2013年8月4日日曜日

苦労のない人生は存在しません


ローマの信徒への手紙5・1~5

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

「わたしたちは信仰によって義とされた」とパウロは書いています。

「義とされる」とは、繰り返し申し上げてきましたように、神と人間との関係が本来の正常な関係へと回復されるという意味です。正常の反対は異常です。ノーマルの反対はアブノーマルです。神と人間の関係がノーマルであるとは、最初に神が天と地、そして人間を創造されたときの状態のことです。はじめに、神はすべてのものをお造りになり、そして人間をお造りにもなり、それらすべてをご覧になって「極めて良い」とお喜びになりました(創世記1・31)。ですから、神と世界、また神と人間との最初の関係は「極めて良い」ものであったというのが聖書の思想です。

それは良好な関係であり、互いに笑顔で接し合うことができる、まさに友好な関係でした。それはフレンドシップ(友達関係)であると考えてもよいものです。神と人間の関係を友達関係だというのはおこがましいとお感じになるかもしれません。しかし、これは私が発明した考え方ではなく、改革派教会の伝統にかなっています。

私は説教で神学の話をすることはめったにありませんので、唐突な印象を与えてしまうかもしれませんが、今日は少しだけお許しください。神と人間の本来の関係を「フレンドシップ」と呼んだのは、17世紀のオランダで活躍したヨハネス・コクツェーユスという神学者です。このコクツェーユスの神学思想は、今日の改革派神学の中で非常に注目されています。

しかし、その良好な関係、神と人間との間のフレンドシップ(友好関係)が、人間側の罪によって壊れてしまいました。人間は神に背を向け、無視して、反抗的な態度をとりました。それが罪です。罪の結果は神との友好関係が壊れ、神を遠く感じるようになり、敷居が高くなってしまったことです。

これから申し上げることはあくまでもたとえですが、わたしたちが窓の外から部屋の中をのぞくと、神の姿が見える。しかし、なんとなく怒っておられる気がする。私のことなど全く関係ないし、興味もないし、こちらから話しかけてもそっけない態度をとられてしまうのではないかという気がする。そうすると、こちらとしても神のことがますます憎らしくなり、嫌になる。自分とは関係ない存在であると心の中で整理をつけて、神のことなどはできるだけ考えないようにする。それが、罪を犯して神から離れているときの人間の状態です。

しかしそれは、聖書の見方からすれば、神と人間のノーマルな関係ではなく、アブノーマルな関係、異常な関係、壊れた関係、倒錯した関係であると言わざるをえません。神はなにも、その人のことをお嫌いになったわけではないのです。神のもとに戻って来て、神の愛を受け入れ、フレンドシップを取り戻したいという願いを持っている人ならばだれでも、神は受け容れてくださるのです。それが、今日の個所にパウロが書いている「義としてくださる」という言葉の意味です。

そして、それは「信仰によって」実現すると、パウロは書いています。この意味の「信仰」は信頼であるということも、繰り返し申し上げてきました。神を信頼することです。

窓の外から見える神のお姿は、この私に対して腹を立てておられるように見えるかもしれません。しかし、窓の外ではなく中に入っていき、顔と顔を合わせて出会うならば、実際には少しも腹を立てておらず、笑顔で接してくださる方であるということが分かるでしょう。しかし、わたしたちは実際にはまだ中まで入ることができないで、窓の外をうろついたままかもしれません。しかし、そのとき神は窓を開けてくださり、「中に入っておいで」と笑顔で呼びかけてくださる。そして、扉を開けて、外まで出てきてくださり、わたしたちの手をつかんで招き入れてくださる。神とはそういう方であるということを信頼することです。それが「信仰」です。「信仰によって義とされる」とはそのようなことです。

ただし、そのとき扉を開けて、外に出てきてくださり、わたしたちの前に立ってくださり、わたしたちの手をつかんで家の中まで招き入れてくださるご存在は、神の御子であられるイエス・キリストであるということを、パウロは説明しています。

「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得る」(1節)とは、そのようなことです。イエス・キリストがおられなければ、わたしたちと神との間の平和はありません。この意味での「平和」とは和解です。人間は罪を犯した時点で神との関係が一度は完全に壊れてしまいましたので、仲直りする必要があります。和解が必要なのです。イエス・キリストは父なる神とわたしたち人間との間に立つ仲保者になってくださり、わたしたちの身代わりに犠牲の供え物になってくださることによって、父なる神の怒りを宥めてくださったのです。

「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(2節)とパウロは続けます。この中でとくに重要な言葉は「神の栄光にあずかる希望を誇りにする」です。わたしたちにとって神との良好で友好な関係が回復されるならば、そこに希望がある、ということです。神はこの私のことを信頼してくださり、喜んで受け容れてくださっている。そのことを信じることができれば、わたしたちは絶望しなくて済むのです。

なぜそうなのでしょうか。わたしたちは自分が不幸な目に遭い、悩み苦しみ、落ち込むときには、私などこの地上に生まれなければよかった、存在しなければよかった、というようなことまで、考えはじめてしまうからです。このことは、ある意味で、神の存在を全く知らなかったときには、考えもしなかったことかもしれません。しかし、生まれて初めて教会に来て、聖書を開く。そこには、神がこの世界と人間をお造りになったという話が書かれている。それは分かった。しかし、もしそうだというならば、なぜ私はこんなに不幸な目に遭っているのかと、そのとき初めて考えはじめるのです。神はこの私を不幸な存在にお造りになったのだろうか。神は私を、苦しめ、いじめるためにお造りになったということだろうか、などと考えはじめてしまいます。

しかし、そうではない、そうではないのだと、わたしたちが自分自身に言い聞かせることができるようになるのは、イエス・キリストによってわたしたちが神との関係において和解されたのだという信仰が与えられたときです。わたしたちの不幸も苦しみも、神がわたしたちを憎んでおられ、苦しめ、いじめるために与えられたものではなく、神がわたしたちに希望を与えてくださるためだったのだと信じることができるようになるのは、イエス・キリストのお陰なのです。

「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(3節)とパウロは続けます。これは信仰についてだけではなく、いろいろなことに当てはまります。スポーツについても、楽器の演奏についても、仕事上の技術や技能についても、あるいは人生の歩みについても、同じことが当てはまります。

「苦難」とは、練習を始めたばかりの頃に味わう苦労です。最初はへたくそ。先生に叱られてばかり。もうやめようかと、何度となく投げ出したくなる状態です。しかし、そこを我慢して訓練や練習を続けていくと、少しずつ少しずつ上手になっていきます。その我慢が「忍耐」です。そして少しずつ上手になっていくことが「練達」です。

「練達」という日本語の意味は「熟練して精通すること。物事に慣れて奥義に達していること」であると広辞苑に書いていました。パウロが用いている原語(ギリシア語ドキメー)の意味は「試験によって立派に証明された品格」(玉川直重 新約聖書ギリシア語辞典)です。スポーツや楽器や仕事の技術や技巧の上達もさることながら、人間として人格的に成長した姿です。その意味での「練達」の境地に達することによって、わたしたちに真の「希望」が与えられるのです。

このようにパウロが書いていることは、別の言い方をすれば、わたしたちが自分の人生を軽く考えないで、日々自分に与えられた務めと仕事に正面から向き合って、コツコツと努力をすることと同じであると考えることが可能です。努力しないで勉強ができる人はいません。努力しないでスポーツや音楽や仕事で成功することはできません。これは当たり前の話です。

プロフェッショナルと呼ばれる人のしていることをアマチュアの人が見ると、だれでもできそうなほど簡単なことをしているように見えるものです。しかし、それがプロの仕事です。だれでも簡単にできることのように見えるほどに熟練しているからこそプロなのです。そうなるまでに「苦難」があり、「忍耐」があります。しかし、自分が苦労している部分を、プロの人は他の人には見せません。黙って、部屋に一人でこもり、歯をくいしばり、血の汗を流しながら、練習し続けるのです。

それは、わたしたちの信仰生活、教会生活においても同じです。教会に通い始めた最初の日から、聖書の内容を全部知っているという人はいません。何をどのように理解すればよいのかは、最初から分かるわけではありません。

「お祈りが苦手です。讃美歌が苦手です。そもそも、毎週日曜日に教会に通う意味が分かりません」。

そのようにお感じになる方がおられるのは当然です。最初からすべてのことに精通しているなら、教会も牧師も必要ありません。教会には卒業式はありませんので、学校とは違いますが、似ているところもあります。すべてのことはだんだん分かって来るものなのです。そこにわたしたちの苦労や努力の意味があります。

しかし、パウロは、そのような苦労、苦難や忍耐が、わたしたちと神との間の良好で友好な関係を回復すると言っているわけではありません。もしそういうふうに言うのであれば、「わたしたちは信仰によって義とされる」という教えは無意味です。結局、人は努力と業績によって救われるという教えであるかのようになってしまいます。

パウロが言いたいことはそういうことではありません。順序が逆です。わたしたちは、自分が苦労して、必死にがんばることによって、神へと至り、救いへと到達するのではありません。神のほうが先にわたしたちを受け容れてくださり、愛してくださり、助けてくださることによって、自分に与えられている苦しみの意味を見出し、絶望しないで前進することができるようになるのです。

人生も同じです。苦労のない人生は存在しません。赤ちゃんの頃はすべてのことを親がしてくれるかもしれませんが、いつまでもそうであるわけにはいきません。自分の足で立ち、自分の頭で考えて発言し、行動しなければなりません。そのときわたしたちに神が必要になります。神の助けと支えが必要になります。

(2013年8月4日、松戸小金原教会主日礼拝)

ヒラヒラかわすのは得意かも

もう眠いのでナニも考えられない状態なのですが

書かずにはおれない気持ちです。

自慢じゃないですが、ぼくはこの年齢になるまで

つかみ合いの喧嘩って、したことがないです。

売られたこともない。

喧嘩、弱いのにね。筋肉無いし。

殴ったことも、殴られたこともない。

勝ったこともないけど、負けたこともない。

ぼくをコワモテと思う人はたぶんいないけど

喧嘩する気にはなれないのかも。

のれんだし、ヌカだし。ヤナギかな。

柔道やってたことがあると書きました。

「柔よく剛を制す」

足は遅いけど、ヒラヒラかわすのは得意かも。

ぼくを嫌いな人は多いかもしれませんけど

ぼくに恨みを持っている人は、いないんじゃないかな。

恨まれるようなことしないもん。

かすりもしない人間を、だれが恨むのよ。

ナニを言いたいんでしょうね、ぼく。

ねます。もうダメ。

2013年8月3日土曜日

いまの「権力者」の最大の誤算(かもしれないの)は、 彼らの脅迫や恫喝がゼンゼンこわくないことです


幹事長の「軍法会議に逆らったら死刑」発言も、

副総理の「ナチスの手口に見習え」発言も、

報道が英雄的なリークをしているのか、

それとも与党と報道が結託して「小出し」にしているだけなのか、

たぶんどちらかですね。

ぼくは今回の「ナチス発言」については、

テレビもツイッターも、なるべく追っかけないようにしています。

発言された事柄そのものは何だったのかを、

書かれたテキストを読んで考えています。

純粋に「反与党ビジネス」を営む職業的政治家たちの発言を見聞きしては

一喜一憂するのも、体に毒です。

ともかく、もう少し様子を見ましょう。

だれがナチスを手本にしようと、

どんな権力が暴走しようと、

今の日本がオートマティックにナチス化していくわけではありません。

そういう「脳内の三段論法」は棄てる必要があります。

歴史は繰り返しませんよ。人間には学ぶ力があるんですから。

いまの「権力者」の最大の誤算(かもしれないの)は、

彼らの脅迫や恫喝がゼンゼンこわくないことです。

中学生たちあたりまでネットでネタにして笑ってますよ。

落ち着いてください。大丈夫ですから。

美味しいざるそばでも食べて、セミの鳴き声を聴きながら過ごす

夏の昼下がりを楽しむのもいいですよ。

一般市民にバカにされるような作文しかできない人たちをどうしたら尊敬できるのか

でも、なんかちょっと面白い...というのは不適切な言い方ですけど、

「実に興味深い」というか何というかなのは、

橋下さんの暴言だか失言だかも、あれで全く無問題で通るわけでもなく、

それなりのダメージが、あの人自身や党にあった、ということですよね。

正直それは意外でした。

「へえ、ダメージあったんだ」と微笑できるものがありました。

「軍法会議に逆らったら死刑」「ナチスの手口に見習え」

こういうのを、

発言者自身の瞬間的な思いつきが、口からほとばしり出たと考えるか、

熟議するシンクタンクの徹底的な推敲を経たシナリオの朗読と考えるか。

後者だろうと思っていたのですが、どうもそうでもなさそうな気もする。

いずれにせよ、

いま「権力」の座を掌握している人たちが

(作文を朗読する人も、シンクタンクも)

一般市民にバカにされるような作文しかできない人たちであることは、

どうやら確からしい。

だれも尊敬してないよ。ていうか、尊敬できないよ。そんなんでは。

大丈夫なのか、おい。

言わずもがなですが、

東大や早慶出たから尊敬されるんじゃないですよ。

ちゃんとした日本語を書けるかどうか、だと思うけどね、ぼくは。

2013年8月2日金曜日

ほとんど「犯行予告」のようにしか、ぼくには思えないんですけどね

どうも腑に落ちないというか、分かんないのは、

前に書いたことのほとんど繰り返しなのですが、

「軍法会議に逆らったら死刑」とか「ナチスの手口に見習え」とか、

そういう言葉をうれしそうに聞いて心から感謝して支持する、みたいな人が

今の日本にどれくらいいるんだろうか、

そんなに多くないんじゃないだろうか、

ということなのですが、

ぼくの見立てが誤っているだけかもしれません。

しかし、もしぼくの見方が間違っていないとしたら、

このたびの副総理の「ナチス発言」も、

国民感情を”意図的に”逆なでするものですよね。

分かってて言ってる。失言じゃないですよ。周りもゲヘゲヘ下卑た笑い方だし。

「炎上政治」かな。不快ですね。

ナチスに憧れがあるんだか、なんなんだか知りませんが、

「過去の犯罪政党の手口に見習え」と煽る与党ナンバーツーさんの「ナチス発言」は

ほとんど「犯行予告」のようにしか、

ぼくには思えないんですけどね。

こんなことブツブツ言ってても仕方ないんだけど。

2013年8月1日木曜日

「鍵」が壊れている今の教会に「権威ある真理」を求められても、そりゃ無理な話ですよ

ぼくは

「信教の自由」を”信じて”いるとか「民主主義の原則」を”信じて”いるわけではなくて、

「神」を”信じて”いるわけですけど、

近代以降の民主化というか個人主義化というかは歴史の不可逆進行だと思うので、

いま「教会」に「権威ある真理」を求められても、「そりゃ無理だ」と答えざるをえません。

いま書いている意味の「権威ある真理」とは、

「キリスト者とはこうあるべき」ということを

全キリスト教会が異存なく納得できる言説と行動の規範のようなもの

を想定しているつもりです。

「教会」が「権威ある真理」なるものを語ろうものなら、バカを見るような目で見られる時代に

(ていうか、そういうことができると思っている時点で相当バカだし)

何が悲しくて、そういうことを言っているふりができる「教養ある教会」があるのよと、ぼくは思う。

それでも「教会」が

そういう何か(「権威ある真理」なるものの断片)を必死で守ろうと努力していても、

教会に与えられていると言われる「鍵の権能」なるものがメタメタに壊れていて、

完全に出入り自由な、セキュリティゼロの状態になっているわけで、守るべきものを守れない。

どうしようもないですよ。

「鍵の務め」ないし「鍵の権能」については、

ハイデルベルク信仰問答の第82問の答えに書かれている言葉の意味で用いています。

「民主主義」の中で「教会」という建物と組織を乗っ取るのは簡単ですよ。

多数でおしかけて、聖書の話より自分の身の上話で盛り上がって、

気に入らないことがあれば聖書と牧師を容赦なく批判して、

多数決で勝てば、建物と組織はその人たちのものになる。

「そんなの教会じゃない」とか言っても後の祭り。

牧師と年配信者が「共依存関係」にあるのは、これどうしたらいいんですかね。

牧師にも家庭があったり、生活があったりするんで、

しっかり献金してくださる方々を「優先」する思いは無くても、

その人たちを怒らせてしまったら困るとは思う。

教会の「鍵」が壊れていて、出入り自由になってしまっているんで。

日本の神学者とかキリスト教学者とか名乗る人たちが、

教会のことを「ヴォランタリー・アソシエイション」だとかのたまわったときは、

正直こけそうになりました。

「自発的」(ヴォランタリー)に集まる集団なんだから、

そりゃ「出入り自由」だと勘違いする人、続出しますわね。

ぼくが言いたいことは、

「戒規」という制度を持っているかどうかということよりも、それが「壊れている」ことの問題です。

どの教団・教派には戒規制度があるが、それが無い教団・教派もある、という話ではありません。

全キリスト教会に「鍵の権能」は与えられているのです。

急に不機嫌ぽい書きっぷりですいません。

べつに何かあったというわけではなくて、20数年の積年の思いが出てきた感じです。

これは愚痴というより、厳粛なる抗議です。

だけど、この抗議文を送るべき宛て先が分からない。

「民主主義の皆さまへ」でしょうか。

そんなバカな抗議文もないので、書いては捨て、書いては捨てのボツ稿です。

2013年7月27日土曜日

論文、完成しました


かれこれ一年くらい前から大騒ぎしてきた論文が、今朝やっと完成し、編集の方にお送りしました。

初めての投稿先です。しかし、ぼくからの持ち込み原稿ではなく、先方からオファーをいただきました。

神学部や神学校の紀要ではなく、一般向けの学術誌です。

ひとつ肩の荷がおりて、地味にほっとしています。

2013年7月25日木曜日

目標(ゴール)が定まれば、「逆算」が可能になる


予備校講師の「いつやるの?今でしょ!」もそうですが

他の学習塾・予備校の同種のCMも、その主旨は「逆算」でしたよね。

目標(ゴール)または目的(パーパス)が定まれば

そこから「逆算」して、いまやらねばならないことは何かが分かる。

ぼくの話で恐縮ですけどね、

時々「ぶれないやつだ(良くも悪しくも)」と言ってもらえたりするのは

目標(ゴール)だけは(「だけは」ね)はっきりしているからです。

ぼくの目標(ゴール)は

「○○○・○○○○著作集の出版」、じゃないですよ。それは手段。

でも、抽象的なことではないです。

「抽象的」とか言うと怒られるかもしれませんが

「一千万救霊!」とかいう感じのスローガンやイデオロギーではない。

「どうせ最後は天国だ」みたいな、途中のプロセスをすっとばかした話でもない。

もっと身近で、実現可能なことです。でも、自己目的的なことではない。

目標(ゴール)が定まれば、「逆算」が可能になる。

それは、ほんとのことですよ。「今でしょ!」の兄さんの言うとおりだ。

2013年7月24日水曜日

ぼくの意図の中心は「いかにカネを使わずに政治に関与するか」です

ブログにぼくが

「職業的政治家と、共依存の関係にある資産家たち『よりも』幸せな生き方を提示すること」

と書いたことについて、

「でも、それって政治的無関心を援護し助長しませんか?」

とご質問をいただきましたので、下記のようにお応えしました。

「答えになっていない」と思われるかもしれない内容であることは自覚しておりますが、

“言葉を濁している”結果であると申し上げておきます。

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擁護も助長もしません。

言葉を選びながら書きますが、

「職業的政治家」と「共依存の関係にある資産家たち」とぼくが書いているとき、

今の与党関係者だけのことを考えていません。

与党に対する永遠のアンチであることを「職業」とする人たちのことも含めています。

「不安ビジネス」のようなもので人やカネを集めようとする人たちのことも含めています。

これ以上のことは今は書かないでおきますが、

「政治的関心」を煽るビジネスもあるので、

そういうのにも気をつけなければ丸裸にされてしまうと、ぼくは考えています。

しかし、先生がお書きくださったような疑問は、ぼくも自分で文章を書いているときから、

「出てくるだろうな」と予想していましたので「やっぱり出たか」という気持ちです。

ありがとうございます。

話は飛躍しますが、

ぼくはファン・ルーラーという神学者が語った命題、

「共産主義はキリスト教よりもブルジョア的である」を、

おかしくて腹を抱えながら受け容れているものです。

共産党をことさらに敵視する意図はぼくにはありませんが、

左翼は左翼で「左翼ビジネス」のようなものがあるのだと思っています。

教会は例外だと言いたいのではありません。

教会だってすぐにでも

「不安ビジネス」「救済ビジネス」「結婚式ビジネス」「葬式ビジネス」をやりはじめます。

「何が悪いんだよ」と開き直る向きも少なからずあるのかもしれませんが、

やってることは「彼ら」と同じだという自覚があるかどうかで、

救いようがあるかどうかが決まるのだと思います。

そして、ぼくが言いたかったことの最初からの最も重要なポイントは

「政治のシロウトである者たちは、いかにカネを使わずに政治に関与するか」であり、

「人とカネを使って権力を掌握する『よりも』幸せな生き方があることを、どうしたら提示しうるか」

ということにあります。

「そんなのは無い」と言ってしまった時点で、我々の負けです。

「ある」と言い続けなくちゃ、希望も救いもありません。

2013年7月23日火曜日

職業的政治家と、共依存の関係にある資産家たち「よりも」幸せな生き方を提示すること


「国民主権」であるとはいえ、ぼくらが政治のシロウトであることは間違いないわけで、

職業的政治家とがっぷり四つに組んだら負ける。

そのために注ぎ込む人とカネの使い方が違うわけですし。

だったら直接対峙したりすべきでない。

職業的政治家と、共依存の関係にある資産家たち「よりも」幸せな生き方を提示すること。

それだけが突破口ではないだろうかと、夜遅い時間に考えこんでいました。

学校が夏休みに入り、デカイ子どもがうちにいることは、親としてはちょっと安心だったりします。

早起きして朝食作ったりしてやらなくて済むし。

そういう精神的余裕からでしょうか、家の中の片付けもわりとできる。

あ、でも、今朝は掃除はりきりすぎて、もう疲れちゃった。すぐバッテリー切れるスマホみたいだ。

ぽんこつ47歳。ぼくはガラケーですけどね。

今日の午後は「東関東中会設立10周年委員会」(於 船橋高根教会)に出席してきました。

伝道の熱情がわき上がりました。