2013年10月13日日曜日

あなたの心にキリストが宿ります

ローマの信徒への手紙8・1~10

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。」

先週学んだ個所にパウロが描いているのは、彼の心の中の葛藤であると申し上げました。パウロが繰り返して書いている「わたし」という言葉は、抽象的な「人間」を指しているだけではなく、具体的な「パウロ」を含んでいると考えるべきです。

彼は自分の心の中に、互いに対立する二つの要素があることを見つけました。一つは「善をなそうという意志」(18節)です。そして、もう一つは彼の中に住みついた「罪」(20節)です。彼は善いことをしたいのです。そのような意志を持っています。悪いことをしたいわけではないのです。しかし、「望む善は行わず、望まない悪を行っている」(19節)。そのような弱さを持っていることを自覚し、激しい矛盾に苦しみ悶える思いを抱いているということを、正直に告白していました。

しかし、それではパウロはどうなってしまうのでしょうか。一生の間、矛盾を抱え、苦しみを感じながら、それをじっと耐えて生きていくだけでしょうか。人生に苦しみはつきものである。すべての人間は罪人である。それはわたしたちの運命であり、宿命である。わたしたちにできることは「人生は苦しいものだ」と悟ってあきらめることだけでしょうか。

そうではないとパウロは信じています。彼はあきらめていません。あきらめるどころか、パウロが続けて書いているのは、衝撃的な言葉です。

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(1節)。

何が言いたいのでしょうか。話は突然飛躍しているように思えます。直前までのパウロは、自分の罪深さを嘆き、葛藤に苦しんでいる様子を描いていました。しかし突如として、イエス・キリストに結ばれている人は罪に定められることがないと書いている。これはどういうことでしょうか。

理解のためのヒントになるのは、「従って」(1節)がかかっている範囲はどこまでかということです。7章1節以下の「結婚の比喩」までさかのぼることができそうです。あるいは6章1節以下に書かれている、わたしたちがイエス・キリストと結ばれるのは洗礼を受けることによってであるという話までさかのぼることもできそうです。

洗礼を受けている人は、イエス・キリストと結ばれているのです。その「結ばれる」ということの意味は、人間同士が結婚することとほとんど同じ意味でパウロは書いているということもすでに申し上げました。しかし、それは何一つ怪しげな意味はありません。イエス・キリストとわたしたちが共に生きることを意味しています。これがヒントです。

これが何のヒントになるのでしょうか。7章の終わりまでにパウロが書いていたことは、彼の心の中の葛藤です。しかし、葛藤しているのはパウロです。いわば独り相撲です。自分一人の心の中の堂々巡りです。しかし、イエス・キリストと結ばれている人は、孤立していません。それは、結婚が一人で生きることを意味しないのと同じです。彼はどれほど自分の心の中で葛藤し、独り相撲をとろうと、彼はもう独りではないのです。

もちろんわたしたちは結婚しても、家族があっても、まるで独りで生きているままであるかのように生きてしまう、そのような弱さや冷たさを持っています。けんかは絶えません。しかし、それでも結婚しているかぎり、独りではありません。

家族のだれかが葛藤に苦しみ、のたうちまわっているのを無視する家族があれば、それは鬼です。しかしイエス・キリストは鬼ではありません。わたしたちが苦しんでいるとき、わたしたちと結ばれ、共に生きてくださる救い主イエス・キリストがわたしたちをかばってくださり、抱きしめてくださり、助けてくださるのです。そのことにパウロは希望を見いだしているのです。

だから、ある意味でわたしたちは、イエス・キリストと結ばれた後も葛藤し続けることができるのです。苦しみ続けることができます。もしわたしたちを助けてくれる存在が不在であり、なにもかも自分でやり遂げなければならないとしたら、苦しくても寝込んでいる場合ではないのです。しかし、助けてくれる家族がいれば、安心して苦しむことができますし、安心して倒れ込むことができます。イエス・キリストと結ばれている人たちは、いわばそういう状態にあるのです。

しかし、いま申し上げたことは、たとえです。またこれは十分に納得していただけるたとえであるとは言えません。抽象的な話にとどまっています。わたしたちの現実の感覚とはずれるものだということも分かっているつもりです。しかし、いま申し上げていることは、今日の個所の初めにパウロが「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることがありません」と書いていることは、直前の個所に描かれている彼の罪の葛藤と苦悩の内容と矛盾するものではないということです。

どうして矛盾しないのでしょうか。罪の葛藤に苦しんでいるパウロを罪のないイエス・キリストがかばってくださるからです。そのことをパウロは次のような言葉で書いています。

「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」(2~4節)。

ここにパウロが書いていることは、さっと読んでぱっと理解できるような、易しい内容ではありません。非常に難しいことが書かれています。しかし、大事なポイントを申し上げておきます。

父なる神は、御子イエス・キリストを、わたしたちと同じ人間の肉をもつ存在として、この世界に派遣されました。しかし、イエス・キリストの肉とわたしたち人間の肉とは違いもあります。それは、わたしたちの肉には罪が練り込まれてしまい、もはや切り離すことができない状態になってしまっていますが、イエス・キリストのうちには罪はないという違いです。

その罪のないイエス・キリストの肉が、わたしたちの罪深い肉の代わりに犠牲の供え物として神にささげられることによって、わたしたちの肉が本当は受けなければならない罰をイエス・キリストの肉が代わりに受けてくださったとみなしていただき、神はそれ以上の罰を求められなかったのだ、という話です。

こんなふうに言っても、何のことかさっぱり分からないかもしれません。神さまがお定めになった律法の要求に基づく神御自身による取り立てに対して、すぐにすべてを支払うことができない状態のわたしたちの代わりにイエス・キリストが支払ってくださるのだという話であれば、少しはお分かりいただけるでしょうか。余計に分かりにくくなったでしょうか。

ここで疑問を持つ方がおられるかもしれません。それは、イエス・キリストが肩代わりしてくれるというようなことになると、イエス・キリストに結ばれている人たちはイエス・キリストにすっかり甘えてしまって、自分では約束を守らなくなってしまうのではないだろうかというような疑問です。

そうかもしれません。それでいいと開き直るつもりもありません。しかし、そのようなことを考えることがあるとしたら、それはわたしたちがまだ元気な証拠です。だれかに甘えるくらいなら、だれかに助けてもらうくらいなら、生きている意味はないと思えるのは、わたしたちがまだ元気な証拠です。わたしたちの中に、償いぐらい自分で働いて返すことができると思えるほど、力が残っているのです。

しかし、自分のすべてを失って、白旗を上げてギブアップする。「助けてください」と叫ぶ。支払いを待ってくださいと懇願する。そのときの哀れで惨めな思いを知っている人は、「働きがなくても、その信仰を義と認めてくださる」(4・5)神の恵みの意味を理解できると思います。寝たきりになり、自分では何もできなくなり、人に認められることも、人に喜んでもらえる奉仕も全くできなくなっても、それでもなお、自分の存在の意味と価値があると主張し続けてくださる神がおられるのだ、ということの意味を理解できると思います。

現実問題として、まだ守れていない約束があり、まだ果たせていない義務があり、まだ返すことができていない借金があるという場合には、わたしたちの心が穏やかになることはないでしょう。どうにもならない苦しみを毎日味わい続けることもあるでしょう。

そして、「イエス・キリストが共にいてくださる」と、教会の皆さんや牧師さんは言うけれども、それではいったいイエス・キリストというのはどこにいるのですか。具体的にそれはどういう意味なのですか。この教会の礼拝堂の中には十字架もありません。イエスさまはどこにおられるのですか。このようなことをわたしたちは何度となく考えこんでしまいます。私も考えます。これが答えだと言える正解はありません。

しかし、パウロが言っていることは、はっきりしています。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています」(9~10節)。

ここで「神の霊」と「キリストの霊」は、別々ではなく、同じ存在です。それは「聖霊」であり、聖霊とは(父なる)神とキリストとの霊です。パウロにとってイエス・キリストが共にいてくださるということは、神とキリストの霊である聖霊、わたしたちの心に宿ることを意味しています。わたしたちの心の中に、父なる神とイエス・キリストが宿ってくださるのです。

しかしそれは、心霊現象のようなこととは全く違います。聖書の学び、礼拝出席、教会生活の中で、イエス・キリストを知り、信じることによって、わたしたちの中にイエス・キリストの姿が鮮やかに描き出されるのです。そのことが聖霊の注ぎによって起こります。

そのような聖霊を与えられて生きることができるようになることが、わたしたちにとっての本当の救いであるということを、パウロは信じています。

(2013年10月13日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年10月12日土曜日

「第17回 カール・バルト研究会」報告


「第17回 カール・バルト研究会」終了しました。

テキストはカール・バルト『教義学要綱』(新教セミナーブック)の「9 天地」でした。

今日も大いに盛り上がりました。

カール・バルトの『教義学要綱』は、

その「序」でバルト本人が明かしているとおり、

書斎にこもって机の上で書かれた書物「ではなく」、

いくつかの主要命題だけを書いたレジュメを学生に配布して、

バルト本人もそれだけを見ながら

自由にしゃべりまくった「トークライブ」でした。

それを速記した学生がいて、バルトも若干手を加えて、本になった。

良く言えば、バルトのホンネが分かって面白い。

悪く言えば、

もうこれはどう考えても勢いだけで出ちゃった言葉(それを日本語で「出まかせ」と言います)だろう

としか言いようがない個所が、たくさんある。

支離滅裂、意味不明で「あ゛?」と声が出るほど飛躍した論理がある。

バルト自身もそのことが分かっていて、あえて出版したものだと明言しているので、

それがまたけっこう始末におえない。

「この個所に問題発言がある」と仮に指摘したとしても、

「あれはトークライブだからね(笑)」と逃げられちゃう可能性が高い。

でも、逆に考えれば、大いに真似るべき姿勢かもしれませんよね。

「あれはトークライブだからね(笑)」で全部通す。

「あれはFacebookだからね(笑)」とか

「あれはブログだからね(笑)」で全部通す。

うむ、バルト、おそるべし(笑)。

2013年10月11日金曜日

これはゲキブンです!

ぼくの「ぼく」呼称はネット上だけのことで、

ふだんはほとんどすべて「私」で通している関口です。

そんなぼくは、聖書学に関してはほとんど無知で、

18歳のとき学んだギリシア語はひどい成績だったし、

ヒブル語は勉強したことがない(あ、言っちゃった)ので、

太刀打ちできる根拠のカケラもフンマツもないです。

だけど、「組織神学」は、

エラそうな言い方をお許しいただけば、

「ライフワーク」だと思っています。

「関口康」から「組織神学」を引くと、残りはゼロ。

それくらいの関係性だと、誇張(こちょう)しておきます。

でもね、組織神学の需要が無いんですよね...。

今は、「聖書学全盛」の時代ですよね。

「聖書学は学問だけど、

 組織神学は特定宗教団体のプロパガンダにすぎない」

これはね、がんばるしかないですよ。

奮起せよ、組織神学。

これね、檄文ですからね。ゲキブンですよ。げ・き・ぶ・ん。

ファン・ルーラーのどこが面白いの?(第2回)

「ファン・ルーラーは面白い」ということを、どうすれば分かってもらえるか。それだけを考えながら思いつくままに書いています。面白ささえ伝われば本の需要が生まれるだろうと、中の人(ぼく)は単純に考えています。フォロワーが1000人になる頃には、立派な日本語版著作集が出版されていることでしょう。

前回は、ファン・ルーラーの「神律的相互関係」(theonomous reciprocity)の概念に辿り着いたのでした。それは、あくまでも「神」のイニシアチブ(主導権)が確保されつつ、「神から人へ」の(演繹の)ベクトルと「人から神へ」の(帰納の)ベクトルが不断の往復運動を続ける関係性を指しています。

というふうに書きますと、ファン・ルーラーがまるで抽象的な哲学思想を展開したかのように読まれてしまうかもしれませんが、決してそういうことではありません。伝統的な(改革派の)神学の言葉でいえば、「神から人へ」のベクトルの意味は「恩恵」であり、「人から神へ」のベクトルの意味は「感謝」です。

しかも、ファン・ルーラーにとって「恩恵」とは、途中のプロセスをすべて省略していきなり「神」と「私」の間で授受が行われるものではありません。三位一体論が発動します。神が世界を創造し、御子が世に遣わされ、聖霊が教会を立てる。教会が神の命を人に伝える。その全プロセスが「恩恵」です。

ファン・ルーラーにとって「恩恵」の全プロセスに含まれるのは、イスラエル史であり、キリスト教会(コルプス・クリスチ=キリストの体)の歴史であり、キリスト教国(コルプス・クリスチアーヌム=キリスト教の体)の歴史です。また、教会の説教、聖礼典、交わり、奉仕、教会会議などが含まれます。

このように書きますと、鋭い方はピンとくるものがあるでしょう。神から人への「恩恵」の全プロセスを見つめるファン・ルーラーの目に映っているのがイスラエル史であり、キリスト教会史であり、キリスト教国史であるならば、その中で決定的に重要な役割を果たす「人間」の姿が、見えていないはずがないのです。

歴史上の「偉人」の姿だけが見えている、という意味ではありません。ここはむしろ抽象化すべきです。神の恩恵の全プロセスの中で「人間」が決定的に重要な役割を果たす。その意味は、神は「人間を用いて」地上のみわざを行う、ということです。その意味で人間は「神の道具(インスツルメント)」です。

2013年10月10日木曜日

「ぼくはインディーズ系の人間ですから」に訂正します


拙論「A. A. ファン・ルーラーの神学思想の特質」は、

A5判で15頁ほどの短い論文ですので、さっさと校正終わらせて、

さきほど編集長宛てに、ゲラを封筒に入れて郵便局から送り返しました。

ほっと一息です。

ネット禁欲(「してないじゃないか」という批判は絶えず)は、 ちょっとだけ解除。 

それで今日書いたことを読み直していたのですが、

「ぼくは、大学や神学校など学術機関の後ろ盾を持っていない市井の人間ですので」は、

「ぼくはインディーズ系の人間ですから」のほうが良かったなと反省中。

あ、でも、「インディーズ」の意味を知らなかったので、ググったら、

うおお、 「インディペンデント」のインディーだったのですね。なんか感動。

これを知ってしまったぼくは、

これからは堂々と 「インディーズ組織神学者」を名乗ろうかと思ってしまいました。

名乗りませんけどね。

紀要論文の初校が届きました


ある学会の紀要に掲載予定の拙論「A. A. ファン・ルーラーの神学思想の特質」の初校が、編集長経由で出版社から送られてきましたので、さっそく校正中です。 

やや恥ずかしい話ですが、ゲラが届くとほっとするのです。「あ、ホントに掲載してもらえるんだ」という実感がやっと湧いてきます。 

ぼくは、大学や神学校など学術機関の後ろ盾を持っていない市井の人間ですので、これまでに、自分で頼み込んで掲載してもらった論文が多くあり、掲載不許可の通知をいただいたことも何度かありました。 

骨のある編集長にも出会いました。某誌にぼくの論文が掲載されたあと、「なんであんなの載せたんだ」とクレームがあったそうですが、毅然と対応してくださいました。 

市井の人間は権力に弱いので、初校が届くと、ぼくごときの見解を採用する勇気をもってくださった編集長を「拝み」はしませんが(ぼくクリスチャンですので)「尊敬」します。 

編集長さま、ありがとうございます。

2013年10月9日水曜日

「比較教義学」の問題点―同じ趣旨のことをノーマルモードで書いてみませんか

どなたのブログだったか忘れましたが、それほど前でもない頃に読んだ記憶があるのですが、自分の教団・教派に疑問や批判を持っている人や、かつて異端に属していた人にとっては「組織神学」は役に立つが、そうでない人にとってはそうでない、という旨の書き込みがあって、「なにそれ?」と思いました。

おっしゃりたいことの趣旨が全く理解できないとも思わないのですが、「組織神学」の意義ってその程度のものなのかなあ、とことん落ちぶれたもんだなあ、まあいいけど、と思った次第です。

この件のぼくの問題意識は「アンチ神学」の問題と直接関係しています。「そもそも神学は学問なのか」(学問ではないのではないか)という誹謗をどうかわすかの問題は横に置いといて、学問の本質を「批判」に見いだすことの正当性を十分評価しつつも、「批判だけなのか」という問いが、ぼくにはあります。

「混せず、変せず、分かたれず、離れず」のようにすべてを否定形で提示する神学のプレゼン方法も、あるといえばあります。「我々は保守ではなく、リベラルでもなく、日和見でもない。ならば我々は何か。保守でもなく、リベラルでも日和見でもない者である。」 ただの同語反復ですが、すべてを「否」で自己紹介する。

「否」ではなく、打ち消しの言葉ではなく、「我々はこれである」とポジティヴに自己紹介することがもっとできないものだろうかと、ぼくはしばしば考えこんでいます。

これはどこかに前にも書いたことがありますが、いくつかの教団・教派の神学書を並べて読むと、面白いことに気づかされます。改革派の(古い)本には、「我々は一方のカトリックの極端と、他方の再洗礼派の極端とを排した、中庸の道を歩んでいる」という旨、書かれていることがあります。

ルーテル教会の(古い)本には「我々は一方のカトリックの極端と、他方のカルヴァン主義の極端とを排した、中庸の道を歩んでいる」と書かれています。「我々はAでもないし、Bでもない」というプレゼンは、Aの人とBの人への当てこすりが必ず含まれているので、だいたいハナからケンカ腰の論述です。

「我々はAでもないし、Bでもない」というプレゼンの方法を好んで採用してきた時代の「組織神学」は、嫌われて当たり前です。学問というよりプロパガンダだ、と思われても仕方ないです。Google Earthが出る前の、紙の世界地図のように、自国を中心に描いて「世界の中心」を示しているだけです。

「我々はAでもないし、Bでもない」というプレゼン方法を採用したがる組織神学には、ヘーゲルの弁証法の影響を受けた時代の教会と神学から受け継いだ要素があるはずです。なにせ「正・反・合」ですからね。「我々はAの極端の弱点と、Bの極端の弱点の両方を克服した、最強の教団だ」と言いたいのです。

しかし、それってどうなんでしょうかと、今さらながら考え込んでしまうのです。他者(とりわけキリスト教界「内部」の他者)との比較においてのみ自分の優位性を主張できると思い込んでいるタイプの神学を持つ教団・教派。なんとなく見苦しいし、みっともない。なんで比較なんだろうと思ってしまいます。

「宗教学」は正確には「比較宗教学」(comparative religion)だと昔習いました。「我々はAでもないし、Bでもない」と比較と否定で自己提示する教義学は、いわば「比較教義学」(comparative Dogmatics)です。この表現はすでに用いられているようです。

それで、ぼくが言いたいことは何かといえば、今書いている意味での「比較教義学」は、どれほど緻密な研究や論述に支えられているとしても、「それは学問の衣を着たプロパガンダである」という批判に耐えられないのではないか、ということです。

「バトルモードでなければ文章を書くことができない(そうでなければ勢いがつかない)」という人は、牧師や神学者の中には多い気がするのですが(ぼくもそうかも)、「同じ趣旨のことをノーマルモードで書いてみませんか」と言いたくなることがあります。ケンカ腰の言葉ではなく、ポジティヴな言葉で。

人のやっていることにケチつけているときはものすごく饒舌である。しかし、「自分のやっていることをポジティヴに紹介してみなさい」と言われると、ほとんど何も言えなくなってしまう、というような状態では寂しいかぎりです。何かのアンチだけで生きているような人たちの結末は、寂しいものです。

「比較教義学」などは全く無価値であると言いたいのではありません。しかしそのような提示方法は、むしろ教理史のほうに近いものなのですから、「組織神学」というより「歴史神学」のカテゴリーです。「組織神学」と「歴史神学」は対立関係にはありませんが、それぞれ固有の役割がある別々の部門です。

そして「組織神学」は、ぼくの考えでは、もっと穏やかな学問です。自分の立場をポジティヴな言葉で精密に紹介することに向いている学問です。暗闇でナイフを振り回して、だれかれなく自分以外のすべての人に無差別に切りかかるようなやり方は「組織神学」にふさわしくありません。

2013年10月8日火曜日

ファン・ルーラーのどこが面白いの?(第1回)

「ファン・ルーラーのどこが面白いの?」とか「ファン・ルーラーの神学の特徴は一言でいうと何なの?」とか、よく聞かれます。そういう質問にサッと応えられるようになることが研究者の務めだと思うので、面倒くさがらずに応えてきたつもりです。でも、一言でいうのは難しいことですね。痛感します。

意外に思われるかもしれませんが、ファン・ルーラーの神学は、彼が所属した「オランダ改革派教会」の伝統的・古典的なそれでした。古いか新しいかと問われればたぶん「古い」ほうに近いと言えそうですし、派手か地味かでいえば「地味」のほうです。彼自身が流行を追いかけた形跡はないです。

ファン・ルーラーが勉強熱心で博学だったことは、確実です。欧州の伝統校、ユトレヒト大学の教授をつかまえて「博学でした」と評すること自体が失礼の極みなのですが、彼の家は「本で」立っていたと言われますし、読んだ本から得た膨大な情報は、カード式情報整理箱で管理していたりしました。

ファン・ルーラーは、ヒムナシウム(ギムナジウム)の時代は数学が得意でした。特に立体幾何が好きでした。また、後に大学教授になる友人ザイデマと一緒に、ヒムナシウム時代に(!)カントの純粋理性批判やジンメルの本を読んだりしていたほど哲学への強い関心を持っていました。

ファン・ルーラーが学んだフローニンゲン大学神学部に提出した卒業論文のテーマも、神学そのものではなく、哲学に関するものでした。ヘーゲル、トレルチ、キルケゴールの歴史哲学の研究をまとめて神学部を卒業しました。大学卒業後、トレルチについての博士論文を書こうとしましたが、それは挫折しました。

なぜファン・ルーラーがそれほどまでに哲学に関心を持っていたのかという問いに応えるのは容易ではありませんが、一つ思い当たるのは、とにかく彼が「政治」に関心を持っていた、ということです。「政治」の一般性は、狭義の「神学」の特殊な論理だけで解くことはできません。「哲学」がどうしても必要です。

このあたりで、事情通の方はピンとくるものがあると思います。ファン・ルーラーがオランダ改革派教会の人であったとすれば、彼の学生時代(1920年代)のオランダにはすでにアブラハム・カイパーとヘルマン・バーフィンクが築いた「新カルヴァン主義哲学」があったはずだ。それとの関係はどうなのか。

その問いに短くお応えしておきます。なんと驚くべきことに、ファン・ルーラーはヒムナシウム時代から、ということは、大学入学前からカイパーとバーフィンクの本を読んでいました。しかし、特にカイパーには終生満足しませんでした。「哲学」の一般性を装った「宣教」をしているだけだと見抜いていました。

「宣教」をすることが悪いと、ファン・ルーラーが考えたわけではありません。「哲学」の一般性を装い、外見上「中立」で「無私」であるかのように振る舞いながら、実は「宣教」でした、というカムフラージュ(偽装)がアンフェアであると、彼は考えました。むしろ、堂々と「宣教」すればいいのです。

ひるがえって今日の教会の状況を考えてみますと、「宣教」の方法に関する最近の流行でもある一つの傾向は、少なくとも外見上は「一般性、中立性、無私性」を装いながら人に近づき、そこから徐々に「キリストへと」導くというやり方です。それを「帰納的方法」(inductive method)と言います。

キリスト教宣教における「帰納的方法」は間違っていると、ぼくが言いたいわけではありません。「帰納的方法」は、今の時代の要請に基づいて生み出された方法です。それは従来の「演繹的な」宣教論に対する批判を内包しています。「押しつけがましさ」を嫌う現代人に「帰納的方法」は必要です。

しかし「帰納的方法」にはやはり問題があります。最大の問題は、「それは偽装ではないのか」という問いかけがあった場合、きちんと答えることが難しいのではないだろうかということです。「宣教目的があるなら、あると最初から言ってくれればよかったのに」と言われたとき、どう答えるのでしょうか。

もっとも、今書いているようなことは誰でも容易に気づくことであり、まして、誠実さを看板に掲げている教会は「偽装」の嫌疑をかけられることにはとても耐えられませんので、「帰納的方法」はあくまでも「演繹的方法」の補助ないし補完として位置づけているケースが、実際にはほとんどだと思います。

もう少し図式的に言い換えれば、今日「帰納的方法」を採用する教会でも、多くの場合「演繹的方法」を捨てたうえで「帰納的方法」を採用したわけでなく、両方同時に採用しているということです。演繹のベクトルと帰納のベクトルは正反対ですから、両方同時に採用することによって「往復運動」が起こるのです。

このあたりでファン・ルーラーに話を戻します。いま書いた意味の「往復運動」(英語でback-and-forth movement)をまさに重んじる神学を考えたのがファン・ルーラーであると申し上げておきます。それは「神の啓示」と「人間と世界の存在」の相互関係を問い続ける神学でした。

「相互関係」(英語でreciprocity)という語をファン・ルーラーは繰り返し用いましたが、「相互関係」と言う以上、「演繹のベクトル」(神から人へ)と「帰納のベクトル」(人から神へ)の両方を備えていなくてはなりません。一方通行ではなく、双方向性が確保されなくてはなりません。

ただし、「神」と「人間」は対等の関係ではなく、両者には無限の差があり、主と僕の関係でもありますので、単なる「相互関係」でもない。それは、あくまでも「神」の主権のもとにある「神律的相互関係」(theonomous reciprocity)であると、ファン・ルーラーは考えました。

2013年10月7日月曜日

「ファン・ルーラー著作集を実現する会」というツイッターのアカウント(@aaavanruler)を取得しました

まだ年末になっていませんので「自主規制中」ですが、「楽しいやりとりは禁欲する」という線を守りつつ、お知らせだけさせていただきます。

「ファン・ルーラー著作集を実現する会」という名前のツイッターのアカウント(@aavanruler)を取得しました。ぜひフォローをお願いします。

Dit is een mission impossible.

2013年10月6日日曜日

自分を見つめなおしてみませんか

ローマの信徒への手紙7・13~25

「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」

今日の個所にパウロが描いていることは、一言でいえば、彼自身の心の中での葛藤であると考えることができます。何度も繰り返されているのは「わたし」という言葉です。この「わたし」に抽象的な意味はなく、具体的なパウロ自身のことであると考えるのが自然です。パウロは自分の心をじっと見つめているのです。そして、その中にあるのは何なのかを、ありのままに描いているのです。

パウロが自分の心の中に見つけたものは大きく分けると二つです。一つは「善をなそうという意志」(18節)です。それが「ある」と言っています。

パウロは、善いことをしたいと願っているのです。悪いことをしたいと願っているわけではないのです。善いことをしたいのです。しかし、「それを実行できない」(18節)というのです。「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする」(15節)と書いています。「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(19節)とも書いています。

だから彼は「わたしは、自分のしていることが分かりません」(15節)という結論にたどり着きます。心と体がちぐはぐで、ばらばらの状態であることを、正直に告白しています。

そして、だからこそパウロは、自分の心の中に見いだすもう一つは「罪」であると言っているのです。「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(17節)。

しかしこれは、考えれば考えるほど問題に満ちた発言であることは間違いありません。なぜ問題に満ちているのでしょうか。罪を犯して誰かを傷つけてしまった人が「この罪は私が犯したのではなく、私の中に住んでいる罪が罪を犯したのである」と言ったとしても、そのような言い訳を誰が理解し、受け容れてくれるだろうかということを考えてみれば、この発言のどこに問題があるかをご理解いただけると思います。「私ではなく、私の中の罪が罪を犯したのだ」などと言おうものなら、「何をわけの分からないことを言っているのか。あなたがやったんだろう」と言われるだけでしょう。支離滅裂の苦しい弁明でしかないと言われても仕方がありません。

しかし、そのことはパウロ自身もよく分かっています。自分が支離滅裂なことを書いているということをはっきり自覚しています。だからこそ彼は、とても苦しんでいます。深く激しく葛藤しています。しかし、自分が書いていることがめちゃくちゃであることをはっきり自覚したうえで、それでも彼が声を大にして主張したいと願っているに違いないことは、このわたしの心の中に「善をなそうという意志」はあるのだ、あるのだ、ということです。

彼は善いことをしたいのであって、罪を犯したいわけではないのです。罪を犯せばどういうことになるのかを知っているからです。それは、死ぬということです。罪の支払う報酬は死です。罪の先に待っているのは、地獄の恐怖と苦しみです。罪を犯して、まんまと大金をせしめた、人を出し抜いた。それで幸せになる人はいないのです。

そのことをパウロは、律法を通して学んできました。律法とは聖書です。罪を犯してはいけないということは、パウロにとっては聖書を通して子どもの頃から教えられてきたことでもあります。彼は聖書のみことばを専門的に研究してきた人でもあり、人に教える立場にあった人でもあります。

しかし、そのことと、彼自身が罪を犯してしまう弱さや欠けを持っているということとは別問題であると、彼は自覚しています。聖書のみことばをよく学び、よく知っていることと、聖書のみことばを生きることとは、必ずしも一致しないのです。

どちらのほうが大切かという議論を、私自身はパウロの中に見たことはありません。そういうことは考えない人だったのではないかと思っています。わたしたちが考えれば、だいたいのところ、聖書を一生懸命勉強するばかりで行いが伴わない人になるよりも、聖書の勉強はそこそこにして、そんなことよりも罪を犯さない正しい生き方を貫く人になるほうが善いに決まっている、というような結論に至るのではないかと思います。しかし、パウロにはそういうたぐいの議論に積極的に乗ろうとする様子は見られません。聖書を勉強することは大事なことです。知識があることは悪いことではありません。

そして、今日の個所にパウロが書いていることは、最初に申し上げたとおりパウロ自身の心の中での葛藤を描いたものであると考えることができますが、しかしそれは彼だけの話ではなく、すべての人に当てはまることであると彼が考えていることも明らかです。聖書を勉強するかしないかという問題は、その人が罪を犯すか犯さないかということと、必ずしもぴったり結びつかない面があります。そうであるならば、聖書を勉強すること自体は罪ではないのです。

そのことをパウロは述べています。「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない」(13節)。「善いもの」とは律法であり、聖書です。聖書を学ぶことは罪なのか、そんなことはありえないと言っているのです。

しかしまた、そのパウロは、聖書をよく学んでいる人と聖書を学んでいない人の違いを知っています。それは、「これが神の御心である。これが正しい生き方である」ということを聖書を通して知らされていればいるほど、その善悪の基準と自分自身の姿を照らし合わせてみると、自分はいかにその基準から遠い生き方をしているかを知っているか、知らないかの違いであるということです。短く言えば、自分の中に罪があることについて、葛藤したことがあるか、したことがないか、の違いです。

だから、教会に来ると苦しくなる、という人がいるかもしれないとしても、それはある意味で当然のことでもあるのです。それは、わたしたちが病院に行って、医師の目で診てもらって、「ここに病気がある」と指摘されると、自分がまだ自覚していなかったところまで知ってしまってがっかりすることがあるのと似ています。レントゲンや超音波で調べられると人間の目では見えないところまで見えてしまいます。

だから病院には行かないという選択肢も、わたしたちにはありうると思います。すべてが見えてもそのすべてを治せるわけではないからです。ある意味で、という断り書きを付けておきますが、「ここに病気がある」ということをはっきりと自覚したうえで、その病気とうまく付き合いながら生きていくということも、わたしたちにはありうると思うのです。切って開いてそれを取り除くことができる病気と、できない病気があるからです。

それでは罪の場合はどうなのか、ということを、よく考えてみなければなりません。聖書を学ぶと「ここに罪がある」とはっきり自覚させられる面があります。それは「罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです」(13節)とパウロが書いているとおりです。しかし、それでは「ここに罪がある」と指摘された人は、その罪をただちに取り除くことができるのかというと、そうではないとパウロは言っているのです。

「わたしではなく、わたしの中に住んでいる罪」が罪を犯しているのだ、と彼が言っていることの意図は、このわたし自身と、「わたしの中に住んでいる罪」とは別々のものではあるのだけれども(なぜなら、このわたしの中に「善をなそうという意志」はあるのだから)、しかし、両者はからみあい、混ざり合っているので、どこからは自分で、どこからは罪なのかを区別できないほどの状態になっているのだ。だから、それは完全に取り除くことはできないのだ、ということです。

「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」(21節以下)とパウロは書いています。これもみな同じことの繰り返しです。善人としての自分と、悪人としての自分との区別がつかない。切り離すことができない。まるで多重人格者のようだ。

これは、わたしたちにとって慰めになることでしょうか、それともがっかりするばかりでしょうか。パウロは「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と、まるで絶望の叫びのようなことまで書いています。

しかし、彼は絶望していません。むしろ希望に満ちています。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(25節)と、感謝の言葉さえ述べています。

パウロは絶望してはいません。なぜでしょうか。彼にとって救いとは、自分の中の罪の部分が完全に取り除かれることを意味していないからです。

救われるとは、完璧に清い人間になることではありません。むしろ、自分には救い主が必要であると自覚し、その救い主に助けてもらうことが救いです。自分の力で何とかしろ、すべては自己責任であるとは言っていません。自分には助けが必要である、それほどに弱い人間であると自覚し、助けてもらうことが救いです。パウロはそのことを言いたいのです。

(2013年10月6日、松戸小金原教会主日礼拝)