2013年10月21日月曜日

オランダ語つらいなあ(ぶつぶつ)


ゲキ疲れてます。

一泊修養会、定期大会、特別集会。

「バース、掛布、岡田のバックスクリーン三連発」

を彷彿するスケジュールは

さすがのぼくさえ、神経弱りました。

こんなときの慰めは、前世紀末から決まっていて、

それは「ファン・ルーラーの本を読むこと」ですが、

オランダ語つらいなあ。

オランダ語読みたいんじゃなくて、

ファン・ルーラー読みたいんだけど。

だれか心温まる日本語に訳してくれませんか。

多くの人が慰められると思うけど。

神学生!オランダ語がんばれ!

だめ?

2013年10月20日日曜日

今こそキリストの慰めが必要です

ローマの信徒への手紙8・11

「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」

今日は秋の特別集会です。松戸小金原教会の礼拝あるいは集会に今日初めて出席してくださった方、また久しぶりの方を心より歓迎いたします。これからもどうかよろしくお願いいたします。

今年の特別集会のテーマは「終活について考えてみませんか」としました。今日みなさんに考えていただきたいと願っていることは、わたしたちの人生の締めくくり方をどうするかということです。もっとありていに言いますと、わたしたちの死と葬儀をどうするかです。今日は特別集会ですので、いつもより少し長めにお話しいたします。

しかし、「どうするか」と問われてもお困りになる方は多いだろうと思います。わたしたちにとって動かしがたい厳粛な事実があります。それは、わたしたちの死と葬儀はわたしたち自身がどうすることもできないことである、ということです。

自分の人生の終わりの日がいつなのかを知っている人はいません。また、自分の葬儀を自分で行うことができる人はいません。だからこそ、「どうするか」と問われても困る、答えようがない、と感じるのは、当然のことです。

そういうわけですから、どうかみなさんは、自分自身の死と葬儀について、あまりにも深刻に考えすぎないでいただきたいと私は願っています。どれだけ考えてもすんなり答えが出るようなことではありません。多くの部分を他人任せにしてくださって構いません。自分だけで答えを出そうとしないでください。周りの人たちとよく相談してください。

しかし、そのように私が言いますと、それはそれで、みなさんのうち多くの方は、なんとなく不安な顔になります。本当にそれでいいのだろうか、自分にも少しくらいは責任があるのではないだろうかとお考えになるようです。そのことも、ある意味で健全な考え方だと思います。

ですから、今日は具体的な詳しいことについては、今日の午後、「葬儀・遺言セミナー」を行うことにしました。午後のセミナーにもどうかご出席くださいますようお願いいたします。

これも動かしがたい厳粛な事実ですが、はっきりしていることは、わたしたちの人生は永遠に続くものではないということです。それは、みなさんをがっかりさせてしまうかもしれないことです。わたしたちの体と心の健康は、永久に保たれるものではありません。10年くらい前はできていたことが、今はできなくなりました。活動範囲がだんだん狭くなってきました。終わりの日は近づいています。それはそれで、本当に寂しいことです。

しかし、それはみんな同じです。こんなことを言っても何の慰めにもなりませんが。みんな同じです。だれかひとりは永遠に生きているが、他のすべての人はそうではないということであれば、不公平を嘆いてもよいと思いますが、そうではありません。すべての人が終わりの日を迎えるのです。そして、何らかの形で葬儀が行われる。だからこそ、終活は万人に共通のテーマなのです。

しかしまた、扱い方が難しいテーマであることは間違いありません。「あなたは死にます。早く葬儀の準備をしましょう。葬儀の会場はどうしましょう。お墓はこうしましょう」と矢継ぎ早に言われるとだんだん腹が立ってきます。死と葬儀は万人に共通のテーマであり、重要なテーマです。しかし、無神経な取り上げ方ではまずいと思っています。

私は松戸小金原教会の牧師にしていただいて、来年3月でちょうど10年になります。数をかぞえるようなことは意識的に避けてきたことなので、このたび調べて初めて分かったことですが、この10年間で私が葬儀の司式をさせていただいたのは11名の方々であるということが分かりました。その中には教会員以外の方も含まれています。

この方々にはそれぞれ家族がおられ、今も寂しい思いを味わっておられます。もっと長く、もっと元気に生きてくれていれば、と無念の思いを抱えておられます。今日ご出席くださっているその方々の前で、このテーマを無神経な仕方で取り上げるようなことはすべきではありません。

11名の方々の葬儀を、私は心をこめて執り行わせていただいたつもりです。いろんな点で行き届かなかったことがあったと思います。申し訳ありませんでした。どうかお許しください。しかし、どの方のときにも「本当に良い葬儀でした」と言っていただくことができました。私が言わないほうがよいことかもしれませんが、教会で行う葬儀、キリスト教に基づく葬儀は、本当に良いものです。すべての方に喜んでいただくことができました。

しかし、ここから先に申し上げることについて、私自身が「反省」という言葉を使うと、かえっておかしなことになるのですが、ときどき考えこんでしまうことがあります。それは何かと言いますと、私の両親がまだ(まだ?)健在であるということです。

両親は岡山県岡山市に住んでいます。私と喧嘩しているわけではないのですが、3年も会うことができていません。両親とも現在80歳を超えています。しかし、その両親がまだ(まだ?)生きています。もしかしたら、私はまだ(まだ?)十分な意味で死の恐怖や別れの寂しさを知らないのかもしれません。なぜなら、私は自分の肉親との死別ということを実際に経験したことがないからです。

何年くらい前のことかは忘れました。実家の母から電話がありました。父が病気で入院したという知らせでした。そのときの私が、自分でも驚くほど激しく狼狽したことを忘れることができません。

よく覚えていることは、その知らせを聞いた日、小金原六丁目のバス停で北小金行きのバスを待っていたとき、そこに立っていた男性の後ろ姿が私の父に似ていることに気づいたとき、立っていられなくなり、座り込んでしまいました。ふだんは遠くにいて、ほとんど忘れているような関係なのですが、そのときは自分でも何が起こったのか分からないほどの狼狽ぶりでした。

その後、父の手術は成功しましたので、ご心配いただくには及びません。しかし、私はまだ牧師として未熟な者であることを痛感しています。それを言葉にするととてもおかしなことになってしまうのですが、われわれ牧師は、自分の親が死ななければ本当の牧師にはなれないのかもしれません。

いま私は全くおかしな話をしているという自覚があります。親に死んでもらう話になっています。しかし、ある意味でそういうことも言わなくてはならないことかもしれません。いま申し上げていることは、わたしたちが死ぬことにも、それはそれで何らかの意味があるのではないかということです。

命は受け渡していくものです。自分の命は尽き果てても、この命を受け継いで生きていく次の世代の人たちがいます。それは必ずしも自分の血と肉を分けた子どもに限った話でもありません。大人は子どもにいろんなことを教えます。教えることも、広い意味では命を受け継ぐことです。

どうか、いま私が冷たいことを言っているというふうには受けとらないでほしいのです。しかし、皆さんに考えていただきたいことがあります。それは、わたしたちが受け継ぐべき命とは何なのかということです。

今日は教会員でない方も出席してくださっていますので、狭い意味でのキリスト教の話だけをしないほうがよいかもしれません。しかし、そのような話をすることもちょっとだけ許してください。

それは、「命を受け継ぐ」と言う場合、教会は具体的に何を考えているのかということです。ずばり結論を言います。それは信仰です。神を信じる信仰であり、救い主イエス・キリストを信じる信仰です。その信仰を受け継ぐのです。それが、わたしたちにとっては命を受け継ぐことなのです。

なぜそういう結論になるのかということも少しだけお話ししておきます。わたしたちの教会の信仰によりますと、わたしたちの命は神によって造られたものです。もちろんわたしたちは親から生まれた存在でもありますが、わたしたちの親も、その親から生まれた存在です。そして、その親も、またその親から生まれた存在でもある。この話はどんどん昔にさかのぼっていくことになります。

それでは、最初の人間の親はだれでしょうか。猿だという人もいます。そのことをいま私はただちに否定するつもりはありません。いろいろな考え方があります。しかし仮に猿であるとしても、その猿にも親がいたでしょうし、その親もさらにその親から生まれた存在であることは間違いありません。この話もどんどん昔にさかのぼっていきます。

それでは最初の命はだれが生んだのでしょうか。どんな人も否定できないことは、命を生み出したのは人間ではないということです。それではだれなのでしょうか。その存在をわたしたちは「神」とお呼びします。神がわたしたちの命をお造りになったのです。そのようにわたしたちは信じています。

しかし、それはわたしたちが信じるべきことです。わたしたちの命をお造りになったのは神であるということは、わたしたちの信仰です。それは「信仰にすぎない」という言い方さえできることです。信じない、あるいは信じることができないという可能性も、わたしたちには残されています。

しかしまた、それでは、もしわたしたちがそのことを信じないとしたら、それではわたしたちの命は誰が造ったものなのでしょうかという点は疑問のままです。分かりませんと言って済ませることもできるかもしれませんし、そのようにしている人も現にいます。

しかし、神が造ってくださったのではない、誰だか何だか分からない存在が生みだした命というものをわたしたちが受け継いでいるということになりますと、わたしたちの心は不安だらけです。ある人は、自分は悪魔の命を受け継いでいると信じ込んでいるかもしれませんし、他の人は、自分は猿の命を受け継いでいると考えているかもしれません。

そこで起こる問題があります。それは、わたしたちがそのような得体の知れない命、不気味な命を受け継いでいるかもしれないというようなことを考えている場合、わたしたちはそのような命をどこまで大切にすることができるだろうかという問題です。

もちろん、人によって違うかもしれません。しかし、わたしたちが知っていることは、わたしたちの命は、よくよく大切にしなければ、守り抜くことができないものであるということです。ぞんざいに扱ったり乱暴を働いたりすると、たちまちにして失われてしまう、そのような弱さをわたしたちの命は持っているのです。

「神を信じていない人たちは自分の命を粗末にしています」とか、「そのような人たちは他人の命を平気で傷つけます」というようなことを言いたいのではありません。そのようなひどいことは考えてはならないし、言ってもいけません。それは事実に反することです。

しかし、わたしたちの命は、ただ粗末にしなければよいとか、傷つけないようにしなければよいというようなことだけでは、足りません。もっと積極的に「しっかりと守る」とか「命がけで命を守る」というような面がなければ守りきることができないほど、わたしたちの命は弱いものです。「死んでいない状態」を「生きている」と呼ぶだけでは足りないのです。わたしたちの命は、外側からたくさんの命を注ぎ込むことによって、豊かに育み、守り抜いていくことが求められるのです。

そしてまた、もう一つ大事な点は、わたしたち人間には心があるということです。そして、その心の中でわたしたちは繰り返し、自分の人生の意味は何なのかということを、考えこんでしまいます。意味のない人生を我慢することは、わたしたちには難しいことです。

人生の意味など全く考えたこともないという人がおられるかもしれませんが、それはまだ元気な証拠です。私の命はだれからも必要とされていない不要な存在ではないか。私がこれ以上生きている意味はないのではないかというようなことを繰り返し考え始めるときは、わたしたちの人生に必ず訪れるものなのです。

神を信じる信仰が必要になるのは、まさにそのときです。

もしかしたら、そのときにはもう自分を生んだ親はいないかもしれません。親が生きているときならば、「お父さんお母さんは、どうして私を産もうと思ったの?」と尋ねることができるかもしれませんが、その問いを投げかける相手はいない。自分の子どもや友達に聞いても答えが返ってくるはずがない。そのようなとき、私の命は神が造ってくださった命であり、良い命であり、神が必要としてくださった命であるということを信じることができれば、わたしたちが生きていることの意味を見失わないでいることができるようになるのです。

なんだか理屈っぽい話になってしまっているかもしれませんが、私の申し上げたいことは単純なことです。わたしたちが生きていくためには、生きていることの意味が必要だということです。また、あなたは生きてよいと認めてもらうことが必要だということです。それをはっきりと知っている人は、もしかしたらどこにもいないのかもしれませんが、それでもとにかく、そのことを考え続けてしまうわたしたちがいます。その問いに対して答えを与えてくれるのが信仰だということです。

先ほど私が、「わたしたちにとって、命を受け継ぐこととは信仰を受け継ぐことを意味する」と申し上げたのは、そのような意味です。神を信じる信仰が、わたしたちの命をしっかりと支える力になるのです。その支えがなければ、わたしたちは生きていくことの意味を見失ってしまうほどなのです。生きることの意味を見失ってしまうと、わたしたちは本当に生きていくことができなくなってしまうのです。それは、わたしたち人間には心があるからです。

心など無ければよいのに、とお感じになるでしょうか。考えることをやめれば、悩みも無くなる、とお思いでしょうか。それは違います。悩んだり疑ったりしながら生きていくのが人生です。

神を信じる人の心の中に、神は豊かな命を注ぎ込んでくださいます。最初にお読みしました聖書のみことばには、神が死者の中からイエス・キリストを復活させたこと、そして、その神の霊があなたがたに宿っているならば、あなたがたの死ぬはずの体を生かしてくださるということが、記されています。イエス・キリストを復活させた方(神)を信じる信仰がわたしたちの命を支える力になります。わたしたちの人生に力と意味を与えます。

それでもわたしたちの地上の人生はいつか終わりの日を迎えるのですが、失意の中で、絶望の中で、挫折感と悲壮感の中で息絶える、というのとは根本的に違う、喜びと希望に満ちた最後の日を迎えることができる。そのことが、聖書に約束されています。

本当にそうかどうかは、これはもう信仰生活ということを実際に始めていただくしかありません。この教会に通っている方々の姿を見てくださいと申し上げるしかありません。キリストを復活させた方の力によって、わたしたちは立っています。そして、よみがえられたキリストは、今も生きておられます。生きておられるキリストからの慰めをいただきながら、わたしたちは立っています。

神を信じることをまだ始めておられない方は、今日信じてください。今から始めてください。遅くはありません。神を信じることが、終活です。わたしたちの人生の締めくくりの準備です。そのことを今日どうか受け入れていただきたいと願っています。

(2013年10月20日、松戸小金原教会 秋の特別集会)

2013年10月19日土曜日

土下座でもして懇願するしかないですね

教会は会社じゃないしね。出世とかも無い無い。

「ご栄転ですね」とかイヤミ言われたときはフカイだったなあ。

ガチで言ってたら、ヨシヨシ頭なでてあげたところだけどね。

ネットへの書き込みが原因でどうこう、とかいうのも、関係ないじゃんね。

言いたいことがあるから説教する人になったんじゃないのかね、ぼくら。

自分のノートに鉛筆で書くのも、画面見ながらキー叩くのも、

字を書くことには変わらんわけだし。

伝えたいことあるから伝道する人になったんじゃないの?

伝えたい相手を選んでるわけかな。

オフライン牧師さんたちの仕事は「ネット使わない人限定の伝道」とかかな。

いいですけどね。裁くわけではない。悠長な話だな、とはなんとなく思います。

あ、独りごとです。読まなかったことにしてください。

* * *

だから、そう、

「牧師になる前に世間に出ろ(世間知らず防止)」という話は

傾聴に値する面を少なからず持っているということを

ぼくは認める立場ですけど、

唯一の「最悪の致命的な欠点」は、

「あまりにも・あまりにも世間的な」秩序を

そういうものとは根本的に異なる秩序を有する教会の中に

持ち込んでしまうことがありうること、かもしれません。

とか書くと、

教会の秩序はルーズ過ぎて最悪だと、よく言われるのですが、

ちがうものはちがうんだから、一緒くたにせんでくれよと、

(いま流行りの)土下座でもして懇願するしかないですね。

お願いですから、

教会(教派・教団の意味含む)で、会社ごっこはおやめください。

「左遷」も「栄転」も無いからね。ナニ言ってんだかって感じです。

心からお願い申し上げます。

特定の○○教会(教派・教団の意味含む)の話ではありません。

一般論です。

* * *

ネタとして、というか、純粋にひまつぶしで、というか、

本当のところを言えば、

コンビニの雑誌売り場にはそれくらいしか売ってないから、ですけど、

『プレジデント』とか、たまに買いますよ。

だけど、ぼくは、

牧師は教会のプレジデントだと思ってるわけじゃないですからね。

「理想のリーダー像」「どうしたら百億稼げるか」「時間の使い道」他

面白いですよ、参考にもなりますなります。笑いながら読んでます。

社長さんたちたいへんだなあと、純粋に尊敬します。

だけど、教会と会社は、根本的に異なるものですよね。

比較しようにも、比較できないんじゃないでしょうかね。

これ以上のことは、言わないでおきますけどね。

【余滴】

ぼく、たぶん12、3年前に(正確な時期は覚えていません)、

ある会社の副社長(当時)のお連れ合いの方から

「あなたエラクなる人ね。わたしには分かるわ」

と言われたことがあります。

世の中には面白いことを言う人がいるもんなんですね。

ブブゥー、「ハズレー!」

【追記】

(ぼくの言いたいこととは話の筋がちょっとずれちゃってるんですけど、まあいいや)

まあ、ぼく的には別にカッコつけてるわけでもなくて、ですね、ガチなるガチの話として、教会に関して「レース」(?)とか「センター」(?)とか、もうほとんど意味分かんなくなってるんですよ。

まあ、昔と今とで、ずいぶん違いますしね。新幹線や飛行機があったり、インターネットがあったりで、その種の文明の利器を使わない主義の人は別扱いにするにしても、「情報格差」などはほとんど無くなってきました。

牧師の仕事をしていくうえでいわば唯一影響するかもしれないことは、その「情報格差」だとは思うのですが、それが無くなった。だったら、どこにいても同じじゃないですか。

歴史とか伝統とか、立地とか建物の巨大さとかは大切ではないと言いたいわけではないのですが、べつにその牧師の個人の所有物でもあるまいし、えらぶれる根拠になるわけがないんです。

そゆことは、分かってる人はよく分かっているわけで、すべての事情を熟知して、気が重くて重くて仕方なくて、「行きたくない」と心底から神に祈っているような人こそ、その教会、その職務にふさわしい人なんでしょうけどね。

よりデタラメなほうにアジャストすると、ラクになる。(たぶん)

内と外の「差」とか、よく考えましたよ。

悩んでいたかもしれません。

それが自分でイヤだったので、

「差」を縮めようとした形跡あります。

首尾一貫性というほど硬くはないけど、

二枚舌、とか、

表裏あるやつ、とかは言わせたくなかったかも。

「あんたにぼくの何が分かるんだよ」と言いたくもなりました。

そゆこと言わないけどね。

アジャストの必要を感じて、それを実行するわけだけど、

ぼくが採った方法は、なんのことはない、

よりデタラメなほうに合わせることでした。

だから内からも外からもすっかり軽んじられる人間になったんですけどね。

気は楽になりましたよ。

『気にしなければ、ラクになる』そうです。

ごめんなさい、吉村さん、まだ読んでないです(第三刷おめでとうございます)。

読んでしまうとパクリそうで。

2013年10月13日日曜日

あなたの心にキリストが宿ります

ローマの信徒への手紙8・1~10

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。」

先週学んだ個所にパウロが描いているのは、彼の心の中の葛藤であると申し上げました。パウロが繰り返して書いている「わたし」という言葉は、抽象的な「人間」を指しているだけではなく、具体的な「パウロ」を含んでいると考えるべきです。

彼は自分の心の中に、互いに対立する二つの要素があることを見つけました。一つは「善をなそうという意志」(18節)です。そして、もう一つは彼の中に住みついた「罪」(20節)です。彼は善いことをしたいのです。そのような意志を持っています。悪いことをしたいわけではないのです。しかし、「望む善は行わず、望まない悪を行っている」(19節)。そのような弱さを持っていることを自覚し、激しい矛盾に苦しみ悶える思いを抱いているということを、正直に告白していました。

しかし、それではパウロはどうなってしまうのでしょうか。一生の間、矛盾を抱え、苦しみを感じながら、それをじっと耐えて生きていくだけでしょうか。人生に苦しみはつきものである。すべての人間は罪人である。それはわたしたちの運命であり、宿命である。わたしたちにできることは「人生は苦しいものだ」と悟ってあきらめることだけでしょうか。

そうではないとパウロは信じています。彼はあきらめていません。あきらめるどころか、パウロが続けて書いているのは、衝撃的な言葉です。

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(1節)。

何が言いたいのでしょうか。話は突然飛躍しているように思えます。直前までのパウロは、自分の罪深さを嘆き、葛藤に苦しんでいる様子を描いていました。しかし突如として、イエス・キリストに結ばれている人は罪に定められることがないと書いている。これはどういうことでしょうか。

理解のためのヒントになるのは、「従って」(1節)がかかっている範囲はどこまでかということです。7章1節以下の「結婚の比喩」までさかのぼることができそうです。あるいは6章1節以下に書かれている、わたしたちがイエス・キリストと結ばれるのは洗礼を受けることによってであるという話までさかのぼることもできそうです。

洗礼を受けている人は、イエス・キリストと結ばれているのです。その「結ばれる」ということの意味は、人間同士が結婚することとほとんど同じ意味でパウロは書いているということもすでに申し上げました。しかし、それは何一つ怪しげな意味はありません。イエス・キリストとわたしたちが共に生きることを意味しています。これがヒントです。

これが何のヒントになるのでしょうか。7章の終わりまでにパウロが書いていたことは、彼の心の中の葛藤です。しかし、葛藤しているのはパウロです。いわば独り相撲です。自分一人の心の中の堂々巡りです。しかし、イエス・キリストと結ばれている人は、孤立していません。それは、結婚が一人で生きることを意味しないのと同じです。彼はどれほど自分の心の中で葛藤し、独り相撲をとろうと、彼はもう独りではないのです。

もちろんわたしたちは結婚しても、家族があっても、まるで独りで生きているままであるかのように生きてしまう、そのような弱さや冷たさを持っています。けんかは絶えません。しかし、それでも結婚しているかぎり、独りではありません。

家族のだれかが葛藤に苦しみ、のたうちまわっているのを無視する家族があれば、それは鬼です。しかしイエス・キリストは鬼ではありません。わたしたちが苦しんでいるとき、わたしたちと結ばれ、共に生きてくださる救い主イエス・キリストがわたしたちをかばってくださり、抱きしめてくださり、助けてくださるのです。そのことにパウロは希望を見いだしているのです。

だから、ある意味でわたしたちは、イエス・キリストと結ばれた後も葛藤し続けることができるのです。苦しみ続けることができます。もしわたしたちを助けてくれる存在が不在であり、なにもかも自分でやり遂げなければならないとしたら、苦しくても寝込んでいる場合ではないのです。しかし、助けてくれる家族がいれば、安心して苦しむことができますし、安心して倒れ込むことができます。イエス・キリストと結ばれている人たちは、いわばそういう状態にあるのです。

しかし、いま申し上げたことは、たとえです。またこれは十分に納得していただけるたとえであるとは言えません。抽象的な話にとどまっています。わたしたちの現実の感覚とはずれるものだということも分かっているつもりです。しかし、いま申し上げていることは、今日の個所の初めにパウロが「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることがありません」と書いていることは、直前の個所に描かれている彼の罪の葛藤と苦悩の内容と矛盾するものではないということです。

どうして矛盾しないのでしょうか。罪の葛藤に苦しんでいるパウロを罪のないイエス・キリストがかばってくださるからです。そのことをパウロは次のような言葉で書いています。

「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」(2~4節)。

ここにパウロが書いていることは、さっと読んでぱっと理解できるような、易しい内容ではありません。非常に難しいことが書かれています。しかし、大事なポイントを申し上げておきます。

父なる神は、御子イエス・キリストを、わたしたちと同じ人間の肉をもつ存在として、この世界に派遣されました。しかし、イエス・キリストの肉とわたしたち人間の肉とは違いもあります。それは、わたしたちの肉には罪が練り込まれてしまい、もはや切り離すことができない状態になってしまっていますが、イエス・キリストのうちには罪はないという違いです。

その罪のないイエス・キリストの肉が、わたしたちの罪深い肉の代わりに犠牲の供え物として神にささげられることによって、わたしたちの肉が本当は受けなければならない罰をイエス・キリストの肉が代わりに受けてくださったとみなしていただき、神はそれ以上の罰を求められなかったのだ、という話です。

こんなふうに言っても、何のことかさっぱり分からないかもしれません。神さまがお定めになった律法の要求に基づく神御自身による取り立てに対して、すぐにすべてを支払うことができない状態のわたしたちの代わりにイエス・キリストが支払ってくださるのだという話であれば、少しはお分かりいただけるでしょうか。余計に分かりにくくなったでしょうか。

ここで疑問を持つ方がおられるかもしれません。それは、イエス・キリストが肩代わりしてくれるというようなことになると、イエス・キリストに結ばれている人たちはイエス・キリストにすっかり甘えてしまって、自分では約束を守らなくなってしまうのではないだろうかというような疑問です。

そうかもしれません。それでいいと開き直るつもりもありません。しかし、そのようなことを考えることがあるとしたら、それはわたしたちがまだ元気な証拠です。だれかに甘えるくらいなら、だれかに助けてもらうくらいなら、生きている意味はないと思えるのは、わたしたちがまだ元気な証拠です。わたしたちの中に、償いぐらい自分で働いて返すことができると思えるほど、力が残っているのです。

しかし、自分のすべてを失って、白旗を上げてギブアップする。「助けてください」と叫ぶ。支払いを待ってくださいと懇願する。そのときの哀れで惨めな思いを知っている人は、「働きがなくても、その信仰を義と認めてくださる」(4・5)神の恵みの意味を理解できると思います。寝たきりになり、自分では何もできなくなり、人に認められることも、人に喜んでもらえる奉仕も全くできなくなっても、それでもなお、自分の存在の意味と価値があると主張し続けてくださる神がおられるのだ、ということの意味を理解できると思います。

現実問題として、まだ守れていない約束があり、まだ果たせていない義務があり、まだ返すことができていない借金があるという場合には、わたしたちの心が穏やかになることはないでしょう。どうにもならない苦しみを毎日味わい続けることもあるでしょう。

そして、「イエス・キリストが共にいてくださる」と、教会の皆さんや牧師さんは言うけれども、それではいったいイエス・キリストというのはどこにいるのですか。具体的にそれはどういう意味なのですか。この教会の礼拝堂の中には十字架もありません。イエスさまはどこにおられるのですか。このようなことをわたしたちは何度となく考えこんでしまいます。私も考えます。これが答えだと言える正解はありません。

しかし、パウロが言っていることは、はっきりしています。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています」(9~10節)。

ここで「神の霊」と「キリストの霊」は、別々ではなく、同じ存在です。それは「聖霊」であり、聖霊とは(父なる)神とキリストとの霊です。パウロにとってイエス・キリストが共にいてくださるということは、神とキリストの霊である聖霊、わたしたちの心に宿ることを意味しています。わたしたちの心の中に、父なる神とイエス・キリストが宿ってくださるのです。

しかしそれは、心霊現象のようなこととは全く違います。聖書の学び、礼拝出席、教会生活の中で、イエス・キリストを知り、信じることによって、わたしたちの中にイエス・キリストの姿が鮮やかに描き出されるのです。そのことが聖霊の注ぎによって起こります。

そのような聖霊を与えられて生きることができるようになることが、わたしたちにとっての本当の救いであるということを、パウロは信じています。

(2013年10月13日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年10月12日土曜日

「第17回 カール・バルト研究会」報告


「第17回 カール・バルト研究会」終了しました。

テキストはカール・バルト『教義学要綱』(新教セミナーブック)の「9 天地」でした。

今日も大いに盛り上がりました。

カール・バルトの『教義学要綱』は、

その「序」でバルト本人が明かしているとおり、

書斎にこもって机の上で書かれた書物「ではなく」、

いくつかの主要命題だけを書いたレジュメを学生に配布して、

バルト本人もそれだけを見ながら

自由にしゃべりまくった「トークライブ」でした。

それを速記した学生がいて、バルトも若干手を加えて、本になった。

良く言えば、バルトのホンネが分かって面白い。

悪く言えば、

もうこれはどう考えても勢いだけで出ちゃった言葉(それを日本語で「出まかせ」と言います)だろう

としか言いようがない個所が、たくさんある。

支離滅裂、意味不明で「あ゛?」と声が出るほど飛躍した論理がある。

バルト自身もそのことが分かっていて、あえて出版したものだと明言しているので、

それがまたけっこう始末におえない。

「この個所に問題発言がある」と仮に指摘したとしても、

「あれはトークライブだからね(笑)」と逃げられちゃう可能性が高い。

でも、逆に考えれば、大いに真似るべき姿勢かもしれませんよね。

「あれはトークライブだからね(笑)」で全部通す。

「あれはFacebookだからね(笑)」とか

「あれはブログだからね(笑)」で全部通す。

うむ、バルト、おそるべし(笑)。

2013年10月11日金曜日

これはゲキブンです!

ぼくの「ぼく」呼称はネット上だけのことで、

ふだんはほとんどすべて「私」で通している関口です。

そんなぼくは、聖書学に関してはほとんど無知で、

18歳のとき学んだギリシア語はひどい成績だったし、

ヒブル語は勉強したことがない(あ、言っちゃった)ので、

太刀打ちできる根拠のカケラもフンマツもないです。

だけど、「組織神学」は、

エラそうな言い方をお許しいただけば、

「ライフワーク」だと思っています。

「関口康」から「組織神学」を引くと、残りはゼロ。

それくらいの関係性だと、誇張(こちょう)しておきます。

でもね、組織神学の需要が無いんですよね...。

今は、「聖書学全盛」の時代ですよね。

「聖書学は学問だけど、

 組織神学は特定宗教団体のプロパガンダにすぎない」

これはね、がんばるしかないですよ。

奮起せよ、組織神学。

これね、檄文ですからね。ゲキブンですよ。げ・き・ぶ・ん。

ファン・ルーラーのどこが面白いの?(第2回)

「ファン・ルーラーは面白い」ということを、どうすれば分かってもらえるか。それだけを考えながら思いつくままに書いています。面白ささえ伝われば本の需要が生まれるだろうと、中の人(ぼく)は単純に考えています。フォロワーが1000人になる頃には、立派な日本語版著作集が出版されていることでしょう。

前回は、ファン・ルーラーの「神律的相互関係」(theonomous reciprocity)の概念に辿り着いたのでした。それは、あくまでも「神」のイニシアチブ(主導権)が確保されつつ、「神から人へ」の(演繹の)ベクトルと「人から神へ」の(帰納の)ベクトルが不断の往復運動を続ける関係性を指しています。

というふうに書きますと、ファン・ルーラーがまるで抽象的な哲学思想を展開したかのように読まれてしまうかもしれませんが、決してそういうことではありません。伝統的な(改革派の)神学の言葉でいえば、「神から人へ」のベクトルの意味は「恩恵」であり、「人から神へ」のベクトルの意味は「感謝」です。

しかも、ファン・ルーラーにとって「恩恵」とは、途中のプロセスをすべて省略していきなり「神」と「私」の間で授受が行われるものではありません。三位一体論が発動します。神が世界を創造し、御子が世に遣わされ、聖霊が教会を立てる。教会が神の命を人に伝える。その全プロセスが「恩恵」です。

ファン・ルーラーにとって「恩恵」の全プロセスに含まれるのは、イスラエル史であり、キリスト教会(コルプス・クリスチ=キリストの体)の歴史であり、キリスト教国(コルプス・クリスチアーヌム=キリスト教の体)の歴史です。また、教会の説教、聖礼典、交わり、奉仕、教会会議などが含まれます。

このように書きますと、鋭い方はピンとくるものがあるでしょう。神から人への「恩恵」の全プロセスを見つめるファン・ルーラーの目に映っているのがイスラエル史であり、キリスト教会史であり、キリスト教国史であるならば、その中で決定的に重要な役割を果たす「人間」の姿が、見えていないはずがないのです。

歴史上の「偉人」の姿だけが見えている、という意味ではありません。ここはむしろ抽象化すべきです。神の恩恵の全プロセスの中で「人間」が決定的に重要な役割を果たす。その意味は、神は「人間を用いて」地上のみわざを行う、ということです。その意味で人間は「神の道具(インスツルメント)」です。

2013年10月10日木曜日

「ぼくはインディーズ系の人間ですから」に訂正します


拙論「A. A. ファン・ルーラーの神学思想の特質」は、

A5判で15頁ほどの短い論文ですので、さっさと校正終わらせて、

さきほど編集長宛てに、ゲラを封筒に入れて郵便局から送り返しました。

ほっと一息です。

ネット禁欲(「してないじゃないか」という批判は絶えず)は、 ちょっとだけ解除。 

それで今日書いたことを読み直していたのですが、

「ぼくは、大学や神学校など学術機関の後ろ盾を持っていない市井の人間ですので」は、

「ぼくはインディーズ系の人間ですから」のほうが良かったなと反省中。

あ、でも、「インディーズ」の意味を知らなかったので、ググったら、

うおお、 「インディペンデント」のインディーだったのですね。なんか感動。

これを知ってしまったぼくは、

これからは堂々と 「インディーズ組織神学者」を名乗ろうかと思ってしまいました。

名乗りませんけどね。

紀要論文の初校が届きました


ある学会の紀要に掲載予定の拙論「A. A. ファン・ルーラーの神学思想の特質」の初校が、編集長経由で出版社から送られてきましたので、さっそく校正中です。 

やや恥ずかしい話ですが、ゲラが届くとほっとするのです。「あ、ホントに掲載してもらえるんだ」という実感がやっと湧いてきます。 

ぼくは、大学や神学校など学術機関の後ろ盾を持っていない市井の人間ですので、これまでに、自分で頼み込んで掲載してもらった論文が多くあり、掲載不許可の通知をいただいたことも何度かありました。 

骨のある編集長にも出会いました。某誌にぼくの論文が掲載されたあと、「なんであんなの載せたんだ」とクレームがあったそうですが、毅然と対応してくださいました。 

市井の人間は権力に弱いので、初校が届くと、ぼくごときの見解を採用する勇気をもってくださった編集長を「拝み」はしませんが(ぼくクリスチャンですので)「尊敬」します。 

編集長さま、ありがとうございます。