2013年4月16日火曜日
「今週の説教」を再構築するために「関口康日記」から説教をサルベージしています
「今週の説教」サイトを再開することにしましたので、「関口康日記」の中にぐちゃぐちゃに(といっても自動的に時系列順に並べてくれてはいますが)混ぜ込んでしまっていた説教原稿をサルベージして新しいサイトに引っ越しする作業を続けています。
とりあえず100本の原稿を移しましたが、とても疲れたのと、90本目を超えたあたりから、サイトのサーバーからの自動応答らしきメッセージとして「一日のアップ数が多いので人の手による作業かどうかを確認させてください」とか言って一回一回パスワードを打ち込まなければアップできなくなったりしてきてクソメンドクサイ状態になってきましたので、本日の作業はこれにて終了。
あと221本、残っています。ぜんぶ手作業で引っ越ししています。
もう少し落ち着いたら、未公開の説教もアップしていきたいと願っています。
今週の説教
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/
2013年4月14日日曜日
「今週の説教」名義のサイトを再び始めることにしました
各位
謹んでお知らせします。
「今週の説教」名義のサイトを再び始めることにしました。
今週の説教 新URL
http://yasushisekiguchi.blogspot.com
以前はニフティの「ココログ」(有料)を利用していましたが、グーグル系の「ブロガー」(無料)に移転した形です。
ココログからの移転の際に「今週の説教」の記事のすべてを「関口康日記」の中に一緒くたに混ぜてしまったのですが、
礼拝の説教も、ファン・ルーラーも、カール・バルト研究会も、AKBの話もごちゃ混ぜの状態なのは、
やっぱりちょっと見にくいし、
つまずきに満ちていると、
前々から気にはなっていました。
そういうわけで、移転作業にはまだまだ相当時間がかかると思いますが、とりあえず今日の説教を、新しい「今週の説教」サイトのほうにアップしました。
これからも、よろしくお願いいたします。それでは、また。
2013年4月14日
関口 康
なぜ教会が必要なのですか
ローマの信徒への手紙1・8~15
「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」
先週からローマの信徒への手紙を学びはじめました。今日の個所は、まだこの手紙の冒頭部分です。ここに書かれていることを一言で言えば、パウロはローマに行きたいということです。ローマの教会の人たちに会いたいのです。
しかし、パウロはローマに行くことができません。行きたくても行けません。次のように書いています。「何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられている」(13節)。何らかの妨害があると言っています。それが何なのかについては書いていません。しかし、考えられることは少なくとも三つあります。第一は人事の面、第二は経済の面、第三は文字通りの妨害です。
第一の人事の面とは、次のようなことです。パウロはかなり頻繁な移動を伴いながら、いろんな地で伝道し、そこに新しく教会を生み出すという仕事をしています。そして、新しく教会を生み出すためには、しばらく同じ地にとどまり、教会の土台を据える必要があります。その場合、いくらパウロでも、一つの地で伝道をしている最中に、他の地で伝道することはできません。パウロは人間ですので、体は一つしかないからです。どれほど強くローマに行きたいと願っても、今の仕事を終わらせてからでないと、次の場所に移ることはできません。だから、パウロはローマに行くことができないのです。
第二は経済の面です。今でも同じことが言えるわけですが、外国に旅行するためには、それなりのまとまったお金が必要です。一週間や十日ほどの旅行であれば少しがんばれば貯金できそうですが、一か月や数か月、あるいは何年かの滞在ともなれば相当まとまったお金が必要です。自費でまかなうにせよ、支援を受けるにせよ、まとまったお金を作るために時間がかかります。そのお金がまだないので、パウロはローマに行くことができないのです。非常に現実的な事情です。
しかし、もう一つあります。第三は文字通りの妨害です。パウロは、伝道旅行の行く先々で迫害に遭ってきました。数々の暴力、逮捕や監禁や鞭打ちまで味わいました。体も心もぼろぼろに傷つき、へとへとに疲れ果てています。彼の願いは、敵対する多くの人に文字どおり妨害され、ほとんど風前の灯の状態なのです。
しかし、パウロはあきらめることができません。次のように書いています。「わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」(9~10節)。
パウロはどんな迫害にも負けない不屈の闘志を持っていたと、もちろんそのように言うことが可能です。彼は間違いなく強い人です。自分がいったん抱いた希望や願いを決して諦めない、燃えるような根性があったと表現することができます。しかし、闘志とか根性とか、そういう話になりますと、キリスト教信仰にそぐわない面も出てきます。パウロがローマに行きたいという願いを諦めることができないことは、「努力は必ず報われる」というようなスローガンで説明できることではありません。
わたしたちは、彼自身が書いている「神の御心によって」ということの意味をよく考えてみる必要があります。パウロはローマ行きの切符を、自分の努力や根性で勝ち取り、自分で道を切り開くのだと燃えているわけではありません。もし神が御心によってその道を切り開いてくださるならば行くことができるであろうと信じているのです。逆に言えば、今はまだローマに行くことができないのは、それはまだ神の御心ではないからであるということを受け容れてもいるのです。
「神がパウロのローマ行きを妨害しておられる」という言い方は、さすがに言いすぎかもしれません。皆さんにショックを与えてしまうかもしれません。しかし、ある意味でそのような面もありますと言わざるをえません。
わたしたちにとっても「神を信じる」とは、そのようなことでもあるのです。自分がしたいと願いさえすれば、その願いどおりに必ずなる、という人は、たぶん一人もいません。そういう人はスーパーマンかウルトラマンです。しかし、そんな人は現実にはいません。あるいは、そういう人はモンスターです。自分が抱く野望は何がなんでも実現しなければ我慢できないというのは怪物の状態です。自分の願い通りにも思い通りにもならないのが人生です。神がわたしたちの願いを邪魔され、妨害されることがありうるのです。それがわたしたちの人生です。
しかしパウロは、そのことを十分に理解し、受け容れたうえで、それでもなお、ローマに行きたいという願いを諦めることができません。彼がしたいのは観光旅行ではありません。彼の仕事としての伝道をしたいのです。ローマにいるキリスト者たちと合流し、彼らの教会を助け、彼らと一緒に福音を宣べ伝えたいのです。
そのことをパウロは次のような言葉で書いています。「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」(11~12節)。
このようにパウロが考え、信じ、願っていること自体を、周りの人はだれも妨げることはできません。それは彼の自由に属することです。彼がどこに行くことも、どこで伝道することも、彼の自由です。それは信仰の自由であり、伝道の自由です。
しかし、私はこのあたりで急ブレーキを踏んでおきたいと思います。少し立ち止まってじっくりと考えなければならないことがあると思えてなりません。それは次のようなことです。
パウロはたしかにローマに行きたいと願い、ローマの教会の人々と一緒に伝道したいと願っています。それは彼の自由ですので、誰も邪魔することはできません。しかし、そのパウロは、ローマの教会の人々に対して「“霊“の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたい」と書いています。
もしそうだとするならば、次のことを問わざるをえなくなります。それは、「“霊”の賜物」を持っているのはパウロだけなのでしょうかという問いです。パウロ以外にも使徒がおり、教師がいます。ローマの教会には長老がおり、執事がおり、多くの教会員がいます。その人々は、パウロに与えられているのと同じ“霊”の賜物を持っていないのでしょうか。何も無理にパウロでなくても、別の使徒や伝道者や長老や執事や教会員がお互いに励まし合えば、それで事が足りるのではないでしょうか。
何が何でも自分が行かなければならないと言い張り、そのことにこだわるのは、パウロの傲慢ではないでしょうか。他の人に任せることを考えることのほうが謙遜な態度ではないでしょうか。そのような厳しい問いを差しはさむことによって、この個所に書かれていることの意味をよく考えてみることが必要であると私には思われてなりません。
なぜなら、先ほど三点ほど挙げたとおり、パウロのローマ行きには実際に妨害があるのですから、その内容をよく考えてみなくてはなりません。人事の面のことを言えば、たとえば一つの教会の牧師として働いている人は「次の場所に行きたい」というようなことを教会員の前であまり言わないほうがいいです。そういうことをすると、今いる教会の人たちの心を傷つけてしまうことがありえます。これはあくまでもたとえですが、実際にそういうことがありうるのです。
もう一つの経済的な面は、ある意味でもっと深刻です。ローマに行くために、お金がたくさん必要です。そんなお金があるなら、別のことに使ってほしい。あなたは夢や希望を追いかけてばかりで、現実が見えていない。なぜあなたが行かなければならないのですか。もっと別の人が行くことの可能性を考えてください。そのように言われてしまうことが実際にあります。パウロが、ローマに行くことを「妨げられている」と書いていることの中に、いま私が申し上げたような内容が含まれているのではないかと考えてみることが重要です。こういうことは私の考えすぎだとか、思い込みだとは思えないのです。
しかし、それでもパウロは、自分がローマに行くことに強くこだわっています。他の人ではなく、自分が行かなければならないと信じています。現地に行くことは、必ず物理的移動を伴う行為です。そのことが必要であると言うことは、たとえば「手紙を書くだけでは駄目なのだ」と言っているのと同じです。パウロはこの手紙を書いている最中ですが、もし手紙だけで事が足りるのであれば、多くのリスクを乗り越えて現地まで行く必要はないからです。しかし、彼は現地まで自分の体を運ばなければならないと言っているのです。
また、パウロは「祈るときはいつもあなたがたのことを思い起こし」(9節)ていると書いていますが、それだけでは済まないと考えています。遠くで祈っているというだけでは駄目なのです。物理的に移動し、自分の体をローマまで運ぶ必要があるのだと言っているのです。つまり、パウロにとっては、手紙を書くだけでも祈るだけでも事は足りないのです。言い方を換えれば、精神的なつながりだけでは足りないと言っているのと同じです。今で言えば、メールを送るだけでは駄目だし、テレビ電話で話すだけでも駄目だと言っているのと同じです。
実際に出会うこと、顔と顔を合わせること、肉声で語り合うこと、手を伸ばせば触れ合える距離で、共に祈り、共に賛美し、共に御言葉に聴くこと。そのことがなければ、「“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたい」(11節)という目的を果たしたことにはならないと、パウロは信じているのです。
今日の説教題を「なぜ教会が必要なのですか」としましたことは、いま申し上げていることに関係しています。教会というのは、そういうところだと申し上げたいのです。実際に出会うこと、顔と顔を合わせること、肉声で語りあうこと。そのような現実的なふれあいの場が教会です。そして、そのような「教会」が、わたしたちにはどうしても必要なのです。「“霊”の賜物」は、電線越しには相手に伝わらないのです。そのことを私は、パウロと共に、信じています。
(2013年4月14日、松戸小金原教会主日礼拝)
2013年4月13日土曜日
「第6回 カール・バルト研究会」報告
本日(2013年4月12日金曜日)21時から23時30分まで、「第6回 カール・バルト研究会」をスカイプで行いました。参加者は3名でした。
(五十音順、敬称略、かっこ内は在住地)
小宮山裕一(茨城県)
関口 康(千葉県)
藤崎裕之(北海道)
今日のテキストはカール・バルト『教義学要綱』「4、信仰とは告白を意味する」でした。
今日はテキストから少し離れて、日ごろの牧会の苦労話にもなりました。それはそれでとても楽しい時間になりました。
次回(第7回)は、4月26日(金)21時から23時までです。
2013年4月10日水曜日
中学校の入学式で祝辞を述べました
中学校の入学式で以下の祝辞を述べました。
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新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。今日は春らしい天候に恵まれて、みんな落ち着いた気持ちでこの入学式を行うことができて本当に良かったです。
ご父兄の皆さま、また先生方にも、心からお慶び申し上げます。ご来賓の皆さま、本日はご列席いただき、ありがとうございます。
中学校で、皆さんは何をするのでしょうか。勉強することは当たり前です。学校は勉強するところです。やっぱり勉強してください。勉強は他のところでするから学校では勉強はしないというふうには考えないでください。それは本末転倒の考え方です。
友達をたくさん作りましょうということは、いろんな人から言われていることだと思います。ぜひ友達をたくさん作ってください。同じ小学校の卒業生とだけかたまるのではなく、違う小学校の卒業生とも早く仲良くなってください。
部活動をがんばることも大事です。小学校の頃よりもレベルの高い部活動が中学校にはあります。栗ヶ沢中学校には、松戸市だけではなく、千葉県や全国で争うトップレベルの部活動がたくさんあります。新入生の皆さんも部活動に積極的に参加して、がんばってください。応援しています。
いま三つのことを言いました。勉強してください。友達を作ってください。部活動をがんばってください。でも、大事なことをまだ言っていません。それは、今言った三つのことすべてに関係していることですが、全く同じことであるわけでもなくて、別のことでもありますので、四番目です。昨年の入学式でも同じことを言いましたので、在校生の皆さんの中には覚えている方がおられるかもしれません。
それは、学校の先生を尊敬することです。先生を先生だと思ってください。皆さんくらいの年齢になると、好きな先生と嫌いな先生がはっきり分かれてくると思います。その気持ちは私にもよく分かります。でも、好きな先生だけが先生で、嫌いな先生は先生ではないというわけではありません。嫌いな先生も先生です。先生の資格や免許を持っているから先生だと言っているのではありません。皆さんに考えてほしいことがあるのです。
先生が嫌いになるきっかけは、たぶん先生から叱られたとか、嫌なことを言われたというようなことです。でも、そのときに、考えてほしいのです。先生が悪いのか、それとも自分が悪いのか。先生は皆さんのために言ってくださっているのです。嫌いな先生こそ、皆さんの本当の先生かもしれません。先生を尊敬してください。
先生、どうかよろしくお願いいたします。正しいことと間違っていることをきちんと区別できるようにしっかり教えてください。どうかお願いいたします。
平成25年4月10日
松戸市立栗ケ沢中学校PTA会長 関口 康
2013年4月8日月曜日
つまり、ぼくの「AKBいいね」は「PV制作者いいね」でした
ははあ、なるほど。
気づくのが遅すぎですが、今ちょっと分かったかも。
超・どうでもいい話なのですが、AKBのことです。
前から書いてるとおり、ぼくはAKBのために一円のお金も使ったことがありません。
なのに、ネット民の一部に、ぼくが「AKB牧師」だという噂が流れてるとか、流れてないとか。
その”原因”は、ブログにAKBのことをひとことふたこと書いたことがあるのと、あとはFacebookでAKBの動画を二、三回シェアしたことがあるくらいかな。
それだけで「AKB牧師」になっちゃうのだから、ネットの影響力はスゴスギル。
ぼくが「AKBいいね」と思った理由は、You Tubeで基本すべて無料公開されている動画(プロモーションビデオ)の出来栄えです。「それだけです!」と断言できます。
アンチの人に無理強いするのは「拷問」に等しいと思いますので、そういうことは止めますが。
でも、「これだけは分かってほしい!」と声を大にして訴えたいのは、
ぼくが心動かされたのは「You Tubeで無料公開されているAKB動画の出来栄えの良さ」だけですよ、
ということです。
これ、ほんと。
このあたりを言い足りてなかったなと、さっき気づきました。
言葉足らずは命取り(そうとも限らないかも)。
饒舌は正直の始まり(それは無い)。
リンクしたのは古い動画ですが、スゴイと思った一つです。
2013年4月5日金曜日
「カルヴァンと創造論」講演会の記事がキリスト新聞に掲載されました
アジア・カルヴァン学会 日本カルヴァン研究会 「創造論」テーマに合同講演会
2013年4月13日
「カルヴァンと創造論――神と自然について」と題して、アジア・カルヴァン学会と日本カルヴァン研究会による合同講演会が3月11日、立教大学(東京都豊島区)で開催された。
記事の続きは「キリスト新聞」ホームページをご覧ください。
http://www.kirishin.com/2013/04/2013413-5.html
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ぼくらの講演会についての記事なので、シェアさせていただきます。
キリスト新聞さん、大きく紹介してくださってありがとうございます!
えっと、みなさん、
ぼくの扱いが他の先生に比べて小さいことを、笑わないでください(笑)。
とか言っても笑う人がいることを予想して(疑心暗鬼)、いちおう釈明しておきますね。
ぼくはこの学会の主催者の一人ですので(いちおう書記担当)、いちばん目立たない位置で出ることを自ら申し出た次第です。
「カルヴァン学会でファン・ルーラー」が「欄外注」扱いであることは当然のことですし、まあやっぱり大学や神学校で教える立場に就いたことがない”在野”(ってこういうときに使う言葉でいいんですよね?笑)の人間ですから。
二つの講演が終わったあと、ゆっくりと休憩をとってから、ぼくの研究発表でした。そこで帰った人たちもいたはずです。もしかしたら、キリスト新聞の記者さんも、ぼくの研究発表の前にお帰りになったかもしれません(未確認)。
そして、研究発表そのものも終了時刻間際で終わり(途中かなり端折りました)、質疑応答もほとんどできませんでした。
でも、ぼくはとても楽しかったし、有意義でした。出してもらえただけで感謝です。
当日配布された講演・研究発表の各レジュメ(誤字・脱字・微妙な表現を修正済み)は「アジア・カルヴァン学会」ブログで公開していますので、ご関心のある方はご一読いただけますとうれしいです。
アジア・カルヴァン学会 ブログ
http://calvin-research.blogspot.jp/2013/02/blog-post.html
2013年4月4日木曜日
姜尚中先生の言葉「自分の先生なき時代は最大の不幸ではないか」
聖学院大:新年度、スタート 教授就任の姜尚中氏、新入生に祝辞 /埼玉
http://mainichi.jp/area/saitama/news/20130402ddlk11100198000c.html
姜先生の次の言葉に感銘を受けました。
「師と仰げる人には一人しか出会えず、既に亡くなった。
自分の先生なき時代は最大の不幸ではないか。」
ぼくは「師」と仰げる人には、一人も出会えていません。
だから、ファン・ルーラーの本を訳しはじめました。
オランダ語ですが、
ワケ分かりませんが、
日本に「師」と仰げる人がいないので、
すでに亡くなっている先生ですが、
仕方なく、
訳しています。
こういう発言は、傲慢かどうか分かりませんが、
ぼくの本音です。
2013年4月1日月曜日
松戸市の住民になって10年目に突入しました
松戸市の住民になって、今日(2013年4月1日)から10年目に突入します。
ぼくが過去に住んだ町としては、生まれた岡山市(18年5か月)に次ぐ第二位の長さです。
以下、全くのムダ情報ですが(すいません)、過去の在住期間です。
岡山県岡山市 1965年11月~1984年3月(18年5か月)
東京都三鷹市 1984年4月~1990年3月(6年)
高知県高知市 1990年4月~1991年3月(1年)
高知県南国市 1991年4月~1996年3月(5年)
福岡県北九州市八幡東区 1996年4月~1997年1月(10か月)
兵庫県神戸市 1997年1月~1998年6月(1年6か月)
山梨県甲府市 1998年7月~1998年11月(5か月)
山梨県敷島町(現 甲斐市) 1998年11月~2004年3月(5年4か月)
千葉県松戸市 2004年4月~2013年3月(9年、現住所)
恥の多い生涯を送って来ました。
もう、ただひたすら「ごめんなさい」と言いたいです。
あ、でも、ぼくは過去に住んだすべての町を愛していますよ。
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