ことさらに不安を煽る意図などは一切ありませんが、やや批判を恐れながら申せば、今回の事態は、阪神大震災のときとは性質が違うものがある、と感じています。
大きな違いは、第一に、阪神のときにはほとんどの人が使っていなかったインターネット(携帯電話、スマートフォン含む)が今は多くの人に使われていること、そして第二に、今回は原子力発電所がすでに「爆発」(首相発言)している、ということです。
私は、阪神大震災の反省と教訓は最大限に生かされなければならないと確信している一人ですが、当時の経験に基づく判断をはるかに上回るものが今回求められているのではないかと愚考いたします。いま書いたことをもっとはっきり言い直せば、「阪神大震災のときはこうだったから、今回もきっとこうだ」という判断だけでは済まないものがあるのではないかということです。
今はインターネットがあるということは、誤った情報だけでなくさまざまな情報を選ぶことができるという意味では大きな利点であると思います。いま首都圏(私が住んでいる地域も含む)で起こっている物資の買い占めは、言ってみれば小さなパニックの一種と言えなくもありませんが、ガソリンスタンドの前に長蛇であっても整然と並んで、自分の給油の順番を待っている人たちの表情は比較的落ち着いていますので、「パニック」とまでは言えないのではないか。
それより心配なのは、やはり原発事故です。首相が言っていることは、20キロ圏内は全面退避、30キロ圏内は自宅待機ですが、それは、31キロくらいまでなら東京方面から自動車を走らせて近づいても大丈夫だ、という意味ではないと思います。30キロ圏内の人々が今すぐ自動車に乗って逃げなければならないほどの影響は今のところ無いので、どうか落ち着いてください、パニックを起こさないでくださいという意味だと思います。つまりそれは、直接の被災地におられる方々への「落ち着いて行動してください」という呼びかけなのであって、直接の被災地にいない者たちへの「近づいてもゼンゼン平気だよ」というメッセージではないのだと思います。
そして、言うまでも無いことですが、放射性物質というものは、空気や風で拡散されるものです。それは、おそらく同心円的に、不可逆的に「広がって行く」ものです。被災地にボランティアに行きたい気持ちは私にも強くありますが、一人でできることは少ない(ほとんどない)わけですから、行くなら一人ではなく、おそらく必ず多くの人と共に行く。その際、私は牧師なので、何らかの責任者となって行く。しかしその結果、その人たちを放射性物質にさらす危険度の高い地域にあえて近づけることになる。それはできないと、私は考えています。
せめて原発事故が完全に鎮静化し、首相による「安全宣言」がなされるまで、外部から(不用意に)近づかないほうがよいのではないでしょうか。しかし、「それこそがイエスさまの示された愛なのだ」ということであれば、黙って見守るしかありません。それはそれで尊重します。
2011年3月14日月曜日
できることを、できるうちに!
直接の被災地に近ければ近いほど、ネットも電話も通じず、通信手段がない現状です。
松戸でさえ、金曜日から土曜日にかけては電話が使えませんでした。今日も計画停電の実施が二転三転し(これを書いている時点ではまだ実施されていない)、いつなんどき電気が(つまり、このパソコンが)閉ざされるかが分からない状況です。
通信手段を確保できている者たちが、それを確保できているうちに、自分たちになしうるあらゆる手段を講じることが重要だと、自分に言い聞かせているところです。
その意味では、直接の被災地から遠ければ遠いほど通信手段の遮断の危険性が少ないわけですから、その方々の役割は十分あるということです。だれ一人、被災地から遠くにいるからといって「何かしたいが、何もできない」と苦にすることは、もはや無いのだと思います。
本日は、日本キリスト改革派教会の国内教会関係委員会から、本教会の被災状況を、友好関係にある日本キリスト教会、日本長老教会、北米改革派教会日本中会にお知らせしました。
また、先ほどは、大会常任書記長の風間義信先生から、ハンガリー改革派教会から支援の打診があり、同教会の代表者が現地視察のために来日してくださる意思があると、教えていただきました。明日は、執事活動委員会と議長書記団の一部が対策委員会を開くことになりました。
具体的な支援体制が確立しつつあります。
今のところ元気な者たちまでが病んでしまっては、助けを求めている人たちを助けることもできなくなるのだと思っています。
そればかりか、自分までが病んでしまっては自分まで誰かの助けが必要になってしまい、助ける役目の人たちの負担をますます増やすことになってしまいます。
昨日の夜あたりから、テレビが(明らかに視聴率競争を背景にして)これでもかこれでもかと深刻な映像を繰り返し流し始めていることを、とても深刻に受け止めています。
「テレビのスイッチを切る勇気を持とう」などと書くと怒られるかもしれませんが、これから本格的に始まる復興支援のためにこそ、体力を十分に蓄えようではありませんか。
松戸でさえ、金曜日から土曜日にかけては電話が使えませんでした。今日も計画停電の実施が二転三転し(これを書いている時点ではまだ実施されていない)、いつなんどき電気が(つまり、このパソコンが)閉ざされるかが分からない状況です。
通信手段を確保できている者たちが、それを確保できているうちに、自分たちになしうるあらゆる手段を講じることが重要だと、自分に言い聞かせているところです。
その意味では、直接の被災地から遠ければ遠いほど通信手段の遮断の危険性が少ないわけですから、その方々の役割は十分あるということです。だれ一人、被災地から遠くにいるからといって「何かしたいが、何もできない」と苦にすることは、もはや無いのだと思います。
本日は、日本キリスト改革派教会の国内教会関係委員会から、本教会の被災状況を、友好関係にある日本キリスト教会、日本長老教会、北米改革派教会日本中会にお知らせしました。
また、先ほどは、大会常任書記長の風間義信先生から、ハンガリー改革派教会から支援の打診があり、同教会の代表者が現地視察のために来日してくださる意思があると、教えていただきました。明日は、執事活動委員会と議長書記団の一部が対策委員会を開くことになりました。
具体的な支援体制が確立しつつあります。
今のところ元気な者たちまでが病んでしまっては、助けを求めている人たちを助けることもできなくなるのだと思っています。
そればかりか、自分までが病んでしまっては自分まで誰かの助けが必要になってしまい、助ける役目の人たちの負担をますます増やすことになってしまいます。
昨日の夜あたりから、テレビが(明らかに視聴率競争を背景にして)これでもかこれでもかと深刻な映像を繰り返し流し始めていることを、とても深刻に受け止めています。
「テレビのスイッチを切る勇気を持とう」などと書くと怒られるかもしれませんが、これから本格的に始まる復興支援のためにこそ、体力を十分に蓄えようではありませんか。
2011年3月13日日曜日
神の恵みを知る
コリントの信徒への手紙一2・10~16
「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかにしてくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」
わたしたちはいま、大きな悲しみと不安を抱いています。大きな地震で多くの犠牲者が出ました。事態はまだ流動的です。今日は予定していた小会・執事会をとりやめることにしました。それぞれの家庭に帰り、ご家族と共に今の事態を見守り、互いに励まし合っていただきたく願っています。
こういう日、こういうときに、私は何を語ればよいのでしょうか。今日開いていただいている個所にパウロが書いていることは、こうです。「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかにしてくださいました」(10節)。ここで「そのこと」とは、「隠されていた、神秘としての神の知恵」であり、「神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたもの」(7節)のことです。それは何なのかといえば、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト」(2節)のことです。つまりそれは、救い主イエス・キリストがわたしたち罪人の身代わりに十字架につけられて死んでくださることによって、わたしたちの罪が赦され、救われたこと、つまり、世界の始まる前から神御自身がわたしたちを罪の中から救い出すために計画してくださっていた、救いのみわざのことです。そのようなことを、神はわたしたちに「“霊”によって」、つまり、聖霊をわたしたちの心の中に豊かに注いでくださることによって明らかにしてくださったのだと、パウロは書いています。
ここでパウロが教えていることは、やや否定的な言い方をお許しいただけば、神の御心というものは、神御自身がわたしたちの心を開いてくださるまではわたしたちには隠されているということです。もっとはっきり言えば、そもそも神の御心というものはわたしたちには分からないものだということです。神が何を考えておられるかは人間には分からないものだということです。もっと分かればよいのに、と思わなくはありません。神はなぜわたしたちにさまざまな試練を与えられるのでしょうか。わたしたちはなぜ、これほどまでに辛い思いを味わわなければならないのでしょうか。神がおられるはずなのに。そうであるということをわたしたちは信じているのに。それなのにどうしてと問わない日は無いと思うほど、わたしたちの現実は厳しく険しいものです。
わたしたちにとって、神の御心というものがもっと分かりやすいものであり、だれでも受け入れることができるようなものであるならもっとよいはずなのに、現実はそうではない。そのことをパウロも知っています。パウロは単なる楽観主義者ではありません。この世の現実の厳しさや険しさを熟知している人でもあります。しかしパウロは単なる悲観主義者でもありません。なぜそのことが分かるのか。先ほどは否定的な言い方をしましたが、同じことを肯定的に言いなおせばお分かりいただけることです。そもそも神の御心というものはわたしたちには分からないものだ。神の御心とは、わたしたちに隠されている神の神秘である。それはそのとおりです。神の御子イエス・キリストが十字架の上で死んでくださることがわたしたちの救いであるとか言われても、そういうことは誰にでもすぐに納得できる話であるわけではない。百歩譲ってそのようなこと(イエス・キリストの十字架がわたしたちの救いであること)が事実であるとしても、そのようなことがわたしたちの直面している現実とどういう関係にあるのだろうか。そのように問うたことがない人など一人もいないのだと思います。
しかし、パウロが言おうとしていることは、否定的なことではなく、肯定的なことです。そのようなさっぱり分からないことを、神という方はわたしたちの心の中に聖霊を豊かに注いでくださることによって、なんとかして分からせてくださろうとする方でもあるということです。「“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」(10~12節)と書かれているとおりです。
しかしそれでは、わたしたちの心の中に聖霊が豊かに注がれるとはもっと具体的に言えばどういうことでしょうか。今お読みした個所に書かれている言葉でいいなおせば、聖霊とは「神の霊」であり、「神からの霊」です。そのような霊を、わたしたちは「人の内にある霊」、あるいは「世の霊」とは別のものとして神から与えられているのだとパウロは書いています。それは、神を信じる者たちの心の中には「神の霊」ないし「神からの霊」と「人の霊」ないし「世の霊」とが共存しているということです。わたしたちの心の中には、神が豊かに注いでくださった「神の霊」としての聖霊があるのです。しかし、それと同時に、神を信じる前から持っていたさまざまな考えや感情や判断としての「人の霊」ないし「世の霊」もあるのです。
それでどうなるのかというと、要するにわたしたちは悩むということです。わたしたちの心の中で「神の霊」と「人の霊」がけんかするのです。両者はたえず葛藤するのです。どれほど厳しく険しい現実を前にしても、わたしたちはその現実を単純な見方や単純な言葉でとらえることでは納得も満足もできない。悩みながら。苦しみながら。しかしそれでもわたしたちは、その現実へときちんと向き合い、とことんまで悩みぬき、苦しみぬくのです。
厳しく険しい出来事が起こったとき、それについて悩むことも葛藤することもなく、単純な見方や単純な言葉でとらえるとは、どういうことか。それはたとえば、乱暴で一方的で一面的な結論を出すことです。「神がおられるのに、なぜこのようなことが起こったのか」と問うことは無い。単純な結論の出し方の一つは「神はいない。この世界に神の救いなどありえない。だからこのような悲惨なことが起こった」というものです。このような貫き方で満足できる人がいるのかどうかは分かりません。しかし、実際には多くの人が神に救いを求めています。それがどのような神なのかは、多くの人々にとっては問題ではないのかもしれません。しかし、それでも、多くの人は祈るはずです。思わず手をあわせ、思わず目をつぶり、「助けてください、お願いします」と祈るのです。神も救いも、そのようなものはどこにも見当たらないではないかと思わず叫びたくなるような悲惨な現実を前にしても、そのときなお人は祈るのです。「神はいない」という単純で乱暴な結論では、人は満足できないのです。
しかしまた、ここで私は考え込んでしまいます。「神はいない」という結論で満足できる人はいないと、いま言ったばかりです。しかしその一方でわたしたちがよく知っているもう一つの事実があるということについても申し上げざるをえません。それは、悲惨な出来事を前にして祈る多くの人たちが、だからといって、その祈りをどなたにささげているのか、どのような方に向かって祈っているのかということまで知りたいということまでは、必ずしも願っているわけではないということです。「助けてください、お願いします」と多くの人は祈ります。その意味で祈りとは普遍的なものです。しかし、その多くの人が、必ずしも「神」の存在そのものに関心があるわけではないのです。今の苦しみから逃れたい、絶望の淵から遠ざかりたいと願う気持ちは真実です。しかし、だれがこのわたしを助けてくださるのか、その「だれ」が神なのか人なのか、あるいは神である場合はどういう神なのかということについてまでは、それほど深く知りたいと願っているわけではないのです。
今申し上げていることを、私はだれかを責めたり批判したりするつもりで言っているのではありません。私自身の心の中にもパウロが書いている意味での「人の内にある霊」ないし「世の霊」があるからです。そういう思いは私にもある。ですから深く共感することができます。よいたとえではないことを知りつつ申せば、お腹がすいている人に必要なものは食事なのだと思います。あるいは、お金に困っている人に必要なものはお金。いまお腹がすいている人を前にして、ごはんをたべていただくことを後回しにして、ただ聖書の教えだけをこんこんと説教することで良い結果を生みだすことは、ほとんどないでしょう。「助けてください、お願いします」と祈っている人を前にして、その人を具体的に助けることをほとんどしないでおいて、「助けてくださるのは神なのだから、まずはその神を勉強してください。まずは聖書とキリスト教を勉強してください。そうすれば、その中で教えられている神があなたを助けてくださるでしょう」と言い出す牧師がいたら、その牧師はおそらく失格者です。助けを求めているその人は「もう結構です。別のところで助けてもらいます」と、必ず言うでしょう。どう考えてもそういうのは順序が逆なのです。
しかし、今日の話も、ここで終わってはならないと思っています。今すぐに具体的な助けを必要としている人を前にして、その人の必要をただちに満たすことが重要であるということに深く共感することが間違いであるとは思いません。しかし、そこでなお、もう一歩先に進んでほしいと願うこと、あなたが思わず手を合わせ、目をつぶって祈りはじめるその方は「神」という方であり、「神」というその方は憐み深い方であり、かつ愛する御子イエス・キリストをわたしたちの救いのために十字架につけてくださったほどにわたしたちとこの世界を心から愛してくださっている方であるということを知っていただきたいと願うことを、躊躇したり遠慮したりすることも、わたしたちには不可能な話であるということを、申し上げなければなりません。
それが信仰なのだと思います。わたしたちはイエスさまが十字架のうえで叫ばれた言葉を知っています。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのか」。神の御子が、父なる神の前で、ほとんど絶望に近い言葉を叫ぶ。しかしこれは不信仰ではありません。イエスさまは不信仰の極みに立たれたわけではありません。むしろこれこそ最大の信頼の表現です。イエス・キリストは御自身の体と心に、世界のすべての人々が究極的に悩み問いを引き受けてくださいました。神を信じる者だからこそ問う問いを自ら問うてくださったのです(神を信じない人は「なぜ神は?」とは問いません)。イエスさまがこのように問うてくださったからこそ、わたしたちにはなお生きていく希望があります。このイエスさまがわたしたちと共にいてくださるからです。
(2011年3月13日、松戸小金原教会主日礼拝)
2011年3月12日土曜日
「平成23年 東北地方太平洋沖地震」と命名されたようですね
東日本の皆様、大丈夫ですか?松戸はとりあえず大丈夫ですが、地震のあまりの大きさにびっくりしました。まだちょっと揺れています。期末試験の最中の高1の長男が早く帰って来たので、妻と長男と私の三人で、遅い昼食をたべていた最中の地震でした(長女はつい先ほど中学校から帰ってきました)。まだ余震が続いています。状況は流動的です。被害が最小限に食い止められるよう祈るばかりです。(16:40)
2011年3月8日火曜日
Ustream「ファン・ルーラーについて(5)」
主著『説教学』(原著1971年、日本語版1977年)で知られるドイツの実践神学者ルードルフ・ボーレンに決定的な影響を与えたファン・ルーラーの論文「キリスト論的視点と聖霊論的視点との構造的差異」(1961年)の解説を始めました。(55分00秒)
2011年2月27日日曜日
カール・バルトの予定論の勘所
カール・バルトの予定論の勘所はどこにあるのか、というご質問をいただきました。
バルトの予定論は、一言でなど決して語り尽くせない、きわめて複合的な要素をもっています。しかしそれでもあえて一言でまとめるとしたら、バルトの予定論は、父なる神がイエス・キリストを十字架上での「滅び」へと定めることによってすべての人間を「救い」へと定めたとするものです。これをバルトは初めから、ウェストミンスター信仰告白の予定論、あるいはローレン・ボエトナーの予定論に対抗する意図をもって考案しました。
バルトのこの教説に立って実際に説教として語ると「感動させられる」要素がありますので、20世紀の多くの人を魅了してきました。ウェストミンスター信仰告白の擁護者側からは、バルトの予定論には普遍救済説(万人救済説)への傾斜があると(当然ながら)指摘されてきました。
福音派の人々のうち特にアルミニウス主義的な人々は、バルトの予定論を批判することができないかもしれません。また、アルミニウス主義的でない福音派の人であっても、たとえばエドウィン・パーマーの本などを持ち出されて、「改革派予定論の立場から言わせていただけば、伝道説教の中で『イエス・キリストはすべての人のために十字架についてくださったのです』と語ることは不可能なことなのです」などと諭された日には、ほとんど絶望的な思いになるはずです。
事実、私の知るかぎり、日本でも多くの福音派の人やホーリネス系の人が「予定論の素晴らしさゆえに」バルトの支持者になりました。それほどに、バルトの予定論は独特の魅力を持っています。今の私はバルトの予定論には一ミリも賛成できません。ウェストミンスター信仰告白の予定論に全く立っています。しかし、だからといってローレン・ボエトナーの『改革派教会の予定論』やエドウィン・パーマーの『カルヴィニズムの五特質』のような説明でよいとは思っていません。パーマーの本などは、予定論の解説としては現時点で最悪の本であると思っています。
過去の改革派神学における予定論の抱えていた多くの問題点は、日本キリスト改革派教会創立50周年宣言「予定についての信仰の宣言」によって克服されたと私自身は考えています。しかし、50周年宣言で予定論の真理をくみ尽くせているとは思っていません。永遠の謎の教理であることには変わりありません。
50周年宣言の「予定論」の勘所は、キリスト論的視点を中心にして考え抜いた「慰めと希望に満ちた予定論」です。それはそれでものすごく大切なことであり、今日的に説得力のある、完成度の高い予定論に仕上がっていると思っています。しかし、強いていえば「慰め」の(やや過度の)強調が、若干のセンチメンタリズムを招き入れ過ぎているかもしれません。これからの我々の教派の課題であると、私一人で考えています。
バルトの予定論は、一言でなど決して語り尽くせない、きわめて複合的な要素をもっています。しかしそれでもあえて一言でまとめるとしたら、バルトの予定論は、父なる神がイエス・キリストを十字架上での「滅び」へと定めることによってすべての人間を「救い」へと定めたとするものです。これをバルトは初めから、ウェストミンスター信仰告白の予定論、あるいはローレン・ボエトナーの予定論に対抗する意図をもって考案しました。
バルトのこの教説に立って実際に説教として語ると「感動させられる」要素がありますので、20世紀の多くの人を魅了してきました。ウェストミンスター信仰告白の擁護者側からは、バルトの予定論には普遍救済説(万人救済説)への傾斜があると(当然ながら)指摘されてきました。
福音派の人々のうち特にアルミニウス主義的な人々は、バルトの予定論を批判することができないかもしれません。また、アルミニウス主義的でない福音派の人であっても、たとえばエドウィン・パーマーの本などを持ち出されて、「改革派予定論の立場から言わせていただけば、伝道説教の中で『イエス・キリストはすべての人のために十字架についてくださったのです』と語ることは不可能なことなのです」などと諭された日には、ほとんど絶望的な思いになるはずです。
事実、私の知るかぎり、日本でも多くの福音派の人やホーリネス系の人が「予定論の素晴らしさゆえに」バルトの支持者になりました。それほどに、バルトの予定論は独特の魅力を持っています。今の私はバルトの予定論には一ミリも賛成できません。ウェストミンスター信仰告白の予定論に全く立っています。しかし、だからといってローレン・ボエトナーの『改革派教会の予定論』やエドウィン・パーマーの『カルヴィニズムの五特質』のような説明でよいとは思っていません。パーマーの本などは、予定論の解説としては現時点で最悪の本であると思っています。
過去の改革派神学における予定論の抱えていた多くの問題点は、日本キリスト改革派教会創立50周年宣言「予定についての信仰の宣言」によって克服されたと私自身は考えています。しかし、50周年宣言で予定論の真理をくみ尽くせているとは思っていません。永遠の謎の教理であることには変わりありません。
50周年宣言の「予定論」の勘所は、キリスト論的視点を中心にして考え抜いた「慰めと希望に満ちた予定論」です。それはそれでものすごく大切なことであり、今日的に説得力のある、完成度の高い予定論に仕上がっていると思っています。しかし、強いていえば「慰め」の(やや過度の)強調が、若干のセンチメンタリズムを招き入れ過ぎているかもしれません。これからの我々の教派の課題であると、私一人で考えています。
2011年2月26日土曜日
yahooオークションにカール・バルト教会教義学英語版
http://page4.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/d116106003
ヤフーオークションに「カール・バルト教会教義学」英語版全巻が30,000円~(即決40,000円)で出品されているようです。英語版の定価は100,000円だそうです。期間は「1日」と表示されています。特に神学生にはお買い得かもしれませんので、ご紹介します。私はドイツ語版(原著)と日本語版は全巻所有していますが、英語版まで手を伸ばす力(気力も読解力も)はありません。しかしそれでも、もし自由に使えるお金が3万円手元にあれば入札しました。ファン・ルーラーはじめオランダ改革派神学者の翻訳に取り組む場合にも、バルトの教義学の複数の翻訳があると、非常に助けになります。神学用語の翻訳はとても難しいので、原文のこの語は日本語で訳すとこうなるが、英語で訳すとこうなるという感じで、比較対象が多いほど助かるのです。だれか買わないかなあと注目しています。
ヤフーオークションに「カール・バルト教会教義学」英語版全巻が30,000円~(即決40,000円)で出品されているようです。英語版の定価は100,000円だそうです。期間は「1日」と表示されています。特に神学生にはお買い得かもしれませんので、ご紹介します。私はドイツ語版(原著)と日本語版は全巻所有していますが、英語版まで手を伸ばす力(気力も読解力も)はありません。しかしそれでも、もし自由に使えるお金が3万円手元にあれば入札しました。ファン・ルーラーはじめオランダ改革派神学者の翻訳に取り組む場合にも、バルトの教義学の複数の翻訳があると、非常に助けになります。神学用語の翻訳はとても難しいので、原文のこの語は日本語で訳すとこうなるが、英語で訳すとこうなるという感じで、比較対象が多いほど助かるのです。だれか買わないかなあと注目しています。
2011年2月25日金曜日
Ustream「ファン・ルーラーについて(4)」
ファン・ルーラーの神学は、20世紀の「実践神学」に非常に大きな影響を与えました。(50分59秒)
【訂正】ファン・ルーラーのユトレヒト大学神学部教授の在任期間は「23年間」でした。
2011年2月20日日曜日
Greeting Cardというメールのリンクはクリックしないでください Please do not click the link of Greeting Card
Greeting Cardというメールが当方から届いた方は、申し訳ありませんがクリックしないで削除してくださいますようお願いいたします。原因がよく分かりませんが、私が送ったものではないものが勝手に送られたようです。心からお詫びいたします。
Please do not click the link of Greeting Card. I don't know how such a mail was sent from my mail-address to you. I sincerely apologize.
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2011年2月19日土曜日
Ustream「ファン・ルーラーについて(3)」
神学者ファン・ルーラーは教会の牧師でもありました。彼は、神学は教会の仕事(職務)と切り離して考えることができないものであることを知っていました。(45分47秒)
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