2013年6月21日金曜日

立教大学でのゲスト講義が来週に迫りました

本番まで一週間を切ったので、そろそろ告知します。

来週6月27日(木)と再来週7月4日(木)の

いずれも午後3時から、

立教大学(池袋キャンパス)で

鈴木昇司先生(立教大学)の講義シリーズ

「キリスト教の歩み〈宗教改革 その起源と影響〉」の

ゲストスピーカーとして

ぼくが講義させていただくことになりました。

立教大学の教養課程(宗教)の講義であるとのことで、

「文学部キリスト教学科」の学生さんたちだけではなく

いろんな学部・いろんな学年から集まるそうで

200人教室で行われている、とのことです。

ぼくは大学の教養課程どころか、

神学部・神学大学・神学校の講義すら、

いまだかつて行ったことがありません(招いてもらえません)ので、

47歳にもなっての未体験ゾーンへの突入を前にして、

今から緊張しまくっています。

そんな情けないぼくのために、お祈りください。

それだけで、しもべは満足です。

どうかよろしくお願いいたします。

立教大学講義「キリスト教の歩み〈宗教改革 その起源と影響〉」
http://wwwj.rikkyo.ac.jp/kyomu/gakubu/00zen/F00/006_0_1.html

2013年6月19日水曜日

教会堂で二つの小さな工事を行いました


これは教会堂の一階と二階をつなぐ「L型階段」です。

新会堂建築(2000年)以来、今まではなぜか外回りだけに手すりが付いていたのですが、「内回りにも手すりを付けてほしい」という要望がご高齢の教会員から出されましたので、取り付けました。

ずっと前から付いていたかのように馴染んでいます。

プロの仕事、さすがです。ありがとうございました。


これは教会堂の外側の非常階段です。

このたび頑丈な「門扉」を取り付けました。これまではありませんでした。

しょっちゅうというわけではありませんでしたが、たまに近所の子どもが、管理人(ぼく)が留守にしている間に、この非常階段を上り下りして遊んでいるのを見ました。

対策を考えていたところ、「門扉をつけましょう」という名案を出してくださった教会員がおられましたので、実現しました。

また、その名案を出してくださった方が「そのための献金は惜しみません」と教会の月報の投稿記事で明言してくださいました。

日本のほとんどの教会同様、わたしたちの教会には公的助成や他からの援助はなく、すべて教会員の献金で運営されていますので、とてもありがたいお言葉でした。

少しずつであっても教会の設備が整っていくのは感謝なことです。

ありがとうございます!

2013年6月16日日曜日

わたしたちの体は自分の思うように動きません


ローマの信徒への手紙3・9~20

「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。』さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」

今日もローマの信徒への手紙を開いていただきました。この手紙の1章18節から今日お読みしました3章20節までの個所にパウロが書いていることのほとんどすべては、わたしたち人間はとにかくひたすら罪人である、ということです。それ以外のことは言っていないと断言できるほどです。

ユダヤ人がどうした、異邦人がどうした、という話は出てきました。しかし、それらの話題の結論は、わたしたち人間はとにかくひたすら罪人であるということに尽きます。

最初に少し、これまでのおさらいをしておきます。「ユダヤ人」と「異邦人」の区別は、聖書の御言葉を神からゆだねられているかどうかという点にあります。幼い頃から聖書を学んできた人のことを「ユダヤ人」と言い、そうでない人のことを「異邦人」と言うのです。

聖書を学んだことがない異邦人は、神の御心は何であるかということを、聖書という書物を通して、その中に書かれている文字を通して確認したことがあるわけではないので、それはある意味で、神の御心など全く知る由もないという立場にあると言ってもほとんど間違いないわけです。

しかし、パウロはその異邦人に対しても、厳しい態度をとります。聖書を読んだことがなくても、神の御心を書かれた文字で確認したことがなくても、わたしたち人間は神から良心を与えられているので、たとえおぼろげではあっても善悪の判断くらいできる、とパウロは主張します。聖書を読んだことがないから、神の御心など知らないから、だから善悪の判断ができなかった。私は知らないうちに罪を犯してしまいましたなどという弁解は全く成り立ちようがない、と言っているのです。

聖書を読んだことがない異邦人に対してさえこれだけ厳しいのですから、聖書をいつも学んでいるユダヤ人に対しては、パウロは容赦ありません。聖書を知っている人たちに、善悪の判断ができないはずがないからです。それなのに、彼らは罪を犯し続けている。彼らは、知らないうちに罪を犯しているのではなくて、それがいかに罪深いことであるかを十分に知った上で、あえてその垣根を越えて罪を犯している。「確信犯」とはまさにそのような人のことを言うのです。

しかし、そのような状態にあるユダヤ人たちが自分たちの立場を弁護し、かつ異邦人に対する自分たちの優位性を主張するために、自分たちは聖書の教えに忠実であるということを示すための「割礼」を受けていることをひけらかす。しかしパウロは、外見上の割礼などどうでもよいものであると言います。神が問題にされるのは、わたしたち人間の内面です。「文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです」(2・29)と書いてあるとおりです。

このようにしてパウロは、ユダヤ人と異邦人の両方の問題を取り上げて、両方とも罪深いと言っています。どちらのほうがより罪深いだろうかと問うことは難しいかもしれません。しかし、先ほどもちょっと触れましたが、知らずに犯す罪と、知っていて犯す罪とでは、どちらのほうが悪意性が強いかということは考慮に値することです。悪意というのは心の中の事柄ですので、体の外からはっきり見えるものではありませんが、いろいろな仕方で証拠を見つけていくことは可能です。

しかし、そうは言いましても、わたしたちは、まさか毎日毎日、凶悪犯罪を実行に移しているわけではありません。そのようなことをしながら、日常生活をごく普通に平凡に送っていくことは不可能です。凶悪犯罪をもてはやす意図はありませんが、あれは一つの仕事です。用意周到な計画性なしには決して成し遂げることができません。平凡な日常生活を犠牲しなければ実行不可能です。その意味でも、わたしたちは普通の生活をしているかぎり、凶悪犯罪を行うことは無理だと思います。

「あなたの存在そのものが罪である。あなたには生きている価値もない。いまただちに生きるのをやめて死になさい」。そのような激しい罵声を常に浴びせられ続けなければならないほどの罪をすべての人間が抱えているというようなことではありません。私は今、そのような話をしているのではありませんし、パウロもそのようなことまで書いているわけではありません。

もし百歩譲って、そういうことをパウロが書いていると考えなければならないということを客観的に認めざるをえないことになったとしても、だからといって、あなたは罪深い存在である。それゆえ、あなたは生きること自体、存在すること自体を否定されなければならないというようなことを言われなければならないのは、だれか特定の人ではなく、すべての人間であると言わなくてはなりません。

いま申し上げていることの意味は、わたしたちは今日の個所のパウロの言葉を用いて自分以外の誰かを批判することはできません、ということです。すべての人間の中には、あなた自身も含まれているからです。私もあなたも、すべての人も、神の前で「私には罪がない」と言い張ることはできない、ということをパウロは述べているのです。

そのことをパウロは改めてはっきりした言葉で書いています。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない』」(9~10節)。ここでパウロが引用しているのは、旧約聖書の詩編14編です。

パウロが詩編14編を引用している理由は、書かれていません。しかし、この引用によって分かることは、すべての人間が例外なく罪人であるという思想は旧約聖書の時代からすでにあり、かつそれが新約聖書に受け継がれたものでもあるということです。そしてこの聖書の教えをキリスト教会も受け継いでいます。すべての人間は例外なく罪人です。しなければならないことをせず、してはならないことをして、自分の身に正しい裁きを招いてきました。そのことをわたしたちは聖書に基づいて告白してきたのです。

しかしまた、私はここで、いくつか別の視点から考えておかなければならないことがあると思っています。そのことを申し上げますと、私の話がかえってややこしくなってしまうかもしれませんが、それはやむをえないことです。

パウロが書いているのは、すべての人間は例外なく罪人であるということです。しかし、それは決して単純な話ではありません。非常に複雑な話です。このことについて単純な結論を出してしまうことができるのであれば、パウロはこの手紙を長々と書く必要はなかったでしょう。3章20節までで終わりにすればよかったでしょう。しかし、この手紙は16章まで続きます。それはパウロが人間の罪について、まだ書くことが山ほどあると考えていた証拠であると言えます。

そして、ここでわたしたちが考えなければならないことは、すべての人間が例外なく罪人であるという聖書の教えは、わたしたちにとって慰めの言葉ではないということです。

それはどういう意味か。すべての人が罪人であるならば、どうせみんな同じなのだから、わたしたちは自分の罪を避けがたい運命としてとらえればよい。そこから逃れることができる人は誰もいないのだから、せいぜいお互いの傷を舐め合うか、お互いに慰め合うか、お互いの足を引っ張り合って生きていけばよい。そのようにして、みんなが罪にまみれた生活を続けていけばよい。これは完全な開き直りです。

しかしパウロは、そういう結論を考えているわけではありません。すべての人間は罪人であるという聖書の教えを、わたしたちはそのような考え方のために悪用してはならないのです。

実際問題としてわたしたちは、罪の状態のままでとどまっていて、よいことは一つもありません。やはりわたしたちは、その状態から救い出されなければなりません。だれかと自分を比較して、自分のほうがまだましだと分かったところで、わたしたちがまだ罪の中にとどまっているなら問題は解決していません。パウロはわたしたちを罪の中にとどまるように導こうとしているのではないのです。

言わなければならないことは、まだあります。パウロが詩編14編から引用していることについて、先ほど私はこれが旧約聖書の教えであり、新約聖書とキリスト教会が受け継いでいると説明しました。それはそのとおりです。しかし、誤解しないでいただきたいのは、わたしたちが罪人なのは、聖書と教会がそのように教えているからそうである、というふうな事情であるというわけではない、ということです。

それはどういうことか。わたしたちは本当は罪人ではないのに、聖書と教会がわたしたちに一方的に無理やりそのようなレッテルを貼っているだけだ、ということではないという意味です。大したことでもないことを聖書と教会がやたらと大げさに言い立てて、わたしたちに罪の濡れ衣を着せようとしている、とかなんとか、そんなふうに思われると困るのです。

それは順序が逆です。正しい順序は、聖書と教会がそのことを教えるよりも前から、わたしたちは罪深かった、ということです。わたしたちは教会に通い、聖書を読むよりも前からすでに、しなければならないことをせず、してはならないことをしてきたのです。しかし、わたしたちは聖書を読むことによって、それに気づかされたのです。自分の罪を自覚したのです。

今日の個所の最後に「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(20節)と書かれています。ここでも「律法」とは聖書のことです。聖書を読むと、わたしたちは神の前でいかに罪深いかを自覚させられます。なぜなら「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです」(20節)。

今日の説教の題に「わたしたちの体は自分の思うように動きません」と書かせていただきました。その意味は、わたしたちは良いことをしようとしても、わたしたちの心の中の罪が邪魔をして罪深いことをしてしまう、ということです。

この手紙の中のもう少し後に出てくる言葉を先取りしていえば、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(7・18)ということが、わたしたちの身に起こるのです。

この矛盾した状態からわたしたちは救い出される必要があります。その突破口は、イエス・キリストを信じる信仰であるとパウロは続けます。この続きは次回お話しいたします。

(2013年6月16日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年6月14日金曜日

「(笑):カッコワライ」とか書かなくても笑顔が見える距離でいられるなんて恵まれたことですよ


二泊三日の大会役員修養会が終わりました。

毎年恒例の日本キリスト改革派教会の教師・長老の研修会。

会場は静岡県浜松市。浜名湖畔の「カリアック」。

残念ながら、今秋閉館だそうです。来年からは別の会場(未定)です。

ところで。

弱音を吐くのは得意です。みっともないけど、しょうがない。

ほんとに楽しかったです。安心しました。

ずっと続けばいいのに、と思いました。

優しくて、親切で、誠実な人たちの、真摯で活発な対話と討論。

ぼくの生きている世界のすべての人がこうであればいいのに、と。

インターネット要らないな、と。

ああ、日本キリスト改革派教会は素晴らしい。

ですが。

ぼくはまた、現実に引き戻されました。

インターネットが必要な現実に、です。

まあ、仕方がない。フカイタメイキ(ふはぁぁぁ...)。

心にもない「いいね」も

芝居がかった「いいね」も

悪意ある「いいね」も

なるべく(なるべく?笑)押さないできたつもりです。

どうせ押すなら、心のこもった「いいね」を押したい。

いま書いてることはみんなジョークですけどね。

「(笑):カッコワライ」とか書かなくても笑顔が見える距離でいられるなんて

恵まれたことですよ。

まあ、でも、ぼくらの人生に恵みは少ないほうがいいかもしれない。

恵みありすぎると、麻痺状態で、かえって文句ばっかり言ってるとかね。

たまーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーの恵みが、ありがたい。

一年一度の「うなぎパイ」とかね。

あ、買うの忘れちゃった。うなぎパイ。

2013年6月11日火曜日

ファン・ルーラーを尊敬する理由

「新約聖書は旧約聖書の巻末語句小辞典にすぎない」

「終末においてイエス・キリストは受肉を解消する」

「共産主義はキリスト教よりもブルジョア的である」

どれも60年くらい前(1950年代~60年代)のファン・ルーラーの発言です。

失言や軽口やジョークではありません。

用意周到に、神学的に徹底的な熟考を経たうえで語られたものでした。

しかし、当時はずいぶん叩かれたようです。

まあ、仕方ないですね。

彼はもちろんこれらのことを意図があって言っています。

ある特定の言説に対する明確な批判をこめて、これらの命題を主張しました。

60年前のオランダにインターネットがあったら、

ファン・ルーラーのブログやツイッターは

しょっちゅう「炎上」していたことでしょう。

最近は「炎上ビジネス」というのもありますね。

でも、ファン・ルーラーは、その種の悪どい仕掛け人ではありませんでした。

1970年12月に62歳で亡くなりました。生前は神学者としては孤立無援でした。

でも、今は違います。

今では、オランダでは20世紀の「三大」神学者の一人と呼ばれています。

「炎上」や孤立を恐れず、真理を追い求め、揺るがなかったからではないか。

ぼくはこういう人を尊敬します。オランダにかぶれているのではありません。

2013年6月10日月曜日

医薬品のインターネット販売については、全面解禁でいいと思いますよ

医薬品のインターネット販売については、全面解禁でいいと思いますよ。

一般市民としては、とにかく安きゃいいんですよ。

不況の中、どれだけ追い詰められた生活をしているか、分かってるんでしょうかね。

医者も薬局も、病院も製薬会社も、その人たちの利益を守って来た政治家たちも、もう十分すぎるほどもうけたでしょ。これ以上どれだけもうけたいんでしょうかね?

もうけてもうけて、持ってない人間を見くだして。なにが楽しいんでしょうかね。

要らない医者とか、要らない薬局とか、少し淘汰される必要もあるんじゃないでしょうかね。

そりゃおカネ持っている人は長生きするでしょうよ。手厚い医療と、手厚い看護を受けられますからね。

そういう人たちだけが特権的に生き残る社会になっていくことがお望みなら、まあ別にそれもいいんでしょうけどね。

でも、上の人たちだけが生き残った社会は、競争もっと激しくなりますよ。

「下には下がいる」とか言いながら、下の人たち見て、見くだして、慰められることなんて、無くなりますよ。

ほんと、たいへんですな、上の人たちは。

ぼくらは、早く死ねますよ。ありがたや、ありがたや。

自主オフ日は「自叙伝ツイート」

「自叙伝ツイート」と呼んでおきます。とくに脈絡はありません。

だけど、逆に言わせてもらえば、

ソーシャルで「自分のこと」を書くのを自主規制してしまうと、

書けること何が残るんだろ?と思いますけどね。

個人情報保護の観点からいえば、自分以外の人について、めったなことは書けない時代です。

唯一残るとしたら「公人の批判」かな。だけど、それだけに限定した使い方というのも味気ない。

というわけで、今日は自主オフ日です。気分はかなり逃避気味。デトックス。

自己中で申し訳ありません。

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関口 康 @ysekiguchi
ぼくは相当すきま人生だと思ってきたけど、すきまの探し方に二種類あるとふと気づきました。その区別を字にするのは難しい。従来「ノーマル」とされてきた領域の外にすきまを見つける人もいるけど、ぼくはそうじゃない。月並みだけど「灯台下暗し」。陳腐すぎて誰も寄りつかないからすきまの宝庫です。

関口 康 @ysekiguchi
こういうの書くと、心理学とかやってる方には、ぼくの性格や背景などをすぐ見抜かれちゃうのかもしれませんが、ぼくは子どもの頃からほとんど常に、修学旅行とかに行くと、最後の一人が寝落ちするまで起きて話し、いちばん最後に寝るタイプでした。それが何を意味するのかは、ぼくには分かりません。

関口 康 @ysekiguchi
「根拠のない自信をもっていて、どうにもならないくらい高慢臭を放っているんだけど、生き方はヘタで行き当たりばったりな人」か、それとも「物腰ソフトなベビーフェイスで近づいてくるので軒先を貸すと戦術的・戦略的に根こそぎ母屋をもって行く人」か、どちらか選べと言われると、う~んどっちかな。

関口 康 @ysekiguchi
数ページならともかく一冊の本を翻訳するとなると、切れ目ない数週間・数か月の「作業に没頭できる時間と空間」が不可欠と痛感。毎週日曜日の説教をしている牧師は、翻訳は定期的に中断せざるをえない。両立できる人は、脳内の「メモリ」のサイズが相当大きいのでしょう。ぼくはすぐ固まっちゃいます。

関口 康 @ysekiguchi
質問を受けたのでそれに答えるべく話しはじめると、ぼくが話しはじめた途端、チラチラ時計を見る人がいる。それも一人二人ではなく、けっこういるような気がするので、質問を受けるたびに「もう答えまい」と決意する。ぼくの答え方が悪いんでしょうけど、そんなにつまんない?(汗)

2013年6月9日日曜日

世界は激しい不条理で満ちています


ローマの信徒への手紙3・1~8

「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。『あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる』と書いてあるとおりです。しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。」

今日もまたローマの信徒への手紙を開いていただきました。今日の個所に書かれていることを一言でまとめるのは難しいです。まるで目の前にいる人たちと対話しているかのような書き方です。原稿などは書かないで、全くのアドリブでフリートークをしているようです。話の筋があっちに行ったりこっちに行ったりしています。

それはもちろん、一つの可能性ではあります。しかし、私だけの感想ではありません。私以外にも今日の個所にパウロが対話している姿を見出している人はいます。一つだけ証拠を挙げておきます。それは、「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます」(1~2節)以下にパウロが書いているくだりです。

「あらゆる面からいろいろ」というのは文字通り「たくさんのこと」という意味しかありません。しかし、これが面白いことになっています。パウロは、ユダヤ人の優れた点をたくさん指摘できますと言いながら、実際に指摘しているのは一つの点だけです。「まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです」というこの点だけです。第二や第三の優れた点を探しても見つかりません。

たくさん言えますよ、と言いながら、一つのことしか言っていません。こういうのは、原稿として書くとまずい文章であることに気づきます。しかし、もしパウロが、原稿なしのフリートークをしていると考えることができるなら、こういう矛盾は大目に見ることができます。

本当にパウロは、ただ一つのことしか言っていません。ユダヤ人の優れた点は、彼らに神の言葉がゆだねられたことにあります。神の言葉とは聖書の言葉です。彼らには聖書があります。その証拠は、彼らが割礼を受けていることです。彼らは聖書の御言葉に基づいて割礼を受けました。これは先週の個所に書かれていたことの繰り返しです。

しかし、彼らは割礼という外見上のしるしを持っているにもかかわらず、彼らの内面において神に背いている。罪を犯している。それでパウロは「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです」(2・28~29)と書いたのです。

ですから、この「内面がユダヤ人であること」が「神の御言葉をゆだねられている人であること」と同じ意味になります。逆の順序で言えば、神の御言葉である聖書の教えに忠実に従って生きている人々こそ「ユダヤ人」と呼ばれるにふさわしい人々であるとパウロは言っています。しかし、現実のユダヤ人はその意味での「ユダヤ人」ではないと言っているのです。

しかし、そうしますと、その次に必ず問題になることがあることをパウロは知っています。それは、ユダヤ人に聖書の御言葉をおゆだねになった神は、彼らが神に背く者になるであろうということを、あらかじめ見抜くことがおできにならなかったのか、という問題です。つまり、責任の所在は聖書の御言葉をゆだねる相手を選び間違えられた神の側にあるのではないのか、という問いです。

そのような問いが人々の心の中に浮かんでくるということはパウロには分かっていました。そのあたりのことを取り上げているのがパウロの次の言葉です。「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない」(3~4節)。

ここでパウロが「神の誠実」と言っているのは、神がユダヤ人に神の御言葉である聖書の御言葉をおゆだねになったことを指しています。神は、御自身の御言葉をおゆだねになった相手である人間を信頼されるのです。ユダヤ人なんか信じられるかと、はなから疑い、ばかにし、斜めから付き合うというようなことをなさらず、彼らをどこまでもまっすぐに見てくださり、信頼してくださり、どこまでも誠実に向き合ってくださったのです。結果的にユダヤ人は神に背いて生きる者になりました。しかし、それはユダヤ人を信頼した神のせいなのか、つまり、神が悪いのか、神がばかなのか。そういうふうに言うことはできないはずであると、パウロは言っているのです。

もちろん、悪いのは「ユダヤ人」のほうです。神の御言葉をゆだねられるほどに神から信頼されているのに、その神を裏切ってしまう、そういうことになってしまう人間が悪いのです。信頼した神の側が悪いという理屈は成り立ちません。そのあたりのことをパウロは次のように言っています。「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」(4節)。

なぜ神が悪いという話になってしまうのでしょうか。裏切るのは人間です。罪を犯すのは人間です。しかし、わたしたちはついそこで自己弁護をしたくなります。次のようなことを考えはじめてしまいます。

「だって、神さまなのでしょう。神さまが人間をお造りになったのでしょう。そうであれば、もし神さまが人間に罪を犯してもらいたくないのであれば、そもそも人間を、罪など犯すことができない存在にお造りになればよかったではありませんか。しかし、そうはなさらず、人間を、罪を犯すことができる存在にお造りになったのは、神ではありませんか。だったらやはり、人間をそのような者としてお造りになった神が悪いのである。我々のせいにされても困りますよね」とかなんとか、

そういうふうに、どこまでも自分の罪の責任を神になすりつける屁理屈をこねることになるでしょう。

しかし、それは違うと、パウロは言いたいのです。その理屈はおかしいです。完全なる責任転嫁です。そのような理屈がまかり通るならば、人はどんどん罪を犯すようになるでしょう。

「私が罪を犯したのは私のせいではありません。神が私のことを、罪を犯さざるをえない人間にお造りになりましたので、私は罪を犯しているのです。わたしたちが罪を犯すことは、神の御心なのです。だから、罪の責任は神さまがすべてとってくださいます。私のことを責められても全くのお門違いです」とかなんとか、

こんなふうな話になっていってしまうでしょう。

このような責任転嫁の論理をあやつって人が罪を犯すことを是認し続けようとする人間の心の中の悪連鎖を、パウロとしては何とかして断ち切ろうとしているのです。そのことを、声を大にして訴えているのです。それが今日の個所に書かれていることの主旨です。

続く個所に書かれていることも、内容的には同じことの繰り返しです。「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょうか。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない」(5~6節)。

ここで言われていることを理解するのは少し難しいかもしれませんが、丁寧に考えれば理解できると思います。

罪を犯した人間に対して、神はやはり、怒りを発せられるし、裁きを行われるのです。もしそうでないならば、神は人間が罪を犯すことを見て見ぬふりなさっていることになり、事実上、罪を犯すことを許しておられることになります。そうなりますと、神はいわば人間と共犯者であるということになってしまいます。それは結局、「やはり悪いのは神である。神がばかなのである」という話になってしまいます。しかし、そういうことはありえないでしょうと、パウロは言いたいのです。

しかし、それでは、人間はなぜ罪を犯すことができるのでしょうか。先ほども触れましたが、もし神が人間を、罪を犯すことが不可能な存在にお造りになっていれば、不可能なことを可能にする人間が一人もいなければ、この世界に罪など無かったのではないか、という理屈に対して、わたしたちはどう答えればよいのでしょうか。

ここから先は、非常に謎めいた部分に立ち入ることになります。神はなぜ人間を、罪を犯すことができる存在に創造されたのでしょうか。もし神がそのような者として人間を創造なさらなかったら、殺人も戦争もない、罪も悪もない世界になったかもしれないのに。これを世界の不条理の問題と呼ぶことができるかもしれません。

聖書はこの問いかけに、はっきり答えを出してくれているようでもあり、そうでないようでもあります。しかし、とにかく一つだけははっきりしています。それは、神は人間を機械仕掛けのロボットや、全く意志を持たない操り人形のような存在としてお造りになったわけではない、ということです。

石(いし)には意志(いし)はないと思います(だじゃれを言っているのではありません)。しかし、人間には意志があります。神は人間に意志を与えてくださいました。それでは、なぜ神は人間に意志をお与えになったのでしょうか。

神の願いは、わたしたち人間が自分の意志を用いて、自由に喜んで感謝して神の御言葉に従う生き方を選びとってほしいということです。「せざるをえない」から神に従うのであるとか、「させられている」からしているとか、そういうことではなく、自発的にうれしそうに従ってほしいのです。

そのように神が人間に願われたことに、わたしたちは感謝すべきです。この私を、全く意志のないロボットや操り人形のようなものではない存在として造ってくださった神にわたしたちは感謝すべきです。しかし、その感謝を忘れて懲りずに罪を犯してしまうのがわたしたち人間でもあります。

ここまで言ってもなお、屁理屈極まりないことを言い出す人がいることも、パウロは知っています。「またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしは罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか」(7~8節)。

何を言っているのでしょうか。意図は次のようなことです。神が人間を信頼してくださっていることが「神の誠実」であるというならば、神の信頼を人間が裏切り続け、罪を犯し続けることによって「神の誠実」が際立つことになるでしょう。だったら、神さまが誠実な方であることを際立たせるために、わたしたちはどんどん罪を犯しましょう、という話です。

これは完全に、話のすり替えです。お話になりません。

(2013年6月9日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年6月7日金曜日

「第10回 カール・バルト研究会」(ニコ生神学部で生放送)は無事終了しました!(動画あり)

「第10回 カール・バルト研究会」(グーグルプラス ハングアウト)は

無事終了しました。

「ニコ生神学部」で生放送を視聴してくださった皆様に感謝いたします!

(動画 その1)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv140685063

(動画 その2)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv140691766

※視聴するには「ニコニコ生放送」のアカウント(無料)を取得していただく必要があります。

「第10回 カール・バルト研究会」報告(ニコ生神学部生出演)

「第10回 カール・バルト研究会」(グーグルプラス ハングアウト)は

無事終了しました。

「ニコ生神学部」で生放送を視聴してくださった皆様に感謝いたします!

(動画 その1)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv140685063

(動画 その2)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv140691766

※視聴するには「ニコニコ生放送」のアカウント(無料)を取得していただく必要があります。