聖書ラノベ新人賞
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「宝路」by 関口康
「すまん走路、お父さん来月から本社勤務になった。一応栄転だが。引っ越しだ。」
二日間ぼくは泣き続けた。友達と別れるのが寂しかった。このときほど父を恨んだことは後にも先にもない。
父の会社は、キャンプ用品の製造と販売を専門とするメーカーだった。個人の注文だけでなく軍事施設からの注文が多かったので大企業へと成長した。海外支店もいくつかあった。父は本社で製造部門を長年担当した後、社長の信頼を得て海外支店長になった。
そこでぼくは生まれた。早い話が帰国子女だ。おかげで、両親の母国語と現地の言葉と現地の学校で教わった別の外国語を自由に使える。「走路(そうろ)」という名前は親がつけた。
ぼくの将来の夢は、法律の勉強をして自分が政治家になるか、母国を背負う政治家を生み出す教師になることだった。
両親からよく聞かされたのは、母国を強くしなければならないということだった。国土が狭く、地理的拡大の可能性は乏しい。しかし歴史と知恵がある。軍事力を強化し、国土と国民を守り、わが国を世界一の経済大国にする。それが我々の「使命」であると。
ぼくもそう思っていた。外国で生まれ育ったぼくが目の当たりにしたのは国籍や肌の色や言葉が違うだけで差別し合う人々の姿だった。しかし、それはやむをえないことだと思っていたし、その感覚は今も変わっていない。
父の仕事柄、軍事関係者が頻繁にうちに来ていた。戦争が始まればキャンプ用品はよく売れる。特にテントは破壊された自宅代わりになるし、避難先移動中の家になる。しかし、軍に一括購入してもらえれば何年も遊んで暮らせる収入を得られる。その人々が父と酒を酌み交わしながら、母の手料理をつついていた。
母は軍人が嫌いではなかった。彼らと話している母の表情がぼくは嫌だった。彼らの顔や会話は憶えているし、子どものぼくをかわいがってくれた。
ぼくが勉強面でチャンピオンになり、国内最難関の学校に入学し、法律の勉強を始めることができたのも、父の仕事と無関係ではない。軍のおかげだと言わなくてはならないかもしれない。家庭が裕福でないと学校には入れない。同窓生も裕福な家庭の出身者ばかりだった。
そしてぼくは子どもの頃から複数の外国語を使えたし、国際交流が苦でなかった。栄養豊富な美味しいものを食べさせてもらったので、身体が頑丈でスポーツが得意だった。マラソンだってボクシングだってできたし、今も別の意味で続けている。
(未完)
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