあり、「超訳聖書」のブログを立ち上げました。

超訳聖書
http://chouyaku.blogspot.jp/

「萌訳聖書」というタイトルにしてほしいという要望があるんですが、どうしたものか...

何度も書きますが、するどいツッコミには耐えられません。

ケンカ腰でかかってくるタイプの批判は無視しますので、悪しからず。

とにかく、ぼくは自分の読み方に、何のこだわりもありません。

また、最新の聖書学的知識などは、持っていません。

強いて言えば、ぼくが試しているのは「文体研究」のようなことです。

まあ、でも、まだほとんど何もできていませんので、

先走ったことを書くのはやめておきます。

2013年11月11日月曜日

のれんに腕押し、ぬかにクギ

だけど、日本だけではないと思いますが、

「プロテスタント」教会は、いろいろグループで細分化しているので、

他からの批判も自己批判もできにくい構造になっていると思うんです。

のれんに腕押し、ぬかにクギで、ひらひらかわすことばかり得意で、

自分にとって都合の良い「教会批判」にはやたら関心が強い割に、

自分に都合の悪い「教会批判」は、自分のこととして聞こうとしない。

ぼくは今、このことを他人事として書いてるわけではないですよ。

他人事になるわけないじゃん、生まれて(あと数日で)48年、

日本の「プロテスタント」教会から離れたことは一度もない人間なので。

ぼくは牧師の子弟ではないですが、

日曜日に教会にいなかった日は両手の指で数えられるほどしかないです。

年数で競うつもりはない、ということは、前から繰り返し書いています。

70代、80代の人に、40代、50代の者たちが、年数で勝てるわけないよね。

「外部」から文句言われるのはイヤですけどね。本当は聞きたくもない。

「何が分かるんだ」と言いたくなる衝動にかられることもあるほどです。

だけど、「身内」をかばい続けるのは、少々疲れました。

ホントに疲れました。

疲れても牧師。

死ぬまで牧師。

やりますよ、牧師。

ためいきもつかないぞ。

ぼくとかがためいきつくと、

「自分はもっとたいへんだ」と、

たいへんアピールしたくなる人たちがいるもんね。

ためいきついてません。ついてませんついてません。

茶坊主、お見合い、どうぞどうぞ

先週の「第19回 カール・バルト研究会」で結構盛り上がったのは、

「茶坊主」の話でした。

その内容を書くと角が立つので、書きませんけどね。

今の日本の(プロテスタント)教会は、

バレーボールの「お見合い」状態なのかもしれません。

ていうか、ダチョウ倶楽部の「どうぞどうぞ」だな。

発信力が強かった世代の人たちがほとんど引退状態にあり、

発信力が弱い、または発信力が無い人たちが、ど真ん中に居座っている。

引退状態にある世代の人たちの発信力にいつまでも期待し、ぶらさがる。

そういうの恥ずかしいと思わないのかな。ぼくは恥ずかしいんだけど。

2013年11月9日土曜日

忘れた頃の「超訳聖書」です

忘れた頃の「超訳聖書」です。

するどいツッコミには耐えられませんので、悪しからず。

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ローマの信徒への手紙8章18~25節

使徒パウロ/著  関口康/超訳


そりゃもちろんね、苦しいですよ、ぼくらだって。

だけど、今ぼくらが味わってる苦しみなんてね、

ぼくに言わせてもらえば、どうっちゅことないんですよ。

だって、この苦しみを耐えた向こう側に、明るい明日が待ってるんだからね。

ただただ、その夢だけ見て生きてますよ、ぼくは。

全世界がぼくらに期待してくれてるんです、はっきり言って。

人生は空しいとか、生きる意味ないとかね、そういうことばっか言ってる世界が、ね。

そういうこと言ってる人たちだって、自分でそうなりたくてなったわけじゃないんだよ。

じゃあ、だれがそうしたのって話になるわけだけど、

もうそれは神さまだとしか言いようがないね。

ぼくらに空しさとかを味わわせる神さまって、どんなだよと、

つい言いたくもなるけどね。

だけど、だからこそ、世界には希望があるんですよ。

だって、空しいままでいたい人なんて、いないんだから。

あとは死ぬしかないとか、どうせ世界は終わるんだからとか、

そういう思いにとらわれてしまってどうしようもなくなっているときでも、

なんとかそこから這い出したいと、だれでも思っているんですよ。

その出口なしの堂々めぐり状態から自由になって、

キャッキャ言って遊んでる子どもたちの笑顔のような輝きの中で

神さまとぼくらが仲良く生きていけるときが来るんですよ。

それってやっぱりスゴイことなんです。

ぼくらが生きてる世界は神さまが造ったものですよ、それは信じてほしいです。

この世界がぼくらのことを期待してくれててね、

「早く生まれろ~、早く生まれろ~、う~ん、う~ん」てね、

「ひっ、ひっ、ふー」でもいいや、

さあ、これから赤ちゃんがお腹から出てこようとしているときのお母さんみたいに、必死にね、

ぼくらを産むために、全世界がふんばってくれてるんですよ。

産まれてくるぼくらのほうも、サボってるわけじゃないですよ。

ぼくらも必死ですよ。お母さんのお腹の中から自力で這い出しちゃうくらいの勢いあるぜ。

赤ちゃんは出てくるときは、ひーひーとかは言わないけどね、

出てきてから「どぎゃあ」と泣くまではね。

だけど、心の中で、っていうか、口には出せないけど、

赤ちゃんだって必死で泣いてるんですよ。狭いしね。

「こんなところから出てやる~」みたいな感じでね。

いま言ってるのは、もちろんたとえですよ。

何を言いたいのかって?

ぼくらがさ、教会とか信仰とか、何が悲しくてそんなものを守ったりしてるのか。

そんなものを守ろうとするから苦しむことがあるとかね。

そんなことにまるで興味を持ってくれない人たちが圧倒多数の中でね。

「なにそれ?」とか「宗教オタク」とか言われたりもしながらね。

自分でも何やってるのか分からなくなるとき、あるかもしれないよね、はっきり言って。

だけど、ぼくらは教会続けますよ。

信仰とか捨てられないですよ。

そういうことがなんでできるのか、ですよ、ぼくが言いたいことは。

それはやっぱり、さっき言ったことですよ、

全世界がぼくらに期待してるんだってば。

だって、空しいままでいたい人なんか、ひとりもいないんだから。

神さまとか、人生の意味とか、やっぱり知りたいんですよ。

そんなの知らなくていい、なんて人はいないですよ。

全世界がぼくらに期待してくれていると信じることが、ぼくらの希望だし、

そういう希望を持てること自体が、ぼくらの救いそのものですよ。

全世界が教会に期待してくれているかどうか、証拠見せてみろとか言われてもね、

そんなもん見せられませんよ。「期待」って見えるものなのか。逆に聞きたいよね。

だけど、目に見えないけど、本当にそうなんだよ。

信じろとか言っても無理かもしれないけど、信じるしかないじゃん。

目に見えないものだから、ぼくらは信じるんだよ。

もう見えてるものは、信じる必要ないじゃん。だって、目の前にあるんだから、

ぼくはね、自分で言うのもなんだけど、我慢強い人間です。

いつまでも待ちますよ。

ぼくは教会をあきらめない。

Christliche Anthropologie in de Konflikten der Gegenwartは「現代の闘争の中におけるキリスト教人間像」だろうか


サブタイトルは、Christliche Anthropologie in de Konflikten der Gegenwartだったのか。初めて知りました。

それが「現代の闘争の中におけるキリスト教人間像」と訳されています。辞書的意味に忠実に訳されてはいるということは、よく分かります。

しかし、ちょっと厳しすぎる言い方かもしれませんが、訳者の視線は、この本をまだ読んだことがなく、ドイツ語を読むことができない人たちに、ではなく、この本をドイツ語原著で熟読していて、ドイツ語の構文を知っている「身内」に向かっているのではないかと、なんとなく訝しく思えてきます。

いま書いていることは誤訳の指摘ではないし、訳者に対する批判でも攻撃でもありません。ただ、いろいろ感想を述べているだけです。

とはいえ、Konfliktは「闘争」だろうか。「の中における」という日本語に奇妙さはないだろうか。inを間に挟んだ二つの文は、いつでも後者を先に、前者を後に訳さなければならないか、などなど、いろいろ考えさせられています。

たとえばの話、「キリスト教的人間論の今日的議論」と訳すのは間違っているでしょうか。原著者がサブタイトルに込めている意味は、その程度のことだと思うのですが。

この訳書が出版された時期の背景的なことを想像すれば「闘争」と訳したかったのかもしれないことは分からなくもないですが、最大で「葛藤」くらいではないでしょうか。

なんか、そんなことを考えました。

忘れた頃の「超訳聖書」です

忘れた頃の「超訳聖書」です。

するどいツッコミには耐えられませんので、悪しからず。

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ローマの信徒への手紙8章18~25節

使徒パウロ著/関口 康「超訳」


そりゃもちろんね、苦しいですよ、ぼくらだって。

だけど、今ぼくらが味わってる苦しみなんてね、

ぼくに言わせてもらえば、どうっちゅことないんですよ。

だって、この苦しみを耐えた向こう側に、明るい明日が待ってるんだからね。

ただただ、その夢だけ見て生きてますよ、ぼくは。

全世界がぼくらに期待してくれてるんです、はっきり言って。

人生は空しいとか、生きる意味ないとかね、そういうことばっか言ってる世界が、ね。

そういうこと言ってる人たちだって、自分でそうなりたくてなったわけじゃないんだよ。

じゃあ、だれがそうしたのって話になるわけだけど、

もうそれは神さまだとしか言いようがないね。

ぼくらに空しさとかを味わわせる神さまって、どんなだよと、

つい言いたくもなるけどね。

だけど、だからこそ、世界には希望があるんですよ。

だって、空しいままでいたい人なんて、いないんだから。

あとは死ぬしかないとか、どうせ世界は終わるんだからとか、

そういう思いにとらわれてしまってどうしようもなくなっているときでも、

なんとかそこから這い出したいと、だれでも思っているんですよ。

その出口なしの堂々めぐり状態から自由になって、

キャッキャ言って遊んでる子どもたちの笑顔のような輝きの中で

神さまとぼくらが仲良く生きていけるときが来るんですよ。

それってやっぱりスゴイことなんです。

ぼくらが生きてる世界は神さまが造ったものですよ、それは信じてほしいです。

この世界がぼくらのことを期待してくれててね、

「早く生まれろ~、早く生まれろ~、う~ん、う~ん」てね、

「ひっ、ひっ、ふー」でもいいや、

さあ、これから赤ちゃんがお腹から出てこようとしているときのお母さんみたいに、必死にね、

ぼくらを産むために、全世界がふんばってくれてるんですよ。

産まれてくるぼくらのほうも、サボってるわけじゃないですよ。

ぼくらも必死ですよ。お母さんのお腹の中から自力で這い出しちゃうくらいの勢いあるぜ。

赤ちゃんは出てくるときは、ひーひーとかは言わないけどね、

出てきてから「どぎゃあ」と泣くまではね。

だけど、心の中で、っていうか、口には出せないけど、

赤ちゃんだって必死で泣いてるんですよ。狭いしね。

「こんなところから出てやる~」みたいな感じでね。

いま言ってるのは、もちろんたとえですよ。

何を言いたいのかって?

ぼくらがさ、教会とか信仰とか、何が悲しくてそんなものを守ったりしてるのか。

そんなものを守ろうとするから苦しむことがあるとかね。

そんなことにまるで興味を持ってくれない人たちが圧倒多数の中でね。

「なにそれ?」とか「宗教オタク」とか言われたりもしながらね。

自分でも何やってるのか分からなくなるとき、あるかもしれないよね、はっきり言って。

だけど、ぼくらは教会続けますよ。

信仰とか捨てられないですよ。

そういうことがなんでできるのか、ですよ、ぼくが言いたいことは。

それはやっぱり、さっき言ったことですよ、

全世界がぼくらに期待してるんだってば。

だって、空しいままでいたい人なんか、ひとりもいないんだから。

神さまとか、人生の意味とか、やっぱり知りたいんですよ。

そんなの知らなくていい、なんて人はいないですよ。

全世界がぼくらに期待してくれていると信じることが、ぼくらの希望だし、

そういう希望を持てること自体が、ぼくらの救いそのものですよ。

全世界が教会に期待してくれているかどうか、証拠見せてみろとか言われてもね、

そんなもん見せられませんよ。「期待」って見えるものなのか。逆に聞きたいよね。

だけど、目に見えないけど、本当にそうなんだよ。

信じろとか言っても無理かもしれないけど、信じるしかないじゃん。

目に見えないものだから、ぼくらは信じるんだよ。

もう見えてるものは、信じる必要ないじゃん。だって、目の前にあるんだから、

ぼくはね、自分で言うのもなんだけど、我慢強い人間です。

いつまでも待ちますよ。

ぼくは教会をあきらめない。

2013年11月8日金曜日

「第19回 カール・バルト研究会」報告


好例の集合写真を撮り忘れましたので、

代わりに本の写真を。

今日(2013年11月8日金曜日)21時から23時30分まで

「第19回 カール・バルト研究会」を

グーグルプラス・ハングアウトで行いました。

今日のテキストは

カール・バルト『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック、新教出版社)の

第10章「イエス・キリスト」の後半部分でした。

ここに来てバルト神学の問題性が一気に噴出するといった感じで、いろいろと考えさせられました。

本日の参加者は下記(五十音順、敬称略)。

小宮山裕一(茨城県ひたちなか市)
関口 康(千葉県松戸市)
中井大介(大阪府吹田市)途中まで
藤崎裕之(北海道亀田郡)

次回は、な、なんと「第20回」です。

「第20回 カール・バルト研究会」は11月29日(金)21時から23時までです。

どなたもぜひご参加ください。

2013年11月7日木曜日

ぼくは「プア充」です

http://www.kotomatome.net/archives/33810872.html

島田某氏(面識なし)の書きっぷりは

あんまりぼくの好みじゃないんですけど、

「プア充」という言葉の流行源になっておられるらしいと、

FBのお友達から今日教えていただき、微妙な気持ちでいます。

ぼくは自他ともに認める(かどうかは不明)「プア充」の体現者です。

生涯2回経験した「海外旅行」は、すべて他の方のお金で行かせてもらいました。

ぼくの年収をFBとかに書くと教会の名誉にかかわるので書きませんが、

たぶん驚かれるほどです。

そういう人間なのですが、

ぼくを見て「かわいそう」と哀れんでくださる方はいないですね。

それは「プア充」だからだと思いますよ。自慢じゃないですけどね。

「プア充」、ですか、あはは。大笑いですね。ナニ言ってんだか。

それ、ぼくらのことですよ。

ぜひ「牧師」になってください。

よろしくお願いいたします。

土下座。

「現代人に納得できる教義学」を求めて(3)

「現代神学」という四文字熟語を使用することにぼくは心理的抵抗があります。なぜなら、神学が現代において営まれているかぎり、それは「現代神学」だからです。たとえテキストが過去の神学者の著作であっても、それを現代人が読み、現代人に理解できる言葉を用いて解釈している時点で「現代化」が起こっています。

「現代神学の元祖はシュライアマハーである」というシナリオは、いつ誰が書いたのでしょうか。おそらくそれを書いた人の「現代」は今の我々の「大昔」です。タイムラグというのは、時間の微妙なずれを指す言葉ではないでしょうか。「現代神学」という語のずれまくり感は、ハンパないレベルです。

神学エンチュクロペディーを学んだ人は、神学に聖書神学、歴史神学、組織神学、実践神学の四部門あり、組織神学は「現在」にかかわる部門であるという事情をご存じでしょう。そして言わずもがなですが、論者の「現在」が論者の「現代」です。つまり「組織神学」が「現代神学」であるとも言えるのです。

しかし「組織神学」は現代的な学問であるというようなことを仮にぼくがどこかで語ったとして、それをどなたがまともに聞いてくださるだろうかと考えるだけで頭が痛い。そもそも神学そのものが現代社会から失われている。まして「組織神学」など見る影もない。意図的に看板を下げる大学が増えている。

そんなこんなを考えているとき、ずっと前に買い集めたまま、ほとんど全く読まずに放置していた数冊の本に目がとまりました。新教出版社の「現代神学の焦点」シリーズです。ぼくが持っているのは9冊だけです。このシリーズが完結したのかどうかさえ知りません。

巻数順に並べた「現代神学の焦点」シリーズ

ぼくは「現代神学の焦点」シリーズの価値が分かりませんでした。とりあえず買いました。しかし、どう読んだらいいのかが見えませんでした。十巻を超えるシリーズのわりに、テーマの並べ方がランダムで、全体の統一性が全くない気がして読みづらかったです。

しかし、わりと最近(時期の特定はできないです)、「現代神学の焦点」シリーズの並べ方の順序を、何気なく変えてみたのです。あくまでも一つの可能性としてではありますが、伝統的な教義学ロキの順序を真似て、本棚上で並べ変えただけです。

ぼくがやったことは、「現代神学の焦点」シリーズの並べる順序を変えてみたことだけです。巻数順なら「理性、復活、未来、人間、新約聖書、平和、神、苦しみ、旧約聖書」の順ですが、「理性、旧約聖書、新約聖書、神、人間、苦しみ、復活、平和、未来」の順にしてみました。

伝統的な教義学の順序に並べ変えた「現代神学の焦点」シリーズ

すると、どうでしょう。ただシリーズ本の並べ方を変えてみただけなのに、これまでは買ったはいいけど本棚の埋め草になっているだけで何の興味もわいてこなかったこの新教出版社「現代神学の焦点」シリーズが、急に生き生きと立ちあがった気がしました。「ああ、これは一線級の教義学だ」と思いました。

もちろんぼくは、このシリーズの複数の著者のうち何人かは、自分の著作を「教義学呼ばわり」されることを快しとしないであろうことを分かっているつもりです。「ぼく/あたしの本はヴィッセンシャフト(学問)だよ。ドグマティーク(教義学すなわち独断論)ではないよ」と猛然と反発するに違いない。

でも、それは「組織神学」ないし「教義学」の本質を根本的に誤解しているゆえに生じる反発なのだと、ぼくには思えてなりません。今は「組織神学」と「教義学」を交換可能な同義の概念として用いますが、その意味の「教義学」は本質的に、本の並べ方を学ぶ学問であると言ってよいようなものなのです。

「教義学とは本の並べ方を学ぶ学問であると言ってよいようなものである」と書いた点について、これ以上広げる予定はない。ネガティヴな意味で書いたわけではないし、皮肉でも自虐でもないです。「本の並べ方」を軽んじるなかれ。それは今や「図書館情報学」等の名称で自立した一大学問になっています。

「図書館情報学」の中身をぼくは知らないので、クマンバチの巣に手をつっこむのはやめておきます。くわばらくわばら。ただ、「組織神学」と同義語として用いる意味の「教義学」は、知の全体系をトータルに把握しうるキャパシティをもつ巨大図書館の「本の並べ方」を研究することに似ています。