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2011年1月29日、千葉県松戸市で撮影 |
【試行錯誤 ①メーリングリスト】
「インターネットの歴史」を客観的に描くような話は、その筋の専門家が大勢いるように見えるので任せる他はないが、私個人がどうしてきたかは覚えているし、私の人生がなぜこんなふうになったかという話と密接な関係があったりする。断片的に書いて来た気がするが、通史で書くのは初めてかもしれない。
1990年から1996年まで高知県内の教会にいた頃、早い人はすでに「礼拝説教ウェブサイト」の取り組みを始めていたが、私はネットにつながるパソコンを持っておらず、「NEC文豪ミニ」などのワープロで仕事をしていた。1996年から10か月だけ働かせていただいた福岡県内の教会で「パソコン通信」を始めた。
「パソコン通信」だかなんだかよく分からないなりに、そういうのが必要だと痛感したのは高知にいた頃だった。当時の教団は激しい論争の最中だったが(今そうでないというわけでもない)、何が起こっているのかが高知にいるかぎり分からない。情報格差が激しすぎた。私が求めていたのは「情報」だった。
福岡で1996年の夏に「パソコン通信」をやっと手に入れたが、私の知りたい領域に入ってみたら、すでに荒れていた。牧歌的な要素は無いと思えた。「なんだこれは」の世界だった。しかし、文字のやりとりだけだったので、これからいろいろ発展するかもしれないので、それに期待しようという気持ちだった。
1997年から1998年まで神戸の神学校にいた頃、イミンク先生が講演に来てくださった。講演レジュメにメールアドレスが書かれていた。私のパソコンはネットにつながっていなかったはずなので、誰かのを借りたかもしれないが、オランダに戻られたイミンク先生にメールしたらすぐお返事をくださって驚いた。
1998年7月から山梨の改革派教会で働き始めた。そこでも情報格差を痛感した。着任早々、同年発売「ウィンドウズ98」搭載の巨体デスクトップを買い、ピーヒャラ言うダイアルアップでネットにつなぎ、1999年2月には牧師4名を発起人として「ファン・ルーラー研究会」というメーリングリストを立ち上げた。
しかし、そこからがきつかった。私は単純かつ純粋に「情報格差」を少しでも解消し、教会の言説に対して責任的な応答ができるようでありたかっただけだが、誤解する人々が現れた。私に名誉欲があると見えたらしい。そんなわけないがな。それと、情報がネットに「奪われる」と感じた人もいたようだった。
私はオランダ語辞典を1997年に神戸で買い、首っ引きでパッチワークのような翻訳を始めた翌年の1998年に山梨に移ったので、教えを乞いたいだけだった。しかし、国内の研究者はネットでは情報は一切くださらなかった。情報防衛をお始めになった。それで私はやむをえずネット上で試行錯誤の公開を始めた。
具体的に言えば「私は何も知りませんので教えてください」というスタンスでメーリングリストに投稿しはじめた。パッチワーク式にオランダ語1単語に対して日本語1単語を貼り合わせる「翻訳」で、日本語になっていないままの文章をメーリングリストに流して「これってどういう意味でしょうかね」と問う。
そういう私のやり方に不快感を抱いた方々が実際におられ、直接的にも間接的にも反発された。「人前で試行錯誤なんて恥ずかしいことをするものではない。我々が欲しい情報は完成された訳文なり論文なりだけであって、あなたの試行錯誤とかどうでもいい」と思われたようだった。その気持ちは理解できる。
それともうひとつ、メーリングリストの「管理」もほとんどメールでの連絡という方法を採ったので、メンバーが増えるにつれて(最終的に登録者が100名を超えた)、「翻訳と研究」にかかる労力よりも「管理」の労力のほうが重くなり、自分が何をしたいのか、何をすべきなのかが分からなくなっていった。
「ファン・ルーラー研究会」のメーリングリストは1999年から2014年まで15年続いたことになっているが、良かったのは最初の5年ぐらいで、あとはほぼ休眠状態。私の管理能力が無かったことをお詫びするしかない。個人的な試行錯誤はせいぜい2、3人の前でするものであって100人強の前でするものではない。
私のネット利用の経緯をもっとコンパクトに書けると思ったが、いろいろ思い出して長くなったので、ここでいったん終わる。