2015年3月31日火曜日

なにもそんな本当のことを面と向かって言わなくても

「てめえみたいなブタ」と言われちゃった(涙)
さっきスーパーで、泥酔のうえレジが混んでいることに腹立てて騒いでいる70前後のおじさんの後ろに並んでしまった。「うちの地元じゃこんなに並ぶの考えらんねえ」とか言うから「ここは都会なんだよ。我慢するしかないね」と言ったら「てめえみたいなブタに何が分かる」とニラまれてしまった。

私も若干キレそうだったのですが、私の後ろに愛する妻がおりましたので。頭の先から足までをじどーっと見た上で「てめえみたいなブタ」と言いましたので、感じたままを正直に言ったのでしょう。だいぶ遠くから来た方のようでしたので、心情的には同情できるというか理解できるものがあるんですけどね。

私は基本が柔道系なので(中学・高校で部活やっただけですが)、向こうからかかって来ないかぎり、こちらから近づくことは、まずないですね。今年50の人生で一度もないです。ただ、向こうからかかって来る可能性が全くないとは限らないので、さっきもメガネを外すかどうかだけは、さすがに考えました。

メガネ壊されると直すお金ないし、ガラス割れて眼球から流血みたいなことになってもなあと。まあ、でも逆に言えば、私が自分でメガネを外したときはコワイでえ~(ということにしておきます)。

都会の人間だけが我慢してるわけじゃないですよ。だけど、いい歳して騒ぎなさんなと言いたかっただけです。

2015年3月30日月曜日

力尽きて粛々とツイートする

牧師になることを決心した理由:信者の日曜日が幸福でない理由は理解不能な説教にある。理解可能な説教できる人間になりたい(17歳)→理解可能な説教とは教派色鮮明な教会の論理と符合することを意味する(25歳)→それは一教派の内部論理であってはならず普遍性をめざすべき(←やっとイマココ)

いくつかの解決策の実例:信者に理解不能な説教でも短時間なら我慢してもらえる(可能性がある)ので説教時間を5分10分程度に短縮する。短所:これでは信者が一生かけてもキリスト教とは何かを論理的に理解できることはありえず、心地よいフレーズの断片(ないし愛唱聖句)の羅列で終始しかねない。

キリスト教の「教会」と「学校」と「施設」と「各種事業」を横並びにする考え方も分からなくはない。でも、後三者はキリスト教の看板おろしても一般ニードがあるかぎり続くと思うけど、キリスト教の看板おろした「教会」(名称はチャーチやチャペルやセンターでも)に意味あるのかと思わざるをえない。

「キリスト教の看板おろした『教会』」と書いたのは比喩として考えているだけのことだ。「あの教会のことだ」「うちの教会のことだ」という吊るし上げや自虐(のふりした他虐)に巻き込まれたくない。ただ、キリスト教の難しさは、教えの中に排他的な独善を許さない博愛主義の側面が確かにあることだ。

だから、我々(現代の教会人とでも言っておきます)の多くは、「特定の宗教を一方的に強要するようなことは決していたしません教会」を目指そうとする。自分が言っていることにあきらかに矛盾があることを知りながら、そういうことを大真面目に語り、そういうふうでありたいと願い、具体的に行動する。

しかし、「特定の宗教を強要しない教会」(?!)が概念矛盾であることは否定できそうにない。そのような教会を目指す思いや具体的な行動が真摯なものであればあるほど、矛盾は深まり、ペテンに近づく。教会の建物や土地の一般開放の話ではない(それは大昔からしている)。「教会の一般開放」の話だ。

そのこと(教会の一般開放)を私は「ペテンに近づく」とまで言ってしまいつつも、だからといって一方的にネガティヴな意味で言おうとしているのでもない。だから苦しいし、悩んでいる。反動的な「閉鎖教会」の内部腐敗が尋常でないことを知らないわけではないからでもある。しかし、それだけでもない。

そこから先の論理を緻密に整える力が私にないのが残念ではあるが、その分突然ぶっちゃけられるものがあるのでやらかします。「要するにキリスト教の教会とはそういうものなのだ。それでいいのだ」とバカボンのパパの口真似でごまかしたい。我々は「特定の宗教を強要しない矛盾した宗教」なのだ、はは。

まあでも、もうひと踏ん張りすれば、我々(現代の教会人)の多くが自覚している「特定の宗教を強要しない矛盾した宗教としてのキリスト教」について葛藤があるかどうかは問われるかもしれません。ただの開き直りでも構わないと思いますが、それだけだと深まっていかない。本物のペテンになりかねない。

しかしまた、自己矛盾を自覚しつつ葛藤しながら語る人の言葉は、深いかもしれないが、概して難解。退屈、熟睡レベル。本にしても売れない、敬遠される。「わが宗教に矛盾はない」と断定する葛藤なき確信に基づく、単純でストレートでキャッチーなフレーズのほうが「分かりやすい」に決まってるわけで。

今日は「牧師の定休日」を主張して朝から心身のスイッチを切っています。「粛々とツイートする」は概念矛盾かもしれませんが、「おごそかな」ではなく「ひっそりと静かな」のほうの「粛々」であれば当てはまります。「疲れて何もしたくない」とツイートする。ツイートは動詞でもあると思いますけどね。

今日のおひるは、うどんにしました。冷凍讃岐うどんを使いました。お汁の味付けはわりとパーフェクト。ごくうまです。春休み中の大学生と高校生と私の3人。妻(保育士)は児童養護施設の勤務。お疲れさまです。私は関口学院(架空)の学食のコック長。

そういえば最近、うどん頻度高いな。カレー頻度に匹敵しそうな勢いだ。


2015年3月28日土曜日

よく分からない人たち

古本ばかり増え続ける本棚

「牧師さんはしゃべりのプロだと思いますけど」という枕詞をつけたうえで話したことに文句付けられることがたまにありますけど、はて「牧師さん」は「しゃべりのプロ」なんですかね。素朴な疑問。その枕詞を聞くたびに、いやーな気分になるんですよね。はいはい、まあそれでもいいですけどね、ははは。

もう時効なほど昔の話になったので書いていいと思いますが、原稿とか録音とか依頼してくるので受けて書いたりしゃべったりしたら書き直せ録り直せと言われたり、全く違う文章に書きなおされてこれでいいですねとか言われたら「もうしませんので二度と依頼しないでください」と誰でも普通言いますよね。

依頼というのは、そういうものでしょうに。もちろん立場は尊重しますよ。私の書くことしゃべることが違うと思うなら、お気に入りのことを書いたりしゃべったりしてくれる人たちにやってもらえばいいだけのこと。それでいいじゃないですか。でも、そういう態度が気に食わないのか。よく分からないです。

まだいますね、よく分からない人。他人のブログの編集長になっちゃう人。あれは書くべきでないこれは書くべきでない。誤字脱字とか差別語不快語とか事実誤認などの指摘であれば真摯に耳を傾けますが、思想信条レベルのことで編集長のように振る舞われてしまうと、腹は立ちませんが、ひたすら呆れます。

昔は、雑誌や紀要の編集長は大権力者だったかもしれませんけどね。古い感覚なら、苦労して書いた論文やエッセイをあの雑誌あの紀要に載せてもらえて初めてデビューなのかもしれない。でも今は自分のブログに書いてfacebookやツイッターで広報して「いいね」押してもらうほうがよほど名誉です。

ある雑誌(名前は伏せます)は全国の店頭で5冊売れたそうです。作った人たちは「5冊も売れたとも言える」とか苦しいことを言っておられましたが、私はぞっとしました。ブログに書いてfacebookやツイッターで広報すれば、全く同じ内容のものを少なくとも100人200人に読んでもらえます。

ブログに何千万字だか何億字だか書いてもそれがお金になることはありません。でも自費でやるか会費を集めるかして、雑誌の印刷に多額のお金を注ぎ込んで、でも売れず、自宅の倉庫か自室のダンボールの中に眠らせたままであるのと、どっちが得か、よ~く考えてみよう(大昔の欽ちゃんのCMの口真似)。

結局なんなんですかね。「お前がデビューできるかどうかの鍵はおれが握っているんだから、おれの言うこと聞け」みたいなことでも妄想しているのか。要らないし、そういう鍵は。その扉もう開いてるし。というか、そんな扉もうないし。逆に、だれにも読まれない雑誌や紀要に埋もれるほうが、むしろ悲劇。

いま書いているのは喩え話ですからね。比喩の一種です。どの雑誌だろうか、どの紀要だろうかというような詮索は無用です。たぶんすべてハズレです。たぶん知らない方だと思います。だからもう時効だと最初に書いたとおりで、ずっと昔の話ですので、差し障りのない範囲内で書かせていただいたまでです。

2015年3月26日木曜日

教会の一致をめざすことが徒労に終わることはありません

日本の教会が取り組むべき課題はたくさんあります
18世紀英国の「ウェスレー」と20世紀オランダの「ファン・ルーラー」を関係づけて論じることが強引すぎるのは分かっています。しかし、「カルヴァン」と「ウェスレー」の関係の場合と同じ論理が当てはまることは事実です。

「カルヴァンはウェスレーを知らないが、ウェスレーはカルヴァンを知っている」のと同様に「ウェスレーはファン・ルーラーを知らないが、ファン・ルーラーはウェスレーを知っている」のです。これは両者の関係を論じるための手がかりになります。

私はファン・ルーラーが「メソジストのキリスト者」に言及している個所を一つだけ知っています。その部分だけ訳して紹介してもあまり意味はないし、ただ誤解を生むだけであることを避けられそうにないのですが、以下、ご参考までに、訳出します。

「たとえば興味深いのは、ウルトラ改革派のキリスト者とメソジストのキリスト者の出会いに立ち会うことである。私はヒルファーサムの教会協議会で何度か体験した。メソジストのキリスト者も、個人的回心とその絶対的な必要性を盛んに語る。恥じることなく、ときに厚かましく自分の回心について語り、これまで自分が歩んできた道について語る。その時点ですでに、教会に対して同情的な、改革派的な考え方をするキリスト者たちは機嫌が悪い。しかし、そういうとき、ウルトラ改革派の人たちは、相手がいかに浅薄で深みがないかを哀れむそぶりで、首を左右に振りつつ立っている。そして、メソジストのキリスト者仲間に次のように語る。『兄弟よ、あなたが持っているのは言葉だけである。しかし、言葉の中に、あなたがまだ見ていないものがある。それを体験しなさい』。そのようにしてウルトラ改革派の人たちは、教会の庭に生えた霊的な生命の若葉を乱暴に蹴り殺す。これは専制支配(tirannie)の深刻な一形態である。」[1]

[1] A. A. van Ruler, Ultragereformeerd en Vrijzinnig [1970], in: Verzameld Werk IV-B, Boekencentrum, Zoetermeer, 2001, p. 751)

「ウルトラ改革派」とは、ファン・ルーラーが所属していたオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk)の中の極端なタイプの人々を指している言葉ですが、悪口の一種であることは確実ですので、気に障る方がおられるかもしれません。その点はファン・ルーラー先生に(勝手に)代わってお詫びします。

また、メソジストの方々についてもずいぶんひどい言い方になっているようでもありますので、この点も私が(勝手に)代わってお詫びします。

ファン・ルーラー先生が「ヒルファーサム」の改革派教会の牧師だったのは1940年2月から1946年12月までの6年11ヶ月です。その時期に行われた「ヒルファーサムの教会協議会」(kerkenraad van Hilversum)のことであるとまで断定するのは無理かもしれません。しかし、おそらく今から70年くらいは前の、しかも「オランダのメソジスト」の人々のことを言っていますので、今の日本のメソジスト系の教会の状況とはずいぶん違う、大昔のことだということで大目に見ていただけると幸いです。

ただ、いま申し上げた点を勘案していただいたうえで、ぜひご理解いただきたいのは、ファン・ルーラー先生が、メソジストの方々のことを「尊重する」立場でこの文章を書いておられることは間違いない、ということです。

改革派の(極端な)立場からメソジストの人々を軽蔑する態度をとることはもはや間違っていると言わんがために書かれた文章であることは間違いありません。

私が過去17年ほどファン・ルーラーを学んできた感覚から言わせていただけば、「改革派・長老派VSメソジスト」という図式は過去のものになっています。

そして、ここから先はやや売り込み口調ですが、メソジストの皆さまにおかれましては、ファン・ルーラーの本(キリスト教書店にあるのは「ファン・リューラー」です。どちらでも構いません)を、どうぞ安心してお読みいただきたいですと、心から願っています。

また、改革派・長老派の皆さまにおかれましては、ウェスレーやメソジストの人々が書いた本を、どうぞ安心してお読みいただきたいです、と申し上げたいです。

私の書斎に昨日届いた『標準ウェスレイ日記』(山口徳夫訳、1984年)を、これから真剣に読もうと思っています。

私見によれば、ファン・ルーラーの神学は、(政治的な意味ではなく神学的な意味での)右にも左にも与しない「第三の道」ではなく、むしろ逆で、右と左に分かれて争ってきた者たちの「和解と統合」をめざす道です。それを、神学的論理を徹底的に突き詰める方法で行う道です。

「教会の一致」をめざすことが徒労に終わることはありません。どんどん進めて行きましょう。

2015年3月25日水曜日

もしかして水曜日の私がいちばん牧師らしいかもしれません

今日のおひるは海苔弁当にしました
毎週水曜日の午前中は祈祷会(きとうかい)です。今日の出席は10名でした。内容は賛美、聖書の学び、お祈りです。シンプルですが、元気になります。みことばの糧の味わいを実感できます。午後は有志で会堂清掃。加えて今日は月報の印刷作業をします。

「こひつじ新聞」3月号
2015年1月創刊、松戸小金原教会日曜学校発行「こひつじ新聞」3月号です。すべて小学生が企画・制作しています。号を重ねるたびに紙面のクオリティがアップしています。ご家庭の皆さまと学校の先生がたの日々の苦労の結晶を見る思いです。お見事。

『まきば』第418号と「教会カレンダー2015年4月」
教会月報『まきば』第418号(2015年3月号)と「教会カレンダー2015年4月」が完成しました。編集も印刷も牧師はノータッチです。すべて教会の方々がしてくださっています。私が松戸に来た11年前(2004年4月)からずっとそうです。

祈祷会で配布した聖書研究のプリント
教会の方々が月報などを制作してくださっている間、私は何をしているかといえば、午前中の祈祷会で配布した聖書研究のプリントを清書して、そのPDF版をネットで公開するといったことです。

もしかして水曜日の私がいちばん牧師らしいかもしれません。

午前中の祈祷会で配布した聖書研究のプリント(清書済み)はここをクリックしてください。タイプとしては信仰感話のようなものです。



2015年3月24日火曜日

『標準ウェスレイ日記』ついに到着しました

『標準ウェスレイ日記』全4巻(山口徳夫訳、1984年)

2015年3月24日(火)午前11時現在、千葉県松戸市、晴れ、風速10メートル、湿度44%、気温7度。けっこう肌寒い。体重(非公開)、血圧(非公開)、お腹すいた(非公開)。生ゴミ出し完了。今夜は湖北台教会で東関東中会2014年度第二回臨時会。前向きで建設的な議題ばかりで感謝です。

『標準ウェスレイ日記』(山口徳夫訳、1984年)がついに到着。4,000円で落札。1984年初版もの。1984年は東京神学大学に入学した年。31年前だ。当時から欲しかったのですが、全4巻で定価16,000円。憧れつつ見上げていました。

中身を読んでいないのでコメントは控えるべきですが、18世紀のウェスレーにとっての『日記』は、16世紀のカルヴァン『キリスト教綱要』に匹敵する存在ではないかという期待があります。21世紀の「ブロガー」がただ思いつきの雑談をしているわけでないのと同様に。たかが日記、されど日記なのだ。

2015年3月23日月曜日

ジャーナリストとは毎日日記を書く人のことか

「2015年3月23日(月)正午、千葉県松戸市、晴れ、風速5メートル、気圧1010.10ヘクトパスカル、湿度38%、気温13度」という感じのが「日誌」で、「昨日は楽しい出会いがありましてね、むふふ」という感じのが「日記」かな。使い分け、難しくはないですよね。うん、まあ、だいたい。

先週末ネットのお友達に教えていただいてヤフオクで入落札した『標準ウェスレイ日記』について、営業日三日内に発送しますという通知が古書センターからいま届きました。原著タイトルはJournal of John Wesleyだそうで。ジャーナリストとは毎日日記を書く人のことか(ちがう)。

「あの人の神学はジャーナリスティックだからな」といえば、だいたい見くだす意味がありますよね。ジャーナリストの皆さまに失礼な言い方ではありますね。何さまなんだよと、ちょっと思い出しギレ(笑)。あとは昔からよく聞くのが「サラリーマン牧師」。それが見くだす意味になる。それ失礼だからね。

あるある~とか反応しないでくださいね。あるあるネタ探してるわけではないです。気持ちとしては厳正なる抗議のつもりなのですが。でも、けんかは弱いし、逃げ足速いし、ほぼ優柔不断で、へらへら笑ってごまかすのが得意かも。そういうところがますます激怒を買ってしまう。どうにかならないですかね。

2015年3月20日金曜日

置戸教会の皆さまありがとうございます!

北海道登呂郡置戸町の「オケクラフト」素晴らしいです!
2015年2月22日(日)ビデオ説教をさせていただきました日本基督教団置戸教会(北海道登呂郡)の皆様から、寄せ書きカードと共に素晴らしい贈り物「オケクラフト」をいただきました。置戸教会の皆さま、お気遣いいただきありがとうございます。置戸教会と置戸町の発展のために心よりお祈り申し上げます。

2015年3月20日  関口 康

今思いつくかぎりの「ジョン・ウェスレー研究の意義」

『ウェスレー著作集 第6巻 神学論文上』(新教出版社、1967年)

『ウェスレー著作集 第6巻 神学論文上』(藤井孝夫・野呂芳男訳、新教出版社、1967年)を本日入手しました。お恥ずかしながら、遅ればせながら、人生初の購入です。ネットで格安で売られていました。やっと会えたね。よし読もう。

ジョン・ウェスレーのことを本腰を入れて勉強してみたいという気持ちになった理由の一つは、私の書斎の本棚に「18世紀プロテスタンティズム」のものが皆無に等しいことです。16、17世紀のものはあり、19世紀以降のものもありますが、18世紀がない。ほぼ百年分、すっぽりと抜け落ちています。

その代わり、私が持っている「18世紀的な」文献は、カント、ヘーゲルです。いわゆるドイツ観念論の文献です。フランス革命前夜のものというべきか。ヨーロッパが「脱教会化」の方向に踏み出していく時代というべきか。その18世紀のプロテスタンティズムに関する文献を私はほとんど持っていません。

それでよいと私には思えないのです。プロテスタンティズムは16世紀から始まったとしても、その後今日に至るまで一度も途絶えることなく歴史的な歩みを続けてきました。その継続的な歴史を考える中で「18世紀」の百年分が視野から抜け落ちていることは問題です。何とかカバーしなくてはなりません。

18世紀プロテスタンティズムの世界的な代表者としてジョン・ウェスレーをとらえることは決して強引ではないと私は考えます。カルヴァンを起点とする「改革派・長老派教会」とウェスレーを起点とする「メソジスト教会」が長年対立関係にあったことを私ももちろん知っていますが、それは過去の話です。

しかし、神学や思想のレベルでは「改革派・長老派教会」と「メソジスト教会」との折り合いが付いているとは言いがたい状況かもしれません。だからこそ互いにテキストを読むことが重要です。それ以外に相互理解の方法はありません。相手のテキストを読まずに知ったようなことを言うべきではありません。

その際確実に言えることは、言わずもがなのことですが、「カルヴァンはウェスレーを知らないが、ウェスレーはカルヴァンを知っている」ということです。18世紀のプロテスタンティズムを研究することは、16世紀17世紀のプロテスタンティズムの功罪、とくに「罪」の面の後処理の研究でもあります。

まだ確たる焦点が定まっているわけではありませんが、16世紀17世紀にある種ブームのように大量に産み出されたプロテスタント的な信仰告白文書やカテキズムは、18世紀の教会にとってどのような意味や意義を持っていたのかというような問いが浮かんできます。18世紀は私にとっては未知領域です。

今ではよく知られているのは、17世紀オランダ改革派教会の牧師であり神学者であったヤーコプ・アルミニウスの神学思想の影響を、英国国教会の司祭であったジョン・ウェスレーが受けたということです。アルミニウスはオランダ改革派教会から排斥されましたので、いわばカルヴァン主義の傍流扱いです。

しかし私が考えざるをえないのは、カルヴァン主義者がアルミニウスとアルミニウス主義者を排斥した根拠や経緯はどれほど正当なものであったのかというようなことです。本当に袂を分かたなければならないほどの関係だったのでしょうか。小さなことを大きく騒ぎ立てすぎた可能性はなかったのでしょうか。

カルヴァン主義とアルミニウス主義の関係、あるいは改革派・長老派教会とたとえば(アルミニウス主義の影響下で成立したとされる)メソジスト教会やホーリネス教会の関係を、一方を「主流」、他方を「傍流」とすることの正当の根拠は何でしょうか。それは一方の傲慢、他方の卑屈ではないのでしょうか。

私の「ジョン・ウェスレー研究」は、まだ端緒に付いたばかりですので、何かほんの少しでも結論めいたことを申し上げられるほどの段階には全くありません。しかし、私が思い描いていることを具体的にいえば、だいたいいま書かせていただいたようなことであると思っていただけば、全く間違いありません。

私は生後まもなくから31歳まで、日本基督教団におりました。日本キリスト改革派教会での生活は18年です。私を見て「どちらの人間」かを問う人は今はいませんが、私の自覚の中では「一方を切り捨てて他方に立つ」というような考え方や行動をとったことはなく、どちらにも自由に行き来してきました。

その上で申し上げますが、カルヴァン系とアルミニウス系を、一方を主流、他方を傍流と位置づけて「部」に分けたのが1941年時点の日本基督教団の「部制」によく反映されていると私には見えますが、うがった見方でしょうか。主流だから「第一部」、傍流は後ろ。こういうの、どうだったのでしょうか。

2015年3月19日木曜日

ジョン・ウェスレーとファン・ルーラーを結びつけて考えてみたいという思いは当然あります

ウェスレーとメソジズム双書1『ウェスレーとカルヴィニズム』(1963年)

ネット上では唐突に「ジョン・ウェスレー研究」を開始した私です。実は30年近く前からの宿願でした。しかし、なかなかその環境が整いませんでした。

そして、もちろん強引ではありますが、「ジョン・ウェスレー」と「ファン・ルーラー」を結びつけて考えてみたいという思いが今の私には当然あります。

まだ見たことも触ったこともないデューク神学校版『ジョン・ウェスレー著作集』の構成を見て、ウェスレー先生は「牧師さん」だったのだなということがよく分かります。『著作集』を埋め尽くす要素は、「説教」と「日誌・日記」です。「神学」や「教理」の部分は、全くないわけではないが、多くはない。

あとは対社会的アクションですが、ウェスレー先生は他の要素とのバランスがとれているように見えます。しかしそれは比率の問題です。全部するのが「牧師」です。説教はするけど神学はノータッチ。逆に、神学はのめり込むが説教や教会的実践や対社会的アクションはノータッチ。これはアンバランスです。

ファン・ルーラーも牧師でした。同世代の著名な神学者よりも教会的な人でした。彼の「牧師性」と「教会性」を明らかにするために書いた拙論「説教・教会形成・政治参加、そして神学―A. A. ファン・ルーラーの『教会的実践』の軌跡―」が『改革派神学』第35号(2008)に掲載されています。

拙論の「暗黙の」目的は、神学者ファン・ルーラーの「教会的実践」を明らかにすることにおいて彼の「牧師性」を浮き彫りにすることでした。「牧師なるもの」はもはや「学なるもの」に関わりえないと見なされている今日的状況の中で「現実はそうでもないんだけどね」と言いたい思いだけで書きました。

今年(2015年)に入って2月16日(月)、3月9日(月)と立て続けに2回行ったファン・ルーラーについての講演は、教会の週報のカレンダーの中に書きましたが、それだけにとどめ、教会の中では一切宣伝しませんでした。教会の方々には全く責任のないことですので、批判でも愚痴でもありません。

「牧師は教会に専念しろ。学者は大学・神学校に専念しろ。二兎を追う者は一兎をも得ずだ」。主旨は100パーセント同意します。

「牧師」の存在と「大学」だ「学会」だの存在とは論理的に結びつきえない、まるで相反関係にあるかのように見なされる、わが国のというより現代社会の風潮に配慮しました。

しかし、こういうことを言われる時代の中で私がしきりと考えることは、「それではだれが組織神学をやってくれるのか」という問いです。兼務の人たちは別ですが、教会の職務から解放されて大学・神学校に専念しているはずの学者たちが、組織神学をちゃんとやってくれているようにあまり見えないのです。

その人々に文句を言いたいがために、何の権限も資格もない私ごときが、やたら神学だ神学だと騒いでいます。

現在オランダで刊行中の新しい『ファン・ルーラー著作集』は、それでもかなり「組織神学」の部分が多い構成になっていますが、独立した一冊の本として書かれたものは少なく、大部分は新聞や雑誌に書き散らしたものです。それをかき集めて『著作集』として仕上げている編集者には心から敬意を表します。

デューク神学校版『ジョン・ウェスレー著作集』の大部分が「説教」と「日誌・日記」で埋め尽くされていることに安堵感を覚えつつ、ウェスレーの「神学」に関心がある私です。まとまらない、とりとめのない書き散らしで、すみません。

そして牧師は料理もします。これも比率の問題です。お味噌を加えた「照り焼き鶏」、湯通しした「キャベツの千切り」、3月9日(月)「講演を聴きに来ました」と神戸から青山学院大学までおいでくださった森川甫長老の贈物の「いかなごのくぎ煮」が美味です。

今日の自作料理


2015年3月17日火曜日

ジョン・ウェスレー研究会はぜひやりたいです

昨日(3月16日)、西新井教会の林牧人先生(上)を2年半ぶりにお訪ねしました
「ファン・ルーラー、ファン・ルーラー」と、18年も言い続けた私です。日本の社会はもちろん、教会ですらほとんど誰も口にしない、たまに言及されても「20世紀最大の神学者」を徹底的に批判した危険人物か、「喜び」を強調するファンタスティックな神学者かという扱いでしかない神学者の名前です。

しかし、その私は「ファン・ルーラー主義者」ではありません。「主義者」を名乗れるほど多くのテキストを読んでいませんし、仮にすべてのテキストを読破できても「主義者」になれないでしょう。テキストを忠実に読むことを志す人たちを「主義者」呼ばわりするのは愚かです。研究の妨害さえ意味します。しかし、その私は「ファン・ルーラー主義者」ではありません。

「主義者」にならなければテキストが読めないわけではない。内容に魅了されることはもちろんあります。しかし、神学研究が職務に含まれる者(牧師はそれ。だから牧師志願者は神学全体を履修する)は読書を楽しんでいるわけでもない。砂を噛むようであろうが、読むべきテキストは読まなくてはならない。

昨年10月に解散しましたが「ファン・ルーラー研究会」という名称を考えたのは私です。何度となく「この名称を変えたほうがいいかもしれませんね」と世話人になってくださった方々と相談しましたが、そのたびに「このままでいい」という結論でしたので、私の個人的な趣味や主義の域は超えていました。

しかし、私の自覚は「ファン・ルーラーを研究している」ではなく「組織神学に取り組んでいる」でした。世界でも日本でも無視され、ちょっとでも話題になるや否や、寄ってたかって叩かれるファン・ルーラーを「無視しない」組織神学に取り組むことが日本の伝道と教会形成の益になる、というものでした。

いわばそれだけのことですので、「無視しない」人が増えてくれれば私は別のことを始めます。次は何するかで迷っているのですが、「カール・バルト研究会」は今ちょっとお休みしていて申し訳ないのですが、ほかもいろいろやりたいです。

真面目な話、「ジョン・ウェスレー研究会」は、ぜひやりたいです。

2015年3月15日日曜日

主イエスは十字架を目指して歩まれました

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
PDF版はここをクリックしてください

マルコによる福音書11・1~14

「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。『向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、「なぜ、そんなことをするのか」と言ったら、「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と言いなさい。』二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、『その子ろばをほどいてどうするのか』と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、『今から後いつまでも、お前から食べる者がないように』と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。」

今日の個所からマルコによる福音書の後半、「エルサレム編」に入ります。イエスさまの地上の生涯の最後の一週間の様子が描かれています。まさにクライマックスです。

エルサレムは当時の首都です。当時、市街地の周囲に城壁が立っていました。石の壁で守られた町でした。その中に神殿がありました。旧市街地は西暦70年に起こった戦争で破壊されました。同時に神殿も破壊されました。いま残っているのは、当時の残骸と、新しく造られた建物です。

神殿の隣に王宮がありました。神殿と王宮は回廊でつながっていました。神殿は宗教の最高地点、王宮は政治の最高地点です。宗教と政治が一体化した権力の最高地点でした。

そのエルサレムにイエスさまが向かわれました。ただし、イエスさまはおひとりではありません。12人の弟子はもちろんいます。しかし、いま私が申したいのは弟子たちのことではありません。「大勢の群衆」(10・46)が一緒でした。

群衆がエリコからずっと一緒でした。エリコからエルサレムまでの距離は30キロ。その道をイエスさまは12人の弟子、そして大勢の群衆と一緒に歩いてこられました。そして、ついにエルサレムにお着きになりました。

しかし、エリコからエルサレムまで一緒に歩いてきた大勢の群衆は、必ずしもイエスさまを信じ、イエスさまの後に従おうとした人々ではありません。もちろん、全員がそうでないとは言いません。なかにはそういう人もいたでしょう。しかし、すべての人がそうであったとは言えません。むしろ、多くは、エルサレム神殿の毎年の恒例行事の過越祭に参加するため神殿を目指していた参拝客でした。

イエスさまもまた、これから過越祭が始まろうとしている時期だからこそ、神殿に行かれたのです。いつでも良かったが、たまたまその時期に重なったということではありません。明確な意思をもって意図的に、イエスさまは過越祭の日にエルサレム神殿に到着するようにお出かけになりました。

そして、そのことには深い意味がありました。しかし、その意味の中身については、今日はあまり深く立ち入らないでおきます。

しかし、別の観点から見て、この時期にイエスさまがエルサレムに行かれることは安全面で有利であったということが言えると思います。イエスさまと12人の弟子を合わせても13人。大勢の群衆の中に紛れてしまえば目立つことはありません。

イエスさまは命を狙われていた方です。しかし大犯罪をおかして多くの人に知られ、白眼視されていたというような事実は全くない、むしろ多くの人に慕われている方でした。そういうイエスさまを、軍隊を差し向けて群衆を押しのけてでも逮捕するというようなことは、いくらなんでもできません。群衆と一緒ならば、エルサレムまで行く途中で捕まえられることはなかったと言えるでしょう。

しかし、イエスさまは、エルサレムの町にこれからお入りになる直前のところで、驚くべき行動をおとりになりました。オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、二人の弟子に「向こうの村へ行きなさい」とお命じになりました。

そして、「村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる」ので「それをほどいて、連れて来なさい」(2節)と言われました。

イエスさまはその村の事情をよくご存じだったのでしょうか。あそこに行くと、誰が住んでいる、何がある、どんなふうになっている。まだだれも乗ったことのない子ろばがつないである。その場所にあらかじめイエスさまが行かれたことがあり、その場所や状況をよくご存じだったのでこのようなことをおっしゃられたのでしょうか。全くその可能性がなかったとは言い切れませんが、この個所を読むかぎり、そうでもなさそうな様子が伺えます。

続けてイエスさまがおっしゃっている言葉が気になります。「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」。こんなふうにイエスさまがおっしゃったというのです。

これで分かるのは、イエスさまが「連れて来なさい」と二人の弟子に命じたまだだれも乗ったことのない子ろばの持ち主を、イエスさまご自身はおそらくご存じないし、面識もないし、事前の予約も打ち合わせもなかったということです。

突然行って、持ち主に黙って連れて来いというわけです。それでもし、持ち主に見つかって、「なぜ、そんなことをするのか」、それは泥棒ではないかと言われたら、そのとき初めて事情を説明しなさいというわけです。すぐ返すから貸してくださいと言え、というわけです。しかし、見つからなければ、そのまま黙って連れて来ても構わない、ということでもあるわけです。とんでもないといえばとんでもないことを、おっしゃられたわけです。

実際にそういう展開になりました。イエスさまに命じられたとおりに二人の弟子が行くと、表通りの戸口に子ろばがつながっていたので、それをほどきました。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言ったので、そのとき初めて事情を説明したら、なんとか許してもらえたというのです。

大らかな人たちで良かったと思います。泥棒だ、訴えると言い始める人たちでなかったのは幸いなことでした。しかし、問題はそちら側ではないとお考えになる方々は、当然おられるでしょう。結果的に相手が許してくれたからよかったという話で済ましてしまってよいのかどうか。それが問題なのではなく、黙って連れて行こうとしたこと自体が問題だと考える人は少なくないはずです。

ですから、ここでわたしたちがよく考えなければならないことは、なぜイエスさまはそのようなことをなさったのかということです。

なぜイエスさまは、持ち主の許可を得る前に子ろばをほどいて、連れて来るようにと弟子たちにお命じになったのでしょうか。なぜイエスさまは、エルサレムに入るために子ろばに乗ることをお求めになったのでしょうか。

これから私が申し上げる答えは間違いです。そのことをあらかじめお断りしておきます。これは間違いの答えです。そのことをあらかじめお断りした上で申し上げます。

ずっと歩いてこられたイエスさまはすっかりお疲れになり、歩くのが嫌になられたので、弟子たちや群衆が歩いていてもお構いなしに、御自分だけろばにお乗りになりたかったのでしょうか。これは違います。

しかし、世の中の「偉い人たち」は、そういうことを本当にするかもしれません。イエスさまは世の中の「偉い人たち」の真似をなさったのでしょうか。それも違います。

いやいや、「もっと偉い人たち」は、世の中にあるすべてのものは自分のものだと思い込んでいて、他人のものでもなんでも、勝手に持って行けると思っているかもしれません。その人たちの真似を、イエスさまがなさったのでしょうか。それも違います。

いま申し上げたすべての答えは、間違いです。しかし、これが間違いであるということの意味は、よく考えなければならないことです。イエスさまは、世の中の「偉い人たち」の真似をなさったわけではありません。しかし、こういうふうに考えることならできます。イエスさまは、世の中の「偉い人たち」の真似をなさったのではなく、世の中の「偉い人たち」よりも上に立たれたのです。

イエスさまが子ろばに乗ってエルサレムに入城されたのは、エルサレムに住んでいる国王よりも、祭司長や律法学者よりも、ローマ総督よりも、自分は上の立場の者であるということをお示しになるためでした。世の中の「偉い人たち」の真似をなさったのではなく、その人々より私のほうが上であるということをお示しになるためでした。

そしてそれは、御自分が約束のメシア、真の救い主、神の御子であり、御子なる神ご自身であることを人々の前にお示しになるためでした。そのことは、弟子たちでさえ理解していなかったと思われますが、イエスさまははっきり自覚しておられました。

言い方は物騒になりますが、いわばそれは、イエスさまにとっては、エルサレムに住んでいる「偉い人たち」に対する一種の宣戦布告としての意味を持っていた、ということです。

しかし、イエスさまは、全くの丸腰でした。何も持たず、弟子も12人。軍隊を率いておられたわけではありません。全く普通の人の姿で、エルサレムに乗り込んで行かれました。子ろばにまたがって。子どもじみたことをしているように見えたかもしれません。

そしてイエスさまの本当の行き先はまもなくゴルゴタの丘に立てられる十字架でした。群衆は去り、弟子たちは逃げ、冷たい視線と罵声を浴び、槍と釘に刺され、血を流しながら息を引き取る十字架の上でした。

イエスさまは、エルサレム神殿で行われる過越祭にもうでる参拝客の一人ではありませんでした。過越祭で献げられる犠牲の子羊そのものになられるために、エルサレムに来られたのです。

(2015年3月15日、松戸小金原教会主日礼拝)

2015年3月9日月曜日

ファン・ルーラー研究の過去・現在・未来(2015年)

講演「ファン・ルーラー研究の過去・現在・未来」

PDF版はここをクリックしてください

(2015年3月9日、アジア・カルヴァン学会、日本カルヴァン研究会合同講演会、青山学院大学)

関口 康



このたびは、ファン・ルーラーについての講演の機会を与えていただき、感謝いたします。

私はこれまでに、日本カルヴァン研究会[1]では「新約聖書は旧約聖書の巻末語句索引か――ファン・ルーラーがカルヴァンから学んだこと」[2]という研究発表をしました。アジア・カルヴァン学会[3]では、「ファン・ルーラーの三位一体論的神学における創造論の意義」[4]という研究発表をしました。

日本基督教学会関東支部会[5]で「A. A. ファン・ルーラーの『差異論』の動機:キリスト論と聖霊論の関係」という研究発表をしました。2013年と2014年、鈴木昇司先生が、担当しておられる立教大学の全学共通カリキュラムの宗教改革史講義[6]に、ゲストスピーカーとして私を招いてくださいました 。講義のテーマは「現代プロテスタント神学の一断面」でした。神学全体(聖書神学、歴史神学、組織神学、実践神学)における組織神学の位置を説明する中でカール・バルトとファン・ルーラーの関係を扱いました。2013年度の聴講生は約170名でした。

しかし、講演の経験はほとんどないです。日本基督教団改革長老教会協議会教会研究会[7]で「ファン・ルーラーにおける人間的なるものの評価」[8]という講演をしました。先月、思想とキリスト教研究会の講演会[9]で「ファン・ルーラー研究の意義」という講演をしました。

雑誌やブログに書いてきたことを含めて、講義であれ、研究発表であれ、講演であれ、その内容は私の中ではすべてつながっていることですので、そのうち本にしなければという思いがないわけではありません。しかし、それは容易なことではありません。

1999年2月20日に友人数名と共に結成したインターネットグループ「ファン・ルーラー研究会」は2014年10月27日に解散しました。解散時の会員数は108名でした。15年半で得た成果は、日本語で読めるファン・ルーラーの研究文献が増え、彼の知名度が日本で高まったことです[10]。研究会の解散は研究の終わりを意味しません。我々はこれまでの成果を発展させる形でこれからも研究を継続します。

本講演の目標は、日本でファン・ルーラー研究を志す人(もしそういう人がいれば)にとって有益な情報を提供することに絞ります。とくに主眼をおきたいのは「日本において」という点です。

Ⅰ 世界のファン・ルーラー研究の「過去」

本講演のテーマ「ファン・ルーラー研究の過去・現在・未来」は野村信先生のご指示に従ったものです。しかし、「日本において」を主眼点に置くにしても、ファン・ルーラー研究の出発点は日本国内ではありませんので、まずは世界の流れから見ていきます。

世界のファン・ルーラー研究の流れを知るための必携書は、ユトレヒト大学図書館発行『ファン・ルーラー教授文庫総目録』(1997年)[11]です。ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])が遺した全著作(論文、説教、エッセイなど)および過去のファン・ルーラー研究のタイトル、初出年月日、掲載個所、原稿形式(手稿、タイプ稿など)を記した全297頁の目録です。

『総目録』の巻頭付録に「ファン・ルーラー教授略伝」があります。それによると、アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラーは、1908年12月10日、オランダのアペルドールンに生まれました。パン配達業の父の長男として生まれ、家族と共に幼少期から地元のオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk)に通い、地元のギムナジウムを卒業後、フローニンゲン大学神学部で学びました。

大学卒業後、オランダ改革派教会の二つの教会(クバート、ヒルファーサム)の牧会経験を経て、ユトレヒト大学神学部の「オランダ改革派教会担当教授」に任命されたのは1947年です。神学博士号請求論文『律法の成就』のサブタイトルが「啓示と存在の関係についての教義学的研究」[12]であるように彼の主専攻は教義学ですが、ユトレヒト大学神学部で教えたのは、教義学だけでなく、キリスト教倫理、オランダ教会史、信条学、礼拝学、教会規程など幅広いものでした。

政治に対する著作や発言も多く、キリスト教政党「プロテスタント同盟」(Protestantse Unie)の結党趣意書を起草する役割を担いました。1970年12月15日に62歳で現職のまま心臓発作で突然死去するまでの23年間、教会、大学、ラジオ、書斎、家庭内から、オランダ国内外の教会と社会に大きな影響を及ぼしました。

著作を通しての影響力は、今日に至るまで持続しています。2007年からオランダで新しい『ファン・ルーラー著作集』(dr. A. A. van Ruler Verzameld Werk)の刊行が始まりました。彼の存在と神学が決して忘れ去られていないことを物語る巨大な規模の著作集です。現在第4巻まで配本されています。全巻揃えば、おそらくカール・バルトの『教会教義学』と同規模かそれ以上の頁数になりそうです。

ファン・ルーラーについての博士論文は、1960年代から書かれ始めました。『総目録』(1997年)に記載されているのは9作ですが[13]、1997年以降も書かれています[14]。博士論文の著者の国籍はオランダ、ドイツ、アメリカ、南アフリカ、ナミビアと広範囲です。その中には自国で神学教授として活躍した人が多くいます。組織神学の観点からだけでなく、宣教学や牧会学や礼拝学の観点からの取り組みが多くあります。あるいは他の著名な神学者(F. D. E. シュライアマッハー、アブラハム・カイパー、パウル・ティリッヒ、ユルゲン・モルトマンなど)との比較においてファン・ルーラーの神学の特質を明らかにしているものがいくつかあります。カトリック神学者による博士論文もあります。

博士論文以外にも多くの研究書がファン・ルーラーの神学のために献げられました。またユルゲン・モルトマンやルードルフ・ボーレン、最近はアブラハム・ファン・ド・ベークやヘリット・イミンクら世界的に著名な神学者が、自身の著作の中でファン・ルーラーの存在と神学を高く評価しています。2008年12月10日、ファン・ルーラー生誕100年を記念してアムステルダム自由大学で「国際ファン・ルーラー学会」が開催され、約200名の研究者が集結しました[15]。日本人3名が出席しました。

Ⅱ 日本のファン・ルーラー研究の「過去」

しかし、日本の状況は全く異なります。日本の「過去」にファン・ルーラー研究と呼べるものは、ほとんどありません。かろうじてあったのは、ファン・ルーラー言及です。多いとは言えませんが、時々言及されました。しかし、残念なことに、そのいくつかはファン・ルーラーのテキストを読んでいないことがはっきり分かるファン・ルーラー批判です。以下、二つの例を挙げておきます。

第一の例は、岡田稔著『改革派教理学教本』(新教出版社、1969年)です。これは日本の教義学書としては初めてファン・ルーラーの存在と神学に言及された記念すべき一書です。岡田先生はキリストの昇天についてのファン・ルーラーの教説へのG. C. ベルカウワーの批判を、ベルカウワーの教義学研究シリーズ『キリストのみわざ』(1953年)[16]英語版(1965年)に基づいて紹介しています。しかし、ファン・ルーラーのテキストへの言及は、見当たりません。

「ベルカワーは、バン・ルーラーがキリストの昇天を改革派神学者はキリストの地上教会からの分離として考えると説くことに対して、必ずしもそれのみを高調してはいない。たとえば、カルヴィンはキリストが去られたことは留まっておられる以上にわれらのためにより大きな祝福だと言っている(…)。彼らは世を去った後決して教会を淋しさの中に捨て置かず、慰め主を送ることを約束された。使徒行伝1章9節の注釈では、ローマ教会の説を反駁して、昇天による分離を主張しつつも、身体で一緒にいなくなっても、交わりは続けると言っておられると説明している。ハイデルベルク信仰問答も同じことを語っている(46、47)。だから改革派神学がアクセントを分離の方へ置くとは言えぬという。…しかしバン・ルーラーの見解はやはりバルト、クルマン、ドッドらの考えに近いところがある。キリストの再臨と共に開始される本当の終末界と、キリストの昇天によって始まるペンテコステ的聖霊活動によるキリストの王国とを二つの円としてとらえると、昇天の真の意味は弱められる。聖霊の救済活動は上げられたキリストが父と共に地上に送られたものと見るコンスタンティノープル信条の追加句(フィリオクエ)の線で理解されねばならぬ」[17]。

この点についてベルカウワーがファン・ルーラーを批判したことは事実です。しかし、言うまでもないことですが、ベルカウワーはファン・ルーラーの論文を読んでいます。ファン・ルーラーが自説の論拠として挙げた聖書やカルヴァンやハイデルベルク信仰問答や他の神学者の発言をすべて調べ、ファン・ルーラーの主張を打ち崩そうとしています。その手続きを経た上でベルカウワーが指摘しているのは、ファン・ルーラーには「フィリオクェ」に対する躊躇(aarzeling)があるという点です[18]。

このベルカウワーの姿勢は尊敬できます。しかも、ここで重要であると思われるのはベルカウワーとファン・ルーラーは所属教派が異なる関係であり、はっきりいえばライバル関係であったことです。年齢も近く、ベルカウワー(1903年6月8日生まれ)とファン・ルーラー(1908年12月10日生まれ)は5歳差です。ベルカウワーはGereformeerde Kerken in Nederlands(訳せば「オランダ改革派教会」)の教師であり、アムステルダム自由大学神学部の組織神学教授でした。

そのベルカウワーが「キリストの昇天」についてのファン・ルーラーの主張を強く批判し、さらに「フォリオクェ」への躊躇を指摘するために、自身の主著である教義学研究シリーズの一冊のなんと11頁分を献げています。ベルカウワーの当該書『キリストのみわざ』出版年が1953年であることから推察できるのは、当時50歳のベルカウワーが、45歳のユトレヒト大学神学部教授ファン・ルーラーの影響力に強い警戒心を持っていたのではないかということです。

しかし、仮に百歩譲ってファン・ルーラーが「フィリオクェ」に「躊躇」を持っていたことは否定できないとしても、だからといってベルカウワーの側の意見だけを紹介して済ませるのは、フェアではありません。しかも、岡田先生がしているのは、ベルカウワーの著作の英語版からの孫引きです。ベルカウワーが「躊躇」(aarzeling)という表現でファン・ルーラーに敬意を表している(と私には読める)ニュアンスが汲み取られていません。

しかし、岡田先生の読者にとってファン・ルーラーは、ニカイア・コンスタンティノーポリス信条とカルヴァンとハイデルベルク信仰問答から逸脱し、バルト、クルマン、ドッドの考えに近い人です。

第二の例は、佐藤敏夫著『救済の神学』(新教出版社、1987年)です。これは日本の教義学書としては初めてファン・ルーラーについての独立したパラグラフが設けられた記念すべき一書です。しかし、そのパラグラフのタイトルは「ヴァン・ルーラーの行き過ぎ」[19]でした。

「こういう問題との関係において、一つの問題提起をしているとみられるのは、ヴァン・ルーラーである。彼にとって終末は創造の完成ではなく、原初的完全の回復にすぎない。この原初的完全は罪によって失われている。キリストはこの原初的完全を回復するために来たのである。…しかし、ヴァン・ルーラーにとって、キリストにおける神という特殊な形態は、あくまで罪という事態に対する緊急措置(Notmaßnahme)である。キリスト教もまた同様に緊急措置である。文化にキリスト教の刻印が押されていることが問題ではなく、原初的完全の回復としての栄光の王国が問題である。したがって、終末と共にキリストの役割は終わるのである。…さしあたりそれは個人主義的な偏向とは反対のもう一つの極端であることを、指摘しなければならない。ここでは、キリストの十字架は神の国の陰にかくれてしまっていると言ってよい。そして神の国、永遠の王国、フマニテートという概念が前面に出る。たしかに福音の主題は神の国とされているが、キリストの到来は罪のための緊急措置にすぎなくなっている」[20]。

佐藤先生はかろうじてファン・ルーラーのドイツ語版の論文から引用した一文を添え、当該論文のタイトルを第2章注8に記しています。この点はファン・ルーラーのテキストに全く触れないで批判する岡田先生よりは、まだましです。しかし、その文章の引用個所の頁番号の明示はなく、代わりに「ヴァン・ルーラーの著作の多くはオランダ語で、ドイツ語版は多くはない。なお、これについてのモルトマン、H. ベルコフらのコメントがある」[21]と書いておられます。しかし、佐藤先生は「これについてのコメント」をモルトマンやヘンドリクス・ベルコフがどこに書いているのかを明示していませんので、検証のしようがありません。容易に推測できるのは、佐藤先生のファン・ルーラー批判はモルトマンやベルコフからの(引用元不明の)孫引きだろうということです。

しかも、佐藤先生が書いておられることは正確ではありません。ファン・ルーラーが主張したのは「終末と共にキリストの役割は終わる」ではなく「終末においてキリストの受肉は解消されるだろう」ということです。それは異なる命題です。こういうこともファン・ルーラーのテキストに取り組めば分かることです。あるいは逆に、もし二つの命題を同一視しなければならないとしたら、キリストの役割は受肉だけなのかという問いが残ります。しかし、佐藤先生の読者にとってファン・ルーラーは「行き過ぎた神学者」のラベルが貼りついたままです。

いま申し上げていることを、私はずっと前から考えてきました。どうして日本の神学者はファン・ルーラーを、読みもしないで批判するのかが疑問でした。そしてその疑問を抱いていた頃に(それは1993年です)、近藤勝彦先生の『歴史の神学の行方』(教文館、1993年)を読みました。

「彼(ファン・ルーラー)の神学思想についての研究書や学位論文がオランダではすでに幾つかあるようであるが、それらも多くは手にいれるに困難な状況である。そこで、ここでは敢えて限られた文献によって論ずることにならざるを得ない。本格的なファン・リューラーの研究、あるいはさらに本格的なオランダ神学の研究が、将来に起きることを期待したい。本論文は、そのための一つの刺激となり得れば、大変幸いなことであると思っている」[22]。

私は当時、この近藤先生の提案に心から賛同しました。新しい神学的ミッションの遂行が必要だと思いました。そして近藤先生が「将来に起きることを期待」している「本格的なファン・リューラー研究、あるいはさらに本格的なオランダ神学の研究」に、もし可能なら、私が取り組まなければならないと考えました。それが1993年です。また、別ルートで、やはり同じ1993年に高崎毅志先生から「ファン・ルーラーの神学を勉強しろ。神戸の牧田吉和先生から教えてもらえ」と励まされました。しかし、近藤先生が「困難」を訴えておられるほどのことをすぐに実現できるとは思いませんでした。

1997年4月から1998年6月までの1年3ヶ月間、私は神戸改革派神学校に入学し、牧田吉和先生と市川康則先生から「改革派教義学」のすべて(序論、神論、キリスト論、救済論、教会論、終末論)を学びながら[23]、牧田先生のご指導のもとファン・ルーラーについての卒業論文を書きました。そして上記の新しい神学的ミッションに取り組むことを決心した1993年の6年後、1999年2月に「ファン・ルーラー研究会」が生まれました。オランダ語のテキストを読むことにこだわり抜いた研究会でした。

語弊を恐れず言えば、日本における「本格的な」ファン・ルーラー研究は、1999年の研究会結成と共に始まりました。上に縷々述べたことも、岡田先生や佐藤先生への個人的な苦言ではありません。私の意図は、神学研究におけるフェアネスはどうすれば確保しうるのか、テキストを読まないで批判する人々のアンフェアな姿勢をどうすれば正すことができるのかについてのささやかな問題提起です。

Ⅲ ファン・ルーラー研究の「現在」と「未来」

「現在」と「未来」の話をする時間がほとんど無くなりましたので、一括してお話しいたします。しかし、正直に言えば、話すことがないのです。とくに「日本において」は、ファン・ルーラー研究の「現在」も「未来」も、だれからもどこからも与えてくれはしないということです。「未来」があるかどうかの一切はファン・ルーラーのテキストを読むことにかかっています。そして、それが日本語に訳されるなり、日本語の研究書が多く出版されるなりすることが必須の前提条件です。

しかし、彼の文章を日本語に翻訳するためにはオランダ語の知識があるということだけでは済まず、神学の基礎を学び、さらに改革派教義学や信条学やオランダ教会史などを学ぶ必要があります。そうでないかぎり、彼のテキストは全く理解できません。それはオランダ語のハードル以上です。

私が最も期待しているのは、オランダのアペルドールン神学大学に2008年から2013年まで留学し、ファン・ルーラーとノールトマンスについてオランダ語で書いた修士論文で「最優秀賞」(Cum laude)を受賞して(これは日本史的快挙です)帰国した石原知弘先生の存在です。石原先生(1973年、岡山生まれ)は現在、日本キリスト改革派園田教会牧師で、神戸改革派神学校の組織神学(改革派教義学)非常勤講師です。石原先生にもっと研究に集中できる時間を差し上げることができれば、石原先生を軸にして日本のファン・ルーラー研究は大きく回転し、飛躍的に前進していくでしょう。

青山学院大学 青山キャンパス(東京都渋谷区渋谷)


[1] 第21回例会、2012年6月25日、青山学院大学青山キャンパス。

[2] この講演を基にして書いたのが、関口康「新約聖書は旧約聖書の『巻末用語小辞典』か―旧約聖書と新約聖書の関係についてのA. A. ファン・ルーラーの理解」『改革派神学』第39号、神戸改革派神学校、2012年、95頁~109頁です。

[3] 第9回講演会、2013年3月11日、立教大学池袋キャンパス。

[4] 2014年度例会、2014年3月14日、東京女子大学。

[5] 2013年度「キリスト教の歩み」、2014年度「キリスト教と思想」。

[6] 2013年6月27日、7月4日、池袋キャンパス。2014年6月26日、新座キャンパス。

[7] 第8回研究会、2008年6月30日、日本基督教団洗足教会。

[8] この講演を基にして書いたのが、関口康「ファン・ルーラーにおける人間的なるものの評価」『季刊教会』第73号、日本基督教団改革長老教会協議会、2008年、10~18頁です。

[9] 2015年2月16日、日本キリスト改革派東京恩寵教会。

[10] 別紙「日本語で読めるファン・ルーラー研究文献リスト」を参照してください。ファン・ルーラー研究会を結成した1999年頃は、日本語で読める研究文献はほとんどありませんでした。

[11] Inventaris van het archief van prof. dr. Arnold Albert van Ruler [1908-1970], Utrecht Universiteitsbibliotheek, 1997.

[12] A. A. van Ruler, De vervulling van de wet: Een dogmatische studie over de verhouding van openbaring en existentie, Nijkerk, 1947.

[13] 『ファン・ルーラー教授文庫総目録』(1997年)に記載されている「博士論文」は以下の9作です。

Bernd Päschke, Die dialogische Struktur der Theokratie bei A. A. van Ruler, Göttingen, 1961.

Benjamin Engelbrecht, Agtergronde en grondlyne van die teokratiese visioen: ’n Inleiding tot die teokratiese teologie van prof. A. A. van Ruler, 1963.

J. H. P. van Rooyen, Kerk en staat: een vergelijking tussen Kuyper en Van Ruler, 1964.

A. N. Hendriks, Kerk en ambt in de theologie van A. A. van Ruler, 1977.

Paul Roy Fries, Religion and the Hope for a truly human existence: an inquiry into the theology of F. D. E. Schleiermacher and A. A. van Ruler with questions for America, 1979.

P. W. J. van Hoof, Intermezzo: kontinuiteit en diskontinuiteit in de theologie van A. A. van Ruler: Eschatologie en kultuur, 1974.

J. J. Rebel, Pastoraat in pneumatologisch perspectief: een theologische verantwoording vanuit het denken van A. A. van Ruler, 1981.

L. Westland, Eredienst en maatschappij: een onderzoek naar de visies van A. A. van Ruler, de Prof. Dr. G. van der Leeuw-stichting en de beweging Christenen voor het socialisme, 1985.

Christo Lombard, Adama, thora en dogma: die samehang van de aardse lewe, skrif en dogma in die teologie van A. A. van Ruler, 1996.

[14] 1997年以降に書かれた「博士論文」には次のような作品があります(すべては把握できていません)。

J. M. van ’t Kruis, De Geest als missionaire beweging: een onderzoek naar de functie en toereikendheid van gereformeerde theologie in de huidige missiologische discussie, 1997.

Garth Hodnett, Ontology and the New Being: The Relationship between Creation and Redemption in the Theology of Paul Tillich and A. A. van Ruler, 2000.

Allan J. Janssen, Kingdom, Office, and Church, A Study of A. A. van Ruler’s Doctrine of Ecclesiastical Office, 2006.など。

[15] 「国際ファン・ルーラー学会」(Internationale Van Ruler congres)の講演集が出版されています。

Dirk van Keulen, George Harinck, Gijsbert van den Brink (red), Men moet telkens opnieuw de reuzenzwaai aan de rekstok maken: Verder met Van Ruler, Boekencentrum, Zoetermeer, 2009.

掲載順に、ファン・ド・ベーク、ロンバルト、ファン・デン・ブロム、ファン・デア・コーイ、ド・フリース、ファン・ケウレン、ファン・アセルト、モルトマン、イミンク、ファン・デン・ブリンク、ファン・デン・ヒューベル、オプ・トホフ、ブリンクマン、ジャンセンが寄稿しています。

[16] G. C. Berkouwer, Studies In Dogmatics, The Work of Christ, Eerdmans, 1965, p. 213-222. 原著オランダ語版の当該箇所はG. C. Berkouwer, Dogmatische Studien, Het werk van Christus, J. H. Kok, Kampen, 1953, p. 231-242.

[17] 岡田 稔『改革派教理学教本』新教出版社、1969年、244~245頁。

[18] G. C. Berkouwer, Het werk van Christus, p. 239.

[19] 佐藤敏夫『救済の神学』新教出版社、1987年、53~55頁。

[20] 佐藤敏夫、同上書、同上頁。

[21] 佐藤敏夫、同上書、55頁。

[22] 近藤勝彦『歴史の神学の行方 ティリッヒ、バルト、パネンベルク、ファン・リューラー』教文館、1993年、238~239頁。

[23] 現在刊行中の牧田吉和・市川康則共著『改革派教義学』(一麦出版社)の全内容を、私を含む当時の学生たちは、共著者のお二人から、生で講義していただきました。

2015年3月8日日曜日

主イエスは人の祈りをかなえてくださいます

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂

マルコによる福音書10・46~52

「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた。人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。』盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰が救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」

今日もマルコによる福音書を開きました。前半の「ガリラヤ編」が今日の個所で終わりになります。来週学びます11章からが後半の「エルサレム編」です。イエスさまの地上のご生涯の最期の一週間が描かれています。

しかし、今日のイエスさまはすでにエリコにおられます。エリコはエルサレムまであと30キロです。具体的にイメージしていただくために30キロがどのくらいかを調べてみました。松戸小金原教会から東京駅までがちょうど30キロです。直線距離ではなく道路の長さで調べました。そういうことが今はインターネットですぐ分かります。もう一箇所調べてみました。松戸小金原教会から稲毛海岸までがちょうど30キロです。

こう考えますと、30キロというのは、歩くともちろん遠いですが、車なら1時間、電車でも1時間。同じ空気、同じ空、同じ言葉、同じ文化を共有する関係であるとお互いに感じあえる距離です。これで私が言おうとしているのは、今日の個所は「ガリラヤ編」の最後ではありますが、「エルサレム編」の一歩手前であるということです。

エリコは私も一回だけ行ったことがあります。エリコの行政区域そのものはそれなりの広さがありますが、市街地はとても小さなところです。そのエリコの町にイエスさま一行がお着きになりました。「一行はエリコの町に着いた」。

しかし、すぐにイエスさまはこの町を出て行かれたかのように描かれています。エリコの町で何をなさったかは記されていません。「着いた」の次の文章が「出て行こうとされた」というのですから、まるで短時間のトイレ休憩かなにかのようです。食事かもしれませんが、食事の場合は「食事である」とはっきり書かれているものです。しかし、ここに書かれているのは「着いた」途端に「出た」です。エリコでは記録するほどのことはしていないということでしょう。

しかし、それにしては様子がおかしいです。エリコの町に着いたときの「一行」は、イエスさまと弟子たちだけ、つまり13人だけだったはずです。しかし、「出て行こうとされたとき」には「大勢の群衆」が一緒でした。エリコの町に入った途端、たちまち大勢の群衆に囲まれたのです。そして町を出て行くイエスさまは群衆の中におられたのです。

しかし、これはあまり慌てずに考える必要があるところです。今日の個所は「ガリラヤ編」の最後ではありますが、エルサレムまで残り30キロ地点のイエスさまが描かれています。エリコの町を出て行かれるイエスさまと一緒に描かれている「大勢の群衆」は、ガリラヤの「大勢の群集」と同じような存在としてとらえてよいかどうかは考えどころです。

ガリラヤにおられた頃に、イエスさまのもとに集まってきた人たちは、イエスさまは難しい病気を治してくださるらしいとか、悪霊を追い出してくださるらしいとか、死んだ人を生き返らせる力まであるらしいとか、いろんな噂を聞いて集まってきた、イエスさまに関心がある人たちです。

しかし、今日の個所に出てくる「大勢の群衆」は、ガリラヤの群衆とはおそらく性質が違います。その人々は必ずしもイエスさまに関心を抱いて集まってきた人々であるとは限りません。その可能性はないとは言いません。しかし、それよりもはるかに可能性が高いのは、エルサレムに早く行きたいと願い、道を急いでいる人たちだったのではないかということです。

これは結果論ではなくて、もともとイエスさまご自身が意図的に計画されたことであると思われることですが、そもそもこのときイエスさまが弟子たちと共にエルサレムを目指されたのはエルサレム神殿で行われる過越祭の時期に合わせた上京であったことは明らかです。まさにその時期に大勢の人がエルサレムに集まります。つまり、イエスさまと一緒にエリコから出てきた大勢の群衆は過越祭に参加するための神殿の参拝者たちだったのではないかと考えられます。

そして、あえて単純に言い切ってしまえば、エリコにいる「群衆」はいわば都会的な感覚だったのではないでしょうか。満員電車の中の人たちのように、周りの人にいちいち関心を持ったりしない。そんなことをしはじめたらきりがない。他人のことよりも自分の行き先や目的に関心を集中しようとしている人々。田舎とは違います。

そのような中で、エリコの町の出入口のような位置であると思われるところに、ティマイの子どものバルティマイが座っていました。ティマイはお父さんの名前で、バルティマイは子どもの名前です。名前が似ているのは当然です。バルティマイの「バル」が子どもという意味です。ティマイの子どもだからバルティマイです。

しかし、バルティマイは盲人でした。生まれつきだったかどうかは分かりません。しかし、生まれつきの場合は生まれつきだと書いている場合が多い中で、書いていないのは生まれつきでないからかもしれません。

いろいろ考えさせられました。親が自分の子どもに名前を付けるときは、いろんなことを考えます。バルティマイの父親は自分の名前を子どもに付けた人です。ティマイの子だからバルティマイ。親にとって相当思い入れのある子どもだったのではないでしょうか。しかし、その自分の子どもが盲人になる。あるいは、盲人として生まれた。どちらであったかは分かりません。そのときバルティマイの親たちはどのようなことを考えたでしょうか。

そして、やがてバルティマイは、エリコの町で道端に座って物乞いをするようになりました。自分で仕事をしてお金を稼ぐことはできない。しかし、どうも彼はひとりです。彼の家族が見えません。自分の名前を付けるほどに自分の子どもに思い入れを持っていた父親ティマイは、どこに行ったのでしょうか。あるいは母親は。

物乞いをすることが悪いとかいいとか、私はいま、そういう話をするつもりはありません。ただ、彼自身が望んでそうなったわけでもなさそうです。バルティマイ自身は自分が物乞いをしていることは嫌だったのだと思います。こんなことは続けたくない、なんとかしたいという思いがあったのだと思います。そのことが後で分かります。

しかし、彼は孤独です。家庭や社会は彼を助けていません。だから彼はエリコの町で物乞いをしていました。エルサレムに近い、ほとんど都会と言ってよいエリコの道端に座って、通りがかりの見ず知らずの人たちに頭を下げ、お金をください、物をくださいとお願いする生活をしていました。

しかし、彼の耳はよく聞こえていました。周りの人たちが話している声の内容をしっかり聞き取ることができました。彼の前をナザレのイエスが通っている。彼の近くにイエスさまがおられる。そのことが分かりました。

それで彼は大きな声でイエスさまを呼びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。ところが、多くの人が彼を叱りつけて黙らせようとしたと書いてあります。単純にうるさいと思ったのだと思います。それほど大きな声だったのかもしれません。しかし、彼は黙りませんでした。ますます大きな声でもう一度、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、必死でイエスさまを呼びました。

だれも彼を助けてくれない、振り向いてもくれない、大きな声をすると叱られる、黙らせられる。しかし、イエスさまならば、このわたしの声を聞いてくださるはずだ、助けてくださるはずだ、憐れんでくださるはずだと彼は信じました。彼は諦めませんでした。自分に訪れた最後のチャンスだと思った。このチャンスは二度と巡ってこないと思った。だから彼は諦めずに叫び続けました。

その声がイエスさまに届きました。イエスさまは立ち止まってくださいました。そして彼をみもとに呼んでくださり、彼の心の声に耳を傾けてくださいました。そして、イエスさまは質問されました。「何をしてほしいのか」。

彼の願いは「わたしを憐れんでください」でした。しかし、それは具体的な願いではありません。抽象的な内容にとどまっています。物乞いの彼が求めている「憐れみ」の内容は何であるかをイエスさまは尋ねてくださいました。

彼の願いは「先生、目が見えるようになりたいのです」ということでした。それがバルティマイの具体的な願いでした。しかしそれは、これまで見えなかった目が見えるようになるということだけにとどまることではありませんでした。目が見えるようになることは、自分の願いや判断に基づいて、自由に動けるようになることです。自分で働き、自分で稼いで生きることができるようになること、これまでの生活に終止符を打つこと、自分の力で人生を切り開いていくことができるようになることです。

彼の願いはそれでした。だからこそ、イエスさまは彼の願いを叶えてくださいました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と宣言してくださいました。彼の目はすぐ見えるようになりました。そして、イエスさまに従う者になりました。

彼の行く道を邪魔するものはもはやなくなりました。彼の人生に新しい希望の光が差し込んできました。バルティマイの目が「どれくらい」見えるようになったのかは分かりません。とにかく見えるようになりました。イエスさまのお姿が見えるようになりました。イエスさまの弟子として、イエスさまに従って生きる人生の前途が見えるようになりました。

来週から「エルサレム編」です。エルサレムでイエスさまは十字架にかけられます。バルティマイの目には、十字架にかけられたイエスさまのお姿がはっきり見えたことでしょう。このわたしのためにもイエスさまは死んでくださった。そのことをはっきりと見て、信じる者になったでしょう。

(2015年3月8日、松戸小金原教会主日礼拝)