2009年9月27日日曜日

はじめのことば

Kubbart



クバート教会(オランダプロテスタント教会)



関口 康 (日本キリスト改革派松戸小金原教会)



2009年9月14日



「ファン・ルーラー研究会」(1999年2月20日結成)と共に日本語版『ファン・ルーラー著作集』の刊行を目指して日夜努力してきました。翻訳も出版も全く未経験で、何の知識も無い状態から出発しました。多くの方々のご協力とご指導をいただきながら、少しずつ少しずつ前進してきたつもりです。



しかし、まだ思うような形になりません。そもそも「ファン・ルーラー」の名前が日本では依然としてほとんど知られていないため、いきなり訳書を世に問うてもただ無視されるだけであることは目に見えています。翻訳作業と同時進行でこの人物の生涯と神学思想をさまざまな角度から紹介し、興味を抱いていただくことにも取り組まなくてはなりません。そんなことをしているうちに10年という歳月が経過してしまいました。焦る気持ちを抑えながら地味に地道に、良質の翻訳を目指して頑張っています。



インターネット版を公開する意図は、ひとえに翻訳者の「弱さ」にあります。完成品を読んでいただくほうがよいに決まっています。しかし、翻訳を生業にしておられる方々ならばともかく、私の場合は牧師の仕事の傍らで続けていることですので、翻訳のほうは断続的な作業しかできません。そして、一冊の訳書が仕上がるまでがきわめて長期にわたるため、たとえ断片的なものであっても何らかの公開の場を持たないかぎり道半ばでくじけてしまいそうになります。私の切なる願いは「みなさま、この弱い者をどうか励ましてください」ということです。



インターネット版「ファン・ルーラー著作集」に「ファン・ルーラーを独占したい」などの意図は一切ありません。この稀有な神学者は誰にも独占されたがらないでしょう。目標は日本語版『ファン・ルーラー著作集』なのです。多くの方々との一致や協力なくして、どうして実現できましょうか。私はこの夢を実現するために必要なすべてのことを考えていきたいと願っています。



本サイトからの引用についての注意事項



2009年9月25日金曜日

Facebookのファン・ルーラーのプロフィールを更新しました

フェイスブック(Facebook)の「Arnold Albert van Ruler」のページの中にあるファン・ルーラーのプロフィール(ホームページ、自己紹介、趣味・興味)を以下のように書きました。字句修正をアメリカの友人Tim Hawes氏が引き受けてくださいました。



N118410887796_4263_2Arnold Albert van Ruler (Facebook)
http://www.facebook.com/pages/Arnold-Albert-van-Ruler/118410887796



Arnold Albert van Ruler



ホームページ:
http://www.aavanruler.nl



自己紹介:
I was born in Apeldoorn, Netherlands, on 10 December 1908. After graduating from the Gymnasium Apeldoorn and the University of Groningen (Rijksuniversiteit Groningen), I became a pastor of the Dutch Reformed Church (Nederlandse Hervormde Kerk). I served at two local churches (Kubbard and Hilversum). After World War II, in 1947, I became a professor at Utrecht University, Faculty of Theology (Rijksuniversiteit Utrecht, faculteit van Godgeleerdheid). During my lifetime, I wrote many books and essays. The publication project of my new Collected Works (Verzameld Werk) started in September 2007.



趣味・興味:
I love Soccer (playing and watching) and Billiards.



'We need to enjoy our life itself more than to ask the meaning of our life.' (A. A. van Ruler)



まだ始めたばかりのSNSです。ご関心のある方は仲間に加わっていただけると嬉しいです。しかし、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)というものが神学研究においてどのように使用しうるかを試験している段階ですので、参加を強制・強要するような気持ちは全くありません(ある程度のパソコン能力がないと、「重荷」を増やしてしまうだけかもしれません)。



『ファン・ルーラー著作集』刊行の背景と目的

アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラーは20世紀において最も強い影響力を持ったオランダのプロテスタント神学者の一人である。彼の名前はしばしばK. H. ミスコッテとO. ノールドマンスと共に一息で並び称されてきた。しかしこの二人とは異なり、ファン・ルーラーの文書遺産はまだ十分には公開されていない。その状況を変えようではないか、そのために学術的責任を負いうる新しい『ファン・ルーラー著作集』を出版するために努力しようではないかと提案されたのは世紀の変わり目の頃である。それ以後数年の間、その思いがプロテスタント神学者たちの中に行き巡っていた。オランダ神学学術研究院の委嘱に基づいて実施された予備調査の結果、これは真の大事業になっていくに違いないが、まさに骨を折る価値のある事業であるということが明らかになった。非常に多くの未発表文書や研究途上の資料断片がユトレヒト大学図書館のファン・ルーラー文庫の中で眠ったままである!すでに公刊されてきたものとは別の大量のテキストがざくざく掘り出されている。



2005年春、この大規模な事業に着手することが決定された。この新しい著作集のねらいはファン・ルーラーの手で執筆されたすべての文書を収録しうるものではないが、全体としてみれば結局、数千ページに及ぶテキストを何巻かに分けて公刊することになるだろう。テキストは主題ごとに時系列的に並べられる。そのようにしてファン・ルーラーの思想のあらゆる主題がいかなる仕方で年代的に発展を遂げて行ったかを明らかにしていく。オランダ神学学術研究院がブーケンセントルム出版社との提携によって進めてきた本事業は先般開学されたオランダプロテスタント神学大学に継承された。われわれが願っていることは、この事業が多くの人々にとって、ファン・ルーラーの神学思想を鋭く見極め、それによって真の豊かさを得るための刺激でありたいということである。



定評あるファン・ルーラーの「聖書黙想集」の再版は、この事業とは別に各巻ごとに行う。この事業の一環として聖書黙想集シリーズの予約注文ができるパンフレットを発行する。さらに、関連事業としてニュースレターの発行や研究会開催案内なども行う。




2009年9月20日日曜日

暗闇の中を歩かないために


ヨハネによる福音書8・12~20

「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』それで、ファリサイ派の人々が言った。『あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。』イエスは答えて言われた。『たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。』彼らが『あなたの父はどこにいるのか』と言うと、イエスはお答えになった。『あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。』イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」

先週の個所の続きではなく、一段落分飛ばしました。飛ばした段落は学ぶ必要がないと考えているからではありません。その逆です。8章1節から11節については、10月18日(日)の特別伝道礼拝のときにお話しいたします。そのときまで大事にとっておきますのでお楽しみに。

さて、今日の個所には、わたしたちの救い主イエス・キリストがおそらくは御自分のことを指差しながら、「わたしは(が)世の光である」と「再び」語られたと書かれています。

ここで気になるのは「再び」という断り書きです。あらかじめ申し上げておきたいことは、これはこだわる価値のある言葉であるということです。この「再び」の意味は、「わたしは世の光である」という言葉をイエスさまが以前に一度お語りになり、それと同じ言葉をもう一度繰り返されたということではありません。ヨハネによる福音書の中でこの言葉は、ここに初めて登場します。

それではこの「再び」の意味は何でしょうか。高い可能性をもって言えることは、イエスさまが「再びエルサレム神殿の境内にお立ちになって言われた」ということ、つまり、イエスさまが以前語ったのと同じ言葉を繰り返されたということではなく、以前お立ちになったのと同じ状況にもう一度戻ってこられた、ということです。

教師が「再び」教壇に立つ。音楽家が「再び」ステージに立つ。たとえばこのように語られるときの「再び」には、しばしば特別な意味が込められています。そのことは特に、その人が様々な意味での反対や妨害、中傷誹謗、深い悩みや絶望の中にあり、一度は立ったあの場所にもう一度立つことがきわめて困難であるような状況があるという場合に当てはまります。

そのとき込められている特別なニュアンスは、「しかし、それにもかかわらず、再び」です。しかし、それにもかかわらず、あらゆる困難を乗り越えて、再び同じ場所に立って語る。もしこの意味だとすれば、「イエスは再び言われた」の「再び」には、イエス・キリストの不屈の闘志が表現されているのです。

現に、イエスさまがエルサレム神殿の境内でお語りになっている最中にも、それを聞いている人々から何だかんだと口を挟まれ、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられ、説教が妨害されていた様子が分かります。しかし、それにもかかわらず、イエスさまは「再び」語られるのです。このこと自体がわたしたちにとっては励ましであり慰めです。イエスさまは、めげない、凹まない。どんなに激しく妨害されても引き下がらない。イエスさまとはそのような方なのです。

さて、そのような不屈の闘志をもってイエスさまがお語りになった言葉が「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(8・12)というものでした。この御言葉の字義的な内容を説明させていただきます。

「世」とは、世界のすべてです。神が創造なさったもののすべて、すなわち、わたしたちが生きている地上の世界の全体を指しています。今日「地上」という言葉を使いますと「地球」のことであると思われてしまうことがありますが、それは誤解です。地球だけではなく宇宙も含まれます。「世」とは文字通りの「天地万物」のことです。

哲学的に「存在そのもの」と言っても間違いではありません。文学的に「生きとし生けるもの」と言ってもよいかもしれませんが、「生きている」とは見えないもの、たとえば石や岩のようなものは含まれるのかというような疑問が起こるかもしれません。その答えとしては、「とにかく全部だ」と言うしかありません。神が創造された一切です。それが「世」です。

その「世」の「光」がこのわたしであると、イエス・キリストはお語りになりました。考えるべき一つの点は、その光はどこを輝かしているのかということです。狭い意味での「教会」に属している人々だけでしょうか。そうではありませんと言わなければなりません。「世」とは「とにかく全部」だからです。「とにかく全部」としての「世」においては教会の内側と外側の区別がありません。

イエス・キリストの光はむしろ教会の外側に立っている人々をこそ照らすのです。まだ神を知らず、神の恵みも救いも知らないときに「何かの光がこのわたしを照らしている」と知る。その光の明るさを感じ取った人々が教会へと導かれてくるのであって、逆の順序ではありません。

しかし、「光」という言葉は、言えば言うほど抽象的な響きを感じなくもありません。イエスさまが光であり、その光が世を照らすとは、具体的に言うと何のことでしょうか。いますぐに申し上げることができますことは、「光を照らす」とはやはり「向き合うこと、かかわること」というようなことと深く関係しているでしょうということです。少なくともイエス・キリストの顔と目が「世」の方向へと向いているということと関係しているでしょう。「わたしは世の光である」と言われるイエスさまの目が世を見ておられず、そっぽを向いておられるということがあるとしたら甚だしい矛盾でしょう。世のことにはまるで興味が無いイエスさま。これでは話が成り立たないでしょう。

そしてその場合は言うまでもなく、ただ遠くから眺めているだけということでは済まないでしょう。いちおう関心はあるが、手も足も出さない。近づかないし、直接的な関係を持とうとしない。それは、イエスさまの光が世を照らしているというのとは正反対の状態でしょう。やはり「かかわる」という次元の事柄が必ず関係しているでしょう。

少しまとめておきます。ここで分かることは、イエスさまは世に関心を持っておられる方であるということです。そして、ただ関心を持っておられるというだけではなく、世に対して直接的な関係をお持ちになる方であるということです。世に接近し、接触し、介入なさる救い主、それがイエスさまです。そして、そのことが、イエスさまが御自分を指して「わたしは世の光である」とおっしゃっていることと深く関係しているのだということです。

さらに、もう少し掘り下げて考えておきたいことがあります。それは、「光」にも二種類あるということです。

一方に、否定的で攻撃的で批判的な光というものがあります。警察や少年補導員が、暗闇に隠れて悪さをしている人々を照らしだす懐中電灯のようなものを想像していただくとよいでしょう。それがその人々の仕事なのですから、私はこれを悪い意味で言っているのではありません。しかし、イエスさまが「わたしは世の光である」と言われているときの意味が「このわたしイエス・キリストは闇夜に蠢(うごめ)く怪しい人々を捜しだすための懐中電灯である」という意味だろうかと考えてみる。そのときには、「たぶんそういうことではないだろうなあ」と考えるほうが当たっているだろうと申し上げているのです。

徹底的に悪を裁くこと、隠れた事実を探り当てて明るみに出すこと。それ自体は悪いことではなく、むしろ善いことです。徹底的に善いことであり、完璧なほどに正しいことです。完璧な善が存在し、そのような善が悪を裁く。それは悪いことであるどころか、最も善いことであり、絶賛に値するほど素晴らしいことです。

しかし、わたしたちは、ここでこそ立ち止まらなければなりません。はたしてイエス・キリストは否定的で批判的な光であるというだけでしょうか。世界の暗闇に紛れて働く悪の存在を徹底的に洗い出し、その罪を責め立てるためだけにイエス・キリストは来られたのでしょうか。そのような側面が全く含まれていないとは申しません。しかし、いま問うているのは「それだけでしょうか」ということです。

それだけではないでしょう。世を照らす救いの光としてのイエス・キリストの光は、わたしたちが置かれている日常の現実を温かく受け入れてくださる、希望と喜びにあふれた光でもあるでしょう。イエス・キリストはこの世界を肯定してくださり、同情してくださり、受容してくださる方でもあるでしょう。わたしたちは一面的な理解に陥ってはならないのです。

わたしたちが陥りやすい過ちは、他人については厳しく裁き、自分については甘く裁くということです。これは誰でも陥ります。ですからこのことについては互いに責めることもできません。しかし、そのことを認めたうえでなお言わなければならないことは、過ちは過ちであるということです。それが本当の意味での落とし穴であり、我々の人生を根本的な暗闇に陥れている部分でもあるということです。世を裁くこと、他人を徹底的に責めること、完全な正義感のもとに立って他人を断罪すること、そのことこそがわたしたち自身の人生を自ら暗くしてしまっている場合があるのです。

暗闇の中を歩かないためにわたしたちにできることは、いま申し上げたことのちょうど反対です。わたしたちが生きている世界の現実、わたしたち自身の現実を肯定することです。わたしたちの人生を喜びと感謝を持って肯定し、受容することです。

こんなことは無理であると思われるでしょうか。私はそうは思いません。この世界の現実と自分の人生を受け入れることはわたしたちに可能なことです。イエスさまが次のように語っておられます。

「あなたは、兄弟の目の中にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(マタイによる福音書7・3~5)。

わたしたちに必要なことは「わたしは神の憐みによらなければ立つことさえできない罪人である」ということを徹底的に自覚することです。そのことは、自分の目の中に「丸太」があると認識することでもあるのです。それができたとき、わたしたちは、他人に対して少しは優しくなれるでしょう。

(2009年9月20日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年9月15日火曜日

「ファン・ルーラー著作集」の「はじめのことば」

これまで「ファン・ルーラー研究会」のホームページとして公開してきたアドレス(URL)を、これからは関口の個人用に使わせていただくことにしました。新しいタイトルは「ファン・ルーラー著作集」としました。



ファン・ルーラー著作集
http://vanruler.protestant.jp/



このタイトルの意図や新規サイトの目的については、トップページ(ようこそ)の「はじめのことば」に書かせていただきました。





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はじめのことば



関口 康 (日本キリスト改革派松戸小金原教会牧師)



「ファン・ルーラー研究会」(1999年2月20日結成)と共に日本語版『ファン・ルーラー著作集』の刊行を目指して日夜努力してきました。翻訳も出版も全く未経験で、何の知識も無い状態から出発しました。多くの方々のご協力とご指導をいただきながら、少しずつ少しずつ前進してきたつもりです。



しかし、まだ思うような形になりません。そもそも「ファン・ルーラー」の名前が日本では依然としてほとんど知られていないため、いきなり訳書を世に問うてもただ無視されるだけであることは目に見えています。翻訳作業と同時進行でこの人物の生涯と神学思想をさまざまな角度から紹介し、興味を抱いていただくことにも取り組まなくてはなりません。そんなことをしているうちに10年という歳月が経過してしまいました。焦る気持ちを抑えながら地味に地道に、良質の翻訳を目指して頑張っています。



インターネット版を公開する意図は、ひとえに翻訳者の「弱さ」にあります。完成品を読んでいただくほうがよいに決まっています。しかし、翻訳を生業にしておられる方々ならばともかく、私の場合は牧師の仕事の傍らで続けていることですので、翻訳のほうは断続的な作業しかできません。そして、一冊の訳書が仕上がるまでがきわめて長期にわたるため、たとえ断片的なものであっても何らかの公開の場を持たないかぎり道半ばでくじけてしまいそうになります。私の切なる願いは「みなさま、この弱い者をどうか励ましてください」ということです。



インターネット版「ファン・ルーラー著作集」に「ファン・ルーラーを独占したい」などの意図は一切ありません。この稀有な神学者は誰にも独占されたがらないでしょう。目標は日本語版『ファン・ルーラー著作集』なのです。多くの方々との一致や協力なくして、どうして実現できましょうか。私はこの夢を実現するために必要なすべてのことを考えていきたいと願っています。



ここに掲載するすべての文章は、関口康による試案であり、提案であり、その意味での「未完成品」です。そのようなものであるということをぜひご理解ください。予告なしに記載内容の変更・修正を加えていきますので、本サイトのどの部分についても引用等はなるべくお控えください(必要な方は必ずご連絡ください)。よろしくお願いいたします。



2009年9月14日



2009年9月14日月曜日

ファン・ルーラー著「地上の生の評価」をめぐるディスカッション(2001年)

日時 2001年7月16日(30分間)
場所 東京某所



質問者A:
「マルクス主義における『地上の生』の高い評価の不徹底に対するファン・ルーラーの批判という部分に興味をひかれた。ファン・ルーラーはマルクス主義とキリスト教の違いをどのあたりに見ていたと思うか」。



関口:
「最も大きな違いと見ていたのは罪の問題である。マルクス主義は罪の解決という次元を抜きにして世界の完成を語ろうとする。しかし、キリスト教というかファン・ルーラーは罪の解決なしには世界は完成しない、世界が完成する前に回心と救いが必要である、と語る。しかし、マルクス主義の人々は、神も仏もへったくれもないところで自動的にプロレタリアート独裁の理想世界が完成すると信じている。ここに最も大きな違いがあると思われる」。



質問者B:
「とても面白かった。終末論の事柄とも関わるのでたいへん参考になった。私もぜひファン・ルーラーを読んでみたいと思った。ところで、ファン・ルーラーとオランダ改革派神学者のバーフィンク、ベルカワーとの関係はどういうものか。またファン・ルーラーのカイパー批判の論点は、ごく短く言えばどういうものであるか」



関口:
「バーフィンクに対しては高い肯定的な評価があると思う。ファン・ルーラーは『啓示の哲学』の必要性をバーフィンクの名前を挙げて訴えているし、RGG第三版の「バーフィンク」の項目の執筆者がファン・ルーラーであったりする。ベルカワーとの関係についてははっきりしたことは言えないが、私の印象ではあまり仲良くなかったように思う。ベルカワーの書物の中に重箱の隅を突付くようなファン・ルーラー批判を見かけたことがある。原因ははっきり分からないが、年齢が近いこと、教派が違うことなどで小競り合いがあったのではないか。でも、ファン・ルーラーのデータを見ていると、アムステルダム自由大学で行われた講演なども結構多く、そのあたりはどういう事情なのか、私自身も興味を持っている。カイパー批判については二つくらいのことが言えると思う。まず第一に、NHK内部にGKN離脱そのものを批判し続ける線があり、その線をファン・ルーラーが受け継いでいること。カイパーと直接激突して自由大学を追われたと伝えられる倫理学者フードマーカーの弟子がハイチェマ。そのハイチェマの弟子がファン・ルーラーである。第二に内容面であるが、ファン・ルーラーはカイパーの一般恩恵論を批判した。特殊恩恵の優位性を強調するあまり、つまり、一般恩恵と特殊恩恵との区別を強調するあまり、『キリスト教的○○』を言いすぎる結果を生み出し、この世界の中に一般社会とは全く区別されたゲットーのようなものを作っていくことの危険性があるというあたりを批判したようだ」。



質問者C:
「ファン・ルーラーが受け継いだと言われる『体験主義の伝統』は『敬虔主義』と同じだろうか」。



関口:
「そう言えると思う。現在調べが付いているところで言えば、ファン・ルーラーが受け継いだ『体験主義』は、オランダに起こった第二次宗教改革の伝統を引き継ぐものだと言われている。ものの本によると、その伝統は『火を見つめながら三位一体の神を瞑想する伝統』であると紹介されていた」。



質問者D:
「いろいろ問題を感じながら聞いていた。総じて思うことは、こんな理屈はオランダというキリスト教の伝統を豊かに引き継いだ文化国家の中で、お勉強がよくできる学者さんだから語りうることだ。たとえば、三位一体論から見た『世界は不必要』という話は、存在論の理屈ならそう言えるかもしれないが、そんな理屈を使って日本の中で伝道はできない。『世界は必要である』ということをもっと語るべきではないか。またファン・ルーラーが言っていることが、地上の生を喜んでそのまま受け入れなさいというような話だとすれば、たとえば障害者の人にとってどれくらい耐えうる言葉であろうか。『遊び』だなんだという部分も、オランダの中では語れるかもしれないが、日本ではとてもじゃないが受け入れられない。現実に人生の苦しみを感じている人の耳には届かない」。



関口:
「なるほどごもっともと感じるところがある。これからいろいろ考えてみたい。ただ、ファン・ルーラーの時代のオランダの状況は、カイパーの時代などから比べると世俗化がずっと進んでしまっていたと言いうる。その中でファン・ルーラーは世俗化に対して肯定的な立場をとっている。彼自身、労働者の家庭で育ったり、政治やら何やらに手を伸ばしていたことなどもあってか、私がファン・ルーラーの書物を読んでいる印象では『お高くとまっている』人ではなかったと感じている。だから、お勉強ができる学者さん云々の部分はちょっと違うのではないかと思う」。



質問者E:
「ファン・ルーラーが『遊び』を語るのは何の影響か。また、アウグスティヌスのfrui Deiとuti mundoの区別をファン・ルーラーが批判しているようだが、その批判は当たっていないのではないか。ファン・ルーラーはアウグスティヌスを読み違えているのではないか。カルヴァンのtheatorum gloriae Dei のほうは肯定し、アウグスティヌスのほうは否定するということは、アウグスティヌスとカルヴァンを対立的に捉えているということか。それは違うのではないか」。



関口:
「はっきりとしたことは言えないが、ファン・ルーラーの『遊び』はやはりホイジンガの影響抜きには考えられない。しかし、神学の世界で『遊び』という言葉が採用されはじめたことにおいてファン・ルーラーは草分け的存在である。モルトマンやコックスはファン・ルーラーよりずっと後。いや、モルトマンの場合、ファン・ルーラーからの借用である可能性が高いと考えている人々がいる。またファン・ルーラーのアウグスティヌス批判については、今日のところはファン・ルーラーの言っていることを紹介したまで。ファン・ルーラーの理解が間違っているかどうかわたしはまだ何の判断も持っていないので、ご勘弁いただきたい」。



質問者E(上に同じ):
「『遊び』は、やはりホイジンガの影響か。なるほど私もそう思う。あの時代、進歩的な文化人たちはみな『遊び』という言葉を使った。しかし、うちの教会の中には『遊び』とか『喜び』と言われると途端に拒絶反応を起こす人々がいる。今まで我々が信じてきた改革派神学とファン・ルーラーの神学がどのように馴染むのか馴染まないのか、今のところ未知数であると感じている」。



関口:
「たしかにファン・ルーラーの『遊び』はホイジンガの影響抜きには語れないと思うが、使われている意味は違うと思う。ホイジンガはオランダのメノナイト派の人だった。ファン・ルーラーは改革派。思想の根本が全然違う。同じ言葉を使っていても内容が違うと私は理解している。ファン・ルーラーが『遊び』を語り始めたのはすでに戦中から。これから申し上げることは、今のところ何の調べもついておらず、それゆえ全く当てずっぽうなのだが、ファン・ルーラーの目に映るオランダの戦中から戦後にかけての状況の中に『この世界の中で生きることに完全に絶望してしまっている人々』がいたのではないか。この世界を捨て、世界から逃げ出して、天国に、『あっちの世界』に行ってしまいたいと切望し、自殺を図ろうとする人々さえ見ていたのではないか。その人々を前にしてファン・ルーラーは『この世界から逃げてはならない!』『この世界を喜んで受け入れ、引き受ける勇気を持ちなさい!』と訴えていたのではないか。この世を捨ててしまいたい人々に向かって、なんとかしてこの世の中に留まってもらいたいと願い、留まらせるための努力をしていたのではないか。要するに、現在<いのちの電話>の人々たちがやっているような仕事に通じることを考えていたのではないだろうか」。



2009年9月13日日曜日

聖書の正しい調べ方


ヨハネによる福音書7・40~53

「この言葉を聞いて、群衆の中には、『この人は、本当にあの預言者だ』と言う者がいたが、このように言う者もいた。『メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。』こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、『どうして、あの男を連れて来なかったのか』と言った。下役たちは、『今まで、あの人のように話した人はいません』と答えた。すると、ファリサイ派の人々は言った。『お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。』彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。『我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。』彼らは答えて言った。『あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。』人々はおのおの家へ帰って行った。」

今日お読みしましたこの個所にはイエス・キリスト御自身は登場いたしません。その代わりにここに記されていますのは、イエス・キリストの説教を聞いた人々の様々な反応です。

前回まで学んできましたとおり、イエスさまは、ガリラヤ地方にいた御自分の兄弟たちには内緒でエルサレムにひとりで上られ、神殿の境内にお立ちになって、多くの人々の前で説教なさいました。その説教を聞いた人々の中には「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているだろう」(7・15)という点に疑問をもった人々がいました。その疑問にお答えになるためにイエスさまがおっしゃったことは、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」(7・16)ということでした。

このようなお答えのなさり方が、イエスさまに対する先ほど述べたような疑問をもった人々が納得できる、あるいは十分に満足できる答えとして受けとめられたかどうかは分かりません。彼らの疑問は、イエスさまが聖書を勉強した場所と方法が分からないということでした。しかし、イエスさまはそのことについては何も答えておられません。イエスさまのお答えを聞いた人々の中には、わたしは聖書を勉強したことなどなく、「わたしをお遣わしになった方」、すなわち、父なる神御自身から直接教えていただいたのだと、そのような答えを我々は聞いたと感じた人もいたはずです。別の言い方をすれば、わたしは勉強などしなくても、そんなことは初めから知っていると、そんなふうにこの人は言ったと、イエスさまの言葉を解釈する人々もいたであろうと思われるのです。

しかし、です。わたしたちはイエスさまがおっしゃったことを我々とは全く異なる完全な別世界の話にしてしまってはならないだろうと私自身は考えております。はたして本当にイエスさまは「聖書を勉強する」という次元のことは一切なさったことがないと言ってよいのでしょうか。いや、そんなことはないはずだと思われてなりません。勉強などしなくてもわたしは何でも知っているという人がいれば、それはスーパーマンか宇宙人です。宇宙人だって勉強するかもしれません。しかし、イエスさまについてわたしたちは、この方が幼い頃から会堂にも神殿にも通っておられたという点は語ってよいことです。そこで語られ聴かれている聖書の説き明かし、すなわち説教というものをイエスさまはずっと聞き続けてこられたはずです。この点では、イエスさまはわたしたちと全く同じなのです。神学部に入学しなければ、神学校に通わなければ、聖書をよく知ったというにはならないというふうに考えてしまうこと自体が間違いなのです。聖書というこの書物の本質から言えば、この書物を教会の中で説教を通して学ぶことこそが、この書物の最も正しい学び方なのです。

そして、その場合に重要なことは、教会においては、聖書に基づく説教というものを「神御自身がお語りになる御言葉」であると信じて聴くのだということです。その意味からいえば、教会に通っているわたしたちは、なるほど「聖書を勉強する」という言い方は当てはまらないようなことを続けているかもしれません。たとえば一昔前の日本では(という言い方をすると怒られるかもしれませんが)学校教育の中にいわゆる丸暗記という方法が採られ、重要視されていた時期がありました。60年ほど前には、日本の歴代天皇の名前を全部言えるようになることが求められたりもしました。「聖書を勉強する」ということをそれと同じように考えてしまうとしたらどうでしょうか。皆さんの中に旧約時代のイスラエル王の名前を、あるいは新約聖書の最初に出てくるイエス・キリストの系図に登場する人々の名前を何も見ずに順序を間違えないですらすら諳んじることができるという方がおられるでしょうか。もしおられたら素晴らしいことです。しかし、そういうことができなければ聖書を勉強したことにならないとでも言われた日には悲鳴を上げたくなるという方のほうが多いのではないでしょうか。

私がいま、皆さんと一緒に考えていることは、聖書を勉強する、あるいは聖書を知るとはどういうことを意味するのでしょうかという問題です。丸暗記することでしょうか。ここかしこの聖句を暗唱できるようになることでしょうか。どうもそういうこととは違う次元のことであるだろうと考えざるをえません。聖句を暗唱できる人をけなす意図はありませんし、それ自体は立派なことです。しかし、そのこととこのこととは別の話であるはずだと、いま私は申し上げているのです。

今日の個所の最初に出てくるイエスさまの説教を聞いた人々の中に「この人は本当にあの預言者だ」と言う人がおり、「この人はメシアだ」と言う人がいました。実は、この人々が言っていることこそが、わたしたちが「聖書を勉強するとは何を意味するのか」という問題を考えていくときに重要な参考例になるものです。とくに重要なのは後者、すなわち「この人はメシアだ」と、そのように感じた人がいたという事実です。なぜこの人はそのように感じたのかということを、わたしたち自身が、いわばこの人の立場に立ってじっくり考えてみるとよいのです。

「メシア」はヘブライ語です。これをギリシア語に翻訳した言葉が「キリスト」です。ですから、イエスさまの説教を聞いた人が言ったのは「この人はキリストだ」ということである、ということになります。メシアとは旧約時代のイスラエルの人々が心から待ち望んだ、将来来てくださる救い主のことです。しかしまた、そのことと同時に、その方は彼らにとってはまだ来ておられない、未知なる方でもありました。まだ見たことがない、出会ったことがない存在でした。空想の存在とまで言ってしまうことには語弊がありますが、実際にそれはどのよう方であるかを誰も知らず、誰も見たことがなかった以上、その方を現実的な存在と呼ぶことは難しい。それが、旧約時代のイスラエルの人々にとってのメシアの存在でした。

しかしまた、ここで考えざるをえないことは、イスラエルの人々が、メシアが来てくださることを心から待ち望んでいたことには、彼らの置かれていた苦しい現実があったということです。ラクチンで生きている人々は救い主など必要ないかもしれません。わたしたち人間は、苦しんでいるからこそ、助けを求めなければ生きていけないほどに追い詰められているからこそ、このわたし、わたしたちを助けに来てくださる方の存在を空想したり夢見たりする必要があるのです。

群衆の中にいたイエスさまの説教を聞いて「この人はメシアだ」と言った人がそのときどのような事情の中に置かれていた人であるかは分かりません。しかし、この人がどうしてイエスさまにこの方はメシアだと感じたのかという点に関してわたしたちが考えうることは、ただ単にそう思っただけだということを越えているものがあるのではないかということです。より具体的に言えば、「この人は、いま苦しみの中にいる、このわたしを、わたしたちを助けてくださるために来てくださった救い主である」と感じることができたということです。そしてそれは、もっと踏み込んで言えば、今苦しんでいるこのわたしが、わたしたちが求めているニードに対して、あるいは心や体の飢え渇きに対して、わたしの目の前にいるこの方、イエスというお方が応えてくれる、満たしてくれる、そのような存在であると見えたに違いないということです。

もっと平たく言えば、この人はやはりイエスさまに出会うより前に、まずは自分自身の飢え渇きや自分自身では解決できない悩みや問題を抱えていたのだと思われるのです。その人の心に大きな穴が開いていた。心のお腹がすいていた。そこにイエスさまの語る御言葉が、イエスさまのなさるみわざがすっぽり入って来た。「ああ、これこそ、わたしが求めていたものだ」と、そのように感じたのです。そうでなければ「この人はメシアだ」という話には決してならない。「この人はメシアだ」、すなわち「この人はキリストである」とは、「わたしは救われた」と言うのと全く同じ意味だからです。

ところが、続く個所を読みますと、おそらくは聖書を一生懸命勉強してきた人たちの側から異論が出てきたことが分かります。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」(7・41~42)。

彼らの聖書知識によると、イエスさまの生い立ちは、聖書に書いてあることから外れているということになるようでした。だから、彼らはイエスさまを信じませんでした。あるいは、少し飛びますが、これまた聖書を一生懸命勉強してきた学者であるファリサイ派の人々の口から「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている」(7・48)という言葉が飛び出します。ここで「議員やファリサイ派の人々」とは「律法を知らないこの群衆」との対比があるわけですから、学校に通って聖書を学問的に研究した人々という意味になります。専門的に研究した人の言うことと、そうでない人の言うこととの、どちらを信用できますかという言い方です。群衆を見くだした言い方でもあります。

しかし、学者たちには分からなかったことが、分かった人々がいた。彼らに分かったことはイエスというこの方がメシアであり、キリストであるということでした。なぜ分かったのか。彼らはその方を求めていたからです。助けを求めていました。苦しい現実の中にいたからです。彼らの心の中に、救いを求めるニードがあった。だから、「いま目の前にいるこの方に、わたしは救われた」と感じた。この方が救い主であると分かったのです。

「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」(マタイによる福音書5・4)。聖書の正しい調べ方、それは、いま生きている現実を直視し、悩み苦しむこと、悲しむべきことを悲しむことです。そのときイエスさまが救い主であることが分かります。この方はこのわたしの悩み苦しみをご存じであるということが分かります。この方は、このわたしのために十字架にかかって死んでくださった方であるということが分かります。そのことが分かれば、「聖書が分かった!」と言ってよいのです。

(2009年9月13日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年9月12日土曜日

『福音と世界』座談会に登場

新教出版社の看板雑誌である『福音と世界』誌の最新号(2009年10月号)の特集記事「座談会 今カルヴァンをどう読むか」に、田上雅徳氏(慶應義塾大学法学部准教授)と私、関口康、そして芳賀繁浩氏(日本キリスト教会豊島北教会牧師)(以上、発言順)が登場します。



この三人(プラス司会者)の座談会は、今年8月1日、東京・新宿の新教出版社本社ビルの一室で行いました。



『福音と世界』は定価600円(税込)です。近くのキリスト教書店でお求めになれます。



新訂版『ファン・ルーラー著作集』第三巻、やっと配本

2007年から毎年一冊のペースで配本されている新訂版『ファン・ルーラー著作集』(A. A. van Ruler Verzameld Werk)の第三巻がようやく配本されました。出版社が公表した最初の計画表では昨年12月10日の「国際ファン・ルーラー学会」(アムステルダム自由大学)に間に合うはずだったのですが、8か月遅れとなりました。編集者や出版社を責めるつもりはありませんが、首を長くしすぎて肩がこりました。しかし、ともかく出ましたので、一安心です。



第三巻(2009年)のテーマは「神、創造、人間、罪」(God, Schepping, Mens, Zonde)。さあ、いよいよこれから神学の本論に突入です。第一巻(2007年)のテーマは「神学の本質」、第二巻(2008年)は「啓示と聖書」でした。



第三巻(2009年)に収録されている論文名は、以下のとおりです。



1、神



我々の神認識の本質
神の存在証明
旧約聖書と新約聖書の神
神を語ること
三位一体の教理
三位一体
我々は神なしでありうるか
神の隠匿性



2、創造



天国の五つの定義
天使
創造と贖いの関係
存在の奇跡性
逆の意味での「実存」
我々は事物をいかに評価するか



3、神の摂理



神の摂理
我々はキリスト者として神の御手のうちなる世界に立っている
秩序と混沌
神は世界のために一つの計画を持っておられる
1953年の惨事
神と混沌
苦悩
教導



4、人間



今日の共同体問題
人間の責任と神の教導
良心について 成人の宗教教育との関連で
神と人間の出会い
権威
オランダの精神生活に映し出された人間
なぜ私は個人主義者でないか
プロテスタント的人間観
福音における非人間的要素
個人化の一形態としての成熟
心と事物
そのとき人間に何が起こるのか 教会の永続的要素
神と歴史
聖書とキリスト教の光のなかでの歴史における人間
変えられること
歴史の意味としての人間
わたしは元々何なのか
人間は創造者の王冠か



5、罪



新約聖書の身体論と精神論
聖定における罪
罪の陽気さ
罪人としての人間



6、地上の生



信仰と現実
我々の人生の意味
世界に対するキリスト教信仰の誠実さ
地上の生の評価
我々は何のために生きているのか
聖書の視点から見た喜び
キリスト教的生活感情としての喜び
意味を見出し意味を得る
存在の秘儀:無意味か罪か
人生の意味を問うことに意味があるか
垂直的なるものと水平的なるもの



7、時事問題



今日におけるキリスト教信仰の意味
王冠をかぶった馬鹿野郎
母性
豊かであることと増やすこと
結婚
家族
教会と動物愛護
『聖書と動物愛護』付録
プロテスタンティズムと動物愛護
心臓移植をめぐる道義的・宗教的問題
(新しきアダム)
(初めての月面着陸)



2009年9月10日木曜日

Google翻訳にビビる

パソコンソフトやインターネット上の自動翻訳というものを正直言って全く信用していなかったのですが、今回ばかりはかなり動揺させられました。「Google翻訳」はすごいと思いました。



いかなるサイトでも瞬時のうちに50以上の言語に「翻訳」して表示されます。「翻訳」とカギカッコをつけたのは、いまだにもちろん笑える翻訳が多いからですが、しかし、少し前と比べると状況は相当変わってきているように感じられました。



一例として、本ブログ「関口 康 日記」をGoogle翻訳で「翻訳」してみると、こんなふうになります。



ヘブライ語



ギリシア語



アラビア語



ドイツ語



オランダ語



フランス語



ロシア語



韓国語



でたらめばかり書きつけている拙ブログでも、他の国の言葉で表示されると、まるで自分のものではないかのように、なんとなく立派に見えてしまいました。ただ、この記事のタイトルはさすがのGoogleさんにとっても難解のようで、Google Translation Bibiruと訳してくれます。



しかし、特に驚いたのは、「関口康日記」よりも「今週の説教」や「改革派教義学」や「『キリスト教民主党』研究」などの各国版のカッコよさです。たとえば、ドイツ語版などは次のように表示されます。国際的に活躍している人の気分をちょっとだけ味わうことができます。説教に至っては、パッと見だけなら「カール・バルト説教集」さながらです。



今週の説教(ドイツ語版)



改革派教義学(ドイツ語版)



「キリスト教民主党」研究(ドイツ語版)