2013年2月7日木曜日

カール・バルト『教義学要綱』の序文(超訳)

じゃあ、ちょっとだけ、ご要望にお応えして(笑)。

ただし、「なんら」厳密な訳ではありませんので、あしからず。

でも、以下の文章を書きながら、ほろりと泣けるところが数か所ありました。

バルトって、いい先生だったんだと思いました。

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カール・バルト『教義学要綱』の序文

関口 康/超訳

この本に収録されたぼくの講義は、かつてはボンの選帝侯が住んでいたというゴージャスなお城の中でおこなったものです。お城の中にボン大学が作られたのですね。でも、ぼくがこの講義をしたとき、お城はほとんど廃墟の状態でした。だって、1946年の夏だったわけですからね。

講義はね、みんなが元気になるように、ジュネーヴ詩編歌か賛美歌を歌ってから始めました。講義の開始は朝7時にしました。だって、8時になると、ぶっ壊れた建物の残骸を細かく砕いたり、新しく建て直したりする工事が中庭あたりで始まるので、その音がうるっさくてね。

ちょっと面白い話しますけどね、ほんとにもうグッチャグチャに壊れた建物のがれきの中を、ぼくが興味本位で歩いてたら、シュライアマハー先生の胸像が無傷のままで倒れてるのを見つけちゃいました。それはちゃんと保管されて、あとで建て直されたようですけどね。

ぼくの講義を聴いてくれたのは、半分くらいは神学部の学生たちでしたけど、もう半分かそれ以上は他の学部の学生たちでした。今のドイツ人たちは、いろんな形で、いろんなところで、めいっぱいの苦労をして、生き延びてきたんです。そういう姿が、ぼくの講義を聴いてくれた学生たちにも滲み出てましたよ。

ぼくはもう、ずっと前から雑誌だ新聞だでさんざん叩かれてきた人間で、しかもドイツ人じゃないですしね。学生たちには、ぼくは珍しかったでしょうね。でも、ぼくのほうから見ますとね、やっと笑うことを覚えはじめたばかりのような、まだまだしかめっ面の彼らの姿が、目の奥に焼き付いてますよ。ぼくは、この講義の情景を一生忘れない。

ですしね、たまたまのことですけど、この講義はぼくのちょうど50回目の学期だったんです。終わったときに思ったことは、この学期がいちばん素晴らしかった、ということです。

でも、じつは、この講義を本にすることは、けっこう悩んだんですよね。

だってもうね、ぼくは1935年に『われ信ず』(Credo)という本を出しました。1943年には『教会の信仰告白』(Confession de la Foi de l’Eglise)という本を出しました。ふたつとも使徒信条を講解したものです。なので、この本で使徒信条の講解は三冊目になるわけですが、この本をじっくり読んでいただけばすぐにバレてしまうのですが、新しい内容はほとんど全く出てきません。まして、ぼくの『教会教義学』を読んでくれちゃってる人たちにとっては、何をかいわんやです。

そして、ぼくはそのとき生まれて初めてやったことなのですが、きちんと書いた完全原稿なしでしゃべりました。いくつかの命題を書いたレジュメだけ配ってね、それを見ながら、自由にしゃべりまくったんです。だって、言っちゃ悪いですけど、ほとんど原始時代のような状態のドイツの中で話したわけですよ。だからぼく自身も、原始人になってね、「原稿を読む」んじゃなくて、「しゃべる」ことが必要だと思ったんです。

そのぼくのおしゃべりを速記してくれた人がいましてね。もちろん、ぼくもちょっとくらいは手を入れましたけど、とにかくそういうものです、この本は。

ぼくは、これまではけっこう物事を厳密に扱うことのために努力してきた人間ですし、今でもそのつもりです。だけど、この本に限っては、いろんな点で厳密ではないです。最後あたりは、ぼくの都合で急がなくてはならなくなってますし、この講義以外のことで身辺が多忙になってしまっていたことがバレてしまうような内容です。

まあ、でも、生(なま)というかライブ感覚というのを分かる人には、この本の欠点こそが逆にこの本の良いところだと思ってもらえるかもしれません。このときぼくはトークライブをやらかしたのですが、ぼく自身、しゃべっている間、うれしくて楽しくて仕方なかったんです。

でも、それが活字として印刷されますとね、欠点があることくらい、そりゃ気づきますよ。その欠点をあげつらって批判する人がいても、ぼくは別に構わないと思っています。恨んだりはしません。

もとはといえば、ツォリコン出版社の社長さんが、「この本を出版しろ」とぼくに圧力をかけてきたので仕方なく出すことにしたんですけどね。ぼくもそれを承知したわけですけど。でも、これを出版する気になったことには理由がある。

ぼくは、他の本ではもっと厳密に書いてきましたし、あるいはもっと簡潔に書いたところもあります。でも、それは、ほんの一握りの人にしか分からないマニアックな話です。だから、この本のような、ざっくりした話し方で書かれた本があれば、マニア向けの話についての分かりやすい説明になるんじゃないかと思ったんです。

マニアじゃない人たちにとってもね、この本が「時の間」の(ドイツに限らず)新しい一時代の記録のようなものになっているという理由で(そのつながりははっきりとは分からないと思いますけどね)、この本を読んで嫌な気持ちになる人はいないんじゃないかなと思っています。

もう一つ言えば、そもそも使徒信条というのは、この本の中でぼくがしゃべりまくっているような、まさにこういう口ぶりやテンポで説明されるほうがよいものではないか、いや、そうすべきなのではないか、ということも、この本を出版することを決めたときに自分に言い聞かせたことです。

もしこの本を誰かに献呈するとしたら、1946年の夏、ぼくのこの講義を聴いてくれたボン大学の学生たちと聴講生たちに献呈します。

ぼくは、きみたちと一緒に、この講義をしている間(そりゃ当たり前のことだね!)、本当に幸せな時間を過ごしたよ!

1947年2月、バーゼル