2014年9月29日月曜日

日記「『査定者』に向けて説教原稿を書くと『内向きの言葉』になる」


先週9月27日、内田樹氏が「スーパーグローバル大学」に関する連続ツイートを放たれた。

氏によると(以下要約)、

・あのような大学評価のやり方では、現場は「査定者に向けて研究する」ようになる。

・査定者以外に評価されても意味ないなら、そこで語られる言葉は専一的に「閉じられた言葉」になる。そこでしか通じないジャルゴン、そこでしか通じないロジック、そこでしか通じない価値観で彩られた言葉だけがそこに行き交う。

・「パイの配分」について按分の権利を持っている人間だけに用があり、あとの人間には用がないのだから、それは「内向きの言葉」であり、知性の本質と相容れない。

まさにこのとおりだと思った。

そして、なんだかこれでやっと「謎が解けた」気がした。それは何の「謎」か。

話は飛躍するが、すでに神学部や神学校を卒業した牧師たちが、なんらかの行き詰まりを感じたのか何なのか、各人の事情は分からないが、「説教」や「牧会」や「伝道」の「塾」みたいなのに通う。

それが悪いとは思わない。

だけど、ちょっときつい言い方になってしまうのが申し訳ないのだが、そういうところに行けば行くほど、ますます「内向きの言葉」を語るようになり、宣教の本質と相容れなくなっていく。

それはどうしてなんだろうかと、私は長年疑問を抱いてきた。その「謎」が解けた気がした。

「査定者」に向けて説教原稿を書くことほど、ばかげたことはない。何の話だと食ってかかられそうだが、ことの構造がそうなっている。

これも私の長年の持論だが、「ことば」を磨きたければ、ブログを書け、ツイートしろ、facebookしろです。

ネットの向こう側には、自分が「パイの配分」に按分の権利をもっているかどうかなんかどうでもいいと思っている人がたくさんいる。もっと純粋に、よいものはよい、ダメなものはダメ、と言ってくれる人たちが、あなたを待っている。 

自分の書く文章がいいかダメかを知りたければ、そういう人たちに読んでもらえばいい。「いいね」の数はあんまり当てにならないが、ダメならダメと、はっきり言ってくれる。耐え難い中傷誹謗の場合は、ブロックしちゃえばいい。

と思うんだけどね。こういうこと言ってる私は、いつまで経っても少数派。