テモテへの手紙二3・10~17
「しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」
「聖書から離れてはなりません」という説教のタイトルは私が便宜的に付けたものです。パウロが書いていることとは違います。パウロは「聖書から」ではなく「自分が学んで確信したことから」(14節)離れてはなりませんと書いています。
しかし、その先には「あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです」(14~15節)とありますので、「自分が学んで確信したこと」(14節)と「聖書」(15節)とがほとんど同じことを意味していることは明らかです。
しかし、厳密にいえば全くイコールで結んでしまわないほうがよいだろうと、私は考えています。とくに注目すべき点は「自分が学んで確信したこと」の中の「自分の確信」という側面です。パウロが書いていることは、言い方を換えれば「自分の確信に忠実であれ」ということです。ある意味での自意識の強さが表現されているとさえ読むことができます。
たとえ結果的にほとんど同じ結論になるとしても、パウロが書いている言葉そのものは、あくまでも「自分の確信」から離れてはならないということであって、「聖書」から離れてはならないということではありません。そういうことを厳密にとらえる必要があると私は思います。
なぜこのようなことを厳密にとらえる必要があるのでしょうか。それは聖書の本質にかかわる問題です。聖書は、我々人間によって学ばれねばならず、確信されねばならないものだということです。聖書は礼拝堂の講壇や祭壇の上に飾っておくものではありません。金箔付きの講壇聖書に向かって深々とお辞儀をしても何の意味もありません。自分の家のどこかに飾っておくものでもありません。
そういうものではないという意味で、聖書はただの本です。開かないまま、閉じたままでは全く意味をなしません。この本は徹底的に読まれ、学ばれ、自分の個人的な確信になる必要があります。そうでなければ聖書の存在意義はありません。
ですからこの説教のタイトルの「聖書から離れてはなりません」は、肌身離さずいつでもどこでも聖書というこの本を持ち歩きなさい、というような意味ではありません。そうすることが悪いわけではありませんが、持っているだけ、携帯しているだけでは意味がありません。読まれる必要があり、学ばれる必要があります。そして、わたしたち一人一人の個人的な確信にまでなる必要があります。それが「聖書」です。
パウロが「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」と書いていることには理由があります。「悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていく」(13節)からです。ずいぶんと辛らつな言葉ですが、パウロが非難しているこの「悪人や詐欺師」とは誰のことでしょうか。考えられる可能性は二つです。一つは文字通りの一般的な意味での悪人や詐欺師のことです。しかし、もう一つは教会の中の悪人や詐欺師です。可能性が高いのは二つめのほうです。
次の段落にパウロが次のように書いています。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を傾け、作り話の方にそれて行くようになります」(4・3~4節)。
これは明らかに教会内部の話です。不健全な教えを宣べ伝える教師がいるという話です。またそれだけではなく、そのような不健全な教師を好き勝手に寄せ集める教会があるという話でもあります。こうなると教会は混乱状態です。教会を混乱に陥れている人たちを指して「悪人や詐欺師」と呼んでいる可能性は高いです。
このようなことをパウロが書く意図は、そういう「悪人や詐欺師」が教会の中にもいる、いや教会の中にこそいるということをテモテに伝えることです。しかし、そのような中でこそ、あなたは自分が学んで確信したことから離れてはならない、と励ましの言葉を書いているのです。
「あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです」(14~15節)。
ここでパウロが「学ぶこと」と「親しむこと」を区別しているように読める点は、とても重要なことだと思いました。前者は、テモテは聖書をだれかからきちんと学んでいるということです。後者は、テモテは幼い日から聖書に親しんできたということです。同じことのようでもありますが、区別するほうがよいと思います。
「聖書を学ぶこと」に関しては、今では大学の学問としての聖書学という独立した専門分野が確立しています。そこまで行かなくても、教会や個人で自覚的に勉強を勉強することはできます。しかし、その意味での聖書の研究とか勉強のようなことを、子どものうちからする必要はありません。
しかし「聖書に親しむこと」については、なるべく小さい頃から始めるべきです。早すぎるということはありません。神さまの素晴らしさ、世界が作られたこと、わたしたち人間が罪を持っていること、その罪から人を救うためにイエスさまが来てくださったこと。これらのことは、子どもたちでも十分理解できます。
パウロは両方書いています。「聖書を学ぶこと」と「聖書に親しむこと」。この両方を合わせた意味での「自分の確信」です。このような確信をもって、教会の中の「悪人や詐欺師」に惑わされないで、正しい信仰の道を歩みなさいとパウロは書いているのです。
最後に一つ、大事な点を申し上げておきます。ここでの「聖書」(グラフェー)の意味はわたしたちにとっての旧約聖書のことです。当時はまだ新約聖書という形でまとまった書物はありませんでした。新約聖書が誕生したときから「聖書」が「旧約聖書」になりましたが、新約誕生以前は、旧約聖書が「聖書」(ザ・バイブル)でした。
しかし、それでは新約は「神の霊の導きによって書かれた」聖書ではないのかという心配には及びません。今では旧約・新約合わせて「聖書」です。
(2014年9月28日、松戸小金原教会主日夕拝)