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日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂 |
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「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と行った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。『だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。』しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、イエスにおられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。『この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。『なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』そして、中風の人に言われた。『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。』その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した。」今日お読みしました個所の最初に「重い皮膚病を患っている人」と書いてある聖書をお持ちの方と、「らい病を患っている人」と書いてある聖書をお持ちの方とがおられるかもしれません。
私が持っている何冊かの新共同訳聖書を調べてみました。1993年に発行されたものには「らい病を患っている人」と書いてありますが、2006年に発行されたものには「重い皮膚病を患っている人」と書いてあります。
いつ変更されたのか正確なことを私は知りませんが、解釈が変更されました。皮膚の病気であることには変わりありませんが、病気の種類を「らい病」と特定しないのが現在の新共同訳聖書の立場です。
その人が、イエスさまのもとに来て、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。「御心ならば」とは「もしあなたがそのことを願ってくださるならば」という意味です。この人自身も自分の病気が治ることを願っていました。しかしその願いがきかれない。他に頼る相手がいない。だからイエスさま助けてください。そのような切実な思いがこもった「御心ならば」です。
その願いをイエスさまがかなえてくださいました。「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」と書かれています。
これは奇蹟です。イエスさまがその人の体に触ってくださるだけで、その人の病気がいやされました。そのようなことは普通の人にはできません。イエスさまは特別なお方です。神の御子であり、救い主です。そのことをマルコはもちろん知っています。
しかし、続きに書かれていることが気になります。「イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。『だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい』」。
イエスさまがおっしゃったのは他言無用ということです。口止めをなさいました。なぜイエスさまは口止めをなさったのでしょうか。この人自身が願い、またイエスさまが願ってくださって、この人の病気がいやされたのです。とてもうれしいことです。多くの人に知ってもらい、喜んでもらいたいことです。それなのに、イエスさまは口止めなさいました。なぜでしょうか。これは謎です。
謎はもう一つあります。重い皮膚病がいやされたこの人にイエスさまがおっしゃったことは、祭司に体を見せなさいということでした。この意味は何でしょうか。これは今のわたしたちには、ぴんと来ないことですが、当時の祭司の仕事と関係しています。我々に理解可能な言葉でいえば、市民権の問題であるといえます。
祭司の役割は、その人が清いかどうかを判断することです。清くない人は、市民権が保留されて他の人から遠ざけられていました。もちろん今でも、伝染病の場合は自宅待機、あるいは場合によっては隔離が必要です。しかし、当時で言う清いとか清くないというのは、医学的な意味というより宗教的な意味です。
当時の考え方として、病気の人は汚れているとされていました。罪の罰として病気になっていると考えられていました。それは宗教的な意味です。それは今でも同じようなことを言う人がいると思います。「罰があたった」というあれです。それは宗教的な意味です。その意味での清い人か清くない人かを判断するのが、祭司の仕事でした。
ですから、その意味では、重い皮膚病がいやされる前のその人がイエスさまのもとに来たこと自体が問題にされる可能性がありました。鍵のついた部屋に閉じ込められてはいなかったからこそイエスさまのところに来ることができたのだと思います。しかし、来る途中で他の人に見つかると大問題にされた可能性があります。それで、イエスさまはこの人が他の人から責められないように、口止めをなさったのかもしれません。
しかし、問題はそれだけではありません。ある意味でもっと大変な問題がありました。それはこの人がイエスさまのところに来たことの問題のほうではなく、イエスさまが御自分のところに来たこの人に触ったことの問題です。イエスさまがその人に触ることは禁じられていたことだったからです。
その人が清いかどうかを判断するのは祭司でした。祭司の許可なしに、その人に触ることは許されていませんでした。しかし、イエスさまがその人に触ったとき、当然のことながら祭司の許可など得ていません。ですから、イエスさまがその人に触ったことを、もし祭司に知られたら大問題になります。
我々の許可を得なければできないことをイエスはした。それは祭司の権威を否定することに等しい。そのような怒りを引き起こすことになったに違いありません。
事実、ここから先そういう展開になっていきます。イエスさまはこの人に「誰にも何も言うな」と口止めしたのですが、この人は黙っていることができません。
この人は口が軽い人だったというよりも、うれしかっただけです。その病気にかかっているかぎり、祭司の許可がなければ、人と付き合うことができない状態でした。とても寂しい気持ちを抱いていたに違いありません。そのような、ただ体が病気であるだけでなく、心に寂しさを抱えている人をイエスさまは憐れんでくださり、近づいてくださり、触ってくださったのです。
その人に触ることのために祭司の許可を得ることなど、イエスさまはお考えになりませんでした。そんなことはくそくらえだとお考えになったのです。そんなことよりも、この孤独な人に近づいてくださること、この人に触って病気をなおすことのほうを優先してくださったのです。
数日後、本質的には同じようなことが起こりました。
「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった」と書かれている中の、カファルナウムの「家」はシモンの家です。
シモンの家にイエスさまが寝泊まりされるようになって以来、この家が一躍有名になりました。シモンの家に行けば、そこにイエスさまがおられ、いろんな病気を治していただけると多くの人が期待するようになりました。
それで「イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」というのです。
とんでもないことをする人たちが現れました。他人の家の屋根をはがすと、今なら器物破損の現行犯で逮捕です。当時はそうすることが許されたのでしょうか。そんなわけがありません。むちゃくちゃです。
しかし、イエスさまはその人たちのむちゃくちゃな行為に「信仰」を感じとってくださいました。これが重要です。
シモンの家はその日以来しばらくの間、屋根に穴が開いた状態になりました。そのこと自体は大問題です。しかし、このようなめちゃくちゃなことをしてでも、イエスさまのところに連れていきたい人がいる。その人の病気を治していただきたい。イエスさまに触れていただきたい。
熱烈な願いと祈り、そして信仰を、彼らの行為の中に、イエスさまは感じとってくださったのです。だからこそ、イエスさまは、その人たちの「信仰」を見て、中風の人に「あなたの罪は赦される」とおっしゃったのです。
しかし、それがどういう意味なのかが分からない、なぜイエスさまがそういうことをおっしゃったのかが分からないと感じた人たちが、そこにいた人たちの中にいました。数名の律法学者たちでした。
イエスさまの言葉を聴いた彼らは、それは神を冒瀆する言葉であると受け取りました。罪を赦すとか赦さないとか、そういうことを普通の人は言ってはならない。「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と彼らは考えました。
実はわたしたちにもイエスさまがこのときおっしゃったことの真意は分かりません。はっきりしているのは、「あなたの罪は赦される」とイエスさまがおっしゃった相手は、シモンの家の屋根を壊して病気の人をイエスさまのもとへつり降ろした四人の男の人たちではないということです。「あなたがたが他人の家の屋根を壊した罪は赦される」という意味ではありません。イエスさまがこのことをおっしゃった相手は、重い皮膚病にかかっていたその人です。
そのことは、律法学者たちも分かっていました。だからこそ、彼らは腹を立てたのです。そして、そのようなことを律法学者が考えたという点が重要です。イエスさまの言葉に限らず人が語る言葉が「神を冒瀆する言葉」であるかどうかを判断するのは律法学者の仕事だったからです。聖書の御言葉に照らし合わせ、それは神の御心にかなっているかどうか、神を冒瀆する言葉であるかどうかを判断するのが、彼らの仕事でした。
だからこそ、彼らはイエスさまの言葉を聴いて、すぐに不愉快になったのです。自分たちの権威を否定していると感じたのです。我々の許可も判断も得ないで、「あなたの罪が赦される」という言葉を口にするイエスの存在が赦せなかったのです。
そのようなことを律法学者たちが考えているということを、イエスさまはすぐに見抜かれました。というよりも、おそらくイエスさまは初めから分かっておられました。
祭司も然り、律法学者も然り、自分たちの権威が否定されたとか、自分たちが無視されたとか、そのようなことにはだれよりも敏感な人々でした。プライドが高いのです。だれの許可を得てそういうことをするのか、そういうことを言うのかと、すぐに腹を立てる。自分たちの領域がおかされることをだれよりも嫌う。イエスさまは、こういうことを言えば必ず彼らが起こすであろう反応を、初めから分かっておられたのです。
しかし、それでは、祭司たちが、律法学者たちが、病気の人をいやすことができたのかというと、そうではなかったわけです。イエスさまに文句を言いたいなら、自分たちが病気の人をいやしてから言え、と言いたくなるほどです。しかし、それはできないわけです。自分たちはその人をいやすことも助けることもできもしないのに、イエスさまが彼らの権威を否定するようなことをしたということばかりに敏感である。
イエスさまは、おっしゃいました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。これはどちらが易しいのでしょうか。これは、この個所を読むたびに、必ず問題になることです。正解はどこにも書いていません。どちらであると考えることもできます。
ただし、見落とされやすい点がありますので、注意しなくてはなりません。それは、イエスさまが比較しておられるのは「『あなたの罪は赦される』と“言う”こと」と「『起きて、床を担いで歩け』と“言う”こと」であるという点です。イエスさまがおっしゃっているのは、どちらの言葉を“言う”ことのほうが易しいかという問いかけです。「人の罪を赦すこと」と「その人の病気をいやして歩けるようにすること」との比較ではありません。
これはわたしたち自身のこととして考えてみれば分かることだと思います。
わたしたちは、だれかの病気を治すことができるでしょうか。病気で寝込んでいる人に「起きて、歩きなさい」と言うだけなら簡単かもしれません。しかし、そのように言えるだけの健康な状態にしてあげることができるでしょうか。医師の方ならできることかもしれませんが、みんなが医者になれるわけではありません。
しかしまた、イエスさまがなさったのは奇蹟です。現代の医療行為とは異なることです。わたしたちは奇蹟を起こすことができるでしょうか。それは難しいことではないでしょうか。
病気をいやしたり、奇蹟を起こしたりすることよりも、「あなたの罪は赦される」と言うことのほうが、はるかに易しいことではないでしょうか。それも言ってはいけないでしょうか。それは神を冒瀆することでしょうか。
今日も礼拝の中で先ほど「罪の告白と赦しの宣言」をしました。一同で「罪の告白」をし、牧師が「罪の赦しの宣言」を読み上げました。あんな牧師の口から「罪の赦しの宣言」など聴きたくないと思われる方がおられると思います。牧師は罪人です。私は罪人です。「あなたの罪は赦される」などと言える立場にはありません。口にするのも畏れ多い言葉であることは確実です。
しかし、「あなたの罪は赦される」という言葉をわたしたちは言ってはいけないでしょうか。それは神への冒瀆でしょうか。それほど目くじらを立てなくてはならないことではないのではないでしょうか。もしその言葉を聞くと慰めを感じるという方がおられるのであれば、あまり遠慮せずにどんどん言ってあげたらいいのではないでしょうか。
イエスさまは、家よりも、祭司や律法学者の権威よりも、人の命を優先されました。しかしイエスさまの前には逆の人たちがいたようです。人の命よりも、家のほうが大事。人の命よりも祭司や律法学者の権威のほうが大事。そのような人たちにイエスさまは挑戦的に立ち向かっておられるのです。
(2014年9月7日、松戸小金原教会主日礼拝)