2008年9月6日土曜日
mixiに自己紹介文を書きました
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関口康(せきぐちやすし)です。千葉県松戸市の教会で牧師をしています。
mixiにログインできるようになることを長年憧れていましたが、だれも誘ってくれず寂しく思っていました。悔しかったので、友人に「私を誘ってください」とお願いして無理に入れてもらいました。
空気は、私なりにかなり慎重に読み切ったうえで、どうしたら「読めないやつだ」と思ってもらえるかをいつも考えています。
昔から、修学旅行のときは同室の人のなかで最後の最後まで起きていて、全員眠ったのを確認してから自分もねるという感じの人間でした。
そんな私ですが、どうかよろしくお願いいたします。
でも「マイミク」という四文字を見ると、中川翔子さんが「ギザ」とか言っているのを見るときにも感じる気恥かしさを覚えます。「あ、また見ちゃった」という感じ。穴があったら入りたい気持ちになります。
その昔「マンモスノリピー」とか言っていた人に対しては感じなかった思いなので、私もそれだけ年齢を重ねてしまったのでしょう。
それと、年齢とは関係ないかもしれませんが、女性については21年間、ただ妻だけに特化して愛してきましたので、女性とのメールのやりとりがちっとも盛り上がらないことを、ちょっとだけ苦にしています。
2008年9月5日金曜日
mixiのプロフィールに追加しました
かなり古いものも含まれていますが、とくに昔のものは私の性格形成に影響を与えたとさえ言いうるものをピックアップしました。
「好きな音楽」は、レッド・ツェッペリン、ZARD、コブクロです。
「好きな映画」は、007シリーズ、ミッション・インポッシブル、白バラの祈りです。
「好きな本、マンガ」は、笑われそうですがマンガのほうだけ書きました。サイボーグ009、ONE PIECEです。とくにONE PIECEの第41巻は、何度読んでもボロ泣きします。
これで分かってしまうかもしれませんが、私が好きになるものに共通している要素があるとしたら、(こんなことを言葉にするのは初めてですが)、「自分にしか関心がない」の対極に立つ、「輝くような勇気をもってこの世界を背負って生きようとするカッコよさ」をもった存在です。
ちなみに、私の妻もそういうカッコいい人です。私の最愛の存在です。
若干の修正
そこはかとない日本
「46週間内閣」の謎
本日配信された「福田内閣メールマガジン」の最終号は「第46号」でした。短命の一言に尽きる内閣でした。
この短さがあまりにも気になりましたので「安倍内閣メールマガジン」の最終号を見ましたところ、ちょっとびっくりしたことは、こちらも「第46号」であったことです。もちろん偶然の一致でしょうけれども、なんとなく不可解なものが残ります。
5年続いた「小泉内閣メールマガジン」の最終号は「第250号」でした。原則的に毎週木曜日の午前7時きっかりに配信されてきた(ように見える)彼らのメールマガジンです。つまり二つの内閣のメールマガジンの最終号が「第46号」であることの意味は、彼らの政権がきっかり46週間で幕を閉じ(させられ?)ているということです。共に「46週間内閣」であったということです。
この数字的な一致の理由は、それほど多くはないような気がします。おそらくは安倍氏が首相になる前に、安倍氏自身でも福田氏自身でもない(そしてもしかすると自由民主党の内部にいるのでもない)第三者が、政権交代についてのアジェンダを作成したのではないか。そのアジェンダを忠実に実行する秘密チームのようなものがあるのではないか。「まずは安倍に46週間、次は福田に46週間、そして次は○○、その次は○○」というような何かが。
政治にかかわる人々がその種のアジェンダを作成することや、その種のプランナーたちがいることは当然といえば当然のことですが、問題はそのような何らかのアジェンダが「忠実に」実行されてしまうこと自体です。最高権力者であることになっている(はずの)首相自身を一週間の狂いもなしに(きっかり46週間!)「忠実に」従わせるアジェンダと、それを実行するための秘密チームが存在するとしたら、それはほとんど「恐怖政治」と呼んでもよいような何かです。
もしこの推測が当たっているとしたら、福田氏の辞意表明の「唐突さ」の意味と、辞意表明中の「悔し涙」の意味、あるいはまた、そもそも政権担当中からの福田首相の「やる気のなさ」や「無表情」の意味がうまく説明できるようになります。福田氏から麻生氏への「禅譲の密約」というようなたぐいのものは、あったかもしれませんが、それはあくまでも個人レベルの話であり、自由民主党内部の話です。
私が気になっているのは、そんな小さな話ではありません。もっと気持悪い何か、戦慄を覚えるような何かです。安倍氏と福田氏の「任期」をちょうど46週間にしておくことで(「46」という数字そのものには意味はないように今のところは感じられます)、この「任期」を一国の最高権力者に守らせたことを暗に国民に悟らせようとしたフィクサーの意図を感じます。一種の犯行声明に近いものです。
2008年9月4日木曜日
この思い、日記には書いておきます
2008年9月3日水曜日
「田村でも金、谷でも金、母でも金」みたいでちょっと嬉しい
ちょっとだけ自慢させてください(日記のなかで誰に自慢するつもりだい?)。
「今週の説教」という語で検索した場合の結果として、私の説教サイトを探り当ててくれる順位がついに、グーグルでも第1位、ヤフーでも第1位、MSNでも第1位になりました!(本日現在です。この順位は日々変動しています)。
この検索結果は、私にとっては奇跡の瞬間芸のようなものですので、今日の日付を記念すべく書きとめておきます。
時々チェックしているうちに気づいたことは、各検索サイトの検索結果の上位にランクインしているのが、私(日本キリスト改革派教会牧師)のサイトと、日本カトリック教会の神父さんのサイトと、日本福音ルーテル教会の牧師さんのサイト。
つまり、うんと単純化して言えば、「カトリック、ルーテル、改革派」で三つ巴の競争(?)をしているように見えるということです。
まるでこの三者が16世紀っぽい説教競争を21世紀のインターネット内で再現しているかのように見えて、面白いです。
ただし、残念ながら、各検索サイトにおける順位が何を意味しているのかを、私は知りません。上記三つの検索サイトごとに結果が微妙に違っているところを見ると、それぞれの検索サイト会社が各自で持っている何らかの統計結果を反映しているのではないかと想像できます。
2008年9月2日火曜日
インターネット時代における「帝王教育」の不可能性
本来なら、今こそ泣きたいのは、自分の国の首相が突然職務を放棄することで大恥をかいた国民です。それなのに福田さんはまるで自分が被害者でもあるかのように泣き出す。
こともあろうに悔し紛れにひとりの記者をつかまえて、「私は自分を客観的に見ることができる人間である。あなたとは違うんです」。
元首相であった父のもとで受けたであろう何らかの「帝王教育」が、福田さんに極度の自己愛を抱かせたのではないでしょうか。
そう言えば安倍さんも、辞めるとき泣きました。心神喪失状態に陥りました。「お前は他の人間と違う特別な人間である」という自意識を幼い頃から植え込まれていたからではないでしょうか。
しかし、それは、このインターネット時代においてはもはや不可能な自意識であるはずではないでしょうか。
皇室の子どもたちの将来も心配です。自分たちに対する批判的なブログも見たことがないような「帝王」たちは、これからは、無知の謗りを免れないことになりはしないでしょうか。
このインターネットが存在するかぎり、現代社会における宗教と政治の「世俗化」は不可逆的に進行していくでしょう。
この流れを堰き止めることはもはや不可能であると私は考えています。好むか好まざるかにかかわらず、我々はこの「世俗化」に向き合い、かつ付き合っていかざるをえません。
日本語の誤り(3/3)
私の知るかぎり、「第二の人生としての牧師生活」を志す方々の多くは、(少なくとも外見上は)謙遜な方々ばかりであり、周りから見れば「牧師になるにふさわしい」と認めてもらえそうな方々ばかりです。しかし、その人が謙遜であることと、批判を向けにくい相手であることとは別です。日本キリスト改革派教会には牧師の70才定年規定がありますので、「第二の人生」を迎えた人は、そこから牧師の道をめざすことはできません。そういうのは概念矛盾だと考えている牧師たちが多いはずです。ここから先はまるで私の自己弁護みたいに響いてしまうかもしれませんが、本来「牧師」は(かつてのヨーロッパでは)ギムナジウムと大学を卒業したらすぐになって、そこから退職までずっと続けるもの、つまり純粋に「職業」だったはずです。しかしそれが日本の教会では(時々なぜか改革派教会の中でも)いつのまにか「牧師は職業ではない」とか言われ、すっかり誤解され変質してしまっています。「牧師は職業だと思いますけど」と返すと、「サラリーマン牧師めが!」と罵倒され白眼視されるケースまであります(「サラリーマン牧師」という物言いを批判的な意味をこめて語ることはサラリーマンの方々に失礼です)。「牧師の身分」という表現を(これは改革派教会にも少なからず)さらっと使う人がいます。 しかし牧師は「身分」(ステータス)でしょうか。全くの誤解です。いつから日本のプロテスタント教会はカースト制度さながらの縦社会になったのでしょうか。牧師は純粋に「職務」(オフィス)であり、その意味での「職業」です。「牧師の身分」という言葉を悪気なしに使っている人まで批判するつもりはありません。しかし、こういうのも私は「日本語の誤り」であると考えています。レトリックが決定的に不足しているのです。
日本語の誤り(2/3)
とはいえ、これはあくまでも日本キリスト改革派教会の場合です。他の教団・教派には必ずしも当てはまらない部分があるでしょう。各個教会の牧師の暴走・迷走を訴え出る「法廷」(長老主義の場合は「中会」や「大会」)が存在しない、または機能していない場合、教会役員はじめ教会員が何らかの「自衛手段」を持つべきは当然のことです。 また、「神学校出たての老牧師」の場合なども難しいケースです。「先輩牧師に育ててもらう」と口では言えても、「初めから老牧師である人の先輩がどこにいるのか」という悩みが生じます。この理由から、私は、他の仕事を定年退職した後に「第二の人生を主にお献げしたい」という(それ自体はまことに敬意に値すべき)理由で牧師になろうとする高齢者たちに対して(やっかみとかではなく)非常に大きな疑問を持っています。 そういう人々の多くが、どこかしらアンタッチャブルな存在になってしまうからです。要するに、だれも「彼/彼女」を批判することができません。なかでも自分がそこで長年「教会役員」を務めてきた教会に自ら「牧師」として赴任する老牧師の場合などは、ほとんど確実にそうなります。 しかし「アンタッチャブルな牧師」だなんて全くの概念矛盾です。だってその人が「神の言葉」を語ろうっていうのですから。想像するだけで空恐ろしいものがあります。